2024年6月
6月2日(日) 聖日礼拝 説教メモ
「あなたはどこにいるのか」 創世記3章8—15節
☆神の愛
「神は愛です 信仰、希望、愛」 教会の外看板 神の愛を心にとめたい。
この地球という世界 その世界の中に私たちは生れ出て、置かれている。
この世界が神によって創造された。 この世界に生きる私たちに心をとめてくださる主
主なる神は。一つの民を最初に選ばれ、その民を守り導き、その後に全世界の民に愛と導きを与えられた。
独り子であるお方イエスをこの世にお遣わしくださった。クリスマスの出来事
主イエスの復活の出来事 イースターの出来事
そして、神の聖い霊である聖霊が主イエスを信じる者たちの上に降った ペンテコステの出来事
☆聖霊降臨の恵み
言葉が通じなくなった私たち人間同士 バベルの塔の出来事
○創世記11:1-9 それはおごり高ぶる人間の罪
通じなくなった言葉が、通じる恵みに与った。
神のように高くなって、えらくなって世界を支配しようとした人間
一番大切なものの一つ 言葉が混乱して、互いに疎通となった。
バベルの塔をそれ以上作ることはできなくなり、散らされていった。
聖霊降臨の出来事を通して、他の人との交わりの回復の恵みが備えられた。
私たちもその恵みを体験させていただきましょう。 聖霊を受けた弟子たちは、そこに集ま
った外国の人たちにわかう言葉で、神さまの偉大な業を語り伝えることができた。
ペンテコステの出来事で、言葉が通じるようになった。
神を中心として、心を通わせることができるようになった。
☆語りかけを受ける存在
私たち人間は、語りかけを受ける存在である。
生まれた赤ちゃん、その親との出会い、親からの語りかけ
「良く生まれてきたね」 「健やかに大きくなあれ」
名前が付けられ、その名で呼ばれる。名前を何千、何万回呼ばれたことでしょう。 特に親から 呼びかけられ、その呼びかけの相手と目を合わせる。
最初は何も答えられなくても、少しずつ、その呼びかけに応えるようになる。
そして、互いにコミュニケーションをとるようになる。 それは幸いなこと。
☆最初の人アダムとエバ
聖書は、私たち人間がどのような存在であったかを伝える。
神によって造られた存在
〇創世記2:7-25
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
2:8 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
2:9 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
2:16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
命の息が吹き込まれて命ある者となった。
最初の人はアダム そのアダムのあばら骨より女エバが造られた。
互いに支え合い、助け合う存在として造られた。
最初、二人とも裸であったが、少しも恥ずかしとは思わなかった。
エデンの園に置かれ、そこを管理する者とされた。
☆神の掟
神は一つの掟を定められた。 園のどの木からも食べても良い。 しかし、たった一つの木
だけからは食べてはならない。 それは善悪の知識と呼ばれる木の実 その実を食べると必
ず死ぬ これだけはしてはいけない、これだけは守りなさい。
☆人の選んだ道
神の唯一の掟を破ってしまう。
誘惑する者によって、誘惑され神の掟を破ってしまう。
〇3:1-7
最も賢い存在であった蛇、サタンによって誘惑される。
エバは、その誘惑の言葉に乗ってしまう。 神の言葉よりも、蛇の言葉に聞いてしまう。
蛇が語る言葉の方がよりリアル、正しいように感じた。
その言葉の方が魅力的、自分の心にフィットするように感じた。
これを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものになるのですよ。
その言葉に乗ってしまう。 食べてはいけない、食べると必ず死ぬと言われていた善悪を知る知識の木の実を取り食べてしまう。
そして、隣にいたアダムにも渡す。アダムもその実を食べてしまう。
☆アダムとエバ
神の掟を破る前の二人 エデンの園で、心を合わせ歩んだ。
神の語りかけを聴きつつ、日々、喜びと平安を心にとめて歩んでいた。
二人は互いに心を合わせ、神の顔を仰ぎつつ、神さまのやって来られた時には、喜んでそこに顔を向け、耳を傾けた。神さまがやって来られると喜んでその方に向かって行き神の顔を喜んで仰いだ。 神の語りかけを喜んで顔を見つつ聞いた。
☆アダムとエバに起きたこと
恐れが生じた。 まずいことをしてしまった。
蛇の誘惑に乗り、神の掟を破ってしまった。
決して食べてはいけないと言われた善悪を知る知識の木の実を食べてしまった。 これを食べたら必ず死ぬと言われたその木の実を
それまで、二人の心には恐れはなかった。不安もなかった。しかし、心の中に、不安と恐れを持つようになった。
主なる神の園の中を歩く音が聞こえてきたとき、二人は神の顔を避けた。
神の顔を見るのが怖い。 園の木の間に隠れた。 見つからないように。
何も悪いことをしていなければ、警官を見ても避けることはしない。
何か悪いことをしていれば、警官が向こうからやってきたら、さっと避ける。
☆神の語りかけ
神の語りかけがあった。
◎8-15節
3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
3:13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
3:14 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」
「どこにいるのか」 アダムよ、エバよ、あなたはどこにいるのか?
どこにいるのかを神はご存じであった。
アダムとエバが何をしたのかもご存じであった。
その二人に呼びかけられた。 「どこにいるのか」 「何をしたのか」と
なぜ、身を隠すのかと尋ねられた。
☆呼びかけられたアダムとエバ
恐ろしくなったので隠れていました。 私は裸ですから恥ずかしいのです。
それまで裸が恥ずかしいと思わなかったのに。
そして、二人は言い訳をした。 アダムはエバに責任転嫁をした。 エバは蛇に責任転嫁をした。 自分は悪くない 悪いのはエバです。悪いのは蛇ですと
☆アダムとエバの運命
エデンの園に、もはやいることはできない。
将来、与るはずであった命の木の実に与ることもできなくなった。
エデンの園からの追放 神との麗しい関係が損なわれた。
死ぬ者となった。神の掟を破った。その結果を刈り取らねばならなくなった。
☆私たち人間
私たち人間の最初の人アダムとエバの出来事 私たちは、その末裔
さまよう者となった。最後、死を刈り取らねばならない。
不安と恐れを抱く。 その不安と恐れに悩まされる。 最後は死を迎えねばならない。
それはあまりに大きな課題 自分の力では、太刀打ちできない。
☆神の宣言
蛇に対する宣言
◎14-15節
3:14 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」
お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に敵意を置く。
彼はお前の頭を砕く。 お前を無力にする、お前を打ち破る
お前は彼のかかとを砕く。
彼とは誰を指すのでしょう。 それは、救い主イエスを指しています。
サタンは、主イエスを十字架に追いやる。 主イエスは、十字架で命を奪われる、しかし、三日目に蘇る。 復活の主として立たれる。
サタンの計画はすべて打ち破られる。
人は、この地上の最後は死んでしまうが、復活の主の命に生きる者となる。
神の子どもとして生きる者となる。
サタンの誘惑はどんなに強くても、神の愛に打ち勝つことはできない。 神の勝利
☆神の呼びかけ
あなたはどこにいるのか?
帰っておいでと呼び掛けられる。 私たちを見出すまで探し求められる主
○ルカによる福音書15章3-7節
迷い出た1匹の羊を探しまわられる主 見つけ出すまで探し回られる。
あなたの罪の代価は支払われた。既に支払われた。
帰っておいで。帰って来なさい。
○ルカ福音書15章11-24節
15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
放蕩息子の帰りを待って行ってくれた父親 帰って来た弟息子を喜んで迎え入れてくれた
父親
☆「あなたはどこにいるのか」
主の呼びかけ あなたはどこに立っているのか
あなたの恐れ、不安は私が取り除くと
あなたは、私のもとで憩うことができると 立ち帰りなさいと主は呼びかけておられる。 あなたに新しい命を与えよう。 その命をいただいて生きなさいと。
6月16日(日) 聖日礼拝 説教メモ
「ピスガの山頂に登ったモーセ」 申命記34章1-12節
☆本日は父の日です。
父に感謝する日です。
父親が今も生きているなら、「いつも、ありがとう」と感謝の言葉をかけたいものです。
父は既に地上の人生を終えているという人は多いと思います。心の中で、「ありがとう」と言いましょう。 また、父を与えてくださった神に感謝を捧げましょう。
☆父親は、母親に比べて愛情表現が下手
父親は、一般的には愛情表現をするのが、母親と比べるなら下手です。
子どもの小さいとき、母親は子供のそばにいることが多い。
父親は、外での仕事で家にいない時間が多い。 今はだいぶ変わってきたが。
☆父親は父親の役割がある。
子育てにおいて、母親にはかなわないところが多い。 しかし、父親は父親としての役割がある。 現在は、育児は母親だけのものではなく、父親も担うもの。
具体的に、育児休暇も取ることができるようになっている。
☆それぞれの父親についての思い出
それぞれ、自分の父親の思い出があることでしょう。
☆モーセの最期
モーセの最期 それはピスガの山頂でした。
約束の地カナンを見下ろすことのできるピスガの山の頂でした。
約束の地カナン そこに入るために歩んできたモーセ
その手前でその生涯を終えようとした。 その歩んだ生涯は120年でした。
彼の心の中はいかばかりだったでしょう? 確かに約束の地に入れないことは無念だったことでしょう。 なぜですかと神に問うたことでしょう。
☆モーセの心の中には、大きな感謝があったことでしょう。
生まれて間もないときに、命の危険があった。不思議に助けられた。覚えていないあの時 モーセは命が終わってもおかしくなかった。しかし、守られた。
かつて同胞はエジプトの地で奴隷として歩んでいた。 苦しみの日々
そこから神は、イスラエルの民を導き出してくださった。
エジプトの王ファラオ 絶対的権力者 力強い軍隊
そのエジプトから神は、助け出してくださった。
神の助けがなければ、エジプトの地で今も奴隷として歩むだけだった。 そこからの救い。
☆決定的な出来事
①過ぎ越しの出来事
過ぎ越しの羊の血を門の柱と鴨居に塗ることを通して、神の言われた通りにしたとき、滅ぼす者は過ぎ越した。
聴き従わなかったエジプト人は打たれた。
②海を渡る。
エジプト軍が追いかけて来た時に、神は海を二つに分けてくださった。
その中を渡っていくことができた。 エジプト軍は、その海に飲み込まれた。 危機一髪で助け出された。 モーセにとって忘れることのできない出来事 それらの出来事を振り返った。
☆自分自身の生涯を振り返った。
その生涯 120年間 彼の生涯は、3等分することができる。
①生まれてから40年間 青年期
ファラオの命令が出る 生まれた男の子は滅ぼすように 彼の両親は神を恐れ、その命を守ろうとした。 隠しけれなくなり、ナイル川にパピルスの籠の中にモーセを浮かべる。
ファラオの王女が偶然見つけ、彼は宮廷で育てられる。
大人になり、苦しむ同胞を自分は救うのだと意気込む。
しかし、エジプト人を殺してしまい、ファラオを恐れて、ミディアンの地に逃げていく。 同胞を救うどころではない。
②次の40年 40から80歳 成人期
ミディアンの地で、結婚をする。家庭を築く
そこで、羊飼いとしての働き
羊飼いとしての日々 家庭生活の喜びと共に、人生が過ぎていく。
若いときの夢は、夢の夢 同胞を救うという夢、ビジョン
それは、遠い昔の夢となった。 エジプトから逃げ出し、そのはずれで過ごす。 自分の人生はこのような日々で終わるのかと思った。
燃え尽きない芝を見て、そこの近づいた時に、神から御声をかけられる。
モーセは、神によって使命を与えられる。 同胞を救い出すという使命
神が共にあって、導いてくださる。 あきらめていたことが、神によって、引き揚げられる。 エジプトからの脱出のリーダーとしての働き
そして、その出来事を目撃することになる。
そしてそのことが成し遂げられ、自分の人生がもうすぐ終わろうとしている。 神のご支配を心にとめたことでしょう。
☆神のご命令
ネボ山に登りなさい
○32:45-52
32:45 モーセは全イスラエルにこれらの言葉をすべて語り終えてから、
32:46 こう言った。「あなたたちは、今日わたしがあなたたちに対して証言するすべての言葉を心に留め、子供たちに命じて、この律法の言葉をすべて忠実に守らせなさい。
32:47 それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。この言葉によって、あなたたちはヨルダン川を渡って得る土地で長く生きることができる。」
ネボ山に登り、カナンの地を見まわしなさい。 自分の生涯は、ここで終わる
しかし、終わらないものがある それはすべてを支配しておられる神のご支配
そして、神の御言葉 律法の言葉
モーセの働き
①イスラエルの民をエジプトより導き上る神、約束の地へと導く神に従い、リーダーとしての歩み
②シナイ山で十戒を受け取る
十の戒め それは、律法の中心 神との関係4つの戒め、人との関係6つの戒め
☆神の言葉に生きる
十戒 神の語りかけ それを受け止め、歩む
父としてのモーセ 神の言葉を聞き、従う。
神の御言葉を聴く、それに従う。
父親のイメージ 昔は家長 家の主 今は違う 家のことをリードするのは母親のことも
父親は仕事 今は違う 母親も仕事
休みの日には寝そべっている 今は違う 家族を連れて、レジャー
モーセの父としての姿
それは、神の言葉に聴く そして、その御言葉に従う。
自分の考えだけに頼らない。 確かな神の御言葉に聴く
その御言葉に聴くようにと民に語った。
☆モーセの最期の時
ネボ山(ピスガの山)での最期
◎1-8節
34:1 モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダンまで、
34:2 ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、
34:3 ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。
34:4 主はモーセに言われた。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」
34:5 主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。
34:6 主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。
34:7 モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。
34:8 イスラエルの人々はモアブの平野で三十日の間、モーセを悼んで泣き、モーセのために喪に服して、その期間は終わった。
ネボ山は死海にほど近い場所にあり、標高が820メートルほど。この付近は荒涼とした岩と砂だらけの荒野。ネボ山はこの地域一帯を見渡すことができる高台
ギレアド、ダン…ヨルダン川の東側 ナフタリ…ガリラヤ湖の北西
エフライム、マナセ…ヨルダン川の西側 ユダ…死海の西側
ネゲブ…イスラエルの南方に位置する砂漠地帯 エリコ…オアシスの町
ツォアル…死海の南
約束の地を見下ろすことのできる場所 40年歩んできた道のり
そして、いよいよ入って行こうとする約束の地カナン
その土地には入ることはできないが、指導者として歩んだモーセは、見渡した。
☆モーセの忍耐と祈り
40年の間に世代交代
民のつぶやきがあった。
水がない、食べ物がない。 ここで死なすつもりなのか エジプトの方が良かったと
つぶやくことは難しいことではない。 自分のその時の思いを吐露すれば良いのだから。
モーセはどうしたか。 一緒にはつぶやかなかった、 忍耐した。
何よりも神に祈った。 どうしたら良いでしょうかと その時々に、神は助けを与え、導いてくださった。 イスラエルの民を導くリーダー 父親のような存在であった。
☆モーセの力強さ
年を取り衰える。 モーセも例外ではなかったことでしょう。
◎7節
34:7 モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。
眼はかすまず、活力は失せず 活力を主によって満たしていただいた。
年を取れば目はかすみ、活力も失うのが常 しかし、モーセはそうではなかった。 主によって支えら生かされた。 私たちも、そうでありたい。
☆後継者を立てる
モーセの活動 ご自分の働き、使命 それだけではなかった。自分の歩みを見せる。
大切なことを間近で見せつつ、共に歩む
そのことを受け継ぐ者を立てる 後継者の育成
◎9節
34:9 ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちていた。モーセが彼の上に手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおり行った。
ヌンの子ヨシュアをいつもそばに
父親と子ども 子どもがやがて、いろいろなことをリードする。 バトンタッチ
☆使命を果たしたモーセ
使命があって選ばれたモーセ
◎10-12節
34:10 イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、
34:11 彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり、
34:12 また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。
主がモーセを選び出された。 その働きは簡単ではなかった。 しかし、主に聞き従いつつ、その働きをなした。
父としてのモーセ リーダーとしてのモーセ 使命を全うした。
6月23日(日) ホ群弾圧受難記念礼拝 説教メモ
「信仰を捨てなかった七千人」 列王記上Ⅰ9章11-18節
☆本日は、ホ群弾圧受難記念礼拝
今からおよそ80年前のホーリネス系のキリスト教会に加えられた弾圧を覚えて、毎年6月第4聖日に、弾圧受難記念礼拝を捧げています。
当時は、日本は、日中戦争に突入し、大東亜戦争、東アジア、東南アジアの国々に侵略して行き戦争一色、そしてやがて太平洋戦争に突入して行った。
それは80年以上前の時代、 今はもう関係ないではない。 今の時代も一歩間違えば、戦争につき進んで行ってしまう。 世界の置かれた状況は、厳しい。
☆預言者エリヤの経験したこと
紀元前8世紀 エリヤが生きた時代、北イスラエルにおける状況
その時の北イスラエルの王はアハブ 暗黒の時代 その大きな力で偶像礼拝を命じ、主を信じる者が迫害された。
○列王上16:29-33
バアル 太陽をつかさどる神、豊穣をもたらす神 アシェラ 同じような働きをする女神
そのような偶像礼拝をもたらした。
その絶対的権力によって偶像礼拝を命じる、誰も文句が言えない。
☆アハブ、イゼベルに対して異議を唱えた人物
それこそ預言者エリヤ
○17:1
そのことでエリヤは命をねらわれた。身を隠して逃げざるを得ない。 3年間、雨は降らず、
☆偶像礼拝
生ける真の神でないものを神とする。神として祭り上げる。
太陽を神と仰ぐ。 太陽は多くの恩恵をもたらす しかしそれも真の神によって創造されたものに過ぎない。 月を神とする。 海の神、山の神を立てる。
海という大自然、山という大自然 それ等も真の神によって創造されたものに過ぎない。
そこにおいて、どうぞ、守ってくださいと真の神ではなく、海の神、山の神と作り上げ、祭る。 像を作り、それを拝む これも偶像礼拝
真の神を無視して、目に見えるものを後生大事にする。 真の神を脇において、大事にするもの お金さえも神となる。 大事なのはお金だと 力さえも神とする 大事なのは力だと 自分の思いや考えを最優先する。 それを絶対化する。 自分の地位、名誉を何よりも大事なものとする。
人は、絶対的な権力者を祭り上げる。その人に従えば良いのだと
その権力のもとで、過ごす その権力を絶対化する。自分が神となる 絶対権力者となる。
それもまた、間違ったこと 末長く、その権力を自分のものとしようとする。 そのことで、多くの人が最終的には 苦しむ。
☆エリヤは神から召し出された。
エリヤは神から召し出された。
○18:1-2
○18:15-21
☆カルメル山での対決
バアルの預言者450人と主の預言者エリヤは一人 1対450 全エネルギを注ぎ対決する。 生ける主のご支配と助けをいただき、エリヤは勝利する。
エリヤの祈りに神は応え、天から火を下してくださった。 その対決で勝利をしたエリヤ
イゼベルの脅しにより大きな恐れに包まれる 燃え尽き症候群 力を使い尽くし弱り果てる
☆神による助け
べエル・シェバでの経験
○19:1-10
☆エリヤの心
ほかの預言者、神を信じる仲間はいなくなったと思った、
アハブとイゼベルによって、その偶像礼拝に反対し殺害された人たちもいた。
偶像礼拝の中に引き込まれた人もいた。
誰も残っていない。 残ったのは自分一人だ 彼は、絶望的な気持ちになった。
☆神の語りかけ
ホレブの山にて
◎列王記上Ⅰ9:11-18
☆80年前の日本の状況
エリヤが生きた時代に似ていた。 アハブとイゼベルの絶対権力の支配
日本の国、日中戦争、大東亜戦争、太平洋戦争に突入して行く時代
その時の政府 戦争に向かう 国民を大きな力で支配。
天皇を現人神として、国家権力の最高のところに置き、神道を国の宗教として、神社参拝を強いた。
・1929年(昭和4)、恐慌が世界に波及するようになると、日本では「万世一系の天皇をいただく特別な国」としての自国を誇るナショナリズムが広がっていった。満州事変勃発以降、それは顕著になる。
・1931年、満州事変から15年にわたる戦争の時代
・1937年、日中戦争が起こると近衛文麿内閣は「挙国一致」を呼びかける。
・1938年「国家総動員法」が成立。軍事力・経済力・人的能力のすべてを投入する総力戦の体制となる。
・1940年、大政翼賛会が結成されると、10戸を単位とした隣組が組織され、伝達・配給・防空・監視・防諜などの役割が課せられるようなる。
・1941年12月、米・英との開戦を機に、大政翼賛会は活動の幅を広げ、総動員体制はさらに強圧的なものになっていく。
☆教育勅語
教育勅語は、明治憲法発布の翌年(1890年)に、道徳の根本、教育の基本理念を教え諭すという建前で出された勅語(天皇が直接国民に発する言葉)で、戦前、学校教育などを通じ、国民に植えつけられた。
勅語は、「朕惟フニ我カ皇祖皇宗(ちんおもうにわがこうそこうそう)」という言葉から始まる。「皇祖皇宗」(天照大神=あまてらすおおみかみ=に始まる天皇の祖先)が建てた国を治めるのは、その子孫の天皇であるとされている。明治憲法が、日本は「万世一系(ばんせいいっけい)」の天皇、つまり永遠につづく天皇が治める(第一条)、天皇は「神聖」だ(第三条)と定めたのと同じ考え方。一方、国民は天皇に仕える「臣民」(家来)とされた。
☆天照大神
戦前、天皇は「現人神(あらひとがみ)」として神格化され、明治憲法は、「大日本帝国ハ万世一系(ばんせいいっけい)ノ天皇之(これ)ヲ統治ス」(第一条)、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第三条)と定めた。この絶対的な天皇主権の国家体制を維持するために、日本は天照大神(あまてらすおおみかみ)を祖先神とし、代々続く(万世一系)天皇が治める「神の国」だという教育が徹底して行われた。
八百万の神々で最高位に位置しているのがアマテラスで、イザナギの左目から生まれた。その後、天上世界を治める太陽を司る女神となり、現在は、伊勢神宮の内宮を代表として全国に祀られている。
高天原(たかまがはら)を統治することになったアマテラスは、太陽の神となる。
アマテラスは高天原の主神として、太陽の光をもたらし、大地の豊穣を司った。また、皇室の祖神としても崇められた。初代天皇である神武天皇はアマテラスの孫のひ孫に当たる
☆皇紀二千六百年
太平洋戦争が始まる前年の1940年(昭和15)、日本は節目の年を迎えました。それが、皇紀二千六百年(または紀元二千六百年)と呼ばれるもの。
皇紀とは、日本神話で神武天皇が即位したとされる、(西暦)紀元前660年を元年とする年の数え方で、昭和戦前・戦中期には頻繁に使用されていた。
皇紀二千六百年を迎えるにあたり、政府・民間で様々な記念行事が行われた。特に大規模に行われたのが、11月10日の「紀元二千六百年式典」です。天皇・皇后臨席のもと、式典では近衛文麿内閣総理大臣によるお祝いの言葉奏上、勅語勅語(天皇のことば)の下賜かし、紀元二千六百年頌歌しょうかの斉唱、万歳三唱などが行われた。
日中戦争下において、皇紀二千六百年を記念する一連の行事は、天皇を中心とする国家のもとで国民を団結させようとする意図があったと思われる。
☆皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会
皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会は、1940年(昭和15年)10月17日の神嘗祭の日に、神武天皇即位紀元2600年を記念するため、青山学院に2万人を集めて開かれた紀元二千六百年記念行事。 キリスト教会も迎合した。
☆ホーリネス教会への弾圧
1942(昭和17)年6月26日、日本基督教団第六部(元日本聖教会)、同第九部(元きよめ教会)、宗教結社・東洋宣教会きよめ教会に対する一斉検挙が行われた。第二次及び外地での検挙で合計134名の教職が投獄された。このことで7名の牧師が殉職した。
日本政府により牧師96人が「治安維持法違反容疑」(キリストが統治者として再臨することを説いたのが天皇制を否定するものとされた)で逮捕された
1943年4月、文部省は宗教団体法に基づき、第六部と第九部の、教会設立認可の取り消し処分と教師を辞任させるように、日本基督教団の富田満統理に通知した。これを受けて、日本基督教団は、獄中にある教師と家族に、教会設立認可の取り消しと、教師の自発的な辞職を求める通知を行った。そして、日本基督教団内のホーリネス系の教会は強制的に解散させられた。牧師の資格(身分)も剥奪
ホーリネス系の教会では、礼拝も祈祷会も家庭集会も開くことはできない。
特高警察の監視 牧師家庭だけでなく、教会役員、教会員
このことが終わったのは、1945年8月15日の敗戦によって
☆なぜホーリス系教会が弾圧されたのか
その前の年1941年 日本の教会は、特にプロスタント教会は、国家によって強引に一つにまとめられた 日本基督教団に寄せ集められた
それに従わなければ、教会は宗教活動が一切できない その翌年にホーリネス系の教会を狙い撃ちした。 ホーリネス系の教会は、当時、とても伝道熱心 教会に集う人も多く、勢いがあった それを弾圧によって抑え込めば、他の教会もおとなしくするだろう
もう一つ、弾圧の標的になった要因があった それは、再臨信仰
☆大きな打撃の中で
教会においては、大きな打撃 多くの教会員は、教会に集えなくなった。
信仰から離れた人も多く出た。 その中にも、信仰を保った人たちもいた。
戦後、教会に戻ってきた人たちもいた。
☆北九州復興教会の設立時
・設立ニ至ル経過ノ概要
戦時中教会弾圧にあひ旧六部に属してゐた我らは昭和十七年六月二十六日解散となり群は散らされたが、終戦後朝鮮より引揚げた山中日出刀牧師は昭和二十年十月十日日本基督教団正教師として復職し、北九州に使命を感じて昭和二十一年十一月より教会の復興と福音の伝道に着手した。昭和二十二年六月より現在の場所に旧六部関係の信者を中心として新しい信者も加へられて、集会をする様になった。現在信徒の数三十七名
☆信仰を捨てなかった七千人
信仰を捨てなかった人たち
◎18節
19:18 しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」
悔い改めて主に立ち返った人も
私たちも、主に支え強めていただき、信仰を持ち続けましょう。
間違った歩みに対しては、悔い改めていきましょう。
6月30日(日) 聖日礼拝 説教メモ
「正しい人を救い出す主」 ペトロの手紙二2章4-9節
☆説教題を見ての思い
説教題 「正しい人を救い出す主」 そうだなと思った人とあれと思った人といたことでしょう。 正しい人が救い出される ああそれは良いことだと思う人は多い。
あれと思った人 その反対の人はどうなるの? 正しくない人はどうなる? 神は。正しくない人は救い出されないのか? 私はどうなるのかと考える。
☆正しいことと正しくないこと、善と悪
正しいことと正しくないことは厳然とある。 正しいことは正しい、正しくないことは正しくない。 自分は何を選ぶかが問われる。
この世にある、善と悪 善がある。良いことがある。
一方悪がある。 悪 悪いこと、その悪をなすことがある、その悪で人を苦しめることがある。その悪で、自分が苦しめられることがある。
☆自分だけで解決できるのか?
善と悪の問題 いつも付きまとう どちらかだけを選べるのか?
善を選ぶことがあり、悪を選ぶことがある。
善を選ぼうと考えていたのに、悪の中に身を置いてしまうこともある。
自分だけで解決できるのか。 人は果たしてこの善と悪の問題を解決できるのか?
☆神のご支配
聖書は、この問題にどう光を当てているのか
神のお考えはどこに? 神はどうお考えか、神はどう取り扱われるのか?
今日の聖書箇所は、そのことに対して光を当ててくれる箇所の一つ。
☆神はすべてを公正に裁かれるお方
神は、正しいこと正しくないことを区別される 善と悪を明確に区別される。
それぞれに対して、神ははっきりと対処される。
神はすべてを公正に裁かれるお方
◎9節
2:9 主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。
○2:13-17
2:13 不義を行う者は、不義にふさわしい報いを受けます。彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。
2:14 その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています。彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲におぼれ、呪いの子になっています。
2:15 彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み、
2:16 それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。
2:17 この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。
☆また一方においては、神は助けてくださるお方
神は公正に裁かれるだけのお方ではない。 それと共に神は、助けてくださるお方です。
そうでなければ、私たちはどうしようもない。白黒でわかられるだけでは、真の解決はない。神の助けはある。
☆本日の聖書箇所
ペトロの手紙二2章4-9節
☆ノアの時代の人たち
◎5節
2:5 また、神は昔の人々を容赦しないで、不信心な者たちの世界に洪水を引き起こし、義を説いていたノアたち八人を保護なさったのです。
洪水で滅ぼされてしまった。
○創世記6:1-7
6:5 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、
6:6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。
悪が増し、悪いことばかりを思い計り、その悪いことを行い続けた。
悪に対して、神はそれらを滅ぼし尽くされた。
悪に満ちた世界 今の時代もまた、ノアの時代に似ている。
☆私たちはどうしたら良いのか
この悪に満ちた時代の中で、その影響を受け、その中で翻弄されることもある。
その流れに流されることもある。
神を仰ぐとき、その悪を良いとすることはできない。
その悪に流されないようにしたい。 神に助けを願い求めたい。
☆ノアはどう生きたか
ノアはどう歩んだか
○創世記6:8-22
6:8 しかし、ノアは主の好意を得た。
6:9 これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。
6:22 ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。
○創世記7:1-24
7:5 ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。
7:7 ノアは妻子や嫁たちと共に洪水を免れようと箱舟に入った。
ノアは真実に歩んだ。
神を恐れ、悪に進まなかった。悪を行わなかった。
神に聴き従った。 神の言われたこと、命じられたことを受け止め、その通りにした。 滅びから免れた
ノアとその家族は箱舟を作り、その中に入り助かった。
悪に囲まれていた時代の中で、神を畏れ真実に歩んだ。
☆私たちはどう生きたら良いのか
神を畏れ、悪を見分け、そこに歩まないようにしたい。 神の助けをいただきたい。
◎5節
2:5 また、神は昔の人々を容赦しないで、不信心な者たちの世界に洪水を引き起こし、義を説いていたノアたち八人を保護なさったのです。
箱舟は用意されている。それは、主イエスという救いの箱舟
それはなんという幸いなことか
☆さて、もう一人の人物ロトはどう生きたか
ロトはどう歩んだか
○創世記13:1-18
13:10 ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。
13:11 ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。こうして彼らは、左右に別れた。
13:13 ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。
○創世記19:1-38
19:1 二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、
19:13 実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」
19:16 ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。
19:24 主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、
19:25 これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。
ロトは、ソドムという町に住んだ。 その町は悪に満ちていた。
最終的にはそのソドムとゴモラは滅ぼし尽くされた。
その中でロトは助けられた。
◎6-7節
2:6 また、神はソドムとゴモラの町を灰にし、滅ぼし尽くして罰し、それから後の不信心な者たちへの見せしめとなさいました。
2:7 しかし神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、
助け出されました。
☆ロトは正しい人であったのか?
正しい人ロト? ソドムの人に同調はしなかった。悪に悩まされつつも一線を画していた。
必ずしも正しい人とは言えないロト、そのロトが助け出された。 なぜ?
そのロトに対して、とりなし祈る人がいた。 それが叔父のアブラハムであった。
○創世記18:16-33
18:32 アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」
18:33 主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。
アブラハムは、ソドムのために祈った。 アブラハムによって、その町に住んでいたロトとその家族のためにとりなしの祈りがささげられていた。
☆神の助け
神の憐みをいただいた。
◎7-8節
2:7 しかし神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました。
2:8 なぜなら、この正しい人は、彼らの中で生活していたとき、毎日よこしまな行為を見聞きして正しい心を痛めていたからです。
神は、憐み助けてくださった。 ロトとその家族 最終的には、ロトと二人の娘が助け出された。
☆正しい人はいない
正しい人はいない、
○ローマの信徒への手紙3:9-20
3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
3:11 悟る者もなく 神を探し求める者もいない。
3:12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
正しい人はこの世にいない。 すべての人は神のみ前に罪人である。
☆主イエスを見上げて
ただし、人は、主イエスによって罪を赦していただくことができる。
主イエスの救いに与った者 滅ぼされることはない。
どうしようもない者をも引き上げてくださる主。 救い出してくださる主
罪の中にある者を探し出し、救い上げてくださる主
救いの主イエスを見上げ歩んで行きましょう。