2022年の礼拝説教メモ

1月1日() 元旦礼拝  説教メモ

    「光の子として歩みなさい」   エフェソの信徒への手紙5章8-9節 

 

本年の御言葉と標語

 講壇の額、しおりを見つつ

〇詩編62:9

62:9 民よ、どのような時にも神に信頼し 御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。

〇口語訳 

62:8 民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。

〇新改訳

62:8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。

  力強い語り掛けをいただいています。 感謝です。

 ★標語 「主の信頼し 祈る」

 この1年、この御言葉と標語を心にとめつつ、口ずさみつつ歩んでいきましょう。

 

コロナ禍の中で

  コロナ3年目 これからどう収束に向かっていくのか なかなか見通せない

  不安もある。 主のご支配の中で、強めていただき、進んで行きましょう。  

  主の助けをいただきつつ

 

★本日の元旦礼拝の中心の御言葉

  光の子として歩みなさい。です。

◎エフェソ5:8-9  

5:8 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。

5:9 ――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――

◎口語訳

5:8 あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい

5:9 光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである――

◎新改訳

5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

5:9 ――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。――

 

光の子らしく歩きなさい 光の子どもとして歩みなさい。

 

今日のテーマは光です。

 一昨年からの新型コロナのことで、世界は暗雲に包まれました。

  今まで、太陽の光が射していたのに、暗雲によって光が遮られた。

  明るかった世界が、暗くなりました。

 今までのように歩めません。 不安と恐れがやってきました。

 いろいろと制限がかかるようになりました。

  今まで自由にできていたことが、自由にできなくなりました。

  行き詰まり、いらだち、我慢、我慢、限界を覚えさせられます。

  喜び、希望も遠ざかる思いの中に置かれています。

 世の中だけでなく、私たちの心の中も、暗くなっています。

 

光の主を仰ぎのぞみましょう

 心を暗くする様々なこと、それはコロナだけではありません。

  思い通りにいかないこと、行き詰まり、困難 

  身体の不調 体の調子が良くない、 病気

  家族、友人との交わりがうまくいかないこともあるかもしれません。

  将来に向けての不安 どうなるのだろうか、うまくいくのだろうか

 そればかりの目を向けていると、心はますます暗くなる、沈んでいきます。

  喜び、希望がますます小さくなります。

 主を仰ぎのぞみましょう。私たちの主は光の主です。

  主は、光を与えてくださいます。 喜びと希望を与えてくださいます。

 

光の主とは

①喜びと希望を備え、与えてくださるお方です。

  喜びと希望を天の倉に無限にお持ちのお方です。

  喜び、希望が乏しくなった時

   喜び、希望をこの私に与えてくださいと祈り求めましょう。

   主は与えてくださるお方です。

  かつては、喜び、希望があった、しかし、今はそれらは小さくなった。

   それらはどこかに散ってしましました。 主よ、回復の恵みをこの私に  

   新しい喜び、希望を与えてくださいと祈り求めましょう。

 

②闇を打ち破ることのできるお方です。

  闇は深い、闇は強いのです。 私たちの力では、なかなか押し返せない。

  打ち破れません、

  しかし、主は闇を打ち破ることのできる方です。

○ヨハネ1:1-5

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

1:2 この言は、初めに神と共にあった。

1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

口語訳

1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。

1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

新改訳

1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

 

③光を創り出すことのできるお方です。

  暗い闇の中にも、主は光を創り出すことのできるお方です。

  この闇はあまりに深い、あまりに濃い。

  その中に、身を置くならば、私たちは何も見えません 前にも進めません。

  希望を持つこともできません。 絶望が覆います。

  しかし、主は光を創り出すことのできるお方です。

 創造の最初の出来事に心を向けましょう。

○創世記1:1-5

1:1 初めに、神は天地を創造された。

1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、

1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

  主が光あれと命じられると光があった。

   私たちがどんなに命じても光を生み出すことのできない暗闇の中でも

   主は光を創り出すことのできるお方です。

 

いただいた金魚

  10月にある方から、金魚をいただきました。  

  ベランダで飼っていました。 寒波と寒さで、2匹がとても弱りっているを見つけました。虫の息です。他の金魚も元気があまりない、 これはまずいと思い、今、室内に移しました。 2匹は、まだ弱っている。他の金魚は少し元気になって来た。

  金魚の大変さに気づかなかった。思いが行かなかった。

  私たちも弱ることがあります。 主は、私たちのことを顧みてくださるお方です。 私たちの行き悩みをご存じです。 そして、助けの御手を差し伸べてくださるお方です。

 

以前は、かつては

  以前は、主のご愛を知らない時は、闇の支配の中に置かれていました。

  主とは関係なく歩んでいました。 自分勝手に、自分の思いのままに。

  自由だと思っていました。 

  光の主に出会い、闇に支配されていることに気が付きました。その歩みは滅びに向かっていることを知りました。

◎8節 

5:8 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、

 

〇エフェソ2:1-2 

2:1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。

2:2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。

2:3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。

 

しかし、今は

主のご愛によって、救いの恵みをいただきました。

   滅びをまぬかれた。 闇の子から光の子とされました。

〇エフェソ2:1-2

2:4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、

2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです

2:6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。

2:7 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。

2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。

  

光の子となる恵みは、だれにでも

 闇の中を歩く者に対して

●ヨハネ12:35-36

12:35 イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。

12:36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。

闇の中を歩き続けることはやめなさい。

  でも、闇がこの私を離さないのです。 闇の支配は強いのです。

 主の招き 闇の子ではなく、光の子になりなさい。

  光の子になることができるのです。 主はそうしてくださるお方です。

  光のあるうちに、光を信じなさい。 主イエスを信じなさい。

 主は、この世を照らす光としておいでくださいました。 

〇ヨハネ1:9

1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

 

闇はいつもある

 闇を支配する存在がある。

 その存在は、力がある。 闇を深くしようとする。 闇の世界に再び引き入れようとする。 その力は強い。 巧妙に近づいてくる。

 私たちの力、頑張りでは対抗できない。

 主に依り頼みましょう。

  主が守ってくださいます。 助けてくださいます。主が引き上げてくださいます。

  主に信頼し、歩んで今いましょう。

 

光の子として歩みなさい。

  主の呼びかけ、主の招きをいただいています。

  闇を打ち破る勝利の主よりの呼びかけ、招きです。 感謝です。

  そのように歩ませていただきましょう。 ハレルヤ!

 

1月2日() 新年礼拝  説教メモ

    「主に信頼して祈る」   詩編62編1-13節 

 

★本年の御言葉と標語

◎詩編62:9

62:9 民よ、どのような時にも神に信頼し 御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。〔セラ

 標語  「主の信頼し 祈る」

 この1年、この御言葉と標語を心にとめつつ、口ずさみつつ歩んでいきましょう。

 

★私の立つところ

私の立つところはここです。 ここに私は立っています。

  この家庭に、この会社に、このグループに属しています。

  これこれを持っています。 これこれのたくわえがあります。

  友達は何人います。 いろいろな紹介の仕方があるでしょう。

一番幸いな紹介

 神にわたしの救いはある。(2節)

 わたしの救いと栄えは神にかかっている。(8節)

 神が私の土台です。 神がこの私を支えていてくださっています。

 私は、神によって救いをいただいています。

 もはや、滅びに向かうのではなく、救いの中に置かれています。

 主によって、永遠の命をいただいています。

  神の子どもとして、立てられ、今生きています。

 何が起きようとも、どのようなことがあっても、このことは変わりません。 なぜなら、神が私の保証人だからです。 私の保証となってくださいます。

 

★私たちは時に大きな苦しみを経験する

  一昨年からの新型コロナにことも、しかりです。

  突然の災害 台風、洪水、地震、竜巻、・・  病気

  そして、一番経験することの一つは、人から受ける苦しみです。

  人がこの私を攻めてくる。 一人の人、複数の人

◎4-5節  

62:4 お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。亡きものにしようとして一団となり 人を倒れる壁、崩れる石垣とし

62:5 人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして 口先で祝福し、腹の底で呪う。

恐れを抱く どうしたら良いのか 相手が執拗に攻めてくる、苦しみを与えてくる。

心が恐れで包まれる どう逃げたら良いのか、どう避けたら良いのか

 学校、職場でのいじめ、・・ 心が重くなる 学校に、職場に行くのに心が重い。

 

◎10-11節 

62:10 人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。

62:11 暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。

相手が大きく見える。 もう呑み込まれそうだと

息よりも軽い 心配しなくて良いと

暴力に対して、暴力で、 策に対しては、策で、 悪口に対しては、悪口で

 それは愚かなこと そのようなことに走ってはならない。

 

★主に依り頼む

◎2-3節

62:2 わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。

62:3 神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。

◎6-8節

62:6 わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。

62:7 神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。

62:8 わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。

  沈黙する 今ある悩み、苦しみ、恐れの心

 目の前にある敵、自分を呑み込もうとしてる力、自分の力では対抗できない。

  心を神に向ける。 天の窓は開かれている。

  神はどのような方か

   私の救い主である。わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。

  そうだ、神が私の岩だ 決して動かされない岩 どっしりとそこにいてくださる。 大きな岩はダイナマイトで吹き飛ばすことができる。 

 神は、何をもってしても吹き飛ばすことはできないお方です。

  そこに逃げ込むことができるお方。

  主がこの私の味方なるお方 もはや、動揺しません。

 力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。

 

★神への信頼

  神の信頼し 神の信頼せよ

  神の寄り頼め

◎詩編62:9

62:9 民よ、どのような時にも神に信頼し

◎口語訳 

62:8 民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。

◎新改訳

62:8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。

 

神に寄り頼みましょう。 寄り頼みつつ進んで行きましょう。

◎12-13節

62:12 ひとつのことを神は語り ふたつのことをわたしは聞いた 力は神のものであり

62:13 慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と ひとりひとりに、その業に従って あなたは人間に報いをお与えになる、と。

力 オズ 

    真の力 まことの力 それは神がお持ちのもの

  すべてを支配し、すべてを公正に裁かれるお方。

いつくしみ ヘセド 良いこと、善、誠実、恵み 

   変わることのない神の愛   契約に基づいた神の愛

 主に依り頼み進みましょう。主への信頼をもって

 

★祈り

◎詩編62:9

62:9 民よ、どのような時にも 御前に心を注ぎ出せ。

◎口語訳 

62:8 民よ、いかなる時にも そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。

◎新改訳

62:8 民よ。どんなときにも、 あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。

主に祈りをもって、申し上げる

 心を注ぎ出す。 心を込めて、必死に

 

★ヤコブの恐れの心 

 イサクの子どものヤコブ、 兄エサウの弟ヤコブ

 ヤボクの渡しの手前で ヤコブは、恐ろしかった。  心に平安がなかった。

 策を今まで講じて人生を乗り切ってきたヤコブでした。しかし、この時ばかりはいろいろと策を考えた。うまくいくだろうか? うまくいかないのではないか。

 恐れが心を占めた。 このままでは、兄に会うことはできない。いよいよ明日は、兄エサウと再会せねばならない。 ヤコブは、家族全員を、使いの者たちも、家畜もすべて、ヤボクの渡しを渡らせた。 自分は、一人残った。

○創世記32:23-32

 何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。 レスリング

  その者は勝てないとみて、ヤコブの関節を打った。

   腿の関節が外れた。

 もう去らせてくれ、夜が明けてしまうから。 ヤコブは離さない。

  ヤコブは言った。

○27節「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」

  祝福してくださるまでは離しません。

  その格闘の相手が人ではないと分かった。 神ご自身である

   ここで、なんとしても祝福していただかなければ

  その時に、お前の名前 何とのかと聞かれる。

  ヤコブですと答えた。

 *ヤコブ  ヤコブの名前の意味は、

聖書協会 共同訳 押しのける 注釈欄に  私は押しのける者です。

  押しのける者、 出し抜く者  自分のことしか考えない。

  兄エサウが受けるはずのものを手段を択ばず自分が奪い受け取る

   エサウの弱点を突き  父イサクをだまし

  自分が良ければ良い 彼は、大きな落とし穴に落ち込んだ。

   自分で掘った落とし穴に自分が落ちてしまった。

 お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。29節 これからはイスラエルだ

  「神は闘う」「神と闘う」(聖書協会共同訳)、「神は戦う」「神と戦う」(新改訳2017) 「イスラエル」(ヘブライ語)は「神は勝利される」、「神は争われる」  神と闘う、戦う  神は闘う、戦う

  神が闘ってくださる。

   ヤコブよ、今まではあなたは自分で戦ってきた。 自分の力で、知恵で、策で戦ってきた。 自分が前面に立って戦ってきた。 これからは、神が前面に立ってくださる。

 目の前の事柄、目の前の相手、人  神が前面に立ってくださる。 神が闘ってくださる。

*ヤコブの姿変わり

  次の日の朝 兄エサウと400人の者たちの姿を見て、ヤコブは一番後ろから一番前に進み出た。兄のもとに着くまで七度地にひれ伏した。

  20年前の出来事 申し訳なかった。

  兄の怒りはもっともだ、 兄の仕打ちを受けよう。 覚悟は決まった。

  神が共にいて闘ってくださる。 神のみ手にお任せしよう。

  すると不思議なことが起きた。

  エサウは走って来て、ヤコブを迎え、抱きしめ首を抱えて口づけし、共に泣いた。 兄エサウが赦してくれた。

  ヤコブは、心からの贈り物をエサウに差し出した。

  兄との和解。なんという幸い。 もう、恐れなくても良い。恐れから解放された。

  

★主に信頼し 祈る  

   主に信頼して進みましょう。

   主は守ってくださる、助けてくださるお方です。

   いろいろなものにより頼むに増して、主に依り頼みましょう。

  祈りを主に捧げつつ。

   時に主にすがりつくようにして、祈り歩みましょう。

 

1月9日() 聖日礼拝  説教メモ

    「神の国を受け継ぐ者」  コリントの信徒への手紙一6章1―11節

 

①1-7節 

6:1 あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。

6:2 あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。

6:3 わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。

6:4 それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。

6:5 あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。

6:6 兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。

6:7 そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。

★争い

  私たちの社会で、必ず起こるものの一つ それは争いです。

  人と人が争い合う。 喜ばしいことではなく、悲しいことです。

  あることで争いが生じる。 相手が間違っている。相手の方がおかしいと 

言い争う、対立する。その争いは、少しずつ激しくなる。 

  それぞれの主張がありますから、対立が起きることは時に仕方がないこともある。

 でも、争いは、決して喜ばしいことではないことを心にとめたいと思います。 

  対立を深めていくことに

 

★争いはどこに向かうか

  自分の主張を繰り返す、 相手も自分の主張を繰り返す。

 どちらが正しいか、白黒をつけねばと

  強引に力でねじ伏せることは最低なこと

  白黒をつけるために、他の人に訴える、裁判の場でと。

  コリントの教会の中で、そのようなことが起きていた。

  教会の中で、信者同士で収まらないので、未信者を巻き込んで、教会外の人を巻き込んでの事柄になっていた。

 それに対しての使徒パウロのコメント

自分たちで解決できないで、それを、信仰を持っていない人までも巻き込んで、争い合う。裁判をしてでも、白黒をつける。 どちらが正しくて、どちらが間違ってるか。裁判は、多くの人を巻き込む。

 それぞれの主張、証拠を出し合う。 証人さえも立てる。

 裁判は、公のこととなる。 ああこのような争いが起きているのだと、多くの人が知ることになる。

その争い、対立

  当の本人たちも決して喜ばしいことではないが、そのことを知った人たちにとっても喜ばしいことではない。

  白黒をつけずにうやむやにして良いということではありません。

 争い、対立の激化 それは、人の心を暗くします。

コリントの教会の中で起きていた出来事に対して、パウロは諫めている。

 

★争いは、長引き冷たくなる。

  争いは、長引くことになる。 互いに対立、 相手を敵と思う

  関係は冷えて行き冷たくなる。 悲しいこと

 

★争いをやめ、和解へと

自分の間違いにも、目を向ける。 争いはできれば、和解に向かえば一番良い。

  互いの主張を受けとめ合い、和解する。

  

★不義を受けること

  間違いを引き受けること、簡単なことではない。

  自分の間違いを認めることは勇気が必要です。

  まして、自分が間違っていないのに、相手が勝ち誇る。相手の主張が通る。

  苦しい、悲しい。 不義を甘んじて受ける。

   白黒はつかない。 自分が黒を受け取る 相手は白

   自分がみじめになる。 奪われるまま 悔しい思い

  パウロは不義を甘んじて受けなさいと、奪われるままでいなさいと

  時に周りの人からも後ろ指をさされる。 相手は勝ち誇る

  

★争いの終わり

  争いが終わる。 平和が戻って来る。

  自分は黒を引き受けた。 でも、主はご存じです。

  白であるのに、黒を引き受けたことを。

  争い、対立が終わる。 そして、新たに歩み出す。

  黒を引き受けさせられたではなく、自ら黒を引き受けた。

  主が望まれること 争い、対立を続けることではない。

   証しの立たないことをいつまでも続けることはできない。

  主が真実をご存じである。人がどう思おうとも、構わない。

 主の御心がなされるように。 主がほめたたえられるように。 主に栄光あれと 主のご支配を指し示す。

 

★誰かが大変なことを引き受ける

 誰かがあえて大変なことを引き受けることがある。

 黙って引き受ける、強制されてではなく、いやいやながらではなく、進んで引き受ける そのことで、大事なことが守られることがある。

 時に、人が引き受けないこと

 自分がみじめになること でもそのことで、主の御心がなされることがある。  

 誰が、貧乏くじと思われることを引き受けるか

 主よ、この私が引き受けます。

 主は、ご存じである。 主は支えてくださる。 栄光を現してくださいます。 

 

②8-10節

6:8 それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。

6:9 正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、

6:10 泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。

 正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。

 人が陥りやすい不義(正しくないこと) 今日の聖書箇所で取り上げられていること

 

正しくないこと

 正しいことと正しくないことは確かにある。

 何をもって正しいとするか、正しくないとするか

  自分の感情で、自分の思いで、その判断の分かれ目とするか

  自分の感情、思いは極めて移り替わりやすい。 自分中心

  決して、判断の基準とはならない。

 世の中の流れで決めるか

  世の中は大きく変わる。世の中の考え方はどんどん変わる。 決して判断基準とはならない。

 多数決で決めるか

  数の力で決めるのは、策の力でも動くし、決して判断基準とはならない。

 正しい、正しくないと人の前ではなく、神の前での事柄。

 神が良しとされるか、良しとされないか

 

・みだらな者  私たちは、淫らことにはまっていきやすい。

・偶像を礼拝する者  私たちは、偶像を拝みやすい。

・姦通する者、男娼、男色をする者  私たちは、姦通する者になることがある。男娼、男色をする者になることがある。

・泥棒  私たちは、泥棒になることがある。 人のものを自分のものにする。神のものを自分のものにする。 本来は、神にお返しすべきもの、捧げるべき者なのに、そうしない。 神から多くのものを与えられながら、それに対して、ほんの少しで良しとしてしまう。

・強欲な者  私たちは、欲に動かされる。 これも欲しい、あれも欲しい。 もっともっと  自分の願うことを手に入れなければ。 欲が欲を産む。

・酒におぼれる者  私たちは、時に酒におぼれてしまう。 酒なしでは生きていけない。  自分をマヒさせるもの それは酒だけで決してない。 ギャンブル、しかり。 薬物、しかり。 自分をマヒさせ、その麻痺された世界にいつまでもとどまらせようとするもの、

・人を悪く言う者  私たちは、時に人を悪く言う。 あの人はとんでもない人だ。 その人の名誉をズタズタにする。

・人の物を奪う者  私たちは、時に、人のものを奪う。

   人の大切にしているものを奪い取る。 自分のものしてしまう。

 それは正しくないこと、それを正しいことをしてはならない。

 それをあくまでも正しいとする者は、神の国を受け継ぐことはできない。

 

③11節

6:11 あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。

◎口語訳

6:11 あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである

◎新改訳

6:11 あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。

 

神の光に照らされて

  自らの姿を明らかにされて 自分自身は、みじめな者、罪人である。

  私は神の光に照らされて罪がある者である。

  このままでは、神の国を受け継ぐことはできない者です。

 

神の光は、救いへと

  この私は、どうしようもない者

  でも、この私に神は光を注ぎ、救いの道を示してくださった。

 

神の愛

 神の愛は、罪ある者を受け入れてくださる。

○ルカ福音書15:11-24

15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』

15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。

15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。

15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

  父なる神、救い主キリスト、聖霊なる神によって

  救いは備えられた。

  招かれ、迎え入れられ、洗われ、神のものとされ、罪赦される恵み

 

★神の国を受け継ぐ者

  罪を赦され、神の子どもとされて生きる感謝

  神と共に歩む幸い

  御国を目指して歩む。

  神の国を受け継ぐ者とされていることを感謝しつつ

 

1月30日() 聖日礼拝  説教メモ

     「結婚に関する勧め  コリントの信徒への手紙一7章1-7節 

 

★コロナ禍の中で

  コロナ感染の広がり、長期化の中で

  不安、恐れ、さまざまな困難 さまざまな制限 大きなストレス 

  ストレスにさらされ続ける、長期化 その中で、精神的にも大変

  そのせいだけとは言えませんが、いろいろな大変な事件、心痛める事件が起きて来ている。 一人一人に助けが必要。 癒し、励まし、支えが必要。

 

★社会を支える基本

  1)国々 世界を考えると 国というものがある。 世界に現在196の国がある その一つ一つの国の存在

  2)企業 大きな企業、小さな企業、・・  

  3)コミュニティ―  いろいろな交わり、共同体

  4)家庭 世帯がある。 夫婦、子ども、・・

  5)個人 一人一人の存在

 

★本日のテーマ

  それは結婚ということ 結婚に関しての勧め

 

★男子と女子

 子ども時代を経て、青年となり、大人となる。

 自分を意識し、他の人を意識する。 自分の性を意識し、他の人の性、異性を意識する。 その中で、出会いがあり、交際することも、また、そののちに結婚することも

 

結婚に関しての基本的な教え

①創世記2:15-25

2:15 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。

2:16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。

2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

2:21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。

2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、

2:23 人は言った。「ついに、これこそわたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼうまさに、男(イシュ)から取られたものだから。」

2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

2:25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

 人は神によって創造された。最初の人アダムとエバ

  エデンの園で、アダムが造られ、その後にエバが造られた。

  アダムと共に歩む者、アダムを助ける者 それはエバであった。

  人が一人でいるのは良くない 共に歩む存在 アダムにとっては、エバであった。 共に支え合う、助け合う。

   夫婦としての歩み 家庭ができた。

   夫婦で、力を合わせ歩む、助け合って歩む。

    仕事をする、休息をとる。食事を作る、食事を食べる。

    毎日顔を合わせ、挨拶をする。 おはよう。お帰り、お休みと

    相談をする これはどうするか、このことはそうしたら良いか

  その夫婦の歩み 続けられていく。 夫婦だけで歩み進むこともある。

  その歩みの中で、子どもが与えられることも、子どもを迎えるということもある

 家庭の歩みがなされていく。 親からの独立 夫婦を単位として進んで行く。

 夫婦で歩むというありかた それは、一つの在り方である。

   そこに主の守りと助けがある。

  しかし、結婚は必ずしなければならないことでもない。

    一人であることの中で、励ましを得て歩むことも。

    友の励まし、支え、 家族の励まし、支え 主の励ましと支え

 

②エフェソ5:24-33

5:24 また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。

5:25 夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。

5:26 キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、

5:27 しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。

5:28 そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。

5:29 わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。

5:30 わたしたちは、キリストの体の一部なのです。

5:31 「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」

5:32 この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。

5:33 いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。

 夫婦の在り方

  妻は夫に従う、夫は妻を愛する この箇所を表面的に読むと、男尊女卑に見える。

  妻は夫に従わねばならない。夫は、その妻を愛する。

 深く読んでいくと

  夫は、自分の気分で愛するのではない。 キリストが教会を愛し、ご自分をお与えになったように。 つまり、キリストが私たちを救うために、ご自身の命をお捨てになったように。 自分の命を投げ出したように。

  結婚の神秘、夫と妻の関係 それは、キリストと教会の関係

   互いに愛し、互いに仕える。どちらかが愛し、どちらかが仕えるという関係ではない。 共に愛し、共に仕える。

 

★今日の箇所での結婚に関しての勧め

①結婚を積極的に勧めているのではない。

  そうせずにはおれない場合には、結婚しなさいと。

◎1-2節  

7:1 そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。

7:2 しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。

 互いに異性を覚え、引かれ合う。

 その引かれ合う思いが強い場合には、結婚しなさいと

 結婚しないまま、男女の関係を持つことは良いことではない。

 正式に結婚して、歩んで行きなさいと

 

②結婚生活の中での互いの距離

  家庭を築く それは喜びであり、感謝である。

  夫婦として歩む中で、一人とは違う様々なことが生じる。

◎3-6節  

7:3 夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。

7:4 妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。

7:5 互いに相手を拒んではいけません。ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。

7:6 もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。

 どちらかが忙しい時、弱った時 カバーする、支え合う。・・

 一人の時にはなかったことも起きてくる

  一人分の食事でなく、二人分の食事を作らねばならない。

  一人の時には何の制約なくできていたことができなくなることも

   自分の思いのままで、出かけ、好きにものを食べ、・・

 好きな映画を観に、自分の趣味に没頭。 自分のやりたいことをやることができた。 結婚したなら、そこに制限がかかる。 好きなようにはできない。 自分の思い通りにはできない。

  相手の思い、願いを受けとめる。 自分の思い、願いだけでは済まない。 相手の思い、願い

   自分とは違う相手 育った環境が違う、考え方、捕らえ方が違う。

  結婚する前は両目で、結婚してからは片目で

   結婚してからは、片目をつぶる必要も出てくる。

 共にいろいろなことができること、大きな喜びである。

  一方で、そのことで、流されることも多く出てくる危険性もある。

  共に出かけ、共にレジャーを楽しみ、共に過ごす。

  相手に引きずられることも出てくる。

  限られた空間の中で過ごす。

   相手(伴侶)が、夜ずっとテレビをつけて見ているとする

  共にずっとテレビを 楽しい時間、そのテレビを見ることで多くの時間を用いる

   疲れてしまい、バタンと休む。 しなければならないことをしないまま

  相手に引きずられることも起きてくる。

 一人の時、自分の時間をきちんと過ごしていた。 読書をすること

  静まって、時をすごすこと

  自分のお祈りの時間

  聖書を静まって読むこと それがいつの間にか、昔のことに

 

 お祈りのために、聖書を読むために、一人静まる時も必要である。

 

 相手の要求、願いを聞き合うことも必要。

  こうしてほしい、自分の願いとは違うことも、聴いていく

  こうしてほしくない それも聞く必要も出てくる。

 ああ、独身の時が良かったということも出てくる。

  それもまた、夫婦になってからの制約の一つ

 

③結婚せず、独りで

  独りでいてほしいと

◎7節 

7:7 わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。

 

★使徒パウロ自身

  生涯、独身を貫いた。 主に仕え伝道者して歩んだ。

 かつては迫害者であったパウロ、との当時の名前は

  復活の主が出会ってくださった。 回心して、クリスチャンになった。

  異邦人に福音を宣べ伝える者として、歩んだ。

  3回にわたる伝道旅行

   伝道の旅、テント作りで生計を立てつつ

   その伝道旅行において、何度も死の危険性、瀕死の重傷も

   家族がいたなら、そこまでできたかどうか

  主に仕える思いをもって、その歩みを貫いた。

あなたたちも、できることなら独りで歩んだほしいと  

○8、39-40節

7:8 未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。

7:38 要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。

7:39 妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります。

7:40 しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。わたしも神の霊を受けていると思います。

 

パウロの真意は

 危機が迫っている中での働き

  再臨の主の時は近い その前に、福音を宣べ伝えねば。 宣べ伝えたい。

○26,29-31節   

7:26 今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。

7:29 兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、

7:30 泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、

7:31 世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。

 限られた時間の中で、主を精一杯証ししたい。  福音宣教に精を出したい

○28,32-34節

7:28 しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。

7:32 思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、

7:33 結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、

7:34 心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。

 

 結婚して、二つ心になる危険性を心にとめて

  夫は妻のことで、 妻は夫のことで  心を遣い過ぎることも

  心が主に向かない 主のことは、第2、第3 優先順位が下がる危険性

 主に心を向けて歩みたい。 歩んでは欲しい。

 

結婚に関しての勧め

 使徒パウロの勧め 主から目を離さないように

 主に目と心を向けつつ、主を証しする歩みをしっかりと

 結婚に踏み出すもの、独身にとどまる者

 それぞれの歩みがあって良い。

 結婚すべきとは言っていない。 それぞれの立場で、置かれているところで

 主を忘れないように、

 主を証しできるようにと

 

 

2月6日() 聖日礼拝  説教メモ

     「愛は造り上げる」  コリントの信徒への手紙一8章1-6節 

  

★生きること

  生きるということは、どういうことだろうか。

その歩みにおいて、出会うことに向かい合って歩むということ。

   そこに喜び、楽しみがある。いろいろなチャレンジもある。

   知らなかったことを知り、さまざまな体験を重ねる。

  それと共に、時に困難を経験する。 難しい問題に直面する。

   その時に悩む、苦しむ。 自分の力で何とか乗り越えようとする。

   頑張り、努力をもって

  もう一つの力、それが励まし。 他の人からの励まし、慰め、支え

   それは、自分の頑張り、努力以上に大きな力になることがある。

  

★励まし、慰め、支え

  それをどれだけ受けてきたことか。

  それを、どれだけしてきたことか、しているだろうか? と問われる。

  そのことを良くしている人 その人は、自分がある人から、他の人から受けた励まし、慰め、支えを忘れない人、心にとめ感謝している人。

   その感謝の中で、自分以外の人に目を向ける、心を向ける。

   困難の中にある人のことを忘れない、心にとめる 何かできないだろうかと心を砕く。 そのような人になりたい。

 

本日の聖書箇所

  自分と他の人の関係  そこにおける神の関わり

  具体的には、偶像に供えられた肉の問題

◎1-6節 

8:1 偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。

8:2 自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。

8:3 しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。

8:4 そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。

8:5 現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、

8:6 わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。

 

コリントの町には、コリント神殿があり、偶像の神々を礼拝する場所があった。

 さまざまな偶像の神々への礼拝が捧げられていた。 その礼拝において、供え物がなされた。そこに供えられるものが肉であった。 貴重な肉

 毎回毎回、特別な供え物として肉が用いられた。 大量の肉

  その肉は、その儀式が終わるとすぐに取り下げられる。

  1)神殿内に、神殿のそばにその肉を料理して提供するレストランに

     その肉は、特別に調理されて美味しい料理に

  2)町の市場に出される。 その肉は市場で売られていた

*厳密に考えるクリスチャンがいた。

 偶像の神への礼拝において、用いられた肉は汚れている。

  神殿内のレストラン、神殿の近くのレストランの肉の料理は決して食べない

  そこで直売されている肉も買わない。

  市場で売られている肉の中で、かなりの割合が、偶像礼拝で用いられた肉である。

  だから市場で肉を買う時には、その区別を厳密にした。

    偶像礼拝の儀式で用いられたものか、そうでないものかの区別がつかなければ、万が一を考えて買わない、食べない。 そのことを厳密に行っている人たちがいた。

  万が一、儀式に用いられた肉を食べたなら、自分の身が汚れる。偶像の神々を認めたことになる。偶像の神々に支配を受けてしまう。 そう考えたクリスチャンたちがいた。

   

*一方、そんなことを気にしないクリスチャンもいた。

  偶像の神々など、人が祭り上げた神々に過ぎない。石や木、金属で作られた者に過ぎない。人が想像して祭り上げたものに過ぎないもの  その神々への礼拝の儀式で供えられた肉は、肉に変わりない。 短い時間の儀式に持ちいられようが、その肉が汚れることはない。

  それを食べたからと言って、自分が汚れることはない。 偶像の神々は、なんの力も発揮できない。

  神殿内のレストラン、神殿近くのレストランでの肉調理 

   そのレストランで平気で食べるクリスチャンもいた。

   直売の肉を買うクリスチャンもいた。

 市場の肉も、区別がつかない。 たとえ偶像礼拝の儀式に供えられた肉であれ

  少しも構わない。 何も気にせずに買い、食べるクリスチャンもいた。

 

 後者のクリスチャンは、強いクリスチャン、知識のあるクリスチャン

  真の神はただお一人。 神々は、造られたもの、祭り上げられたものに過ぎない。

  平気で、その特別なレストランで、肉を食べた。 直売の肉を買った。

  市場でも、何も気にせず肉を買った。

 前者のクリスチャンは、強くないクリスチャン、弱いクリスチャン

  知識も限られていた。 確信が持てなかった。

  偶像の神々の力を恐れた。その影響力を恐れた。

  その肉は食べない方が良い、食べてはいけない。 もし食べたなら、偶像の神々を認めたことになる。 その神々の影響を受ける。 自分自身が汚れたものになってしまう。 天の神さまの子どもにふさわしくないものになってしまう。

 

コリントの教会においてクリスチャンとして歩み出していた人々の中に

 かつて、そのような偶像の神々を礼拝していた人もいた。そこから救い出された。 真の神を知り、偶像礼拝の間違いを知り、クリスチャンになった方々もいた。

 信仰を持って長いクリスチャン、強いクリスチャン、知識を持っているクリスチャン、確信のあるクリスチャンの中で、平気で、神殿内のレストラン、神殿の近くのレストランで肉料理を食べる。  直売の肉を買って帰り、食べる。

 それを見た信仰を持って短いクリスチャン、弱いクリスチャン、知識を持っていないクリスチャン、確信のないクリスチャンの中で、キリスト教信仰を持った後も、

 偶像の神々を認めて良いのだと考える人が出てきた。 信仰のぐらつき

 神殿内のレストラン、神殿の近くのレストランで肉料理を食べる。

  直売の肉を買って帰り、食べる人も出てきた。

  ところが、信仰が強くないし、確信もないので、その肉を食べて、偶像の神々に供えられた肉を食べてしまった。 自分は汚れてしまった。

 偶像の神々にかつて礼拝していた時のことを思い出し、キリスト教信仰が大きくぐらついた。 コリント神殿の近くを歩き回る。 ふらりとその神殿における宗教儀式に加わる。 キリスト教信仰から遠ざかる者も出てきた。

  使徒パウロは、そのことを問題にした。

  自分は大丈夫、確信があり、知識もある。少々のことでは、キリスト教信仰はぐらつかない。 そうでない人たちのことを考えずに歩むことで、他の人たちをつまずかせた。 その信仰をぐらつかせ、失わせることも起きてきた。

 そのようなことがあってはならない。

 

7-13節 

8:7 しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。

8:8 わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。

8:9 ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。

8:10 知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。

8:11 そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。

8:12 このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。

8:13 それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

  弱い人のことを考えなさい。 彼らの弱い良心を傷つけてはいけない。

  それは、キリストに対して罪を犯すことだと

 そのような語ったパウロは、

それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。」と語った(13節)。

 

○6章12節

6:12 「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。

 

◎3節

8:3 しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。

 神を愛する人

  神の愛を知り、神を愛する、神に感謝して歩むようになった。

  神を仰ぎ歩むようになった。

  そのようになったのは、神に覚えら導かれたからだ。

 キリスト教信仰を持つ前から、神によって知られ、導かれたからだ。

 信仰が立派とか、強いからではなく、主イエスの十字架の命の犠牲があって、贖いだされ、罪の赦しをいただき、救われた。 神の愛の故である。

 その神の愛、キリストの犠牲、聖霊なる神の導きの故

  そのことをどんなときにも忘れないように。

 

◎1節

8:1 偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。

①知識は人を高ぶらせる。

  知識 それは人を傲慢にする。  自分は大丈夫、自分は確かである。

  信仰を持って長い人は、信仰を持って短い人をつまずかせないようにしなければならない。 その言動が、大きな影響力を持つ。

   

○箴言11:2 

11:2 高慢には軽蔑が伴い 謙遜には知恵が伴う。

○箴言18:12

18:12 破滅に先立つのは心の驕り。名誉に先立つのは謙遜。

知識は人を高ぶらせる。高慢にする。心に驕り(驕り)をもたらす。

  高ぶり 自分ばかりを見て他の人を見ない、他の人を見下す。

   自分はどうだろうかと反省させられた。

 

②愛は造り上げる  

  愛は、自分ではなく、他の人を造り上げる  他の人を大切にする。

  他の人が生き生きと歩めるように。 そのために心を用いる。

  他の人のために、時間を用いる。

   おいしい料理をいただくと笑顔が出てくる。力を与えられる。

   おいしい料理は、誰かによって作られる。

   ぱぱぱとはできない。その食材の買い出し、その下ごしらえ、その料理を作るために相当の時間をかける。 その結果、おいしい料理が出来上がる。

  愛は造り上げる

  どれだけ他の人のことに心を用いて切るだろうかと問われる。

 

○ガラテヤ5:22-26

5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、

5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。

5:25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。

5:26 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

 

○ガラテヤ5:13-14

5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。

5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

 

 聖霊の結ぶ実は9つある。

 その中の第一は愛である。愛の実を結ばせていただきたい。

 愛によって、何をするか?  互いに仕えなさいと。

 

主によって整えていただき、豊かにご支配していただき、造り上げる者になりたい。 自分を造り上げるのでなく、他の人を造り上げる。

 

 

2月13日() 聖日礼拝  説教メモ

   「すべてを耐え忍んで」 コリントの信徒への手紙一9章12-18節 

 

★日々の歩みを支えるもの

  日々の生活を支えるもの 様々なものがある。

  1)食事 三度の食事 お腹を満たす エネルギー

  2)睡眠 夜の眠り、時に午睡

  3)運動 散歩、身体を動かす

  4)読書、ドラマ、・・  それらを得て日々を歩む  

その中で、体の健康は大事 健康を害していたり、体調が悪いと、上記のことも心から楽しめない、味わえない。健康を維持しつつ、整えてつつ、支えていただいて。

 

★歩みを支えてくれるもの

  家族 食事を用意してくれる、洗濯をしてくれる。 共に食卓を囲んでくれる。 日常の中で、会話をする それがなかったら寂しい

  ヘルパーさん いろいろな用事をしてくれる 

  友達

   自分のことを心配してくれる。励ましてくれる。電話をかけてくれる。

   訪問してくれる。覚え祈ってくれる。

  今生きている家族、友だけでない

   かつて共に歩んだ家族、友 既に天に帰って行った。

   でも、かつて共に歩んだ思い出、励まされたこと、耳に残っている言葉、その笑顔 時に済まないと思いつつ思い出すことも

   もっとできたのではないか、お返しは何もできなかった、あの時こうすれば良かったと悔やまれることも でも、その方は、自分を、自分の家族を励ましてくれた、応援してくれた。 ありがたいことだったなあと思いだす。

  あの人のように、あのご夫妻にように少しでも歩みたいと思う。 時に思い出す。

 

★本日の聖書箇所

 「すべてを耐え忍んで」 耐え忍ぶ

  耐え忍ぶ 2つの場合がある

   1)いやいやながら もうたまらないと  2)喜んで 感謝しつつ

  使徒パウロはどっちだったのでしょう?

◎12-18節 

9:12 他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。

9:13 あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。

9:14 同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。

9:15 しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。

9:16 もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。

9:17 自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。

9:18 では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。

 いやいやながら いやでいやでたまらない、もううんざりだではなく、 感謝しつつ、喜んで、笑顔を持って

 

★具体的にどのような歩みであったのか

 権利を用いなかった。

 当然用いて良い権利、自分にはこれを用いる権利がある。

その権利とはそのようなものだったのか?

○4-7節

9:4 わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。

9:5 わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。

9:6 あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。

9:7 そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。

 ・食べたり飲んだりする権利

   自分の食べたいもの、飲みたいものをお腹いっぱい食べる

   それを探し求めて旅行する

 ・結婚して、伴侶と共に歩むこと

   家庭生活  家族と共に出かける、家族旅行

 ・生活の資を得るための仕事をしなくてもよい

   伝道者パウロは、いわば 戦争に召集された兵士 ぶどう畑で働く者 羊の群れを世話する者、兵士はそれ以外の仕事はしない、自費で自分の必要を賄わない ぶどう畑では働く者 ぶどうを  羊の群れの世話 羊の乳を時に呑む

使徒パウロは

 それらの権利を用いなかった。

  独身を貫いた 自ら 主に専心、仕えるために

 コリントの教会から、生活のための謝儀を受けなかった、受け取らなかった。

 自らは、テント(当時の住まい)を作る仕事をしつつ、宣教活動に励んでいた。

  コリントの教会には、さまざまな問題、課題があった。

  それらのことに取り組みつつ、教会の歩みが引き上げられるようにと仕えていた。

 教会からの謝儀は受け取らなかった。

  受け取るならば コリントの教会の中に、間違って考える人がいた。

  自分たちが、生活の必要を満たしているのだ。 自分たちの願う通りに、してもらいたい。 自分たちの意に反することはしてもらったら困る。

  自分たちが養っているのだ、だから、自分たちが主人だ

   僕の言うことを聞く必要はないと

 そうならないために コリントの教会の人たちが、そのような思いを持たないために パウロ自身を、自分たちの雇っている人と見ないために 神が遣わされた者だ、そのものに聞く必要があると、聴いて行けるように。

  コリント教会は主の教会に引き上げられるようにとの願い、祈り

 パウロ自身 主の御心を大胆に語れるように。

  教会が、主の花嫁としての教会となっていくように。

 そのために、受けるべきものを受けずに歩み通した。

◎12節

9:12 他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。

 すべてを耐え忍んでいます。

 喜んで感謝しつつ、耐え忍んで歩んだパウロ

 

◆平野歩夢育てた父の情熱、800万円借金に車中生活

 スノボード ハーフパイプ

 いつしか息子たちを全力で応援していくと決めた。20年前、歩夢が3歳ぐらいの頃。日本海スケートパークを造った。東京に行かないと練習施設がない時代。村上市の老朽化していた体育館を借り、改修をした。天井は壊れ、電気もろくにつかない。800万円の借金をした。

 すべてが手探りな状況。運転手の仕事や、夜は居酒屋を開いたりしたが、お金には余裕がなかった。息子たちと練習で県外へ行っても、交通費と宿泊費を浮かせるため、1週間は車の中で生活したりしていた。息子たちのビデオを撮るにも、私のリフト代はもったいないから、歩いて雪山を登った。そんなハングリーな生活を積み重ねて、歩夢は中学生の頃から結果を出し、マネジメントも付いて、海外で戦うようになった。

 

キリストの福音のために

  キリストの福音宣教のために

◎16-18節

9:16 もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。

9:17 自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。

9:18 では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。

 

★パウロ自身が経験したこと

○使徒9:1-30

9:3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。

9:4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。

9:5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

9:6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」

9:10 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。

9:17 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」

9:18 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、

9:19 食事をして元気を取り戻した。

9:23 かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、

9:24 この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。

9:25 そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。

9:26 サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。

9:27 しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。

9:28 それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。

9:29 また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。

9:30 それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。

 

○使徒言行11:24-26

11:24 バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。

11:25 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、

11:26 見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。

 復活の主イエスがこの自分に臨んでくださった。

 

 アナニアが遣わされて ダマスコの僕たちが バルナバが

  自分のために、助けの手を、励ましを 自分を友として

 そのことで、目が見えるようになった。命の危機から救い出された。

 仲間に加えられた。そのままにしておかれなかった。  大きな慰め、励まし、喜びを得た。 その背後に主がおられる、主が働いてくださった。

 

★キリストの福音 

○ルカ15:4-7

15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。

 

○ルカ福音書19:1-10

19:9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。

19:10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。

  

○ペトロ一2:22-25

2:22 「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」

2:23 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。

2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。

2:25 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

 パウロ自身 失われた者だった。 その自分を主は見出してくださった。

  死と滅びからのの救い

 

★救いの主を証しする、宣べ伝える

  救いの主を指し示す歩み、働きに専心したパウロ

 そのような信仰の先輩の歩みをと落ちて、祈りを通して、今、私たちはある。

  主に感謝しつつ、歩んでいきたい。歩んでいきましょう。

 

★すべてを耐え忍んで 

 いやいやながらではなく、感謝しつつ、主を仰ぎつつ

 心を込めて一歩ずつ

 一枚の動画 1分ほど 

  雪の積もった巣

  真っ白 そこに少し動く姿 親鳥 じっと  動いたときに、羽の下に卵

   次の場面 2、3週間ほどたって、今度は羽の下にヒナ鳥

  命を生み出すために、つなぐために

 誰かのために何かというよりも

 自分自身が、そのような大きな愛を受けてきた。  

  他の人から、他の兄弟姉妹から、そして何より主ご自身から 

 

  

2月20日() 聖日礼拝  説教メモ

   「福音に共にあずかるために」 コリントの信徒への手紙一9章19-27節 

 

★喜びの連鎖を

  喜びの連鎖ができることを。 

  新型コロナのことで、大変なことが続いています。

  マスクをつけての生活 思い切り話もできない。 話しの時には、互いにマスク 口元も見れない。 相手の表情も見にくい。 

笑い声も少なくなった。 笑い声、笑顔、笑いの口元 互いに分かち合いたい。

 

★助け合い、励まし合い

  互いに助け合うこと、励まし合うこと 豊かにと願う。

  地域社会、 コミュニティにおいて、 職場の中で、

  国の中で、国際社会の中で 実際には、なかなかできていない、反対のことも

 

★福音に共にあずかるために

 使徒パウロの心  主なる神にその心を向けて歩む。

 かつては、その心は自分に向けていた。

  自分は、神の律法を守っている。自分は正しい者だと 優れているものだと

  そのパウロの心は、自分にではなく主に向かうようになった。

  主はこの自分を愛してくださっている。

   愛してくださった。 今、愛されている。

   その感謝の中で、パウロの心は、他の人に対して

 他の人 それは自分との比較の対象ではなく、神から愛されている存在として

 

◎コリント一9:19-27

9:19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。

9:20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。

9:21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。

9:22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。

9:23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

9:24 あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。

9:25 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。

9:26 だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。

9:27 むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。

 

★自分は、こう生きるのだ。

  それぞれの生き方 

   人は当てにできない。 人は当てにしない。

   自分だけが頼り、自分の力を蓄える必要がある、 頼りになるのはお金だ

   そのような生き方もある。

  一方、自分の持っているものを他の人と分かち合う。

   自分だけ良いものではなく、他の人にも良いものを 良いものが手に入ったら、隣り近所の人にもおすそ分け 共に喜ぶ

  使徒パウロは、かつては、自分を高め、立派な人になること、それを維持することに心を用いていた。 ところが、主イエスと出会い、主イエスを信じる者になってからは、他の人と喜びを分かち合う、他の人がより生かされるように、そのことに心を向ける者になった。

 

★ご馳走

  おいしいものを食べる。 ご馳走を食べる。

  一人で食べる時、おいしい、おいしいと たくさんある。 嬉しいと

  そのご馳走がもっとおいしくなるのは、味や量以上に、共に喜び合う時

  一緒にそのご馳走をいただき、おいしいね、・・ と互いの笑顔を見て、喜び合う時、もっとおいしく感じる。

          

★福音の恵みというご馳走

  福音の恵みにあずかる

  その恵み、ご馳走とは 永遠の命を受けて生きる。 主と共に生きる。 すべてを支配しておられる主、 この地上の歩みで共に歩んでくださる主、すべてを満たしてくださる主。

  かつては、どこに向かっていくかわからなかった。 滅びに向かう者であった。 今は、主と共に、主の最善に導かれる。 滅びる者ではなく、御国を受け継ぐ者にされた。

 この地上にあっては、主と共に、その恵みの中を生きる。

 この地上の生涯の後には、、天の御国で、主の直接のご支配を受け、、天の聖徒として生き続ける。

 このご馳走を独り占めにするのでなく、他の人とも分かち合いたい。

 他の人のことに心を向ける。

 

★目の前の相手を覚えて

  目の前の相手の友になりたい。

  そのためには、その相手のことをよく知る。その人の現状、その歩んできた道の  

  り、その人が今心にかかっていること、心配事、悩み、その願望

  それを知るために、その人の友になりたい。 友となって歩みたい。

  かつてのパウロは、その反対だった。 自分の友は、自分

  自分の思いにかなう者だけが友 そうでない人は、友ではない、いや敵だ。

  そのパウロが変えられた。 主によって変えられた。 

◎19-22節

9:19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。

9:20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。

9:21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。

9:22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。

 目の前の相手は、敵ではなく友だ。 主が愛してやまない人だ。かけがえのない人だ その人にも、福音の恵み、そのご馳走が用意されている。

そのことを知ってほしい、そして、そのご馳走に与かり、主と共に歩む幸いに生きてほしい。 それは、神の御思い

 

★ザアカイ

  ザアカイへの主の愛

●ルカ19:1-10

19:1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。

19:2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。

19:3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。

19:4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。

19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

19:7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」

19:8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」

19:9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。

19:10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 かつては、あのザアカイのような者であった。

  ザアカイに会うために来てくださった主イエス

   そして、声をかけてくださった。 家に来てくれ、共に食事を食べてくださった。

   失われた者を救うために 

 

★パウロ自身が主の愛をいただいた

  ダマスコ途上での回心

 ○

★主のご愛は先行する。

  あのヤコブが経験したこと

  兄をだまし、父をだまし、長子の特権を手に入れ、祝福の祈りを受けた

  兄エサウの怒り、 逃げ出したヤコブ そのヤコブに対して

○創世記28:10-22

28:10 ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。

28:11 とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。

28:12 すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。

28:13 見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。

28:14 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。

28:15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

28:16 ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」

28:17 そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」

28:18 ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、

28:19 その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。

28:20 ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、

28:21 無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、

28:22 わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」

 主が臨まれた。 主が大きな憐れみをかけてくださった。

  ヤコブは、20年、伯父ラバンの元での生活。

  やがてエサウとの再会

   あの逃げ出した夜の出来事がなければ、耐えられなかったことでしょう。

  

★神の愛に生かされて

  その愛の中から漏れ出ないように。

◎24-27節

9:24 あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。

9:25 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。

9:26 だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。

9:27 むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。

   賞を得るように歩む

   朽ちない賞を得るために  賞を得ないどころか失格にならないように。

   失格者にならないように 注意しつつ歩む

 

★福音に共にあずかるために

  かつて受けた恵みをどなたかに

  行き詰っていた時に 寂しくしていた時に

   声をかけられた 慰め、励まし その人の声で、励まされた。

    委縮していた心がほぐれた。

    一人の牧師

     讃美の練習 少し遅れてやって来た人に対して、こちらに一緒に

     その人も加わり練習 そして本番

  

 *すべての人の奴隷に

   自由な者なのに、奴隷に  その人の言うことをよく聞く

   できるだけ多くの人を得るため。

 *ユダヤ人のように

   律法に厳格  もともとの歩み もうそこには歩んでいないが

   ユダヤ人を得るため。

*律法を持たない人のように

   律法のことなど、どうでもよい。 神の教えなど、関係ないと

   律法を持たない人を得るため。

 *弱い人のように

   心が弱い。  信仰が弱い。

   弱い人を得るため。

  

★福音に共にあずかる

  福音に共にあずかる  福音のためには、どんなことでもする。

◎23節  

9:23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

 

2月27日() 聖日礼拝  説教メモ

   「偶像礼拝を避けよ」 コリントの信徒への手紙一10章1-22節 

 

★人は好き勝手なことに傾く。

  水が高い所から低い所に下るように。

  自分の都合を優先してしまう。 そのもとにあるのは、自分の思い、願い

 こうしたい。これが欲しい。 自分自身の願望 それに引きずられてしまう。

  

★偶像礼拝を避けよ  

7

10:7 彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。

◎14節

10:14 わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。

 人は、偶像礼拝に傾きやすい

  神でないものを神とする。  勝手に自分で、都合の良い神を祭り上げる。

  自分の直感で、自分の願いをかなえるために。

 偶像とは、何か?

  ・人の祭り上げた神々

  ・石や木や金属で作ったもの

  ・大きなもの 大木、大きな岩、大きな山

  ・太陽や星

  ・お金、 権力、 持ち物

  ・自分自身(自分が王となる、権力者となる)、 自分の願い、野望

  それらのものを神として崇める。

○出エジプト20:1-17

20:1 神はこれらすべての言葉を告げられた。

20:2 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

20:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。

20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、

20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

20:7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。

 十戒の中の4つが神との関係での戒め 後の6つが人との関係での戒め

この第1戒、第2戒、第3戒を平気で破ってしまう。 4つの中の3つを破る

 自分勝手に歩もうとする。  自分の都合の良いものを神とする。

 

出エジプト記の中で代表的な偶像礼拝は、第32章 

○出エジプト記32:1-35

 金の小牛事件

 モーセがなかなか山から下りて来ない。

  モーセは、神より十戒を石に刻んでいただき、持ち下りる途中だった。

  待ちきれない。目に見えるものを神にして安心したい。

  金の小牛を造り、それを神として拝む。

  滅ぼされる寸前 モーセの必死のとりなしにより、滅ぼされずに済む。

 もう一つの代表的な出来事

 それは、民数記25章  ○民数記25:1-18

 ぺオルにおいて、モアブの女性に従って、モアブの異教の神を拝む。

  その時、2万4千人が亡くなる。

  コリント一においては、2万3千人と告げている。

◎7―8節     

10:7 彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。

10:8 彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。

 

★不平不満について

  不平不満を言いやすい、つぶやきやすい。

  良いものを与えられながら、良いものを与えてくれる者に対して。

  すべての良いものをくださる方は、天の神さまです。

  その神様に不平不満を言う。

  イスラエルの民は、出エジプトの後の荒野での歩みで、何かあると不平不満を言った。 どうして、エジプトを出たのだろう。エジプトの方が良かった。

  水がない、食べ物がないと

◎9-10節

10:9 また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。

10:10 彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。

○民数記21:4-9

21:4 彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、

21:5 神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」

21:6 主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。

 不平不満を言った。 その結果、毒蛇にかまれて多くの死者が出た。

  その時にも、モーセを通して助かる道が開かれた。

 

◎20-21節

10:20 いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。

10:21 主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。

 偶像は、石や木や金属に過ぎないのではない。

 確かに作った材料は、石や木や金属 造ったものに過ぎない。

 だから、それらを拝んでも良いのではない。

  その背後に潜む者がある。それは悪霊であると。 悪霊は、人をいつの間にか飲み込む、支配する。 だから、偶像を拝んではならない。

 悪霊にいつの間にか支配される。 あなたの言うことを聞いてあげよう。 でも、いつかはこの自分の支配下に身を置くのだと陥れる。

 だから、偶像礼拝をしてはいけない。

 

★今ウクライナに起きていること

  最も悲しい出来事の一つ

  ロシアという国による主権国家であるウクライナへの侵攻  戦争の仕掛け

 ウクライナの人たちがどれだけ、苦しみと悲しみの中に置かれていることか。

 ロシアの指導者である大統領のプーチンという人物によってこの戦争は起こされた。 

 ロシアでもこの、侵攻、この戦争に反対の人は多い。デモによって反対を唱える人たちは逮捕されている。

 ウクライナの国をロシアの支配下に置こうとしている。

 プーチン氏は、自分たちが行うことに対して、歯向かう国は、核兵器によって、取り返しのつかない眼に会うと警告した。 核兵器の使用をにおわせて、脅すなど言語道断だ。 国際社会への脅しである。

 彼は、偶像礼拝者と言わざるを得ない。 何を偶像としているか

   それは、権力であり、武力である。

   そして、何より、自分自身の思い、願いそれを偶像としている。

 ウクライナに対する侵攻、戦争は、決して許されるべきものではない。

 この侵攻が、一日も早くやむように、この戦争が一日も早く終わるように、願います。

 今回のようなことが許されるとしたら、世界の秩序は壊れ、主権国家が侵され、そこに住む人たちの命も自由も権利も、他の国によって支配され、蹂躙されてしまう世界になってしまう。

 

偶像礼拝をする者は、十戒の後半の6つの戒めをも破るようになってしまう。

 ・あなたの父母を敬いなさい 父母を敬わない。

 ・殺してはならない。  平気で殺す

 ・姦淫してはならない。 姦淫する

 ・盗んではならない。  平気で盗む

 ・隣人に関して偽証してはならない。 簡単にうそをつく

 ・隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」 他の人のもの、他の国のものを欲しがり、それを手に入れようとする。

 

 

★出エジプトの出来事  

 エジプトでの奴隷としての苦しみ  苦役を強いられる生活 悲しみと苦しみの日々 エジプトにおいて奴隷として歩まねばならない。悲しみと苦しみの日々

  そこから、神は助け出してくださった。

 海の間を通って助け出された。 荒野において、食べ物であるマナが与えられた。 飲み水が与えられた。

 その出来事を、私たちの歩みにダブらせて語っている。

 かつては、命の主を知らず、滅びに向かう者であった。

 命の主を知り、その主より遣わされた救い主を知った。

 

◎1-12節  

10:1 兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、

10:2 皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、

10:3 皆、同じ霊的な食物を食べ、

10:4 皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。

10:5 しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。

10:6 これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。

10:11 これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。

10:12 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。

 

岩から水が注ぎ出て、その水を通して命が守られた。 その岩は霊の岩であり、キリストであると。 命の水は、キリストを通して、備えられ、与えられるものである。

○ヨハネによる14:13-14

4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。

4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。

 命の水の与え主を崇めよう。崇め続けよう。

 それを妨げる力が働く。心していようと、気をつけなさいと、それに流される可能性がある。

  

★逃れる道

 試練、苦しみ

  そこに身を置くことがある。

 その試練、苦しみ、そこに身を置いた者でなければ分からない苦しみ、悲しみ

 みじめさ

 今、ウクライナの人たちはそのような中に置かれている。

 国を脱出しなければならない。逃げなければならない。 自分の故郷を後にして。 家を失う。家に住めない。 地下鉄の空間に身を潜めて過ごさなければならない。 町が破壊され、めちゃくちゃにされている。

  一日も早く、解放されますように。 一日も早く平和が来ますように。

 この悲しみ、この苦しみ

  この暗いトンネル、いつまで続くのか?と思う時が私たちにもある。 いつ、出口にたどり着けるのか?

 出口は用意されている。 主は耐えられない試練には合わせないと約束しておられる。

◎13節

10:13 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

 逃れる道を備えていてくださる。

 逃れる道 自分では作りえない中で、主が作ってくださる。備えてくださる。

 その道に導いてくださる。

 主よ、感謝します。耐えられない試練には遭わせないとの約束、感謝します。

 

3月5日() 聖日礼拝 説教メモ

  「今や、恵みの時」  コリントの信徒への手紙二6章1-13節

 

★幸いなこと

 幸いとは、どのようなことか?

  自分の思い通りに事が運ぶこと、自分の願い通りに事が運ぶこと それもそうかもしれない。  では、そうでないときはどうか? そうでないことの方が多いかもしれない。

 思い通りに事は運ばない、願い通りには事は運ばない。

 むしろその反対のこともある。

  それだけならば、なんと不幸な、なんと不運な、なんとみじめなで終わってしまう。

 まさに、それは運が悪い、それは悲しい、それは、何とも言い難い、何ともみじめと思える。

 しかし、そこに助けが与えられるなら、そこに新たな道が開けるならそれは、また幸い。

 

★道が開かれる

 道が閉ざされたと思ったのに、道が開かれた。

  雪道で、高速道は長時間渋滞、その間はつらくてたまらない。でも、半日が、いや1日後、2日後、動き出した。 それは感謝

 高校受験、大学受験

  うまくいかなかった、不合格 なんとみじめ、もうだめだと思ってしまう。

  他の高校、大学を受験  また1年間浪人する、 予備校に通う、自宅での勉強、 そして1年後に進む高校、大学が決まったなら、大きな喜び。

  

★神からの恵み

 神の愛は注がれている。 神からの恵みは豊かに与えられている。

 太陽の光、天からの雨のよう、 私たちを支え生かすもの

 普段、太陽の光、天からの雨の恵みを意識していない。それがなければ生きていけない。

 神の愛、恵みもそのようなもの

1

6:1 わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。

 その恵みを無駄にしてはいけない。

 その恵みに感謝して、その恵みに生かされたい。

 

★使徒パウロの生きざま

 使徒パウロという方の生きざま  想像を絶する歩み  多くの苦しみを経験した。主イエスを信じ、クリスチャンとなる。さらに伝道者、宣教者となる。

 主イエスを宣べ伝える。主の福音を宣べ伝える。

 使徒言行録に記されている通り。 迫害にあった。 苦しみの連続であった。

 苦しみの連続、試練の連続。

  普通、もうだめだ、もう耐えられない。

  なんとみじめなことか、 こんなはずではなかったと嘆く。

 もし自分だったら、どうだろうか。 多分、ああみじめだ、ああ苦しい、ああもうだめだ

  なんと不運な、なんと悲しい、どん底だ、いやだと叫ぶかもしれない。

  こんな人生、こんなつらい人生 ああ、なんとみじめなことかと

 パウロはどうであったか?

◎3-10節

6:3 わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、

6:4 あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、

6:5 鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、

6:6 純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、

6:7 真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、

6:8 栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、

6:9 人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、

6:10 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

 

★苦しみの数々

 多くの苦しみを経験する。 苦しみの連続

6:4苦難、欠乏、行き詰まり、

6:5 鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、

6:8 栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、

6:9 人に知られていないようでいて、 死にかかっているようで、 罰せられているようで、

6:10 悲しんでいるようで、物乞いのようで、無一物のようで、

 苦難、欠乏、行き詰まり むち打ち、監禁、・・労苦、・・ 辱めを受ける 悪評を浴びる

 みじめな状態  迫害の数々 いやがらせ、苦しめられ、石を投げつけられ

 鞭打たれ、牢の中に投げ込まれる

 なんということか、なんというみじめなことかと考える。

 もう嫌だ。もうやめたと考えてもおかしくない。

 もう、この人生を放り投げる、 もうこの務めを放り投げる。

 しかし、パウロはそうしなかった。

 また、普通なら、沈み込んでしまう。ああ、自分はみじめだ、もうだめだ

 ただ、沈み込んだまま流れに任せる。

 悲しみとみじめさの中に閉じこもる。外には出ていかない。自分の殻の中に閉じこもる。  嘆きの日々を過ごす。

 

★パウロはどうであったか?

 パウロ自身も一時的に沈み込むことはあったことでしょう。

 なんと悲しい、なんとみじめと思ったことでしょう。

 しかし、そこにとどまり続けなかった。

 そこから浮き上がってきた。

6:4 あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、

6:6 純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、

6:7 真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、

6:8誠実であり、

6:9よく知られ、 生きており、 殺されてはおらず、

6:10常に喜び、 多くの人を富ませ、 すべてのものを所有しています。

 神に仕える者として歩み続けた  大いなる忍耐をいただいた

 純真、寛容、親切であり続けた 誠実に生きた。 喜んでいた。

 そして、他の人を生かす働きに精出した。 それは、驚くべきこと。

 もう自分のことでいっぱい、いっぱい 他の人のことは知らない、他の人のために生きることなんかできないではなく、他の人に仕え歩んだ。

 決して、沈み込んだままではなかった。 そこから浮き上がり、生き生きと歩んだ。

 

★フィリピの町にて

その一例、一場面

○使徒言行16:16-34

 

  占いの霊につかれている女性から、その占いの霊を追い出してあげた。

 その女性を利用している者たちから苦しめられた。 散々な目にあった

 真夜中の賛美

  最もみじめと思われるときに、神に祈りを捧げ、讃美をした。

  その夜、大地震が起き、看守は、自らの命を絶とうとした。 それをやめさせ、

  主イエスを信じるようにと導き、看守とその家族は、主の救いに与ることができた。

 鞭打たれ、足枷をはめられ、牢の中に投げ込まれる。最悪、最低と思われる出来事

 その中に身を置いた。

 パウロとシラスは、その夜、神に祈り、讃美した。

 

★使徒パウロがそのようにできた秘訣はどこにあったのか?   

 パウロが生かされた秘訣

6:6聖霊、偽りのない愛、

6:7 真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、

6:10 すべてのものを所有しています。

 聖霊なる神に支え強めていただいた。 イエス・キリストの霊である聖霊

 神の愛によって、励まされ生かされていた。 

 真理の言葉 左右の手に持った義の武器

○エフェソ6章17-18節

6:17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

6:18 どのような時にも、に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

 いろいろな言葉が飛び交う現代

 聖書の御言葉に聞く。 御言葉を通しての神の語り掛けを聞く。

 『みことばの光』、 『アパルーム』、 『信徒の友』の日ごとの糧

 『デイリーブレッド』  デボーションの時 主のみ前に静まる時、祈りの時を持つ。 自分は、主によって罪赦され、神の子どもとされたものであることをかみしめる。

 自分が持っているものは限られている。多く持っているようで、ほんの少ししか持っていない。 しかし、主はすべてを持っておられる。

 主は、この私に必要なものを必ず与えてくださる。

 寄り頼む者の祈りに応えてくださるお方。

 その主を仰いで、主と共に生きる幸いを心にとめる。 

 主から離れず、主に近く歩む そこから与えられる恵み、力、満たし

 パウロは、主の愛と恵みによって生かされた。 私たちも主の愛と恵みによって生かされましょう。

 

★これはどういうことか?という経験

 2日(木)、北九州空港に夜8時30分に着いた。 

 8時55分発の高速バスに乗った。

  ニモカのカードがない、乗る時にはあったのに、いくら探してもない。狐に包まれた思い。 やはり見つからない。千円札を小銭に両替して、三萩野バス停で降りる。

 ニモカカードを噴出 お祈りしたが見つからず。

 落ち込んだ気持ちで牧師館につき、休む。

 次の日、もう一度お祈りして、そうだダメもとで、砂津のバスセンターに電話してみよう。 30分くらいして、見つかりましたとの連絡。

 3日(金)午後、受け取りに行った。 手元に戻った良かった。

 どこにあったか、 座席と補助イスの隙間に挟まっていた。 感謝。

 

★今や、恵みの時

◎2節

6:2 なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

 主は、真実なお方 寄り頼む者の願いを聞いてくださる。

 すべてそうなるかというとそうでない時もある。

  願い求めたのに、そのようにならなかった。 そのような時、つらい思いを持つ。 しかし、主は、どこかに行かれてしまったのではありません。

 私たちの祈り、叫びを覚えていてくださる。

 

★過ぎ越しの出来事

 主が、イスラエルの民をエジプトから救い出してくださった出来事

 すべてを支配するエジプトの王ファラオ

 *災い

  ①血の災い、 ②蛙の災い、 ③ぶよの災い、 ④あぶの災い

  ⑤疫病の災い、 ⑥はれ物の災い、 ⑦雹の災い、 ⑧いなごの災い

  ⑨暗闇の災い

 主が、応援してくださった。

 そして、ついに、過ぎ越しの出来事

○出エジプト12:1-36

 主が勝利を取ってくださった。

○イザヤ書53章11節

53:11 彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。

 主イエスの御苦しみ

  その尊い犠牲が、すべての人を生かす。

  主イエスを信じる者を救う。

 主は、いつも、私たちを顧み、助け、救い出してくださる。

 今や恵みの時   主に一歩近づきましょう。

 

3月13日() 聖日礼拝  説教メモ

   「キリストの体と血」 コリントの信徒への手紙一11章23-26節 

 

★命のパンである主

 主イエスは命のパンである。

○ヨハネ6:33-35、58

6:33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。

6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、

6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

6:58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。

 天から下ってきてくださった主イエス

  神のもとからおくだりくださった。 命のパンとして来てくださった。

   その命のパンを食べる者は永遠に生きる。 命を受けることができる。

   天からの命

  私たちに天からの命を与えるためにおいでくださったお方 その方こそ、主イエスさま 天からのパンとなって パンは食べられるためにある。 

  先週、アンパンマンの話を少ししました。

 アニメのアンパンマンは、自分の顔であるアンパンの頬っぺたを食べさせる。

   食べた者を元気にする。

  自分の命を与えるために、来てくださった。 感謝。

  親を思い出すときに

  ほんの少ししか恩返しができなかった。 恩返しはほとんどできなかった。

   親を失って親のありがたさ あのこと、このこと  

    ああ、あれは親の愛だったんだなあと思い出す。

    何のお返しもできなかったね、ごめんね、 でも、本当のありがとうという気持ちになる。 親は、これだけしてやったのに、何のお返しもしなかったとは言わない。 親のありがたさよ。

 

 主イエスは、まさに、ご自身の命を捨ててくださった。 その捧げた命によって、主イエスを信じる私たちに、命を与えてくださった。 なんという感謝でしょう。

 

★主イエスと弟子たち

  主イエスは、弟子たちを愛されました。

  12人の弟子たち、その他の弟子たちを愛されました。 その愛は、最後の最後まで変わりませんでした。

 主イエスは、ご自身が捕らえられ、十字架につけられることをご存じでした。

  弟子たちは、最後の最後、主イエスを見捨てました。 自分たちの命を最優先として、逃げ出しました。主イエスを知らないと言いました。

 しかし、主イエスは逃げ出しませんでした。 エルサレムの町に入っていきました。

  いよいよ、明日、命の終わりがやって来る。この日の終わりに捕らえられ、明日には十字架につけられる。

 その金曜日の前の日の夕べ、主イエスと弟子たちの最後の晩餐、最後の食事

  その最後の晩餐の出来事を聖書は伝えています。

 本日の箇所は、その時のことについて語られている個所です。

○マタイ26:17-30

26:17 除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。

26:18 イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」

26:19 弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。

26:20 夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。

 

26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 

26:27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。

26:28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

 

 

*過ぎ越しの出来事

 遠い昔、イスラエルの民が、エジプトを出る前日、過ぎ越しの出来事が起きた。 主が、初子を打たれる。

初子が打たれないためのただ一つの道、それは、主が定めた通りにことをなす。

  そのことの詳しくは、出エジプト記12章に記されている。

  傷のない子羊の命の犠牲によって、その血を家の入口の二本の柱と鴨居に塗った家の初子は打たれない。

 ・イスラエルの民は、その通りにして、初子は打たれなかった。

 ・そのことを無視したエジプトの家々の初子は打たれた。

 その出来事を通して、イスラエルの民はエジプトを出ることができた。

 その出来事を記念して、過ぎ越しの祭りがなされ、種入れぬパンと苦菜を食べる過ぎ越しの食事がなされた。

 主イエスと弟子たちの最後の晩餐 それは過ぎ越しの祭りの食事であった。

明日、すべてが決する。 その日を前にした前夜、主イエスと弟子たちの最後の食事 種入れぬパンと苦菜が食べられてことでしょう。

 その種入れぬパンを共に食べられた。

○26節

26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 

   これは、主ご自身の体ですとおっしゃった。

  この食べるパンは、過ぎ越しの種入れぬパンである。

   これは、主イエスご自身の体であると 小羊の命である。

 盃の中にはぶどう酒がつがれていた。

  赤い色のぶどう酒 その色は赤色であったことでしょう。

○27-28節

26:27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。

26:28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

 この赤いぶどう酒は、ご自身の血であると。 ドキリとすることを言われた。

  血が流されるということは大変なこと、その血がたくさんであれば、まさに

  命の危機。

   次の日に、十字架刑がなされる。 主イエスの命が奪い取られる。

  敵の勝利に見える出来事。 でも、そうではなかった。

  その流される血は、主イエスの血

  主イエスご自身の命は奪われる、なくなってしまう。 それは、むごく、悲しい出来事  多くの人のために流される血である。大切な契約の血であると

 そのように、主イエスは、最後の晩餐において、弟子たちに語られ、共に過ぎ越しの食事をなさった。

 

★使徒パウロのメッセージ

 その最後の晩餐の主イエスの語られたことの意味は、ここに語っている。

 最後な晩餐において、当然、パウロはそこにいなかった。

 主イエスの十字架の死と復活の後に、主イエスの弟子になったパウロ

 聖餐式の意味を語っている、伝えている。

 

 

◎24節

11:24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

  あなた方のためのわたしの体である。

  あなたたちのために、このわたしは遣わされて来た。 あなた方のために来た。 そして共に歩んだ。 あなたたちと共にいる。 逃げ出さなかった。そこに居続けてくださった。 逃げ出さない。

  そこに共にいることは大変、つらい。

  主イエスは、苦しい時、共にいてくださるお方である。

  苦しみの中にある人と共にいること、そこに身を置き続けることは、普通はできない。 その苦しみが自分にも伝わり、のしかかるからです。

 でも、共にいる。共にいてくださる。 主イエスはそのようなお方です。

  どこかに行ってしまわないお方、見捨てて逃げ出さないお方です。

共に悩み、共に苦しんでくださるお方。

  その体は、鞭打たれ、傷つかれた。ズタズタにされた。

  

イザヤ書53:5

53:5 彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

  彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられた。

彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

  平和が与えられ、癒しが与えられる。

  そのために、主イエスはご自身をささげてくださった。

 十字架の上での苦しみ、そして、その命は取られた。 私たちに命を与えるために。

 

◎25節

11:25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

   血は命の源、本質を意味します。

  血は命そのものである。 主イエスはその御血を十字架の上で流してくださった。 まさに、その命をささげてくださった。 その血、その命によって、弟子たちに、そして私たちに命を与えてくださった。

  罪の赦し、神の子どもとしての命、永遠の命を与えてくださった。

 

*新しい契約とは何か?

 その前に古い契約とは何か?

★古い契約とは

  それは一言でいえば、モーセの十戒

○主エジプト記20:2-17

大切な教え、戒め

 この大切な戒め、契約の締結の時に、血が用いられた。

  特別に聖別された犠牲の動物の血が用いられた。 

○出エジプト24:1-8

24:3 モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。

24:5 彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。

24:6 モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、

24:7 契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、

24:8 モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」

 とても大切な教え、契約となった。

 

○申命記11:27-28,32

11:27 あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、

11:28 もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。

11:32 今日、わたしがあなたたちに授けるすべての掟と法を忠実に守らねばならない。

大切な戒めを守りなさい。

 聞き従うならば大いなる祝福が注がれる。

 聞き従わないならば、呪いを受ける。

 

★新しい契約とは

預言者エレミヤがさし示した新しい契約

○エレミヤ書31:31-34

31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。

31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。

31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 モーセを通して与えられた教え、律法、戒め

  それを忘れてしまう民、それを無視してしまう民

 祝福につながる教え、戒め、律法を破ってしまう。 その結果、呪いを受ける身に。 

*そこからの救いの道

○ヘブライ9:11-22

9:15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。

9:22 こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。

○口語訳9:15

9:15 それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。

 

キリストは新しい契約の仲介者、仲保者となってくださった。

 その命を懸けて、その命をささげて、新しい契約を結んでくださった。

 血を流すことを通して、罪の赦しを備えてくださった。

 

 大切なモーセの十戒を破ってしまう。無視してしまう。破ってしまう。破り捨ててしまう。 その反対のことをしてしまう。

 その結果、悲しみ、苦しみを引き起こす。自らの上に悲しみ、苦しみが引き起こる。 そのことで長く長く、悲しむ、苦しむ。 その暗いトンネルの中で過ごさなければならない。

  この悲しみ、苦しみを打ち破る道を主イエスは打ち立ててくださった。

 

 自分自身が犯した罪を認め、自分自身が罪人であること認め、その自分を救うために、ご自身の命をささげてくださった主イエスを、自分の救い主を信じる者は、罪の赦しを受けることができる、神の子どもとされる。

 新しい契約の締結のために、主イエスご自身の御血が必要であった。

  その流された血によって罪の赦しが与えられる。

使徒パウロは、ここで、最後の晩餐で、主イエスが語られたことを解き明かした。

  

キリストの体と血

  キリストの体と血、それはまさに私たちのために捧げられたものだった。

  捧げられたキリスト体と血によって、罪の赦しが与えられ、神の子とされていることを心にとめなさい。 このことを心にとめて、歩むことが許されている。 この大切なことを心に刻もう。

  ここに生きる道がある。 ここに、悲しみ、苦しみから助けがある。

 このことをなお深く心に刻もう。刻みつつ歩もう。

 その感謝の中で歩んで行こう。

  さまざまな悲しみ、苦しみの中の中にあっても、なおこの主を信じ、仰ぎつつ。

  

 

3月20日() 聖日礼拝(曽根会堂)  説教メモ

     「主に従う道」    マタイによる福音書16章21-28節

 

★道があることの感謝

  人が通るところが道となる。

  今、舗装されている道は当たり前、かつてはそうでなかった。 舗装されていなかった。土が踏み固められて、そこが道 雨が降れば、時にぬかるみに、水たまりが 時にそこに砂利が引かれ、やがて舗装された。

 歩む道があること、 目的地に確実につながる道があることは感謝なこと 

 普段は、あまりそのようなことは考えないが、・・

 

★主によって備えられた道

  天の御国につながる道、 主の足跡が残された道

  主の後姿を見つつ歩む道。 主と共に歩む道

  主に支えられて歩む道 それは、幸いで、感謝なこと

  

★主に従う道

  主イエスに従う道は、どのような道であるか

  そこにおいて、大切なことは何かを知らせていただきましょう。

 

★主イエスが歩まれた道

  この世に、人の子として誕生してくださった。

  神の御子でありながら、その位を捨て、人となってお生まれくださった。

  その生涯は、およそ33年間ほどであった。 およそ30歳の時に、公生涯を歩み出された。 弟子たちを召し、弟子たちと共に歩まれた。 福音宣教の働きに勤しまれた。 その最後は、十字架刑に処せら、殺されてしまった。

◎21節

16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。

  その最後は、非業(ひごう)の死、非業の最期 十字架刑 最もむごい処刑で命を奪い取られた。 罪のないお方が、重罪人のみがつけられるむごい処刑の方法で殺された。

 弟子たちに打ち明け始めた。 弟子たちは、その意味を理解しなかった。

 十字架の死についても、まして、三日の後の復活はさらに、理解しなかった。

自分たちの主人である主イエスが、十字架刑につけられるなどは考えも及ばなかった。

 

*その時ペトロは、どうしたか?

  彼は、止めようとした。

◎22-23節

16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

16:23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

  止めようとした。 否定しようとした。 いつまでもいつまでも、自分たちの主人として歩んでいただきたい。 今の働きをずっと続けてほしいと。

  

彼は、その直前に、主より特別にほめられた。

○マタイ16:13-19

16:13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。

16:14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。

16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。

16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。

16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

 ペトロよ、あなたの信仰の告白は素晴らしいものです。それこそ、まさにその通りです。 わたしは、メシア(キリスト)救い主であり、生ける神の子です。

 わたしは、人間の救いのためにこの世に遣わされてきたのです。

 そのように特別にほめられたペトロだった。

 そのペトロが、主の十字架に進もうとすることを止めようとした。 そんなことがあってはなりませんと

 

*主イエスはペトロをしかりつけられた。

 「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(23節)

 神の御心、神のご計画ではなく、人の思い、人の計画を優先させようとしたことに対して、厳しくとがめられた。

 自分の思い、自分の計画を大事にしたペトロ

 それを優先し、あくまでも進もうとする自分、私たちを覚える。

それが一番良いのだ、これで行くのだ。これが自分の願いなのだ、自分たちの願いなのだと突き進もうとする私たち。

 主は、ペトロの間違いをはっきりと指摘された。 私たちにも時にはっきりと指摘し示される。

 

★人の犯す間違い

 私たちは、時に間違いを犯す。 人間だから時に間違いを犯す。

 でも、その間違いが他の人を苦しめる結果になることがある。

 自分の思い、自分の願い、自分の計画を推し進めようとする。 自分の思い、願いをあくまでも通そうとする。そのことで人が苦しむことになることがある。

 自分の幸福、満足、喜びが、他の人の不幸、苦しみにつながるとしたなら、改めたい。

 

*今ウクライナの地で起きている出来事

  ロシアの大統領の命令によって引き起こされた侵攻、戦争

  ウクライナの国、町、建物は破壊され、人々の命が奪われている。  

  一日も早い解決、停戦となるようにと願います。

◆ロシア軍の砲撃で左腕を切断…9歳女児「事故に遭ったと思うようにしている」 3/19() 9:06配信

 乗っていた車が砲撃を受け、父親と左腕を失ったサーシャさん(ツイッターから) これほど強靱な心を持った9歳児がいるだろうか。

 ウクライナのキエフ郊外で、先週、サーシャさんは、ロシア軍の攻撃を逃れるために家族と避難中、乗っていた車が砲撃を受けた。

 同乗していた父親は死亡。母親と妹、サーシャさんは助かったので車から降りて路上を走った。だが、サーシャさんは左腕を撃たれてしまう。

 ビルの地下に逃れたが、2日間も意識を失ったままだった。その後、ボランティアが彼女を担架に乗せて近くの病院に運んだが、担当した医師は左腕がすでに壊疽(えそ)を起こしていることから、上腕部から切断。サーシャさんは英メディアに語っている。

「ロシア人は私を傷つけるつもりはなかったのかもしれない。なぜ撃たれたのか、分かりません。これは事故だと思うようにしています」

 しかも、9歳でありながら涙もみせず、「泣くのは弱い人間だけ。私は泣きません。 命を救ってくれてありがとう」と看護師に述べた。

 今は花で彩られた義手を装着する希望を持っているという。

  

今回起きているウクライナでの戦争

 とても悲しいことです。一日も早く終わるように。 ウクライナに平和が戻るようにと心から願います。

 いろいろことが絡んでいる。 問題の根は深い。この世界のために、ウクライナのために、世界のために、そしてロシアのためにも良い道が開かれるようにと願います。

 

★主に従う道

 どのように歩むことができるのか?

 こうありなさい、こうであってはならないと主は語られた。

◎24-26節

16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

 

*「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う。」(25節)

  自分の命ほど大切なものはない。 自分の命、願い、願望、計画 

   それが一番大切だ、これをあくまでも通したい、その通りにしたい。

  そして、自分の願いをすべてかなえたいと あれもこれも手に入れたいと考える。 その道は、すべてを失う道につながることがある。

◆よくばりな犬(イソップ物語)

 肉を切り分けていた肉屋さん。ちょっと、力を入れすぎて、大きな肉の塊をテーブルの下に落としてしまいました。

そこをおなかのすいた犬が通りかかり、ラッキーとばかり、肉の塊をくわえて走っていきました。 こら待て、このどろぼう犬め!

肉屋さんはしばらく追いかけましたが、足の速い犬には追いつけません。

犬は町外れの橋の上まで来ました。 「ここまで来れば、大丈夫だろう」

橋の上にはだれもいません。犬はゆっくり楽しんで、肉を食べようと思いました。 その時です。犬がふと、橋の下に眼をやると、何と、もう一匹犬がいるではありませんか。しかもその犬は自分と同じように、いや、自分のより大きくて、おいしそうな肉をくわえているではありませんか。

「よし、おどかして、あの肉ももらってやることにしよう」

犬は大きな声で、ワンと吠えました。 すると、犬がくわえていた肉は川にポチャンと落ち、ブクブク、沈んでいきました。 見ると、川の中の犬はもう、肉をくわえていません。 クーン 犬は寂しそうに鳴きました。川の中の犬は水に映った自分の姿だったのです

 

★主に従う道

  天の御国につながる道、 主の足跡が残された道

  主の後姿を見つつ歩む道。 主と共に歩む道

  主に支えられて歩む道 それは、幸いで、感謝なこと

 主に支えられ、主と共に歩ませていただきたい。

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(24節)

2つのこと

1)自分を捨てて、わたしに従いなさい。

 自分を捨てて 一番むずかしいこと 自分を捨てることは簡単ではない。

  自分の思い 自分のこだわり 自分のプライド 自分の願い 自分のメンツ

 これらが私たちを縛る。不自由にする。 これにこだわる。 これをあくまでも死守しようとしてしまう。

 それらのものを捨てて、 それらを最優先としない。

 主の前に祈って、助けていただく。 それらのものに、こだわり続けるこの私を憐れんで、助けてくださいと。

 

2)自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

自分の十字架を背負って、主に従うとは 自分の十字架、 他の人の十字架ではない。自分の十字架 これが私の十字架ですと言える人は少ないかもしれない。

 でも、何らかの十字架を背負っている。 変えることができないもの

 そこから逃げることはできないこと

 日本に生まれたこと。 両親を通して生まれた家庭、育った時代、育った環境

 自分の健康、自分が今まで歩んできた道、経験したこと、特につらい経験

 それを担いつつ、歩むのですと。

自分に備えられたもの 置かれている状況 それを心にとめ受けとめつつ歩むのですと

 

◆水野源三さん

 長野県埴科(はにしな)郡坂城町に生まれる。9歳の時赤痢に罹りその高熱によって脳性麻痺を起こし、やがて目と耳の機能以外のすべてを失った。話すことも書くことも出来なくなったが、母親が何とか彼と意思の疎通をしようと五十音順を指で指し示したところ、目の動きで応答した。これが47歳で死去するまでの彼の唯一のコミュニケーション能力となる。「瞬きの詩人」と呼ばれるようになったのはそのためである。

病気になってから4年目の12才の時、町の教会の宮尾牧師が訪れ、聖書を置いていった。それを母に頁をめくってもらい、丹念に読んだ源三は、やがてクリスチャンとなる。18歳の時からは詩作を開始し多くの作品を生み出す。その詩風は神への喜びを表す純粋な詩であった。

 12歳の時、近くの教会の牧師との運命的な出会いがあり、洗礼を受けます。

水野さんの詩や短歌の中には、神様に呼びかけ、語り合う作品が少なくありません。

 神様の大きな御手の中で かたつむりはかたつむりらしく歩み

 蛍草は蛍草らしく咲き 雨蛙は雨蛙らしく鳴き

 神様の大きな御手の中で 私は私らしく生きる

お父様を31歳、お母様を38歳、恩師宮尾牧師を42歳で失うのです。

その後、義妹さんの助けを借りながら47歳で亡くなるまで.

宮尾隆邦牧師のこと

 宮尾牧師は戦前に台湾で官吏の子として生まれ、賀川豊彦の影響でクリスチャンとなって献身。しかし任地の教会を戦災で失い、郷里の坂城に帰って生涯を郷里伝道に尽くしました。郷里伝道と言っても教会があるわけではなく、借家での伝道、奥さんが山の中にあった開拓地の分教場で教師をして生活を支えました。坂道の多い坂城で、痛めた足をかばいながらの伝道でした。戦争が終わって間もない頃は、職がない青年を連れてきては食べさせ、仕事のあっせんもしたそうです。「子供の頃は、父はいったい何をしているのかわかりませんでした」と娘さん。

 その宮尾牧師がある時、パン屋をしていた水野家にパンを買いに訪れました。誰もいないと思える店の奥にかすかに人の気配だけがしました。それが源三さんとの出会いでした。田舎のことですから、家族に障害者がいると知れると「先祖の祟り」などと言われ、いろいろな宗教者がやってきて入信を勧めます。なので、水野家の人々は当初宮尾牧師の来訪を喜ばなかったそうです。ところが源三さんだけは喜んで聖書の話を聞き、洗礼を受けました。その後お父さんもお母さんも洗礼を受けました。

 宮尾牧師を通して、水野源三さんが聖書の御言葉に触れ、主イエスの救いをいただき、その証しの歩みをなさいました。なんと幸いなことでしょう。

 坂城栄光教会は、この3月に東京聖書学校を卒業した関戸直子姉の出身教会です。

 

◎26-28節 

16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

16:27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。

16:28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(26節) 心に深くとめたい。

 

★わたしに従って来なさい。

 主に従いつつ歩む者でありたい。

主は共にいてくださいます。 聖霊なる神は、共にあって導いてくださいます。

 私たちの主とは、どのような方でしょうか?

  私たちのために命をささげてくださった方です。

   その命の犠牲を通して、私たちに、命を備え、与えてくださった方です。

*苦難のしもべ

○イザヤ書53:1-12

53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

53:4 彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。

53:5 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

53:6 わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。

53:7 苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。

53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。

53:9 彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに その墓は神に逆らう者と共にされ 富める者と共に葬られた。

53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。

53:11 彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。

53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。

 主は、私たちに平和(平安)といやしを与えるために、この世においでくださった。 そして、十字架の道を歩んでくださった。 そして、十字架の死から3日目に復活してくださいました。 主よ、感謝いたします。

 主が私たちのために貧しくなってくださった。 みじめと思われる者となってくださった。 苦しみを受けてくださった。 侮辱を甘んじて受けてくださった。 主よ、感謝します。

 あなたに感謝します。 あなたに従い続ける者としてください。

 

3月27日() 聖日礼拝  説教メモ

 「全体の益となるために」 コリントの信徒への手紙一12章1-11節

 

★命の芽生え 

  春がやってきました。 寒かった冬が終わり、温かい春が

  冬の期間、寒さに耐えていた動物たち、さまざまな生き物、私たちも、さまざまな植物 じっと春を待つ。 木々の葉の芽が吹き出すとき 山々の色合いも 春を迎えたことを示す色合い やわらかい色 春の草花 小さな花 きれい 目立つところでは、菜の花、桜、 教会の花壇でも、きれいな花々

  春の訪れ 気温が上がり、暖かい日差し、春の優しい風、春を迎えての雨

  寒い所、特に豪雪地帯では、雪解けの水

   さまざまなものによって、命が刺激され、芽を吹き出す。

  昨晩、テレビで、阿蘇の草原の風景、その1年の歩みが映し出された。

  春に一斉に草が伸び出る。 その前に、なされる野焼き

  野焼きによって、枯れていたの高い草がすべて焼かれてしまう。

  その数週間後に、一斉に草が、植物が芽を吹き出す。 そして、一面、緑のじゅうたんが敷き詰められる。命が輝く。 その草原に、放牧の牛が放たれる。 感動があった。

 

★命が誕生し、それが成長すること

 それは、感動です。 その一つの命、その一人の命、その命は周りの者たちに喜びをもたらす。 その命が健やかに成長するようにと祈る。

 新年度、新たなスタート 新しく、小学校、中学、高校、大学、短大、大学、社会人 その歩みが守られるように。

 

★主のご支配

 この世界に私たち人間も生きることを許されて今ある。

 神の創造の御業の中で、その大いなる恵みが与えられている。そのことの感謝

  この世に、命をいただき、歩むことができる。

   その喜び、感謝がいつもあるように。いつも守られるように。

  生きる喜び、感謝を持つことができるように願います。

  生きる喜び、感謝が持てない時がある。それが脅かされる時がある。 それは最も悲しいことです。 生きる喜び、感謝が奪い取られる。それがどこかに吸い込まれてしまう時がある。 主のご支配を願います。助けを、守りを、支えを願います。

  

★今ある危機

 今ウクライナで起きている出来事

  それは、悲しい出来事です。 命が奪われ、命の危機がある。 悲惨なことが起きています。

 これは、ウクライナの人々の危機である、世界の人々の危機であり、ロシアの人々の危機です。 特にこれから、人生を踏み出し始めた子どもたち、若い人たちの危機です。 一日も早く、この危機がすぎさり、助けられることを願います。

 

★主の顧み

 主は、この世界に住む私たちを見て、悲しまれていることでしょう。

 互いに、けん制し合い、互いにいがみ合い、互いに戦う。 そして、互いに苦しまねばならない、大切な命が奪われていく。 生きる喜び、感謝が奪い取られていく。

 そのような私たちに対して、主は臨んでくださっている。

  主なる神は、私たちのために、救いの御手を差し伸べてくださった。

  そして、今も差し伸べてくださっています。

  主イエス様を通して、そして、聖い霊である聖霊、御霊を通して。

◎3節 

12:3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

 神の聖い霊である聖霊が臨んでくださる。 私たちの心に、魂に触れてくださる。 その時に、初めて自分の罪がわかる、自分自身が罪人であることがわかる。 人との比較ではない。 自分自身のうちに罪がある、自分の汚らしさがわかる。  自分が罪人であることがわかる。 自分は裁かれるべき者であり、滅びるべき者であることがわかる。 そのことが示される。

 この自分は、この自分自身こそ罪人である。 神の前で、神の光を受けて

パウロ自身がそうであった。あのダマスコ途上において経験したことを通して。  

 聖霊が臨んでくださり、初めて、自分の罪がわかる。

 どうしたら、良いのですか? もうおしまいです、もうどこにも希望はない。

 その時に、神の差し伸べてくださった御手を心に受け止める。

  この私を助けてください。この私を救ってくださいと叫び求める。

 誰かのせいではない。誰かが悪い、誰かが問題なのではない、この自分こそ、悪い、この自分こそ、問題がある。

 その時、主の十字架を神は示してくださる。 ここに救いがある。 ここに救いの主がおられる。 主イエスこそ、あなたのためにおいでくださった方。

私のために、主イエスは、十字架に架かってくださった。その命の犠牲をもってこの自分を救ってくださる道を用意してくださった。

 この自分は、裁かれるべき者だった。滅びるべき者だった。

 でも、この自分のために、主は命を捨ててくださった。捧げてくださった。

 主イエスよ、あなたこそ、私の救い主です。 私は、主を信じます。 そのような信仰告白に導かれる。

 その時、主の救いが、私たちのうちになる、なされた。

 それは、何よりも大きなこと、何よりも幸いなことです。

 

★全体の益のために

  今朝の説教題です。 「全体の益のために」

◎7節 

 12:7 一人一人にの働きが現れるのは、全体の益となるためです。

◎新改訳

12:7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。

 「みなの益のために」(新改訳)

全体の益のために、みなの益のために霊の働きが現れた。

 それは、具体的には、霊の賜物によって、分かち合われる。

  賜物によって

   賜物 カリスマ カリスが語源 カリスとは恵み、神の愛であり、神の救いを指すことです。

 霊の賜物がそれそれに与えられる。 それは、全体の益のため、みなの益のため 

 

★全体のためには、簡単ではない

  みなのためには、他の人のために、周りの人たちのために、世界の人々のために、他の国の人々のために。 

 号令としてはあったとしても、頭では分かったつもりでも、簡単ではない。とても難しい。 なぜなら、人間である私たちは、自分が大事、自分の家族が大事、自分の国が大事。 それは偽らざることの事実。

 その中で、自分を、自分の家族を、自分の国を優先する。

 それだけではなく、それが行きすぎ、他の人を、他の家族を、他の国を斥ける。 大事にしない、踏みつける、犠牲にしてしまうことがある。

 全体の益など、皆のために 素晴らしいことだが、それはいっぺんに吹き飛んでしまう、 そんなことは言ってられない。 そんなことは知らない。

 自分こそ、自分の家族こそ、自分の国こそということの中で、他の人を、他の家族を、他の国を踏みつけてしまうことがある。

 全体の喜び、みなの喜びのためどころか、そんなことは言ってられない。どうでもよいという風になってしまうことがある。

 そして、大きな悲しみ、嘆きが起きる。

 

★主のご支配、助けによって

 主は、そのために賜物を与えてくださった。

 具体的な内容については、

◎8-10節

12:8 ある人にはによって知恵の言葉、ある人には同じによって知識の言葉が与えられ、

12:9 ある人にはその同じによって信仰、ある人にはこの唯一のによって病気をいやす力、

12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。

    1)知恵の言葉      2)知識の言葉 

  3)信仰         4)病気をいやす力 

  5)奇跡を行う力     6)預言する力 

  7)霊を見分ける力    8)種々の異言を語る力 

  9)異言を解釈する力

 それらが、全体、ここでは主の教会を生かすために用いられる。

 教会において、それぞれ、与えられている賜物がある。 目に見えるものもある。身に見えないものもある。

 私たちの教会の歩みにおいても、その働き、奉仕によって支えられている。

 賜物というと特別なものに目が行きやすいが、そうではない。

 そこには、そのための心があり、捧げられた時間があり、努力がある。

 コツコツを労してしてくださっている働きがある。

 そのために心を用い。祈りを合わせ、自分の持っているものを感謝して捧げてくださっている方々の歩み、働きがある。

 2021年度が終わろうとしている。 支え、守られて来た。

 迎える2022年度 これから、共に心を合わせて歩んでいきたい。

 

★それぞれの持ち味

  それぞれには、その持ち味がある。

  それぞれの人、それぞれの国

  その良い持ち味が大切、他の人が、他の国が持っていない持ち味

 それを認め合うことができたら幸い、素晴らしい。 それぞれが持っている力、良いものがある。

 人で言うなら、いろいろなことをする力、能力がある。 でもそれはほんの一部。 コツコツと自分のなすべきことをなしていくこと、 他の人を大事にする心、 他の人の悩みに寄り添うこと、支えること、・・

 国で言うなら、さまざまな工業製品を創り出す。最先端の技術。でもそれはほんの一部。、 農産物を作る、小麦、お米、とうもろこし、・・  水産物 魚、エビ、カニ、・・  その国独自の文化、思想、・・

 それらを認め合うこと、それらを評価し、感謝する。 どれが立派、どれが良い、悪い、ランク付けせずに

 人も、国も生かされるように その人、その国が持っている持ち味を評価し、感謝する。 それを、無理に自分のものにしようとしない。奪い合うことをやめる。

 私たちは、人も、国も、それそれ、主によって立てられ生かされているのに、

 互いに競い合い、誇り合い、その人、その国の価値を認めない。その良いものを時に否定してしまう。

 その良いものは、その人がその国が持っているから、生き生きしているのに、   その良いものを自分のものに、自分の国のものにしようとすることがある。

 奪い取ろうとしてしてしまうことがある。

 難しいことだが、間違ったときには、すなおに認めたい、引き返したい。

 互いの陣営を作ってしまうことがある。他の陣営に対抗するため そしていがみ合う。そうではなく、それぞれの陣営の意味を受けとめ、互いに尊重し合いたい。 

 

◎コリント一4-6,11

12:4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。

12:5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。

12:6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。

12:11 これらすべてのことは、同じ唯一のの働きであって、は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

   賜物は、神によって与えられるもの、与えられたもの

 賜物を誇り合うのではなく、与えてくださった主に感謝をささげたい。

 聖霊が、主イエスを信じる私たちに良いものを与えてくださる。

  その賜物を感謝して用いたい。

 

★主が歩んでくださった道

 主イエスが歩んでくださった道 それは、苦難のしもべとしての歩み

○イザヤ書53:1-12

 

53:5 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 

53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。

53:11 彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。

53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。

 特に、10節、11、12節

  子孫が末永く続くのを見る そのために、自らを償いの献げ物をしてくださった。 多くの人が正しい者とされるために 私たちの罪を負ってくださった。

 5節 受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられた。  受けた傷によって、わたしたちはいやされた。  なんという幸い、感謝!

 

★全体の益のために

◎7節

12:7 一人一人にの働きが現れるのは、全体の益となるためです。

 一人一人が主によって生かされること そのことがなされるように。

 それなくして、全体の益も、みなの益も起きて来ない。

 主の愛を受け、主のものとされ、主のもとで憩う。 そして、感謝のうちに内に生きる、感謝の中で歩む。 その中で、自分に与えられている幸い、恵み、賜物に気が付く。 その与えられたものを用いつつ生きる。 自分自身が生かされる。

 その歩みの中で、周りの人のことにも心を向ける、他の人、他の国のことにも

 心を向ける。 そして。その賜物を自分のために用いると同時に、他の人のためにも用いる。 全体の益のために用いる。

 そのように、主によって導いていただきたいです。

 

 

4月3日() 聖日礼拝  説教メモ

「共に苦しみ、共に喜ぶ」 コリントの信徒への手紙一12章12-31節

 

★神の創造

 神さまが創造してくださったこの世界

  さまざまの生き物がいる。様々な動物、さまざまな植物がある。

  大きさも、背丈も違う。 花の大きさも、色も違う。

  花壇には、いろいろな花。きれい。

  野外に行くと、郊外、野原、田んぼ、畑に行くと、野の花が咲いている。  花壇の花ほど、華やかさはないが、きれい。  花壇の花より、心を和ませてくれる。ほっとさせてくれることがある。春の喜びを感じさせてくれる。

 いろいろな大きさの花があり、いろいろな色の花があるから、素晴らしい。 世界中が、大きくて立派で、派手な色の花ばかりだったら、一時的には素晴らしいと思うかもしれないが、疲れるかもしれない。 ほっとできないかもしれない。

 感激はあっても、励ましや慰めを感じることはないかもしれない。

  野原の小さな野の花に春の訪れを感じ、慰めを覚える。

 

★そのコミュニティには、必要な人たちばかり。

  学校、会社、病院、・・には、そこにいろいろな働き人がいる。

  病院には、受付の人、会計の人がいる。 看護師がいて、医師がいる。検査技師の人、掃除をする人、さまざまな分担がある。 そのことで、病院の働きはできている。

 

★コリント教会において

  教会においても、さまざまな働き人がいる。

◎28節  

12:28 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。

コリントの教会

・使徒 主イエスと直接出会った人たち

・預言者 御言葉を告げる人

・教師  人に大切なことを教える人たち 教会学校の教師

     大人に対して、子どもに対して

   ・奇跡を行う人 特別な奇跡を行う人

   ・病気をいやす賜物を持つ人 医者のあまりいなかった時代

   ・援助する者 他の人を世話し、援助する人

   ・管理する者 管理部門 物の管理,食料の管理、お金の管理

   ・異言を語る者 

  一人一人に、その特別な力

   最初からうまくできる人もいたし、最初はそうでなかったが、だんだんできるようになった人もいた。 それぞれは、神がお立てくださった。

  目立つ働きもあれば、目立たない働きもある。

 それぞれの働きがあって、コリントの教会の歩みは進んで行った。

  私たちの教会においても、互いに励まし合って、その働きを認め合って進んで行きたい。 それぞれの働きがあって、私たちの教会の歩みは守られている。

  自分ができない多くのところ 今はできていない働き、いつか、自分もどこかの部分を担いたい。

 

★世界の国々

 世界には、大きな国もあれば、小さな国もある。 財政的に豊かな国もあれば、そうでない国もある。 それぞれの国の文化があり、生み出すものも違う。 工業製品を生み出す国もあれば、農産物を生み出す国もある。 それぞれの違いを認め合いたい。それを尊重したい。

 今回、ロシアがウクライナに対して引き起こしたことは、間違ったこと。軍事力を持って、他の国をねじ伏せようとすることは間違っている。

どのような理由をもってしても、他の国をめちゃくちゃにする権利はない。

 一日も早く、今起きていることがやむことを願います。

 今回は、ロシアの国が、特にその指導者、一部の人が強引に引き起こしたこと。 でも、ロシアだけでない、アメリカも、間違った攻撃、戦争を行った。 ドイツも、日本でも。

特に、他の国への侵略、一方的な攻撃。そのことで、他の国の町を破壊し住めないようにする。そこに住む多くの人の命を奪うことは間違ったこと。 争い、戦争は、まさに悲劇。

 尊い多くの命が奪われる。二度と戻らない失われた命。

 私たち人間の身勝手さ、自己中心、自分の考え、見方、考え方がすべてだと考える。 自分の一方的な物差しで事を測る。 私たちの人間の深い罪を思う。

 

★今は、レント(受難節)

 イエス・キリストの歩まれた歩みを心にとめる期間。

 なぜ、主イエスは十字架に続く道を歩まれたのか?

 なぜ、主イエスは、神の位を捨てて人となってこの世に来られたのか?

  十字架の道を通らない方法も、通らない道を選ぶこともできたのに、十字架を通る道を選ばれたのか? それは、ひとえに私たちの救いのため。

 真の神を見失い、自分勝手に歩み、自分が何をしているのかわからなくなっている。 間違ったことをしていても、それが間違っているとわからない。その間違いを認めない。 その結果、他の人が大きな苦しみを味わう、ひいては自分も大きな苦しみを味わう。 自分がどんなの恐ろしいことをしているかわからない、それをやめることができない。 自分を正しいとして、相手を悪いと決めつける。 自分がどうなっていくのかわからない。

ますます、暗黒の世界に進んで行ってしまう。迷いの森に入り込み、出ることがでいなくなってしまう。 それは、まさに罪の恐ろしさ。 その行きつくところは、神の裁きであり、滅びである。

 そうならないために、そこから救うために、主イエスは、この世においでくださった。 神のもとから、私たちのこの世界に。

 払いきれない罪の代価 払うとしたなら、自分の命をもってしか払えない。 主イエスは、ご自身の命を犠牲として、その代価を支払うために、十字架の道を進み、ついに十字架につけられた。

 その主の歩まれた歩みを心に刻むための期間が、このレント(受難節)の時。

他の誰か、他の国を指さすことをやめて、自分はどうなのか、自分の国はどうなのかを静かに振り返りたい。 静かに振り返りましょう。

 

★霊は良いものを与えてくれる

  霊とは聖霊 聖い霊

  霊は何かよくわからないもので、ふわふわしているものではない。

 ◎13節

12:13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

  神の霊、聖霊なる神  父・子・聖霊なる三位一体の神

  最初から存在しておられた聖霊なる神

  命の霊 人に命を吹き込んでくださる聖霊

  その聖霊が、本来の力を発揮されるのは、聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事の後。その前には、主イエスの十字架の出来事、そして復活の出来事が必要だった。

  私たちの内に主イエスの十字架の死と復活を通して与えられる「罪の赦し」、「神さまの子どもとしての資格」、神との交わりの回復が前提だった。 そのことを成し遂げてくださる聖霊のお働き。

 主イエスを、自分の救い主として信じることを通して、信じる者の内に神の霊である聖霊がお住いくださる。聖霊の内住。

 命の霊を内にいただく。 これは、どんな勲章よりも幸いなもの

 聖霊なる神は、命の霊です。 私たちを生かしてくださるお方です。

 主より新しい命をいただいて生きる、歩むことの幸い。

  救いの証印 どのようなことがあっても残される証印

 人が押したものであれば、消し去ることができる。主が押したものであれば、だれも消し去ることはできない。 主イエスを信じる信仰を捨てない限り、聖霊は住み続けてくださる。

 主を信じる信仰がたとえ小さくなったとしても、どこに行ったかと思われても、聖霊なる神は去っては行かれない。

 私たちの信仰を励まし、その歩みを助けてくださる。

その一人の人、私たち一人一人が命を受けるためである。

そして、もう一つのことは、皆一つの体になるためです。 一つの体になる。 キリストという神の家族の一員とされる。

 具体的には、キリストの体である教会の一員となる。神の家族である教会の一員として歩むこと。 その幸いへ導いてくださる。

 神の家族の一員として歩む幸い。

 その神の家族の頭はキリスト。 キリストが主を信じる者を守り導いてくださる。 共に覚え祈り合う。 共に心を合わせ、主を賛美する。共に礼拝を捧げる。

    

★各部分の大切さ

キリストの体である教会において、それぞれは大切な一人一人。

私たちそれぞれの身体になぞらえて語られている。

 手があり、足があり、目があり、耳があり、口がある。頭があり、首があり、胴体がある。 外側だけでなく、内側では、さまざまな内臓もある。

 心臓があり、肺があり、肝臓があり、腎臓がある。

 それらすべてがあって、元気に生活できる。

◎12、14-25節

12:12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。

12:14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。

12:15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。

12:16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。

12:17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。

12:18 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。

12:19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。

12:20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。

12:21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。

12:22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。

12:23 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。

12:24 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。

12:25 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。

 互いに、誇り合うことは間違っている。 自分の器官こそ、優れていると誇ることは間違っている。

 体全体が目だったら、良く見える。でも、耳がなければ、何も聞こえない。

 体全体が耳だったとしたら、良く聞こえる。でも鼻がなければ、何もにおいをかぐことができない。 においを感じなければ、料理の味はがくんと落ちる。 目も大切、耳も、鼻も大切。 手も大切、足も大切。 

 外側の見える部分だけでなく、内側の見えない部分、心臓も肺も、肝臓も、腎臓も、消化器である胃腸も大切。

 さまざまな器官があり、何一つ無駄なものはない。

 体の中で弱く見える部分が、かえって必要です。

 普段意識しない瞼がなければ、たいへん、目玉は乾いて、大変なことになる。 目の表面にある薄い角膜 これが少しでも傷ついたら、目が痛くて目を開けていることもできない。

 弱く見える部分が大切であると。 見栄えの悪いと思われる部分を、見栄え良くしようとする。 見劣りのする部分を一層引き立たせようとする。 小さいと思われる部分こそ大切ですと。

自分は小さなものだから、自分は小さな働きしかできないから、ダメなのだ、不必要だではなく、その一人一人が大切なのだと

 

★「共に苦しみ、共に喜ぶ」

共に歩む。 そのためには心を合わせる・

私たちは、根本においては、自己中心。 自分のことが中心。

 自分の願いを中心に歩んでしまう。

 

◎26-27節

12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

12:27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

  自分中心、自分のことしか考えずに歩んでいたこの自分

 自分のやりたいことばかりを追い求め、好き勝手な歩みをしていたこの自分

 滅びに向かっていることも知らずに、神を無視して歩んでいた。

 その自分を主のものにするために、神の子どもにするために。主イエスは十字架に架かってくださったのです。

 私のために、あなたのために、主イエスは、その命を献げてくださった。

 一人の人が苦しんでいる。一つの国が苦しんでいる。

  皆が共に苦しむ、共に覚え合う、共に支え合う。

 今ウクライナの国の人々が苦しんでいる。 

 今責めているロシアの国は、後になって苦しむことが予想される。

 そうならないように、そのためにも一日も早く、この戦争が終わるように祈りを合わせたい。

 共に苦しみ、共に喜ぶ。

 苦しみからの解放、暗いトンネルからの脱出を共に喜び合いたい。

 一人の人、一人の国が助けられるとき共に喜ぶ。

 

 一人一人の大変さを心にとめ、祈りを合わせたい。

 そして、助けが与えられるように。 希望が広がるように。

 主のご支配、助けをいただいて、そのようにさせていただきましょう。

 

  

4月10日() 聖日礼拝  説教メモ

   「十字架の主イエス」  ヨハネによる福音書19章16-27節

  

★本日は棕櫚の聖日

  本日は棕櫚の聖日です。 主イエスがろばに乗ってエルサレムの町に入られた。 群衆は棕櫚の葉を振り、歓迎して迎えた。 この週の後半の金曜日に、主イエスは十字架刑に処せられ殺された。

  今週は、レント(受難節)の最後の週 受難週です。イースターを前にした直前の週です。

  

★十字架の主イエス

 主イエスは、最後十字架につけられた。そこで命を奪われた。命を失った。

 大きな悲劇、悲しみ でも、最終的には、それで終わりでなかった。 その後には、復活の出来事があった。

  十字架に架けられる 極刑の十字架刑 私たちが仰ぐ主は、十字架につけられた主である。

 

★十字架を背負う

 それぞれの人生において、時に難しい問題を担う。とても難しい事柄を担う。

  それは、重い事柄。 ずっしりと背中に、肩にのしかかる。

 そのことは、長い期間にわたって、自分にとって重荷となる。

 できれば、この大変さから解放されたい、時に逃げ出したいと思う。 でも、なかなかそうならない。 大変だ、つらい。

 

★捕らえられ、裁判にかけられた主イエス

 ゲッセマネの祈りの直後に捕らえられた主イエス。

 何の罪もない方が捕らえられた。 そして、総督ピラトのもとに連れて行かれ、そこで、強引な裁判を受ける。

 そこでの様子は

○ヨハネ18:28-40 

18:28 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。

○ヨハネ19:1-16

19:6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」

19:16 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

 このイエスを十字架につけろと叫んだ群衆 罪のない方を強引に罪あり有罪とした。 鞭打ちの刑 体はズタズタに。

  十字架刑に処するためにゴルゴタの丘へ

  十字架を負わされた主イエス 限界の状態、とても十字架を負うことはできないような中で十字架を背負わされた。そして背負って歩かなければならなかった。 背中に肩にしかかる重い十字架

◎17節 

19:17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。

 

○イザヤ書53:1-12

53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

53:4 彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。

53:5 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

53:6 わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。

53:7 苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。

53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。

53:9 彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに その墓は神に逆らう者と共にされ 富める者と共に葬られた。

53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。

53:11 彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。

53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。

 その十字架の意味は、私たちの病、痛みであった。多くの人の過ちのためであった。 十字架を担いで歩いてくださった主イエス。

 

★十字架につけられた主イエス

 ゴルゴタの丘で、十字架につけられる。 手と足に大きなくぎを打ち込まれる。気絶せんばかりの痛み。 このようなむごい刑に処せられた。

 両側には、二人の者。まさに極悪人

 その二人は、十字架刑以外はないほどの、重い犯罪をなした者たちだった。

 十字架の上のところには、ピラトが命じてつけさせた罪状書きがあった。

  「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と

 

◎ヨハネ19:18-22

19:18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。

19:19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。

19:20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。

19:21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。

19:22 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。

 ユダヤ人の分かるようにヘブライ語 ローマ人にわかるようにラテン語

 ギリシャ人にわかるようにギリシャ語で

   両脇の二人、一人は最後まで、主イエスをののしり続けた。

 しかし、もう一人は、主イエスの前に自らの罪を認めた。

 

○ルカ福音書23:26-43

23:26 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。

23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。

23:34 そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。

23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。

23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。

23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

  

★兵士たちのなしたこと

 主イエスの服を四つに分けて山分け。下着はくじで当たった者が自分のものにした。

 ◎23-24節

19:23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。

19:24 そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。

 くじを引いて分けると 詩篇22編の御言葉の通りに

 

○詩編22:19

22:19 わたしの着物を分け 衣を取ろうとしてくじを引く。 

 この詩編22編には、主イエスが叫ばれ言葉さえ、記されている。

22:2 わたしの神よ、わたしの神 なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。 

 主イエスの服を山分け、下着をくじを引いて自分のものにする。

  自分さえ良ければよい。 苦しみの中にあった主イエスの苦しみなぞは知らない、関係ない。 自分さえ、得をすれば良いと

 私たち人間の罪、どす黒さを思う。

 

★母マリアのことを気遣う主イエス

 最後の最後、母マリアのことを気遣われた。 残される母マリア

◎25-27節

19:25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。

19:26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。

19:27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

  弟子の一人に、母マリアを頼むと

  最後の最後まで、母のことを気遣われた主イエス。

  

★十字架の主イエス

 主イエスの十字架は、わが罪のためなり。

 私の身代わりとなって十字架についてくださった主イエス

 

イザヤ書53:5  

53:5 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

○イザヤ書53:11

 53:11 彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。

 主よ、感謝いたします。

  

 

4月17日() イースター礼拝  説教メモ

   「なぜ、泣いているのか」 ヨハネによる福音書20章11-18節

  

★悲しみから喜びへ

 悲しみから抜け出すことは簡単ではない。 

 なぜなら、悲しみは深いから。 その深い沼から抜け出すことは簡単ではない。 でも、その時は与えられる。 それは、どこから来るのか?

 時の流れで来ることもある。 厳しい冬の終わり。 寒波、雪に覆われて、大変。 季節が春が来れば、その寒波も雪も消えてゆく。

 特別な時の中で与えられる。 主なる神のご支配の中で与えられる。 それは感謝なこと。

 

★マリアの恐れ、悲しみ 

  マリアは泣いていた。 日曜日の早朝 金曜日から数えて3日後の日曜日。

  3日前の金曜日に起きたこと。 主イエスの十字架刑

  一番悲しい日であった。 愛する主が十字架につけられてしまった。

  そして、その命が終わった。

  悲しくて仕方ない。すべてが終わった。 主イエスは取り去られた。失われた。

  もう二度と戻って来られない。

 

★マグダラのマリア

  マグダラのマリア かつて、生きることがつらかった。

   周りの人から指さされた あの女は罪人だ。 とんでもない女だと。

   人の道を外れる歩みもあった。 でも、どうしようもなかった。

  悪の霊に支配され、それによって苦しめられる、惑わされることもあった。

   生きていてよいのだろうか? 生きることが苦しくなっていた。

  そのマリアが、主イエスに出会い、光を得た。 神の愛を知った。

  自分は生きていて良いのだ。 悪の霊に支配されてどうしようもなかったのに、主イエスによって、その支配から解放された。 生きる喜びを見出した。

  流れのままに生きるのではなく、主を見上げ、幸いな道を選ぶことができるようになった。

 

★日曜日の朝、マリアが経験したこと  

  十字架刑から三日目の日曜日の早朝 墓に向かったマリア

  主イエスのご遺体に没薬、香料を塗って差しあげよう。もうできることはそれくらいしかない。 せめてそのことを。

 その時のことについて、1-10節。

〇1-10節

20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。

20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」

20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。

20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。

20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。

20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。

20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。

20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。

20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

20:10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。

 主イエスのご遺体がない。 取り去られた? 大事なご遺体が

 当時の葬りは、遺体を亜麻布に巻いて、岩を掘りぬいて作った墓に安置する。

  その出口はふさがれた。 特別に頑丈な岩でふさがれた。

その岩は、取り除けられていた。 中にはご遺体はない。 亜麻布だけ。

 弟子のペトロともう一人の弟子(ヨハネ)に告げる。

  二人は、墓に駆け付けた。 ご遺体はない。

  何が起きたのか? 生前に主イエスが語っておられたことを思い出した。

 十字架につけられると、そして三日後によみがえると。

  その言葉の意味を思い、そのことが起きたのだと悟った。 

  

 二人がいなくなった後、マリアを墓のところにとどまった。

 そこで、経験したこと。11-18節

〇11-18節

20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、

20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。

20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」

20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。

20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」

20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 白い衣を着た二人の者 それは天の使いであった。

 天使からの語り掛け。 「婦人よ、なぜ泣いているのか」

 主が取り去られた。 どこに持ち去られたかわからない。 戸惑い、悲しみ。

今度は、復活の主イエス

 「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」

 墓の世話をする者だと思った。 

  どこに置いたのですかと尋ねた。

  その時に、マリアよと語り掛けられた。 その時、マリアは「ラボニ」先生と呼びかけた。

 主イエスの言葉

  「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」

 マリアは、主イエスがよみがえられたことを知った。

 主イエスに出会ったことを他の弟子たちに告げた。

 

★死んでしまった主イエスがよみがえられた。

  主イエスは死を打ち破られた。 死は、決してそこから抜け出せないもの。

  強力なブラックホールのようなもの そこに吸い込まれたら決して抜け出せない。 死の世界に閉じ込められる。 だれも、そこから抜け出すことはできない。 ところが、その世界から抜けだされた。 死を打ち破られた。

 死んだお方が、再び命を回復された。

 主イエスのみがそのことをなさった。 死の世界から、この生の世界に戻って来られた。 漂う霊のようなものではなく、復活の体を持って、戻って来られた。

 

★復活の主をなぜ賛美するのか?

  そのような者は今まで誰もいなかった。 死を打ち破られたお方

死に勝利された方。 その方が、弟子たちのもとに戻って来てくださったから。 

 戻って来てくださった。

 その大いなる復活の恵みを、弟子たちにも与えてくださる。主イエスを信じる者たちにも与えてくださる。 復活の初穂になってくださった。 

 それに続くことが許された。 その大いなる恵みに与ることができる。

〇コリント一15:20-21

15:20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

15:21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。

 復活の主は、今も生きておられる。

  その主が、主イエスを信じる私たちと共に歩んでくださる。

  主イエスは、聖霊なる神を主を信じる私たちの内にお住いさせてくださる。

 復活の主の命を受けて歩むことができるゆえに、復活の主を賛美する。

 

★一番悲しいことは死別である。

  愛する者と死別する。 愛する者に先立たれる。 愛する者を置いて先立つこと。 共に歩んできた家族、友と死別する。

  病気のために。 突然の事故で、 突然の災害で

  戦争のために愛する者を失う。 愛する者がむごい死を遂げる。

  悲しみどころではない。 心が張り裂かれる。

 ロシアによるウクライナ侵攻、侵略戦争によって、どれだけ多くの人の命が奪われたことか。 ひどい戦争によって、愛する者の命が奪い去られる。これほど、深い悲しみはない。

 平和な中に、静かな死別の別れもつらい。

 戦争の中で、慌ただしい死別の分かれもつらい。

 この世界において起きる一番つらい事柄

 

★復活の主のご支配の中で

  私たちの手の中にはない死の世界。 手が届かない世界

  主は、この世の世界を支配しておられると共に、死の世界をも支配しておられる。 主のご支配の御手に置かれる。

  天の御国を用意しておられる。

  その主のご支配におゆだねすることが許されている。

  その主のご支配のもとで、この世を生き、天の御国を仰ぎ見ることが許されている。

 

★悲しみ、寂しさ、辛さから喜びへ

  悲しみは深い。 その悲しみはどこから来るのか?

  心の深い所にある悲しみ それは、心の深い所に潜んでいる。

  悲しみの原因 いろいろ

   かつて、自分が経験した悲しいこと 幼い時、思春期に

   かつて、自分に浴びせられたひどい言葉

   今経験していること

  その悲しみ、寂しさ、辛さ、それが心を占める。

  復活の主よ、癒してください。 それらを忘れさせてください。

  それらの悲しみ、寂しさ、辛さが、心を暗くする。 希望がしぼむ。 

  どうすることもできない。 復活の主のご支配の中で、生かしてください。

  喜びの中に歩ませてください。

 

★なぜ、泣いているのか

  泣くほどに悲しいことがある。 泣くほどに悲しい、寂しい、辛いことがある。 泣くほどに恐れがある。 マリアは、ありのまま、泣いた。

  私たちはいかがでしょうか? 自分は決して泣かない、人の前ではそのような弱さは見せない。 でも、心の深い所で泣いている自分がいるかもしれません。  悲しい、寂しい、つらい、恐れがある。

 復活の主は語り掛けてくださる。

 なぜ、泣いているのか? あなたの心の深い所にある悲しみ、寂しさ、つらさ、恐れをわたしは知っているよ。

  わたしには隠さなくても良いよと語りかけていてくださる主。

  わたしがいるよ。 復活の主はやさしく語りかけておられる。なぜ、泣いているのかと 

 わたしは復活の主である。 あなたのそばにいるよ。

 あなたのその悲しみ、寂しさ、つらさ、恐れを取り除いてあげよう。

  喜びを与えよう。 平安を与えよう。

 復活の主のご支配の中で生きる恵み。

 それを確かにいただきつつ、歩むことができるのです。 

 

4月24日() 聖日礼拝  説教メモ

   「平和の主よりの派遣」 ヨハネによる福音書20章19-23節

  

★喜びの日

  願いがかなった日 欲しかったおもちゃを買ってもらった日

 入院していた家族が無事に退院できた日 行きたかった登山ができた日

  大変だった試験期間が無事に終わった。 難しい試験に合格した。

 無事に入社でき、仕事ができるようになった。 

  それぞれの喜びの日、喜びの出来事があることでしょう。

 ウクライナの国に平和が戻る日を願います。 そのために一日も早く戦争が終わることを願います。 破壊尽くされた町々がもとのようになるのにどれだけの日がかかるのか、それでも、回復の時が来ますように。喜びの日が来ますように。

 

★悲しみ、恐れが支配する

  悲しみ、恐れが支配する時がある。 この世界に悲しみと恐れが

  この自分に悲しみと恐れが支配する時がある。

  それぞれの歩みの中で、さまざまなこと

  それを抱えつつ歩むとき、それらが重くのしかかる。 それはつらいこと それでも歩んで行かねばならない。

  反対に、それらから解き放たれる時がある。

  夢の中で、難しい問題、課題 試験があるのに、何の準備もしていなかった。・・ 迷子になって、どう行っていいかわからなくなった。・・

 はっと目が覚め、ああ、夢だった。 ああ夢で良かったと思う時もあります。

  

★現実の歩みにおいて

  現実の歩みの中で、いろいろなことで、心が悲しみ、恐れに支配されることがある。 夢ではない、悪夢のような出来事、大変な出来事

  そして、長い期間、自分に付きまとう悲しみと恐れがあることがある。

  主の助けをいただきつつ、その悲しみと恐れを取り除いていただきましょう。 主に支え、強めていただきましょう。

 

★今日の箇所

  主の弟子たちが経験したこと

  主イエスの十字架刑があった金曜日から数えて3日後の日曜日

  弟子たちに起きたサプライズ 復活の主がおいでくださった。

◎ヨハネ福音書20:19-23

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 もう会えないと思っていた友と出会う。再会 それは大きな喜び

 もうダメだと思っていたことが、そうでなかった。

 もう枯れたと思っていた木が、再び芽を出す。

  レモンの木を植えています。 一昨年、たくさんの実がなった。ところが、昨年は花も咲かない。葉の芽も出ず、緑の葉も茂らない、ああ、これはもうダメかなと考えていた。すると、今年は、葉の芽が出て、今葉が茂ろうとしている。花の蕾もついている。 枯れていなかった。 良かった。

 

★主イエスの弟子たち

  悲しみと恐れの中にあった。

  自分たちが慕い従っていた主イエスが捕らえられ十字架刑に処せられて殺されてしまった。望みは消え失せてしまった。主イエスが奪い去られてしまった。こう帰らぬ人になってしまった。 これからどうなってしまうのか?

 大きな悲しみが心を占めた。

 それだけではない。彼らは少数派 主イエスの弟子たち 人数は限られている。しかも、 多数派はユダヤ人。 大きな力を持っている。

 自分たちは、彼らに比べるならば、少数派、力も乏しい。

 ユダヤ人たちを恐れていた。 その背後にあるローマの権力者たち、兵士たちに対しても恐れを抱いていた。

 弟子たちの心にあった大きな恐れ

大きな悲しみと大きな恐れが彼らの心を支配していた。

 これから、どうしたら良いのか? どう生きて行ったら良いのか? どう生きて行けるのか? 今のウクライナの人たちの心も同じかもしれない。

恐れの心

 それは、目に見える勢力に対してでだけではなかった。

 神に対しての恐れもあった。

自分たちは、主イエスに対して、最後守ることもしなかった。 逃げ出した。

 主イエスが捕らえられた時、助けることをしなかった。

 そうしたなら、自分たちも捕らえられるかもしれない。 逃げた。

 主イエスの弟子であることを伏せた。

自分たちを愛してくれた主イエス、自分たちの最後まで愛を注いでくれた主イエスに対して、 恩をあだで返した。 後悔の念に支配されていた。 

 あんなに自分を、自分たちを愛してくれたのに、それに応えることができなかった。 

 弟子たちは、こう考えたに違いない。

 自分たちは、ユダヤ人たちに捕らえられるのではないか。

 神は、自分たちの取った行動をすべてご存じだ。 主イエスを直接裏切ったイスカリオテのユダは、自ら命を絶った。 自分たちもあのユダと五十歩百歩、同じように主イエスを裏切った。 それに対しては、神の怒りが下るのではないか。下るに違いない。 戦々恐々としていた。

 誰も入ってこれないように、ドアを固く締めていた。そして、その家の中で息をひそめ閉じこもっていた。

 

★弟子たちに起きた出来事

  主イエスは復活された。

 ペトロともう一人の弟子、そしてマグダラのマリア 主イエスは復活された。

  自分たちのところに来られたならば、何と言われるだろうか?

  なぜ、自分を見捨てたのか、なぜ裏切ったのか? 

  あれだけ愛を注いだのに、その愛に報いず、恩に対して仇で返した。

 なぜなのだと詰問されるのだはないか。 神から呪われてしまえと言われるのではないかと

 復活の主は、やって来られた。弟子たちのもとに戻って来られた。

◎19-21節

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

 

★平和があるように

 神の平和 それは神の赦しを意味していました。 呪いではなく、赦し

 神が共にいてくださる。 弟子たちは、驚いたことでしょう。

 呪いの言葉は一切ない。 責める言葉もない。 

 神からの赦し そして祝福

 神さまは、平和の主である。

○イザヤ書9:5

 9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。

 平和の君である主イエスよりのメッセージ 「あなたに平和があるように」

 

★恐れから平安へ

  恐れがある。 恐れが心を支配する。 恐れが心を暗くする。 恐れがあるから、心を身構える。 恐れが、他の人への不信を引き起こす。他の国への不信を引き起こす。 恐れがあるから、他の人を攻撃する、他の国を攻撃する。

 恐れが自分をそのように動かす。 

 恐れが、過剰な自己防衛として、壁を厚くする。 他の人との壁を、他の国との壁を厚く、厚くする。 他の人を、特別な人を、他の国を、特定の国を攻撃する。 悲しい私たち人間の罪

 自分がやったこと、やって来たこと。 人にはなかなか言えないといったこともあるでしょう。なぜあのようなことをしてしまったのか、あのようなことをずっとやって来た。 そのことが自分を責める。 そのことがふと思い出される。

 お前は、立派そうにしているけども、お前の過去にはこのようなことがあったではないか、お前の現在において、人には言えないようなことがあるではないかと、心が責められる。 

 恐れは消えない。 強そうにしているけれども、実は恐れに支配されている。

 自分のこの地位が奪われるのではないか。自分の築いてきたものが突然壊れてしまうのではないか、 自分が獲得したものが、すべて失われてしまうのではないか。 いつも、びくびくしている、不安でたまらない。

 復活の主は、その恐れを取り除いてくださるお方

 「復活の主よ。私の内にある恐れを取り除いてください。

 私の内に平安を与えてください。 平安の中を歩ませてください。」と祈りましょう。

 

★平和の主は弟子たちを遣わされた。

  あなたを赦す。 もう昔のことはすべて水に流す。

  そして、あなたを用いる、あなたたちを用いる。 あなたを、あなたたちを信頼している。 あなたたちは大切な存在だ、 これから、新たに共に力を合わせ、心を合わせて進んで行こうと呼び掛けてくださっている。

◎21節

20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

 遣わされることは栄誉なこと 主が信任して遣わしてくださる なんと栄誉なこ

 父なる神から遣わされた主イエス 

○17章21-23節

17:21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。

17:22 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。

17:23 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。

 

 父なる神から遣わされた主イエスが、救いの御業を成し遂げて、復活の主として弟子たちをお遣わしになった。 そして今、私たちをお遣わしになる。

 

○マタイ28:19-20

28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、

28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

 

○マルコ16章14―18節

16:14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。

16:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。

  主によって、罪赦された者として、恐れを取り除いていただいた者として、歩んでいきましょう。

 主を指し示す。 主こそ、救いであることを証ししていきましょう。

 悲しみを癒してくださるお方 恐れを取り除き、平安を与えてくださった主

 そして、今もその恵みを注ぎ与えてくださっている主を指し示したい。

 遣わされた後にも、悲しみに取りつかれたり、恐れで心がいっぱいになることもあるでしょう。 その都度、主より悲しみを取り除いていただき、恐れを追い出していただき、喜びの回復、平安をいただきつつ、歩んでいくのです。

 

○マタイ28章20節

28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

 主が共にいてくださる。 共にあって、守り助け、導いてくださる。

 絶対に離れないお方、絶対に見捨てないお方、 共にあって守り導いてくださるお方です。

  弟子たちに聖霊を受けよと言われた主は、ペンテコステの日に、弟子たちに聖霊を注ぎ与えてくださったお方です。

 

★平和の主は私たちを遣わされる。

 平和の主であるイエス様は、私たちをこの世に遣わされる。 それぞれの家庭に遣わされる。 その職場、学校に遣わされる。 私たちは、主より遣わされた者。 そのことを感謝して歩んでいきましょう。

 

 

5月8日() 聖日礼拝  説教メモ

  「わたしの羊の世話をしなさい」 ヨハネ福音書21章15-19節 

 

★本日は母の日礼拝

  本日は、母の日です。 母は今も健在ですという方もおられるでしょう。  母は既にこの地上の歩みを終えて天に帰って行ったという方もおられるでしょう。 むしろそのような方の方が多いかと思います。

  母に感謝を捧げる。 そして何より母を与えてくださった天の神さまに感謝を捧げる日として過ごしましょう。

  先ほどは、森田京子姉にお母さんの思い出を語っていただきました。感謝します。

   

★母の日

 今から100年以上前の話、アメリカ・ウェストヴァージニア州にアンナ・ジャービスという女性がいました。

しかし、アンナの母クレア・ジャーヴィスは19055月に亡くなりました。

アンナにとって母との別れは、とてもつらく悲しいことだったんです。

たくさん苦労をかけ、自分を懸命に育ててくれた母の為に、追悼したいと考えたのです。

 ジャービスの死後2年経った1907512日、その娘のアンナは、亡き母親を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会をもち、白いカーネーションを贈った。これが日本やアメリカでの母の日の起源とされる。

アンナの母への想いに感動した人々は、母をおぼえる日の大切さを認識し、1908510日に同教会に470人の生徒と母親達が集まり最初の「母の日」を祝った。アンナは参加者全員に、母親が好きであった白いカーネーションを手渡した。このことから、白いカーネーションが母の日のシンボルとなった。アンナ・ジャービスは友人たちに「母の日」を作って国中で祝うことを提案。

1914年に「母の日」はアメリカの記念日になり、5月の第2日曜日と定められた

 

★母を思い出すと感謝。

  母が家族のために、自分のために愛を注いでくれたこと

  変わらない愛 子どもが母親のことを忘れても過ごしても、母親は子どものことを忘れない。 いつも心に覚えて過ごす。元気でやっているだろうかと思いを馳せる。

  感謝、それと共に、その愛に対して報いることが少なかったなあと後悔する思いが起きる。 「母さん、ありがとう。」

 

★今日の聖書の箇所  

 復活の主と弟子たちの出会い ガリラヤ湖での出来事

 ペトロへの主イエスの語り掛け

◎ヨハネ福音書21:15-19

21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。

21:16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。

21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

 

★主イエスからの問いかけ

  問いかけられる それに応えなければ 主イエスは、ペトロに問いかけられた。 「わたしを愛するか?」と  はい、主よ、あなたは私があなたを愛していることをご存じです。

 その問いは、ペトロにとっては、刺さる問いであった。 なぜなら、ペトロは主イエスを裏切ったから。 裏切るというのは、見捨てるということ。 愛するということと反対のことだから。

 

○ルカ福音書22:31-34

22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。

22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

22:33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。

22:34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

 

○ルカ福音書22:54-62

22:54 人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。

22:55 人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。

22:56 するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。

22:57 しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。

22:58 少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。

22:59 一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。

22:60 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。

22:61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。

22:62 そして外に出て、激しく泣いた。

 

 ペトロは、かつて、どんなことがあっても、どこまでもあなたに従います。あなたを見捨てることは致しませんと語った。

 ところが、主イエスが捕らえられ、命の危機の時に、自分を守るために、この方のことは知りません、関係ありませんと答えた。 私は、この人とは無関係です。この人の弟子ではありません。 主イエスを見捨てた。 知らない、関係ないと

 主が予告しておられたように、鶏が鳴く前に、三度主を知らないというということ その通りになってしまった。

 主イエスは、総督ピラトのもとで裁判にかけられ、有罪とされ、十字架刑の処せられた。

 ペトロの心にずっと刺さっていたこと それは、自分は主イエスを見捨てたこと。 自分を愛してやまなかった主イエス。自分を選び弟子とし、かわいがってくれた主イエス その主を裏切ってしまった。 ペトロの心にずっと刺さっていた。 その主が復活して、自分たちのもとに帰って来てくださった。

  

その主イエスからの問いかけ

 「ペトロよ、わたしを愛するか?」との問い

 しかも、自分が否んだ回数と同じ3回、主は、問いかけられた。

 当てつけだったのでしょうか? 当てつけなら、これほど辛く悲しいことはありません。 でも、実際はその反対でした。

 主イエスによる徹底的な赦しを意味していました。

 ペトロよ、もう、悔やむことはない。悔やむ必要はないと

  主よりの赦し ペトロよ、もう悔やまなくて良いよ。わたしはあなたを赦しているよ。あなたのためにも、あなたの救いのためにも十字架に架かったのだよと。

「赦す、でももう二度と顔を見せるな」ではない。

「赦すけども、あなたにはもう二度と大事な仕事は任せない」ではなかった。

その反対だった。

 「あなたを赦す。これから共に歩んでほしい。わたしが託する大事な仕事を担ってほしい」

 

◎15-17節

21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。

21:16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。

21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

 「わたしの羊を飼いなさい。」、「わたしの羊の世話をしなさい」、「わたしの羊の世話をしなさい」

 あなたは、もう後悔する必要はない、悔やむ必要はない。

 あなたに大事な働きを担ってほしい。

ペトロにとっては、どんなに嬉しいことだったことでしょう。

 主が赦してくださった。 もう悩まなくてよい。

 主が、自分を信頼して、信任して大事な働きを託してくださった。

ペトロにとって、忘れられない日。

 主に従って行こうとする人たち、まだ信仰がこれからの人たち、信仰を持って間もない人たち その人たちの世話をする。

 

★「わたしの羊の世話をしなさい」

  わたしの羊 主イエスの羊の世話  働きを託される それを受けとめる。 幸いなこと 世話をしてあげるではなく、世話をさせていただく。

  仕事を託される。 ぜひこのことを引き受けてください。

  それを引き受けることは、大変さを自分が引き受けることです。 それでも、それを引き受けてくださる。

 教会の中の働きにおいても、ここに手が必要、ここに人が必要というところがある。 自分は関わらないではなく、自分で良ければと引き受けてくださることは大きな感謝。

 

★母の日

  母親は、子どものために自分のできることを進んでする。

  赤ん坊のために、授乳 夜中でも起きて

   オムツ替え

   子どものために、家族のために毎日朝食の準備、夕食作り

    買い物、洗濯、布団干し、・・・

   どれだけ多くの時間を費やすことだろう。

  父親との共同作業もあることでしょう。 それでも、家事に多くの時間を費やす。 子どものため、家族のために

 

自閉症の息子へ、亡き母が残したもの。画家になり羽ばたくまでの日々

 自閉症の動物画家としてフランスの美術展でも受賞し、活躍する石村嘉成さん(27歳)。手のつけられない重度の自閉症だった彼を辛抱強く育てた母親有希子さん(享年40歳)の遺志を継いで、父親の和徳さんが息子と歩んできた道のりが一冊の本になりました。『自閉症の画家が世界に羽ばたくまで』(扶桑社)

 お母さんの有希子さんは嘉成くんが11歳のときにがんで亡くなっています。「息子に向き合った妻の信念が、子育てに悩める人への激励になれば」と、嘉成くんの父・石村和徳さんが語り、有希子さんが残した「療育日記」と併せて、激しくも深い、愛にあふれた1冊です。

 母子おでかけ 自閉症だからこそ、なるべく息子を外に連れ出しました

 まず第一に「自閉症は情緒の障がいではなく、生まれつきの脳の機能の障がいである」ということ。しかしそれは不治の病ではなく、「適切でゆきとどいた療育をほどこすことで、克服できる」ということでした。自閉症と診断され、私は今後の厳しさを思い知らされながらも、「私たちの取り組みしだいで嘉成だって成長できる」と強い希望が見えてきたのです。――(本文より)

 それから、夫妻が最初に努力をしたのは「不親切な親になること」。これまでは、泣きわめき暴れ出したら止まらなくなる嘉成くんをなんとかなだめるためにオモチャを与えたり、抱き上げてあやしてみたり…。しかしそうではなくて、これからは安易に手を差し伸べたりせず、ぎりぎりまでじっと見守ることだと知り、それを実践していったのです。大変な忍耐と努力が必要だったことでしょう。しかし、それはひとりでは生きていけない嘉成くんを「人に好かれる子に育てるため」「親を奴隷にする暴君にさせないため」の大事な決心でした。

 小学校入学時の有希子さんの記録メモ

 療育方針が決まってからは一途に嘉成くんに向き合うことに心血を注ぐ有希子さん。常に嘉成くんにとってなにがいちばんいいかを考え、妥協せず、教材を手づくりし、保育園から小学校も発病までは母子一緒に通い、授業中もつき添いました。

 有希子さんががんの宣告を受けたのは、嘉成くんが小学3年生の秋。入院、手術、放射線治療と闘病が続き、翌年の春にはいったん退院できたものの9か月後に再発。嘉成くんが5年生の初夏、有希子さんは息を引き取りました。享年40歳。

 亡くなる2日前、妻は最後の力を振り絞って嘉成を抱きしめました

――がんの進行はいっこうに止まらず、6月になると妻は昏睡状態になりました。(中略)こんこんと眠り続けていた母が突然目を覚ますと、母の顔をのぞき込む嘉 成のからだをつかみ、強く抱きしめたのです。あのやせ衰えたからだのどこに、あんな力が宿っていたのか(中略)「ヨシくん、あなたはこれからもちゃんと生きていける。これからもずっと、あなたのことを見守っているから」その思いが、動けないはずの肉体を衝き動かしたのです――(本文より)

嘉成くんの療育は、これまでも有希子さんと嘉成くんを支えてきたお父さんの和徳さんに託されました。そこから父子の二人三脚がはじまり、嘉成くんが画家へとなる道へつながっていくのです。

 

★従う道

  従う道 時に困難がある でも、主が最後まで共にいてくださる。

◎18-19節

21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

   時には自分の思い通りではないところへ

  ペトロの生涯 最後まで主に従って進んだ。 従い続けた。

 

★「わたしの羊の世話をしなさい」

  主の語り掛けを受けている。 赦しの中で、わたしに従って来なさい。

  わたしの託する働きを担ってほしいと

 

5月15日() 聖日礼拝  説教メモ

      「約束の聖霊」       使徒言行録1章3-11節 

 

★約束は喜びであり、希望

  約束をすることがある。 約束は、真実な関係の中で交わされる。

  親が子どもに 今度の夏休みには、どこどこに旅行しよう。それは大きな楽しみ 今度の誕生日には、これこれを買ってあげよう。大きな楽しみ

  子どもが大きくなり、遠く別々のところに住むようになる。 今度久しぶりに帰省するから 親は待ち遠しく、楽しみに待つ

 友達同士で 今度のいつか一緒に旅行しよう、今度、一緒に山登りをしよう。

  それも大きな喜びとなる

  今度、必ず一緒にこうしよう。 互いに約束する。 それは、希望となる

  辛い現実があったとしても、その約束を心にとめ、頑張ることができる。

 

★神の約束

  聖書の神は約束をしてくださる方、そして、それを守ってくださるお方

  この世界を、私たち人間を創造してくださった主

  この世界に、人間の内に罪が入り、この世界は混乱、私たちの内に悲しみ、悲惨 その現状に対して、神は見捨てないお方  約束を与え、その約束を守ってくださるお方

  エジプトでの苦しみ、奴隷としての歩み そこからの解放 出エジプト

  約束の地を与える カンナの地に導き、入れられた。

  国が滅び、バビロン捕囚という苦しみの期間 70年を経て、祖国に

  戻ることができた。エルサレムの復興、自分たちの国の復興

  何よりも大きな約束は、見捨てない、助ける、あなたたちの神となるいうこと そして、その最大の約束は、救い主を与える、送る。

  その方は、与えられた、来てくださった。 その方とは、イエス・キリスト

  私たちは、神の約束の中で、生きている。

  主イエスは、この世界に生きる私たちの救い主として、生きておられる。

  その主の恵みのご支配は、今も私たちに与えられている。

  主イエスは、私たちの救いのために十字架に架かってくださった。

  そして、約束の通りに復活してくださった。

 その主イエスは、もう一つの約束をしてくださった。 それこそ、約束の聖霊です。

 

★約束があることは、希望であり、力である。

  必ず、その時は来る。 たとえ、今はつらくても

  ウクライナの人たち 国が破壊され、つらさのどん底 

  でも、必ず、この戦争は終わる、 その時が来る、 そして自分たちの国に戻る 国は必ず復興される 必ず、復興する、復興しよう その時を待ち望み生きている。 その希望さえも消え失せようとする現実 でも、必ずそれをかなえよう、かなう時が来ると信じつつ歩んでいる。

 

★今日の箇所と関係している個所

 主イエスの復活の直後のこと 主イエスの約束を記した箇所

○ルカ福音書24:45-53

24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、

24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。

24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、

24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。

24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

24:50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。

24:51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

24:52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、

24:53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

  十字架から三日目の復活 

  罪の赦しは備えられた。 悔い改めて主に立ち返る者は、罪が赦される。

   さまざまな罪、 あれもこれも、自分を悩ます罪 あのこと、このこと

   もう苦しまなくて良い、罪は赦された

   そして何より、もはやさ迷わなくても良い。 自分は主のもの

   立ち返るべきところに立ち返った。 罪赦され、神の子どもとされた。

 本来、生きるべきところに立たされた。 その中で生きて行くことができる。

  その喜びが与えられた弟子たちに対して、父の約束がある。

   父なる神の約束 幸いなものを送る。

  これを送ってとお願いして、送られてくる場合がある。

   お金を送って、送ってもらう場合もある。 

   お金は送らないけれど、お願いして送ってもらうこともある。  

    親しい関係の親子の間で

  お願いはしていなかったけれど、サプライズでとても良いものを送ってもら うことがある。 それは大きな喜び

 

★神の約束  

○49節  

24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 弟子たちは、やがて主イエスの昇天、すなわち天に帰って行かれる時を経験する ところが、励ましと助けが与えられる。 喜びつつ歩む日々に導かれる。

そのことがなされたそれが今日の箇所のこと

 父なる神の約束 父の約束は、すばらしいもの その方こそ聖霊なる神

 

◎使徒言行録1:3-11

1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。

1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」

1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。

1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。

1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

 復活の主は、40日間、弟子たちと共に歩んでくださった。

そして、その期間が過ぎた時、天に帰って行かれた。 昇天

 その昇天の出来事も記されている。 眼に見える形では、見えなくなった。

 それなのに、讃美があり、希望は失せなかった。 讃美しつつ、希望を持ちつつ歩んで行った。 これこそ、幸いなこと。

 

★自分を支え励ますもの

  自分を支え励ますものは、何でしょうか?

  時に、お金かもしれない、持ち物かもしれない。 時に、過去の思い出かもしれない。 時に、今の楽しみかもしれない。

  しかし、そのお金、持ち物も乏しくなることがあるかもしれない。

  過去の思い出だけでは、やはり悲しいと思う時も来る

  今の楽しみがなくなったということが起きる。 その中で、どう生きていけるのか 弟子たちの課題でした。私たちの課題です。

  自分はどう生きて行けばよいのか、どう生きて行けるのか?

  弟子たちを支え励ましたもの それは主イエスと出会った、そしていろいろな大切なものを教えていただいた思い出だけではなかった。

 その主は十字架につけられて殺されてしまった。 その主は復活して戻って来てくださった。 共に40日歩んでくださった。 しかし、その主は天に帰って行かれた。 その後の歩みは長かった。

 その歩みを支え励ましたもの、お方こそ、聖霊なる神であった。

  生きるためには、生きて行くためには、欠かせないもの、それは希望です。

  内に与えられる希望です。 それは、自分では作り出せないもの

 それを満たしてくださるお方こそ、聖霊なる神

  上から注ぎ与えてくださる方こそ、聖霊  

 

★そのお方は、天の神が与えてくださるもの

  その方を心にとめて、求めることの大切さ

  有名な聖書箇所

○ルカ福音書11:5-13

11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。

11:6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』

11:7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』

11:8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。

11:9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

11:10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

11:11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。

11:12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。

11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(9節)

有名な箇所 求めなさい、探しなさい。たたきなさい、積極的にそうしなさい。

 最後に不思議な言葉

「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(13節)

  聖霊が与えられることは、最も幸いなこと

 

★聖霊を待ちなさい。

◎4節

1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

  父なる神の約束 それは聖霊を注ぎ与えるということ

  弟子たちは祈りつつ待ち、やがて与えられた。

 

★聖霊は力の与え主

◎8節

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 人は力を求める。 しかし、時に間違った力を求める。

  自分だけが立派になる、自分だけが権力を握る、自分が他を支配する。

  それは、魅力的に思える。しかし、それだけを求める時に、その人のみを滅ぼすことになる。他の人を苦しめることになる。

  本当に必要な力は、生きる力、生きる希望

  生きて行くためには、力が必要、しかも、それは、内に満ちる力

   今を生きる力、将来に向けて生きる力

   今を生きる希望、将来に向けて生きる希望こそが必要。

  弟子たちは、その恵みをいただいた。

   だからこそ、讃美しつつ歩むことができた、喜び歩むことができた。

   キリストの証人としての力が与えられた。

 

★昇天の時の出来事

  主イエスは、弟子たちの見ている中で、天に昇られて行った。

  やがてまた戻ってくると約束されて。

◎10-11節

1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。

1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

  

★約束の聖霊

 約束の聖霊は、ペンテコステの日に与えられた。

 弟子たちは、聖霊をいただいた。 私たちも聖霊が与えられている。

 聖霊なる神に導かれて歩んでいきましょう。

 

 

5月22日() 曽根会堂 聖日礼拝  説教メモ

  「わたしに従いなさい」  ヨハネによる福音書21章18-25節 

 

★呼びかけ

  呼びかけの言葉。 おはよう。 ようこそ。 久しぶり。 元気にしていた? と声を掛けられる。 声を掛けられること、嬉しいこと。

 互いに覚え合う。 他の人を覚えて、声掛け。 自分が覚えられて声を掛けられる。 自分は覚えられているのだ。 自分はここにいても良いのだ。 

  そのようなつながりを大切にしたい。

 

★声を掛けられる

  存在が認められている。 必要とされている。

  これをしてほしい、これを担ってほしいと 手伝ってほしい、あなたの手が必要です。 そう言われて嬉しくない人はいない。

 その経験をした一人は、イエス様の弟子の一人となったペトロ

 主イエスに声をかけられ、主イエスの弟子となった。

 

○マタイ福音書4:18-22  

4:18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。

4:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

4:20 二人はすぐに網を捨てて従った。

4:21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。

4:22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

 漁師だったペトロに主は声をかけられた。 わたしについて来なさいと 人間を取る漁師にしようと 魚をとる漁師だったペトロに対して人間をとる漁師にと

 その招きに応答してペトロ

 

○ルカ福音書5:1-11

5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。

5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。

5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。

5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。

5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。

5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。

5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。

5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。

5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。

5:10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

 舟の上で、再び、人間をとる漁師にと招き ペトロは応答した、 主イエスに従った。 主の弟子としての歩み出し。 およそ3年間、主イエスと共に歩んだ。

 

★ペトロの心

  主イエスの弟子となったペトロは、どんなに嬉しかったことでしょう。 どんなに誇らしかったことでしょう。

  自分は、主イエスの弟子だ、最も目をとめていただいている者の一人だ。

  そのペトロの心が深く沈むときが訪れた。

 主イエスが捕らえられ十字架につけられて殺されてしまった。

  喪失感に打ちのめされた。 それだけでない、後悔の念にかられた。

  一番肝心の時に、主イエスを見捨てた。捕らえられた主イエスを三度知らないと言ってしまった。 そう言わなければ、自分は捕らえられたかもしれない。

 そのことが怖く、あんな人とは関係ありませんと答えた。

 主イエスは、強引な裁判にかけられ、十字架刑に処せられた。

 ああ、自分は主イエスを見捨てた。恩を仇で返した。 そのペトロに対して、復活の主イエスは、三度わたしを愛するかと問われ、私の羊を飼いなさいと語られた。 ペトロに対しての徹底した赦し、そして、大切な働きをゆだねると託された。 ペトロはどんなに嬉しかったことでしょう。

 

★本日の箇所

 そのペトロへのさらなる語り掛け

◎18-25節

21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

21:20 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。

21:21 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。

21:22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」

21:23 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。

21:24 これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。

21:25 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

 

★意味深長の言葉

  ペトロは、意味深長な言葉を聞く

○18節

21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

 若い時は自分で帯を締めて行きたいところに行く。

  それは、気分の良いこと、自分の好きなことをする。自分がやりたいことをする。 自分の趣味の山登り、魚釣り、旅行、映画見 これは楽しい。 前の日は、夜なかなか眠れない。当日もウキウキ

 一方、自分が苦手なこと、避けていることがあるかもしれない。

 日曜夜の憂鬱、月曜朝の憂鬱 学校に行かなければならない、仕事に行かなければならない。 部屋の片づけ、たまった書類の整理、難しいお客への対応、・・ 

 年をとると、 他の人に帯を締められ、行きたくないところに連れて行かれる。 行きたくないところに連れて行かれる。 これは大変。

 年をとると、やはり、若い時とは違ってくる。

  若い時には、さっと通りこしていたことがなかなか難しくなる。

 行きたくないところに連れて行かれる。

  行きたいところに自分でいそいそと出かけるのではなく、行きたくないところに連れて行かれる。

 このことをしてください。これを担ってくださいと依頼される。 若い頃は、簡単にできたことも、年をとって、それに取り組むエネルギーが沸いてこない。 負担感が大きい。 難しい問題を任される

 ペトロは意味深長な言葉を告げられた。

◎19節 

21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。 

 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すかようになるかを示そうとしてそう言われた。 言い伝えによると、ペトロは最後の最後まで、主イエスの弟子として歩んだ。 捕らえられ殉教の死を遂げた。 十字架につけられようにして殺されようとしたとき、イエス様と同じようでは申し訳ないと、逆さにしてと願い、逆さ十字架刑にされて殉教したとのこと。

 

★主イエスからのご命令

◎19節b  

21:19このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

 わたしに従いなさいとのご命令 その言葉はペトロ自身にかけられた。

 その時にペトロの心によぎったこと  それは、ある人のことだった。

 

★ペトロが気になっていた人がいた

  それは、弟子のヨハネであった。 12弟子の一人のヨハネ

 気になる人がいるかもしれない。 クラスで、勉強、スポーツでのライバル、

  あの人には負けたくないと思うこともあるかもしれない。

◎20-22節

21:20 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。

21:21 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。

21:22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」

 主よ、この人はどうなのですか?  この人にも、命じられたのですか、この人は、年をとったらどんな道を進むのですか?  気になったペトロ

 それに対して、 22節

 21:22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」

  あなたは、わたしに従いなさい。 わたしは、あなたを選んだ。 あなたの生涯に責任を持つ。 最後まであなたを支える、あなたを持ち運ぶ、あなたと共にいる。

 

★従いなさいとはどういうことなのでしょう?

  従うこということは、従い通すということ

  ある一時的な時だけでなく、ずっと、従い通す。もっと言うなら生涯にわたって従い通すということ。

 ある人について行く。 山登りで、山を熟知したリーダーの後をついて行く。

  自分勝手に歩んだら、迷子になるかもしれない、崖から落ちてしまうかもしれない。 自分勝手ではなく、その信頼するリーダーの言うことをよく聞き、その通りに歩んでいく。

 

★従い通された方々を心にとめる。

 教会総会資料に記した一文 

 「2021年度は、6名の方々が召天しました。皆長年にわたって、教会員として真実を貫いてくださった方々でした。奉仕に励み、捧げものを通しても教会を支えてくださった方々でした。

清水会堂では6月に赤星修一兄、7月に田畑 実兄、12月に桐原静子姉、曽根会堂では8月に桑鶴博之兄、2月に衛藤文子姉、3月に桑鶴 邦姉が召天しました。 長年にわたって共に歩んできた兄弟姉妹が召天し、大きな寂しさを覚えます。その良き足跡を踏みつつ、残された私たちは歩んでいきたいものです。」と。

 赤星修一兄、田畑 実兄、桐原静子姉、桑鶴博之兄、衛藤文子姉、桑鶴 邦姉が

 それぞれ信仰の道を全うされました。 その足跡を心にとめたいと思います。

 

★従うとは、主につながり続けること

  従う秘訣は、どんなことでしょう? 

  頑張り続けることでしょうか? 自分を鼓舞し続けることでしょうか?

  時には、それも必要かもしれませんが、それでは、長続きしません。

 山登りで言うならば、リーダーの言うことによく耳を傾け、その通りにすることです。 信仰の歩みについて言うならば、主から目を離さない問うことです。

 私たちの心の目は、さまざまなことに向きます。 

  あれもしたい、これもしたい、あれが欲しい、これが欲しい、

  それらの願いの中でそれに向かって進むときがあります。その願いがかなうことは大きな喜びです。 それはまた感謝なことです。

 ただし、その時にも、それだけに心を向けて、主から目を離さないということです。 主から目を離さずに歩みつつ、今自分が取りくむべきことに取りくむこと、このことが大切です。

 

★主イエスにつながり続ける

 今の季節

  実が大きくなり始め、食べる時が近い季節

  グミの実、 ゆすら梅、 梅の実、 クワの実、 ビワの実、

桃の実、   ・・

  春に花が咲き、それが実となり大きくなり、食べごろになる 

○ヨハネ15:1-5

15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。

15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

  主に従うとは、主につながり続けること

 主から離れては実を結ぶことはできない。 誘惑がやって来る。

  主から離れて歩んだ方が自由だ、自分の思い通りに歩むのだ、・・

  しかし、その結果は実を結ばない。

 実を結ぶ生涯、それは、主につながり続けること。 真の生ける主、愛の主、祝福の主につながり続ける。

 この主からは離れない。この主こそ、わたしを祝福してくださるお方。

 この方以外のものを主としない。

 

★わたしに従いなさい

  主イエスよりの語り掛け わたしに従いなさい。 主の招き、ご命令

  その言葉を心にとめつつ、歩み通す。 その道に必要なことは主が満たしてくださる。 その主に支え強めていただきつつ、なお、進んで行きましょう。

 

 

5月29() 聖日礼拝  説教メモ

    「祈りつつ待つ」  使徒言行録1章12-26節 

 

★希望に生きる

 希望をもって生きることは欠かせないこと 日々の歩みにおいて、希望は欠かせない。

 お腹が空いてたまらないとしても、後1時間でお昼ご飯を食べることができると思うと我慢することができる。

 コロナ感染が始まり3年目 2年半 さまざまな制限、不便、何より感染したなら大変 マスク生活、人との会話、会食の制限 この不便さ、大変さが明けることを待ち望んでいる。あと少ししたらと希望を持ちつつ

 ウクライナの人たち

  ロシアによって引き起こされた戦争の中に引きずり込まれ

  町は破壊され、苦しみのどん底に いつこの戦争は終わるのか、いつこの苦しみは終わるのか 絶望的な思い それだけでは耐えられない。 きっとこの戦争は終わる。終わりの時が来ることを願いつつ、その日を待ち望んでいる。 その日に対する希望、それなくしては生きて行けない。

 

★希望に必要なもの

 希望に必要なもの それは、その幸いをあくまでも待ち望む心 きっとその時は来ると信じること、信じ続けること その変わらない強い心が必要。

それでも、そのような強い心を持ち続けることは決して簡単ではない。心が折れそうになる。

 その時に、一つのことが大きな力となる。 それは何か、それは約束です。

 この時は来ますという約束、このことは必ずこうなりますという約束。

 あと1時間して12時になったら、お昼休み、お弁当の時間です。昼食です。

 今度の夏休みには、家族でどこどこに旅行に行く。

  小学生の時、親からの約束を聞いたなら、大きな喜び。

  1学期の後半、疲れ気味になっても、夏休みを楽しみに待つ。家族旅行を楽しみに待つ その日を楽しみに、頑張る力が湧いてくる。

 

★今日の聖書箇所

 主イエスの弟子たちが祈りつつ待ったことを伝える箇所

 熱心に祈り待った。 約束のものを祈り待った。

◎12-15節

1:12 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。

1:13 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。

1:14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

1:15 そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。

   熱心に祈っていた。 その様子が記されている。

 12弟子の中で、1名欠けたので、11名の弟子たちの名前が記されている。

 イエスの母マリアもいた。 イエスの兄弟たちもいた。 さらに、多くの人もいた。全部で120名ほどの人

 その時、2つのこと 一つは熱心に、 もう一つは心を一つにして心を合わせていた。 

 あることのために、心を合わせる。 入院、手術する その家族が、また教会の皆で祈りを合わせる。 連鎖祈祷、時間を連鎖して祈る 

その弟子たちの原動力になっていたことは何か?  それは、約束でした。

復活の主イエスよりの約束

 

○ルカによる福音書24:45-49

24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、

24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。

24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、

24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。

24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 

○使徒言行1:3-5

1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。

1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。

1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。

 天の神さまからの約束されたものがある。 それは素晴らしいプレゼント それは最高に素晴らしいもの 大きな幸い それは力を与えるもの 主イエスの弟子としての証しの力 生き生きと生きて行くための力 それは幸いなこと。

 日々の歩みで、一番欲しいもの それは生き生きと生きるということではないでしょうか。 たくさんの時間、たくさんのお金があっても、その人の内に、生き生きとしたみなぎる力がなければむなしい。 たとえ限られた時間でも、限られたお金でも、生き生きとした希望、喜びがあれば生きていける。

 約束が与えられている。 しかも、その約束は、主なる神から与えられている。 それは、大きな励ましでした。

 

■エジプトでの民の苦しみ、嘆き

 かつて、苦しみを経験した民

 神が選ばれたにもかかわらず、エジプトで奴隷とされた時があった。

  重労働をさせられもっとも苦しい時であった。

  その時の叫び、うめきを記した聖書の箇所がある。

○出エジプト2:23-25

2:23 それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。

2:24 神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

2:25 神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。

うめき苦しんでいた。自分たちは、かつて選ばれたのに、今このような苦しみの中

 神は、かつてアブラハム、イサク、ヤコブに約束された。

  必ず連れ帰る。必ず助けると、あなたとあなたの子孫の神となると

 その約束(契約)を思い起こされた。

 やがて、モーセという人物を立て、彼を指導者として、エジプトの苦しみから助け出してくださった。

 

★神からの約束は大きな励まし

 神の約束は真実 天の神さまは、約束を守り通されるお方 そのお方からの約束

 聖書の中のいくつかの約束を披露しましょう。

○ヨハネによる福音書14:18 

14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。

○口語訳

14:18 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。

 決して捨て置かない 見捨てることはない。 共にいて守り助ける。 帰ってきてくださる。おいでくださる。

 

○ヨハネによる福音書14:27

14:27 たしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

○口語訳 

14:27 わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。

   どのような時にも平安がある。主の平和、主の平安 どんな時にも、どのようなことがあっても、与えられる平安 世が与えるものとは違う。 一時的ではない。変わらない平安 与え続けられる平安

 そのような平安は、かけがえのないもの

 

○ローマ人への手紙8章28節

8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

○口語訳

8:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。

 万事を益となるようにしてくださる。

 いろいろなことを経験する。 これはもう失敗だ、これはもうダメだと思えること しかし、神を愛する者たちには、それで終わらない、益としてしてくださる。 いろいろと落ち込むようなことがあっても、なお希望を持ち続けることができる。

約束の主は真実な方

 その方の約束を心にとめて歩むことはなんと幸いなことでしょう。

 

★祈りつつ待った弟子たち

 主イエスは、十字架にかかられお亡くなりになった。

 しかし、3日目に復活された。弟子たちのもとに戻ってきてくださった。

 40日間、共に歩んでくださった。 その後、弟子たちが見ている中で、天に昇って行かれた。 弟子たちの目からは消えてしまった。

でも、その主よりの約束の言葉が残った。 天の父なる神からの約束のものが与えられる、それを待っていなさい。

弟子たちは祈りつつ待った。

 その中心にあったものは、約束の言葉であった。主イエスの語られた約束の言葉であった。 その約束を、共に唱和したことでしょう。共に何度も確認したことでしょう。

 祈りは弱々しいものではない。むなしいものではない。 主なる神に向かって祈る祈りは、神が聞いていてくださる。

 

 主イエスを捕らえ殺害したユダヤの指導者たち、ローマの兵  なんとひどいことをしたことか という思いもあったことでしょう。 数の力では、とてもかなわない。どうしたら、勝つことができるだろう。 策を考えたこともあるでしょう。

 しかし、この時、弟子たちがしたことは、人間的な恨みや怒りを強くすることではなかった。 策を練ることではなった。 約束の言葉を握って、祈ることであった。

 主は、その祈りに応えてくださった。

 それが起きたのは、間もなくであった。祈り始めて10日経ったペンテコステと言われる日であった。

 

 苦しみ、嘆きの時。先が見えない時、主に信頼して、祈りつつ待つ。主に心を向ける。 神の約束の言葉を読み、心に刻む。 そして、そのことを心にとめて祈る。 私たちも、主に心を向けましょう。

 聖書の言葉を心にとめてお祈りしましょう。 どうにもならない時、行き詰まりを覚える時に。

 

★後に続く者たち 

 12弟子から1名の弟子が欠けた。 欠けたままではいなかった。

 もう一人を選ぶのだ、選出するのだ

◎16-26節

1:16 「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。

1:17 ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。

1:18 ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。

1:19 このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。

1:20 詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。』また、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』

1:21 -22そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」

1:23 そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、

1:24 次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。

1:25 ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」

1:26 二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。

 欠けた一人を満たすために願い求めた結果、2人に絞られた。

 そして最終的内は、マティアという人が選らばれた。

 ここに人が必要だ。神が満たしてくださいますようにという願いと祈り

 そして、マティアが立った。

 後に残った者たち、欠けたままで良いとはしなかった。願い求めた。

 一人の人が選ばれた。 応答して立ち上がった。それは幸いなことであった。

 私たちも、マティアとして立つことを主は願っておられるかもしれない。

 主よ、あなたの招きを受けとめますと立ち上がる者でありたいと思います。

 

★祈りつつ待つ

 主なる神に心の目を向けて歩みましょう。

 主なる神の約束の言葉を心にとめ、握らせていただきましょう。

 

 そして、主なる神に祈りをささげましょう。

 

6月5日() ペンテコステ礼拝  説教メモ

    「聖霊降臨の喜び、感謝」    使徒言行録2章1-4節 

 

★喜びと感謝

 日々の歩みの中で、人生の歩みの中でこれを持って歩みたいもの、それは喜びと感謝です。 心に喜びと感謝 これを持つことができるならば、幸い。

 喜びの日、感謝の日

 本日は、後藤真理姉と後藤英理姉の転入、本日は、来島絵美子姉の転入会

 本日、3名の方を教会員として迎えることができました。 大きな喜びです。そして感謝です。

  

★本日の聖書箇所 

 主イエスの弟子たちに聖霊なる神が降り、注がれた日のことを伝える箇所です。 待ち望んでいた日でした。待ち望んでいたものが与えられた。感謝と喜びの日でした。

◎使徒言行録2:1-4 

2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 

★響いた音

 特別な日 それは喜びの日でした。新しいことが始まる。期待の日でした。

ファンファーレの響き  私たちの日常にもそのような時が必要。 

でもなかなか聞けない。 さまざまな音、声が周りから打ち寄せる、自分の内から湧き上がる。でも、それが励まし、希望につながらない。

 主なる神は、それを聞かせてくださる。 主なる神によって、励まされ、希望が燃える。 それは幸いなこと。

 

★弟子たちはその音を聞いた

 それはペンテコステの日 聖霊なる神が弟子たちの降った日

 聖霊なる神が注がれた日、その日こそペンテコステの日でした。

   

★待ちに待っていた日、喜びの日、感謝の日

 それぞれ、違いますが、そのような日があると思います。

  ・ずっと仕事ずくめの日々、やっと休みの日が取れた。

  ・特別に計画していた旅行の日。

  ・若い人なら、初めてのデート、緊張するけれども楽しみ

  ・願っていた学校の入学式の日、 願っていた会社の入社式

    緊張の中にも、喜びと感謝

  ・婚約式の日、結婚式の日 人生の大きな喜びの日

  ・家族から特別にお祝いを受ける日、・・ さまざま

  ・ずっと雨が降らず、大地が干からびている、作物が弱って枯れそうな時

   待望の雨が降り出した。 農家の人にとっては大きな喜びと感謝

   大地が潤い、作物が再び、元気になる

 

主イエスの弟子たちが経験したこと

 この聖霊降臨の恵み。 聖霊なる神が自分たちの内に降り、注ぎ与えられた。

  まさに、渇いた大地に沁み込む天からの雨のような幸い。

  天より、聖霊が注ぎ与えられた。 その出来事は、一方的な神からの恵みでした。

  その日は、約束された日でもあった。

  弟子たちは、主イエスより天の父なる神が、必ず約束のものを与えてくださる。その日を祈り待ちなさいと言われていた。

 必ず与えられる、信じて待ちなさい。 弟子たちは信いて待ち続けた。

 その日は、主イエスの十字架の死より50日目でした。

  過ぎ越しの祭りが行われていた日に、主イエスは捕らえられ十字架刑にそせられた。その日から50日目 ペンテコステというのは原語のギリシャ語で50日目という意味。

 復活の主イエスは、弟子たちのもとに戻って来られ、40日間共に歩んでくださった。その後、天に昇って行かれた。

 その日より、弟子たちは心を合わせて祈り待った。

  その昇天の日より10日後のペンテコステの日に、聖霊なる神は弟子たちの上に降った。 その時の様子が記されている。

  

○2-3節

2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

 激しい風が吹いているような音が天から聞こえた。 その音が迫って来て、家中に響いた。

 それだけではない。炎のような舌が分かれて現れ、弟子たち一人一人の上にとどまった。 今起きていること、不思議な体験。 まさに今起きている。

 父なる神が約束してくださったもの まさにそれが今与えられている。

 大きな喜びと感謝をいだいた。

 しかも、その聖霊は、弟子たちの心を満たされた。 弟子たちは、聖霊に満たされた。

 その聖霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した。

 言葉が違うと、互いのコミュニケーションが取れない。

  伝えたいと思うことを伝えることができない。 もどかしさ

  

○4節

2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 言葉の壁が取り除かれた。相手に届く言葉が与えられた。

 外国の人にも、分かるようにその国の言葉で話すことができる。

 

○使徒言行録2:5-13  

2:5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、

2:6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。

2:7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

2:8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

2:9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、

2:10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、

2:11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。

2:12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。

2:13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 そこに駆け付けた人たち、いろいろな国の人たち。外国の人たち

 弟子たちが、自分たちの言葉で話してくれる。

 その話していることが理解できる。 弟子たちは、神のことを話した。

 神は偉大な業をなしてくださった。

  神は、この世界をお造りくださった方、創造主なるお方です。

  この世界に私たちは生を与えられ歩んでいます。 しかし、人間である私たちは、神を忘れ自分勝手に歩み、さまよう者となった。 生きる意味、喜びを見失う者となった。

 その私たちを、神に再び立ち返らせるために、神と共に生きるものとするために救い主をお送りくださった。その方こそ、救い主の主イエス

 その主は、最後十字架につけられてしまったが、3日の後に復活された。

 救いの御業を成し遂げてくださった。

 そのことが、確かなこと、永遠のものであることを保証するために、聖霊なる神を注ぎ与えてくださった。

 神はほめたたえるべきお方ですと弟子たちは、力強く語った。

 

★ペンテコステの日の出来事は、二つの幸いをもたらした。

①第1は、つながる幸い

 バラバラだったことがつながる幸い。

 言葉が通じなくなった。お互いの言うことがわからなくなった出来事

  創世記11章 バベルの塔の出来事

○創世記11:1-9

11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。

11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。

11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。

11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。

11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、

11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。

11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。

11:9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

 自分たちだけ、有名になろう、自分たちだけ特別な良いものを手に入れよう。

 自分たちだけ良ければ良い。 良いものを自分たちのものにしよう。

 他の人のもの、他の国のものでも、強引に自分たちのものにしよう、奪い取ってでも。 都合の悪いものはつぶしてしまおう。排除しよう。自分隊の思いのままになるようにしようと

 そして、神のように高くなろうとした。 バベルの塔を建てようとした。

  それはとん挫した。 言葉が通じなくなった。 

  そこにとどまることができなくなった。全地に散らされて行った。

 互いに言葉が通じない、心が通じない。 世界は、分断されていった。

  互いにいがみ合う。まさに現代の世界の様子。

 そのバラバラが、つながるものとなった。

 聖霊なる神が降ったことで、その言葉の壁が取り除かれた。バラバラな状態がつながった。 互いに相手を思いやる、受け止める、大事にする。

 第1はつながりが与えられた。

 

②第2のことは、神の偉大な御業をこの身に経験することの幸い

 神がこの世に生きる私たちに幸いなことをなしてくださった。

 私たちに御手を差し伸べてくださった。差し伸べてくださっている。

  救い主イエスをお遣わしくださった。

  その主は、私の救い主。 私の人生に光をもたらしてくださった。生きる希望を与えてくださった。主と共に生きる幸いを知った。

 主と共に歩むことは、どれだけ幸いなことか、 その中に今置かれている。

 その中を生きている

 

★聖霊降臨の喜び、感謝

 聖霊降臨の恵みは、弟子たちに与えられた。 大きな幸い

 そして今、私たちにも与えられている。

 その幸いの喜び、感謝  その中に生かされて進んで行きましょう。

 

 

6月12日() 聖日礼拝  説教メモ

    「プレゼントとしての聖霊」   使徒言行録2章32-38節 

 

★持っているもの、与えられたもの

 自分が持っているもので、嬉しいものは何でしょう?

 お気に入りの車を買い求め、それに乗ってドライブ、旅行

  家を新築した。中古物件を手に入れた。 そこに住み出す楽しみ。

  ペットを飼いだすことで、そのペットに癒されることもあるでしょう。

  赤ちゃんが生まれ、赤ちゃんを中心に生活するようになった。・・

  

*持っているものは自分で手に入れた、獲得したことでしょう。

  でも、よく考えると自分で手に入れた獲得したと思っていても、与えられたものといえるかもしれない。

  自分の家族、 与えられたもの 

  自分の人生 自分で作り上げているようではあるが、与えられたもの

  自分の命 これは自分のものであるが、これもまた与えられたもの

 

★自分のものをいかに喜ぶことができるか

 いかに喜ぶことができるか、感謝できるか

 いつの間にか、喜びこと、感謝することも忘れてしまうことがある。

  喜び、感謝するよりも、いつの間にか不平、不満

   それを持ち続けること、維持し続けることに大変さを感じる。

   喜びが沸いてこない。ため息ばかりが出て来ることがある。

 

★そんな日々の中での喜び

 特別なプレゼント 母の日のプレゼント、父の日のプレゼント

 思ってもみないプレゼント 特別な食事、特別な旅行

  久しぶりに会う友との再会 昔話に花が咲く

  自然の中での感動

   長木の土地の梅の木の実の収穫 色づいた梅の実 感動した。

  

★神からのプレゼント

 自分の家族  自分の命 自分の人生

 この世界、 この地球、自然

   海、山、川、 作物、野菜、くだもの、・・、お魚、お肉、

  この世界にはありとあらゆる素晴らしいものが満ちている。

  その中で生きている。

 

★それなのに、人生には悩みがある、苦しみがある。

 物事がうまくいかない。 挫折、トラブル、行き詰まり

 病気を抱えこむ。 自分や家族のことで悩み事を抱える。

  人との間のトラブル、いがみ合い。 許せない。

  前に進むのがつらい、毎日が苦しい。

  この問題をいつまで担い続けなければならないのか。 問題が解決しない。

  自分の心が重い。 目の前がすっきりしない。 面白くない。不平不満。

  なぜ、あんなことをしてしまったのだろう。 

  自分の行き先はどうなるのだろうか、 さまざまな思いを持つ。

 

★本日の聖書箇所

 特別なことが起きた日の出来事 聖霊なる神が上から降った。

 主イエスの弟子たちが、主イエスより聞いたこと それは、父なる神が約束のものを与えてくださるという約束

  それはお金でも、物でもありませんでした。 生ける聖霊なる神でした。

  聖霊なる神が上から降り、弟子たち一人一人の内に満ちる。

  神の愛が、神の偉大さが、神の憐れみが良く心に分かり、弟子たちは、大きな喜びに包まれました。

 こんな喜びの日が来たと そして、その喜びの意味が分かりました。

 

 主イエスの弟子のペトロは、神の御業がなされたことをメッセージしました。

 

◎使徒言行2:32-38 

2:32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。

2:33 れで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。

2:34 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。

2:35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』

2:36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。

2:37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。

2:38 すると、ペトロは彼らに言った。悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

 

 神の御業

  それは、主イエスが十字架の死の後、三日目に復活されたこと。

 死が最後ではない、死を打ち破られた主イエス

 主の十字架は、意味のない死ではなかった。大きな意味のあった死であった。

 死は、普通は、その人の終わり、ついに終わりが来た。すべてが終わる時を意味します。

 しかし、主イエスの十字架での死は、主イエスご自身の終わりを意味するものではありませんでした。

 捕らえられ、強引に有罪判決を下され、鞭打たれ、手と足にくぎが打ち込まれて、苦しみの中で死んで行かれた。 その死には大きな意味があった。

 それは、この世界に生きる私たち人間の罪を身に負い、身代わりとしての死でした。 私たちに代わっての死でした。

 その死は、復活を通して、その意味が確かになりました。

 

★プレゼントは誰かによって用意される。

 プレゼントは突然与えられる。

 それは、誰かによって用意される。そしてそれは送られてくる、運ばれてくる。

 主イエスの弟子たちが受けた聖霊なる神のプレゼントは父なる神によって用意された。 それを確かに受け取って注ぎ与えてくださったのは、主イエスご自身であった。

◎33節 

2:33 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。

  十字架、そして復活、そして昇天(天に昇って行かれた)

 父なる神の右に挙げられ、約束の聖霊を受け取ってくださった。

 それを弟子たちに注ぎ与えてくださった。

 ペンテコステの日の聖霊降臨の出来事は、主イエスの十字架の死、復活の勝利

  そして、昇天により父なる神の右に上げられ、起こされたことだった。

 弟子たちは、力強く、そのことを証言した。

 

★ひどいことをした。

 あんなことを言わなければよかった。 あんなことはしなければ良かった。

 ひどいことをしてしまった。 なぜあの時、声をかけなかったのだろう。 あの時にこうしておけば良かった。でも、しなかった。

  主イエスの弟子たちもそうでした。

 主イエスと共におよそ3年間歩んだ。とてもかわいがられた。大事にされた。

 でも、最後の大事な時、すなわち主イエスが捕らえられた時、助けなかった。

  見捨てて逃げてしまった。

  ペトロは、あなたはあのイエスの仲間だろう。弟子だろうと指摘された時、知らない、関係がないと言ってしまった。  愛をあだで返した。

  見捨てて逃げてしまった。 裏切ってしまった。 その後悔で苦しんだ。

 

★復活の主イエスは、弟子たちのもとに戻って来てくださった。

 弟子たちのもとに戻って来てくださり、「あなたがたに平和があるように」と語られた。 すべてを赦してくださった。

  恐れる必要がないことを教えてくださった。

  復活の主イエスは弟子たちと共に40日間、共に歩んでくださった。

  その後、天に昇って行かれた。 再び、戻って来られることを約束された。

 

◎36節

2:36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。

 とんでもないことをしてしまった。

 あなた方は、天の神さまが送ってくださった救い主の主イエスを十字架につけて殺してしまったのです。

 

★修学旅行生が美術品を壊した。  

 新潟県十日町市の美術館で421日、修学旅行生が展示品2点を壊したことがわかりました。展示品の1つは全損し、修復が困難な状態のため、公開中止となりました。複数の生徒が展示品2点を壊したといいます。

 新潟県十日町市は『大地の芸術祭』の作品2つが、修学旅行で訪れていた新潟市の中学生に壊されていたと発表しました。作家は「作品は我が子と同様で非常にショックを受けている」と話しているということです。

 新潟市内の中学校の生徒が、2つの作品を壊したということです。「生徒が作品を踏んだようだ」と、教諭から美術館に報告がありました。

 アーティストのクワクボリョウタさんが202269日、新潟県内の美術館で展示していた自身の作品を、修学旅行中の中学生が破損した件について、ツイッターで声明文を公開した。

「誰かに怪我を負わせたわけではありません」

    作品を破壊した中学生に対しては「考えてみれば、誰でも若いうちはちょっとした失敗をするもので、今回結果だけ見れば一線を越えていたかもしれませんが、それでも誰かに怪我を負わせたわけではありません」と述べている。

   クワクボさんによれば、「LOST #6」に使われている素材は修復や再生が可能であり、「作者はまだ生きていて作品を修復する気力も体力もあります。だから、物理的な面ではそれほど深刻な状況ではありません」としている。

   最後に「少なくとも自分は、修復を通じて、この事件が彼らや彼らのコミュニティ、そして芸術を愛する人々に悪い爪痕を残さないよう、最善を尽くしたいと思います。良い夏休みを迎えましょう!」と締めくくった。

 

★天の神さまは

 十字架につけて殺してしまった主イエス

 特別なプレゼントを踏みつけてめちゃくちゃにしてしまった。

 こんなものはいらない。こんなものなんかと踏みつけた。そして、命を奪い、その存在を消し去った。

 しかし、父なる神は、救い主である主イエスを与え続けられた。

 この方の位置づけは変わらないとされた。

 主イエスは十字架の上で命を奪われましたが、復活されたのでした。

 

★どうしたら良いのですか?

 私はどうしたら良いのですか? 私たちはどうしたら良いのですか?

◎37-38節

2:37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。

2:38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

 悔い改めなさい。

 ああ、何ということをしてしまったのか、なぜこうしなかったのだろうという深い悔いの思いを持つ。そのことは大事なこと。

 その心をきちんと持ちつつ、主に向きを変えることを意味している言葉です。

 その悔いの心をずっと持っている、でも主に向きを変えないのは、この悔い改めなさいとは違う。 向きを変えなければ、悔いの心を持ち続けて、そのスパイラルの中で苦しむだけで終わる。

 主に向きを変える。 主に立ち返ることが大切。

  今まで、自分で歩んできた。 その歩みの中に、主なる神は認めなかった。 

 神の愛は知らなかった。 神の愛に生かされていたことは知らなかった、認めなかった。

 神によって遣わされたお方主イエスは、この私のためにもおいでくださったお方なのだ。 私はこの方を私の救い主として認め、心に信じます。受け入れます。 信仰の告白をして、洗礼(バプテスマ)を受けます。

その時、主は私の主となってくださる。

 

★プレゼントとしての聖霊

 天の神さまからのプレゼント

 この世界、この地球、すべての良いもの 自分自身の命、人生

 そして、何よりも神の愛というプレゼント

  主イエスを与えてくださった。その最高のプレゼントを受け取る。

  このことを一番喜んでくださる神さま

 そして、その喜びの証明として、変わることのないしるしを与えてくださる。

  信じる者の内にお住いくださるお方。その歩みを守り導いてくださるお方

  その方こそ、聖霊なる神  聖霊こそ、最高のプレゼント

  この方をいただき、この方と共に歩む。

  この方に導かれて歩む幸い

  幸いな人生へと導いてくださるお方 この方が与えられる。

  この世からのものは、なくなってしまうことがある。しぼんでしまうことがある。

 聖霊なる神は、なくならない、しぼんでしまわない。

  いつも、主イエスを信じて歩む者を支え、守り、導いてくださる。

  このプレゼントの聖霊なる神を仰ぎつつ歩んでいくのです。

 

 

6月26日() ホ群弾圧受難記念礼拝  説教メモ

    「大胆に神の言葉を語る」   使徒言行録4章23-31節 

 

★本日は、弾圧受難80周年の記念日

 今からちょうど80年前の1942年(昭和17年)6月26日早朝に、特高警察がホーリネス系のキリスト教会に踏み込み、多くの牧師を拘束した。

 キリスト教会への弾圧

 そして1年後には、ホーリネス系の教会は解散させられた。

 大変な事態が起きた。 時は、太平洋戦争の真っただ中

 この弾圧の出来事を忘れないために、また同じようなことがたとえ起きても、対処していけるようにと弾圧受難記念礼拝を毎年、持っています。

 

★大きな苦しみを経験する

 国家は、国民によってできているはずなのに、国民を守らない時がある。

 国家が強引な歩みをするとき、国家が優先し、国民を支配し、苦しめる時がある。

 現在のロシア

  国家が戦争に勝手に突入。 多くの兵士を投入する。

  多くの兵士が死んでいく。 自分の国の兵士だけでなく、他の国の人たちを多く死んでいく。 結局のところ、良いことは何もない。 それなのに、国家が戦争を進めていく。

 そのことの間違いを見抜いた人たちは反対する。おかしい、反対だ。

 国家は都合が悪いと思ったら、その人達を拘束する。ロシアにおいて起きていること。

 遠い80年前、私たちの日本も、戦争に突入して行った。

  大義名分を立て、戦争に突き進む。 そのことを推し進めるために、国民を支配する。国家の思い通りに動かそうとする。

 日本の国は、その時戦争一色だった。

  

★国家は都合の悪いものを抑えつける   

 80年前の日本は、国家神道を土台として、天皇を現人神として、日本国民を支配していた。

 キリスト教会に対しても、宗教団体法の下に、統制をかけた。

 カトリック教会は一つ、プロテスタント教会も日本基督教団として一つにまとめられた。 それに従わなければ,つぶされ生き延びることはできなかった。

 そのプロテスタント教会の日本基督教団の中で、ホーリネス系の教会が狙い撃ちされた。 

 牧師が拘束され、家に戻れない。 牧師を失った教会は、礼拝も開くことができない、祈祷会も、家庭集会も開けない。

 特高警察の監視のもとに置かれる。

 ホーリネスの教会は、1年後の1943年(昭和8年)には、解散命令を受け、 教会がつぶされた。

 牧師家庭は、塗炭の苦しみ。

 教会員も礼拝に集うこともできない。 

  

★治安維持法違反のもとに

 国家に対して、その歩みに沿わないものを取りしまる。

 ホーリネス教会は、四重の福音を高く掲げていた。新生、聖化、神癒、再臨

  特に再臨信仰

   それは、キリストは再びおいでになる。そして王の王として立たれる。

  すべての者はそのキリストの前にその歩みがどうであったかが問われる。

  それは個人だけでなく、民族、国家に対しても。

  国家といえども、間違えることはある。

  国家が間違った方向に進めば、多くの国民が苦しむ。 そして、他の国家、他の国の多くの人を苦しめることになる。

  実際に、80年前の日本国家は、日本の国が中国を、東アジアの国々を支配する。 さらには、世界をも支配せんと画策した。

 その結果、中国の人たちを、朝鮮(韓国、北朝鮮)の人たちを、その他の国の人たちを苦しめた。

 多くの人たちが戦争で亡くなった。 日本の多くの人たちも

 その戦争の終結によって、その戦争がいかに間違ったものであったかが明らかになった。

 その途中は、有無を言わせず、国家が国民を、東アジアの諸外国の人たちを支配した。多くの苦しみを負わせた。

 

★この弾圧によって

 ホーリネスの教会はつぶされ、殉教の先生方も出た。

  戦争が終わるまで、この苦しみは続いた。

  戦後、ホーリネスの教会は、新たにスタートを切った。

  私たちの北九州復興教会は、1946年に伝道開始。

 米子聖教会で弾圧を受けた山中日出刀牧師が、小倉の地で、伝道を開始された。

 北九州では、門司聖教会、戸畑聖教会、八幡聖教会の主だった方々が参集された。

 戸畑聖教会は、加藤汎兄、三根輝子姉のお父様の加藤俊守牧師が牧会伝道されていた。 3つの教会は、北九州復興教会の土台となってくださった。

  

★今日の聖書

 脅しを受けたペトロ達、初代教会の人たち

 少しその流れを説明しますと

聖霊降臨の出来事により、聖霊によって力を受けた弟子たちは、主を見上げ、大胆に歩み出した。

 エルサレム神殿の「美しい門で」、一人の生まれつき足の不自由な人を癒す。

〇使徒3:1-10

3:1 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。

3:2 すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。

3:3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。

3:4 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。

3:5 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、

3:6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザ  

レの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

3:7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、

3:8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。

3:9 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。

3:10 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。

 

 その出来事により、多くの人の驚き

 それは、人の力ではなく、イエス・キリストが聖霊により力強く、働かれた。

  ペトロやヨハネの力ではなく、イエス・キリストの名によって、その力によって、今まで歩けなった人が、立ち上がり歩くことができるようになった。

  その人の喜び、感謝

  周りの人々の驚き。 多くの人がイエス・キリストを救い主として信じ受け入れた。

 その時の多数派、伝統の力の中にあったユダヤ教の指導者の危機感

  大きなうねりが起き始めた。 これは大変、今のうちにつぶさなければ。

 

〇使徒4:1-22 

4:1 ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。

4:2 二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、

4:3 二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。

4:4 しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。

4:5 次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。

4:6 大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。

4:7 そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。

4:8 そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、

4:9 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、

4:10 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。

4:11 この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。

4:12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

4:13 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。

4:14 しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。

4:15 そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、

4:16 言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。

4:17 しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」

4:18 そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。

4:19 しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。

4:20 わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」

4:21 議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。

4:22 このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。

 ペトロとヨハネをとらえ、牢に投げ入れた。

 イエスの名によって話したり、教えたりしてはならない。

 ペトロとヨハネ

  聖霊の恵みに包まれ、確信を持って主に従う道を進みますと

  さらに脅された。

 脅しを受けたなら、心が恐れに支配され、普通は縮こまる

   心がびくびくする。 よりも眠れなくなる。 

 

 ペトロとヨハネはどうしたか?

★今日の聖書の個所

◎使徒言行録4:23-31 

4:23 さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。

4:24 これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。

4:25 あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、 諸国の民はむなしいことを企てるのか。

4:26 地上の王たちはこぞって立ち上がり、 指導者たちは団結して、 主とそのメシアに逆らう。』

4:27 事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。

4:28 そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。

4:29 主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。

4:30 どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。

4:31 祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。

 二人は、仲間たちのところに行った。 そして、起きたことを天の神様に報告した。

  神に向かって心を込めて祈った。 訴えた。

  主のみむねに飛び込んだ

 恐れの時、相手の大きさ、強さ、執拗さに目が奪われる。

  主の大きさ、主の偉大さ、主の力強さ

 

逆らう

〇26-27節 

4:26 地上の王たちはこぞって立ち上がり、 指導者たちは団結して、 主とそのメシアに逆らう。』

4:27 事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。

  自分たちで勝手に歩む。 自分の思いを優先して、神に逆らう。

  真の主を恐れず、好き勝手なことを行う。

  自分を最高の者と誤って考える。 何をしてもかまわないと。

  神のみ心を無視する。

 その具体的なこととして、神から遣わされた救い主イエスをとらえ、十字架につけて殺してしまった。

 その心の在り方は、神が与えてくださった命なのに、神に感謝しない。

  与えられた命を自分のためだけに用いる。 自分の願いを最優先する。

  自分がしたいと思ったことを最優先に行う。そのことが他の人の苦しみになろうとも、他の人の大事なものを奪うことになっても。

 自分だけ良ければそれでよい、自分たちだけ良ければそれでよいとして行動する、進む。

 その身勝手なことで、圧迫される。

  神の言葉を語ることをさせまいとする。

 妨害、脅し、弾圧

  クリスチャンへの迫害、キリスト教会への弾圧

  命の光を追い出そうと、命の光を妨げようとする

 

◎30節

4:30 どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」

  主イエスの名による御業を拝させてください。

 主イエスの名によってお祈りします。お願いします。

  聖名があがめられますように。

  人の力ではなく、主のご支配のもとで御業がなされるように。

 

★祈りに応えてくださる主

 心からより頼み、主のご支配を

 主はその祈りに応えてくださった。

 聖霊の満たし

◎31節

4:31 祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。

 聖霊の満たし 

 押しとどめていた力を吹き飛ばして大胆に神の言葉を語り出した。

 主と共に前に進む。

  主を証ししていく。 主のみ言葉を伝えていく。

  主が共にあって支え強めてくださる。

  弾圧を受けて教会をつぶされたホーリネス教会のほとんどは、戦後、新たに歩み出した。

 礼拝の再開、伝道の開始

 1946年、ホーリネスの群は新たに結成され、歩み出した。

 

7月3日() 聖日礼拝  説教メモ

   「信仰、希望、愛」   コリントの信徒への手紙一13章1-13節 

 

★世の中を驚かす

 短距離。中距離、長距離で早く走り記録を打ち立てる。 日本記録、世界記録

  周りの人の驚き、賞賛

  音楽、美術、建築において、素敵な作品、素晴らしい作品を作り上げる

   人々の驚き、賞賛  世の中の人を驚かすことはいろいろある。

  一方、人々を傷つけたり、苦しめたりする事件を引き起こすことがある。

   ロシアによるウクライナへの軍事侵攻

   これは、大きな驚きを与えたが、衝撃であり、悲しみです。

   願わくば、それが良いことで驚かしてほしい。良いことで、世の中が驚き、感謝することにつながってほしい。

 

★自分がどう評価されるか

  私たちは、往々にして周りの評価が気になる。

  評価を得るために、動いているということが多くある。

  ネットに自分が写真や動画をアップする。 それに対する反応が気になる.

どれだけ「いいね」が付いているかが気になる。いいねが多くつくと、嬉しくなる。 その反対だと、落ち込む。

 自分が目立ちたい、自分が立派な人だ、すごい人だと思われたいと思う。

 

★今日の聖書の箇所

  聖書の中で、最も有名な箇所の一つ 

◎1-3節

13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。

13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

◎口語訳

13:1 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。

13:2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。

13:3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

 

* 異言を語る。 人々の異言、天使たちの異言 

  特定な人にしかわからない言葉を語る。 普通には理解できない言語

  それを次々と語る。 異言は特別な人しか語れない。 異言を語るあの人はなんとすごい人だろうと評価される。

*預言をする

  聖書の言葉を解き明かす。 深い解き明かしをする。 力強い説教をする

  周りからは、一目置かれる。

*神秘、知識に通じている。

  人がなかなか知らない神秘について、知識について

  それらに通じている。 周りの人からは、あの人はすごい人だ。

  何でも知っていると評価される。

*山を動かすほどの完全な信仰

   厚い信仰、信仰の力によって奇跡を巻き起こす。山を移す。

   周りの人々の驚き、賞賛

 全財産を貧しい人のために使いつくす。

 誇ろうとして自分の命を死に引き渡す。

  全財産を使いつくした。ものすごい額の財産を、すべて使いつくした。 周りの人たちの反応。 すごいことだ。

 たった一つしかない命を死に引き渡した。 あの人はなんとすごい人なのだろうとの評価。

  自分を誇ろうとして、自分の評価のため、自分の名誉のために

  自分がどれほど立派なものか、どれだけすごいか、どれだけ多くのものを持っているか、自らを誇るために

 関心は自分、自分のこと、自分が高い所に立てば満足 関心は周りの人ではない、その相手ではない。

 

愛がなければ、もし愛がなければ

 愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。

 愛がなければ、無に等しい。

 愛がなければ、わたしに何の益もない。

 愛がないか愛があるか それは神がご存じである。

 愛がなければ、うるさいもの。意味がない、益はない。

自分への愛ではない。 自分への愛は誰でも持っている、自分がかわいい、自分が一番大切 他の人への愛が問われている 他の人のことをどれだけ大切にしているか、どれだけ大事に思っているか

 

◎4-7節  

13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。

13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。

13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。

13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

◎口語訳

13:4 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。

13:5 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。

13:6 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。

13:7 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

愛とはどのようなものか?

  愛は、具体的な内容です。

  ・忍耐が問われる        ・情け深いかどうか

  ・ねたみが起きるかどうか    ・自慢したくなるかどうか

  ・高ぶりが生じることはないか  ・礼を失してしまうことはないか

  ・自分の利益を求めてしまうことはないか

  ・いらだちが生じることはないか ・恨みをいだいてしまうことはないか

  ・不義を喜ぶことはないか  ・真実ではなく、不真実を喜ぶことはないか

  ・忍ぶことができるか      ・信じることができるか

  ・望むことができるか、希望を持ち続けることができるか

  ・耐えることができるか 

  その愛は本物かどうか  本物でなければ、すぐメッキがはがれてしまう。

  私たちは、所詮自分がかわいい、自分が大切。 自分がどうであるか。 自分が満たされているか、自分が評価されているか、自分が高められているか、

 その相手をどう生かすか、その相手の人がどう幸いを得るかに心を向けることは 乏しい。

 愛のところに自分の名前を置いてみる。

 少しだけはそうかなあと思う。 でもよーく考えると、気恥ずかしくなる。

  ・忍耐が問われる         ・情け深さが吹き飛んでしまう。

  ・時にねたみが起きることがある。 ・自慢したくなる

  ・高ぶりが生じる どんなもんだいと高ぶる

  ・礼を失してしまう。       ・自分の利益を求めてしまう。

  ・いらだちが生じる        ・恨みをいだいてしまう

  ・不義を喜ぶ           ・真実ではなく、不真実を喜ぶ

  ・もう忍耐できないと

  ・信じることができるか もう信じることはできない

  ・望むことができるか、希望を持ち続けることはできない

  ・もう耐えることはできない。 

  すべてが吹き飛んでしまう。すべてを吹き飛ばしてしまう。

  愛はない。 自分だけが大事、相手のことなぞ、知らない。どうでもよいとなってしまう。

 

◎8-9  

13:8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、

13:9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。

 ・預言は廃れる  立派な説教、メッセージも忘れ去られる

 ・異言はやむ   異言は一時的なもの

 ・知識は廃れる  知識は洪水のようにあふれる。

   もっとよく知っている人、コンピューターが出てくる

  知識も預言も一部分 これらのものは、滅びてしまう。忘れ去られてしまう。

  

★愛は滅びない

  嫌なことを言われた。 嫌なことをされた。 それは、時にうずく

  心を傷つけられる。 自分が踏みつけられる、ばかにされる

   ある期間、苦しむ。

   その相手は、時に思い出しても、自分を生かすことはない。

  でも、自分のことを一生懸命に考えて、できる限りのことをしてくれた。

   ただ、自分のために。 自らは、実を粉(こ)にして働いてくれた。

 どんなに疲れていても、それをおくびにも出さず、一所懸命にことをなしてくれた。 親から受けた愛情を時に思い出す。

   

◎10-12節  

13:10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

13:11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。

13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

 部分的なものは廃れる。 預言も知識も部分的なもの

 幼児だったときに最高だと思っていた宝はその時には確かに宝だったけども、大人になってみると、それは。大したものではなったことに気が付く。

 より良いものを宝として、部分的なもの、部分的な宝からは手を離す。

 後に本物に出会うと、本物でないものは手放す。

 いつか、何が一番大切なものかを知る。

 廃れてしまうものはどれで、廃れてしまわないものはどれかがわかるようになる。

 

◎13節

13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

 いつまでも残るものは3つである。 それは、信仰、希望、愛であると

  お金、物、人脈ではない。 信仰、希望、愛である。

  眼に見えるものは一時的であると。 眼に見えないものはいつまでも残る。

  信仰と希望と愛

 その中で、最も大いなるものは愛である。

 愛こそは最も大いなるものである。 その愛を天の神さまは注いでくださった。

 

○ヨハネの手紙一3章16節

3:16 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。

主イエスは、私たちのために命を捨ててくださいました。

ご自身の命を引き換えに、罪の赦し、永遠の命を私たちに差し出してくださいました。 

 

○ヨハネの手紙一4章9-10節

4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。

4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

 神は、その独り子イエスをお遣わしくださった。

  一番大切なイエスをこの世に遣わされた。

  一番大切なもの これだけは失いたくない、これだけは持ち続けたいと週思うもの それを失ったら、立ちえないもの

 父なる神にとっては,独り子である主イエスでした。

 その主イエスを神は、この世に、私たちのもとに、あなたのもとにお遣わしくださいました。

 神の愛がそうさせたのです。 私たちが生きるようになるためです。

 私たちは自分勝手に歩んでいました。 神を愛するということなぞはありませんでした。

 しかし、神は私たちを愛してくださいました。

  神の御心は、私たちを主の命に与らせることです。

 

  

7月10日() 聖日礼拝  説教メモ

  「愛を追い求めなさい」  コリントの信徒への手紙一14章1-12節

 

★雨降り

  金曜日昼間と夜中 大雨 夜中には激しい雷雨

  雨が降る 小さいときには雨はあまり好きではなった。 

  大きくなり、雨が嫌いでなくなった。 雨によって大地が潤う。

  作物が育つ、木々や草木も元気になる。 私たちの大切な飲み水にもなる。

  

★一見嫌だと思えることも、それによって生かされるものがある。

  車を運転していて信号機で引っかかる。 赤、赤と続くと

  信号機めと思うことがないわけではない。 信号機がなかったなら、大変なこと たちまち、交差点で事故頻発。

  

★私たちを生かしてくれるもの

  これによって、生かされる。 力を受ける。

  前に向かって進むことができる。

  主は、様々なものをもって私たちを支え励ましてくださっている。

  雨、 水、 空気(酸素)、 光、 山や川

  山や海や川 その景色 山登り、海水浴、川遊び

  様々な食べ物 

 私たちもそれらに励まされる。

  時に人によって励まされる。  その優しい言葉に慰められる。

  自分のことを覚えてくれている人のやさしさに支えられる。

  

★神は私たちを生かしてくださるお方。

  様々な良いものによって。

 でも、それでは足りない。 心の奥底の魂に命の光を受けなければならない。

  それがなければ、すべてのものは通り過ぎてしまう。

  魂に光を与えるために、主は、み言葉を通して語り掛けてくださる。

  救い主イエスを通して、 生ける神の霊によって励まし支えてくださる。

 

★本日の聖書箇所

  わかるようで、よくわからない箇所かもしれない。

  異言を語ることと預言を語ることの比較

  異言の賜物と預言の賜物はどちらが大切か?

  結論は、預言の賜物が大切であると それはどうしてか?

  異言と預言は何が違うのか?

  

◎1-12節 

14:1 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。

14:2 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。

14:3 しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。

14:4 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。

14:5 あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。

14:6 だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に

立つでしょう。

14:7 笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。

14:8 ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか。

14:9 同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることに

なるからです。

14:10 世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。

14:11 だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになります。

14:12 あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。

 

★異言

  神に向かって人が出す言葉 祈りの特殊な言葉、賛美の特殊な言葉

  特別な人がその言葉を語る。 周りの人は驚く。 あの人はすごい人だ。

  次から次に異言を語る。 あの人の信仰はすごい。 周りの人が一目置く

  その人が高められる。

  その人もますます熱心に異言をもって、神の語る、神をほめたたえる。

  

★預言

  聖書のみ言葉を語る。 

  聖書からのメッセージを語る。 聖書のみ言葉が何を言っているかを説明して、その内容を分かりやすく語る。  

  説教を語る 教会学校、礼拝、祈祷会で

   どれだけ間に合っているか 時に落ち込むことがある。

   語ったは良いが、それだけ届いたかと

  預言は、時にメッセージを語った人に注目されるが、本当はそれは端っこに

おかれるべきこと

  み言葉がこの自分に届いた。 今日、このみ言葉を受け取った。

  主の語り掛けを聞くことができた。 感謝だ。

 主は、この自分に語り掛けてくださった。 この自分をも見捨てないお方だと

  預言は、語る人ではなく、み言葉にスポットライトを当てる。 み言葉を指し示す。主を指し示す。

 主がほめたたえられる。 み言葉を与えてくださっている神様、感謝しますと。

 そのみ言葉によって、その人の魂に神からの命の光が届く。

 

★聖書のみ言葉について

○詩編119:25-28 (ダレト)

119:25 わたしの魂は塵に着いています。御言葉によって、命を得させてください。

119:26 わたしの道を申し述べます。わたしに答え、あなたの掟を教えてください。

119:27 あなたの命令に従う道を見分けさせてください。わたしは驚くべき御業を歌 

います。

119:28 わたしの魂は悲しんで涙を流しています。御言葉のとおり、わたしを立ち直らせてください。

 主よ、命を得させてください。 み言葉によってこの私を生かしてください。

  私を立ち直らせてください。

  主の呼び求めることが許されている。

 

○詩編119:105-107(ヌン)

119:105 あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。

119:106 わたしは誓ったことを果たします。あなたの正しい裁きを守ります。

119:107 わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり命を得させください。

 道を進むときに、どこに向かうかよくわかるよう道の光を与えて

てください。

  歩みを照らして  足元がよく見える 安心して進むことができる

 人の言葉は変わっていく、 時に取り消される。反故にされる

  その人自身も変わるし、その語った言葉もその語った本人も忘れてしまう。

  その人もいつか去っていく。

 去って行かれないお方、決してそのその語られた言葉を変えることがない。

 忘れることがない。 決して廃れない。 反故にされない。

 過去にすべてを支配し、今すべてを支配しておられる。未来においても支配して行かれるお方。

 すべてのすべてを支配しておられる方が、語りかけてくださる。

  この私のことを気にかけて語りかけてくださる。

 聖書の御言葉が分かち合われる。 

  み言葉のご馳走をいただく。

  教会において、今愛餐会(食事の時)が持てないことはとても残念。

  でも、み言葉のご馳走をいただく礼拝、祈祷会を持つことができることは大きな感謝

 

◎4節

14:4 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。

  預言はみ言葉を指し示し、解き明かし、人を生かす道を示す。

  異言を語る人はその語る自分を造り上げる。 預言は聞く人を造り上げる。教会を造り上げる

 

★ヤコブの生涯

  兄エサウを出し抜き、父イサクをだまし、良いものを手に入れた。

  家を飛び出した。

どん底へ そこでの経験 主の語り掛け

○創世記28:10-22

28:10 ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。

28:11 とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。

28:12 すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。

28:13 見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。

28:14 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。

28:15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

28:16 ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」

28:17 そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これ はまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」

28:18 ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、

28:19 その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてル ズと呼ばれていた。

28:20 ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、

28:21 無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、

28:22 わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたし に与えられるものの十分の一をささげます。」

 叔父のところに  そこで20年間過ごした。家族、財産が増えた

  生まれ故郷に戻る  兄エサウの怒り それに対する恐れ

  主の取り扱いを受け、恐れが取り除かれた

〇創世記32:23-33

32:23 その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。

32:24 皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、

32:25 ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。

32:26 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。

32:27 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」

32:28 「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、

32:29 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」

32:30 「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。

32:31 ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。

   自分が自分がと 他の人を押しのけてでも 行き詰まりの中に

  神が戦われる 主が前面に立って導いてくださる。

  ヤコブの中に恐れがなくなった。 兄エサウに心から謝ることができた。

  兄との和解 生きる道が開けた。

 

◎14節

14:1 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。

  預言をする賜物を熱心に求めなさい。

 み言葉に生かされるように。この私自身をみ言葉によって生かしてください。

  この私をあなたの愛によって生かしてください。

 その生かされた恵みの中で、他の人を愛することができるようにしてください。

  

〇13:4-7

13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。

13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。

13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。

13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

  忍耐強い者に引き上げてください。

 高ぶらない者に作り変えてください。

 自分だけの利益ではなく、他の人の利益を求める者に

 あなたの愛で生かしてください。 あなたの愛で満たしてください。

 

  

7月17日() 聖日礼拝  説教メモ 曽根会堂

    「互いに愛し合いなさい」   ヨハネの手紙一3章11-18節

 

★一番幸いなこと

  一番幸いなこと それはそのものが輝いていること

   収穫の時 トマト、トウモロコシ、ピーマン、桃 様々な物の収穫の時 色つや、そして味が最高になる  それぞれの色、味がある。それをよく味わっていただくときに、幸せを感じる。

  生き物、動物

   人に飼われるペット、飼育される家畜

   ある程度の自由があり、栄養のなる物を与えられ、くつろぐ時がある時    その動物も幸せを感じる。

 人も、その人自身が輝いているとき、生き生きしているとき、一番幸せです。

   自分で、自由に歩む道を選び、感謝して歩むとき、幸せを感じる。

   そのように歩む道がそこにあることは大きな幸せ。

   自分が心から打ち込めることがある。

   それを妨げるものがないわけではない。その妨げるものが取り除かれるなら、感謝。

  物であれ、動物であれ、人であれ、その物自身、その動物自身が、その人自身が輝いているとき、一番幸せです。

  

★今日のテーマは愛するということ

  愛するというと気のポイントは、何か? それは自分ではなく、相手。

  大事なのは自分ではなく、相手

  その相手をどう生かすか、どう輝かすか。 その相手のために何ができるか

  こちらの都合であれこれするのではなく、その相手の具合に合わせて、どう対応するか。 その相手の具合をよく観察して、その相手を受け止め、その人が感謝して喜んで歩めるようにする。

  愛することは難しい。なぜなら、自分が中心ではなく相手が中心だから。

  私たちは所詮、自分が大事だし、自分が中心

  愛するということは、大事なのは相手、中心は相手だから。

 

★互いに愛し合う。

  一方だけが愛されるのではなく、お互いに愛し合う。双方共に大事にされ、愛される。 両方ともに幸せを味わう。 そのような関係があったら幸い、幸せ。 実際には、そのことがうまくいかず苦しむことが多い。

 大事にされない。無視される。粗末に扱われる。 その時に悲しみ、寂しさを感じる。 互いに愛し合う関係ができ、感謝しつつ歩めたなら幸い。

 

★カインのようになってはいけない。

 カインは弟のアベルを殺害してしまった。

 聖書に出てくる一番最初の殺人事件

◎12-15節  

3:12 カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。

3:13 だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。

3:14 わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。

3:15 兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。

 カインは弟アベルを殺害してしまった。

○創世記4:1-15

 

 兄のカインは、弟の捧げものが神に喜ばれた。自分の捧げものはそうではなかった。 どうしてなのか?  自分が反省して、もう一度捧げなおすこともできたのに、そうせず、アベルさえいなければと考えて、アベルに手を出してしまった。 悲しい出来事。

  神は、さまようものになったカインに対して、印をつけ、ほかの人から復讐されないようにしてくださった。 神の憐みの愛。

 カインは、アベルを生かす道、輝かす道ではなく、その反対の道を選んでしまった。 アベルを消し去り、自分がさまよう者になった。

  兄弟を愛さない者、他の人を愛さない者は、死にとどまっている者。

  死にとどまることは暗い部屋にい続けること

  暗い部屋にとどまり続けることがないように明るい外が用意された。

 神がそのようにしてくださった。

 

★愛し合うことは主イエスの教え

 主イエスの大事な教え

○ヨハネ13:34-35

13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。

 弟子たちに語られた主イエスの教え

  互いに愛し合いなさい。 自分だけでなく相手を大事にしなさい。

  相手を尊び、相手が何を考えているか、何を望んでいるかを考えなさい。

  そして、それを実行しなさい。

 主イエスの弟子であることを皆が知るのは、何か大きなこと、人々が驚くようなことをすることではない。 それは互いに愛し合うことを通してだと。

 一方が輝くのではなく、双方が輝く、共に輝くことを通してだと。

 

★今の時代は週末のしるしに満ちている

  終末を思わせるような時代、いろいろな悲しい出来事。

  新型コロナのことも、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻も。

*終末のしるし

○マタイ24:3-14

24:3 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが  来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」

24:4 イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。

24:5 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。

24:6 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。

24:7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。

24:8 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。

24:9 そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。

24:10 そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。

24:11 偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。

24:12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。

24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

24:14 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」

 終末のしるしとして

  戦争の騒ぎや戦争のうわさ 

  民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。

  愛が冷える 自分のこと、自分の国のことしか考えない。 他の人、他の国のことを軽んずる。

  偽預言者の登場

  偽りの宗教、キリスト教の異端

 先々週には、安部元首相襲撃殺害事件が起きた。

  容疑者の心の闇 旧統一教会、現世界平和家庭連合というキリスト教異端団体への恨み

  

○4章1-5節

4:1 愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。

4:2 イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。

4:3 イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。

4:4 子たちよ、あなたがたは神に属してお、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。

4:5 偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。

  偽預言者に対する警告が述べられている。  反キリストの霊

 ◆世界平和家庭連合

 名前を変えても実態は変わっていない。旧統一教会と実態は変わっていない。

 教祖 文鮮明を再臨のキリストとし、 合同結婚式

キリスト教の異端

   壷、印鑑を高く買わせる。 霊感商法

先祖が苦しんでいる。 献金をしないといけない すべてででたらめ

  教典 1冊500万円、3000万円で買わせる。 1冊だけでなく時に数冊も この宗教団体の間違った教え、反社会的な歩みによって、多くの人が苦しんだ、今も 今も多くの家庭が崩壊した、

  一人一人の人生、その持っている財産、その人が属している家庭がどうなってもかまわない。 自分たちの団体が生き延びればよい、大きくなれば良い。とんでもない。

 愛と反対の歩み その人を、その家庭を生かすのではなく、利用する、 

  悪質なことは、嘘偽りで固め、人をいつの間にか洗脳する、マインドコントロールする。  

  ヨハネの手紙一においても警告されている。

 

★互いに愛し合いなさい。

  互いに愛し合いなさいとの勧め

◎11、16-18節 

3:11 なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。 

3:16 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。

3:17 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。

3:18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。

  相手のことを考える。 

 その相手が何を必要としているか、何で困っているか

 教会に一番近いところに住んでいる一人の老姉妹 目が不自由になり、一人で過ごすのにだんだん難しくなってきた。

 ケアマネージャーの姉妹が関わり、3名の老姉妹方がよく訪問し、片づけてあげたり、度々に世話をしてくれている。頭が下がる。

 先週の水曜より、ある施設にショートステイしている。 どんなにか快適に過ごしておられることか。 その姉妹のために、今後の生活の最善がなることを願っています。

 

 相手のことを考えて、何ができるか、何をしたら良いかを考えて歩みたい。

 自分のことで頭がいっぱい、他の人のことを考える余裕もない。

 自分のことで頭がいっぱい。 自己中心の私たち。

そのような私たちに語り掛けている、命じている。

 互いに愛し合うようにと

  言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。と

  今、トウモロコシやピーマン、スイカ、そして桃、ブドウの収穫の時

  地面の土から肥料からの栄養、水分を吸い上げ

  太陽の光を受けて葉っぱで光合成をして、栄養を蓄え、実が大きくなる。

  そして、私たちはそれを収穫され、私たちの口に、胃袋に 喜ぶ

 私たちが人に何かができるとするなら、その相手のために何かできるとするなら、私たち自身が満たされている必要がある。

 愛がなくて愛を注ぐことはできない。

 その源の愛を神がまず、私たちに注いでくださった。

 

○4章9-11節 

4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。

4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。

○4章19節

4:19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。

   神が、まず私たちを愛してくださった。

 神が私たちを愛してくださるのは、私たちが何かをしたからではない。 私たちが何か良いことをしたからではない。

 何か少し立派になったからではない。 私たちが献金をしたからではない。

 それを逆手にとって、良いことをせよ、献金をせよ。そうしたら神は、あなたに良いことをしてくれる それは間違い。

 私たちは所詮良いことはできない。できたとしてもほんの少し

 献金をどれだけ捧げたから、それに応じて神が何かをしてくださるのではない。

 神は愛のお方である。その愛が私たちを救う。

 私たちは何も良いことができない、できたとしてもほんの少し。

 神が、私たちの救いのために独り子イエスをお与えくださった。

 私たちが払いきれないそれぞれの罪の代価を、あの十字架で、主イエスがその命をもって支払ってくださった。

 その大いなる愛を受けている私たち

  その中で、主イエスにある永遠の命を受けて生かされている。 

  その生かされている中で、感謝しつつ歩み、その感謝を他の人に対して、心を込めて歩みなさい。

 互いに愛し合いなさいと語られている。

 神の愛に生かされて、相手を大事にする歩みをさせていただきましょう。

 

 

7月24日() 聖日礼拝  説教メモ

   「最も大切なこと」  コリントの信徒への手紙一15章1-11節 

 

★知らせ、ニュース

  毎日、様々なニュースが伝えられてくる。

  暗いニュース、悪いニュースがとても多い。 それを見聞きすると心が暗くなる。 ひどい事件が起きた、戦争のニュースを聞くと心が悲しみに包まれる。

  明るいニュース、良いニュースを見聞きしたい。それによって、心が明るくなる。 希望が膨らむ。 明るいニュースを聞きたいと願います。

   

★良い知らせ

 その良い知らせが、一時的なものであったり、人を何らかのものに誘い込むためのものでないことを願います。

 そのニュースが本当のことであり、人を真に励まし生かすものであってほしい。  良い知らせ、good news グッドニュース

  今日の聖書の中で、そのことがまず告げられている。

◎1-2節 

15:1 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。

15:2 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。

 福音とは、良い知らせ。 ここでは、神からの良い知らせ。

 神の愛を知らせるもの。 

  神の愛は人を生かすもの それが福音。

 人が勝手に作り上げたものではない。 それを曲げて都合の良いものにしてしまう。 偽りの福音というものが伝えられることがある。

 この世に、人間が勝手に作り出した教えは、人を苦しめる。

  こうしなければならない。あなたの苦しみの原因はこうこうこうですよ。

  人の弱みに付け込む教え それは偽りの教え

 神からの福音は、神は私たちを愛してくださっている。 神は私たちのことを覚えていてくださる。助けを与えてくださる。

 神の福音によって生かされたい。励まされたい。希望をもって歩みたい。

 人が勝手に真の福音をゆがめ、自分たちに都合の良いものに変えて作り出したものは崩れていく。人を苦しめるものになる。

 人の弱みに付け込むものは偽物

 聖書そのものが伝える福音その良い知らせを私たちは受け取り生かされたい。

 

★最も大切なこと

  これが大切です。これがもっと大切です。  皆さんは何を掲げるでしょうか? 一番大切なもの 人によってあれこれ違うことでしょう。

  お金、財産、持ち物だという人もいるでしょう。 自分の楽しみだという人もいることでしょう。 それらは大切なものです。

  自分の考え、ビジョン、主張が大切だという人も 

  自分の幸せだという人も。 自分の家族の幸せだという人も

  それぞれ、大切なものであり。それを尊重したい。 それを奪い取ったり、それを踏みにじることがないようにしたい。

  最も大切なものとしてだれもが掲げるもの それは、命ではないでしょうか? 命は一つだけ。 かけがえのないその命、その人生が輝くものでありたい。 神は、そのことを願い導いてくださるお方。

 

★最も大切な第1のこと 

 最も大切なことの第13節に記されています。

 キリストが、私たちの罪のために死んだこと

◎3節

15:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、

 キリスト教の教え、その中心はイエス・キリストの死ということ

 神が一番の犠牲を払ってくださったこと

 様々な宗教がある。

  キリスト教の中にも、様々なグループがある。

  それが本物か偽物かを区別するかは大切なこと

   今話題になっている「世界統一平和家庭連合」「旧統一教会」

   多くの人が巻き込まれ苦しんでいる。

  人生において、時に大きな苦しみを経験する。 

   その苦しみを逆手にとって、これをしなければあなたはその苦しみから解放されない。その苦しみから救われないと教え、これこれをしなさい。

  あなたの持っているお金を、土地を、財産を捧げなさいと勧める。 それをしなけらばならないと洗脳して、そのようにさせる。それは全く間違っている。

 神の福音の第1は、キリストが私たちの罪のために死んでくださったこと。

  愛する者のために、私たちは何をしますか? その人から大切なものを取り上げますか? 巻き上げますか? その反対です。

  自分の持っているものを上げたいと思います。

  愛する子どものために、愛する孫のために、自分の持っているものを上げたいと思う。

 神がなしてくださったこと それは御独り子イエスをこの世に遣わされたこと

  そして、遣わされたキリストは、その命を十字架の上で捧げてくださった。

  私たちの罪のために

   どうすることもできない人間の罪 人の罪

   自分勝手に歩み、人を苦しめ、自分も苦しむ。 神を見失い、さまよう。

  そのことを救うのは、人が何かをすることではありません。

   神がそのことをしてくださった。  

  罪の代価を人は払うことはできません。 人に払わせようとするのがキリスト教の異端です。

 聖書は、神がイエス・キリストの命をもって罪の代価を支払ってくださった。

 だから。もう心配しなくて良いと教えています。 これが福音の第一です。

 

★最も大切な第2のこと

 福音の第2のこと、それはキリストの復活です。

 「わたしは道であり、真理であり、命である」といわれたお方であるイエス・キリストは、死を打ち破られたお方

4

15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、

 死はすべてを飲み込むもの 死に飲み込まれたら、もうそこから逃れることはできない。 死の世界の中に留め置かれる。

死は恐ろしい、命のすべてを飲み込んでしまうもの 

 そこに吸い込まれたものは二度と出てくることはできない まさにブラックホールのようなもの。 その死というブラックホールの力を打ち破られたお方、その方こそ主イエス・キリスト

 金曜日の午後3時に十字架の上で息を引き取られた。3日目の日曜日に復活された。 死を打ち破られたキリストこそ、勝利の主である。

 真に道であり、真理であり、命である。

 キリストは、最も恐ろしい敵である死を打ち破られた

 勝利の主イエスの歩まれた道の後に従って歩むことができる幸い。

  

★最も大切な第3のこと

  福音の第3のことは現れてくださったこと、おいでくださったということ

  そのことは5-8節に記されています。

◎5-8節  

15:5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。

15:6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。

15:7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、

15:8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。

 復活されたキリストは現れてくださった。 その復活の体をもっておいでくださった。 復活されたキリストのもとに来なさいとはおっしゃられなかった。

 キリストは復活されたのだから、あなたの方から来なさいではなった。  

 復活されたから、これこれのものを持ってきなさい。これこれのものを捧げなさいともおっしゃいませんでした。 

あなたは、これでだけの犠牲を払わなければならないとはおっしゃらなかった。

こうしないとあなたは救われません。苦しみから解放されないともおっしゃらなかった。

 キリストご自身が現れてくださった。訪ねてきてくださった。

 ケファすなわちペトロに、 12弟子全員に 5百人以上の弟子に。 ヤコブに そしてこの私パウロにも

 

○使徒言行録9:1-19

9:1 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、

9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。

9:3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。

9:4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。

9:5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

9:6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」

9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。

9:8 サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。

9:9 サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

9:10 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。

9:11 すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。

9:12 アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」

9:13 しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。

9:14 ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」

9:15 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。

9:16 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」

9:17 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」

9:18 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、

9:19 食事をして元気を取り戻した。

 使徒パウロにとって、あの時の出来事 ダマスコ途上での回心

 キリストを否定 主イエスを信じるものを迫害していた時

 キリストは出会ってくださった。 キリストの復活を示してくださった。

 キリストを否定するもの、迫害する者から、キリストを信じる者に、福音を宣べ伝える者と変えられた。

現れてくださった。復活のキリストがわざわざおいでくださった。訪ねてきてくださった。 なんという感謝 これがパウロの心の一番奥にあった思い。

 

*今もキリストは

 今もキリストは現れてくださる。訪ねてきてくださるお方

 今は、コロナ 病院に入院、施設に入って、家族ともなかなか会えない。

 どんなに寂しいことでしょう。心細いことでしょう。

 誰も訪ねてきてくれない。訪ねて来ることができない状況の中で、キリストが訪ねて来てくださる。 お祈り、聖書を読む中で、キリストにあって神の愛を受け取る。 一人で過ごす中で、孤独を感じるときがある。

 キリストが現れてくださる。 キリストが訪ねて来てくださる。

 み言葉を読むときに、祈るときに

 

★神の恵み

 神の恵みのことが語られている。

 恵みというのは、変わらない神の愛とも言い換えても良いかもしれない。

 親の愛

  親もやがて年を取り、先にこの地上を去って行く。 振り返るときに、親の愛を思い出す。 あの時のあの事、あの時にしてくれたこと。

  そして何より、変わらずに自分を見守ってくれていたなあと思い出す。

  自分が何かをしたからではない。子どもとしての自分を変わらない愛をもって見守っていてくれたことを思い出します。

 

◎9-11節

15:9 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。

15:10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。

15:11 とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。

 使徒パウロはひどいことをした。 

  ああ自分は一番小さなものだ。使徒と呼ばれる資格もない者だ。

  神の愛によって自分は、主と出会うことができた。

  神の恵みは自分を支配した。 自分は生かされた。

  神の愛に応答して、福音を宣べ伝えた。

   町々に出て行って

 神の恵み、神の愛は今もこの私を生かしている。

 その恵み、愛の中で、示された働きをなさせていただいた。

  多くの働きをさせていただいた。

  ただ、神の愛、そして恵み、神の憐れみがあって、そうさせていただいた。

   何も誇るものはない。

 

★一番大切なこと

 第1は、キリストが、私たちの罪のために死んだこと。

  支払い切れない罪の代価をキリストがその命をもって支払ってくださった。 

 第2は、それはキリストの復活。

  「わたしは道であり、真理であり、命である」といわれたお方であるイエス・キリストは、死を打ち破られた。

 第3は、現れてくださったこと

  おいでくださったということ、この私を見捨てず、この私を愛するゆえに。

 

    

7月31日() 聖日礼拝  説教メモ

   「キリストのご支配」 コリントの信徒への手紙一15章20-28節 

   

★暑さの中で

  暑さの中で、過ごす日々が続いています。

  部屋の中の暑い空気を部屋の外へ追い出しても、次々と暑い空気が外から入って来る。 どうしたら良いか、部屋の中のエアコンをつける。

  エアコンから冷たい空気が出てくる。部屋の中の暑い空気が冷たい空気と入れ換わる。 快適になる。

 

★支配している悪しきものを追い出すことは容易ではない。

 ロシアによるウクライナへ軍事侵攻

 ウクライナの領土を一部占領 それを強引に既成事実にしようとしている。全く間違ったこと。これを追い出すことは簡単ではない。

 日本に、キリスト教の異端である旧統一教会(現世界平和統一家庭連合)が政治の世界にまで入り込み、好き勝手なことを進めている。

 さまざまな悪しき事がある。それを追い出すことは簡単なことではない。

 でも、決してそのままであってはいけない。

  

★苦しみの支配から喜びの支配へ 

 苦しみの支配から喜びの支配に移りたい。

 苦しみの支配のもとにいたくない。早く苦しみの支配から解放されたい。

 苦しみの支配 それは苦しめる者、悩ます者が追い出されなくてはならない。

 そして、喜びと希望を与える者に置き換わる必要がある。

  苦しみ、絶望はなく、代わりに喜び、希望の中に歩む、生きる。その幸いをいただきたい。

 

★本日は、キリストのご支配という説教題のもとに。

  キリストのご支配がいかに幸いであることか。

  そのご支配のもとに生きることの喜びを共に分かち合いたい。

 

★キリストの復活

 キリスト教の中心の出来事の中に主イエスがおられる。

 その主イエスは、天の父なる神から遣わされたお方。

 特別な使命を与えられて遣わされた。

 私たちを縛り付けている問題を解決するために。 2つの問題。

  第1は、人間の罪 神から断絶して、罪の支配のもとにいること

   神から断絶して、さまよっているということ。

  第2は、死の支配のもとにいるということ

   死から逃れることができないということ。

  この二つの問題を解決するためにおいでくださった。

  その主イエスは、十字架につけられ殺され死んでしまわれたということ。

  それで終わりではなく、その死から3日目に復活されたということ。

◎20節

15:20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

 キリストの復活は、死を打ち破るという誰もなしたことのないこと 

  それを成し遂げてくださった。

  初穂となられたということの意味は、そのことでその恵みをそれに続く者たちが続けて受けることができるということ。

 乾いた大地。 今まで、井戸がなかったとします。

 水はもうどこにもないと考えていたのに、実は地下深くに水脈があった。

 一人の人が深く深く掘り進み、だれも破れなかった岩盤を打ち破り、ついにその水脈に届き、水を汲み上げることができるようになった。それを見ていた人たちから歓声が上がる。 その歓声は、その掘った方への歓声。

 その歓声は、自分たちの喜びに代わる。 なぜならその井戸の水は次々と水をくみ上げ、出てくる。 その水を自分たちも飲むことができるようになったから。

 キリストは復活された。今まで誰もなしえなかった死を打ち破られ勝利された。

 

★死はどこから来たのか

  人には寿命がある。 永遠に生きることはできない。

  命はそれぞれに一つだけ。その命には期間がある。

  長寿であったとしても、80歳、90歳、100歳

   長寿であってもいつか人生の終わりが来る。

  長寿でないことも 病気で亡くなる、事故で無くなる

  死は、突然やってくることもあるし、病気で命の終わりを覚悟しなければならないということも。 長寿であっても、体の老衰により、命の終わが来る。

  病気や事故がなくても、命の長さは遺伝子において、定められている。 

  それは医学的にも、生理学的にも定まっている。 それは仕方のないこと。

聖書は、その死が必ず訪れることは、神との関係においてそうなったことを告げている。

◎21-22節  

15:21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。

15:22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

 創世記の第3章に記されている通り。

 永遠に生きる可能性をもってこの地上に生れ出た人間

 しかし、最初の人であるアダムとエバは、神の御命令を守らず、決して食べてはいけないと言われていた善悪を知る木の実を食べてしまった。

 もはやエデンの園にとどまることはできなくなり、エデンの園の外に追い出されてしまった。 永遠の木の実にあずかることは完全に不可能になった。

 人はさまようものになり、死ぬものになってしまった。それは、すべての人に及んだ。 死ということが定めになってしまった。

 神と断絶してしまったことが死の大元の原因であると聖書は教える。

  罪の問題が人を支配し、死の問題が人を支配するようになった。

  この問題の解決のために、主イエスはおいでくださった。

 最初の人アダムによって、この世界に罪と死が支配するようになった。

  このことで、世界は暗くなった。世界に悲しみ、苦しみ、闇が覆った。

  

 先日、カルト宗教の問題で、わかりやすくこう定義していました。

  宗教は心を解放するもの 一方、カルトは心を縛るもの 

  わかりやすいと思いました。

  旧統一教会、現世界平和統一家庭連合は、まさにカルト

   人の弱みに付け込み、また人の恐怖心を与え、自分たちの独自の教えに引きずり込み、その人を支配する。 気を付けたものです。

 さて、宗教は、心を解放する。心に安らぎを与えるもの その通りだと思います。 

 キリスト教も、一般的に言うならば、数多くの宗教の中の一つと言えます。 ただし、キリスト教は、最も幸いな宗教です。宗教とというより生きる道です。

なぜなら罪の問題、死の問題を根本的に掘り下げ、その根本的解決を与えるものだからです。 罪の問題、死の問題は、根本的解決なしには、本当の心の奥底、魂を解放し、安らぎを与えることはできません。

  最初の人アダムを通して、入り込んできた死の問題、そしてその根本原因である罪の問題を解決するために、主イエスはおいでくださいました。そしてご自身の十字架での死と復活により解決してくださいました。

 

★死の問題の根底には罪の問題があります。

  真の神を受け入れず、自分勝手に生きる。

  真の神の代わりに、人が祭り上げた神(それを聖書は偶像といいます)を崇拝して歩む。 真の神と断絶して生きる。その行きつくところは、滅びです。

  神と永遠につながらないままに流れていくということです。

  最後には、そのことが問われます。 何の言い開きもできません。

  罪の支払う報酬は死です。

 この解決のために、主イエスは十字架の上で、その命を犠牲として、その罪の代価を支払ってくださいました。

 主イエスの十字架の死によって、罪の問題が解決したのでした。

 罪の問題が解決したことにより死の問題が解決しました。

◎26節

15:26 最後の敵として、死が滅ぼされます。

死という怪物を主イエスが退治してくださいました。

 確かに、命の終わりがすべての者に、訪れます。

 しかし、死ですべてが飲み込まれ、終わりではないのです。

 この地上での命は終わりますが、主と共に生きる永遠の命は続くのです。

 主イエスを信じて、主と共に生きる命、すなわち永遠の命が与えられ、その命は、この地上の生涯が閉じられても、続くのです。

 

★キリストのご支配

  支配という言葉に抵抗を覚える方もいるかもしれません。

  そこに制約を感じるかもしれません。 でも、考えると私たちは、様々な制約の中に置かれています。

  この地球という星で命を与えられて生きています。

   太陽の光、熱の支配、重力、酸素なしでは生きいけません。

  様々な制約、支配のもとに生きています。

  支配を考えるとするなら、幸いな支配の中に歩みたいものです。

  不幸な支配、悪しき支配、偽物が本物のような顔をして支配する。

  悪しき支配、不幸な支配は、人が勝手に、教えを作り上げ、それですべてを支配しようとするからです。

 それらのことは最後にすべて化けの皮がはがされます。

 それらの偽りの者、偽りの団体、偽りの宗教はすべて、真の神によって裁かれ滅ぼされます。

 しかし、悲しいことに最後のあがきで多くの人を苦しめます。

 

 良き支配、幸いの支配を聖書は告げています。 それは、キリストのご支配です。

キリストは、真の神によって遣わされたお方。 その方のご支配がなされる。

 

◎23-28節

15:23 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、

15:24 次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。

15:25 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。

15:27 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。

15:28 すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。

 すべての敵が、キリストの足の下に服従する。

 すべての敵、神のみ心に反し、勝手なことを行う者たち

  権力、軍事力、悪しき策略をもって、周りの者たち、不特定多数の人たちを支配しようとする。 自分の思うままに支配しようとする。 その結果、苦しむ人たちがたくさん起きる。

  ロシアしかり、旧統一教会しかり。

  その他、嘘偽り、悪しき策力により、この世を支配しようとする者たちは足の下に踏みつけられる。一言でいえば裁かれるということです。

 すべての偽りの悪しき支配、偽りの悪しき権威や勢力も滅ぼされる。

  それらの支配によってそれだけ多くの人が苦しみの中に投げ込まれていることか。 誰も覆せないように思えるほどの力を持っている。

 しかし、全能にして正義の神、救いの神は、それらの間違った悪しき支配をすべて滅ぼされる。 それは、神のご支配、キリストのご支配が及ぶということです。

 

多くの人を支配し苦しめるもの 様々なものがあります。 

終末のしるしとして

〇マタイ24:3-14

24:3 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」

24:4 イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。

24:5 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。

24:6 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。

24:7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる

24:8 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。

24:9 そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。

24:10 そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。

24:11 偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす

24:12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。

24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

24:14 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」

 ・わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。(5節)

 ・戦争の騒ぎや戦争のうわさ(6節)

 ・民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。(7節)

 ・そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。(9節)

 ・互いに裏切り、憎み合うようになる。(10節)

 ・偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。(11節)

 ・不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。(12節)

 人を支配し苦しめようとするものが起こる、そのような出来事を経験する。

 しかし、最後まで忍耐する者は救われる。

 その忍耐は、人の頑張りで乗り切れるものでしょうか? 人の頑張りは限界があります。

 そこに支えと守りがなければ、その忍耐は決して続きません。

 主イエスすなわちキリストは、共にあって支え守ってくださいます。

 キリストのご支配  それは何という幸いでしょう。

〇24-25節

15:24 次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。

15:25 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。

 すべての権威や勢力は滅ぼされる。 すべての敵はキリストの足の下に置かれる。

 この自分を苦しめるもの、悩ますものがある。 それらのものを恐れる必要はない。

 キリストのご支配の中に歩むことができる。

 嵐が吹き荒れた時、船は港に避難する。逃げ込む母港がある。 確かな港、受け入れてくれる港がある。

 

 今も生けるキリストは、主イエスを信じる者と共にいてくださる。

 たとえどのようなことが起きても、どのような事態の中に置かれても、主に依り頼めば良いのです。  

 キリストのご支配の守りと助けをいただき歩むことの幸いが用意されているのです。 ハレルヤ!

 

8月7日() 聖日礼拝  説教メモ

   「朽ちるものから朽ちないものへ」 コリントの信徒への手紙一15章42-49節 

   

 

★朽ちるもの

  朽ちていくもの、古くなっていくものは、いろいろとある。

  新築の家も30年、50年経つと、古くなってしまう。

  刺身 新鮮が売り物、時間がたてば、新鮮さが失われ、刺身としては食べられなくなる。

 若さも数十年経つと、その若さは失われていく。

 樹木も、若木から大きくなり大木となる、でも、数十年経てば、老木となる。

  人も、赤ちゃんから育ち、青年となり、大人となる。 やがて、熟年、初老、老年となる。 朽ちていくことは自然の流れ。

 物であれば、朽ちて行き、ついにはすべてが取り壊される。すべて廃棄される。

 命のあるものであれば、その命の終わりがやって来る。死がやって来る。

  すべてが終わる。 荼毘に付せられる。

   命の終わり、すべてが終わる。 思い出だけになる。 その命を覚えている人もいなくなる。

 命の終わり そして荼毘に付せられる。 骨がようやく残る。灰となる。

 骨壺に収められる。 やがては土に返される。

  

★命の輝き

  命があること。 命が与えられこの世に生まれ出る。 成長して、大きくなり、いろいろなことができるようになる。 学び、知識を増やす。いろいろなことができるようになる。

  家族と共に過ごす。 仕事に励む。 

  やりがい、生きがいを感じる。 喜び、達成感。

  その一番輝いた命も、人生の後半からは、その輝きが少なくなる。

  第一線から、退く。 体の衰えを覚える。 病によって、体が弱る。 

輝きはだんだん減っていく。そして、輝きがなくなるように思える状態になる。

 それは、自然の摂理だと納得するか? それとも、諦めるか? それとももがく?

  

★3つの輝き

 ①一つ目は、全盛期の輝き。

  勢いのある時、うまくいっている時

  自分のしたいこと、やりたいことを達成している時。

   それは、限られた時期、限られた人といえる。

 ②二つ目は、主なる神との出会いによる輝き

  すべてが新しくなる。

  主イエスを信じ、神の子どもとなる。神の子どもとされる。

  神と断絶して歩む人生は、さまよう歩み。 自分の願いがかなっても、本当の喜びが沸いてこない。むなしい。 その虚しさが消える。

 主によって生きる意味を教えていただきつつ、歩む。

 ③三つ目が、この世の命が終わっても、与えられる新しい命の輝き  

   新しい体、霊の体 今日の聖書のテーマ

   朽ちるものが朽ちないものに変えられる。

 

〇35-41節

15:35 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。

15:36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。

15:37 あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。

15:38 神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。

15:39 どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。

15:40 また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。

15:41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。

 地上の体 やがて衰えていく、そしてついに最後の時を迎える。

 地上の体がいつまでも続くように、支えられるようにと願いつつも、終わりの時がやって来る。 それは、悲しみの時であり、すべてが終わるように思える時。

 聖書は告げる。

  地上の体には終わりの時が来る。それでおしまいではない。 天上の体が備えられ与えられる。

 地上の体の輝きには限界がある。どんなに輝いても、それは限られた輝き。

 一方、天上の体の輝きは、はるかに優れたもの。 なぜなら、それは神から与えられるものだから。

 その天上の体は、主イエスの復活により、主イエスを信じる者に与えられるもの。

  第2の輝き、この地上での神の子どもとして生きる輝き

  そして、命の終わりの後に与えられる第3の輝き  天上の体の輝き

  人がそこに介入できない事柄。  永遠の命を与えられて生きる

   この地上において、神による励まし、支えによる輝きに加え、

  この地上の後に、ダブルプレゼントとして与えられる天上の体が与えられるということから来る輝き。

 

★人は地に属する者

  土からできたもの  地の塵から造られたもの だからいつかは土に帰るものになる。 土で造られた者は、自然の摂理に従って、勢いを増す時がありますが、やがて勢いを失う。そして、土に帰る準備をしなければならない。

 どんなに鍛えても、限界がある。 どんなに立派でも限界の時を迎える。 

 弱くなる、小さくなる。 どうすることもできなくなる。 そして、やがて終わりを迎える。 それが自然の摂理。逆らうことができない。

 ある程度は逆らう、抗う(あらがう)ことはできても、ついにはあらがうことができなくなる。 自然の命の体 それは、感謝であるが、そこには限界がある。弱いものになってしまう。 その終わりの時がある。

◎47-48

15:47 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。

15:48 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。

 

★聖書は第3の輝きを語る。

  それは、霊の体の輝き。

  主イエスの復活がなければ、それはなかった、与えられなかった。

 しかし、主イエスの復活がそのことを可能にした。

 主イエスは、復活の体をもって、弟子たちのもとに戻って来てくださった。おいでくださった。 40日間、共に歩んでくださった。

 その主イエスの復活の故に、イエスを救い主として信じ受け入れる者に、復活の霊の体が与えられる。

 老い、衰えを覆い隠そうとする。 皮膚の衰え、たるみ、しわ、顔のシミ、腰の曲がり 化粧を施す。 それでも限界がある。

 かつて黒い髪だったのに白くなる。ふさふさしていたのに少なくなる。

  髪染め、育毛剤 それでも限界がある。

  それだけでない、すべてが失われる時、すべてが終わる時が来る。

 その限界は仕方ない。 自然の肉の体であるから。

 天の神さまは、主イエスを信じ、神の子どもとされたものには、やがての時、霊の体を与えてくださる。

 それは、想像もつかないこと。

 夢の中で、死んでしまった人と会う。

  それは、まさに夢のような出来事。 死んでしまったと思っていたのに生きていたんだねと喜ぶ。 でも、夢から覚めれば、夢であれ遭えて良かったと思う。 ああ、夢だったのかとがっかりする。 一喜一憂することになる。

その出来事が、ああ夢だったのかとならないと聖書は告げる。

 

★霊の体が与えられる。

  復活の主イエスの恵みの大きさ、力の大きさを知ることにある。

  主イエスの復活がどれだけ幸いなものであったことか。

  霊の体の輝き 人の頑張りや努力には依らない。 ある限られた時だけ絶頂期だけのものではない。 神がその輝きを備え与えてくださる。

 自然の命の体は、いつか衰える、いつか消えてしまう。

  そこに私たちの悲しみがあり、絶望がある。 悲しみ、絶望を抱え続けてはならない。 確かに、その命の最後を目にする時に、恐れ、悲しみが打ち寄せ、絶望が押し寄せるでしょう。

 でもそれに呑み込まれる必要はない。

 また、愛する者との別れは悲しく、涙が乾かない。

 聖書が告げ指し示していることを心に留めましょう。

 命の終わりがすべての終わりではない。 命の終わりは、確かに自然の命の終わりです。 でも、その後に霊の命が与えられる。その命の輝きの中で生きる恵みがあると聖書は告げています。

 

◎43-44節

15:43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。

15:44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。

 卑しいもの、弱いもの 自然の命の限界

  卑しいもの 見栄えのしないもの 老いていく。

   人生の途中であっても、難しい病になることがある。

  弱いもの 限界がある。どんなに頑張ってもできることは限られている。

   頑張るけども、疲れてしまう。

  暑さ、猛暑、連日の猛暑。 扇風機なし、エアコンなしにはもうどうしようもない。 夏の暑さに、そして冬の寒さが体にこたえる。 弱り切ってしまう。

 

★主のなしてくださること

 卑しいもので蒔かれ、輝かしいものに復活する。 弱いもので蒔かれ、力強いものに復活する。 自然の命の体で蒔かれ、霊の体に復活する。

 なんということでしょう。 この世の目で見れば、卑しいものとして、弱いものとして、自然の命の体として限界、もう終わり これ以上は無理。

  聖書は告げている。

   復活の大いなる恵みに心をとめよと。

  聖書の語り掛けを聞き、それをもとに主を見上げる。

  主の約束を心にとめる。 その約束のゆえに主をあがめる。

  私たちの主イエスは、十字架にかかって死んでくださった救い主である。

  それと同時に、復活の主である。

 復活の主イエスは、復活の恵みを私たちに与えてくださる。

  そのことを心にとめなければ、私たちは、悲しみに沈んでしまう。

 なぜでしょうか?

  なぜなら、かつては輝いていたのに、今は輝きが失せた。

   かつては強かったのに、今はこうして弱くなっている。

  かつては目の前にいたのに今はもう目の前にいない。

   嘆き、悲しみ、・・

 復活の主のご支配、その主によって、用意されるものに心を向けましょう。 

  復活の恵みが与えられる。

  

 復活の主につながる者とされていることの幸い。

 第2の輝きを受け取り歩みましょう。 罪が赦され、もはや罪に問われない。

  裁きを恐れる必要はない。

 第3の輝きを受け取ることを心にとめましょう。

  この地上の命が終わっても、天にて霊の体を受け取る。

  霊の輝きに包まれる。その輝きは失せることがない。

   この地上では、様々な制約、限界、衰え、失われていくものが、

◎49節

15:49 わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。

  

★朽ちるものから朽ちないものへ

  復活の恵み、復活の幸い

  それを受け取る約束。

◎42節

15:42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、

 毛虫は気持ち悪いと思う人は多い。 

 毛虫ははっぱを食べ大きくなり、やがてさなぎになる。動かなくなる。

 そのさなぎの背中が割れて、きれいな蝶が誕生する。

 朽ちるものである私たち、そのままでは、まさに朽ち果てるもの

 復活の主イエスのゆえに、主イエスを信じる私たちは、朽ち果てるもので終わらない。 朽ちないものに復活する。

 その約束。 この約束を心にとめて、感謝しましょう。喜びましょう。

  主をあがめましょう。 ハレルヤ!

 

 

8月14日() 召天者合同記念礼拝  説教メモ

   「命の光を持つ」   ヨハネによる福音書8章12-20節 

 

★難しい問題

  むずかし問題が降りかかると、心が暗く、重くなる。

  問題は様々な姿を呈する。 どうしたら良いか? 受け止めつつ乗り越えていきたい。

 

★コロナ禍

  新型コロナ感染が始まり、世界中に広がり、早3年

  今は、日本では、第7波。 感染の広がり。

  私たちの教会でも、数家族がコロナ陽性。自宅で陰性になるのを待っている。 オミクロン株になり重症化しにくいとはいえ、感染しやすい。

  病院への入院、施設への入居 家族となかなか会えない。 孤独感も強い。

  コロナ感染に気を付けつつも、なお乗り越えていきたい。

 

★ロシアによるウクライナへの軍事侵攻

  2月24日から始まり、5カ月が過ぎ6カ月に

  ウクライナの国は破壊され、多くの方が亡くなり、ほかの国に逃れ

  今なお、戦争が続いている。 ロシアの大統領、その取り巻きの人たちによる蛮行 主権国家への侵略、許されないことを平気で行っている。

  どれだけの苦しみ、悲しみ、・・   世界中の人にも悲しみ

  人間が、自分の野心のために。自分たちの野心によって、平気で、他の人の大切なものを奪う。 悲しく、心が重くなる。

  一日も早く、この悲しみが終わりますようにと願います。

 

★今話題となっているもう一つのこと、カルト宗教の闇

  旧統一教会(現世界平和統一家庭連合)の闇

  人の弱みに付け込んで、大切なその人の人生、持ち物、財産を収奪する。

  人をマインドコントロールして、自分たちの思うままに支配する。

  集団結婚式、霊感商法、今なおなされている。

  人の心を不安にさせ、その後不安を取り除くためにと、その人の大切な持ち物、財産、お金を吸い上げる。 あってはならないことがなされている。

  政治の世界にまで手を伸ばし、自分たちのやりたいことをやろうとしている。 これも、深い闇です。

 

★次々にやってくる出来事

  それらのことで、心が揺り動かされる。 難しい問題に心が暗く重くなる。

  うまくできることもあるが、なかなかうまくできないこともある。

  仕事のこと、人間関係のこと

   順風の時もあるが、逆風の時もある。

  勢いのある時もあるが、勢いを失う時もある。

  人生も、半ばに差し掛かり、後半に進む。

  上り坂から、下り坂に差し掛かる。 右肩上がりから右肩下がりに

  体の衰えを覚える時に 人生をどう終えるか、終活を考えねばならない。

 

★願うもの

  今願うこと それは、平和であり、平安。そして希望。

  国と国の平和、人と人の平和。 心の平安。 そして将来に向けての希望。

  これらを妨げるものは多い。

 

★聖書が伝えるもの

  それは、平和であり、平安。そして希望。

  シャロームという言葉が聖書にあります。 その意味は、平和、平安という意味です。 神は、私たちに平和を与えてくださるお方です。

  国と国の平和、人と人の平和の土台は、神との平和です。

  神との平和、それは神とつながるということです。

  神とつながることなく、神と離れて歩む者となった。

  真の神を知らず、真の神から離れて生きる。 そしてさまよう者になった。神と断絶したまま歩む。

  橋の崩落は困る。

2016年の熊本地震で崩落した阿蘇大橋。約5年の時を経た202137日、「新阿蘇大橋」として生まれ変わり、ついに完成。

  神は、私たちとつながる橋を用意してくださった。

  その橋は、イエス・キリストという橋です。その橋は、決して崩落することはない。 その橋を通して神とつながって生きることができる。

  それは、平和であり、平安です。

 

★心が暗くなる

  難しい問題を抱える時 そこにエネルギーを吸い取られる。

  思ってもみなかった病  将来に対する不安。

   人生の半ばに向かう、後半に向かう 大丈夫だろうか

  心が急に元気を失うことがある。 メンタルが不調になる。

  今までできていたことがうまくできなくなる。

  人生の最後にやってくる死に対する恐れ。

   自分の愛する者、自分を支えてくれる者を失うかもしれない。

   様々なことが打ち寄せ、不安になる、おそれの心を持つ。

 

主イエスの約束

◎12節  

8:12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

 主イエスに従う者は暗闇の中を歩かない。

  この世は暗闇が多く、深い。そこに巻き込まれる。その中を歩んで行かねばならない。

 暗い夜道を歩くとき、懐中電灯をもっていれば安心。 車であれば、ヘッドライトがついていれば安心。

 暗闇の中で、光を持つ。命の光を持つとの約束。なんと幸いなことでしょう。

 困難な時、不安な時にも共にあって支えてくださる主なる神がおられる。

 主は決して見捨てられないお方です。

 

★どうすることもできない事柄がある。

  自分を、自分たちを不当に苦しめる相手がいる。苦しめ悩ます相手がいる。

   自分の力、自分たちの力ではとても対抗できない。 思うままにやられる、苦しめられる。 その相手を正しく裁くお方がおられる。

   その主にゆだねる。お任せする。 最後の最後は、公平に裁かれる主がおられる。 人の力ではとても裁くことはできない。

 世界においても、様々なことがある。

 ロシアによるウクライナへの軍事侵攻、そのために命を奪われた多くの人たち。人には言えないような苦しみを味わった人たちがいる。

 主が、そのすべてを裁かれる。

◎16節  

8:16 しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。

 主の裁き それは真実である。

 主イエスの裁きは父なる神と共にある裁き。それは間違いのない真実な裁き。

 この世界に生きる私たちを苦しめようとする力がある。 

  その巧妙な策によって、世界を揺り動かし、苦しめる力がある。

  目に見えるものの背後にあって、この世界を、そして私たちを、くるしめる力がある。それこそ、サタンと言われる存在。

 その頭(かしら)は、主イエスによって打ち砕かれている。

 だから、恐れる必要はない。

 

★主イエスにより頼む人生

 それは幸いな人生 闇に満ちたこの世にあって命の光を内にいただいて生きる人生であるから。

 

★召天者名簿

  教会員として歩み、主の御許に召天された方々165名  またその家族、関係の方々84名 その名簿で、名前が読み上げられました。

  曽根会堂では、主の御許に召天された方々37名  またその家族、関係の方々10名

 

★記念の年の方々

  召天者の方々23名、 その家族、関係の方々8名

   それぞれの信仰の姿、お人柄、信仰の姿の読み上げ、 写真の紹介も

 

★桐原静子姉

その略歴

 1933年 11月 29日 羅南(北朝鮮)にて生まれる。

   父瓜生英二さん、母ノボルさん 次女として

 1950年 6月 13日 宮崎清水町教会にて洗礼を受ける。 16歳

 1958年 4月20日 北九州復興教会に転入 24歳

 1959年 5月24日 桐原秀生兄と結婚 25歳 三男二女を与えられ 

 る。

 2021年 12月28日 召天 88歳               

★その生涯

81歳の時に作られた自分史の冊子

★愛唱聖句

 「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

                  マルコ福音書9:50

 互いに平和に  争いをしないということにとどまらず、愛し合う、仕え合うことを教えられた。 静子姉もそのことを目指して歩まれたのではないか

 

  塩を持ちなさい。 その塩は神が与えてくださる。

 桐原静子姉の教会記念誌60周年、70周年

  ご自分のことというよりも、教会がいかに建てられるか、その中で自分が教えられたことを記しています。 内に塩をいただいた静子姉の文章だなあと思いました。  静かな祈り 主にゆだねつつ 桐原静子姉の祈り 「教会に導かれた信仰」

 

★命の光を持つ

 召天者の方々 その家族、関係の方々

 その人生に長さはまちまちです。

 1歳になる前にこの世での歩みを終えた方もいます。赤ちゃんの時、幼児の時、小学生の時、20代で、青年の時に、人生の半ばでの方もいます。

初老になってから、老年になってから

 長寿を全うされた方、90代、100歳を超えての方もいます。

 それぞれ、 その人生において、主のご支配があった。主の導きが

 主イエスを信じる者は、暗闇の中を歩まない。

  命の光を持つ。  命の主と共に歩む人生、それは、幸いなこと。

 恐れを抱かせるものに惑わされることなく、歩むことができます。

 

 

8月21日() 聖日礼拝  説教メモ

  「苦労は無駄にならず」 コリントの信徒への手紙一15章50-58節 

 

★願い

 私たちは様々な願いを持ちます。

  これを手に入れたい。これを達成したい。

  マイホームを手にしたい。 そのためにお金を貯める。

  この資格を得る。 そのために勉強をする。

  そのために努力します。 その結果、その目標を達成したならば大きな喜びを持つことができます。  でも、その通りにならないこともあります。 それでも、めげずに前に進みます。

 この苦しさから逃れたい。

  今あるこの困難、何とか乗り越えたい。 残暑厳しい日々が続いています。

  昨晩も、暑く湿気が高く寝苦しい夜でした。早くこの時期を通り越したい。

   今抱えている困難 新型コロナ感染もしかり。

   体調不良、病気 何とか乗り越えたいと願う。

   入院の期間 早く退院したい。 また自宅で過ごしたいと願う。

   主に祈り願いつつ、歩を前に進めていきましょう。

 

★大きな困難 

  大きな困難は様々あります。

   病気という困難 難しい病気、長引く治療期間、なかなか治らない。

    この病気と付き合っていかねばならない。

  大きな災害

  今年、東北、北陸地方 大きな水害 青森、新潟、福井 ずっと雨が降り続き 家が床上浸水、家が流される 農作物 リンゴの収穫が全滅、その他の農作物に大きな被害

   

★すべてを飲み込んでいくもの

  大雨、洪水、土砂崩れ

   作物を、家々を飲み込んでいく。

  大きな地震、津波

   家々を破壊する。飲み込んでいく。

   1995年の阪神淡路大地震。2011年の東日本大震災

   百年ほど前の1923年には関東大震災、1948年の福井大地震、・・

   大きな被害 住む家を失う 長い期間の避難所生活

  戦争 今も起きている戦争

  ロシアによって引き起こされた戦争 ウクライナの人たちの幸いを奪い取る

   素敵な町々が破壊され、多くの命が奪われた。

   住む家を失う。幸せな生活が一変。 悲しいこと。

   愛する夫を、妻を、子どもを失う。 愛する親を、祖父母を失う。

   幸せな日々が奪い取られ、生活は一変。 一日も早く、この戦争が終結に至ることを願います。

  もう一つ、すべてを飲み込むもの

   それが、今日の聖書の個所に記されている。 それは死というもの

   死は命のすべてを飲み込む。 今まで元気に生きていたのに、それらをすべて飲み込む。すべてを過去のことにしてしまう。

   病気によって、事故によって、災害によって、死がやってくる。

   急にやってくることもありますし、そうでないこともあります。

   年を取り、少しずつ、身体が衰え、やがて人生の終わりを迎える。

  

★死の問題

 死は、いつか必ずやってくる。これほど大きな問題はない。

  それなのに、その問題の解決はどこにあるのか?

  不老長寿を願いつつも、不死はない。いつかは必ずやって来る。

  苦しまず、ぽっくり亡くなりたいと願う人も たとえそうなったとしても、死の問題が解決するわけではない。 死はすべてを飲み込む

  私たち一人一人の命を飲み込む。 今までの生活をすべて飲み込む。

  どんなにたくさんのものを手に入れていても、それらをすべて、残して行かねばならない。 今までの生活のすべて、家族との生活のすべてが飲み込まれる。

 残された家族にとっては、その愛する者との生活、共に過ごした日々、共に食事をし、共に語らい、共に助け合い励ましあってきたことがすべて終わる、過去のものになる。今はもうない。 喪失、大きな悲しみの中に置かれる。 

◎50節 

15:50 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。

  朽ちるものとしてすべてが飲み込まれる。

 

★神からの知らせ

  それは神秘  先々週の42節から49節において記されていることの通り

  そして今日の聖書の51節から53節に記されている通り  

◎51-53節 

15:51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。

15:52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

15:53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。

 元気だった体が病のためにやせ衰える。元気を失う。

 食事もできなくなる。呼吸もやっとになる。 そして治療の甲斐なく、命の終わりを迎える。

 若々しかった体も、やがて年を取り、老人のからだになる。

 しわが増え、皮膚もたるむ。筋肉も衰える。 腰も曲がる。 若き日の美貌も失われる。 朽ちるものになってしまう。

 朽ちるものが朽ちないものを着る。そのように変えられる。

 人の力では無理、不可能。 どんなにそう願っても無理。

しかし、神はそのことをなしてくださる。

 キリストの復活のゆえに。

 キリストの復活の勝利が、キリストを信じる者たちに及ぶ。

 貯金が数万円であれば、だれかをその金で援助することは難しい。

 でも、その貯金が数十億円あったとするなら、そのお金で、困っている人たちを援助し助けることは可能。

 キリストの復活による命の貯金の金額は、果てしない。

 そのキリストの復活の恵みは、キリストを信じる者たちに命をもたらすことができる。

 その人が生きている間、 復活の勝利の主が共にあり、助け導いてくださる。

 その生涯が閉じられる時、朽ちない命を着せてくださる。

 最後のラッパが鳴るとき

  神がそのラッパの音を響かせてくださるとき。すべてが変わる。

  朽ちるものが朽ちないものを着ることになる。

  もはや朽ちない。 復活して朽ちないものにされる。

 キリストの復活が、その信じる者たちに、その復活の恵みを分け与えられる。

 必ず着ることになる。

  着ることになるかもしれないではない。 必ず着ることになる。

  信仰によってそのことを握る必要がある。

 愛する者が目の前から失せる。これほど悲しいことはない。

  その悲しみの中に沈む。 私たちは一度は沈む。沈み続ける道もある。

  ああ、失われた、ああすべては終わった。すべては過去のものになった。

  聖書の御言葉に聞きましょう。

  必ず、朽ちないものを着ることになる。

  信仰とは、神が約束されていることを、受け取ること。 

   神がこう言われている。 主よ、信じます。 主よ、感謝します。

  あなたの御手の中で、そのようにされることを信じ、感謝しますと。

 

★死に対する勝利宣言

  死がすべてを飲み込む。

  死に対しては誰も勝利できない。 死が最後の勝利者だと言われてきた。

  聖書は宣言する。 死は勝利に飲み込まれたと。

◎54-55節 

15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。

15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

  死はキリストの復活の勝利に飲み込まれた。

  キリストは死を打ち破り、復活された。 死の世界から甦られた。

  陰府に下り、そこから復活された。 

復活の勝利の主キリストのその勝利の恵みが、キリスト信じる者に与えられる。

  死が勝利者ではない。

  死を打ち破られたキリストこそ、勝利者なるお方である。

  死が近づいてくることは、恐ろしくないことではない。恐ろしい。

   経験したことがないから。

   自分一人では、とても対抗できない。 でも、その時に、キリストと共に進むときに、キリストが必要な力を与えてくださる。平安を与えてくださる。

 キリストが助けてくださる。 そして、朽ちないものを着せてくださる。

 主よ、お任せします。 あなたのご支配のもとに憩わせていただきます。

 主よ、信じます。感謝しますと。

 

★死の問題の解決

 死の問題をどのようにして乗り越えるか

  悟りを開く? 死に対して、冷静な心、悟りの心、じたばたしない心

  それも一つの方法かもしれない。

  じたばたせずに、迎える。 

 聖書は、主イエスが共にあって、平安を与えてくださる。主に寄りすがれば良いことを教える。 主にお任せする。 主が共にあって支え助けてくださる。 

 死の根本原因は罪であると聖書が教える。 

〇ローマの信徒への手紙6章23節

6:23 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

  罪 神との断絶の問題、罪の問題が死の原因

 人は死ぬ者になった。その根本問題の解決なしには、死に対する解決はない。

  死のとげは罪である。とげはチクチク痛む。

  痛くない痛くないとどんなに言い聞かせても、とげが刺さったままであれば   

 チクチク痛む。そのとげを抜き取るとそのチクチクは完全に消えてしまう。

 罪のとげをキリストが抜いてくださった。

 死の問題の根本解決を成し遂げてくださった。 なんという感謝でしょう。

 

◎50-57節 

15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

15:57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。

 勝利をくださる神に感謝しましょう。 ハレルヤ!

 

★苦労は無駄にならず。

 すべてが終わってしまう。 実はすべてダメになる。 結果は何も残らず。

そうなることは、残念なことであり、悲しいことです。

しかし、主に結ばれている者はそうではない。 苦労は決して無駄にならない。

それは、なんと幸いなことでしょう。

 揺り動かすものがやって来る。 思ってもみなかったこと。

 新型コロナ感染のこと、 ロシアの軍事侵攻によるウクライナでの戦争

 私たちを巻き込むような出来事 その渦の中に巻き込まれる

 自分の頑張り、自分の知識、自分の持ち物では限界の事柄

 その中で

◎58節 

15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

 動かされないようにしっかり立つ。それは、主に信頼しつつ立つ。

 主の業に常に励みなさい。

  礼拝を捧げつつ進みましょう。 聖日礼拝を共に捧げて進みましょう。

 聖書の御言葉を日々いただきましょう。 聖書の御言葉を心にとめつつ歩む。

  これも省略、これも素通りではなく。

 主に結ばれているなら、その人たちの苦労は決して無駄にならない。

  実を結ぶ。 幸いな実が残る。

  主がその実を約束してくださっている。

  この地上の歩みにおいて、主と共に歩む。主の業に励む。

   主の御心に沿って歩む その実は残される。

 この地上の生涯を終えた後、主につながっていなければ、朽ちるもののまま

 主につながって歩む者には、朽ちないものが着せられる。

  必ず、朽ちないものを着ることになる。 

  主をほめたたえつつ、なお歩を進めていきましょう。

  永遠に残るものを、永遠に輝き続けるものを主は与えてくださる。

なんという幸いでしょう。 主をほめたたえます。

 

8月28日() 聖日礼拝  説教メモ

  「何事も愛をもって」 コリントの信徒への手紙一16章13-24節 

 

★最後に書く言葉

  結びの言葉は大切。 これが最後のメッセージとなるかもしれないから。

  特に愛する家族、愛する友に向けて。

  そのような時に、一番の思いを伝える。これが最後かもしれない。

  これが伝える最後のメッセージだろうと思う時、このことを伝える。

  私たちも、普段には伝えていないことを伝えることでしょう。

使徒パウロも、また、コリントの教会の方々に一番大切なメッセージを伝えた。

  

★このことを伝えたなら、もうこれで良し

  このことだけは伝えたい。このことを伝えたなら、感謝

  このことを伝えなかったなら、後悔する。

   一番伝えたかったことを伝えなかったなら、後悔する。

  一番伝えたいことを書き留めておく。そのことを伝える機会を祈っておく。

   そうでないと、伝えないままになってしまう。

  別れは突然来ることもある。

  普段においては、言うのが恥ずかしいと思ってしまうかもしれない。

  特に私たち日本人は、内に秘めたままにして、そのことを伝えることを後回しにしてしまう。

普段の中でも伝えるべきことを伝えたい。 そのことを伝える機会を用意する。

 言葉に出すことが一番幸いだが、それが難しければ、手紙にして伝える。

    

★使徒パウロの伝えたかったこと

  結びの言葉  コリントの教会の方々に最後に伝えたメッセージ

  4つのメッセージを聞いていきましょう。

  第1は、目を覚ましていなさいということ

  第2は、信仰に基づいてしっかり立ちなさいということ

  第3は、雄々しく強く生きなさいということ

  第4は、何事も愛をもって行いなさいということ

 

◎13節―14節

16:13 目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。

16:14 何事も愛をもって行いなさい

 

★第1は、目を覚ましていなさいということ

 目を覚ましているとはどういうことでしょう。

 眠くて仕方ない時があります。

  眠い時は眠る。一眠りして、すっきりすることもある。

  疲れているときには早めに床に就く。 昼寝を短くしてすっきりして午後からの仕事に励むという人もいる。 

  眠ってはならないときがある。車の運転中眠くて仕方ない。

 ガムをかんだり、コーヒーを飲んだりとしてその眠気を吹き飛ばそうとする。

   高速道路であれば、パーキングでひと休憩をとる。

  居眠りすることはできない。なぜなら、車の運転中だから。

 ここでいう目を覚ましているとはどういうことでしょう?

  今何を見るべきか

  ギデオンと共にミディアン人と戦う者300人が選ばれたとき、それは目を覚ましている人たちでした。 つまり、戦う敵をしっかり見る者たちでした。

  敵から目を離さない者たちが選ばれました。

  敵がどこにいるか、どのような動きをしているか。 それを見失ったら敵に負けてしまう。

 今なすべきことは何か?  自分に託されていることは何か?

 一番大切なことは、主は自分に何を願っておられるか。

 主のご委託は何か? それを自分はどう応えているか、応えようとしているか

 大切ことは、主が自分に何を願っておられるかを受け止めること

 目を覚ましていないというのは、その反対、主のご意向を考えずに自分のしたいことをしている。 

 目を覚ましていることを大事にしていきましょう。

 マラナ・タ(主よ、来てください)

  この言葉を心から言える者であらせていただきましょう。

 目を覚ましているということは、主がおいでになることを意識して歩むということ。

 10人のおとめのたとえを思い出しましょう。

○マタイ25:1-13

25:1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。

25:2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。

25:3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。

25:4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。

25:5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。

25:6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。

25:7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。

25:8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』

25:9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』

25:10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。

25:11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。

25:12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。

25:13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 愚かなおとめもともしびは持っていた、しかし、壺に油を入れて持っていなかった。

 賢いおとめはともしびと共に壺に油を入れて持っていた。

 肝心なものは、壺に油を用意し持っていたかいなかったかでした。

 目の前のともしびは、皆持っていた。

 花婿が来られるのが下がり遅くなるかもしれない。その時に備えて、壺に油を用意して、花婿の来られるのを待った賢いおとめのようでありたい。  

 

★第2は、信仰に基づいてしっかり立ちなさいということ

 信仰に基づいてしっかりと立つ。

 しっかりと立っているつもりでも、その立っているところが平らでなければ

 つまり斜面であれば、しっかりと立つことは難しい。 傾いたところだと気が付かずにいるとしたら大変。

 冬、寒い時に氷が張る。

とても寒いところでは、湖の水面が凍る。もっと寒いところでは川までも凍る。

 表面に厚い氷 5センチ、10センチの厚さの氷が張れば、その上を歩いても大丈夫でしょう。しかし、もしその氷の厚さが3センチ、いや2センチ、1センチ、いや5ミリだったら、大変。 

 その表面の氷は割れてしまう。落ちてしまう。

  自分はしっかり立っているつもりでも、冷たい水の中に落ちてしまう。

 自分の足を踏み入れるところは、大丈夫かと確かめる。

  そのことを確かめずに、踏み入れとしたら大変。 その氷が体重を支えきれない厚さの氷であれば、大変。

 どんなにしっかりと立っているつもりでも、落ちてしまう。

 信仰の目を開いて進む。 この氷は大丈夫かをしっかり確かめて進む。

 この道は大丈夫か、崖に向かっていないか 崖に向かう道を進んでいったら大変なことになる。

 山登りにおいて、このルートは大丈夫か。危険なルート、滑りやすいルートは避ける。 迷いのルートは選ばない。 山頂に至る確かなルートを選ぶ。

 滅びに向かう道がある。 救いに至る道がある。

 主は、滅びに向かう道を選ばないように。 救いに至る道を選ぶようにと語りかけておられる。

 信仰に基づいてしっかり立つとは、道を選ぶときに主に尋ね求める。

 道を進む中でも、主に尋ね求めつつ、歩む。

 信仰に立つとは、いつもその主に尋ね求めつつ歩むということ

 

★第3は、雄々しく強く生きなさいということ

 雄々しく強く生きるとは、どのようなこと?

 恐れなく歩む、弱弱しくではなく、強く生きることは可能なのか?

 簡単ではない。 恐れを抱かせる状況はいくらでもある。

 心配、不安、恐れが生じる。

 今までは順調にいっていた。ところがそうでなくなった。 状況の変化

  新型コロナ感染が起き、コロナの時代に突入した。 様々な大変な状況

  頼りにしていた人が違うところに行ってしまった。

   その人がいれば大丈夫だと思っていたのに。 

  モーセの従者ヨシュアのことを思いだしてみましょう。

  指導者モーセが40年にわたって民を指導してくれた。そのモーセが約束の地を前に天に戻って行った。残された民、従者であった若いヨシュア

 不安でいっぱい。どうしよう、どういたらよいのか 恐れに包まれた。

○ヨシュア記1:1-9

1:1 主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。

1:2 「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。

1:3 モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。

1:4 荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。

1:5 一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。

1:6 強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。

1:7 ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。

1:8 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。

1:9 わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。

主の語り掛けを聞きましょう。

 恐れるヨシュアに対しての主のみ言葉。

 それはまた、私たちへのみ言葉。

 

★第4は、何事も愛をもって行いなさいということ

 何事も愛をもって行いなさいとはどういうことでしょうか?

 何かを行うとき、愛をもって行うことができたら素晴らしい。

○コリントの信徒への手紙一13章1-3節 

13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。

13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

 愛がなければ、騒がしいどら、やかましいシンバルだと

 愛がなければ無に等しい。

 愛がなければ、わたしに何の益もない。 

 どんなに立派そうなことも愛がなければと語られている。

愛がなければ、結局のところ、自分のため、自分のパフォーマンスに過ぎない。

 人の幸せを壊す。踏みにじることになってしまう。

◎15-19節

16:15 兄弟たち、お願いします。あなたがたも知っているように、ステファナの一家は、アカイア州の初穂で、聖なる者たちに対して労を惜しまず世話をしてくれました。

16:16 どうか、あなたがたもこの人たちや、彼らと一緒に働き、労苦してきたすべての人々に従ってください。

16:17 ステファナ、フォルトナト、アカイコが来てくれたので、大変うれしく思っています。この人たちは、あなたがたのいないときに、代わりを務めてくれました。

16:18 わたしとあなたがたとを元気づけてくれたのです。このような人たちを重んじてください。

16:19 アジア州の諸教会があなたがたによろしくと言っています。アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなたがたにくれぐれもよろしくとのことです。

 ステファナとその一家、フォルトナト、アカイコ、そしてアキラとプリスカ

 ステファノの一家はアカイア州の初穂

 アカイア州とは、現在のギリシャの南 コリントの街もアカイア州にあった。

  使徒パウロの宣教に働きの初穂だったことでしょう。

  聖なる者たちに対して労を惜しまず世話をしてくれた。

  主にある兄弟姉妹、困難があったのでしょうか? その世話をしました。

  世話をする。それは一時的なことではない。

   ある期間にわたって、その必要にお応えようとした。

   愛の心がなければできない。

  愛の心をもって、お世話する。その相手の必要を満たそうとする。

 ステファナ、フォルトナト、アカイコ

 あなた方がいないときに代わりを務めてくれた。 ピンチヒッター 代わりになってことに当たる。 自分のことを抱えつつも、その要請に応える。

 困っているところに身を置き、できることを精一杯行う。

 この三人はそのことを行った。元気づけてくれた。困っているところに助けの手を差し伸べ、ことに当たった。

 

*アキラとプリスカ

○使徒言行18:1-28

18:1 その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。

18:2 ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、

18:3 職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。

18:4 パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めてい  

 た。

18:5 シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。

18:6 しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」

18:7 パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。

18:8 会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。

18:9 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。

18:10 わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」

18:11 パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。

18:12 ガリオンがアカイア州の地方総督であったときのことである。ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って、

18:13 「この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております」と言った。

18:14 パウロが話し始めようとしたとき、ガリオンはユダヤ人に向かって言った。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、

18:15 問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない。」

18:16 そして、彼らを法廷から追い出した。

18:17 すると、群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた。しかし、ガリオンはそれに全く心を留めなかった。

18:18 パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った。

18:19 一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。

18:20 人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、

18:21 「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って別れを告げ、エフェソから船出した。

18:22 カイサリアに到着して、教会に挨拶をするためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った。

18:23 パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。

18:24 さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。

18:25 彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。

18:26 このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。

18:27 それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。

18:28 彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。

 アキラとプリスカは夫婦。

 テント作りの仕事 キャンプのテントではなく住まいのテント、本格的な家ではないけれど、移動しようと思えば移動できる簡単な住まい

 使徒パウロもテント作りで生計を立てていた。

 コリントの地で使徒パウロは1年半腰を据えて宣教した。

 アキラとプリスカ 自分たちの家にパウロを住まわせ、支えた。

  そのお陰でパウロは宣教に打ち込むことができた。

  コリントからエフェソに向かう 第2伝道旅行の最後のところ

  アキラとプリスカはパウロに同行した。

  パウロと共に宣教の働きの手伝いをした。

  コリントにとどまることに固守せずに。 主の御業が進むために。

 

○ローマ16:3-4

16:3 キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。

16:4 命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。

 今日の教会学校で貴島姉が語ってくれたところ

  命がけでパウロの命を守った。

  神が立てられた器を守るために、その盾となった。

  

 確かに、何事も愛をもって行うことは、簡単ではない。

 でも、主を愛し心を込めて歩むときに、その道も開けていくのではないか。

 その道を歩ませていただきましょう。

                         (久多良木和夫)

 

 

9月4日() 聖日礼拝 曽根会堂 説教メモ 

   「立ち帰って生きよ」     エゼキエル書18章30-32節

 

★喜び、感謝

 どのようなときに喜び、感謝が沸いて来るでしょうか?

 自分御願いがかなったとき ほしいものが手に入った。前からずっと願っていた自転車を購入できた、バイクを手に入れた。バッグ、服、・・

 コロナ陽性になり、自宅療養、入院

  この1か月の中で、教会につながる方の中でも10家族ほど陽性、家族を含めると20-30名、  幸い、皆さん回復 

  自宅待機の期間を過ごし無事によくなり、退院、また自由に外に、人と会える、・・  良かった。

借金はできればしたくない。

 でも、どうしてもしなければならないときもある。マンションの購入、一括で払えれば良いけども、そうできない。 ローンを組む。その支払いが20年、30年と続く。途中で、自分の収入が激減すれば、その支払いは大変な重荷

 借金は大変。それが無事に返し終えた。良かった。

 借金地獄から解放された。

 

★喜び、感謝の中に生きる

 日々の歩みの中で、一番幸いなことは喜び、感謝の中で歩むことではないでしょうか。

 欲しいものはすべて手に入った。持ち物にあふれている。やりたいことは何でもできる。それも幸いなことかもしれませんが、もし心に感謝、喜びがなかったなら、むなしい。

 持ち物は限られているとしても、やりたいことの中で、その通りになることは限られていたとしても、心に感謝、喜びがあるならば、それはどんなにか幸いなこと。

 主を信じる私たちは、主を仰ぎつつ、上よりの愛と恵みを受けて、喜び、感謝をしっかり持ちつつ、歩むことが許されている。これほどの幸いはない。

 

★本日の説教題

 「立ち帰って生きよ」です。

 主の呼びかけは、「立ち帰れそして生きよ」です。 なんと幸いな呼びかけではないでしょうか。

 山に迷い遭難したとします。自分がどこにいるのかわからない。どうしたら帰れるかわからずにいる時に、自分の名前が呼ばれる、だんだん近くにやって来る。救助隊の人が自分を見つけて自分の名前を呼び掛けてくれたらどんなにか嬉しいことでしょう。「もう大丈夫ですよ」と声をかけられる。

 主よりの呼びかけは、大きな励まし。「立ち帰って生きよ」と

 立ち帰るところがある、生きる道がある。 これほどの幸いはありません。

 

★エゼキエル書18章

 新共同訳では、聖書本文では決してないのですが、段落ごとにわかりやすく表題がつけられている。ここでは、「各人の責任」と記されています。

 自己責任という言葉があります。

  なんでも自由にやっても良いですよ。でも、その後は自己責任ですよ。  

  うまくいくときは良いが、そうでないときは大変。

 ローン(借金)を組むのは自由、でもその後に返済の責任を負うことになる。

  

★一つのことわざ

〇2-3節

18:2 「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。『先祖が酢いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く』と。

18:3 わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。

 『先祖が酢いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く』 自分が酢いぶどうを食べれば、歯が浮く。酸っぱい梅を食べれば、ああ酸っぱいとなる。 ところが自分ではなく、先祖がしたことが自分に返ってくる。

 当時のことわざに一つであった。

 先祖が悪いことをしたので、その報いが、祟りが自分に及んでいる。 

 とても困ったこと、大きな困難、試練、病気、その他に遭遇すると、心が弱り切る。 どうしてこんなことになったのか。苦しむ。

 そこに、誰かがそれはあなたの祖先が悪いことをしたから、そうなってしまったのだと言われたら、困る。

 主なる神は、はっきりとそんなことはないと言われた。

 祖先の祟りなどではない。 

 そのような人の苦しみに追い打ちをかけ、その祟りを解くにはこれこれの壺を買いなさい。この印鑑を買い求めなさい。ついては数十万円。数百万円。

 今話題になっているカルト宗教の旧統一教会、現世界平和統一家庭連合。

 いかに偽物であることか。

 祖先が苦しんでいる。その苦しみを取り除くことのできるのはあなただけだ。

  この壺を、この印鑑を、これだけの多額の献金を これもすべてでたらめ。

  人の弱みに付け込み。また人をそのような偽りを信じ込ませ、そのように誘導する。マインドコントロールする。 これはすべて偽り。

 偽りの宗教、教えに引っかかってはなりません。

〇18-23節 

18:18 彼の父は搾取を行い、兄弟のものを力ずくで奪い、自分の民の中で善くない事をしたので、自分の罪のゆえに死んだのである。

18:19 それなのにお前たちは、『なぜ、子は父の罪を負わないのか』と言う。しかし、その子は正義と恵みの業を行い、わたしの掟をことごとく守り、行ったのだから、必ず生きる。

18:20 罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。

18:21 悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。

18:22 彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。

18:23 わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。

 

〇26-28節

18:26 正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。

18:27 しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。

18:28 彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。

  犬に石を投げつけたり、蹴ったりする人はほとんどいない。でももしそのようなことを続けたら、その犬も怒り、噛みついてくることがある。

 振り込め詐欺、万引き、いろいろな犯罪がある。

 それを行い続ければ、いつかそれが発覚してしまう。見つかってしまう。

 警察に逮捕されてしまう。

 悪いことなのに、そうと分かっているのにそれを続けていれば、いつかそれが自分に返ってくる。

 飲酒運転をもしして取り締まりに合えば、免許を取り上げられる、多額の罰金。 職場を失うことさえある。

 まして、それで人身事故を起こせば取り返しのことになる。

 悪いこと、間違ったことをなし続ければ、それはいつか自分に返ってくる。

  自分の日々の幸せ、人生を台無しにしてしまう。

 一方、かつては、そのような道を歩んでいた。悪いことをたくさんした。

でもそこから足を洗った。もうそのようなことはやめた。手を切った。

 不良グループの中にいて暴走族だった人が、そこから足を洗った。そして更生して、歩むようになった。

 薬物中毒だった人が、そこから抜け出した。

 それどころか、今、そのようなことで生きる希望を見失っている人たちを支援する。 そのつらさを経験した。 どのようにして抜け出し更生するかを教え、共に歩んでいる人たちもいる。 素晴らしいことです。

 かつては、悪い道を歩んでいたとしても、それを改めるなら、希望の光が差してくる。 むなしい歩みから解放される。

 人の目を盗む必要はもはやいらない。 コソコソと歩むのではなく。堂々と歩むことができる。

 主なる神は、死ぬことではなく、生きることを願っておられる。

  死ぬ道から生きる道に進むことを願っておられる。そして、その歩みを応援してくださる。

 

★主なる神からの呼びかけ

 主なる神は私たちを愛するゆえに呼び掛けていてくださる。

 希望の人生がある。決して見捨てることはない。

 いやもう自分はだめです。 生きる道はない、ありません。とあきらめてしまうことのある私たちに対して、生きる道を示し、呼びかけていてくださる。

 聖書のみ言葉に聴きましょう。

◎エゼキエル書18:30-32

18:30 それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。

18:31 お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。

18:32 わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

 立ち帰って生きよ。 悔い改めて、背きから立ち帰れ。

  背き、罪をかなぐり捨てる、 向きを主に向ける。

 悔い改めるとは、180度、向きを変える。主に向き直るということ。

 新しい心、と新しい霊を造り出せと。

 

★では、実際にはどうか?

 新しい心、新しい霊を造り出すことはできるか、簡単ではない。

 何度もやり直そうと思った。これではいけないと思った、心機一転。

 でも、ほんの短い時だけ。また元の木阿弥に

 エゼキエル書には、希望の光がある、希望の約束がある。

〇エゼキエル書36:22-30

36:22 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。

36:23 わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。

36:24 わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。

36:25 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。

36:26 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。

36:27 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。

36:28 お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。

36:29 わたしはお前たちを、すべての汚れから救う。わたしは穀物に呼びかけ、それを増やし、お前たちに飢えを送ることはしない。

36:30 わたしが木の実と畑の作物を豊かにするので、二度と飢饉のために、国々の間で恥をこうむることはない。

 願っていたもの以上のもの その新しい心、新しい霊を主なる神が備え与えてくださるとの約束。 なんという幸いではないでしょうか。

 主が最も良いものを備え、与えてくださるというのです。

 自分の頑張りには限界があります。 自分の決意にも限界があります。

 弱い私たちを主はご存じの上で、招き、そして最も大切なものを用意し、与えてくださるお方です。

 

★探し求めてくださる主

 主なる神は、私たちを顧みてくださるお方

 私たちの置かれている状況、時に大変さを分かっていてくださるお方

 私たちを苦しめられる方ではない。

 もし、神の名前を出しつつも、人に恐れを植え付け、人をマインドコントロールする。 そのマインドコントロールされていることもわからないようにして人の心を操作する宗教があるとしたらそれは偽物

 まして、その人の大切な持ち物、財産を頑張って、頑張って捧げさせようとする。 その組織の言われるままに動かされる。 奉仕をした量によってランク付けされる。 人の競争心をあおる。

 その人の人生、家庭は、どうなっても構わない。その組織のために徹底的に利用する。 それはまさに今報道されているカルト宗教の実態です。

 

 神は、私たちを憐れんでくださる愛のお方です。

 立ち帰ることもできない。 道の迷い、にっちもさっちも行かなくなってしまった。 まさに、道を見失い、がけ下に転落して動けなくなった遭難者のような者に対して、探し求めてくださるお方。

見失った羊のたとえを思い起こしましょう。

〇ルカ福音書15:1-7

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。

15:4 あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 見失った一匹の羊

 迷子になり、にっちもさっちもいかなくなる。帰り道がわからない、 崖の途中の木にひっかり動けなくなる。 崖下に落ち足を骨折して立ち上がることも歩くこともできなきなっている羊 

 深い穴に落ちこんでそこから這い上がることができない。

 それは、私たちのかつての姿です。 人によっては、今の姿かもしれません。

 その迷子の羊を主なる神は捨てないお方です。

 見つけ出すまで探してくださるお方です。なんという感謝ことでしょう。

 

★立ち帰って生きよ

 主なる神からの呼びかけ 私たち対しての呼びかけ

 立ち帰れと呼び掛けていてくださる。

 死から命へ 死の道とどまるのではなく、命の道を選べ。

 命の道に招いてくださってします。

 主イエスを通して、命の道を用意してくださいました。

 その命の道を進んでいきましょう。

 主と共に歩む人生の中で、喜び、感謝をいつも満たしていただきつつ進んでいきましょう。

                          (久多良木和夫)

 

9月11日() 聖日礼拝 説教メモ 

   「苦難に際しての慰め」  コリントの信徒への手紙二1章1-11節

 

★コリント信徒への手紙二

  コリントの教会に宛てた2番目の手紙   最初の挨拶

 

◎1-3節 

1:1 神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。

1:2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。

 父なる神と主イエスよりの恵みと平和があなた方にあるように。

  上よりの恵みと平和によって生かされることの幸い

 神は慈愛に満ちておられるお方、慰めを豊かにくださるお方 

  神より慰めをたくさんいただいて歩んでいきたいものです。

  

★「苦難に際しての慰め」 

 本日の説教題 本日の中心聖句は4節

【新共同訳】

1:4 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。 

【口語訳】 

1:4 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。

【新改訳改訂3】

1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

 苦難 口語訳では艱難、新共同訳では苦しみ 

 人生の歩みにおいて、そこを通ることがある。 それは避けたいと願いつつも  なんということかと思う

 その歩みの中で、必要なものは慰め 単なる慰めではない、上よりの慰め

  

★使徒パウロの生涯

 大きな分水嶺があった。 それは復活の主との出会い。 

 ユダヤ教徒であった使徒パウロ 厳格なパリサイ派に属し、キリストを信じるクリスチャンたちを迫害する者だった。 とんでもないやつたちだと 

 そのパウロは、主イエスと出会い回心した。 主イエスを救い主と信じる者に替えられた。 そして、その主イエスを宣べ伝える者となった。

 その後は、迫害すものではなく、迫害される者になった。

 伝道の妨害を受けるだけでなく、石を投げつけられ、鞭打たれ、何度も命の危険を経験した。

 

〇使徒言行14:1-20

14:5 異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、 

14:6 二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。

14:7 そして、そこでも福音を告げ知らせていた。

14:19 ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。

14:20 しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。

 第1回目の伝道旅行の時 小アジア半島現在のトルコ

 イコニオン、リストラで、乱暴を受け、石を投げつけられた。死んでしまったと思われるほどの迫害を受けた。 

 

〇使徒言行16:16-24 

16:22 群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。

16:23 そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。

16:24 この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。

 第2伝道旅行

 フィリピの町で祈りの霊に取りつかれた女性からその悪しき霊を追い出した。

 その女性を利用して商売をしていた者たちの怒りを買い、鞭打たれ、牢

苦難、艱難、苦しみを経験した。 忍耐、耐え忍ぶ、我慢ではとても続かない。

パウロは進み続けた。 その働きをやめなかった。決して投げ出さなかった。 なぜ、そうできたのか。

 

◎8-9節

1:8 兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。

1:9 わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。

 生きる希望さえ失ってしまった。 もうだめだ、これ以上は無理だ。 沈み込んでしまった。 生きる希望を失いそうになる。 生きる希望を失う。 

死の宣告を受けた思い。 これでもう終わりだという思い。

 そのパウロが立ち上がるようになった。

  もう自分には希望はない。もうおしまいだ。もう頼りにできるものはない。

 そのパウロに光が届いた。

  死者を復活させてくださる神 主イエスを復活させてくださった神。

  死 もうどうすることもできない。すべてがおしまい。もう先はない、希望もない。 ところがその死を打ち破って下さった神

 その神、そのお方を仰ぎ臨んだ。 その方を頼りにするようになった。

 すると光が見えてきた。 生きる希望が見えてきた、沸いてきた。

 生きる希望を再び持つことができた 

 生きていける、希望はある、先は開けるという思いが与えられた。

 

◎10節

1:10 神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。

 

★共同の励ましと慰め 

 悩み苦しみ 自分の悩み、苦しみであるが、それで終わりではない。

 共にそれを覚え合う、祈り合う。

 悩み、苦しみの中にも助けられて歩む それが、覚えてくれるその人たちにも励ましになる。 慰められるとき、つながる人達の慰めになる。

 

◎6-7節 

1:6 わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。 

1:7 あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。

 

◎11節

1:11 あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。

 苦しみを共にし、慰めを共にする友がいる。 それは大きな励ましであり、力となる。

 

★ヨセフと共にいてくださった主

 若くして苦しみを経験したヨセフ

 どん底に落とされた。 エジプトに売り飛ばされた。 

〇創世記39:1-23

39:2 主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。

39:3 主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、

39:4 ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。

39:20 ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた。

39:21 しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、 

39:22 監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。

 主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。 その苦しみの最中に、主が共にいてくださった。

  主が、ヨセフを支え、助けてくださった。

 

★朝位真士先生のこと 

○ヘブライ13:7    

13:7 あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。

 ・私自身、会うたびに励まされた先生であった、そしてムードメーカーのような先生だった。 その朝位真士先生にこの地上では会えないことはとても寂しい。  

 その変わることのなかった姿勢、姿を心にしっかり刻んでおきたい。  

 ・8月22日(月)に悪性リンパ腫のため78歳で召天 

   24日(水)桜ヶ丘教会にて葬儀、 司式 ご子息の憲義師 

 ・出会い 1980年 ビリーグラハム福岡大会

   自分 24歳 朝位先生 36歳

   元気の良い明るい先生 その時のことをよく話されていた。

 ・お父さんは会社の社長、重役だった。

   会社の倒産、貧しい生活

 

 ・高校生の時に、同級生の持田倫生兄に誘われて教会に 16歳の時に洗礼

 ・社会人になり、東京での仕事 

 淀橋教会に出席。ケズィックコンベンションで招きを受け献身

 ・北九州復興教会の出身

   1975~1994年度の19年間 曽根会堂担当教師

   聖書学校を卒業してすぐ母教会の担任教師として 最初は信徒伝道者としてやがて補教師に、正教師に

   原田謙先生と9年間、三枝道也先生、育代先生と4年間

    主任に仕え、協調して良き働きをされたことでしょう。

    社会人としての経験、上司に仕える 喜びをもって感謝して

 ・交換講壇 

   都農教会と曽根集会所 

   曽根 西南女学院生がたくさん出席

   都農 とても分かりやすいメッセージ

     大学のキャンパスの出し物 テーマ 人生とは

     靴がたくさんぶら下げていた その心は、苦痛の連続

 ・会うといつも桜ヶ丘教会の週報をくださった。 毎朝、母教会のためにお祈りしていますと

 ・とにかく、良くしゃべる。次々と言葉を

   ニコニコして、楽しい話。 天真爛漫で飾らない、 相手を笑わせ、心を楽しくする。 どれだけ多くの人を励ましたことか いつも、自分を低くし人を高くする。

 ・2019年3年前の西南夏期聖会での主講師

   前立腺がんになったが、治療をしていると。

   大きな声で生き生きとメッセージ あふれる恵み

   講壇に立つだけで、お話を始めるとそれだけで空気を変える

 ・祈りの人であった。

   大きな声で、明確な祈り

 ・毎年クリスマスが近づくと、べアンテ・ボーマン先生ご夫妻を招いての特別集会 信頼関係 葬儀で、べアンテ・ボーマン先生が演奏されたとお聞きしました。

 

★苦難に際しての慰め

 神が苦難の時、艱難の時、苦しみの時に慰めてくださる。 

◎4-5節

1:4 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。

1:5 キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。

 

 パラカレオー 懇願する、願う、慰める、励ます、勧める、呼びかける

 パラクレーシス 慰め、願い、勧告、力づけ

 共にあって呼び掛けてくださる。

 船が難破したとする。

  浮き輪につかまり、漂流する。 一人であれば心細い。 共にそばにいてくれる人がいたら大きな励まし。 救助の船がきっと向かっているはず、もう少しで見つけてくれるに違いない。

 山で遭難したとする

  一人であればつらい。 もう一人いたら心強い。 救助隊の人たちがもう少ししたらきっと見つけてくれるはず。それまで我慢して待ちましょう。 大きな励まし。

  慰めてくださる。 共にあって呼び掛けてくださる。

  大きな慰めをいただくことができる。 

 キリストの苦しみのゆえに、救いの恵みをいただいた。

  キリストの苦しみの一端を味わう。 キリストにつながる者として

  慰めもキリストによって満ち溢れる。

 神は、苦難に際して、私たちを慰めてくださる。 慰め強めてくださる。

  苦難から引き上げられる。 その経験をいただき、生かされる。

 苦難の中にある人を励ます。

  キリストから受けた慰めをもって、苦難、艱難、苦しみの中にある人たちを慰める。

  苦難、艱難、苦しみを経験したことが決して無駄にならず。

   その恵みをどなたかに伝える。 どなたかと共に歩む。 

 

 

9月18日() 敬老祝福礼拝 説教メモ 

    「救いは主にこそある」       ヨナ書2章1-11節

 

★本日の礼拝

  本日は、敬老祝福礼拝です。 80歳以上の方々を覚えて、その歩みがなお守られるようにと願いつつ、主を賛美し礼拝を捧げます。

  非常に大きな台風を前にしていますが、本日午前にこの礼拝を捧げることができることは大きな感謝です。

  

★人生80年

  人生50年といわれていた時代がありました。平均寿命が50年ということでしょうか? 50歳前に、40代で亡くなる方も多くいた。

  今は、人生80年と言って良いでしょう。平均寿命が80年。

  厚生労働省が7月29日に発表した簡易生命表によると、2021年の日本人の平均寿命は男性が81.47歳、女性が87.57歳だった。

  平均寿命ですから、それよりも若くして亡くなる方もいる。

  とにもかくにも、80歳を超える方々が多くなった。

  

★健康寿命

2000年にWHO(世界保健機関)が健康寿命を提唱して以来、寿命を延ばすだけでなく、いかに健康に生活できる期間を延ばすかに関心が高まっている。

健康寿命が「健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間」と定義されているため、平均寿命と健康寿命との差は、日常生活に制限のある「健康ではない期間」を意味します。2019年において、この差は男性8.73年、女性12.06年でした。男性72.68歳。女性75.38

 今現在で、男性72歳半。女性75歳と言って良いでしょう。

 80歳を超えて、日常生活が制限されることなく生活できているとするならば感謝なことです。実際には、80を超えると日常生活が制限されて生活する方も増えてくるということです。

 何らかの持病を抱えつつ生活するというのが一般的です。

 敬老祝福の方々がなお健康が支えられ歩んで行って欲しいと願います。

 

★生きていく中で大切なこと

  命が長く守られていること  健康であること

  それらのことは感謝ことですが、内側のことはもっと大切はないでしょうか?

 1)日々の歩みにおいて感謝がある。

  日々において、食事が美味しい 散歩できる、 本を読む、 テレビを見る、 映画鑑賞する、 趣味がある。 家族や他の人との会話、・・

   一つでも感謝を持つことができるなら幸い。

 2)心に平安がある。

   心の中が穏やかである。 それは大きな幸い

   若い時と比べるなら、できなくなったことはどんどん増える。

   これもできない、あれもできない。・・

   友が少なくなった。 伴侶に先立たれた、・・  寂しいことも多くある。

   いつまでこうして過ごせるだろうか、健康は大丈夫だろうか、将来に対しての不安がよぎる。 手助けをいただかなければ日常生活が難しくなってきた。

  自宅での生活はいつまでできるか

  寝たっきりになったらどうしよう。 命の終わりが遠からずやってくる

  様々なことの中で、不安が渦巻く。 その中で平安な心で過ごす。

 3)喜びと希望がある

   これもできなくなった、あれもできなくなった。 そのようなことが増えると希望が膨らまなくなる。 

  人生の終わりが近いことを考えると、喜び、希望がしぼむ。

  そのようなことを抱えつつも、喜び、希望を失わない、前向きに生きることができるならこれほど大きな幸いはないでしょう。

 主なる神は、私たちのうちに、感謝を、平安を、喜びと希望を注ぎ与えてくださるお方です。 主にあって、感謝を、平安を、喜びと希望を満たしていただきましょう。

  

★本日は、ヨナ書です。

ヨナという預言者が経験したことが記されています。

 ヨナは、主なる神を信じる者でした。しかも、主からのメッセージを人々に伝える者でした。それが彼のなすべきことであり。彼の使命でした。

 その彼がとんでもない道を歩んだのです。

 そのことは第1章に記されている通りです。

○ヨナ書1:1-16

 「ニネべに行きなさい」。これが神からのメッセージでした。

  ヨナは行きたくないと思い、逃げ出しました。

  ニネべの人は悪いことばかりしている。このままでは滅ぼされてしまう。悪いことをやめるように、神に立ち返るように伝えなさい。

 いいえ、伝えたくありません。これだけは聞けません。ヨナは逃げ出した。

  ニネべとは反対方向のタルシシに向かった。

  ニネべの人たちなぞ、滅んでしまったらよいと思った。

  ニネべはアッシリアという国の首都 アッシリアの国からどれだけ苦しみを受けていることか、ニネべの人たちは嫌いだ、そこに住む人たちがどれだけひどいことをしてきたことか そんな人たちを助けたくはない。

 ヨナにとってなすべきことは、神のメッセージを伝えることでした。

 ヨナは逃げ出しました。遠くに遠くに 神の声が聞こえないとことに逃げ出そう。

 ヤッファという港から船に乗り込みタルシシュ行きの船に乗り込む。

 ご存じの通り途中で大嵐がやってくる。

 船は沈みそうだ。 沈没したらすべてが終わり。

 慌てる船員たち こんな嵐は経験したことがない。 

 その時、ヨナは知っていた。思い当たる節があった。 この嵐は自分のせいで起きたのだ。

 ヨナは申し出た。 自分をこの船から海に投げこんでくれ、そうしたらこの嵐は静まるはずだ。

 船員たちは言われたとおりにした。 嵐は収まって行った。

 嵐の海に投げ込まれたヨナ、 一巻の終わり

 それがヨナに起きた出来事。

 

★これでおしまい。

 これですべてがおしまい。これで最後だ。 そう思う瞬間がある。

 ああ、これですべてがおしまいだ。

 長男が3歳くらいの時のことです。

 台風の後だったかと思います、たくさん雨も降り、川も増水。名貫川という川

下流、海から150メートルほどの橋の下、幅10メートルほど

普段はせいぜい50センチから1メートル その時は、2メートル、3メートルの激流 長男を連れて川のところまで下りて行った。

 流れのものすごさに圧倒され見入っていた。12秒後、そばにいた長男がいない。 一瞬、周りを見渡しもいない、これは大変だ。流されたかと思い、海の方を見ました。 叫ぶこともできずにいた、1秒、2秒後、5メートルか78メートルほど先に立っていた 長男を見つけました。

 あの時ほど、焦ったことはありませんでした。

  

 さて、ヨナは、嵐の海に投げ込まれた。

 ああ、これですべてが終わりだ、自分の人生もこれでおしまいだと思ったことでしょう。

 一番大事な時に神に逆らてしまった。そのせいで嵐に遭遇し、命の終わりがやって来た。 ああと思ったことでしょう。

 

★そこに大きな魚が

 海の底に沈んで死んでしまうのも、大きな魚に飲み込まれて死んでしまうのも同じだ。

 ヨナにとっては一瞬の出来事。 沈む、飲み込まれる。これでおしまいだ。

 でも、実際にそうではなかった。

 その大きな魚は、飲み込み食べてしまうために送られたのではなく、ヨナを助けるために神から送られたものだった。

◎1節

2:1 さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。

  飲み込まれる、普通に考えれば、飲み込まれて胃の中で溶けてしまう。

 しかし、そうではなかった。 まさに神によってなされた奇跡

 私たちの人生にも、起こっていることかもしれない。

 

★この世界においても

 私たち人間が勝手なことをし、この地球を壊している。自然破壊、海洋汚染、大気汚染、他の人に対するひどい行い、他の主権国家に対してのひどいこと

 そのためにどれほど大きな悩み苦しみが起きていることか。

 いつ、住めない世界になってもおかしくない。このままいけば、すべてが失われてしまう。 その中で、なお、守られているこの世界。

 神の憐みがある。神の憐みがかけられている。

  

★魚の腹の中で

 ヨナは、魚の腹の中で息をすることができた。

  そして、そこでしたことは祈りであった。

  ヨナが忘れていたこと、それは祈りであったということができるかもしれません。 自分の思い、自分の感情を優先していた。

  ニネべの人は悪い人、許しがたい人たち

  その人たちを助けることはまっぴらごめんだ、神のご命令だとしても聞くことはできないと考えた。 彼らがどんなにひどい者たちかという思いがヨナの心に満ちていた。 ヨナは祈ることを忘れていた。

 この魚の中でヨナは、神を見上げた。そして祈った。

 自分が神に出会った時のことを思い出したかもしれない。

 自分がかつてどのようなものだったか、神と出会う前の自分、生きる喜び、希望を持っていなかった。 でも神と出会い、生きる喜び、希望を持つようになった。

 そして、やがて、神に仕える預言者として歩むようになった。

 しかし、一つだけ許せない人がいた。 それがニネべの人たちだった。

 彼は自分の思い、感情を優先した。 祈ることをどこかにおいてきぼりにしてしまった。 しかし、魚の腹の中で、彼は祈った。

◎2-10節

2:2 ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、

2:3 言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めるとわたしの声を聞いてくださった。

2:4 あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。潮の流れがわたしを巻き込み 波また波がわたしの上を越えて行く。

2:5 わたしは思った あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。

2:6 大水がわたしを襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。

2:7 わたしは山々の基まで、地の底まで沈み 地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。しかし、わが神、主よ あなたは命を 滅びの穴から引き上げてくださった。

2:8 息絶えようとするとき わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き 聖なる神殿に達した。

2:9 偽りの神々に従う者たちが 忠節を捨て去ろうとも

2:10 わたしは感謝の声をあげ いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある。

 これでおしまいだと思った。 神のみ前から追放されたと思った。

 生きて再び聖なる神殿を見ることもないだろうと

  これですべてが終わりだ 深淵に呑み込まれる

 地は自分の上に急に扉を閉ざす。 再びこの世で過ごすことはないと思った。

 ところが、神の御業がなされた。

  主が、滅びの穴から引き上げてくださった。

  この穴から出ることはできないと思っていた。でもそうではなかった。

  主が引き上げてくださった。

 息絶えようとするとき、自分の捧げて祈りを主が受け取ってくださった。

 

★私たちは、気が付かない

  私たちは気が付かない。 自分の間違いを、自分の傲慢さを

   自分が正しいと思う。自分は傲慢などではないと思う。

  でも実際には、間違っていることがある、傲慢な自分がいる。

  私たちは気が付かない。 神の憐みを、神の愛を

   自分が立派だから、自分がなすべきことをしているから神は自分を顧み助けてくださっていると、神は、自分に良いものを恵んでいてくださっていると思う。

 自分が努力しているから、自分が頑張っているからと思う。

  神の憐みがなければ、あの時に人生が終わっていてもおかしくなかった。

  神の愛がどれほど大きく深いものであるか

 その独り子イエスをお与えになったほどの愛 その愛の大きさに気がついていない。

 

★ヨナは知った。 

 ヨナは知った。自分自身の愚かさを、自分自身の傲慢さを、自分自身の罪を知った。 自分がいかに罪の深い者であるか、自分がいかに罪にまみれているものか  自分がいかに愛のない者であるかを知った。

 そして、何より神の愛がどれほど大きいものであるか

 

★救いは主にこそある。

 自分のすべてが自分のものではなくなる。自分ではどうすることもできない。

 体力も衰える、認知能力も限界が来る。

 自分が考えることも自分ではなかなかできなくなった。。

 自分の生涯を閉じる時が近づいている。

 そのような中にあって、この自分を見捨てないお方。 最後まで共にあって守り助けてくださるお方。

 すべてが失われる。 自分が獲得してきたすすべてをお返ししなければならない。 すべてを手放さなければならない。

 なんと悔しい、なんと残念な。 そうせざるを得ない。

 そのような中で、神からあたえられているもの、それは神の子供としての資格、永遠の命、天の御国における国籍 

 それはすべて、主イエスを通して与えられたもの

  自分の努力、頑張りでもない、自分が立派であったからではない。

  神がこの自分に目をとめてくださった。そして、導いてくださったから。

 救いは主にこそある。

  自分のすべてが終わろうとしている。すべてが失われるだろう。

  でも、神からのプレゼントは失われない。

 神の子供としての資格、英永遠の命、天の御国における国籍は失われない。

  いつまでも残る。

 そして、たとえの地上の人生が終わっても、神のもとで憩う幸いが用意されている

 人生の秋、人生の晩年が実り多いものでありますように。

 敬老祝福の皆さま日々がなお恵まれたもとなりますようにとお祈りいたします。

 

 

9月25日() 聖日礼拝 説教メモ 

   「神の約束の確かさ」  コリントの信徒への手紙二1章15-24節

 

★恵みを受けるように

  良いものを与えたい。 愛する者に良いものを 誰しもが願う。

   素敵なプレゼンを上げる。 おいしい料理を食べさせる。

   お小遣いをあげる。 それを受け取った時、嬉しい。 

   そのやり取りは絆を深め、喜び合うことにつながる。

ただし、それらの物は、一時的な事柄である。

  パウロはコリントの教会に人たちを愛していた。

   彼も、具体的にはそのようなやり取りもあったことでしょう。

   彼が一番心を用いていたことは何か、それは、その愛する者たちが神の恵みを受け、生かされること。

○15節

1:15 このような確信に支えられて、わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。

 恵みとは、神からの恵み。

 神とつながること、神の愛を心にとめ、その変わることのない愛を受け取って歩むこと。 

 神の恵みが注がれている。それを神とつながる中で受け取るようにと願った。

  神の恵み

   命、 健康、 生きるために必要なもの 食べ物、・・ 

  それを当たり前のように受けるのではなく、神とつながって、神に感謝しつつ受ける。 心の平安、希望、喜び、感謝もまた神につながって受け取りつつ生きる。

  このことをパウロはコリントの教会の信徒に願った。

    

★残るもの

 この地上の生涯を終えて残るものは何か?

  生きているうちになした業績、しばらくは覚えられる。

  設計士の方、建築に携わる方 作った建物、家、ビル、橋

  住んでいた家 その子どもや孫が住むかもしれない。 後に処分してその土地に家が新しく建てられるかもしれない。売却されてその代金が残るかもしれない。

 その生涯で取り組んだ働き 後輩が受け継ぐかも親切れない。

 心を込めてなしたこと 人への親切、手助け

  その恩を受けた人は、ずっと心にとめることでしょう。

  財産、貯金も、後に残る子ども、孫の手に渡るかもしれない。

  ただし、できることは限られている。

  それらのこともやがて忘れ去られる。 それらの物もやがてなくなる。

  蓄えたものを天に持っていくことはできない。

 なしてきた業績も、業績として残るでしょうが、それも天に持っていくことはできない。

 神の前に立つとき、何をもって立つことができるか

 自分はこのことをしました。 これだけのことをしましたでは立つことはできない。

  外国に旅行する時、国境で示さねばらないもの、入国で持って示さねばらないもの それはパスポート  それ以外の物は役に立たない。

  自分はこれこれのものを持っている。これこれのことをしてきたと言っても、パスポートがければ、入国できない。

 神の前に立つときに、通用するものは、ただ一つ神の子どもとされたということ。 イエス・キリストを信じて神の子どもとされたこと

  それを保証して出さる存在 神の霊ある聖霊。

22節

1:22 神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心にを与えてくださいました。

  救いの証印としての聖霊  消えることのない証印 

   この世での業績、なしてきたこと この世ではいくらか通用する。

   神の前では通用しない、消えてしまう。

   残るものは信仰によって受け取った聖霊。

    信じる者に対して、救いの証印となってくださる聖霊。

 神の前に、証ししてくださる聖霊。

  聖霊なる神のご支配、その変わることのない証印に感謝。

 

★どのような人にあこがれるか

  こんな人が好き、あこがれを持つかもしれない。

  相手に対しての評価

  外側のもの

かっこいい、 ハンサム、 美人、 いろいろなものを持っている

  収入が多い。 スポーツで活躍、 羽振りが良い

  面白い、 楽しい、 話題が豊か、 いろいろなことができる 

  そのようなものが目に付くかもしれない。 それらも大切かもしれない

   でも、長く共に歩もうとするなら、外側だけでは持たない

  内側のもの 

   優しい、 親切だ、 、真実であること、 約束を守ること

   外側だけを見てひかれたとしても、共に歩む中で、その相手が優しくない人だったら大変 自分を大事にしてくれない、 自分勝手なら振り回される

  自分を大切にしてくれない。 何よりも約束を守ってくれないなら、困る。

 

★真実さ

  外側の見た目より内側のもの

  特に真実さ 真実をもって歩む人 真実をもって自分を大事にしてくれる。

  真実さを貫いてくれる。 これはほど、感謝なことはない。

  人の真実 それは共に歩むとするなら、これほど幸いなものはない。

  

★ただし、人の真実さには限界がある

  悲しい現実 時に、真実さは見せかけがある。

信用させようとして、真実を装う。真実さはないのに、真実であるように装う。

  最初からだますために、 ひっかからないように

  最初は真実であった。

   真実な心、真実な歩み スタートはそうであった。

   ところが、状況の変化で、その真実さが曲げられていく。 真実さだけでは間に合わない。 気持ちはあっても、大変なことにぶっつかり、真実さの限界。  

 真実さが吹き飛ばされる。 人が変わってしまった。

  会社の倒産、 大きな困難、・・ 

 最後まで真実である それは大きな感謝

真実さであろうとする心 あなたを守り通す。 あなたと共に最後まで歩み通す

 ただし、私たち人間は、病に倒れることがある。 難しい病にかかり、思いはあっても、自分の肉体的限界に陥ることもある。

 認知症になってしまうこともある。 かつてそう約束したこと。そう考えていたことを忘れてしまうこともある。 それでも、人の真実さは大切であり、尊いもの 人の真実さを押し流す外側からの力がかかる

 

★神の真実

  神の真実  神は真実なかたです。

◎18節 

 1:18 神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。

  一番良い道を示して、導いてくださるお方

  この道が良いかもしれない。 そうでないかもしれない。 どちらかわからないと言われたら進めない。

  登山をするときに、道が分かれる。

  はっきりとした標識はありがたい。 こちらが頂上に向かう道、こちらが下山してふもとに向かう道

〇ヨハネ福音書14章6節 

14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

道であり、真理であり、命であるお方

この道に進めば大丈夫 その道を示され、歩む者は幸いです。

〇ヘブライ人への手紙13章5節、8節

 13:5神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。

  私たちを見捨てない、置き去りにしない

  共にあって助け導いてくださるお方

13:8 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。

  昨日も今日も、また永遠に変わらないお方  真実なお方

人の真実が失われても 人の真実が押し流されたとしても神の真実はあり続ける。

 失意落胆する。先が見えなくなるようなところに置かれたとしても、神の真実はあり続ける。 神の真実によって、私たちは支えられる、励まされる。

 生きる道を見出していく。

 

★神の約束

 神の約束とは

  神が私たちを顧みてくださる。  私たちを守り助け導く。

  私たちの主となってくださるということ

〇創世記17章1-7節

 17:1 アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。

17:2 わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」

17:3 アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。

17:4 「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。

17:5 あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。

17:6 わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。

17:7 わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。

 神が選ばれた人物の中で信仰の父と呼ばれるようになった人がいる。その人の名前はアブラハム

 そのアブラハムに対して、永遠の契約を告げられる。

  永遠の約束 永遠に変わることのない約束

  あなたとあなたの子孫の神となる。

  神となるということは、すべてを支配し、責任を持つ。

  アブラハムの子孫は、直接的にはイスラエルの民を指す。しかし、最終的には全世界の民を指す。 

 神と断絶してしまった私たち。

  罪の中にあって、神を見失い、神を無視して歩むようになった。

  どのような神々でもよいと考え、偶像の神をも拝むようになった。

  真の神と断絶して歩むようになった。

 生きることの本当の意味を見失ってしまった。さまよう者になってしまった。

  流れのままに流されるものになってしまった。

 その流される身の中で、人のなす良いことも頑張りも、努力も届かない。

  捧げものをしても届かない。 立派なことをしても届かない。   

  宗教的な儀式も届かない。 修行も届かない。 修練も届かない。

  悔やむ心も届かない。

 そのまま流されて行ってしまうことのないように。

  主は、その押し流す川、海の中に飛び込んできてくださった。

   その方こそ、主イエスご自身。

  罪からの救いのためには、罪のない方の命の犠牲が必要である。

  罪のないお方主イエスが最後に十字架にかかってくださった。

  その十字架の犠牲により、罪からの救い 神との断絶が取り除かれ、神の子どもとして歩むことができるようになった。

 神のなしてくださったこと。それは独り子である主イエスを遣わされること

 主イエスが十字架にかかり、罪の代価をすべて支払うことであった。

〇ヨハネ福音書3章16節 

3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

  主イエスを信じる者を救う。  永遠の命を与える。

   神の子どもとして歩む幸いを与える。

   この地上にあって、神をほめたたえつつ、歩む。

  この地上の命の先には、天の御国において神と共に歩む。 天の聖徒として生き続ける。

 

★神の約束は確かさ

  人の真実は不確か、限界がある。

  神の真実は確かである。  神の約束もまた確かである。 

〇19-20節

1:19 わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。

1:20 神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。

 然り その通りある。 それは必ずなされる。

 その通りかもしれないが、そうでないかもしれないではない。

 この世界にあっては、人の世では、そうなるかもしれないが、そうならないかもしれない。 今は、そう約束するけども、最後までは守れないかもしれない。

 状況次第では変わる可能性は大ですと。

  然りであるが否でもある。 どうなるかわからない。

  曖昧に済ませる 特に日本社会では。 その曖昧さが都合よい時もあるが、その曖昧さをもってだますこともある。

 神の約束は、然りであり否であるようなものではない。

 神の約束は然り、その通り その通りに成し遂げらる。 その通りにしてくださる。

この不確かな世にあって、自分自身も確かではない。

 神の約束は真実であり、確かである。

あなたを助ける。あなたを導く。 あなたと共にある。あなたの生涯において。

 天の御国に迎える。

 神の真実に支えられ、神の約束を握って歩み続けた使徒パウロ

 私たちも、パウロのように、神の真実に支えられ、神の約束を握って歩んでゆくのです。 ハレルヤ!

 

 

10月2日() 聖日礼拝 

     「赦し、愛すること」  コリントの信徒への手紙二2章5-11節

 

★悲しみ

 悲しみ、苦しみを経験することがある。

 そのもとになっていること、その原因は様々ある。

 今日の聖書の箇所では、人によって引き起こされたことが原因であった。

◎5節

 2:5 悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。

   一人の人、複数の人、一つの国、いくつかの国によって引き起こされたこと

  一人の人が勝手なこと、ひどいことを行ったとする。

  そのことで、その人が所属するコミュニティ、社会、共同体、会社、学校、その他の人が悲しむ、苦しむ、悩む。

 その交わりを破棄するようなこと。人を傷つけるような言動

 その取った行動によって多くの人が苦しむ。

 一つの国がとった行動によって、相手の国、世界の多くの国々が苦しむ。

  実際に起きている出来事 ロシアによるウクライナへの軍事侵攻、引き起こされた戦争   どれだけの悲しみ、苦しみが引き起こされたことか

  どうなってしまうのか。悲しみ、苦しみの中に投げ込まれた。

 コリントの教会においては、一人ないし複数の人が、教会全体を揺り動かすようなひどい言動があった。

 そのことで、多くの人が傷つき、悲しみ、苦しんだ。 悲しみを経験した。

 そのことが当事者同士だけでなく、神の家族でもある教会全体を悲しませた。

 勝手なことをするということは、その相手だけでなく、そのコミュニティの属する多くの人、周りの多くの人たちをも悲しませる。

 自分のなす言動、それは決して自分だけのことではない。

 一つの言葉、一つの行動 それは、その人だけにとどまらない。

 時にそれは大きな波紋を引き起こす。 その相手だけでなく、周りの人、多くの人が悲しむ、苦しむ。 自分のなす言動、自分でよく注意したいものです。

 

★罰を受ける

  ひどいことをした場合、人を苦しめることをしてしまった。

  犯罪的なこと、犯罪をなしてしまった。

  それに対しては、咎めがなされる、非難される、罰を受けることがある。

6節

 2:6 その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。

  犯罪をなせば、逮捕される。 悪いことを行えば、非難される。 あなたはひどいことを行った。 あなたの言動で、ある特定の人が悲しみ傷ついた、苦しんだ。

 あなたは間違っている。 非難される、断罪される。

 やめてもらいたい。 そのことについてはこの罰を与えます。

 非難される、断罪される、罰を与えられる。その当の本人は、それに甘んじなければならない。

 自由が制限される。 そのコミュニティ、共同体、社会の交わりから遠ざけられる。 孤立させられる。 今まで受けていた自由、益を受けることを制限される。 しばらく謹慎です。しばらく停学です。

 罰を受けて、自分のなした言動が、どれだけ相手を苦しめたか、どれだけ多くの人を悲しませたかを知る。

 その人に反省してもらい、なす言動に注意してもらう。相手を、周りの人を悲しませないようにしてもらう。

 

★ひどいことをした人、ひどいことをした国

 罰を受けることで反省してもらう。

 自分の間違いに気づいてもらう。 自分がどれだけその相手を苦しめたか。傷つけたかを心にとめてもらう。

 同じことを繰り返さない。 そのようなことはしないようになる。 それは、当の本人にとっても、関係の人にも幸いなこと。

 その罰で、当の本人は反省する。

 ただし、罰があまりに強いと、また長引くならば、その打撃が大きすぎるなら、立ち上がれなくなる。 

 確かに、ひどい言動があった。そのことで、悲しみ苦しんだ人がいた。多くの人が悲しみ苦しんだ。

 当の本人を罰の中で沈みこませることを、使徒パウロは願わなかった。

 罰は時に必要、しかし、その罰がその当の本人を立ち上がれなくする。倒れたままにする。完全にコミュニティから排除する、自暴自棄にすることを願わなかった。

 

★赦すこと

 大きな悲しみ、苦しみを引き起こした者が、その自分のなした言動がどれほど間違っていたか、それほどひどいものであったかを受け止め、その過ちを認めたならば、

そのことを謝罪したならば、心から悔い改めたならば。

 どうすべきか? 赦すべきだと。

◎7節

2:7 むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。

 赦さない、決して赦さないという道もないわけではない。

 徹底的に罰する。 その当の本人を打ちのめしてしまう。 二度と立ち上がれないようにする。 拘束、隔離する。 交わりからずっと排除する。

 その道もないわけではない。 その当の本人を徹底的につぶす。二度と立ち上がれなくする。 

 使徒パウロは、違った道を語った。

 それは赦すという道。 その相手を赦し、力づけるという道。

 赦すことは、決して簡単なことではない。

なぜなら、その相手がどんなにひどいことをしたか。どんなに許しがたいことをしてきたことか。そのことでどれだけ悲しみ、苦しんできたことか 

 その人によって、自分は、自分隊はどれだけ苦しんだことか。どれだけ大きな苦しみを経験したことか、そのことで、自分の生活、人生はズタズタにされた。

 その中で、赦すことは簡単ではない。 

 

★赦すことについての主の教え

  相手を赦すことについて、主イエスはどう教えられたか?

〇マタイ18:21-35

18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

18:22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

18:23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。

18:24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。

18:25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。

18:26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。

18:27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。

18:28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。

18:29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。

18:30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。

18:31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。

18:32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。

18:33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』

18:34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。

18:35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

 兄弟が私に罪を犯した場合、何度赦すべきでしょうか?

  七度ですか? 七の七十倍赦しなさいと語られた。

  たとえを用いて語られた。 赦された一人の人の話  主君と一人の家来

  その家来は、大きな憐みを受けて、主君から赦してもらった。 

   大きな借金を帳消しにしてもらった、

  ところが、その人に小さな借金をしていた人を赦さなかった。

   そのことを断罪された。

  大きな借金を帳消しにしてもらった幸いの中で生かされている。

  その主君とは、天の神さまのこと

  神から、自分の罪を赦していただいた。 自分自身の罪 それは決して小さいものではない。 大きなもの。その罪によって地獄に落ちてしまうようなもの

 その自分の罪が赦された。

  そのためには、主イエスの十字架の死による大きな犠牲があった。

  神から罪を赦された者として今ある。 罪を赦された者であることの幸いを心にとめたい。

 罪を赦された者が、その相手のことを絶対に赦さない、決して赦さないということであってはならない。

 

★赦すとは、その相手を思いやるということ

  力づける  大丈夫ですか? そのまま倒れたままにしておかない。

  手を差し出す。 声をかける。 

 一切無視。 一切声をかけない。 一切、知らないではなく、力づけるべきですと

 

★愛すること

 愛することは、簡単なことでしょうか?

 ある場合にはとても簡単、一方、ある場合にはとても難しい。

 自分の愛する家族、友のために何かをする。 

  おいしいごちそうをふるまう。何か良いものをプレゼントする。

  自分の子ども、孫をかわいがる

   難しいことではない。むしろ喜んで積極的にできる。

 あまり親しくない。親しいどころかその反対。

  関係はあまり良くないその相手に何か良いものをプレゼンする。

  困っているときに助けの手を差し伸べること

  それは簡単ではない。 そんなことはしたくない。そんなことはしない。

◎8節

2:8 そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。

 その人とはひどいことをした人。自分を、自分たちを悲しませ、苦しませた人

その人は罰を受け、自分のなした言動が相手を、多くの人を苦しめたことを受け止め、反省している、神の前に悔い改めた。 そのことで、弱り果てている。

 その人に手を差し伸べる、声をかける。 そして力づける。

 愛するとは一時的なことではない。 関わり続けること。

 1回だけ声をかける、1回だけ手を差し伸べることではない。

 1回も声をかけない、1回も手を差し伸べないよりはずっと良い。

1回だけはする、でも2回目はしない。

 愛するとは、自分の自己満足ではない。 相手を思ってなすこと。

相手がいる。 相手のために何ができるだろうか。 何をしたら、その人は立ち上がれるだろうか、 何をしたらその人は元気になるだろうか。

愛するとは、関わるということ。

その人のことに関心を持ち、何ができるかを考える、そして自分ができることをなしていくこと。

 愛するとは、その相手のことを考えて、その人に今何が必要か

 特に罰を受け、弱り果てている。

 その人はかつて、今までひどいことをしてきた人、でも、その人のことを心配し、考えて歩みをなす。

 

★赦す一つの理由 

 相手を赦すことの一つの理由。 それはサタンに付け込まれないため。

◎9-11節

2:9 わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。

2:10 あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。

2:11 わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。

 サタンとは、神に敵対する者。 私たちの敵は、人ではない、 サタンである。

 人が敵と見える。その相手と戦う、徹底的に戦う。 その戦いは延々と続く。

 相手を徹底的つぶさなければと その争いは長く続き、互いをつぶし合う、破壊し合う、殺し合う、消滅させる。

 結局のところすべてが失われる。 そのことを一番喜ぶんはサタンと呼ばれる存在。

 サタンに付け込ませない。 サタンこそが本当の敵である。

 ある特定の人を赦さない、ある特定の国を赦さない。

 排除し続けることで、その特定の人、国が自暴自棄に陥る。 二度と立ち上がれなくなる。サタンはそのことを願う。 しかし、それは神の御心ではない。

 

★赦す、愛すること

 赦すこと、愛すること 私たちの人生の歩みに問われる。

 赦しなさい、愛しなさいと呼び掛けられている。 簡単にはできないことが多い。 そんな私たちですが、いつも忘れないようにしたいことは、私たちがまず神から赦されていること、愛されているということです。

 そのことをいつも思い出しつつ、歩んでいきましょう。

 

10月9() 聖日礼拝 曽根会堂

      「建て直される幸い」   エゼキエル書36章33-38節

 

★大打撃

 大きな打撃を受けることがある。 災害によって、人によって引き起こされたこと

 *阪神淡路大震災

   1995年、阪神淡路大震災 地震で多くの建物、道路が壊れた。 

多くの方々が亡くなられた。

   福音歌手森祐理姉の弟さんも大学生だったが亡くなられた。

   町の再建はどれだけ大変であったか 10年かけてほぼ再建

 *東日本大震災

   2011年、東日本大震災 地震と大津波で多くの建物が壊れた

   さらに多くの方々が亡くなられた。 広い範囲、多くの県

   それだけでなく、福島第1原発の事故 さらに大きな被害

   今なお帰還できない方々が多くいる。10年が過ぎてなお大変

 *戦後の日本

   太平洋戦争 多くの家々が焼けてしまい、空襲により焼け野原になった。

   戦後の日本の再建 年配の方々 戦後77 焼け野原からの再建 

   *ウクライナ

   ロシアによるウクライナの国中の破壊 インフラだけで100兆円ほど?

   多くの町々の再建はどれだけ大変なことか まだ戦争は終わっていない。

   多くの人の命が奪われ、傷ついた多くの人たち

   この再建にどれだけの年月が必要でしょう? 50年、100年? 悲しいことでしょう。 失われた命は二度と帰って来ない。

  災害、戦争、さまざまなことでの大打撃 もう立ち上がれないほどの打撃

 それでも、進むしかない。

 

★再建の業は大変

 再建するということは大変な働き 壊れてしまった。 破壊されてしまった。 流されてしまった。 失われてしまった。 喪失感、 すべてが失われた

悲しみ、 絶望  もうだめだ。 とても建て直すことはできない。

  

★預言者エゼキエルの時代

 厳しい時代

  南ユダの国が亡びる途中にあった。

  北イスラエルはすでに滅んでいた。 アッスリヤという大国に滅ぼされた。  

 南ユダの国 風前の灯 バビロニアという大国に滅ぼされそうになっていた。

  紀元前586年に南ユダは滅びる

  国は滅び、エルサレムも破壊され、遠いバビロンに連れて行かれる

   第3回目の捕囚 その前に第1回の捕囚BC605年、 第2回の捕囚BC597 エゼキエル自身は第2回の捕囚の時に捕囚されて連れて行かれる。

 選びの民であった、北イスラエルはすでに滅ぼされ、南ユダの国も風前の灯。

 神の選ばれながら、神を忘れ、神を無視して歩んだ結果、滅びの道に。

 エゼキエル書の前半においては、神の裁きが語られる。

 しかし、後半からは、神の憐み、神による再建、将来に向けての希望が語られる。

 

★36章

 希望の光が差し込んでいる。 廃墟を立て直すとの約束

 主なる神がそのことを導いてくださる。

 

◎33節

36:33 主なる神はこう言われる。わたしがお前たちをすべての罪から清める日に、わたしは町々に人を住まわせ、廃虚を建て直す。

  廃墟が建て直される。 それは大きな喜び

  

★廃墟

 住めない  誰も住んでいない  汚い  暗い  悪臭がする

  崩れ落ちそう、いつ崩れるかわからない 家として機能していない。

  電気がつかない  水道も出ない  庭の草がぼうぼう

  柱が傾いている  雨漏り

  そばを通る人も良い気持ちがしない。

  もう住むことができない。 ほったらかしの状態 もうどうすることもできないよねと 手の付けようがないと

 

★廃墟が再び住めるようになる

 人が再び住む。

 庭の草刈   柱の補強  掃除  雨漏りの修理 電気がともる

 古い家を壊し、建替える  きれいになる

  そばを通って、ほっとする。

  廃墟ではなくなる。 リホームされる。 新しく建て直される。 それは夢のようだ。

  

★誰かがそこにおいて動き出す。

 ぼうぼうの草を刈る  雨漏りを直す  傾いた柱をまっすぐにする。

  掃除をする。 ガラクタの物を処分する

  そこには大きなエネルギーが必要

  

★南ユダの再建は、後になされた。

 徹底的に破壊されたエルサレムも再建された。

  何より遠いバビロンに連れて行かれて、再建どころではない。

  自分たちの国に戻れないと思っていた民が、再び、帰還する時が来た。

  紀元前538年 エルサレムの再建、南ユダの再建がなされた事実

 

★神の約束

  必ず再建される。 その時は来ると

◎34-38節 

36:34 荒れ果てた地、そこを通るすべての人に荒れ地と見えていた土地が耕されるようになる。

36:35 そのとき人々は、『荒れ果てていたこの土地がエデンの園のようになった。荒れ果て破壊されて廃虚となった町々が、城壁のある人の住む町になった』と言う。

36:36 お前たちの周囲に残された国々も、主であるわたしがこの破壊された所を建て直し、荒れ果てていたところに植物を植えたことを知るようになる。主であるわたしが、これを語り、これを行う。

36:37 主なる神はこう言われる。わたしは、再びイスラエルの家の願いを受け入れ、彼らのために行う。わたしは彼らの人口を羊の群れのように増やす。

36:38 祭りの時に、エルサレムが聖別された羊で満ち溢れるように、廃虚であった町々は人の群れで満たされる。そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。」

 賑わいが戻って来る。 喜びの声、笑い声

 人々が戻って来る 前のような賑わい

  

★再建は簡単ではない。

 これだけ破壊された。 これだけめちゃくちゃになった。

 今のウクライナの多くの人たちの思い もうメチャクチャ

  前に進めない どんなに頑張っても、無理だ。 そう思える。

  そこからの回復。

 

★それぞれ、そのような課題はないだろうか

 それぞれにおいてもあるのではないか

  現状はとても厳しい。 とても無理と思える。どう考えて無理だ。

  再建には相当のエネルギーが必要だ。 力が必要。

  資金が必要。 若さが必要。 いろいろなものが必要。 

  とても困難、 再建どころではない。 

  今日の箇所は、神からの励ましであり、約束。

 

★建て直すために必要なもの

 資金のお金  材料

 建て直す見通し そこに携わる人 建て直そうという心 希望、 ヴィジョン

  

○1-32節

36:7 それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしは手を上げて誓う。必ず、お前の周囲の国々は自分の恥を負う。

36:8 しかし、お前たちイスラエルの山々よ、お前たちは枝を出し、わが民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが戻って来るのは間近である。

36:9 わたしはお前たちのために、お前たちのもとへと向かう。お前たちは耕され、種を蒔かれる。

36:10 わたしはお前たちの上に、イスラエル全家の人口をことごとく増やす。町々には人が住むようになり、廃虚は建て直される。

36:22 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。

36:23 わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。

36:24 わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。

36:25 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。

36:26 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。

36:27 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。

36:28 お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。

 

★神の御業  

 神のご支配  神のなしてくださる御業  神が特別になしてくださる。

 

★石の心

 硬い心  コチコチの心

 人の声、神の声を素直に聞けない心  強情な心  頑なな心

  腎結石、胆結石。 人間の体の中にも硬い石ができることがある。

   その石が、大きな痛みをもたらす。

   腎臓で、尿管で、総胆管で 

  心が干からびてしまう。 自己中心な心、思い。 

  この強情な心によって神に逆らう道に進んで行った。

  壁が厚くなったしまった。 壁が硬くなってしまった。

  自分では気が付かない。 自分で気が付くけども変えることができない。

  その心のまま進んでしまう。

  神に聴こうとしない。 聴いても、それをはねのけてしまう。

  その石の心が問題の原因となる。

 

★肉の心

  やわらかい心  素直な心  聞きやすい心  砕かれた心。 

  自分により頼むことをやめる。 神の語り掛けを聴く。 素直に聞く。

  その石の心を砕くことはできない。

  その石の心をやわらかくすることはできない。

  神様が、変えてくださるとの約束

  神の語り掛けを、神の約束を素直に聞き取る。そして、それを受け止める。

  幼子は、素直に言われたことを受け止め、すくすくと成長する。

  赤ちゃん、乳幼児 肌はぷよんぷよんと柔らかい。 その心も柔らか

  大人がそうなるのはとても難しい。

  でも、主がそうしてくださる。 柔らかな心を与えてくださる。 なんという幸い。

 

★新しい霊

  神のみが与えることのできる特別なもの

  天からの霊 命を与える霊

  主ご自身のご支配が及んでいく。神が共にあって守り助け導いてくださる。

  このことが最終的に成就したのは、ペンテコステの出来事において。

  主を信じる一人一人に神の聖い霊が注ぎ与えられた。

  神の子どもとされた保証、 御国の世継ぎとしての保証

  共にあって、呻きとりなしてくださる。

  神の真理を明らかにしてくださる。

 

★建て直される幸い

 廃墟が建て直される 夢のようだ。 

◎33節

36:33 主なる神はこう言われる。わたしがお前たちをすべての罪から清める日に、わたしは町々に人を住まわせ、廃虚を建て直す。

 町が、国が再建される。 家々が再建される。 住めなかったところが住めるようになる。

  暗かった町が、暗かった家が明るくなる。

  断絶していたのに、交わりがなかったのに、交わりが再開した。

  廃墟の再建、建て直され

   それは町の家々の姿ですが、そこに住む一人一人の姿でもあった。

  生きる希望が無くなっていたのに、その希望が与えられた。

   その希望を持って生きる。 

  前に進む力を失っていたのに、その力が与えられた。

   その力が与えられて前に進む。 それは、喜びであり、感謝であった。

  日々の歩みにおいて、いろいろな困難もあるけど、大丈夫。

  主が共にあって支えてくださる。 共にある、支える、導くと語りかけてくださる。 それは、大きな幸い。

  

 

11月6日() 聖日礼拝 

    「神に献げられた香り」 コリントの信徒への手紙二2章12-17節

 

★香り

 香りということで何をイメージするでしょうか?

 ・花の香

 キンモクセイの花、沈丁花の花、梅の花、クチナシの花

   幸せな気持ちになる

 ・磯の香、 ・森林の中の香り、 ・春の大地の香り

 ・炊飯器から立ち上る炊き立てのご飯の香り、 ・温泉の香り・・

 ・ハーブ、 ・香水

 人工的に作られた香りではなく、自然の中で作り出される香り

 私たちを心地よくする 自然の香りはいつまでも嗅いでいたいと思う。

 

★香りの反対のもの

  臭いにおい、  物が腐った時の臭い

  ドブ川の臭い   汗臭さ、・・

    

★良い香りは人を癒す。

  ハーブ、・・ アロマセラーフィー

 ◆アロマテラピーの健康効果とは

  アロマテラピーとは、「植物から抽出した香り成分である精油(エッセンシャルオイル)を使って、心身のトラブルを穏やかに回復し、健康や美容に役立てていく自然療法」と定義されております1)

 植物がもっている香りを、心身の癒やしに役立てようという考え方は、古代エジプトの壁画に香油の壺や香炉が描かれるように、数千年前からありました。

 アロマテラピーは日本語では芳香療法と訳されており、植物(香草、薬草)の花、葉、茎、根、樹皮などから水蒸気蒸留で抽出した精油を用いる方法が一般的です。

アロマテラピーの健康効果

 人が香りを感じる仕組みは、空気中に漂う香りの成分が呼吸と共に鼻に入り、その香りの成分が鼻の嗅粘膜に溶け込み、香りの成分を情報として嗅細胞がキャッチします。その後、嗅神経・嗅球・嗅索を通り、大脳(大脳皮質や大脳辺稼系)に伝えられ、人は香りを感じます。香りの刺激によって、集中力が高まったり、鎮静効果をもたらしたりします。

 アロマテラピーに向いている香り

  

私たちは、周りにどのような香りを放っているのでしょう?

  願わくば、良い香りを放つものでありたい。

  他の人にさわやかさを与える者でありたい。

  自分のなす態度、口から出す言葉、自分の日々の歩み、自分の出す雰囲気

  できるだけ良いものと願いつつも、時に、他の人を不快にさせたり、いやな思いをさせることもある。 他の人への心配り

 そして、何より自分自身がいきいきとしていたい。

  そうでなければ、他の人に対して、爽やかな思いを与えることは難しい。

 心の中に、不平不満があれば、それはいつの間にか外に向かって嫌な香りを放つ。 時に、不平不満、怒り、赦せない思い、妬み、傲慢・・

  そのようなものが心を占めることがある。

 

★主によって整えていただきましょう。

  自分だけの力では、頑張りでは、そうしようもない事柄がある。

  自分の心の中、自分のうちにある力

 時に限界を覚える。 どうしようもない。どうしたら良いのだろうかと悩む。

  主に、そのことを申し上げ、整えていただきましょう。

○テサロニケ一5:16-18

5:16 いつも喜んでいなさい。

5:17 絶えず祈りなさい。

5:18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

  いつも喜ぶ、絶えず祈る、どんなことにも感謝する。  

  自分でそのように努めることは大事、意識して歩むことは大切。

  でも、何より、主につながって歩むことが大切。

  主につながっていなければ、空回りしてしまう。  

  主につながって、主の助けをいただきつつ、歩むことが大切です。

 

★「神に献げられた香り」(本日の説教題)

◎15節

2:15 いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。

 神に献げられた香り

  その香りはまず神に献げられた香りであるということ。

  他の人を意識するよりも、神を意識することが求められている。

  自分で作るのではなく、キリストによって作り出される。

  それが、周りの人に及んでいく。 良い香りを主が備え、与えてくださる。

 

★キリストを知る知識の香り

 キリストにつながって歩む、生きる。

 この世界を創造して下さり、今もご支配していてくださる主なる神と共に歩む。 その中で生かされて歩む。 与えられている様々な良いものを心にとめ歩む。

◎14節

2:14 神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。

  イエスによって贖い出された者として生きる。

  かつてはさまよっていた者、滅びへと向かっていた者だった。 しかし、今は神に見い出された者として生きている。

 罪の赦しをいただき、神の子どもとして生きる。

 この私は、神から愛されている。

  神のみ前で、高価だで貴い者として、覚えられている。 なんという感謝。

 私たちは、この世を意識しすぎる、他の人を意識しすぎる。

  その比較の中で、翻弄される。

  この私は、価値があるのだろうか、生きる意味はどこにあるのだろうかと

  考えすぎてしまう。 上がったり、下がったり、・・

 主にあって生きる。

  主のご愛の中で生きる。その幸いを心にとめつつ、歩むのです。

 キリストの勝利の行進に連なり

  自分で勝利を、勝利をではなく、キリストの勝利の行進に連なって歩む。

  その身とさせていただいたことの感謝。

 

★神に献げられる香りとは?

  神に献げられる香りとは、何を意味しているのだろうか?

  それは、一言でいえば祈りを意味している。 神への祈り

  この祈りを捧げつつ日々歩むのが私たちクリスチャン

○詩篇141:1-2

141:1 【賛歌。ダビデの詩。】主よ、わたしはあなたを呼びます。速やかにわたしに向かい あなたを呼ぶ声に耳を傾けてください。

141:2 わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし 高く上げた手を 夕べの供え物と  

してお受けください。

 夕べの供え物 祈り

○出エジプト記30:1-10

30:1 アカシヤ材で香をたく祭壇を造りなさい。

30:2 寸法は縦一アンマ、横一アンマの正方形に、高さ二アンマとする。そして、四隅に角を祭壇から生えるように作る。

30:3 祭壇の上の面と四つの側面と角を純金で覆い、側面に金の飾り縁を作る。

30:4 二個の金環を作り、それを金の飾り縁の下の両側に相対するように取り付け、担ぐための棒を差し入れる環とする。

30:5 この棒もアカシヤ材で作り、金で覆う。

30:6 それを掟の箱を隔てる垂れ幕の手前に置く。この掟の箱の上の贖いの座の前で  

わたしはあなたと会う。

30:7 アロンはその祭壇で香草の香をたく。すなわち、毎朝ともし火を整えるとき、

30:8 また夕暮れに、ともし火をともすときに、香をたき、代々にわたって主の御前に香りの献げ物を絶やさぬようにする。

30:9 あなたたちはその上で規定に反した香や焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、ぶどう酒の献げ物などをささげてはならない。

30:10 アロンは年に一度、この香をたく祭壇の四隅の角に贖罪の献げ物の血を塗って、罪の贖いの儀式を行う。代々にわたって、年に一度、その所で罪の贖いの儀式を行う。この祭壇は主にとって神聖なものである。

  祭壇における、毎朝、夕暮れの香りの献げ物

  香をたく祭壇において

  至聖所の前の聖所に置かれた祭壇 定められたとこと

  一年に一度、贖罪の献げ物の地が、祭壇の四隅に塗られる。

  主の贖いの大いなる恵み 罪の赦しをいただいた感謝をもって、香をたく。

 祈りは、主のご愛をいただいていることの感謝、

 その愛により、主イエスの十字架での犠牲がささげられたことの感謝

 復活の勝利の主をほめたたえつつ。

   

★贖いの恵みをいただいた者として

 贖いの恵みをいただき、神の子どもとされていることを心にとめ、感謝しつつ、歩む。 主にしっかりつながって歩む。

 日々の歩みにおいて、祈りを捧げつつ。

 御言葉をいただきつつ。

  聖書を開いて、御言葉をいただく。

 聖日礼拝を大事にしつつ。

  主のみ前に共に出て礼拝を捧げる。 時を聖別して、この時間を捧げて

  共に励まし合いつつ

 

★香りは二つの側面を持つ

  主によって救いに与った者の歩み  主につながって歩む幸い 

  それと共に、主を指し示す。

  愛の主、贖いの主。その主は、この地上に生きる私たちを愛しておられる。

   その主は、2つの道を示される。

    滅びへの道と救いへの道

  主につながらないままで生きる道は、滅びに向かう。

  しかし、主につながるならば、主につながって生きるならば、救いに与る。

  永遠の命をいただきつつ、歩むことになる。

◎16-17

2:16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。

2:17 わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。

   何でもありではない。

 死に向かう道があること、命に向かう道があることを証しする。

 全部命に向かいますというのではなく、死に至る道があることも伝える。  

 でも、命に至る道があることを証しする。 簡単ではない。

 主につながって、生かされて歩む時に、そのことが証しされる。

 

★神に献げられた香り

  主の救いに与った者は、神に献げられた香りです。

◎14-15節

2:14 神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。

2:15 救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。

 主と共に歩む、 主につながって、御言葉をいただきつつ、祈りを捧げつつ歩む。

 その恵みの中で、放たれる香りが良いものでありますに。

 主を証しすることができるならば幸いです。

 

 

11月13日() 聖日礼拝 

      「人を生かす霊」   コリントの信徒への手紙二3章1-6節   

 

★子どもの成長

  子どもは、ぐんぐん成長します。 内に持った成長の力が発揮されて

  赤ちゃんから、幼児に、そして小学生、中学生に

  子どもたちは、その家庭にとって大きな喜びですし、周りの人たち、社会にとって  の喜び、希望です。 その成長が守られますように。

 子どもたちが神の愛と恵み、祝福の中で健やかに大きくなりますように。

  その家庭が豊かに守らますように。

 

★人は何によって生きるか

 1)まず第1には、食べ物が必要ですね。

    赤ちゃんであれば、母乳ないし、ミルク

    子どもには、その成長のために、十分な栄養のある食べ物

    大人にとっても、必要な食べ物 年をとっても、食事で必要な食べ物

    おなかをすかせたままでは、何もできない。

 2)第2には、安心して休める場所が必要です。

    住む家、安心して眠ることができる

    帰る家がなければ大変。 夕方には帰って休む家、部屋が必要です。

 3)第3には、喜び、希望が必要です。

    日々を過ごす中で、喜びがある。

     このことをする、この遊び、この勉強、この仕事、このこと 

     今日はこの部屋のかたずけをする。今日は庭の草取りをする。

     今日は、どこどこに買い物に行く、

     今日は、だれだれに会う。

 4)第4には、自分という存在に対しての安心、感謝 

    それは、自分はここにいて良いのだ、自分は大切なのだという思い

    自分は必要とされているのだという思い。

    自分は生かされているのだ。

    自分にはなすべきことがある。使命がある。

 5)そして、もう一つあります。それは、自分は愛されているという思いです。 自分には愛が注がれている。自分は愛されている。

  でも、実際にはどうでしょうか? どこで、そのことを受け止めるでしょうか? 子どもにとって、この自覚は一番大切なものかもしれません。

  自分の家は、けっして裕福ではない、むしろ貧しいということがあったとしても、自分は愛されている。自分を愛してくれる人がいる。

  たった一人であっても、自分をかけがえのない者と思ってくれる人がいる。

  それは、母親かもしれません、父親かもしれません。おばあちゃんかもしれません。 おじいちゃんであるかもしれません。一人の先生かもしれません、一人の友かもしれません。 そのような人が一人でもいるなら幸いです。

  でも、そのような人が一人もいなかったら、つらいですね。

 

★愛情

  愛は大切です。愛情、それは、注がれるものです。 この自分に対して注がれるものです。 その愛を受けて子どもは大きくなるのです、そうなってほしいものです。

 子どもだけではありません。

  青年時代であっても、壮年時代であっても、年を取ってからもそうです。

  愛が必要です。

  自分を心から愛してくれている人が今いる。

  自分を心から愛してくれた人がいた。その人はすでにこの地上を去ってしまった。 でも、自分は、その人から愛を注いでいただいた。それは、大きな慰めであり、励ましです。

  小さな子どもたちが健やかに成長しますようにと心から願います。

  

★愛を必要としている私たち

  その愛は、一時的な愛ではなく、継続的な愛であってほしいと思う。

  偽物ではなく、本物の愛

  愛に渇くと、どうしようもなくなる。 むなしい、生きる力が乏しくなる、

  愛を探し求める。

  時に、間違ったものに飛びつく。 一時的なものでその渇きを紛らわそうとする。 一時的には満たされても、それは長続きしない。 反対に渇きは増し、むなしさは増してしまう。

 

★神の愛

 毎日受けているものがあります。 それは何だと思いますか?

 それは太陽の光です。太陽からの熱です。 当たり前のように思っているかもしれませんが、これは大きな恵みです。

 そして、聖書は告げます。 天と地を創造された神、その方は、天体をも、作られた。太陽はその造られたものの一つです。

 その太陽を作られた主は、私たちの住むこの地球をも備えてくださった。

 そして、この地上に住む私たちに愛を注いでくださっています。

  太陽からの光も熱も意識しないと当たり前を考えてしまいます。

   意識すると、それはとてもありがたいものです。

 神の愛が意識できたら幸いです。

  ただし、その意識は感覚的なものですが、それだけならば、そう感じる、そう感じない。 今日はそう思う、でも次の日には、そう思えないとなってしまう。 信仰によって、神の愛を知る必要があります。その愛を受け止める必要があります。

 

★本日の聖書の箇所

  コリントの信徒への手紙二3章1-6節です。

◎コリント二3:1-6  

3:1 わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。

3:2 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。

3:3 あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。

3:4 わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。

3:5 もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。

3:6 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。

  この箇所の中心聖句は6節です。特に最後のところ

   文字は殺しますが、霊は生かします。という箇所です。

  霊は生かす 霊は人を生かすというのです。

  今朝は、少し、難しい箇所かもしれません。

 文字は殺すが、霊は生かす どういうことか、光が与えられるなら幸いです。

 

★ダビデという人物

 少し今日の箇所から離れますが、聖書の中で最も有名な人物の一人であるダビデという人を取り上げたいと思います。

 ダビデは、旧約聖書の中で、偉大な王となった人物です。

 サウルという王の後に王となった人物です。

  彼の少年時代 彼は羊の世話をする仕事を任されました。 

  そのダビデが後にイスラエルの王となったのです。

  彼が王となるかきっかけの箇所を少し見てみましょう。

○サムエル記上16:6-13

 

 少年ダビデは、8人兄弟の末っ子でした。

  預言者サムエルが父エッサイの家に来た時、7人の兄たちではなく、一番下のダビデが選ばれました。 本当に不思議です。

  彼は、血色がよく、目も美しかった。姿も立派であった。

  彼は、兄たちと比べると体も小さく、経験も乏しかったことでしょう。

  でも、彼には他の兄たちを何かが違っていた。

 ダビデは、生き生きとしていた。健やかに成長していた。

  少年ダビデは、神の愛に生かされていた。神の愛を心に覚え、感謝しつつ、生き生きと歩んでいた。 父エッサイから任された羊の世話を喜んでしていたのだと思います。 神の愛を心に覚え日々を過ごしていた。

 その少年ダビデが、サウル王の後に立つ王として選ばれた。 納得できます。

 

★推薦状

推薦状を必要とするときがある。 この人は大丈夫な人ですよとの推薦

 自分の確かさを証明する、後押しするもの

◎2-3節

3:2 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。

3:3 あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。

 使徒パウロは言う、

 私たちの推薦状は、あなた方自身です。 コリントの教会の人たちあなたたち自身ですよ。 自分自身というよりも、自分を通して生み出されたもの その作品。 あなたたちは、幸いな作品です。 私が生み出したというよりも、神が生み出してくださった作品です。

 主イエスを信じ生きる者になったコリントの教会の人たち。

  神の霊が、その一人一人のうちにお住いくださり、心の板にこの人は神から選ばれた人、神から愛された人、その愛と恵みの中に生きている者 

 神の霊を受けて、主のご愛を確認しつつ、歩む者となった。

 希望と感謝を持って歩む者となった。

 神の愛に生かされて、生き生きと生きる者になった。

 使徒パウロは、そのことを一番喜んだ。

私の推薦状はあなた方自身ですと語った。

 パウロ自身、自分の確かさを自分に求めるのでなく、彼を通して、神の愛に生かされるようになった人たちこそ、自分自身の感謝であり、確かさですと語った。

 

★文字は殺し、霊は生かす。

  文字は殺し、霊は生かす。

◎6節

3:6 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。

 

★文字は殺す

 文字は殺すとはどういう意味でしょう?

 文字の意味するところのものは律法です。 こうあるべきです、こうあらねばなりません。 それは正しい教え  ただし、それがその人のうちにしっかりと根付けば、その人を生かすものになる。

 しかし。そこが難しい、なかなか根付かない。

 正しい教え。 それを守ることができると、人は感謝のうちに歩むならば幸いですが、自分が高い者と考えてしまう。

 それを守ることができない人を裁いてします、見下げてしまう。

 反対に、その正しい教えを守れないと、自分はだめだと自己卑下してしまう。

  どうせ守れないのだから、頭から守ることを捨ててしまう。

  流れるままに身を任してしまう。

  こうあらねばならない。こうあるべきだ。 そのようにして、人間が作り出す頭ごなしの教えになってしまう。 結局のところ、律法を捨ててしまう。

 その律法を与えてくださった命の主を捨ててしまうことになる。

 文字は人を殺す。

 

★霊は人を生かす

 霊とは、神の霊、聖霊なる神のことです。 神の霊は、命の霊

○ローマ8:14-16

8:14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。

8:15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。

8:16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

 聖霊は、励ましてくださるお方

 私たちは励ましを必要としている。

 大丈夫かあと心配する時がある。 難しいな だめかもしれないなあ、いやもうだめだと思う時がある。 そんな時にそばにいて励ましてくれる人がいたら嬉しい。 でも、なかなかそういうことはないかもしれない。

自分のうちにある心配、不安を駆られないときがある。内に秘める。そして悩み苦しむ。

 聖霊なる神は、そんな私たちを励ましてくださる。 あなたは、見捨てられていない。

  主はあなたを決して見捨てないお方ですよ。

 *拠り所を持つ者は幸いです。

  なかなか拠り所を持つことができない。

  拠り所を思っていたものがなくなることがある。

  拠り所を思っていた人がいなくなることもある。

  主こそ、真の拠り所なるお方、確かなお方。 この私を愛していてくださるお方。

 あなたは、神の子どもとされたのです。 あなたは神から愛されていますよ。

 アッバ、父よとは、お父ちゃんと呼びかけ甘えて良いのですよと教えてくださる。 主イエスにあって、神を信じる。

 主イエスを自分の救い主を信じて、歩み出すこと。 それは幸いなことです。

 私たちを生かしてくださる神、その神を身近に覚えさせてくださる聖霊なる神がいてくださる。 大きな感謝です。

 

 

11月20日() 聖日礼拝 説教メモ

   「主と同じ姿に」   コリントの信徒への手紙二3章7-18節

 

★喜び、祈り、感謝

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」 聖書の中で、もっとも有名な箇所の一つ

さて、どこの箇所でしょうか? テサロニケの信徒への手紙一5:16‐18節ですね。 いつも喜ぶこと、絶えず祈ること、どんなことにも感謝すること。

  これは、素晴らしいことです。

  ある方が、最近、ポツンとこう言われました。

  「いつも喜ぶこと、難しいですねえ」 そう言われれば、その通りです。

   正直な人だなあと思いました。

   いつも喜ぶこと 簡単ではありません。喜ぶことのできない状況はいろいろある。 そのような中でも、喜ぶ。 不平不満で通すのではなく、喜びを発見する。 少女パレアナではありませんが、喜びを発見するゲームを楽しむ。

  祈ることは、いかがでしょうか?

   祈りを忘れてしまった。祈りをすることをやめてしまった。

   普段の生活が忙しくて。 いろいろなことで頭がいっぱいで。

   そのような中でも、そのような中だからこそ、主に向かってお祈りする。

   主よ、助けてください、主よ導いてくださいと

  感謝することは。いかがでしょう。

   難しい問題ばかり、困難がある。 思い通りにいかない。

   つぶやき、不平不満、自暴自棄になりそう そのような中でも、守られていること、生かされていること、与えられているものがあることを心にとめて、感謝する。

  喜び、祈り、感謝は、自分で頑張って、頑張って造り出そうとするのではなく、主によって与えていただくものです。 主が、喜び、祈り、感謝を与えてくださる、そのように導いてくださいます。 それは、大きな感謝です。

 

★物事にはいつも2つの面がある。

 ・日中の時間 

 冬から春、夏に向けて長くなる、反対に夏から、秋、冬に向けて短くなる。 今は、短くなる時

 ・気温も同じ

 気温がこれからだんだん上がっていく時期があり、これから下がっていく時期がある。今は下がっていく時期。 寒さ対策。 ストーブ、エアコン、毛布

  暖かい下着や上着を着こむ。 様々な工夫をして、寒さをしのぐ。

  発電施設を破壊され、これから厳しい冬を前にしている、ウクライナの国の人たちが守られますようにと願います。

 ・ウォームアップとクールダウン

   野球の投手を見ていると、マウンドに立つために、ウォームアップをする。 軽い投球練習をして肩を温めていく。

  その試合で、自分の投球の勤めを終えると何をするでしょう。

  肩をクールダウン 肩を冷やすものを巻く。あの中には何が入っているのでしょう? 氷? ドライアイス?

  

★今日の聖書の箇所では、相対する勤めがあることが記されている。

  一つは、人を罪に定める勤め、もう一つは人を義とする勤め

◎9節  

3:9 人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。

 

★罪に定める勤め

  法律は、善悪の基準を示すもの

  これは正しい、これは間違っている。間違ったことをしたときには、これこれの罰が及ぶ、 交通規則がある。そして、罰則もある。

自転車は、車と同じく左側通行ですよ。しかも、車道を通らねばなりませんよ。

 ここでは一時停止ですよ。  この道路は、最高速度は何キロですよ。

 それに違反すると捕まる。そして捕まれば罰金を支払わねばならない。

 交通違反で、一度は捕まった、違反切符が切られた。罰金を支払ったことがある人は多いと思います。車を運転する人で、一度も、違反切符を切られたことがない人は珍しい。

 罪に定める勤め

  警察官 違反した人を見つけたら、注意する、捕まえる

  裁判官 悪を犯した人を裁く、 無罪か、有罪か 有罪ならば、どれくらいの罰金か、服役か、どれくらいの服役か 執行猶予はどうか等

  その勤めのもとにあるものは、法律ですね。

  使徒パウロがここで指摘しているその務め そのもとになっているものは律法です。 文字で記された律法です。 

 規則や法律は大切、善悪の判断を示すものであるから。 何でもありならば、大変なことになってしまう。何をしても良い、どんな悪いことをしても罰せられない。 大変なことになってしまう。

 しかし、一方、その規則、法律によって、規制されすぎてしまう。

 学校の校則があまりに厳しく、細かすぎるならば、いつも、そのことで、学校の先生から注意される。

 学校生活が楽しくない。 スカートの丈は、ひざ下何センチ、 ソックスは何センチまで、・・ いつもそれで監視される。そして違反したら注意される。

 それを守らなければ、学校から追い出される。・・

 

★罪に定める勤めのもとになっているもの

  それは、神の律法

  そのもとになっているものが、いわゆるモーセの十戒です。

○出エジプト記20章1-17節

20:1 神はこれらすべての言葉を告げられた。

20:2 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

20:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。

20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、

20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

20:7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。

20:9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、

20:10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。

20:11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

20:12 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。

20:13 殺してはならない。

20:14 姦淫してはならない。

20:15 盗んではならない。

20:16 隣人に関して偽証してはならない。

20:17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

十の戒め

 最初の4つは、神との関係の中での戒め

 後半の6つは、人との関係の中での戒め

神からの最も大切な戒め これを守るならば、祝福が注がれますよ。 その通りです。 イスラエルの民は、この素晴らしい十戒をいただいた。 どんなに大きな喜びだったことか。 ところが、明らかになって来たことは、これを守ることができないことがある。

 守れない、守らない。 これを守らない者には、祝福ではなく、呪いが及ぶ。

  イスラエルの民の苦悩

   守れない、守らない、捨ててしまう。

   その結果、神の祝福を受けるよりも、呪いの中に置かれた。

 その十戒、律法を告げ知らせる。教える働き

  それは、罪に定める勤めである。

 

★もう一つの勤め、それは人を義とする勤め

 もう一つの勤めがありますよ、それは人を義とする勤めですよ。

 パウロという人が就くようになった勤め

 かつて、パウロは罪に定める勤めについていた。

  サウロという名の時代 十戒、神の律法を守ることに命を懸けていた。

  しかも、その守るべき律法には、歴史の中で、人が付け足した多くの細かい規則が加えられた。それを守れる人は限られていた。

 守れる人、守れない人と人を区別した。

 いつも、頭から離れないことは、律法を守れているか、守れていないかということであった。 そのことが考えの中心にあった。

 神のことを考えつつも、その規則がいつも中心にあった。

 これを守ることで、神は祝福を与えてくださる。

 でも守れなければ、その祝福は取り除かれるという不安と恐れ

 いつの間にか、神の本来の祝福の教えとは違う人が作り出した規則、教えが幅を利かせ、人をがんじがらめにしていた。

 今年、日本で話題になった宗教団体のさまは、まさにその通り

  宗教という名で、人を支配し、苦しめている。

  大きな社会的な問題として、クローズアップされた。

 そのサウロが、ダマスコ向かう途中、復活の主イエスに出会い、彼は変えられた。 神の愛に捕らえられた。

 復活の主を否定していたサウロは、復活の主に出会い、復活の主を宣べ伝える者に変えられた。 名前はパウロとなった。

 人は、神の律法を守ることで救われるのではないのですよ。

 神の愛によって救われるのですよ。

 どうしようもなくなっている私たちを愛してやまない神がおられるから、救われるのですよ。 神は、あなたのために、救い主イエスを遣わしてくださったのですよ、と宣べ伝える者となった。 この勤めは、何と尊いことか。幸いなことかとパウロは語っています。

 

◎7-11節  

3:7 ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、

3:8 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。

3:9 人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。

3:10 そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。

3:11 なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。

 

★今日のテーマは覆い

 覆いの働きは、何かを覆うため。 何かを覆い隠す。

 そのもとになっている箇所は、出エジプト記34章

○出エジプト記34:29-35

34:29 モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。

34:30 アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかったが、

34:31 モーセが呼びかけると、アロンと共同体の代表者は全員彼のもとに戻って来たので、モーセは彼らに語った。

34:32 その後、イスラエルの人々が皆、近づいて来たので、彼はシナイ山で主が彼に語られたことをことごとく彼らに命じた。

34:33 モーセはそれを語り終わったとき、自分の顔に覆いを掛けた。

34:34 モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出て来るまで覆いをはずしていた。彼は出て来ると、命じられたことをイスラエルの人々に語った。

34:35 イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた。モーセは、再び御前に行って主と語るまで顔に覆いを掛けた。

 十戒の石の板をいただいてシナイ山から下りていたモーセの顔は輝いていた。

  迎えた民はおののいた。

  モーセは会見の幕屋で神のもとで祈りを捧げる度に、その顔は輝いた。

  民は恐れおののいた。それで、モーセは顔に覆いをかけた。 

  覆いは、その輝きを隠すためであった。

 覆いの働き、何かを隠す。 本当は隠さなくても良かったのに隠した。

 そのうちにその輝きの意味が民はわからなくなった。

  そのれは、神の愛と恵みによって生かされる幸いであった。

 覆いは、妨げるものになる。

 目に覆いがかかることがある。

  眼鏡のガラスが、湯気で曇る。 ガラスが傷だらけになって見えずらくなる。 反射防止のためのコーティングが取れていく、すると見えずらくなる。

 白内障 目のレンズが濁る。

  光がまぶしい、字が良く見えない そのままには、しておかない。

  眼鏡ならば、ガラスの曇りを吹き去る。

 傷だらけになれば、自分で磨けない、その傷を取り除くことはできないので、

  新しいガラスに取り換える。

  白内障ならば、眼科医の物で手術を受ける

濁ったレンズを取り除き、透明な人工のガラスを入れる。

 覆いが取り除かれると、よく見えるようになる。 こんなにきれいにものが見える。 字もきちんと見える。

 

★覆いは取り除かれて、その覆いの不自由さを実感する。

  眼鏡のガラスの曇りならば、自分で拭き去る

  ガラスの傷ならば、眼鏡屋さんで、新しいガラスを付け替えてもらう。

  白内障ならば、眼科医で、手術して良くしてもらう。

 

◎12-18節 

3:12 このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、

3:13 モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。

3:14 しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。

3:15 このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。

3:16 しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。

3:17 ここでいう主とは、のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。

3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

 

★信仰における覆い

  モーセではないですが、覆いがかかったままになってしまう。

  ヒントは、モーセ自身の行動に示されている。

  モーセが覆いを外したのは、会見の幕屋で、主とお会いする時であった。

  この覆いが、私の信仰の目を暗くしている。

  その覆いに気が付かないこともある。

  それがいつの間にか当たり前になってしまっている。

 眼鏡のレンズの傷が当たり前に、目のレンズの濁りがいつの間にか当たり前に

  その不自由さの中で、過ごしている。

  

★パウロは語る、その覆いを取り除く必要があると

 その覆いを取り除いていただきなさい。その覆いがかかった状態のままでいないようにしなさい。

  しかし、自分で取り除くことは難しい、不可能

  眼鏡のガラスの傷を取り除こうをすればするほど、傷は多くなってしまう。

  一番良い方法は、専門家のところに行くということ。

   新しい透明なガラスを入れ替えてもらうということ。

  神にそうしていただきなさい。

   

★その秘訣

  その秘訣はありますよ。

  主の方に向き直ること 

◎16節

3:16 しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。

 主の方に向き直るとは、2つのこと

 ①第一には信仰に立つということ

  不信仰を捨てて、信仰に立つ。 信仰をもって進む。

  神の喜ばれる道はただ一つ、信仰に立つということ

  信仰に立たないということがある。

   神の言葉よりも、自分の言葉、自分の考えを優先することをやめる

   神の言葉すなわち聖書の御言葉を通して神が語りかけられることをそのまま受け止める。あれこれ言い訳をしてしまう。 主はすべてをご存じである。

 その主の前で、あれこれ言い訳をせずに受け止める。

 主よ、その語り掛けをまず聞きます。 私の頑張りや力では難しさはあります。でも、主がそのように語りかけておられるのですから、まず受けとめます。

 そして、その受けとめと歩みを可能としてくださるのは、主ご自身ですから、主に助けをいただきつつ歩みますと

 ②第2のことは悔い改めるということ

  主のみ前に悔い改めるべきことがある。

  しかし、まあいいか、そのままにしていることがあるかもしれない。

  この問題には触れないでください。これは私の領域です。

  主に明け渡さない領域を設けて続ける。

  人に対しては、当然あってよい、しかし、主に対してはそうあり続けてはならない。 主のみ前に、悔い改める。

 

★主に向き直る時に働いてくださる聖霊

  主の霊が働いてくださる。

◎17節 

3:17 ここでいう主とは、のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。

 自由が与えられ、喜びが与えられる。 喜び、祈り、感謝が与えられる。

  なんという幸い。

 

◎18節

3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

  新たに造り変えられる。

 顔の覆いが取り除かれ、鏡のように主の栄光を映し出しながら栄光から栄光へ

 主と同じ姿に造り変えられる。

 主イエスの同じ姿に

  誰かのようになる、その理想は主イエスですね。

  神との親しい交わり、神の愛に包まれて生きた主イエス

   そのように造り変えられる。

  父なる神から託された働きを喜びをもって携わられた主イエス

  そのように、私たちも、神から託された働きを心にとめて歩む、生きる。

  なんという幸いでしょう。 

 

 

12月4日() 聖日礼拝 説教メモ

   「人間を照らす命の光」     ヨハネ福音書1章1-9節 

 

★12月

 12月を迎え一番意識することは、あと1か月でこの年が終わり、もうすぐ新しい年を迎えること。

 もうひと頑張りすれば、冬休み、年末年始の休みがやって来るということかもしれない。

 スキーとやる人にとっては、スキーのできる季節がやって来た。

 そして、クリスマスシーズンがやって来たということ。

 クリスチャンにとっては、クリスマスの主に喜びと感謝の賛美を捧げる時がやって来た。

 そして、もう一つは先週少し触れましたが、日がぐんぐん短くなる。夕方、すぐに暗くなる。でも、あと少しすると冬至を経て、日はぐんぐん伸びてくる。

 夕方が少しずつ明るくなるという楽しみ。

 

★光を意識する

 クリスマスイルミネーションをいろいろなところで目にする。

 光があふれる。 クリスマスの商戦、クリスマスの飾り、ツリー

 クリスマスのパーテー、コンサート

 華やかさの中で過ごす。 多くの人が楽しく過ごす。

 クリスマスの時期の一つの思い出

 大学病院の小児科病棟のクリスマス会

 クリスチャンになって2年目の時に、クリスマスのお話をしに行かせてもらったこと 小児科病棟

 重い病で家に帰れない子どもたち、その家族、そして小児科の医師、看護師の方々で、クリスマスのお祝い

 華やかさを競う中で、それとはかけ離れて過ごさねばならない人たちがいるということ。 華やかさの陰に、その反対の思いの人たちがいるということ

 光、希望を意識する。

 

★光の力

 光は周りを照らす。そこを明るくしてくれる。

  本日午後、市民クリスマス 会場と中継の両方(ハイブリッドの形) LEDのライトも用いられる。 光は、暖かさももたらす。

 まさに太陽の光はそのような力を持つ。

 光が指し示すものは、喜びであり、希望です。

 

★人間の心

 私たち人間の心は、時に暗くなる。

  それは、希望が危うくなる時ではないでしょうか?

  今抱えている問題は解決するのだろうか?  この病気は良くなるのだろうか?  コロナはいつ 明けるのだろうか?

  ウクライナでの戦争、どうなるのだろうか?

  自分の将来は大丈夫だろうか?  ・・  心配は尽きない。

  その心配を抱えつつ進んで行かねばならない。

  

★クリスマスのメッセージ

  クリスマスのメッセージは、光であり、希望です。

◎9節

1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

 まことの光がこの世に来た。その光はこの世に生きるすべての人を照らす。

例外はない、すべての人を照らす。私の心を照らしてくれる。

 心を温め、希望を与えてくれる。 なんと嬉しいことでしょう。

 心の中を照らしてくれる。それは一時的ではない。 ずっと照らしてくれる。

 心を照らす光なる主がそうしてくださるからです。

 その主は、12月だけ、クリスマスシーズンだけの主ではない。

 1年中の主、生涯にわたる主。

 私たちの心は時に暗くなる。喜び、希望が薄くなる。枯渇してしまう。

 しかし、クリスマスの主は、そのような私たちを憐れんでくださるお方、顧みてくださるお方。この私に目をとめ続けてくださるお方

 

★クリスマスの主は誰か?

 クリスマスの主とはだれを指すのでしょう?

 特別に輝いている人、成功している人、ドリームを手に入れた人でしょうか?

 スターのような人でしょうか? 違います。

 クリスマスの主は、私たちのもとに来てくださったイエス・キリストというお方です。 イエスという名の意味は、神は救いということです。

 神は、救いを用意してくださった。

  私たちは、どこかで行き詰ります。 うまくいっていたと思ったのに、そうではない、大きな行き詰まりを時に経験します。

 自分のこと、家族のことで悩みます。 自分や家族の健康、さまざまなこと

 人間関係でうまくいかなくなることがあります。

 あることがきっかけで、そのことが心配でたまらない。

 あの人が許せない。 許してもらえない。

 妬みや嫉み、・・敵意、仲間外れ、仲間外し、・・

 様々のことが心を占めます。

 自分で解決できるはずだったのに、解決できない。 それで悩み苦しむ。

 そのような私たちに目をとめてくださるお方こそ、主なる神です。

その神は、その独り子である主イエスをお遣わしくださいました。

 

★一番大切のもの 

 これは私の宝です。

 二番目、三番目の宝は、誰かにプレゼントできるかもしれない。

 でも一番の宝は、プレゼントできない。これだけは、渡せない、手放すことはできない。

 天の神さまにとっては、独り子であられたイエス様でした。

 その一番お宝を私たちのために、手放されたのです。

 そのことこそ、クリスマスの出来事です。

 

★言(ことば)

  ヨハネ福音書においては、言(ことば)という言葉が用いられています。

◎1‐2節

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

1:2 この言は、初めに神と共にあった。

  この言葉は原語のギリシャではロゴスという単語です。

 この言(ことば)とは、救い主である主イエスを指しています。

 この世界、宇宙の最初 何もなかった時にただ一人、おられた方こそ、主なる神です。

 主なる神、それは三位一体の神です。 父なる神、子なるイエス、聖霊なる神です。 御子イエスは、父なる神と共におられた。

 この世界の最初からおられたお方

  この世界を創造してくださったお方です。 父なる神と共におられた。

  聖霊なる神も共におられた。

 

★言(ことば)には力がある。

 言葉の力を覚えます。  言葉によって、コミュニケーションをとります。

 言葉によって、人は動きます。

  人から言われた言葉、その指示、命令によって、動くときがあります。

  人に対して出す言葉は大切です。 その言葉で人は時に励まされ、慰められ、血読められます。反対に、傷つき、悲しみを覚えます。

 神の言葉の力

 それは、「光あれ」と言われ光が作り出されたように、創造する力があります。 神の言葉は、愛です。

  その愛によって、神は行動されます。働いてくださいます。

  言葉であるお方主イエスは、この世界においでくださいました。

 

★主イエスはおいでくださった。

 主イエスは愛の言葉として、この世においでくださいました。

 この世界の最初からおられた神であるお方主イエスは、神の位を捨てて、この世においでくださいました。

 

★人間を照らす命の光

  私たちは必要としています。 心の中を照らす命の光をです。  

  心を照らし、その心を温め、希望を与える光を必要としています。

 しかし、その心を暗くするものがあります。それが暗闇です。

◎4-5節(新共同訳)

1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

◎(口語訳)

1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。

1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

◎(新改訳)

1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

 

暗闇、闇

 聖書はそれを罪と呼んでいます。

 神の敵対する心です。神を無視する心です。

 特定の人を許せない思い、人を憎む思い、特定の人を消し去りたいと思う心

 敵意、争い、・・

それが私たちの心に覆いかぶさり心を暗くします。

 それは、深い闇です、強力な闇です。 執拗に私たちを支配しようとします。

 言(ことば)なる主イエスに命があった。 その命は人の光

 光は暗闇を打ち破るのです。

やみは、この光なる主イエスに勝つことはできない。

その勝利の主イエスがおいでくださったのです。

 クリスマスの主に感謝しましょう。

 その主をお迎えしましょう。 主は喜んで、あなたの好き主と救い主とななってくださいます。

 

 12月11日() 聖日礼拝 説教メモ

   「恵みと真理とに満ち」     ヨハネ福音書1章14-18節 

 

★満ちていることの幸い

 満ちている 

美味しいものをおなか一杯食べる時、満腹で幸せな気持ちになります。

十分である。 満ち足りている そこに喜びがある。

 おなかがいっぱい、お金がいっぱい、物がいっぱい  ただし、これらのものは乏しくなることがある。 おなかいっぱいだと思っていても、またおなかがすく、腹ペコになる。 満ちていることだけでは、必ずしも確かではない。 

 おなかはすくけれど、健康が与えられていて、また食事ができるなら、幸い。

子どもは、学校に行き、学び、遊び過ごす。おなかをすかせて家に帰って来る。

 でも、食事を用意して迎えてくれる母親がいるなら、父親がいるなら安心。

  思い切り、勉強し、思い切り遊べる。

 満ちている。 自分には乏しさがある、不足がある。でもそれを満たしてくれものがあるなら幸い。

 水が流れてくる。小さな川であれ、大きな川であれ、その水源が確かであれば、その川は流れ続ける。 水源をもっている川は大丈夫。

 

★私たちは乏しい、しかし、神は満ちておられる。

 自分の乏しさを知る時、不安になる。がっかりする。ああ、もう限界だ、もうだめだと思う。 私たちは本質的に乏しい者です。

 しかし、幸いのことが一つあります。それは、神は満ちておられるということです。

 その神が、私たちの乏しさを憐れんでくださるということです。

 私たちの乏しさを満たしてくださるということです。 ここに、主なる神を仰ぎ、信じ歩む者の幸いがあります。

 

★クリスマスの出来事

 クリスマスの出来事 それは、神の独り子である御子イエスがこの世においでくださったということです。

 神であったお方イエスが、人となって、しかも赤ちゃんイエスとしてお生まれくださったということです。 神が私たちのもとにおいでくださったということです。

 

★クリスマスの奇跡

 クリスマス、神が人となって私たちのもとに来てくださった。ああそうですか、ああそうなんですね。ではない。

 ◎14節

1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 言(ことば)である主イエスが、肉となって、おいでくださった。 

  肉は人とも訳されている。

【新改訳改訂3】

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 自分の持っているものをすべて投げ捨てることはできない。自分の持っている良いもの、宝、財産は自分のもの 誰かにあげることはできない。

 自分の持っている立場、自分が受けている名誉 それらを誰かにあげる、譲ることは普通、できない。 持っているお金、財産を持っていない人にあげることはできない。

 持っている豊かさをすべて投げ捨て、そうでない人たちと同じ立場になって生活することはできない、したいとも考えない。

 しかし、神であられた主イエスは、ご自身がお持ちのすべてを投げ捨てて、この世においでくださった。 

 自分のものは自分の物、人の物も自分のもの

 他の人の物も自分のもの、他の国のものも自分の国のもの

 そのような中にあって、自分のものは他の人のものと惜しげもなく、差し出すことができるとするなら、それは、奇跡。

 クリスマスは、奇跡の出来事 神が私たちになしてくださった奇跡です。

 

★神が人となられた

 神は創造者なるお方。 最高のお方 永遠から永遠を支配しておられるお方

 一方、私たち人間は、被造物に過ぎない。 造られた者。 命の終わりがある、限られた命  内に罪を持っている。 

 自己中心 自分のことが一番かわいい。自分の思い通りに歩みたい。 

 自分が欲しいと思うものをなんとしても手に入れようとする。時に他の人を押しやって、他の人の大事なものさえ、奪い取ってしまう。

 時に、他の人を仲良く過ごせない、いがみ合い、奪い合いをなしてしまう。

 特定の人に対して恨みを抱く、許せない思いを強く持ってしまう。

 時に、心が暗くなる、希望がまったくなくなる。 絶望する。

 どうにでもなれと思ってしまう。 すべてを壊してしまいたくなる。

 自分の人生さえ、どうでもよいと思ってしまう。

 自分を支配する強い欲望、その欲望に動かされて動いてしまう。

 どろどろとした人間の世界。 様々な悩み、苦しみがある。 いがみ合いがあり、争いがあり、戦争がある。 互いに傷つけ合う。互いに相手をつぶそうとしてしまう。互いに殺し合う。 そのような、この世界、私たち人間の姿がある。

 神を忘れ、神から離れた人間の世界

 その中に、聖い神であるお方である主イエスが、おいでくださる。その人間になって来られるなぞ、考えられないこと。 でも、その考えられないことをなしてくださった。 神が人となってくださった。

 

★クリスマスは神からのプレゼント

 クリスマスは神が私たちの最高のプレゼンをくださった出来事

  その最高のプレゼントとは、御子イエス

  主イエスを私たち人間の救い主として与えてくださった出来事。

 クリスマスにプレゼント交換をする。 もらうと嬉しい。

 クリスマスプレゼントは、私たちに与えられた。 既に与えられている。

 

★今日の聖書箇所は、私自身にとっても感謝な箇所

 それは18節の御言葉

◎18節

1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 いまだかつて、神を見た者はいない

 神を見たい、神を見せてくれ 神さまがもしおられるなら、奇跡を見せてくれ。 奇跡を見たら神を信じても良い そのような思いで過ごした時があった。

 教会の礼拝に通うようになり、同世代の人たちと過ごすことの幸いを覚え始めた時

 大学2年生の秋から大学3年生になる前のとき 20歳ころ

 そろそろ、洗礼を受けて、クリスチャンとなって歩み出しませんか?

でも、自分には、肝心のイエス様のことが分かっていませんでした。

 自分を偽って、一番肝心なことがわからまま、洗礼を受けることはできない。ならば、もう一度教会から離れるか?

 そんな時に、熊本の天草でKGK(キリスト者学生会)と呼ばれるクリスチャンの学生たちが中心になって、学内での活動、そして、新しい友を誘っての春季学校、夏期学校等が催されていました。 私は、誘われてその春季学校に通いました。

 神様、もしあなたが本当におられるなら、自分に確かなものを与えてくださいという願い、祈りを持って参加しました。 宮崎からも、宮崎大学、宮崎医科大学、宮崎女子短大と7,8名が参加したかと思います。 2泊3日だったでしょうか? 

 そこでのこと 一つはっきりわかったことは、自分はまさに聖書が言うところの罪人だということでした。

 奇跡を見たら、経験したら、神を信じてもよい、でも、そんな奇跡は一度も経験していないしなあと考えていました。

 一人の世話役の片岡伸光という主事を通して、そのように神を見下ろすように考えていた自分自身に、自分自身のうちにこそ罪があるということに気が付かされました。

 その時に、いただいた御言葉が、今日の箇所の最後の節のヨハネ1章18節でした。 自分ために、イエス様は、十字架にかかって死なれたということが分かりました。 その最終日の前の最後の夕べの集会で、イエス様を信じますと手を上げました。 このことを経て、大学3年の5月のペンテコステと呼ばれる特別な日に、洗礼を受け、クリスチャンとなりました。

 

★恵みと真理

 恵み めぐみ この素敵な名前を持つ方もおられます。

 真理 まり この素敵な名前の方もおられます。

 

*恵み

 響きの良い言葉 この原語はギリシャ語で「カリス」です。

  カリス 賜物とも訳されますが、そのもとの意味は恵みです。

 この恵みをどう説明したら、少しでもわかるのでしょうか?

 その言葉は、ヘブライ語でつなげるとしたら、有名な「へセド」

 へセドは何度もお伝えしています。 変わることのない確かな愛です。

 愛と言っても、その愛は決して確かではありません。人間の愛は、状況によって変わってしまいます。 あんなに愛していたのに、今はその愛は消えてしまった。 状況が変わったから、もうあの時の愛は亡くなった。 あの時の愛の約束は、もう過去のものだと それは、人の愛ですね。悲しい現実です。 

 しかし、神の愛は、確かな愛、契約に基づいた愛 契約の約束 それは、あなたたちを顧みる、あなたたちを救う、あなたたちを救う。 その約束をしてくださった。 その約束を決して忘れない。そして、それを果たしてくださる。

 クリスマスの出来事も、この神の恵みよっています。

 救うと約束してくださった神が、その約束を忘れずに守り通してくださった。

 人は神に対して背き続けた。神はそのことを悲しまれた。 

 何度も何度も背き続けた。 でも決して、見捨てられなかった、それどころか、 私たちを救うために手を差し伸べてくださった。

 

*真理

 これも響きの良い言葉ですね。 この原語は、ギリシャ語で「アレセイア」という言葉です。 あれせいやと言っても私たちに何かを命令する意味ではありません。(笑) 

 ヘブライ語でいうと、エメス、エメツという言葉です。

 真実という意味です。

 この世界の悲しみ、苦しみは、真実の反対から来ています、生じています。

 不真実 真実を壊してしまう。 

 この世界の悲しみ、苦しみ  

 ウクライナの人たちが今味わっている苦しみ、悲しみ

 今回の戦争で苦しんでいる多くの人たちの苦しみ、悲しみは、人間の罪により不真実から起きています。 真実を勝手に踏みにじる。 相手を敬い大切にする、相手の国を敬い大切にすることの大切さ、真実さを踏みにじる。

 人の真実は変わってしまう。 状況によって、自分の考えで、どうにでも変わってしまう。変えてしまう。 その不真実によって、私たちは振り回されえる。

神は真実なお方

 契約(約束)に対して、真実なお方

 その契約とは、私たち人間を救うとの契約(約束)に対して、変わることのない真実さ なんという感謝。

 

★律法はモーセを通して、恵みと真理はイエス・キリストを通して

◎17節

1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである

 律法 その代表は、モーセの律法

 十戒 十の大切な戒め

  神に対しての4つの戒め。 他の人に対しての6つの戒め

 その戒め、こうしなさい、こうしてはいけません。 大切な教え、戒め

 それを完全に守れる人はいない。

 神の戒めの前に、すべての人は合格とならない。

  100点満点でなければ、合格ではない、不合格、 罪ありとされる。

 神の前には立つことは誰もできない。 合格でなければ、滅びが待っている。

  それは厳しい現実。 頑張って、頑張って、なお不合格。

 もう、どうでもよいと自暴自棄にならざるを得ない。

しかし、神は、イエス・キリストを通して、合格の道を備えてくださった。

 10点の人は、90点足りない。 40点の人は,60点足りない

 70点の人は、30点足りない。 95点の人は、5点足りない。

 10点であれ、30点であれ、70点であれ、95点であれ、不合格

 その足りない点を主イエスが満たしてくださる。 満たすためにこの世においでくださった。 その命をあの十字架で捧げてくださった。

そのためにおいでくださった主イエス これこそ、クリスマスの意味。 

 

★クリスマスの主は共にいてくださる。

 クリスマスの主は、私たちを顧みてくださるお方。

 恵みと真理に満ちておられる方。 それをもっていつも満たしてくださるお方です。

 恵みと真理の源なるお方です。それをもって、乏しくなる私たちを満たしてくださる。 共にあって、助けてくださる。

 私たちが、どこにいても、そのような状況に置かれたとしても、守り助けてくださる。 私たちの必要を満たしてくださいます。 私のために、あなたのために。

 

 

12月18日() クリスマス礼拝 説教メモ

   「ベツレヘムの光」     マタイによる福音書2章1-12節 

 

★愛は働きかける。

 愛は働きかける。 愛はアクションを起こす。

 愛がなければ何もしない。 愛があれば何かをする。 特に困っている、助けを必要としている人がいれば、なんとかしたいと思う。 思うだけでなく何かをする。

 何とかして、助けたい、励ましたいと思う。

 

★ウクライナの難民の方々

 ロシアの軍事侵攻によって引き起こされた戦争 そのために大きな悲しみが

 自分の国を離れざるを得ない、外国へ脱出 難民として過ごさざるを得ない。

 その難民のウクライナの方々を迎え入れる。 そこには愛の犠牲が必要、

 西南女学院では、2名のウクライナの女子学生を、留学生として迎え入れている。そのためのサポートを行っている。

 そのことで、支える会が立ち上げられている。そのことで、教会員の1姉妹もそのことに関わっていることは大きな感謝です。

 先日の物品バザーでの収益の中から限られた金額ですが、支援をすることができました。感謝です。

 

★クリスマスの出来事

 クリスマスは、神の愛によって引き起こされた出来事

 天の神さまからのプレゼント しかもそのプレゼントは最高のプレゼント

 一番嬉しいプレゼント

 それは、心を込めたプレゼント 子どもたちが小さい時、プレゼント、それは買ってきたものというよりも、手作りのもの、また手作りのカードであった。

 その中に、肩叩き券、肩もみ券があった。どうしたら喜んでくれるかと考えて。 今思い出すと、心がいっぱいになる。

 それは、その嬉しさも当然あるが、その心にどれだけ応えていたかな?

 その時、どれだけその心を受け止めて反応したか思い出す。あまり良い父ではなかったことも思い心がうずく。 結構気分屋で過ごし、子どもたちに接したことを思う。 でも、あの時のプレゼントは、最高のものだったなあと思い返す。その相手の心を思い、嬉しくなる。

  

★神の働きかけ

 神は働きかけられる。 具体的にアクションを起こされる。

 本日の聖書箇所 神が占星術の学者たちに働きかけられた。

 今日の箇所を共に見てゆきましょう。

  

★東方の学者たち

 口語訳では博士たちと訳されています。

 星を研究していた博士たち、学者たち 天体の星の研究 星の動きを研究していた。 天体のロマン 夜空に輝く星 天体の星々 遠いかなたにある星が輝いている。 遠いかなたにある星を見る。 宇宙の広がり 

 宇宙の中の一つの星である地球に住む私たち

 こんな素晴らしい星はない。 その星に命をいただいて生きている。

 彼らは、ユダヤの国から遠いところに住んでいた。

  千キロ以上東方のバビロン 今でいうイラクの国 

  かつて、ユダヤの国の多くの人が、バビロン捕囚として、遠いバビロンに連れて行かれたところ 50年、70年と経ってそこからの帰還も許された。

 救い主イエスの誕生の地 ユダヤの国 場所はベツレヘム

 そこからするととても遠い地 普通に考えると、そのクリスマスの出来事は、知りようもない。 今ならネットですぐに知ることができたかもしれないが。

 およそ2千年前、それは不可能に近かった。

 ところが、そのクリスマスの出来事を学者たち(博士たち)は、そのクリスマスの出来事を知ることができた。

 

★悲しさ、寂しさを覚える時がある

 それは、自分が仲間外れのように思うときではないでしょうか。

 自分は、その輪の中に加えられていない。 招かれていない。

 自分には、その喜びを経験できていない。 なんだか悲しい、なんだか寂しい。 そのような時に、共に過ごしませんか? ご一緒にどうですかと声をかけられたとき 嬉しい。

 

★学者たちは招かれた

 学者たちは、神から招かれた。 そのことは後から知ることになる。

 不思議に輝く星 その輝きの意味は何だろう? 星の研究 特別な意味があるに違いない。

 学者たちは、動き出した。 西の方に行ってみよう。 星を通して神が何かを語りかけているに違いない。 その意味は何なのかを知るために。

 千キロ以上西のユダヤの国へ旅 数か月はかかったことでしょう。

 徒歩で、途中ラクダにも乗ったかもしれない。 危険の伴う旅、

 それでも、彼らは旅立った。

 旅立つことは時に必要。 その意味を知ろう、その意味をつかむまではあきらめない。

 

★私たちはどうでしょう?

 今いるところにとどまり続けることもできる。

 でも、そこから旅立つ、立ち上がることも時に必要。 何かをつかむために。

 神に祈りつつ。 

  神よ、この私の歩み出しを助けてください。 助け導いてください。

  生きる意味を教えてください。 生きる希望を与えてください。

  その所で、生きる意味と希望をつかませてください。と。

 学者たちは動き出した。

 

★ヘロデ王

 その頃、ヘロデ王と呼ばれる人物がいた。

 彼は、ローマ皇帝の命令で、ユダヤの国を支配することを任されていた。

 自分はユダヤの国の王だと考えていた。

 彼の関心は、自分の身分、地位。自分の支配。 自分の思い通りに支配すること。 どこかの国の誰かにとてもよく似ている。

 彼は孤独であった。 彼は自分の身分、地位が誰かに狙われているのではないか、 この身分、地位は誰にも渡さない。

 ヘロデが、今与えられている身分も地位もすべて、授かっている者に過ぎないと考えていたなら、ふさわしい人が出てきたなら、その方に譲れば良いと考えることができたなら、素晴らしい人生を送ることができたことでしょう。

 しかし、実際は違った。 誰にも、この身分、地位は渡さない。 自分だけのものだと考え戦々恐々としていた。 それは、平安のないみじめな歩みだった。

 

★学者たちは尋ねた。

  学者たちは、へりくだって尋ねた。

◎2節

 2:2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。

 自分たちにはわかりません、どうぞ、教えてください。

 よくわからないので教えてください。学者たちは謙虚だった。 教えていただきたいのです。

 

★答えが返ってきた。

 その答えは聖書から教えられた。

 聖書の言葉には命がある。 なぜならそれは神の語り掛けの言葉だから。

 聖書の御言葉からの語り掛けを聴く者は幸いです。 そこから生きる力と希望をいただくことができるからです。

 ヘロデ王に命じられた祭司長、律法学者たち。 宗教家たち。

◎4-6節 

2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

2:6 ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

 預言者ミカの預言

○ミカ書5:1

5:1 エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。

○新改訳5:2

5:2 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。

 ベツレヘムいう小さな町 そこで救い主は生まれる。

 一人の君が出る。イスラエルの牧者になる。 イスラエルを治める者となる。

 

★ヘロデの心

 ヘロデの心は、暗かった。

 なぜ、誰にも自分の身分、地位は渡さない。 これは自分だけのものだ。

 自分だけが王なのだ。 自分こそが王なのだ。

 王として立つ者があればその命を奪い取ろう。 恐ろしい心を持っていた。

 悲しい心 ヘロデの心は暗かった。

 嘘をついた。

◎7-8節

2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。

2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。 

 その嘘は、見破られた。 誰によって? 神によって

 人のつく嘘は見破られる。

 ヘロデは、幼子イエスを見つけたなら、命を奪ってしまおうと考えた。

 でも、その嘘は見破られた。

◎12節

2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 後で、救い主に出会った学者たちには、ヘロデには合わずに帰るようにと告げられた.

ヘロデは、一番良いものを受け取ることができなかった。 それは残念なこと。 へりくだることのできなかったヘロデ

 

★神の導き

 神は、学者たちを導かれた。

◎9-10節

2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。

2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

 神は輝く星を通して、学者たちを導かれた。

 当方で見た星が先立って進んだ、 その星から目を離さずに進んだ、従って行った。 その星は、幼子イエスのいる場所の上にとどまった。

 その所で、学者たちは、幼子イエスにお会いすることができた。 

 

★心いっぱいの捧げもの

  黄金、 乳香、 没薬

  王冠に輝く黄金 王であられる方に黄金を

  祈りを意味する乳香

   とりなしの祈り手であり、神と人の間に立ってのとりなし。

   神と人の懸け橋となってくださった主イエスへの捧げもの

  死者の葬りのために用いる没薬

   最後に、私たちのために十字架にかかり、その命を犠牲として捧げてくださる主イエスに対しての捧げ物

  高価な捧げもの

    

★ベツレヘムの光

  クリスマスツリーの一番上の星 それは、ベツレヘムの星と呼ばれる。

  学者たちを導いた星

  神は、学者たちに働きかけてくださった。そして導き続けられた。

  私たちにとってはいかがでしょう?

  様々なことの中で、神の導きがある。

  いろいろな出来事の中に神の導き

  あの苦しかった出来事、悲しみの出来事、試練、 その時にはその意味が分からなかった。 人との出会い、特に主なる神を信じている人との出会い。

  あの時の聖書の御言葉。あの時のメッセージ

  神は、語りかけられている。

   それを素直に受けとめることの大切さ。

  あれこれ、いじくりまわさないようにしたい。

  この御言葉をそのまま受け止めたい。 

 神は愛をもって導かれる。 今も導かれる。

  東宝の学者たちに導きの星が送られた。

  遠い昔の話です。 ではなく、今も私たちのことを心にとめ、導かれる神。

  ベツレヘムの光を今も送り続けていてくださっている。 

 導きの光 それは今も、生ける聖霊を通して与えられている。

   

 

12月25日() 年末感謝礼拝 説教メモ

   「主に信頼し祈る」             詩編62編1-13節 

 

★クリスマスの日

 ・クリスマスの恵み それは、神が私たちのもとにおいでくださったこと

  神であられた方が、私たちと同じ人間としてお生まれくださった。

  私たちの抱えている問題、その根本の罪から私たちを救うためにおいでくださった。

 ・人は大きく、大きくなろうとする。これもあれも手に入れようとする。自分のことばかりを追い求める、思い通りに行かないことも多い。 思い通りに行ったと思っても、満足できない。 いろいろなことを抱え心に平安、喜びがない。喜び、希望が乏しい。

 ・そのような私たちに、喜びを与えるために、希望を与えるために、主は私たちのもとに 

おいでくださった。 

 

★本日は、一年を振り返りつつの年末感謝礼拝

 2022年 それぞれにとってどのような年だったでしょうか?

 どのような幸いがあったでしょうか? どのような大変なことがあったでしょうか?

 大きな喜びをいただいた。 大きな悲しみを経験した。

 大変なことがあったけども、守られた。助けられた。

 個人において、社会において(日本、世界において)、教会において

 

★個人において

 家族が増えたという方もいることでしょう。

 愛する家族を天に送ったという方もおられるでしょう。

 大きな病気を経験した。 入院した。 治療を受けた。

 その病気が良くなったという方もいることでしょう。

 学校、仕事、人間関係で、うまくいったこと、うまくいかなかったこと、こんな大変さを経験した。 今も解決していないことがあるという方もいるかもしれません。

 行き詰った、でも一つ解決の兆しを感じている。 このことにチャレンジして、手ごたえをつかんだ。

  

★社会において

・国際社会においては、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻

 大きな悲しみを経験しました。ウクライナの人たち、そして世界中の人たち。

  今もその戦争は続いています。

  石油、ガソリン、ガスの高騰、 食料品の高騰、家計への圧迫

  これから世界はどうなっていくのだろうという不安

 

コロナ感染3年目

 今なお大変。 日本では第7波を経験しました。 そして今第8波がやってきていま   す。コロナ疲れ マスク生活3年間 苦しい。

旧統一教会問題

  現世界平和統一家庭連合の問題

  日本においては、政治の世界にまで大きく足を踏み入れていたことが明らかになりました。 多くの人がこの教え、この異端宗教によって、個人、家庭に大きな苦しみを与えていたことが明らかになりました。

 

★私たちの教会においては

・コロナ3年目の中にあっても、礼拝、祈祷会を励まし合って歩んできました。

・ペンテコステの日には、3名の方が教会員に

   後藤真理姉、 山北英理姉の転入、 来島絵美子姉の転入会

   大きな感謝でした。

・納骨堂建設に向けて、検討委員会で協議を進めることができました。

・清水会堂では、3名の方を主の御許に

  福江幸子姉、 平河友代姉、 福江 聰兄の3名です。 

 

★本日の聖書箇所

詩編62編 9節は、今年の教会で掲げた御言葉です。

◎9節

62:9 民よ、どのような時にも神に信頼し 御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。

 どれだけ励まされたことでしょう。 神は私たちの避けどころ

 大嵐に襲われても帰る母港がある。逃げ込む港がある。 これほど幸いなことはありません。

 嵐に遭わないようにと願います。しかし、嵐は時に起こります。襲い掛かってきます。

 嵐に立ち向かうことはあっても、到底勝ちおおせない。

 嵐は、私たちを飲み込もうとします。 嵐の海に浮かぶ小舟のように感じる。ああ、ばらばらに壊れてしまう。沈んでしまうかもしれない。

 逃げ込むことができる港、避けどころがある。 これは大きな感謝です。

標語 「主に信頼して祈る」 

 困った時の神頼み 行き詰った時に普段は頼らない神仏により頼むということでしょうか? 普段は頼らないではなく、普段においてもより頼む。

 天の神さまに信頼して、より頼んで歩む。

  

★詩編62編の中での警告

 警告の言葉があることは感謝なことです。

 危ない、そこには大きな落とし穴がある。 そちらには切り立った崖がある。

 そこには罠が仕掛けられている、 その先には地雷がある。

 その警告の言葉を聞いて、難を避けることができる。

 それを聴かずに、進んで行ったなら、大変なことになる、 大きな落とし穴にはまってしまう。崖から落ちてします。罠にかかり身動きできなくなる。 

 それは、4511節の御言葉です。

◎4-5節

62:4 お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。亡きものにしようとして一団となり人を倒れる壁、崩れる石垣とし

62:5 人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして 口先で祝福し、腹の底で呪う。

◎11節

62:11 暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。

 他の人に対して襲い掛かる、亡き者にしようとする。 押し倒そう、欺こう。

 暴力で 搾取しよう。 これは、まさにこの年問題になった出来事そのものです。

 日本で旧統一教会の問題

  キリスト教ではない、キリスト教まがい、異端宗教

  神の名を持ち出し、人を精神的にマインドコントロールにより、支配し、自分たちの思いのままに個人と家庭を蹂躙する。 その人の持っている財産を巻き上げる。 その考え方を支配し、統一強化という組織のために徹底的に利用する。 恐ろしい実態が明らかになりました。

また、今年起きたロシアによるウクライナの国への軍事侵攻

 一人の指導者、その取り巻きの者たちによる間違った考え どのようなことを並べたてたとしても、決して許されないこと。

 主権国家に対して、勝手に軍事侵攻をすること、戦争を始めること、領土を奪うこと、そこに住む人たちの大切な家、建物を破壊すること、その自由を奪うこと、命、人権を踏みにじること その背後に、東方教会の間違った総主教がいること 日本で起きた統一教会のような存在、 キリル総主教という存在  ロシアの大統領のお抱え宗教に成り下がっている。 全く勝手な姿勢、声明

 聖書の教えからは、全く外れている。

私たち自身も、人に襲いかかってはなりません。

自分の考えを第一にする、至上のものにして、あの国をつぶそう、あの人をつぶそう。

自分の支配を絶対のものにしようとしてはなりません。

神の前にへりくだる必要があります。 自分の間違いを認める勇気が必要です。

ここまで来たのだから、引き返せない、メンツが立たないと考えてはなりません。

そこで、ストップすること、引き返すことが必要です。

 

★沈黙すること

 沈黙することの大切さ。静まることの大切さ。

◎2-3節

62:2 わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。

62:3 神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。

◎6-8節

62:6 わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいてい 

る。

62:7 神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。

62:8 わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。 

 沈黙すること 何も言わないことの大切さ あれこれ言っています。私はこう思います、私はこう考えます。 私は、こうです、ああですと意見表明をしすぎる。 

 主に心を向けない、 主に心を向けるけども、すぐ周りを見る、すぐ自分を見る。 私にとって、自分にとって主はそのような方であるか? 思い巡らす。

 私は小石のような存在。 主は私を押し流そうとする力から守ってくださる大岩 がっしりとして決して動かない大岩 私を守り助けてくださるお方。

 主イエスによって、私を贖い取ってくださったお方

 私が決して払うことのできない罪の代価を払ってくださったお方

 自分では決して払うことのできない罪の代価 その代価を支払ってくださった。

 私が逃げ込んで良い場所 逃げ込んだ私を守り通してくださるお方

 

★主に信頼し祈る

 今年の標語であった。

62:9 民よ、どのような時にも神に信頼し 御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。

 神のもとに行く。 どんな時にも、神のもとに行く。どんな時のも神さまのもとに行く。

 赤ちゃんは、何か困ったり、心配がある母親ないし父親のもとに行きます。

 まだ何も話せなくてそこに行きます。 話せたら、何かを言うことでしょう。

 怖いよ、 びっくりいたよ、 心配だよ、 守って! 慰めて!

 どうしたら良いの?と  私たちも幼子ように、赤ちゃんのように 主のもとに行きましょう。 主に依り頼みましょう。主に信頼して寄りかかるのです。 全体重をかけて良いのです。

  主は、全体重をよりかける者を喜んで下さる方です。

主のもとに逃げ込みましょう。そして、主に自分の思いを打ちあけましょう。

主のみ前に心を注ぎ出しお祈りしましょう。

主により頼み祈る なお続けてこの標語を心にとめて歩んでいきましょう。