2024年

’24 9月22日() 福岡栄光キリスト教会 特別礼拝

    「最も良いものを与えてくださる神」 

                  ルカによる福音書11章5-13節 

 

☆良いものをいただいて歩んでいる私たち

 良いものを与えていただいていると意識することがあるでしょうか?

 普段、何かと忙しく、そのような思いを持つことが少ない私たちかもしれません。

 今このことをしなければ、次はあの事をしなければと心が騒ぐことも

 あれもないなあ、これもないなあと考えることも多い。

 与えられている幸いを心にとめることが少ないかもしれない。

 しかし、おいしい食事をいただいたとき、ご馳走をいただいたとき、ああ幸せだと感じる。

 健康な時には、自分が健康であることの有難さを忘れている。病気になりその病気から癒されるとああ健康であるあることは当たり前ではなく、感謝だと思う。

 私の妻は、今から8年前、大腸がんになり、入院手術しました。どうなることかと家族一同心配しました。妻が一番心配したことでしょう。1年近く、治療を受け、3年ほど定期健診に通いました。今何とか元気であることを感謝しています。

 私たちは、様々な良いものを受けています。

 健康だけでなく、自分に家族がいることは大きな感謝です。

 この地球という星に生まれ、おいしい水、空気、食べ物、様々な良いものが備えられています。 この幸いを、時にしっかり心に留めたいものです。

 温かいお風呂に入り、時にゆったりする中で、与えられている幸いを心に留めたいものです。

 

☆今朝の聖書箇所

 ルカによる福音書11章5-13節です。

 この箇所より、「最も良いものを与えてくださる神」と題してメッセージを取り次がせていただきます。

 

☆積極的な勧め

 姿勢、態度には、いろいろなタイプがあります。積極的な姿勢、態度、またその反対の職局的な姿勢、態度とあります。

 また取り組みにおいてもいろいろなタイプがあります。粘り強い取り組み、少々のことでは諦めない。一度取り組んだら結果が出るまで頑張り通すということもあります。その反対に

 粘り強くというのは苦手、粘り強くと思っていても、難しさが続くと途中であきらめてしまう。

 若いときはこうだったけど、少し年が進み、変わって来たということもあるでしょう。

 今朝の聖書箇所においては、積極的な勧めが記されています。

 このことを、まず受け止め聞きたいと思います。

◎5-10節 

11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちの誰かに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。

11:6 友達が旅をして私のところに着いたのだが、何も出すものがないのです。』

11:7 すると、その人は家の中から答えるに違いない。『面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めたし、子どもたちも一緒に寝ている。起きて何かあげることなどできない。』

11:8 しかし、言っておく。友達だからということで起きて与えてはくれないが、執拗に頼めば、起きて来て必要なものを与えてくれるだろう。

11:9 そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。

11:10 誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。

 主イエスの教え、メッセージ

 求めよ、探せ、叩けというものです。 そうすれば与えられる、見つかる、開かれるというものです。

 一つのたとえ話を通して主イエスは語られました。

友達が旅行中、真夜中におなかをすかせて訪ねて来た。

 当時は、日中の暑さを避け、涼しい夜中に旅を続けることはよくあったようです。おなかをすかせた友が自分を頼って訪ねて来た。しかし、食べさせるパンがない。何とか食べさせてやりたい。

 それで、知り合いの友達の家にパンを貸してもらうために出かけた。

 真夜中です。その知り合いの友は、家族共々眠りの中、就寝中

 当然のことながら断られる。

 断られやはりダメかとあきらめるのが普通、それが常識

 しかし、この時の主イエスのメッセージは、執拗に頼みなさい、求めなさいという者でした。イエス様はずいぶん非常識なことを話されたと感じる面がないわけではありません。

しかし、友だというのでは与えてもらえないけども、執拗に求めるなら、その知り合いの友は起きてきて、必要なものを与えてくださると語られました。

 求めなさい、探しなさい、叩きなさいという積極的な勧めです。

 

☆祈りにおける姿勢

 ここでは、祈りについてイエス様は教えられた。

 神に向けての祈り。 

 神さま,イエス様、これが必要なのです。どうぞ、与えてくださいと積極的に祈り求めなさい。そうしても大丈夫です。そうするのです。

 求めなさい、探しなさい、叩きなさい

 今これが必要です。これを与えてくださいと執拗に求めても良いと、執拗に求めなさいと進めておられます。

 こんなにしつっこく、執拗に求めたら、迷惑をかける、しつっこすぎると嫌われるのではないかと考える自分がいる。 これは不可能ではないかと考えてしまう自分がいる。

 そのような私たちに主は積極的に求めよ、あきらめずにも求めよと言われる。

 

☆日常の中で

 ものが見つからない時、どうしますか、当然探します。それでも見つからない、困った。 家の鍵、車のカギ、大事な書類

 置くべきところに置いていなくて、見つからない。

 その時に、必死に探す。その時、まず神さまに祈る。神さま、今これを探していますが、見つかりません。見つけ出させてくださいと祈る、そしてやがて見つかる、ああよかった。「神様感謝しますと祈る。

 

☆非日常の中で

 緊急事態、これは大変だ。 

 難しい問題にぶっつかった。難題、課題 簡単にはいかない。

 目の前の課題 大きな壁 その時に祈りを捧げるのです。「どうぞ、助けてください」と 「これを成し遂げる力を与えてください」と

 自分が難しい病気になった、家族が難しい病気になった。友が難しい病気になった。 その時に、神に願い求めましょう。「癒しの恵みを与えてください」と

 どうぞ。癒してください。  難しさを抱えつつも主と共に

 

☆加藤 恩姉

  今年1月9日(火)の夜遅く、召天されました。

 87歳でした。尊い地上での87年6カ月の生涯でした。

 牧師家庭に生まれた加藤 恩姉

 長女として、下の妹さんたちの世話もしつつ

 神の愛を受け止め、主イエスを救い主として信じ、洗礼を

 恩姉は、自分に与えられているもの、特に音楽の賜物、オルガン演奏、ピアノ 

 演奏の賜物、 それを用いて歩まれた。

  子どもに、若い人に、演奏を教えられた。 

  教会において、礼拝、祈祷会等の奏楽の奉仕に励まれました。

  関節リュウマチによる痛み 指の関節等の腫れと痛み その病を身に負いつ 

 つも、家事をなし、妻として、母として ピアノ教師として、子どもたちに音 

 楽教育(ピアノ指導)に従事された。 

・教会での礼拝奏楽の奉仕

  北九州復興教会のオルガニストとして、2018年まで、57年間奉仕し 

 て、3月リューマチにて引退(通算70年) 12歳から?

 力を尽くされた。神が栄光を受けられるように。 神に栄光をお返ししつつ。

 

☆少し長い年月を要する課題に対して

 腰を据えて取り組むべき課題が時に目の前に置かれます。

 個人において この課題と向き合う必要がある 仕事のこと、家族のこと

  簡単ではない でも、この解決のために取り組もう。

 教会において この事業に取り組もう

  福岡栄光キリスト教会の『創立70周年記念誌』をいただきました。良い記念誌を感謝します。歴史を伝える多くのカラー写真、証しの文章、感謝でした

 その取り組みにも、時間とエネルギーを注がれたことでしょう。

 その時々に時組むべき事柄があります。

 会堂の雨漏りの修繕、増築、新築

 大きな費用が掛かることもあります。その費用をどう工面したら良いか、そのために数年、10年、20年と時間がかかることもあります。

 その必要が満たされなければならない、それに取り組まねばならない。

 そのような時、神さまにお祈りする。

 一人で祈る、伴侶と共に祈る。二人、三人で祈る、 教会全体で祈る。 

 諦めたくなる、どうしてこの必要を満たしたら良いのかと前に進めなくなる時もある。

 主なる神に、祈り続ける。そして必要を満たしいただく。その目の前のことに取り組むのです。

 自分の必要、自分たちの必要も切実ですが、今日の聖書箇所は、自分の友の必要のために

 自分にとって大切な友 それは誰でしょう? そのような関りの深い人がいることでしょう。

 その大切な人が、困っている、窮乏している。困難の中に身を置いている

  難しい病気と戦っている。

 その友のために執り成し祈る、自分のできることを行い、関わる。

 遠いウクライナとロシアの戦争

  一人の指導者、その取り巻きの身勝手な思い、判断で、戦争が始まった。

  大きな悲しみが今なお続いている。この戦争の終結のためにも神さまに祈り続けましょう。

 今もなお、毎日多くの人たちは、亡くなって行っている。大きな悲しみ。

 

☆天の神さまは子どもを愛する父親に似ておられる

 子どもの父親、母親 普通は、子どもを心から愛する

 子どもを大切に育てる。子どもが求めることに対して、心を込めて応える。

 今日の聖書が告げているように、自分の子どもに良いものを与える

◎11-13節

11:11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。

11:12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。

11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。

 魚を欲しがるのに蛇を与える父親はいない、卵を求めるのに、さそりを与える父親はいない。

 天の神さまは、父親よりもはるかに子どもを大事にしてくださる方である。

 ルカ福音書では、求めるものに聖霊を与えてくださるとある。

 マタイ福音書では、こう記されています。

〇マタイ7:9-11 <聖書協会・共同訳>

7:9 あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。

7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。

7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる。

 求める者に良い物をくださると 私たちにとって良いものを与えてくださる。

 色々な良いもの、必要なもの 生活していく上で必要なもの

  必要な資金、お金、食べ物、住む家、取り組む仕事

 

☆神は私たちを愛してくださっている

 神は、私たちを愛していてくださる。 この地上での歩みを守り導いてくださっている。

 それでも、人は壁にぶつかり生きる力を失ってしまうことがある。生きる意味さえも見失うことがある。

 ものは十分あるのに、目に見えるところは満たされているはずなのに、生きることに対して希望が持てない、不安がある。 心の中に喜びがわいてこない。

 どうしたら良いのでしょか?

 神は、私たちを招かれる。

 わたしの愛の内にあって歩みなさいと。わたしとつながって歩みなさいと。

 わたしの命を内にいただいて歩みなさいと。

 そのことが実現するために、神はこの世に生きる私たちのために独り子イエスを与えてくださった。

 そのイエスを通して、永遠の命を受けて歩むように招いておられる。

 その為の用意をすべて整えてくださった。

 久しぶりに実家に帰る時、親が健在の時、おいしいご馳走を用意して待っていてくれたように。

 

☆私自身の救いの証し

 私がどのようにして、主イエスを信じる者になったかをお話しさせていただき 

 ます。 私は、大分県で生れ、小学、中学、高校は日田というところで育ちま 

 した。

 両親と私と姉の4人家族です。 平々凡々と歩んでいました。

 中学3年になった頃でしょうか、右眼で見て、なにか赤い小さなものが見え る。 眼科医に行くと、運動を控えなさい。テニス部に入って大事な試合を前にしていましたが、断念しました。 それから1カ月ほどして、右目が急によく見えなくなりました。 それは、右目の奥の眼底の血管が破れて、たくさんの出血を起こしたからでした。 

  右眼が治るようにと治療を続けつつ、休学しました。

  反復性に出血し、ますます見えにくくなりました。

  治るだろうか? 治らないのではないだろうか。 原因も分からない。

  良いほうの左眼は大丈夫だろうか? 大きな不安と恐れを経験しました。

  最終的には、網膜剥離に進み、1年後には、治療してもよくなる可能性はないと言われ、治療は打ち切られました。

 高校生活の後、大学受験を失敗し、予備校生活をしました。

  希望の大学には入りましたが、私自身の心には引っかかっているものがあり 

 ました。 自分の将来は大丈夫だろうか? 自分は確かなものではない。 不 

 安がありました。

  そんな時、同級生に一人クリスチャンがいました。一学年上にも一人クリス 

 チャンがいました。

  聖書研究会と言って聖書を学ぶ会があり、学内にありました。

  それは、今問題になっている旧統一教会のような働きとは全く別で、人を生 

 かす本来のキリスト教会の二人のクリスチャンの祈りから始められたものでし 

 た。

  私は、小さい時から虚弱体質で、いつもおなかをよく壊していました。

  扁桃腺を腫らし、冬には何度も高熱を出すことがありました。

  小学性の時から、一つの恐れがありました。それは死に対する恐れでした。

  人はいつか死を迎える。人はどうなるのだろうか、焼かれて、お骨となり、 

 灰となってしまう。 自分という存在が亡くなってしまう。 それは何度考え 

 ても怖いものでした。

 そんなことは考えないようにしよう。考えても仕方がない。

 でも、大学生になって、何か確かなものを自分は手に入れたいと考えていたのかもしれません。

 下宿で、夜遅く眠った時、自分の体が何かに押さえつけられているような感覚、身動きできない感覚に捕らえられ、大きな恐怖感をいだきました。いわゆる金縛り

 実は、その1年ほど前に、ある別のキリスト教会に通って、キリスト教のことを学ぶ時を持っていましたが、よくわからない、これから自分は大学が忙しくなると思い、その教会に行くのをやめました。

 その恐怖感の時、自分の心から出た叫びは、「イエス様、助けてください、神様、助けてください」という短い言葉でした。

 その直後、恐れが消え、体が軽くなり、ぐっすり眠ることができました。

 次の日も、全く同じような経験をしました。

 そのことがあり、自分は教会にもう一度行こう。今度は、同級生が通っている教会に行こうと考え、その同級生にも話し、毎週通うようになりました。

 同世代の青年も多く、毎日曜日の礼拝に通うことも苦ではありませんでした。

 青年会の活動も楽しいものでした。

 そのような器官を過ごし、半年ほどしてから、「そろそろ、洗礼を受けて、クリスチャンとなって歩み出しませんか?」との勧めを何人かから

でも、自分には、肝心のイエス様のことが分かっていませんでした。

  自分を偽って、一番肝心なことがわからまま、洗礼を受けることはできない。ならば、もう一度教会から離れるか?

 そんな時に、熊本の天草でKGK(キリスト者学生会)と呼ばれるクリスチャンの学生たちが中心になって、学内での活動、そして、新しい友を誘っての春季学校、夏期学校等が催されていました。私は、誘われてその春季学校に通いました。

 「神様、もしあなたが本当におられるなら、自分に確かなものを与えてください」という願い、祈りを持って参加しました。

 宮崎からも、宮崎大学、宮崎医科大学、宮崎女子短大と7,8名が参加したかと思います。 2泊3日でした。

 そこでのことは、時間の関係で詳しく話すことはできませんが、一つはっきりわかったことは、自分はまさに聖書が言うところの罪人だということでした。

 奇跡を見たら、経験したら、神を信じてもよい、でも、そんな奇跡は一度も経験していないしなあと考えていました。

 一人の世話役の片岡伸光という主事を通して、そのように神を見下ろすように考えていた自分自身に罪があるということに気が付かされました。

 自分は、自分の内にドロドロしたものがあることを知っていました。

 異性に対しての情欲の思い、 アルコールにも飲まれてしまう自分

 それでありながら、自分こそは正しい、清いようにふるまっている自分自身を思い知らされました。

 このような自分ために、イエス様は、十字架にかかって死なれたということが分かりました。 その最終日の前の最後の夕べの集会で、イエス様を信じますと手を上げました。

 このことを経て、大学3年の5月のペンテコステと呼ばれる特別な日に、洗礼を受け、クリスチャンとなりました。

  日曜日、教会に通うのが本当に楽しくなりました。

  そして、ふと気が付くと、小学生高学年から持つようになった死に対する恐れが亡くなっていました。それは、本当に不思議でした。

  人の罪を赦し、神の子どもにしてくださる方は、天の御国をも用意してくださっておられる。死を打ち破られた方なのです。 主イエスは、世の光なるお方です。

 

☆最も良いものを与えてくださる神

 最も幸いなことは何でしょうか?

 お金でしょうか? 持ち物でしょうか? 名誉でしょうか?

 それらは確かに大切なものですが、それらはいつかなくなって行きます、消え ていきます。 それらが、自分の心を本当に支えてくれるかというと必ずしもそうではありません。

 お金や持ち物はたくさんあるのに、幸せを感じないこともあります。

  たくさんあり、恵まれているはずなのに、生きる希望が湧いてこない。

  かつては、生きる希望を持っていたのに、今は、その希望がどこかに行ってしまった。

 聖書を通して語りかけておられる天の神さまは、この宇宙、そして地球、その中のすべてをお創りくださった方です。

 私たちを愛し、独り子イエスをこの世にお遣わし下さった方です。

 御子イエスは父なる神から遣わされ、この世を生き、最後はご自身の命を捧げてくださいました。

 それは、神から離れ、神と断絶して、さまよい歩む私たちの罪を赦し、神の子どもとするためです。聖書が言う神の子どもとは、神のような存在になるのでありません。被造物としての人間である私たちは、神のような存在になることはできません。

 しかし、主イエスを通して、罪を赦していただき、霊的な意味で、神の子どもとしていただくのです。

 そして、主イエスを信じる者の幸いはもう一つあります。

 それは、聖霊を内に受けるということです。

〇使徒言行録2:37-39 <聖書協会・共同訳>

2:37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、「兄弟たち、私たちは何をすべきでしょうか」と言った。

2:38 そこで、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。

2:39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、また、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」

 悔い改める それは過去のことを後悔することではありません。 真の神に背を向けて歩んでいた自分の向きを180度変えて神に向きなおることです。

悔い改めて、主イエスを自分の救い主と信じ受け入れ、洗礼を受けるのです。その時に聖霊の賜物を受けるのです。

〇エフェソ1:13-14 聖書協会・共同訳

1:13 あなたがたも、キリストにあって、真理の言葉、あなたがたの救いの福音を聞き、それを信じ、約束された聖霊によって証印を受けたのです。

1:14 聖霊は私たちが受け継ぐべきものの保証であり、こうして、私たちは神のものとして贖われ、神の栄光をほめたたえることになるのです。

 神の子どもとしての証印を受け、神の子として歩む。天の祝福の約束を受けてこの世を生きるのです。

 天の御国を目指しつつ、この世でなすべき働きに取り組むのです。

神は、私たちが心から求める祈りに応えてくださる方です。

そして、何より最も良いものである救いの保証である聖霊を与えてくださるお方です。

 聖霊なる神は、私たちの歩みを助け導いてくださいます。ハレルヤ!

                         (久多良木和夫)

 

’24 10月17日() 

  2024年度 第3回 西南女学院聖書学課 講演メモ

     「天に備えられた住まい」   ヨハネによる福音書14章1-7節 

 

☆天に備えられた住まい

 このテーマを決めた背景があります。

 今、私が責任を持っている北九州復興教会で、メモリアルチャペル(納骨堂)建設を目指しているからです。

 シオン山教会のメモリアルチャペルほど、立派ではなく、小さいのですが、完成を目指しています。

 

☆直接行った者はいない

 この世に生きている私たち、誰もそこに行ったことがない。

 直接見た者はいない。 聖書を通して、垣間見るしかない。

 

☆人はいつか死んでしまう。死んだらどこに行くのか?

 これは、私自身の小学上級、中学時代の疑問 

 考えてもその答えは見いだせなかった。

 一つ、思いついたことは、死んだら人は火葬される。今こうして考えている脳は灰になる。ということは、もう何も考えることはできなくなる。自分という存在が消え去る。 恐ろしい、もう考えることはやめようと封印した。

 

☆死を意識する

 普段、死は意識しない。 

 大きな事故に、災害に巻き込まれる 難しい病気になる 年を取る

 60代になる 人生の終わりを少し意識する。(自分自身) 70代、80代、より現実味を持って意識するのではないか。 

 

☆必ずやって来る死

 今は死のことは考えない。考えたくない。 縁起でもないと

 しかし、必ず、やって来る。 嫌だなあと思う。

 普通は、だいたい年の順番 

 

☆この世における最後の時

 最晩年 長寿、長生きしたとして、人生の終わり 病気の末に  

 どう歩むことができるのか どう乗り越えるのだろうか?

 一つのヒント

○詩篇23編1-6節

23:1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

23:2 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い

23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。

23:4 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。

23:5 わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしのに香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。

23:6 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。

 死の陰を行く時 恐れ、絶望 しかし、もう一つの道がある

 恐れない、平安がある 共にいてくださる方がいる それこそ、主なる神 

 良い羊飼いである神 見放さないお方 面倒を見てくださるお方

 

☆聖書の中の3世代の人物

 アブラハム、イサク、ヤコブ

 年を取り人生を終える。 先祖の列に加えられた 残った者が死んだ家族を葬る 

 アブラハムは、妻サラのために、墓地を用意した。 その墓地にアブラハムも

 子どものイサク、その妻リベカ、 孫のヤコブもその妻も 同じは墓地に

 創世記23章19節

23:19 その後アブラハムは、カナン地方のヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴に妻のサラを葬った。

アブラハム 創世記25:7-11、 イサク 35:28-29、

ヤコブ 49:29-33、50:12-13

先祖の列に 同じ墓地 それで、受け入れられるか? 満足できるか? 

必ずしも受け入れることはできない。 

 

☆死者の行くところ 

 旧約聖書では、陰府(よみ) 死者の行く国

 すべての者は陰府に行く 死んだ後に行くところ 

 このではなく、あの世 消滅するのではなさそうだ

 では、そこはどのような世界 命のない世界  

○詩篇6編6節

6:6 死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず 陰府に入れば だれもあなたに感謝をささげません。

人との交わりもなくなる。 神との交わりもなくなる。

静かなところ シーンとしている 光もなさそう 

 

☆イエス・キリストの言葉

 父の家 知らないところの家ではない、 父なる神のところの家

 少し、安心感

◎ヨハネによる福音書14章1-7節

14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。

14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

 

☆住む所が用意されている

 安心 住む家がある 用意された家 

 広い所、 でも家がなければ安心できない。 住む家がある。

 この世では、それぞれ、家がある。 自分で建てる、自分で買い求める。借りる

 その家は、大きさ、広さは異なる 新築のものもあれば、老朽化したものもある。

 かの世において、住まいが用意されている。 

 用意してくださる方 その方は誰? その方はイエス・キリスト 

 

☆天国

 死んだら、天国に行くとよく言う。

 天国をイメージする。 そこでは、この世とは違うと考えたい。

 死んだ後、憩う場所と考えたい。

 

☆この世では、住まいを確保することは簡単ではない

 家を建てるとなると大きなお金が必要、長い年月のローンを組んで購入。

 家賃を払って借りる。

 その家がいつまでもと思っていても 老朽化、災害で壊れてしまう、流されてしまうこともある。

 

☆天の住まい

 イエス・キリストが用意してくださる。

 神の御子であるイエス・キリストが、この世に住む私たちのために。

 その建築費は? その代価は、イエス・キリストの命

 その命と引き換えに天の住まいは備えられた。

 

☆その住まいに入るには

 イエス・キリストを通して

 イエス・キリスト 道、真理、命  この方がカギ

 

☆天に備えられた住まい

 確かなイメージ 光が満ちている 明るい所 光り輝くところ

○ヨハネの黙示録21章11節

 21:11 都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。

○ヨハネの黙示録21章22-23節

21:22 わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。

21:23 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。

 

☆天の住まいに入るカギは何か?

 それはイエス・キリストの十字架の死と復活

 私たちはいつか死を経験する 自分の死 誰かのための死ではない

○コリント一15:3-5

15:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、

15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、

15:5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。

 

☆死は打ち破られる

 死は、結局のところ。各自の命、人生、すべてを飲み込む

 聖書は、死への勝利を宣言する。

○コリントの信徒への手紙一15章26節 

15:26 最後の敵として、死が滅ぼされます。

○コリントの信徒への手紙一15章5253節

15:52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

15:53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。

 

☆天に備えられた住まい

 天国 天の御国

 神の直接ご支配しておられるところ 光り輝くところ

 人が中心ではない。 神が中心 

  神への賛美、祈り、礼拝 それは喜び 

 イエス・キリストの命の犠牲で用意された。

  死からの復活 復活の主イエスが、その命を主を仰ぎ信じる者に与えてくだ 

 さる。

  復活の主の命が、イエス・キリストを主と認める者に与えられる。

  この地上において、時に大変なことがあったとしても、支え生かしてくださ 

 る それは、主のご愛の故

 そのご愛によって、地上の生涯の終わった先にも、主と共に生きる命がある。

 

 

 

’24 11月12日() 

  2024年度 折尾愛真中学高校 特別伝道集会 講演メモ

  「上に立つ者、下で仕える者」 マタイによる福音書20章20-28節 

 

☆折尾愛真の中高の皆さん、おはようございます。

 

☆建物

 住むとしたら、やはり見た目が良いもの家、アパート、マンションを選びます。 外から見た目で素敵、部屋の中がきれい。

 でも、見落としてはならないことが一つあります。それは、土台、基礎の部分ですね。

 この部分は、普通は見えません。でも、実はここが大事なのです。

 この部分がしっかりしていなかったら、住む家、アパート、マンションが傾いてしまい、住めなくなくなります。また大きな地震が来た時に倒れ崩れてしまいます。

 目に見える部分に注目しがちですが、目に見えない部分はとても大切ですね。

 

☆ボーイフレンド、ガールフレンド

 その相手のぱっと見える外見も気になるかもしれませんが、もう一つ見ておきたいところは、その人のやさしさ、心の素直さ、忍耐強さ

 心の部分はぱっとは見えませんが、建物の土台のように大切なものです。

 

☆戦争

 今、起きている戦争 一日も早く終わってほしいですね。

 ロシアの国が引き起こしたウクライナとの戦争。 

 

☆どんなことがあったか?

 イエス様と12人の弟子たちの中で起きた出来事

 12人の中の2名 ゼベダイという人の二人の息子 その名前はヤコブとヨハネ ヤコブとヨハネ 二人の母親がイエス様にお願いをしました。

 主イエスの応答

 ヤコブとヨハネ

 上に立つ者になりたい。 イエス様はやがて最高の位につくだろう。その時に その右側と左側に座る者とならせてください。 特別な上等の席に、高い位につきたい。

 そのことを知って、他の10名の弟子たちは、ヤコブとヨハネに対して腹を立てた。

 自分たちもそのことを願っていた。その特別席を狙っていた。それなのに出し抜いた、許せないと腹を立てた。

 弟子たちは、皆、一番高い位につきたいと願っていた。

 

☆弟子たちの心、その心の態度 

 それは、私たち人間の心を映し出しています。 上に立つ者になりたい。仕えられる者になりたい。 その逆の下で仕える者には嫌だという思いです。

 

☆さて、イエス様の応答は?

 20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。

 この世では。支配者が民を支配する。偉い人が権力をふるって自分の思いのままに命じる。 支配者、権力者がふんぞり返っている。

 イエス様の教え、ご命令

20:26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、

20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。

 仕える者になりなさい。皆の僕になりなさい。 それがイエス様の教えであった。

 

☆さて、話は少しく変わって、損と得ということ

 この損と得ということを少し考えたいと思います。

 損な方を選ぶ人は、まずいない。 損であることがわかっていれば、その方ではなく、得の方を選びます。

 

☆楽なことと楽でないこと

 楽なことと楽でないことが並べられたら、だいたい、楽でない方は選ばず、楽の方を選びます。 大変なこと、難しい方を選らぶ人は少ない。

 自分が損をする、自分が大変なことを背負うことは、普通は選びません。

 

☆イエス様が語られた一つの話

 もっとも有名なたとえ話 ルカによる福音書10章に記されています。

 良きサマリヤ人のたとえです。

○ルカ10:30-37

 強盗の襲われ大けがをした人がいた。 

  そこに3人の人が通りかかった。最初の人は祭司、神殿で仕える人。 

  2番目は、レビ人 彼も神殿で神に仕える人 血を流して怪我をしている人が横たわっている。 祭司もレビ糸も、倒れている人を見たけども、見なかったことにして、通り過ぎて行った、

  周りに強盗がまだいるかもしれない。 自分も同じようになりたくない。

  その倒れている人に関われば、時間が取られる。仕事に間に合わなくなる。

  血に触れると汚れるという教えがあり、汚れたくないと考えたのでした、

  三番目に通りかかったサマリア人は違いました。

 その倒れている人をかわいそうに思い、近づいて、傷の手当てをしてあげた。

 宿屋にも連れて行ってあげた。その人の介抱の費用さえも、宿屋の主人に手渡した。

 この強盗に襲われて倒れ瀕死の状態の人を助けた人こそ、良き隣り人であることを教えられたのでした。

 祭司、レビ人を責めることはできません。軽蔑することはできません。

 自分も同じようにしてしまうと思うからです。

 その人を倒れた人を助けたサマリア人のように、振る舞うことは簡単なことではありません。

 

☆赤ちゃんが熱を出す。幼児が高熱を出した。

 皆さんは、自分が赤ちゃんの時に熱を出した時のことを覚えている人は一人もいないでしょう。 幼児の時、子どもの時に高熱を出した時のこと、ほんのおぼろげだけど、覚えている人はいるかもしれませんね。

 その時、親は、その赤ちゃん、幼児のことを心配し、夜中中でも看病します。

病気がひどくなった時、お母さんやお父さんが夜中寝ずにずっと看病してくれた、頭を冷やしてくれた、夜中に病院に連れて行ってくれて、今があるのです。

 

☆仕える者になりなさいと教えられたイエス様

 ご自身はどうされたのでしょう? 気になりますね。

 人には立派な教えを語りながら、自分はそのようにはしない人はいないわけではありません。

 

☆聖書が告げる2つの場面

 ①第1の場面

  それは、イエス様が弟子たちといよいよ別れの時が近いときのこと

  弟子たちの足を洗われた場面

 ②第2の場面

  イエス様ご自身がいよいよ、命が終わろうとしていた時、死を前にした場面

 

☆洗足の場面

 イエス様が弟子たちの足を洗って差し上げた場面 最後の晩餐、最後の食事をする前

◎ヨハネ13:1-35

 いよいよ弟子たちとの別れの時が近いことをご存じであったイエス様

 弟子たちは集まった。そこにイエス様もおられた。

 その当時、道路は当然舗装されていない、土の踏み固められた道

 当時の人たちはサンダル履き 雨が少なくほこりのたつ道

 その道をサンダルで歩くと、足は土埃だらけ

 家に集まって食事をする。 いつもなら、そこに入って来る客の足を洗う僕がいて、一人一人の足を洗い、タオルで拭いてあげる。 その時には、そのことをする僕がいなかった。 弟子たちみんな、食事を前にして落ち着かない。

 足が土埃で汚れている、 今日は足を洗い、きれいに拭いてくれる僕がいない。

 誰か、その僕の役を買って出て、やってくれないかなあと考えていた。

 一人の人が立ち上がり、上着を脱ぎ、足を拭く手ぬぐいを持ち、足を洗うたらい水を入れて用意し始めた。 ああよかった、これですっきりする。

 見ると、その準備をし、足を洗い、手ぬぐいで足を拭いてくださったのは、なんとイエス様だった。

 足は一番汚れる部分、その足を洗うのは僕の仕事であった。

 一番やりたくない仕事 それをイエス様がなさった。

 あなたたちも、互いに足を洗い合いなさい。 相手の足を洗う者になりなさいとお教えになられた。

 

☆第2の場面は、十字架刑の場面

 主イエスの最後は、十字架の場面です。 手と足に大きな釘を打ち込まれ、十字架につけられたのでした。 十字架刑は当時の極刑でした。

 今でいう死刑です。痛み苦しめられて死に至らせられる。

 人々が見ている中での刑でした。 これほどむごい刑はありません。

 その両脇には、二人の極悪人が、同じように十字架刑につけられました。

 主イエスは、十字架刑に処せられるようなことは一切していませんでした。

 しかし、ユダヤ教の指導者たちの妬みにより、捕らえられ、強引な裁判をかけられ、十字架刑に決まりました。

 イエス様は、黙って、その道を歩まれました。

 最後に叫んだ言葉の一つは、「成し遂げられた」という言葉でした。

○ヨハネ福音書19:28-30

 自分の果たすべき使命を成し遂げたということを意味する言葉です。

 

☆私たちと神さま

 神さまは、愛のお方 2つのことで表現します。

 ①1つは、創造主なるお方です。 

 この世界、宇宙、太陽、月、星、この地球、この地球の生き物、植物のすべて、食物 も、水も空気も

 私たちの体の臓器も、眼も耳も、考える脳も 精巧に造られている。

 これらは偶然にあるのではありません。

 ②もう一つは、救い主なるお方です。

 私たちを神と結びつけるために、イエス様をこの世にお送りくださいました。

 神を認めず。神に背を向けて歩む私たち、神との交わりを失ってしまい、滅びに向かっている私たちを、引き揚げ、私たちを神の子どもにするためです。

 神から離れている私たちの状態は、罪(的はずれ)を抱えている状態です。

 その罪という大きな借金を抱えている状態です。

 その罪の借金を返さなければ、神の子どもになることはできません。

 人の努力では無理です。自分の命をもって償うしかありません。でもその意味することは自分の命を失うということです。

 そうしなくてよいために、イエス様の十字架での身代わりの死が必要でした。

◎28節

20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。

 

☆仕えること、命を差し出すこと

 イエス様にとって仕えるとは、自分の命を差し出すことでした。

 クリスマスのできごと

 神の御子、独り子であったイエス様が、神の身分を捨て、人となってこの世に来てくださったこと 神の身分を捨てること 一番損な道 一番の貧乏くじを引くこと

 神の御許からこの世に来ること この世は悪で満ち、命を奪い取ろうとする

 

 そのようなこの世界においでくださった。 一番損な道、貧乏くじを引いてくださった。 それは、ひとえに、私たちを愛する故に。  「主よ、感謝します。」