2023年 説教メモ

1月1日() 新年礼拝 説教メモ

   「主にあってチャレンジ」 マタイによる福音書6章25-34節 

 

★この年の御言葉と標語

 御言葉

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」 マタイによる福音書6章33節

 標語

 「主にあってチャレンジする」

  

★子ども時代

 大人になって、子ども時代を振り返ると

  学校に毎日通い、勉強し、友達と遊んだ。 とても懐かしい気がする。

  楽しい思い出が甦る。 実際には、いろいろな悩みもあったのだが、今となっては楽しい思い出が勝る。

 そこには、自分を見守ってくれる親がいたからということが大きかったように思う。 親の保護のもとに大きくなって行った。

 食事のことも、生活のもろもろのことも、親が一番良いように考えてくれる。

 親に任せておけばよい。自分では、食事のこと、生活のもろもろのことは考えない 特に、幼児期、小学生の低学年のとき 

 小学生の高学年、中学、高校生にあり、思春期に入ると、いろいろなことで悩みが始まる。 それでも、親の保護の下で過ごすことができた。

  

★大人時代

  親から離れていく、 自立

  自分で、自分の生活のことをあれこれ考えて行かなければならない。

  たくましさを身に着けていく。

と同時に、どう歩むか、どの道に進むか 自分で考え決めて行かなければならない。 進む道の選択、取り組む課題にどう対処するか

 うまくやれるようになっていくという面と、うまくやっていけないという面がある。

 子ども時代にも、その予行練習のようなことはたくさんあった。

  子ども時代は、親の保護のもとにあった。

  大人時代は、親の保護はほぼなくなり、自分で解決しなければならない。

  うまくいかない問題、課題、 心配なことも増える。

   

★思い悩むこと

 思い悩み、思い煩い  様々にある。

 コロナが始まり悩みは増えた。

  感染したらどうしよう。  感染したら、はたして良くなるだろうか

  商売をしている人は、お客さんが以前のように来なくなった。 どうしようと悩む

 自分自身のことで思い悩む

  人と比べて、あれこれ 自分の容姿のこと、 私自身は、背が低いことにだいぶ悩んだ。 どうして背が低いのだろう。 

  ・学校のこと    ・家族のこと

  ・人間関係のこと     ・仕事のこと

  ・将来のこと

   今は良いけども、将来は大丈夫だろうか?

   年を取ってくると、若い時に考えなかったこと 体力の衰え、健康のこと

   ちゃんとやっていくことができるだろうかと

  ・健康のこと

   いつか重い病にならないだろうか

   今かけている持病が悪化しないだろうか

  ・店じまいのこと

  ・終活のこと 自分の人生をどうたたむか

  ・老後は大丈夫だろうか

  ・この日本、この世界、

    いつか大きな地震は来ないだろうか 原発のこと、戦争のこと

   心配の種は尽きない。 多くの心配事がある。

   思い悩み、思わずらいの中に身を置く。

 人には言えない悩みがある。人には、なかなか相談できない悩みを抱えている。 それが私たち。

 

★今朝の聖書箇所

 思い悩むな 思い煩うなと語りかけている。

 私たちへの神からの語り掛け  

◎25-32,34節 

6:25 だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。

6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。

6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。

6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。

6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。

6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

  自分の命のことで何を食べようか、何を飲もうかと思い悩む

 自分の体のことで何を着ようかと思い悩む

心配でたまらない いつもそのことが気になる。 気になって夜もぐっすり眠れない。 寝不足、夢の中でもそのことに関連して、夢の中でも悩む

 ぐっすり眠れない 寝不足

 自分の寿命のことで思い悩む

 何歳まで生きることができるだろうか 早く命の終わりが来たらどうしよう。

 80歳までは生きていたい、いや85歳まで、いや90歳まで いや95歳まで  ここに集っておられる方々は、特に80歳を超えておられる方は、さらに長く生きて行かれると思います。 90歳、いや100歳までも

 ただし、思い悩んだから、寿命を延ばすことができるかというと、そんなことはできない。 むしろ、夜ぐっすり眠れなくなると寿命は短くなるかもしれない。

 思い悩んで良いことはほとんどない。 それなのに思い悩んでしまう。

  空の鳥を見なさいと ちゃんと食べ物を手に入れているではないかと

  天の神さまが野山で養ってくださっている。

 野の花を見なさいと

  きれいな花々 春になると田んぼや畑、野山に生えてくる野の花

  小さな花々 春の訪れを知らせてくれる。

  今しばらく、寒い冬の期間を過ごさねばならない。あと2,3か月すると 

   春の訪れとともに野の草、野の花が咲き乱れる。

  春になってユダヤの野原で咲く花 

   有名なものはアネモネの花 赤やピンク 一斉に咲き乱れる。

   自然の野山に咲くアネモネはとてもきれい。

 栄華を極めたソロモンの豪華な衣装よりもきれい。

 野山に雨を降らせ、大地を潤してくださる天の神さま

 暖かい太陽の光を与えてくださる天の神さま

  天の鳥、野の花を育ててくださる天の神さま

  その神さまは、天の鳥、野の花よりもはるかに大切な私たち人間を育ててくださらないことがあろうかと主イエスは語られた。

 富んでいて悩みあり 自分の持ち物は多い、持っている財産、お金は多い。

 誰かが狙っているのではないだろうか

 これが少なくなったら困るなあと心配しなければならない

 貧しくて悩みあり これ以上財産、お金が減ったら生きていけない、

 どうしよう、どうしようと悩む。

思い悩むな、思い煩うなと

 思い悩み、思い煩い、夜眠れなくなれば、それこそ、健康に良くない、病気になってしまう。 今を生きているのに、今を喜んで生きていいけなくなる。

 今の時、今の幸いが与えられているのに、それを十分味わえない。

 

★思い悩みを置きましょう。

  思い悩み、思い煩いが一つもない人はいない。

  その数の差 ある人は、10も、20も抱えている人もいるかもしれない。

  その大黄さ、重さの差 ある人はとても大きなもの 1トンも2トンもあるような悩み それを背負って歩み続けるなら、へばってしまう。 それを背負い続けるなら、いつか倒れてしまう。 それを置きなさい、それを下ろしなさい。

 そんなことはできません。これは私のものですからと背負い続ける。大切な荷物ですから目を離すこともできせん。

 それを置きなさい。 私が番をしてあげますよ。それを見ていてあげますよ。

  信頼のおける方がそう言ってくれたなら、それを下ろすことができますね。

  じゃあ、見ていてください。しばらくお任せしますと肩から降ろして、散歩にでも行くことができる。

 私たちの思い悩み、思わずらいを知っていてくださるお方がおられます。

 

★天の父

 天の神さまは、あなた方の天の父ですよ。

 誰かほかの人の天の父ではなく、あなた方の天の父ですよと。

 あなた方の天の父は、あなた方のことを愛していてくださっていますよ。

 自分の愛する者、それは自分たちの家に誕生した赤ちゃんかもしれない。

 自分の家の子どもかもしれない。 自分が飼っている犬、猫、ハムスター、亀、金魚かもしれない。 自分にとって大事なものに対して、心を用いる。

 今おなかがすいている。 今少し元気がない、 今これを欲しがっている

 よくわかる、それはいつも見ているから、気をかけているから  

◎32節 

6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

 天の神さまは、私たちにそれらのものが必要であるとご存じのお方です、

そのようなお方がおられることを忘れないようにしなさいと 

 

★まず、神の国と神の義を求めなさい。

  まず神の国と神の義を求めるように

◎33節

6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

  神の国とは、神のご支配を意味しています。

  神がこの世界のすべてを創造してくださった。今もこの全宇宙を、そして私たちの住むこの地球もご支配してくださっている。

 それなのに、この地球、世界を見ると問題だらけ 大自然が破壊され、大気汚染、海洋汚染が広がっている、 戦争が絶えない。

 私たち人間の傲慢自己中心、自分だけ良ければ、自分たちだければ良ければ、自分たちの思いのままに支配したいと身勝手な思い、そのような世界に、神は、クリスマスの出来事を起こし、おいでくださった。

 私たちを滅びに向かわせる罪の支配を打ち破るために、

 主イエスを通して、成し遂げられた救いの御業

 神の国は、遠いところに置かれているのではなく、私たちの目の前に置かれた。その中に生きることができるようにしてくださった。

 神の恵みのご支配を感謝して受け取りなさいと

 神の義とは、神の正しさを意味しています。人間の義はいつも崩れ去ります。他の人を他の国の人を傷つけ、苦しめます。 人間の義は、その人の都合で勝手に変えられます。 神の義は決して変わりません。

 クリスマスの主イエスを通して成し遂げられた救いのゆえに、神の義は、冷たい義ではなく、温かい義、すなわち、救いを意味していることが明らかになりました。

 神の愛と恵みが私たちに注がれている。 そのことを何よりも受けとめなさい。 その愛と恵みに感謝して、応答しつつ歩みなさいと

それを中心軸に据える

 軸足を主に置く 軸足を主の下に置く

軸足をそれ以外のところに置いていくならば、どんどんずれて行ってしまう。

 軸足を主において進んで行きましょう。

 毎週のこの礼拝を大切に励まし合って歩んでいきましょう。

 毎週の水曜祈祷会にも励みましょう。

 毎日のデボーション、主のみ前に静まり祈ること、日々の歩みの中で、聖書の御言葉を読み、主に祈ることを大事にしていきましょう。

 

★主にあってチャレンジする

 思い悩み、思い煩いを主に委ねて、身を軽くさせていただきましょう。

 重い荷物を背負ったままでは、ジャンプできません。

 身を軽くさせていただき、ジャンプしましょう。

 主にあってチャレンジする。

 1)教会において

 教会においては、何にチャレンジしていきましょう、

  長年祈りが積まれてきた納骨堂建設に取り組めるならば幸いです。

  それ以外にも、このことにとチャレンジさせていただきましょう。

   

 2)個人において

  それぞれ、新たにチャレンジ

  ずっと考えていて取り組めなかったこと

   旅行、 旧友に会う 山登り、 ジョギング

   聖書の通読 祈り合うこと

   ひそかにチャレンジ、 自分のうちで静かに始める

   公言してスタートする

 今まで飛びこめなかったことに、特に神の恵みの世界、神の招きに応答する。  

 何か一つのことをチャレンジ! さあ、歩み出しましょう。

 

 

1月8日() 聖日礼拝 説教メモ

  「土の器に納められた宝」 コリントの信徒への手紙二4章1-7節

 

★本年の御言葉と標語

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの

はみな加えて与えられる。」  マタイによる福音書633節  

「主にあってチャレンジする」

 

★大切なもの

  大切なものはいろいろある。

  大きなお金を払って買い取った住まい、建てた住まい

  高価だった自家用車、・・  一生懸命働いたお金、貯金

  でも、一番大切なものは、一つしかないもの それは高価でなくても良い、心の込められたプレゼント 子どもや孫からの手紙、手作りのもの 大事な思い出のものかもしれない。

 神は、私たちを大切なものとみてくださっている。かけがえのないもの

 それは、親が子どもを思う以上のもの

 

★もろいもの

 出たばかりの芽 大切に扱う必要がある  細い枝

 私たちの心  強く見えて、何かのはずみで弱くなる

 ごはん茶碗、陶器 毎日使っているごはん茶碗 愛用のもの

  それを間違って床に落としてしまうと割れてしまう。

  花瓶 ガラスで造られている者もあるし、陶器のものもある。

   それは、落としてしまえば割れてしまう。

 土の器  土で造られた器

  元の材料は土 それを練り、形を整えて、火で焼いて造る。 陶器

  

★土の器

 私たちは土の器に過ぎない。

 固く頑丈そうに見えても、時に真っ二つに割れてしまう。

 陶器は、きれいな模様が描かれ、時に光輝く。 でもそれを乱暴に扱い、ぶっつけたり、落とせば欠けてしまう。

 そのもとの材料は、金でも銀でもない、宝石でもない。ただの土。

 母親の胎内に宿り、肉体が形造られていく。 そこに心が宿り、考える者となる。

 健康だと思っても、突然病気になり、体が弱る。

 自分は何にでも耐えられると思っていたのに、急に心が弱くなることがある。

  自分を支えきれないと思ってしまう。不安でたまらなくなる。

  希望は尽きないと思っていた自分の内に希望が小さくなっていることに気づくことがある。

 

★憐れみを受けた者

 憐みを受けていることの幸い

◎1-2節

4:1 こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。

4:2 かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。

◎口語訳

4:1 このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、

4:2 恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。 

 

★神の憐れみ

 憐れみ、 ただ、ああかわいそうだではない。

  これは大切なもの これを大事なもの これを用いて行こう。

  使徒パウロはどのような人だったでしょうか?

  彼はかつて、クリスチャンを迫害する者でした。 キリストを否定する者でした。自分こそは神の御心にかない、神の前に立派なものだと考えていました。

 でも、実際には、神の御心を傷つける者でした。 神の御心とは遠く、神の裁きにかけられるような者でした。

 ところが、そのパウロ(かつての名前サウロ)を、神は憐れみの内に彼を選び、赦してくださいました。 これはもうダメだとは考えられませんでした。

このパウロを生かそう。 彼を私の証し人として用いようと定められたのです。

 サウロは、復活の主イエスとの出会いを通して生まれ変わりました。

  主イエスを信じる者となり、主を証しする者、宣べ伝える者となりました。

 

★憐れみを受けた者として

 憐みを受けて務めをゆだねられた使徒パウロ。 この働きを託された。

◎5節

4:5 わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。

 使徒パウロ自身は、福音宣教の務めをゆだねられた。 そのことを感謝して受け取った。

 その働きを通して、主イエスを知り、主イエスの救いに与る者が起こされて行った。

 大きな喜びをいただいた。 それと共に、さまざまな妨害、迫害もあり困難を経験した。 困難を経験すると、なかなか前に進めない、押し戻される。 行き詰まりを経験する。 しかし、落胆しなかった。 主が共におられる、主が守り支えてくださる。そのことを経験したから。

 私たちも、時に落胆させられるようなことを経験する しかし、主にあって落胆しないで進むことができる。

 神の御前にある自分自身 そのことを心にとめて歩みたい。

  神の御前に立ち生かされていることを忘れなかった。 

   自分はそこにおいて歩んでいることを心にとめた。

   ・卑劣な隠れた行いを捨て  卑劣な隠れた行いを捨て

     ・悪賢く歩まず、 悪巧みによって歩かず

・神の言葉を曲げず、

・真理を明らかにする 

  様々な誘惑がやって来る これくらいは良いだろう、これくらいは誰でもしている 

  その中で、主の憐みをいただいて、み救いに加えられたものであることを心にとめて歩みたい。 主は守り助けてくださいます。

 

★光

 光は何よりも大切なもの

 暗闇を照らす光 停電になると夜、家の中も外も真っ暗になる 光のありがたさを覚えさせられる。

 昼間は太陽の光 天に置かれた太陽からの光 景色が見える、さまざまなものが見える。

 曇り天気や雨の日も必要 でも、やはり晴れの日は気持ちが良い。

 光は、外側だけでなく、内側にも必要、すなわち、私たちの心の中に必要。

 私たちの心は、時に暗くなる。不安になる。どうしようもなく落ち込むこともある。 様々な心配事、難しい問題。 また、問題はあまりないけれど、なぜか落ち込む 人から見ると恵まれて恵まれて何一つ不自由はないと思われる、 それなのに、不安がある。 この幸せがいつかどこかに持って行かれるのではないか、失われるのではないか その心配

 心の中に暗闇が広がる。暗雲が立ち込める。 そこに必要なものは光です。希望です。 その暗雲、暗闇を追い出すところの光が必要ですね。

 

★光をもたらすもの

 それは、かかっている暗雲を取り除くこと 今ある問題、課題を解決すること

 そのことに取り組む 奮闘努力する これも必要 それでも、次々と暗雲はやって来る。流れ込んでくる。 

 光をもたらすもの その根本は太陽ですね。 昼間、太陽が輝いて入れば光はやって来る。 この地上の空間においては太陽です。

 私たちの心に届く光をもたらすもの 使徒パウロは、その根源は福音であると告げている。 福音 良き知らせ Good News 

 神が私たちのことを心にとめていてくださる。 私たちのために神はおいでくださった。 人となっておいでくださった。 神の独り子イエスをお遣わしくださった。 私たちと神を隔てる罪を打ち破ってくださった。

 イエス・キリストが、私たちと神をつなぐ架け橋となってくださった。

 イエスにある命、永遠の命を私たちに差し出してくださった。

 そのイエスを、自分のための救い主をして受け取る者は救いに与ることができる。  神の子どもとされ、永遠の命を受け取り歩むことができる。

 

★福音の光

 福音の光はなかなか届かない。

 覆いが掛かっている その光を邪魔するものがある。 その光が届かないようにする力が働いている。  

 福音の光があるのに、届かない。 覆いが掛かっている。

 この世の神が目をくらます。

  この世の神とは、この世を支配しようとする偽り者

  これが本物ですよ、これさえあればあなたは幸せになりますよ、これが最高ですよ

  私たちの心を奪おうとするもの  金銭、 物、 名誉、 快楽・・・

  それらがなかったなら、楽しくない。 それらも必要。しかし、それらこそ最高のもの それを一番だと追い求めてしまう。

 それらが私たちを動かす。 それがなければ生きていけない、これこそ、大事なものと思わせる。 それらが心の中心を占めようとする。

 金銭、物、名誉、快楽から来る光にとりこになる。その満足こそ、最高だと思い追い求める。

 イエス・キリストを通して与えられる永遠の命を遠ざける者になる、

 福音の光を覆い隠そうとする力がある。 それは巧妙で、力がある。

 私たちを支配しようとする。 

◎3‐4節

4:3 わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。

4:4 この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿である  

 キリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。

そのような中に置かれている私たちですが、主はその覆いを取り除いてくださる。

 主の愛によって。

 私たちが主の方を向くならば、その覆いは取り除かれる。

 主よ、その福音の光を感謝します。 主よ、その光をこの私は受け取らせていただきます。 主よ、信じますと、信仰をもって主に向くとき、覆いは取り除かれる。

 

★光を生み出すお方

 天の神さまは、光あれを命じ、光をもたらすことのできる方です。

 光あれと命じて、私たちは光をもたらすことはできない。

  マジックではできるかもしれないが、 

○創世記1:1-5

1:1 初めに、神は天地を創造された。

1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、

1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

天地創造の初めに、この世界は闇で覆われていた。

神は、「光あれ」と命じられた。すると光があった。 この世界に光がやって来た。

◎6節

4:6 「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

 そのお方は、光が輝き出よと命じられ、私たちの心のうちに輝いて、光を与えてくださった。

 その光とは、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光

 イエス・キリストの御顔に輝く光 神の栄光を悟ることを得させる光

 闇が覆う、闇に覆われる中で、何も見えなくなる、先が見えなくなる。

 それは悲しくつらいこと。 心が暗くなる。希望を失いそうになる。

 どうなるのだろか、どうしたら良いのだろうか

 年末、ある一人の老姉妹が困難を経験した。 具体的なことは控えますが、そのことで2日ほど眠れなくなった。体調も優れなくなった。 その時にしたこと。 それは祈りであった。 主よ、お守りください、助けてください、この困難を乗り越えさせてください。 この大変さを解決してくださいと。 主の平安がその方を包んだ。 そのことが解決へと導かれた。 守られ助けられたと電話で話してくださった。

 時に思わない出来事に遭遇する、困難に出会うことがある。 主に呼び求めましょう。

 主は必ず助けてくださいます。 闇を打ち破る光を与えてくださいます。

 「主にあってチャレンジする」 この年の標語

  主と共にチャレンジする。 主に祈りつつチャレンジする。

  新しいことにも取り組んでいく。

 

★土の器に納められた宝

 私たちは土の器 強く見えていても、決して強くない。 

 何かにぶっつかれば欠けてしまうもの、ぱかんと割れてしまうもろいもの

 しかし、感謝なことは、主なる神が私たちのことを心にとめていてくださっているということ。

◎7節

4:7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

 大切なものとして見ていてくださっている。

 土の中に納められた宝  私たちのうちに納められた宝とは、主イエス・キリストです。

 イエス・キリストの霊である聖霊なる神です。

主が共にいてくださるという約束であり、主は私たちを決して見捨てないという約束です。

 その主は、私たちの内に住んでくださっておられます。

 主が共にいてくださる。 主と共に歩むことができる。 

主が必要を満たしてくださる。 主が必要な力を与えてくださる。 

 私たちは歩み続けることができる。

 希望を失うことなく、主にあって希望を満たしていただきつつ、歩むことができる。 いつか、この地上の人生の終わりがやって来たとしても、主が共に天の御国に導き上ってくださる。

 この地上の見える宝はすべて失われたとしても、主が共にいてくださる。

 共にいてくださる主、私たちを守り導いてくださるお方 この方こそ、私たちの宝です。 ハレルヤ!

 

 

2月5日() 聖日礼拝 説教メモ

「見えないものに目を注ぐ」コリントの信徒への手紙二4章16-18節

 

★目と心

 私たちの目と心は動く

 自分の関心を向けるものを見る 

  新聞記事、ネット記事、ニュース、週刊誌の記事、テレビ 

   事件に関心、 映画、 山登り、 釣り、・・

  そこに自然に目が行き、心も向く

  いろいろな情報を手に入れる、 そこに関心が生き、そこで心がそこにいよいよ向かう。 

 自分のことが気になる。 人と比べての自分

  人が自分をどう見ているか、評価しているか

 私たちは、自由に見えて、様々なことに支配されている。縛られている。

  時にそれらが、自分の心を占める。 それに支配され、流されてしまう。

  

★落胆する

  心が上向きのこともあるが、下向きになってしまうこともある。

  落胆してしまう。 心が浮き上がって来ない。沈んだまま

  心がアップダウン 心が重い 錘(おもり)で沈む

  私たちの心は、大きく振り回されることがある。

 

★外なる人は衰え

○16節 

4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

見た目、外観  腰が曲がる  白髪が混ざる、抜け毛が多くなる

 年を取る 昔のようにではない  すぐ疲れる、 物忘れが出てきた

 人生の終わりが近い

  終活を考えざるを得ない、 どう人生を終えるか 

 難しい病に取りつかれる  難しい病になる

  それによって、日常生活に支障

  入退院を繰り返す。 入院生活が長くなる。 療養の身となる。

 苦労の末に、身体が弱る きつい労働、環境で、身体が弱る

 勢いを失う。 かつては勢いがあったが、今は勢いを失う。 かつては元気一臂だったが、今は元気を失う。

 

★艱難を経験する

  大変さを経験する  自分のこと、家族のこと

  事故に遭う、 病気を経験する。

  仕事を失う。 会社からリストラ、会社が倒産、・・

 使徒パウロ自身の経験

  福音を伝える宣教者としての歩みの中で、迫害を受けて苦しめられた。

○11:23-29

 11:23 キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。

11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。

11:25 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。

11:26 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、

11:27 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

11:28 このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。

11:29 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。

  どれだけ大変だったことか

 苦しみの中で、死を覚悟することもあったことでしょう。

 なぜ、このような苦しみの中を通らねばならないのか

  絶望感に支配されそうにもなったことでしょう。

  

★私たちはどうか? 

 私たちも、程度の差はあれ、苦しみを経験する。 重荷を抱える時がある。

 心が弱る時がある。

 このように衰えてしまった。 このような苦しみの中に身を置く

 どうしたら良いのか、このまま沈み込んだまま? 悶々とすることがあるかもしれない。

 

★日々新たに

 沈んだままではなく、浮き上がる。

 希望を失ったままではなく、新たに希望を受けて進む

○16節

4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

  疲れ切った体も、休息で回復する

 若い時のようにいかなくても、一晩ぐっすり眠ることで、そのたまった疲れが取り除かれる。 

 心の疲れは、一晩眠ったからということで、さっとは消えない。

 そのような私たちですが、日々新たにされ歩む恵みがある。

 それは、主イエスの恵みで、生かされること。

 「内なる人」とは?

  私たちの心を指すのでしょうか? 自分の心なのに、さまざまなことで窮屈になり、圧迫感でさいなまれる、いろいろなことで心が支配される。

 その心は疲れ切ることもある。

  その心をリフレッシュ

   自分で、時に、散歩、ジョギング、山登り、ショッピング、・・

  その心を主によってしっかり握っていただく。

  自分の心は自分でコントロール? それが難しい。

  自分の心を主と共に、主にお委ねしつつ、主の助けをいただきつつ。

 「内なる人」 それは主イエスを信じて歩む者を指す。

   主イエスを信じて歩み出した者のうちに、聖霊なる神ご自身が宿ってくださる。 主のものとして生きる。 主イエスが共にいてくださる。

  その恵みの中にある自分自身

  主は守り支えてくださる。決して見捨てない。

  共にあって導いてくださる。 道を開いてくださる。良い道へと導いてくださる。 内なる人は日々新たなにされる

  新たな力が与えられる、新たな希望が与えられる。

  

★今の歩みが向かうところ

 今の歩みは、どんな意味があるのだろうかと考える時がある。

◎17節 

4:17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。

  今自分が取り組んでいることが、誰かのためになる、誰かの励みになるとするなら幸い。

 自分の歩みに何の意味があるのだろうか? 何の意味もないのではないかと思うとむなしい。 決してそんなことはない。

 自分は一人、むなしい そうではない 主が共にいてくださる。

 自分の歩みはどこに向かうか? 衰え、消えていく運命?

 そうではない、 天の御国へとつながる。

 主イエスのみ救いに与った者は、この地上において、主が見放さず、支えてくださる。

 やがて、ぽっと消えゆくのではない。

 この地上での生涯を閉じる時、扉が用意されている。

  天の御国につながる扉が開かれる。

  ぽっと消えゆくのではない。主の直接のご支配に御国に移される。 

 

★見えるものに目を注ぐ道

 見えるものに目を注ぎがちな私たち

 目を引くものは山とある、私たちの目と心をひきつけるものは多くある。 

 1)お金 お金は一番目が行きがち。大金を手に入れる

   お金に目がくらむ 大金を手に入れるためなら、どんなことでも

   今起きている広域、強盗事件 闇サイトの募集に乗ってしまう。

  その結果、人生を棒に振る。 あとで振り返ると後悔する。なぜ、あんなこ   

とをしてしまったのだろうと

 2)地位、名誉

   地位や名誉も目を引く。 地位を手に入れる、名誉を手に入れるためなら、どんなことでもやる。

 3)交友関係が広い

   友達が多い、自分の交友関係はとても広い、

   自分は、その中の中心だと考えてしまう。 第1線から退いたら、多くの

   関係者が潮が引くようにいなくなったということはよく聞く・

 4)自分は英雄だと考える。

   自分はヒーローだ、自分の将来は輝かしい。

   幻想を抱いて突き進む。 どこから大統領ではありませんが、その結果、多くの人が傷つき、苦しむ。ただの身勝手さ

   その自分の幻想を見つつつきすすむ結果、自分が破滅してしまう。そのこともわからなくなる。

自分は偉い者だ、自分を神のようなものと思い違う、自分こそヒーロ-

  自分は立派なものだ、実際にはただの者に過ぎない。

 

★見えるものには注意が必要

  見えるものに心動かされ、進みがちな私たち

  何が大事なことなのかと見極める必要がある。

  見えるものには、時に大きな落とし穴、罠がしかけられている。

  見えるものが、後には、私たちを支配してしまうことがある。にっちもさっちもいかなくなることがある。

◎18節

4:18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

 

★見えないものに目を注ぐ

 使徒パウロは見えないものに目を注ぐと。 見えないものは永遠に存続すると

 この見えないものとは何を意味するのか

 見えないものの一つ それは太陽の光

  すべていの色を含んでいるけど、通常はその光そのものは見えない。

  その色は、すべてのものに色を付ける。

  葉っぱの色が緑色なのも、バナナの色が黄色なのも、すべて、太陽の光の中で、その色以外を吸収し、その色だけを反射しているから。

 すべてのものが見え、いろいろな色があるのは太陽のお陰

 太陽の光の中に込められた熱エネルギー 地上のものは温まることができる。

 太陽の光のお陰で、植物は光合成をして、栄養を造り出すことができる。

 親の心の思い その中にある愛も直接には見えない。

  親の子どもを思う愛情、心配、 直接には見えないけれど、その愛、心配は確かなもの

 使徒パウロが言わんとしたかったこと、見えないものとは何か、誰のことか?

  それは、神ご自身、そして神の愛

  この地上のすべてを創造してくださったお方

  この地球を超えて、この宇宙のすべて主創造されたお方。

  そして、この地上に生きる私たちのために主イエスをお遣わしくださったお方。

 永遠の初めから永遠の終わりまでを支配しておられるお方

  その方は、私たちのこの肉の目では見ることができない。

  でも、確かにおられる。 そして、私たちに愛を注いでくださっている。

 どんな時にも見捨てず、共にいてくださるお方。

 私たちを引き上げ、助けて導いてくださるお方。

 その方を信仰の目を持って見続けた使徒パウロ。

 私たちもまた、使徒パウロに倣い、主なる神に目を注ぎつつ歩もうではありませんか。  ハレルヤ!

 

2月12日() 聖日礼拝 説教メモ

 「天にある永遠の住みか」 コリントの信徒への手紙二5章1-10節

 

★帰ることのできる家がある。

 帰ることのできる家があるということはとても幸せなこと

 家があって当たり前ではない。 家を持たない人もいる。

 家は幸いなところ そこに入れば、当然雨をしのぐことができる、風も防げる、寒さを防げる ゆっくり眠ることができる。 ありがたい。

 電気をつけることもできる。 夜も明かりをつけることができる。 本も読める。 テレビも見ることができる。 

 小さい子供の頃 どんなに夕方遅くまで遊んでも、家には母親が夕食を作っていてくれている。 今考えると、本当に贅沢だった。 共働きの家では必ずしもそうではない。

 遅くまで心行くまで遊んでも、夕食を食べることができる。 暖かいお風呂にも入ることができる。

 自分を待っていてくれる親がいるということは、なんと幸せであったことでしょう。

 

★健康な体

 体が健康であることはありがたいこと。

 普段は、そんなことは考えない。 いざ、病気になり体が弱くなると健康のありがたさをひしひしと感じる。

 三度の食事をおいしく食べられることも大きな感謝。 食事をおいしく食べられることも大きな感謝。

 体調が悪ければ、どんなにおいしい料理があったとしても、ほんの少ししか食べることはできない。

 

★地上の幕屋

 今日の聖書箇所では、私たちの体は、地上の幕屋と表現しています。

◎1-4節 

5:1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。

5:2 わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。

5:3 それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。

5:4 この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。

   幕屋とは移動式のテントのことです。 天幕造りを生業としていた使徒パウロ

 天幕というのは移動式のテントのことです。

 羊の皮で作られていたのではないかと思います。

 雨風に打たれても、破れない。水を通さない、風を通さない。

 テントの強みは移動式である。石造り、木造りの家と比べたなら、折り畳みもでき移動もできる。しかし、一方、弱い。 年月と共に痛みが出てくる。

 破れることもある。 雨を通し、風を通してしまうようになる。

 直射日光、紫外線等で、少しずつ弱くなる。

 

★肉体は年と共に弱くなる。

 私たちの体 その健康も変わっていく。

 年を取れば、腰が曲がり、白髪が増え、しわが増える。

 ・背も縮ぢむ。背がもともと高い人は良いけども、私のように背が低い者はとても困る。

 ・年と共に、体は衰える。 疲れやすくなる。

 ・若い時のように、がむしゃらにできなくなる。

 ・山登り、ハイキングもきつい。階段の上り下りがつらい。

 ・膝が曲がらなくなった。 膝に水がたまるようになった。

 ・筋肉も細くなり、筋力も弱る

 ・物忘れが出てきた。 記憶力が減退する。

 ・いろいろなことをするにも、意欲が出てこなくなった。

 様々な衰えを経験する。

 自分の体が、自分のものでないように感じる。 年を取ると実感する様々な支障、弱り

 若さをだんだん失う。 年を取り、体は弱くなる。衰えていく。

 この体という時、肉体だけでなく、頭も。 いろいろ考える力も衰えていく。

 そして、もう一つ経験することが病気ということですね。

 自分は体には自信があった。

  その自分が糖尿病になった。体の一部が病気で冒された。

  消化器の病気、呼吸器の病気、ホルモンの異常による病気。 

  高血圧、自律神経失調、膝の病気、・・

  神経の病気、精神の病気になることもある。

 一つでも大変なのに、二つも、三つも抱える。

 病院通いの日々、薬をいくつも飲まねばならない。 入退院を繰り返す。

 長く入院しなければならない。 すっかり体が弱くなる。元気を失う。

 これからどうなってしまうのだろうか。

 この体はいつまで持つのだろうかと考えざるを得ない。

 肉体を与えられこの地上での生涯を過ごす中で経験すること。

 

★この体はいつまで持つのだろうか?

 年月を経たテントではないけども、この体は弱くなり、ボロボロ

 いつまで持つのだろうか? 元気で頑丈のはずだったのに、今は見る影もない。 

 この地上での生涯はいつまで残されているのだろうと考えざるを得ない。

 そこにあるのは嘆きであり、悲しみ。 どうなってしまうのだろう。

 そのような時、私たちは自分の体を支えていくしかない。

 そのような時、忘れてはならないことは、この体もまた天の神さまから与えられたもの。 この肉体も命もすべて神さまから与えられたもの 

 弱くなったとしても、病弱になったとしても、神さまに祈りを捧げつつ、歩みのです。

 神さまにお祈りをしつつ、日々進んでいきましょう。

 主よ、支えてください。強めてください。

 元気な時の体も、こうして弱くなった体も、神さまから与えられ支えられています。 主よ、感謝します。 天の神さまにお祈りを捧げつつ、歩むのです。

 

★私のこの体に与えられているもの

 それは命です。

 この体を肉体と精神、心が与えられています。

 その肉体も精神、心、しっかりして強い時もありますが、そうでないとき、台風のような強風で大きく揺さられて、頑丈な木の枝が折れるように、弱り果てることもあります。 木の枝は折れても、また枝を伸ばすことがあります。

 肉体も、日々、何億という細胞が新しく入れ替わっています。

 この肉体には、免疫力が神さまから備え与えられていて、病に打ち勝っていくことも多くあります。 すべて嘆きで終わらないようにしましょう。

 主よ、あなたによって、与えられているものを持って、なお満たしてください。 回復の恵みを与えてくださいと願いつつ歩んでいきましょう。

 

★キリスト者に与えられるもの

 主イエスを信じる者に与えられる最も幸いなもの それは何でしょうか?

 それは、何よりも主にある平安ではないでしょうか

  どんなことがあっても起来ても、主にあっての平安

  主が共にいてくださる、決して見離されないという確信

 そこに与えられているものは永遠の命です。

 その平安の源は何でしょうか?  それは主の御霊です。聖霊なる神です。

  主を信じ受け入れた者に与えられる聖霊。 それは神の命です。 

◎5節

5:5 わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。

  霊を与えていただいている。その幸いを心にとめましょう。

 

★この地上での歩み

 この地上での歩み

  その人生の長さはそれぞれ違います。

  生まれた国も、その生活環境も家庭環境も、違います。

  その置かれたところで、そう歩むか、そう生きるかは大切なことです。

 恵まれた幸せな環境もあるでしょう。 いろいろなことで満ちている。

 その反対に、恵まれない不幸と思える環境もあることでしょう。 これもない、あれもない、大変な劣悪な環境もあることでしょう。その置かれたところで生きていくしかない。

 環境のせいにしたくなることもあるでしょう。

 こんな恵まれない環境に置かれたことを恨み、それを理由にして投げやりに歩む人もいるでしょう。 反対に、そのような大変さの中にも関わらず、前向きに歩む人もいるでしょう。

 どのように歩むかは大切なこと。 真実に歩みたい。

 そう考えていた自分が、その全く反対な歩みの中に身を置く者になった。

 真実の反対、それは不真実です。 人をだます、人をだまして、その人の大事なものを奪う、それを何度もしているうちに、最初はやばいと思っていたことが普通になる。

 人をだましてその人の大事なものを奪うことに最初は良心の呵責を覚えていたのに、その意識もなくなる。

 このような楽をして、短時間に何十万、何百万を手に入れる。

 自分が汗水を流してではなく、人が汗水流して稼ぎ貯めたものを、詐欺で奪い取る。 不正をして、稼ぐ。 見つからなければ良い、とにかく、自分が良いものを手に入れればそれで構わない。 その相手が、その後、どう苦しもうが関係ないと考える。

 人を傷つけ苦しめる。 人の道を外れて歩み続ける。

 これが俺の道、これが私の道 それでよいのでは決してない。それで済む者ではない。

◎10節

5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

 人は、すべて、最後には、キリストの裁きの座の前に立たねばならない。

 今は戦争だから、何をしても構わないと考えるでしょうか?

 人の道を外れたことを平気で行う。 戦争なのだからは、神の前には理由にならない。

 主を信じているものであっても、主なぞ、知らないと主を信じないものであってもすべての者は、最後の最後、どのような歩みをしたかが問われる。

 死んだら、そうせ、すべてが帳消しになる、悪いこと、間違ったことであっても、いろいろしてもかまわないのか? 裁きの座がある。 報いを受けねばならない。

 間違った道に歩んだ者は、その間違った道から、戻らねばならない。

 間違ったこと、不真実、不正、人を苦しめる歩みはやめる必要がある。

 主の助けがありますように!

◎7-9節

5:7 目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。

5:8 わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。

5:9 だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。

 目に見えるものによらず

  目に見えるもの お金、持ち物、財力、権力、身分、地位  それらに引きずられる

  信仰によって歩む 目に見えない方 神ご自身、神の愛に目を向けて歩む。

   その歩みの中で、大きく軌道修正される。

 神の愛を受けている自分は、どう歩んだら良いのだろう。

 主より助けと励ましをいただいて、主に喜ばれるように歩みたいという願いが起こされ、助けをいただいて、その道に歩み出す。 それは幸いなこと。

 

★天にある永遠の住みか

 地上の住みかである幕屋は古び、滅びていく。 肉体と精神、心が弱るだけでなく、滅びていく。すなわち、命の終わりを迎える。

 それは、考えられないこと

 自分という存在がなくなるということ それはどういうことなのか

 消滅してしまうということなのか? 死んだら、すべてが終わり消滅してしまうのか。 もし、そうなら、自分が生きている間は自分がやりたいことをすれが良いと考えるのか?

◎1-5

5:1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。

5:2 わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。

5:3 それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。

5:4 この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。

◎口語訳

5:1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。

5:2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。

5:3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。

5:4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。

5:5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。

◎新改訳

5:1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。

5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。

5:3 それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。

5:4 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。

5:5 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。

 天に住まいが備えられている。 天から与えられる住みかがある。

  それは、地上のテントとしての住まいである肉体とは違い、朽ちない肉体

 復活の命

 天に永遠の住みか、永遠の家が用意されている。

◎ヨハネによる福音書14:1-6

14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。

14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

 父なる神の家には住むところがたくさんある。

 主イエスの十字架と復活によって成し遂げられた救いの完成のゆえに。

 天にある永遠の住みかあり。

 天に永遠の家あり

 復活の命を与えられて、主の御そばで永遠に生きる。

 その大いなる恵み、その幸い

 それは、主より与えられるもの、着せていただけるもの

 この地上の肉体は弱り果てていったとしても、天上に永遠の住みかが用意されている。 なんという幸いでしょう。ハレルヤ

 

 

 

2月19日() 聖日礼拝 説教メモ

「キリストの愛が私たちを コリントの信徒への手紙二5章11-15節

 

★何のために生きるのか?

 生きる日々の中で、ふと何のために生きるのかと考えることがあるかもしれない。 普段はそんなことは考えない。生きているから生きる。

 何のために生きるかは考えない。

 これがしたい。これを手に入れたいと願い、歩む。

 日々の歩みの中で、何か喜びがあれば、一番と思って歩む。

 

★誰のために生きるか

  誰かのために生きるかなど、考えたこともない。

  もし言うとしたら自分のために生きる。 自分のしたいことをする。 これを手に入れるために歩むのだ。 自分がすべてと考えることもある。

  一方、この人のためにという思いも時に与えられる

  この目の前のこの人のために。

  目の前で苦しんでいる人、困っているこの人たちのために。

  日本で、時に海外にまで出かけることもあるかもしれない。

  自分の幸せだけのためでなく、この人たちの幸せのために。

  自分の家族のために、子どものために、孫のために。

  親が亡くなり、いなくなったら、その子どもはどうなる?

 様々な道があるが、祖父母が、祖父が、祖母が面倒を見るということがある。

   老骨に鞭打って、孫のために

  自分のために生きることも素晴らしい、また、誰かのために生きることも素晴らしい。 自分が持っている時間、エネルギーを、自分だけのためでなく、誰かのために用いる。 それは大変なことも多いが、幸いなこと。

 

★使徒パウロは、だれのために生きたのか?  

 彼は、復活の主に出会って、生き方が変えられた人の一人。

 その後の歩み。

◎13節

5:13 わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。

 彼は、二つのことのために生きた。

  第一は、目の前の人たちのために 主イエスを信じて歩むクリスチャンのために。 まだ、主イエスを知らない人たちのために ただひたすらに。

  第二は、神のために生きた。

  神の御心を追い求め、教え示されたことをなした。 神のしもべとなり、宣教者となって歩んだ。 自分がこう思ったから、こう考えたから、こうするのではない。 それだけならば、時に暴走してしまう。 

  神の名を用いて、自分のやりたいことをやる。自分勝手に、自分の教義を作り、自分が神になってしまう。その結果、多くの人が苦しむことにもなる。

 

◎11-12節 

5:11 主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。

5:12 わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。

 神にすべてを知っていただき、真実に歩む。

  間違っていたら正していただく。 目の前の相手に対しても、真実に歩む

  自分の本当の正体を隠して事をなす。 時にそれは、偽り、ごまかし、詐欺ということに陥ることもある。 自分の姿、正体を示しつつ。 さらけ出しつつ。

 

★私たちは捕らえられる。

 私たちは時に捕らえられる。 それは、何か悪いことをして警察に逮捕されるとか、イノシシのように、仕掛け罠にかかって、捕まえられるということではありません。

 何かに夢中になる。 はまってしまう。 いろいろなものにはまりますね。

  グルメにはまってしまう。 食べ歩き

  走ることの快感 

  ゲームにはまる  楽しいゲーム。何時間でもやる。 楽しくて仕方ない。

  あるものコレクション

   あるものを集める。 

  料理研究 おいしいものを作ることに熱中。 いろいろなものを作る。食材の研究 これは、自分も楽しめるだけでなく、誰かに食べてもらい喜んでもらう。

  映画、ビデオ鑑賞

  素晴らしい作品に感動して、また、ほかの作品にと熱中して、時を過ごす。

  そのことで、自分を忘れる。 ストレス発散になる 悪いことではない。 良いこと。 でもそれに熱中しすぎて、多くの時間を取られてしまう。 それがすべてになってしまうこともないわけではない。

 

★悲しみに捕らえられることがある。

 人は、私たちは、時に悲しみに捕らえられることがある。

  それは深い悲しみ、 時々襲ってくる悲しみ。

 なぜ、こんなことになってしまったのか、なぜあんなことが起きたのか

 なぜ、この私の人生にあのようなことが起きたのか

  自分が経験した大変さ 自分の家族が経験したこと。

  もう過去のこと でもそのことを思い出すと悲しみが自分を包む。

  今も続いている大変さ その大変さの中で、悲しみに押しつぶされそうになる。 悲しみの感情 それはいつも自分を包む そして、悲しみの中に沈みこませる。 あの時、どうしたあのような行動をしてしまったのだろう。なぜ、あんなことをしてしまったのだろう?

 なぜあんなことを言ってしまたのだろ? なぜ、こうして上げなかったのだろう? 後悔の念を時に抱く。 もう過去には戻れない、その過去のことを思い出すと悲しみに包まれることがある。

 悲しみとどう付き合うかは、私たちの課題 

  

★憎しみに包まれることがある。

 憎しみの相手がいる。 あんなひどいことを言われた、あんなひどいことをされた。 そのことで、この自分、自分の家族が受けた悲しみ、苦しみ。 地獄のような悲しみ、苦しみ。

 相手が許せない、あの人を許すことはできない、あの人たちを許すことはできない。

 昨晩 NHKスペシャル「キーウの子どもたちの冬」というドキュメント

  後半だけ見た。 ウクライナの首都キーウに住む子どもたち

  子どもたちが抱える苦しみ

  あんなひどいことをしたロシア人は決して許せないという思い、感情

  ミサイルが次々と打ち込まれ。目の前で、家が町が破壊された。何より、愛する家族が死んでしまった。愛する同級生が亡くなってしまった。

 目のまえで起きた。 命を失い、焼け焦げてしまった。 その場面に身を置き、 その悲しみを味わった、その焼ける臭いを嗅いだ。決して忘れることはできない。 憎しみの感情、思い。

 小学校、中学校、高校 その授業の様子

 学校の先生と子供たちの様子が映し出された。

 子どもたちの受けた心の傷、そして持ち続けている許せないという強い思い、感情 先生は語る。 「憎しみは相手を滅ぼす、そしてそれと同時に自分を滅ぼす。」

 ある一人の少年  自分は高校を卒業したら、軍隊に入りロシアと戦うのだ。 相手を打ちのめすだと 心配する母親

 その少年の父は、ウクライナの東部戦線で、敵の砲弾によって大けがをして瀕死の重傷  その少年は、ますます、怒りと憎しみ

 父親は大丈夫なのか 連絡が長くつかない。

 母親がまだ入院治療を受けている父親に会いに行く。 その先でテレビ電話がかかって来る。 父親の安否がわかりホッとする少年と姉妹

 その時に少年は一番聞きたかったことを思い切って質問をする。

 「お父さんは、軍隊に入って戦争の只中にいる。お父さんは。何のために戦うの?、ロシア人が憎くないの?」

 父親は応える。 「ロシア人がすべて悪いわけではない、ロシアの人の中にも良い人はたくさんいる。お父さんが戦うのは、この戦争を一日も早く終わらせたいからだ。子どもたちに戦争を体験させたくないからだ」と。

 その少年の父親は、ロシア人が憎くて戦争をしているのではない。

 この戦争を一日も早く終わらせるために。 ウクライナに平和が戻ってくるために。 その少年の心は揺れ動く。 高校を卒業したら、どのような道を進んだら良いのかと。

  

★悲しみ、憎しみの渦が私たちに迫って来る

 その中に巻き込むことがある。 その中で、もがき苦しむ私たち。

 どうしたら良いのか?  いくら考えても答えが見つからない。 その渦の中で悩み、苦しむ私たち。

  

★キリストの愛

 使徒パウロにとって、神とは、キリストとは?

 そのことが、14-15節に記されている。

◎14-15

5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。

5:15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

 神の愛、キリストの愛が彼自身を駆り立てている。

 他の訳では?

◎口語訳

5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。

5:15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

 

◎新改訳

5:14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

 キリストの愛が、駆り立てている。キリストの愛が強く迫っている。キリストの愛が取り囲んでいる。

 キリストの愛がパウロを突き動かしている、キリストの愛が間近にある。

 キリストの愛が取り囲んでいる。

 ケズィックコンベンションの早天聖会のメッセージの最初に寒波対策のことを少しだけ触れた。 私のこの冬の寒さ対策 長袖の暖かいシャツを着ることと毎朝一枚、服の上から貼るカイロを貼ることということを伝えた。

 寒い時、体に寒さを覚える時に、焚火に当たる、暖炉の日の前で体を温める、暖かいお風呂に入る。 冷え切った体が温かくなる。

 寒い寒いと震え続けなくても済む。

 かつては、自分思いだけで歩んで行ったパウロ、かつての名前サウロ

  クリスチャンたちを次々捕らえ牢の中に投げ込んだ。

 そのサウロが復活の主イエスに出会い、回心する。パウロという名前になる。

 サウロは大きい者、強い者、偉大な者という意味がある。

 パウロは、小さい者という意味がある。 大きい者から小さい者に変えられて行ったパウロ

 自分ですべてやる、自分がすることに間違いはない、このなすことを神さま、見ていてくださいと豪語していたサウロ

 パウロになり、自分のできることをさせていただく、自分のすることにもいろいろ間違いがある。神様、正してください、正しく歩めるように導いてください。と

 神様、あなたの御心はどこにあるでしょうか? あなたの御心に沿うことができるように助けてください。そのように歩ませてくださいと

 

○使徒言行9:1-22

 あの時、あのダマスコの町に向かう途上で、神はこの私と出会ってくださった。 神の愛が、この私をとらえてくださった。

 神の愛は、この自分を滅ぼされなかった。 あの時、三日間、目が見えなくなったが、その後ずーとではなく、目が再び見えるようにしてくださった。

 アナニアを遣わして、頭に手を置き、癒してくださった。

 キリストの愛が、駆り立てている。キリストの愛が強く迫っている。キリストの愛が取り囲んでいる。 

その恵みの中で生かされた使徒パウロ

 私たちに対しても、あなたに対しても、神の愛は臨んでおられる。

 

★キリストのために生きる

 使徒パウロは、変えられた。 キリストのために生きる者になった。そのように変えられた。キリストの愛に生かされ、キリストのために生きる者となった。

自分のためだけに、自分の思いだけ生きる歩みから、キリストの御思いを伺いつつ、神に自分がどのように歩むべきかを尋ねつつ、歩むようになった。

神が願っておられることを、心にとめ、それにできるだけ、沿うように歩むように変えられた。

 キリストの愛が、私たち一人一人に、あなたを駆り立てています。

 強く迫っています。取り囲んでいます。 ハレルヤ!

 

 

3月5日() 聖日礼拝 説教メモ

 「今や、恵みの時」    コリントの信徒への手紙二6章1-13節

 

★幸いなこと

 幸いとは、どのようなことか?

  自分の思い通りに事が運ぶこと、自分の願い通りに事が運ぶこと それもそうかもしれない。  では、そうでないときはどうか? そうでないことの方が多いかもしれない。

 思い通りに事は運ばない、願い通りには事は運ばない。

 むしろその反対のこともある。

  それだけならば、なんと不幸な、なんと不運な、なんとみじめなで終わってしまう。

 まさに、それは運が悪い、それは悲しい、それは、何とも言い難い、何ともみじめと思える。

 しかし、そこに助けが与えられるなら、そこに新たな道が開けるならそれは、また幸い。

 

★道が開かれる

 道が閉ざされたと思ったのに、道が開かれた。

  雪道で、高速道は長時間渋滞、その間はつらくてたまらない。でも、半日が、いや1日後、2日後、動き出した。 それは感謝

 高校受験、大学受験

  うまくいかなかった、不合格 なんとみじめ、もうだめだと思ってしまう。

  他の高校、大学を受験  また1年間浪人する、 予備校に通う、自宅での勉強、 そして1年後に進む高校、大学が決まったなら、大きな喜び。

  

★神からの恵み

 神の愛は注がれている。 神からの恵みは豊かに与えられている。

 太陽の光、天からの雨のよう、 私たちを支え生かすもの

 普段、太陽の光、天からの雨の恵みを意識していない。それがなければ生きていけない。

 神の愛、恵みもそのようなもの

1

6:1 わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。

 その恵みを無駄にしてはいけない。

 その恵みに感謝して、その恵みに生かされたい。

 

★使徒パウロの生きざま

 使徒パウロという方の生きざま  想像を絶する歩み  多くの苦しみを経験した。主イエスを信じ、クリスチャンとなる。さらに伝道者、宣教者となる。

 主イエスを宣べ伝える。主の福音を宣べ伝える。

 使徒言行録に記されている通り。 迫害にあった。 苦しみの連続であった。

 苦しみの連続、試練の連続。

  普通、もうだめだ、もう耐えられない。

  なんとみじめなことか、 こんなはずではなかったと嘆く。

 もし自分だったら、どうだろうか。 多分、ああみじめだ、ああ苦しい、ああもうだめだ

  なんと不運な、なんと悲しい、どん底だ、いやだと叫ぶかもしれない。

  こんな人生、こんなつらい人生 ああ、なんとみじめなことかと

 パウロはどうであったか?

◎3-10節

6:3 わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、

6:4 あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、

6:5 鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、

6:6 純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、

6:7 真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、

6:8 栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、

6:9 人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、

6:10 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

 

★苦しみの数々

 多くの苦しみを経験する。 苦しみの連続

6:4苦難、欠乏、行き詰まり、

6:5 鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、

6:8 栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、

6:9 人に知られていないようでいて、 死にかかっているようで、 罰せられているようで、

6:10 悲しんでいるようで、物乞いのようで、無一物のようで、

 苦難、欠乏、行き詰まり むち打ち、監禁、・・労苦、・・ 辱めを受ける 悪評を浴びる

 みじめな状態  迫害の数々 いやがらせ、苦しめられ、石を投げつけられ

 鞭打たれ、牢の中に投げ込まれる

 なんということか、なんというみじめなことかと考える。

 もう嫌だ。もうやめたと考えてもおかしくない。

 もう、この人生を放り投げる、 もうこの務めを放り投げる。

 しかし、パウロはそうしなかった。

 また、普通なら、沈み込んでしまう。ああ、自分はみじめだ、もうだめだ

 ただ、沈み込んだまま流れに任せる。

 悲しみとみじめさの中に閉じこもる。外には出ていかない。自分の殻の中に閉じこもる。  嘆きの日々を過ごす。

 

★パウロはどうであったか?

 パウロ自身も一時的に沈み込むことはあったことでしょう。

 なんと悲しい、なんとみじめと思ったことでしょう。

 しかし、そこにとどまり続けなかった。

 そこから浮き上がってきた。

6:4 あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、

6:6 純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、

6:7 真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、

6:8誠実であり、

6:9よく知られ、 生きており、 殺されてはおらず、

6:10常に喜び、 多くの人を富ませ、 すべてのものを所有しています。

 神に仕える者として歩み続けた  大いなる忍耐をいただいた

 純真、寛容、親切であり続けた 誠実に生きた。 喜んでいた。

 そして、他の人を生かす働きに精出した。 それは、驚くべきこと。

 もう自分のことでいっぱい、いっぱい 他の人のことは知らない、他の人のために生きることなんかできないではなく、他の人に仕え歩んだ。

 決して、沈み込んだままではなかった。 そこから浮き上がり、生き生きと歩んだ。

 

★フィリピの町にて

その一例、一場面

○使徒言行16:16-34

  占いの霊につかれている女性から、その占いの霊を追い出してあげた。

 その女性を利用している者たちから苦しめられた。 散々な目にあった

 真夜中の賛美

  最もみじめと思われるときに、神に祈りを捧げ、讃美をした。

  その夜、大地震が起き、看守は、自らの命を絶とうとした。 それをやめさせ、

  主イエスを信じるようにと導き、看守とその家族は、主の救いに与ることができた。

 鞭打たれ、足枷をはめられ、牢の中に投げ込まれる。最悪、最低と思われる出来事

 その中に身を置いた。

 パウロとシラスは、その夜、神に祈り、讃美した。

 

★使徒パウロがそのようにできた秘訣はどこにあったのか?   

 パウロが生かされた秘訣

6:6聖霊、偽りのない愛、

6:7 真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、

6:10 すべてのものを所有しています。

 聖霊なる神に支え強めていただいた。 イエス・キリストの霊である聖霊

 神の愛によって、励まされ生かされていた。 

 真理の言葉 左右の手に持った義の武器

○エフェソ6章17-18節

6:17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

6:18 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

 いろいろな言葉が飛び交う現代

 聖書の御言葉に聞く。 御言葉を通しての神の語り掛けを聞く。

 『みことばの光』、 『アパルーム』、 『信徒の友』の日ごとの糧

 『デイリーブレッド』  デボーションの時 主のみ前に静まる時、祈りの時を持つ。 自分は、主によって罪赦され、神の子どもとされたものであることをかみしめる。

 自分が持っているものは限られている。多く持っているようで、ほんの少ししか持っていない。 しかし、主はすべてを持っておられる。

 主は、この私に必要なものを必ず与えてくださる。

 寄り頼む者の祈りに応えてくださるお方。

 その主を仰いで、主と共に生きる幸いを心にとめる。 

 主から離れず、主に近く歩む そこから与えられる恵み、力、満たし

 パウロは、主の愛と恵みによって生かされた。 私たちも主の愛と恵みによって生かされましょう。

 

★これはどういうことか?という経験

 2日(木)、北九州空港に夜8時30分に着いた。 

 8時55分発の高速バスに乗った。

  ニモカのカードがない、乗る時にはあったのに、いくら探してもない。狐に包まれた思い。 やはり見つからない。千円札を小銭に両替して、三萩野バス停で降りる。

 ニモカカードを噴出 お祈りしたが見つからず。

 落ち込んだ気持ちで牧師館につき、休む。

 次の日、もう一度お祈りして、そうだダメもとで、砂津のバスセンターに電話してみよう。 30分くらいして、見つかりましたとの連絡。

 3日(金)午後、受け取りに行った。 手元に戻った良かった。

 どこにあったか、 座席と補助イスの隙間に挟まっていた。 感謝。

 

★今や、恵みの時

◎2節

6:2 なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

 主は、真実なお方 寄り頼む者の願いを聞いてくださる。

 すべてそうなるかというとそうでない時もある。

  願い求めたのに、そのようにならなかった。 そのような時、つらい思いを持つ。 しかし、主は、どこかに行かれてしまったのではありません。

 私たちの祈り、叫びを覚えていてくださる。

 

★過ぎ越しの出来事

 主が、イスラエルの民をエジプトから救い出してくださった出来事

 すべてを支配するエジプトの王ファラオ

 *災い

  ①血の災い、 ②蛙の災い、 ③ぶよの災い、 ④あぶの災い

  ⑤疫病の災い、 ⑥はれ物の災い、 ⑦雹の災い、 ⑧いなごの災い

  ⑨暗闇の災い

 主が、応援してくださった。

 そして、ついに、過ぎ越しの出来事

○出エジプト12:1-36

 主が勝利を取ってくださった。

○イザヤ書53章11節

53:11 彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。

 主イエスの御苦しみ

  その尊い犠牲が、すべての人を生かす。

  主イエスを信じる者を救う。

 主は、いつも、私たちを顧み、助け、救い出してくださる。

 今や恵みの時   主に一歩近づきましょう。

 

3月12日() 聖日礼拝 説教メモ

 「私たちは生ける神の神殿」コリントの信徒への手紙二6章14-18節

 

★健康を保つ

 健康を保つことの重要性 健康でなければ、何もできない、何もしたくない。 健康であれば、何かができる、何かをしたい。

 内側が充実していれば、平安があり、力が満ち、意欲が湧いてくる。

 肉体的にも、霊的にもそのようでありたい。

 

★健康の秘訣

 食事、運動、睡眠 適度な食事、適度な運動、適度な睡眠

 特に食事を考えてみましょう。 栄養のあるものを摂取する。

  暴飲暴食を避ける。 スナックばかり食べない。

  肉ばかり食べない。 肉、魚、野菜をバランスよく、食べる。

  食べ過ぎるなら、そのために胃腸は休む暇もない。 栄養過多となる。

 何を食べるか、バランスよく、体と相談しながら、食べることは大事なこと。

 

★自分の体

 親からいただいた体、そしてまた、神様からいただいた体 その健康

 その健康維持に努めたい。

 

★何を食べるかは大事

 バランスの良いもの 肉、魚、野菜

 でんぷんのものばかり食べない、 タンパク質(肉、魚、大豆)をしっかりとる。 野菜も適度にとる 新鮮なもの 肉、魚、野菜 

  古いものは味が落ちる。 

  新鮮なもの、新しいものは味が良い、健康にもよい。

   トマト、キューリ、・・    生きのよい魚、鮮度の保たれた肉

  もし、反対だったら、鮮度が落ちていると味は落ちる。

  さらに鮮度が落ちていくなら、腐る。 味がおかしくなる。

 それを食べるなら、おなかを壊す、食中毒になる。

 

★何を食べるか、どのくらい食べるかに注意して歩む

 何を食べるか、どのくらい食べるかに注意して歩むとき、健康が増し加わる。

 心がけたい。 神さまから与えられている体の健康

 

★運動、休息、睡眠も同様。

 適度な運動、適度な睡眠 そのことで、健康の維持、健康を整える。

 忙しくて、なかなか運動する時間もない、睡眠時間を削らなければならないという状況もある。 休息も必要。

 運動過多、睡眠過多もよくない。 適度な運動、睡眠、休息、リズム

 

★精神も大事

 肉体だけでなく、精神も大事。 メンタルの健康

様々なストレス、その中で、いかにそれを解消するか。 忙しすぎることは決して良いことではない。 時に息抜き、休息が必要。 リラックス、忙しさを離れる。 時にゆっくりする。 音楽鑑賞、散歩、山登り、趣味にひと時を没頭する。

 忙しさの中にも、時にその忙しさをオフにする。 オンとオフの切り替え

緊張を解く、ボーとするときも必要。

そういってもそれができない忙しさ 日々迫ってくる圧迫、頭を悩ます問題、課

題。 主にそのことを申し上げ、自分ですべてを背負い込まない、主にお任せする、おゆだねしつつ歩んでいきましょう。

 

★心を虜にするもの

 心は自分のものなのに、どうにもならない時がある。

 やりたいことに打ち込む、意欲いっぱいあることに取り組む。それは幸いなこと 

 その反対のこともある。 心が恐れで包まれる、怒りでいっぱいになる、心配でいっぱいになる。 焦りでいっぱいになる。 そのようになることがある私たちです 平安を失ってしまう。 主に支えていただきましょう。守っていただきましょう。

 

★良くないと示されたものを遠ざける

 良くないと示されたもの、良くないと思うものをずっと内に持っているなら具合が悪くなる。

 実際には、そのことに気づかない。 気づいてもそうできない。

 ゲームが面白い

  その面白さにはまってしまう。一日に、2時間、3時間、いや10時間と

 ギャンブルにはまってしまう。

  ギャンブル付け 大事な時間とお金、財産をなくしてしまう。

 アルコール、薬物、・・

 インターネットにはまる。

  ネットの世界、面白い記事にあふれている。 現実世界というより仮想空間(バーチャルな世界) 楽しい、そればかりしていたら、時間はいくらあっても足りない。 睡眠時間が削られる。

 ネットの闇がある。

  闇取引、闇サイト それに引っかかる。 そこに引っ掛かり、間違ったこと、犯罪に身を染めてしまう。

 ネットを間違って開けば、ポルノの世界もある。 性的な画像や動画も山とある。 そこにはまり込めば、何時間でも、何日でも、時間を奪われる。

  そのことで、心がいっぱいになる。  心が偏ってしまう。

  健全でないものが心に満ちる。

◎17-18節

 6:17 だから、あの者どもの中から出て行き、遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、

6:18 父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。』全能の主はこう仰せられる。

 遠ざかるように。 触れるのをやめよ。

 イノシシや熊の罠の中で、檻式の罠がある。

 その檻の中には、おいしそうな餌が置かれている。餌が仕掛けられている。

 その餌を食べたい、でも何かおかしい、この檻の中に入ってもよいものか、最初は警戒する、 その餌の匂いに引き付けられ、少しずつ、その入り口に近づく。 少しずつ入っていく。 最初は1歩だけ、次には1歩半、・・

 そして完全に檻の中に入る そして、ついに餌を食べる。 入口のシャッターが落ちるようになっている。 その猪、熊はその檻から出ることができなくなる。 そして、捕らえられて命を失うことになる。

 食中毒になると、体は反応して、おなかを下す。

  それは悪いものを体の外に出してしまう反応。 神さまがそのように体に備えていてくださっている。

 良くないものを遠ざける、汚れたものに触れることをやめる。

 この関係は良いものではない、この関係を続けていたならば、いつかそのことで自分は身を滅ぼしてしまう。

 その関係を遠ざける、その関係を断つ  決して簡単ではない。 

 主に祈り、主の助けをいただいて、その歩みをなしていく。 主は支え助けてくださるお方です。

 

★鮮やかな色

 絵具のそれぞれの色 様々な色の絵の具

 その色固有の色がある きれい

 黄色と緑を混ぜると黄緑の色を作り出すことができる。

 青と白を混ぜると水色、 黒を白を混ぜると灰色 

 絵を描き終え、そのパレットに出した絵具をすべて混ぜると、汚い色になる。

 ごちゃ混ぜにすると、それぞれの色の良さは失われていまう。

 

★神さまがそれぞれに与えてくださっている素敵な色がある。

 その色に感謝して、歩みたい。

 他の人の色が時にうらやましく思えても、自分に与えられている色を心にとめ、主に感謝しましょう。

 いろいろな色を取り入れすぎると、きれいな色が消えてしまうことがある、注意したい。

 

★キリスト者としての色、輝き

 主が、クリスチャンとしての色、輝きを与えてくださった。

 その色、輝きを大事にしたい。 信仰を与えられた私たち

 主より正義を教えていただいた。 これが主に喜ばれること、御心にかなったこと 光の子どもにしていただいた。 真の神である方を教えていただいた。

 以前は、信仰のない者であった。

 この世において通ればよい、人間の判断でどうにでも動く基準を持って歩んでいた。 不法も時によしとしていた。

 以前は闇の子であった。闇にも顔を出していた。

 ベリアルとは、無価値、邪悪の意味 サタンを意味する

 かつては偶像を神としていた。 しかし、今は違う。

◎14-18節

6:14 あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。

6:15 キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。

6:16 神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 それらのものとごちゃ混ぜにしてはしてはならない。

 それらをどんどん取り入れたはならない。

 

★私たちは生ける神の神殿

 神の神殿、そこは神さまを礼拝する場所

 旧約の時代は、捧げものとして聖別された動物がささげられた。

  その命を犠牲のもとに礼拝が捧げられた。 香がたかれた。

  主への祈りと賛美がなされた。

 定められたもの以外の動物は決してささげなかった。

 偶像も決して置かれなかった。

 主イエスの尊い命の犠牲によって、罪の赦しの道が開かれた。

 主イエスを私の救い主として信じ、受け入れるものは、罪の赦し、神の子どもとして資格が与えられた。

 内に救いのしるしとして、聖霊が与えられた。

 内の聖霊を宿すものとなった。

 その大いなる恵みを下さるために、主はその命をあの十字架で命をささげてくださった。

 

〇イザヤ書53:1-12

53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

53:4 が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。

53:5 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

53:6 わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。

53:7 苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。

53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。

53:9 彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに その墓は神に逆らう者と共にされ 富める者と共に葬られた。

53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。

53:11 彼は自らの苦しみの実りを それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。

53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。

 生ける神の神殿である。

 神のものとされ、神をほめたたえるものとされたことの幸い

 その幸いを心にとめて歩みましょう。

 

 

3月19日() 聖日礼拝 説教メモ

「神からの力づけと慰め」 コリントの信徒への手紙二7章1-16節

 

★本日の中心聖句

 本日の中心聖句は6節です。

◎6節

7:6 しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。

 気落ちしたものを力づけ慰めてくださるお方がおられる。 その方は天の神さまである。

 原語のギリシャ語を見ると 力づける 慰めるは同じ言葉、パラクレオ―という言葉です。

 

★気落ちすることがある。

 気落ちする、打ちしおれる

【新共同訳】

2Co 7:6 しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。

【口語訳】

2Co 7:6 しかるに、うちしおれている者を慰める神は、テトスの到来によって、わたしたちを慰めて下さった。

【新改訳改訂3】

2Co7:6 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。

 プランター、鉢の花が元気をなくす時があります。 しおれる。

 たいてい、根に水が足りていない時です。 

 そのプランターに水を注いであげると元気になります。

 気落ちする、うちしおれる

 物事がうまくいかない。 順調だと思っていた仕事がうまくいかなくなった。

  仕事におけるトラブル、不調

 逆風が吹く 今までは順風だったのに、逆風が吹く。

 人間関係がうまくいかなくなる。

  今までは割とうまくいっていたのに、うまくいかなくなった。

  良い友達関係だったのに、けんかをしてしまった。

  行き違いが起き、仲たがいをするようになった。

心は元気を失う、心は重くなる、心は沈む。 

心は重い。 前に進むのにも、力が湧いて来ない。 その心を持ちつつ、進むことはつらい。

 

★力づけと慰め

 気落ちした者、うちしおれている者を神は慰めてくださる。 力づけてくださる。 それはなんという感謝なことか

 再び元気になる。 前に進む力を得ることができる。それは感謝なこと。

 

★使徒パウロ自身

 使徒パウロの経験 彼は大伝道者となった人物

 かつては迫害者であった。その彼が復活の主イエスに出会い、回心し、キリスト者となった。 そして大伝道者パウロになった。

 主イエスの救いの福音を力強く進めた人物。 多くの書簡を書き残した。

 そのパウロ自身が経験したこと

  それが気落ちするということです。うちしおれるということです。

  信じられない。 彼もまた人の子でもあった。 スーパーマンではなかった。 気落ちした、うちしおれた。

 

★難しい状況

 気落ちする、うちしおれること、急にそうなったというよりも、その原因があった。

◎5節

7:5 マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。

 全く安らぎがない。 心に平安がない、落ち着かない、心がざわつく。

 見えるところバリバリやっていると見えても、様々な戦いがある。

  反対する者、妨害する者がいた。

 外には戦い 伝道の働きを妨害する者、迫害する者。 厳しい戦いがあった。

 バリバリやっているように見えて、そこには多くの戦いがある。

 内には恐れ 心の内には恐れの心でいっぱい。 どうなるのだろうか、もうだめではないか このままつぶれてしまうのはないか

 マケドニア州の町々での伝道 厳しい迫害

 

★使徒パウロの心を重くしていたこと

 多くの人と接する時、うまくいく人もいれば、うまくいかない人もいる。

 使徒パウロもそのことを経験したであろう。

 彼の心を思うしていた一番の原因は、コリントの教会の人たちのこと。 

 コリントの教会は、パウロの伝道を通して誕生し、大きな教会となった。

  多くの人が集う教会となった。

 その教会に、パウロの伝えた福音を曲げようと知る人たちが入り込んできた。

  教会の主を見上げるのではなく、人を見ようとする。  

  主の教えを第一にするのでなく、人の意見の方に重きを置こうとする人たちが起きてきた。  パウロに対する様々な批判 

 コリントの教会は混乱していた。かき乱されていた。

 パウロは、そのコリントの教会のことを心配していた。コリントの教会が守られるように。 主を見上げ、主に従っていけるように。

 主を頭として、キリストの体が形成されるように。

 主の教えを無視し、人の教えを優先する。

 間違った教えが入り込んでいた。 主の教えが第一であり、それを外すことはできなのに、それがひっくり返っていた。

 そのことに心を痛めていたパウロ。

 愛する子どもが、どんどん自分から離れていくというつらい思いを持っていた。

 

★使徒パウロは手紙を書いた。

 コリントの教会につながる人たちを愛するゆえに、手紙を書き、弟子のテトスにその手紙を託した。 それは、コリントの教会の人たちを愛していること、

 それと共に、コリントの教会の問題を指摘した。 そのままではいけない。

 主は決して喜ばれない。主の喜ばれないことは捨て去るべきだ。 

 厳しい指摘の込められた手紙であった。

 しかし、それは切り捨てるための手紙ではなかった。 愛するゆえに書いた手紙であった、

 

★真実を貫いたパウロ

 不義を行わず、破滅させず、だまし取らず

◎2-4節

7:2 わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。

7:3 あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです。

7:4 わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。

 目に見えるところ、関係がうまくいっていない時にも、真実を持って、コリントの人たちに対して、真実に歩んだ。 そして、愛する心は変わらなかった。

  大事な友、大事な家族であると考えた。 

  生死を共にしている。 厚い信頼を寄せていた。 大いに誇った。

  見捨てることはしなかった。

 そのように歩むことは決して簡単ではないが、パウロはそうした。 そのように歩んだ。 一人一人のことを心にとめ、祈っていた。

 

★もっとも幸いなことが起きた。

 パウロが願っていたことは、ただ一つであった。

 コリントの教会の人たちが、神に従って歩むこと。

 神から心離れていた人が神に立ち返ること。

 神の教えをないがしろにしていた人たちが、神の教えを第一にすること。

 一言でいうなら、神の御前に悔い改めること。

  悔い改めるとは、後悔することではない。あれが悪かった、これが悪かった、あの事が問題だった、このことが問題だったということではない。

 そのことを、しっかり心にとめて、神に立ち返ること。

 神に向きを変えること。 神さまの方を向いていなかった。神に背を向けていた。 その自分を認め、神に立ち帰る。

 主よ、あなたの方を向いていなかったこの私をお許しください。 あなたに向きます。

◎8-12節

7:8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、

7:9 今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。

7:10 神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。

7:11 神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。

7:12 ですから、あなたがたに手紙を送ったのは、不義を行った者のためでも、その被害者のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱心を、神の御前であなたがたに明らかにするためでした。

 神の御心にかなった悲しみ

  ああ、主よ、あなたの御前に悔い改めます。 そのことで、取り消されない救いに通じる。

  人の心、自分の心にかなった悲しみではない 神の御心にかなった悲しみ

 聖霊なる神がそのように導いてくださる。

 

★パウロの喜び

 コリントの教会の人たちが神の御前に悔い改めたこと

 もう一つの喜び、それはテトスの喜ぶさまを見た。

◎7-16節

7:7 テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。

7:13 こういうわけでわたしたちは慰められたのです。この慰めに加えて、テトスの喜ぶさまを見て、わたしたちはいっそう喜びました。彼の心があなたがた一同のお陰で元気づけられたからです。

7:14 わたしはあなたがたのことをテトスに少し誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。それどころか、わたしたちはあなたがたにすべて真実を語ったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。

7:15 テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。

7:16 わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。

 手紙を持って行ったテトスが受け入れられたこと

 テトス自身がパウロと同じ心を持っていた。

  コリントの教会の人たちが、使徒パウロの手紙を読んで、自分たちのありかたの間違いに気づき、神の御前に悔い改めたこと

 そのことをテトスは喜んだ。

 そのテトスがコリントの人たちから慰められた。 悲しみが喜びに変えられた。 そのテトスの様子を見て、パウロ自身は喜んだ。

 

★神からの力づけと慰め

 使徒パウロ自身も気落ちした、うちしおれた。

 私たちも同じ。 私たちも時に気落ちする、うちしおれる。

 元気を失う。 外の戦い、内に恐れを持つ。

 物事がなかなかうまくいかない。時に攻撃される、非難される。

 わかってもらえない。 つらい。悲しい、つらい。

 パウロ自身も、そのことで悩んだ。

 しかし、真実を貫いた。人間的な策を練ることはやめよう。

主はすべてをご存じである。

 主ご自身がわかってくださる。 主にゆだねよう。

主の懐に飛び込む。

 幼子が悲しいことがある時、泣く。 そしてお母さんの胸に飛び込む。

 どうしたの、悲しいねえと受け止めてくれる。 涙が止まる。

主は、必ず出口を用意してくださる。 出口を用意していてくださる。

 主が慰めてくださる。

 ローマの信徒への手紙15章5節には、「耐と慰めの源である神」と記されている。

 神は慰めの主である。  様々なことの中で、悩み、苦しみ、落ち込むことがある。使徒パウロもそのようなところを通った。 私たちも通る。

 神から、力づけられ、慰められる幸い、それはどんなにか幸いなことか。 ハレルヤ!

 

 

3月26日() 聖日礼拝 説教メモ

  「ゲッセマネでの祈り」   マルコによる福音書14章32-42節 

 

★励まし

 励ましを受けることは、力である。

 苦しい時に、励ましを感じることができるなら幸い。

 苦しい時、どうなってしまうのかと不安な時、励ましを受けるなら、慰めであり、力を感じる。そして、耐えることができる。

 苦しみの時、悲しみの時に、一人で耐えることは大変。

 誰からの励まし、それは力となる。

 

★励ましの力

 励ましの力、それは、その時を耐えることができる。 持ちこたえる。

 そこにあり続けることができる。 そして、前に一歩進むことを可能にする。

 どこから励ましを受けるか。

  自分の家族、自分の友 自分のことをよく理解してくれている人

  今目の前にいる人、かつて共に歩んでくれた人

  かつて自分を支えてくれた人 それは、自分の親であるかもしれないし、友であるかもしれないし、小学時代、中学時代の先生であるかもしれないし、伴侶であるかもしれない。 既にこの世にはいない人であっても、あの時の励ましの言葉、愛の言葉 自分を顧みて、支えてくれた。

 

★今を生き、前にも一歩踏み出したい。

 今を生きてゆきたい。 前に一歩踏み出したい。

 その励ましの力を受ける。 それが届かない、それを感じることができないとき、つらい。 しかし、主なる神は、その励ましを与えてくださるお方。

 私たちを愛し、支え、見捨てないお方。

 その根本的土台をいただいていることは、どんなにか幸いなことか。

 今を生き、前に一歩進み出したい。

 

★今朝の聖書

 ゲッセマネの園での主イエスの祈りの場面

 「ゲッセマネでの祈り」

◎マルコ福音書14:32-42

14:32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。

14:33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、

14:34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」

14:35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、

14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

14:37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。

14:38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」

14:39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。

14:40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。

14:41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。

14:42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

 

★主イエスの十字架を前にしての最後の祈り

 その祈りの場所は、ゲッセマネの園

 ゲッセマネとはヘブライ語で〈オリーブ油しぼり〉を意味し,その名のとおり,エルサレムの東のケデロンの谷をへだてたオリーブ山にある園。

 そこで、主イエスは祈りをささげた。

 3人の弟子を連れて行った。 ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子。

 ゲッセマネの意味は、オリーブ油しぼりということ。

 オリーブの実から油をとるには、そのオリーブをつぶし、搾り取らねばならない。 オリーブの実は完全につぶされる必要がある。

 椿油も同じ、椿の実を押しつぶす機械で完全につぶしてしまう。するとその中にある油が出て来る。

 そのゲッセマネの園にて、主イエスは、最後の祈りをささげた。

  押しつぶされんばかりの苦しみを抱えて祈られた。

 

★主イエスの悲しみと苦しみ

 主イエスの悲しみと苦しみ それを心にとめ、主イエスはゲッセマネの園に出かけられた。 そこは、大事なことを抱えて、天の神様に祈りを捧げに行かれた場所であったことでしょう。

 ご自身の命の終わりが迫っている。 これほどの悲しみ、苦しみはないことでしょう。

 愛する弟子たちとの別れ。 ご自身の命が奪われる、奪い取られる。

 その最後は、敵に引き渡される。 ご自身を苦しめる敵、ご自身を踏みつぶそうとする敵。 どれほどの苦しみであることか。 

祈らずにはおれない。 祈らずには、耐えられない。 祈ることなくして、その時を過ごすことができない。

 

★3人の弟子への要請

 3人の弟子に願った。 祈らなければならない課題がある。大切な課題がある、大変な課題がある。 わたしのことを覚えて、祈り支えてほしい。

 3人の弟子たちは、一緒に連れて来られた。 共に祈ってほしいを要請された。 これはただ事ではないと感じたことでしょう。

 そうだ、自分たちは祈りを要請された。 祈らねばと思った。  

 しかし、実際には、彼らは疲れていた。 食事の後の眠気もあったのかもしれない。 祈らねばと思いつつも、眠りこけていた。 祈り始めて間もなくするといつの間にか眠りに落ちていた。

◎32-34節

14:32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。

14:33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、

14:34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」

◎37-41節

14:37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。

14:38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」

14:39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。

14:40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。

14:41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。

 3人の弟子たちは、祈りの要請を受けていたが、それに応えることができなかった。 主イエスの悩み、苦しみを理解していなかった。

 主イエスが、祈って戻って来る度に眠っていた。三度とも。

 

★私たちの姿に重なる。

 祈りを要請されているのに、その要請に応えることができない。

 眠りこけてしまう。 主よ、眠いのです。眠くてたまらないのです。

 心地よい眠り これこそ、最高ですと言わんばかりに、眠りこけてしまう。

 

★主は憐れんでくださる。

 主イエスは、3人の弟子たちの姿にがっかりしたことでしょう。

 もう知らない、もう勝手にしなさいとはおっしゃらなかった。

◎42節 

14:42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

 ゲッセマネの園での祈りの最後に、もう私一人で行く、あなたたちはここに居続けなさいとはおっしゃらなかった。 立ちなさい、さあとも行こうとおっしゃられた。

 

★ゲッセマネでの祈り

 ゲッセマネの園での祈り

◎35-36節

14:35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、

14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 この苦しみの時 この杯

 主イエスは苦しまれた。 不安と恐れ どれほどの苦しみであったことか

 

★この苦しみの時

 これから経験しなければならないことを思うと苦しくてたまらない。

 大変なことを前に、不安と恐れに包まれる。 どうなってしまうのか。耐えられるのだろうか。 果たして大丈夫だろうか? 決して大丈夫ではない。

 弟子たちとの別れ、この地上の歩みの終わり

 私たちも、愛する者と別れなければならないとしたなら、それを思うとつらくてたまりないでしょう。

 引き裂かれる。 大きな力によって引き裂かれる。

  病気、災害、戦争によって引き裂かれるとしたら、苦しくてたまらない。悲しみでいっぱいになることでしょう。

◎35節 

14:35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、

  この苦しみの時が過ぎ去るように祈られた。

 

★この杯

 この杯 それは苦難という杯、 十字架刑という杯

◎36節 

14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 この杯をわたしから取りのけてください。

 この杯を飲まなくて済むようにしてください。この杯は、あまりにも苦しいものです。この杯 捕らえられ、拷問を受けて殺される。

 昨年2月24日から始まったロシアによるウクライナへの軍事進攻、そして今なお続いている戦争 多くの尊い命が奪い取られた。

 その中には、敵によって捕らえられ、虐待され、拷問を受け、殺された人も決して少なくない。 人間の罪のゆえになすことの恐ろしさ

 非道の中で、苦しみを受けた多くの人たち、生き延びた人もいるが、その受けた苦しみはあまりに大きい。 その苦しみの中に命を奪われた人も多い。

 主イエスの語られた杯  それは苦しみの極み

 捕らえられ、虐待を受け、拷問を受け、最後は命を奪われる。 侮辱を受ける。 耐えられない苦しみ 人から罵倒される。 侮辱される、 唾を吐きかけられる。 鞭打たれる 非道の限りを受ける

 馬鹿にされる。 踏みつけられる。踏みにじられる。 すべてを否定される 

 どうして耐えられるでしょうか、決して耐えられない。

 

★主イエスは、その杯の苦しみをご存じであった。

 その苦しみをご存じであった。 それで、その杯を取りのけてくださいと願った。 その杯を飲まずにすむ道があるなら、その道にすすませてくださいと願った。

 その最後には、最も苦しい、苦しみの十字架刑にかからねばならない。その杯を飲まなくて済むようにしてくださいと

 

★切に訴えられた主イエス

◎36節

14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 アッバ、父よと訴えられた。

 天のお父様と 幼児が自分の父親に対して、全き信頼をもって語り掛ける言葉

 お父ちゃんという意味

 心から信頼して、主イエスは天の神様に呼びかけられた。

 アッバ、父よ。と

 

★三度祈られた。

 この杯を取り除いてください。

 この杯を飲まずに済むようにしてくださいと。 心から願った。

 私たちも、そう願うことがある。

  この杯、このことには大きな大変さが伴います。 

  私には荷が重いです。 この荷を担わないて済むようにしてくださいと

  私ではなく、他の人が担うようにしてくださいと。 とにかく私は勘弁してください。と それでやり過ごす道はないわけではない。 その杯を自分が飲まない分、他の人が飲むことになる。 私が担わなかった分、それを他の人が担うことになる。

 主イエスは、三度切に祈られた。

 この杯を取り除いてくださいと。

 十字架への道を避けさせてください。 十字架にかからない道を備え、そちらへ導いてくださいと。

 

★主イエスの最終の祈り

 主イエスの最終的に捧げた祈り

◎36節 

14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 すべてをゆだねる歩みへと 十字架に進む道

 神の御心 それは、主イエスが十字架につけられること

 十字架につけられ、命が取り去られる。

 そのたった一つしかない命,御子イエスの命

 罪が一つもないお方、罪のないお方 神の独り子なる主イエスの命

 その命の犠牲により

  すべての人の罪の身代わりとして。 

  私たち一人一人の罪の身代わりとして、主イエスの命が必要であった。

 人は、自分の罪の贖いをなすことはできない。

 それをなすとしたなら、自分の命の犠牲が必要。 それを犠牲として捧げたなら、もう命は残っていない。 すべてが終わる。

 この地上において、私たちの罪を赦すために、その罪の代価を主イエスはご自身の命をもって支払う。 そのことが、神の御心であるならば、そのようにしてください。

 主は、ご自身の思い、願いではなく、天の神様のみ思い、み旨、御心を選んでくださった。

 あなたの御心がなされますように、この私をとして御心がなされますようにとお祈りくださった。

 

★励まし、慰めの道

 励ましと慰めの道は備えられた。

 それは、一時的な励まし、慰めではない。

 変わることのない神の愛。 愛が注ぎ続けられている。

 あなたの罪は、すでに贖われた。 あの主イエスの十字架の死を通して。

 主は、私のために、あなたのために、十字架の道を選び取ってくださった。

 十字架への道を進んでくださったのです。 ハレルヤ!

 

 

4月 2日() 聖日礼拝 説教メモ

   「十字架につけられた主イエス」 マルコ福音書15章16-32節 

 

★棕櫚の聖日

 本日は、棕櫚の聖日

 主イエスが、ろばの子に乗って、エルサレムの町に入城された日

 馬に乗らず、ろばに乗っての入城

 ご自身を捧げるために、エルサレムに入って来られました。

  人々が棕櫚の葉を振り、「ホサナ」と叫ぶ中を入城された。

  ご自身は、このエルサレムで捕らえられ、十字架につけられることを予知しておられた。

  戦いの君ではなく平和の君として入って来られた。  

  神との平和をわたしたちに与えるために入城された。

 

★十字架の前の晩

  弟子たちとの最後の晩餐 弟子たちを最後まで愛された。

  その晩さんの前には、弟子たちの足を洗ってくださった。

   仕えることの大切さを教え、互いに仕え合うようにと教えられた。

  ゲッセマネの園での祈り

   ご自身を捧げる覚悟の祈り

   主の御心に自身をおゆだねします。捧げます。 

   十字架の道を選ばせていただきますとの祈り

   

★捕らえられた主イエス

 ゲッセマネの祈りが終わる頃に捕らえられた。 夜遅くの出来事。

 その後には、総督ピラトのもとでの裁判

  夜を徹しての裁判、強引な裁判 有罪判決が下される。

  何ら罪のなかった方が罪ありとされた。 なんとひどいことか。

  一睡もすることができなかった。

 

★堪えられないこと

 堪えられないことはいろいろあるとでしょう。

  おなかがすくこと 空腹 食べるものがない。

  ずっと休みなしに仕事をしなければならない。

  睡眠を取ることができない。

  痛みがある。 自由が奪われる。 苦しめられる。いじめを受ける。 

 一番堪えられないこと

  それは、人権を無視される。 侮辱される。

  自分自身が侮辱される、自分が大事にしているものが奪われる。踏みつけられる。 ずたずたにされることではないでしょうか。

 

★一番身を置きたくないこと

 苦しみの中に過ごす。

 孤独の中に過ごす。 一人ぽつんと置かれる。

 誰も理解してくれない。

 これからどうなるかわからない状況に身を置く。

 これから、事態はますます悪くなる。 

 

★主イエスは、まさにその一番堪えられないこと、一番身を置きたくないことを身に受けられた。

 私たちが堪えられないこと その一番堪えられないことを身に受けられた。

 身を置きたくないことを身に受けられた。 

 

★主イエスのご受難

 本日の箇所の一つ一つを心にとめたい。

 主の十字架な悩み、苦しみ

  わたしの身代わりとなって受けられた。

 

★兵士たちから受けられた侮辱

 ローマの兵士たちから受けられた。

◎16-20節

15:16 兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。

15:17 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、

15:18 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。

15:19 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。

15:20 このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。

 紫の服を着せられる。 マタイ福音書では、赤い服 

○マタイ27:28

27:28 そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、

王様のマントの代わり さんざんいたぶられた後に脱がされる。

いばらの冠  王様の冠の代わり

 鋭いいばら 2、3センチほどのいばら

  そのいばらをグサッと被らされる。どれほどの痛み

 ユダヤ人の王様、万歳と馬鹿にされる。

 葦の棒で叩かれる。 何度もたたかれる

 唾を吐きかけられる。 ひざまずいて拝む 馬鹿にする

 侮辱に侮辱を加えられる。 このような侮辱を誰が堪えられるでしょうか?

 主イエスは、その痛み、侮辱を堪えられた。

 

★十字架の途中にて

 一人の人が経験したこと

 その名は、シモン キレネ人シモン アレクサンドルとルフォスとの父

 離散したユダヤ人であったことでしょう。

 過ぎ越しの祭りを祝うためにエルサレムにやってきていた。

 十字架を担いでゴルゴダの丘に向かうイエス

 その主イエスの担ぐ十字架 とても重い。

 鞭打たれ血だらけになった体で担ぐ十字架

 誰も触りたくない その十字架を途中に担うことを命じられた。

 ローマ兵の命令 逆らうことができない。 なんと運の悪い、なんと嫌な、なんとみじめな なんということか なぜよりによってこの自分が担わねばならないのか。 シモンにとっては最悪の日、最悪の出来事

 私たちも、そのようなことに遭遇するかもしれない。

 なぜこの自分にこのようなことが こんな嫌な、こんな

 その日は、シモンにとっては最悪の日であった。

 そのシモン、途中十字架を背負わされた。 

  十字架を背負っていたイエスは、最後また十字架を背負わされた。 ずたずたになった体で そして、最後は磔(はりつけ)の刑

  そこで息を引き取られた。一番むごい苦しみの後に息を引き取られた。

 その日の出来事をシモンは決して忘れられなかったことでしょう。

◎21節

15:21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。

○ローマ16:13

16:13 主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。

 息子と同じ名前ルフォス その母

 もしシモンの子どものルフォスであったとしたら、子どもたちも妻も

 そしてシモン自身も、主イエスを信じる者になっていたと考えられる、

 最悪の出来事、最悪のことの中に身を置く

  こんなみじめな、これは最悪、 それが、主イエスとつながるときに、良きことに変わる。 主イエスの救いに与ることにつながることがあるのです。

 

★十字架につけられる

 ゴルゴタの丘に連れて行かれる。

 そこで、十字架につけられた。 時間は午前9時

 一睡もすることを許されず、体は鞭打たれズタズタ

◎21-32節 

15:22 そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。

15:23 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。

15:24 それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。

15:25 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。

15:26 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。

15:27 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。

15:28 (†底本に節が欠落 異本訳)こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。

15:29 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、

15:30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」

15:31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。

15:32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

 没薬のぶどう酒を飲まれなかった。

  痛みを少しででも和らげてやろうということで差し出されたぶどう酒

  それを飲まれなかった。 痛みをすべて受けられるために。

 両脇には、二人の強盗

  重い罪を犯した者が二人、両脇に十字架に その間に主イエス

  お一人ではなく、その二人と共に十字架刑 

  罪人の一人としてさらされて、十字架刑に処せられた。

 ののしり

◎29-30節 

15:29 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、

15:30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」

15:31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。

15:32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

 十字架から降りて自分を救ってみろ

 今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。

 他人は救ったのに、自分は救えない。 十字架刑 見世物にされた。

 そこに集まった者たち 通りかかった者たちからのののしり

 両脇に十字架刑につけられた二人からも浴びせかけられた。

 ののしられ、ばかにされる。 これほどの苦しみがあるだろうか?

 

★苦しみを受け、なおその苦しみに堪えられる主 

 罵りを受け、なおその罵りに堪えられる主イエス

○ヨハネによる福音書10:9-11

10:9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。

10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

 主イエスは、まさに良い羊飼い  羊のために命を捨てると

 罵りに対して罵り返さず。 罵りに堪えてくださった。

 十字架から降りては来られなかった。 天の軍勢をお呼びになることもなさらなかった。 十字架の上で、最後の歩みをなさった。

 

★私たちのためにその命を

 ひとえに私たちを救うためにその命を捧げてくださった。

 その十字架において受けられた苦しみ

 その受けられた嘲り、罵り、苦しみ

 それは、私たちの身代わりになっての嘲り、罵り、そして苦しみ

 主よ、感謝いたします。  ありがとうございます。

 

 

4月 9日() 聖日礼拝 説教メモ

   「あの方は復活なさって」  マルコによる福音書16章1-11節 

 

★平安

 穏やかに過ごすことの幸い 様々なことが起きる、いろいろな事柄に直面する

 その中で、振り回されることがある。 そのことで心が乱れる、疲れてしまう。 しかし、主にあって平安が与えられることは、大きな幸いです。

 

★失意落胆で終わらず

 時に、行き詰まり、失敗する、道が開かれない、道が閉ざされるとき、失意落胆する。 でも、失意落胆のままで終わらないように、主はしてくださる。

 道が開かれる、再び前に進むことができる。

 

★弟子たちは失意落胆した。

 主イエスの弟子たちは、失意落胆した。

 なぜなら、主イエスは捕らえられ、十字架につけられたから。

 そして、その命が奪われた。 主がお亡くなりなった。

 なんということか、すべての希望は失われた。

 

★主イエスの十字架の最後の場面

 十字架上での死 悲惨な死

 マルコ福音書では、 午後3時における叫び

◎マルコ15:33-39

15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

15:35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。

15:36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。

15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。

15:38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

 一番苦しい時、それは、神から見捨てられる。

 すべての希望が失われた時、絶望の叫び

 主イエスは、十字架の上で、私たちに代わって最も深い絶望を味わわれた。

 そして叫ばれた。 そして息を引き取られた。

 この世に遣わされることを良しとして受けとりおいでくださった主イエス。

 

 ルカ福音書では、最後、すべてを神の御手におゆだねする主イエスの姿

○ルカ23:44-56

23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。

23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。

23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。

23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。

23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

23:56 家に帰って、香料と香油を準備した。

 すべてをおゆだねして、命の終わりを迎えられた。

 

 ヨハネ福音書では、救いの御業を成し遂げられた主イエス

○ヨハネ19:28-30

19:28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。

19:29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。

19:30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 すべてが終わったのではなく、すべてが成し遂げられた。

 私たちすべての人間の救いの御業が成し遂げられた。救いの御業が完成した。

 感謝の祈りを捧げられた。

 

★十字架の後の弟子たち

 死後、亜麻布に包まれて、墓の中に葬られた。

 呆然とその場所を見つめる女性の弟子たち。

  マグダラのマリアとヨセの母マリア

○マルコ15:40-47

15:40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。

15:41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。

15:42 既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、

15:43 アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。

15:44 ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。

15:45 そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。

15:46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。

15:47 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。

 

★十字架から三日目の日の朝

 三日間が過ぎた。 十字架の死の翌日は土曜日、ユダヤ人にとっては安息日

 そして、その翌日の日曜日の出来事

女性の弟子たちが動き出した。

 せめて、ご遺体に香料を塗って差し上げたい。 香料を持って墓に向かった。

◎マルコ16:1-11 

16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。

16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。

16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。

16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。

16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。

16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。

16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

16:9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。

16:10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。

16:11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。

 

★困難なこと

 自分の力では困難、自分たちの力では困難なことがある。

 これだけはどうにもならない。 太刀打ちでいない。 無理だと思えることがある。 気持ちはないわけではない、でも、無理だろう。 無理だ。

 

★道は開かれた。

 女性の弟子たちが経験したこと

  それは、大きな石の扉が動かされていた。

  その日の朝に大きな地震があったことも関係しているかもしれない。

  天のみ使いがその大きな石を動かされたのかもしれない。

 とにかく、石の扉が開いていた。

 香料は持ってきたけども、中には入れない。 そこまでという予測。

 しかし、その予想は覆された。

  男性は数人でやっと動かせる重い石の扉が動かされた。しかも、その石の扉は動かされないようにと封印までされていたのに。

 主にあっては、開かないと思っている道も開かれる。

 心配なことがある。 これだけは無理かもしれない。

 とても無理だろう。 大きくのしかかる岩、目の前に見える大きな山

 飲み込まれそうだ。 しかし、主にあっては、道は開かれる。 そのことを心にとめて祈りつつ歩んでいきましょう。

 

★すべてを飲み込むもの

 火事によって家が飲み込まれる

 大津波によって、町が飲み込まれる。

 戦争によって、国が飲み込まれる。

 すべてを飲み込むもの その最大の敵は、死です。 死はすべてを飲み込む。

 私たちの命のすべてを飲み込む。 死の前には、私たちは無力です。

 

★復活の勝利

 私たちには、すべてが無力 死を前にして、すべては無力。 

 死が訪れた、すべてを奪って行った。 ただ、悲しみと無力感だけが残る。

 その死を打ち破る力 それは、主イエスご自身のみがお持ちである。

 復活の主であるイエスをほめたたえます。

 イースターのお祝い

  イースターエッグをお配りします。 ゆで卵です。

  そのもとになっている生卵 その卵が受精卵であれば、母鳥が温めれば、3週間ほどでしょうか、ヒヨコが生まれ出る。 命が誕生する。

  死を打ち破り、3日目に復活された主イエス。

  復活の主は今も生きておられる。

 その主を信じる者は、救いに与り、復活の主イエスと共に人生を歩むことができます。なんという感謝でしょう。

 

★あの方は復活なさって

 女性の弟子たちへのみ使いの御告げ

◎6-7節

16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。

16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

  あの方主イエスは復活された。

 死を打ち破られた。 誰も打ち破ることができなかった死 その死を打ち破られた。 復活なさったのだと告げられた。

 

★弟子たちは、エルサレムで復活の主に出会う。

 主イエスは、復活して弟子たちのもとに戻ってきてくださった。

 復活されたが、二度と戻っては来られなかったではない。

 弟子たちは大きな喜びを経験する。 失意落胆から引き上げられる。

 

★あなた方より先にガリラヤへ

 先にガリラヤへ

 弟子たちの生まれ故郷のガリラヤ、生活の場であったガリラヤ

 主は先に行かれる。 行き先に不安を覚える。どうなることか、心配になる。

 恐れを抱く私たち。 復活の主は、先に行かれ待っていてくださる。

 その所でも大丈夫だと。

 ガリラヤは生活の場 普段の生活の場である。

  日常生活の場で、復活の主と共に歩んでいくのです。

 

★マグダラのマリアの証し

 マグダラのマリアは、生きる光をいただいた人物 神の愛、神からの赦し

  その大きな恵みに生きる者になった。

  マリアは、十字架につけられる主イエスを最後まで見届けた。

   葬りにも立ち会った。 大きな悲しみも経験した。

◎9-10節 

16:9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。

16:10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。

 そのマリアは、復活の主に一番最初に出会った。

  そしてそのことを他の弟子たちに証しした。

 

★復活の主と共に

 私たちも復活の主を仰ぎ、復活の主と共に歩んでいきましょう。

 

 

 

 4月 23日() 聖日礼拝 説教メモ

 「主の貧しさによって豊かに」 コリントの信徒への手紙二8章1-15節

  

★初夏に向かう時

 今の季節、初夏に向かう時

 木々や作物が勢いを増すとき 山々の木々の緑が増すとき

 寒い冬の期間、土の中で待っていた種や球根から芽がふき出し、勢いを持って伸びていく。 木々の中にあった命が勢いを増して、葉を茂らすとき。

 今は、5月の連休を前に、山々の緑が濃くなり、つつじやサツキの咲き乱れる時

 

★その命が勢いを増す中にあって

 自然界における勢いの中で、私たちも支えられたい。

 その自然界の勢いを覚え、私たちも前に進むことができる者も多い。

 一方、自然界の勢いを感じつつ、他の人の前に進むときにあって、自分自身の歩みに不安を覚える時でもある。

 その歩みが守られますように。

 

★大変さ

 大変さを抱えることがある。

 急に押し寄せる大変さもあるでしょう。

 長い期間、大変さを抱える時もあることでしょう。

 大変さの中で歩む 大変さを抱えつつ歩む日常がある。

 

★激しい試練

 マケドニア州の諸教会の人たちは激しい試練を受けていた

 マケドニア州 フィリピ、テサロニケの教会

 厳しい迫害があった。 極度の貧しさがあった。

 前に進むことが困難、大変さの中にあった。

 そのような中に置かれたなら、どうでしょう。 普通、落ち込む、何もしたくない、なぜこのようなことにと悩み、沈む。

 

★マケドニア州の諸教会の歩み 

 その中にあって、輝いていた。

 沈み込んでいなかった。 もっと大変な方々を支えていた。

◎2-6節

8:2 彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。

8:3 わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、

8:4 聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。

8:5 また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、

8:6 わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。

 

○ローマ15:25-26

15:25 しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。

15:26 マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。

  * エルサレムの教会

  もっと大変な迫害、貧しさの中にあった。

  自分たちの教会を生み出すもとになってくれたエルサレムの教会

  エルサレムの教会の人たちが今苦しんでいる。  助けたい、励ましたい。

 

★普通ならばできないことをなした。

 自分たちは、激しい試練、貧しさにある。

 それ以上に大変な方々がいる。 支えてほしいという願いを受けても、どうしようもない。 自分のことで精いっぱいです。

 ところが、マケドニア州の教会の人たちは、違っていた。

 エルサレムの教会の人たちを覚え、祈り支えた。

 具体的な支援、献金をもって支えた、支え続けた。

8:2 彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。

  惜しまず施す豊かさ

8:4 聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。

  慈善の業と奉仕をなした。

 

★その中身

 満ち満ちた喜びの中に生きた。

 大変さの中にあって、生きる希望と力に満ちていた。 喜びが失せなかった。

 そこにこそ、今朝、私たちは目をとめたい。

 試練、苦しみ、大変さを経験する。 その中を通るとき、苦しむ。悩む。

  なぜ、どうして。 他の人はそうではないのにと考えてしまう。

 マケドニア州の教会の人たちは、内に喜びがあふれていた。

 それこそ、 幸いなこと。

 

★試練の時にあっても

 ことがうまくいくときは良い、そうでないとき、どう歩むか

  とにかく乗り越えるしかないと考える、頑張る。 しかし、その力には限界がある。 休息が必要、励ましが必要、・・ どうしたらよいのか

 マケドニア州の教会 フィリピ、テサロニケの教会の人たち

 そのような中にあっても、生きる希望と力を与えられていた。

 主なる神によって支えられた。 生きていくために、必要が与えられた。

  生きる希望と生きる希望の水が絶えず与えられていた。

  その水を命の泉から受けていた。

 主なる神によって、支えられ励まされた。

 

★慈善の業  

 慈善の業 普通は、大変な中にある人たちを助ける働きを意味する。

 そのようにして、私たちも支えられてきた。

 弱い時、乏しい時に支えられ、必要なものが与えられた。

  親によって、支えてくれる人たちによって。  それは大きな感謝

  あの時、あの期間、支えてもらった、支えていただいた。

 受けるだけでなく、その反対の歩みもなしていきたい。

 4節、6節の慈善の業 他の訳では

口語訳

8:4 聖徒たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、わたしたちに熱心に願い出て、

新改訳

8:4 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。

8:6 それで私たちは、テトスがすでにこの恵みのわざをあなたがたの間で始めていたのですから、それを完了させるよう彼に勧めたのです。

 恵みと訳されている 原語はカリス 神の愛によって与えられるもの

 慈善の業、その本質は神の愛の恵み

  その神の愛の恵みに生かされて歩んでいた。

 

★自分自身を捧げて

 マケドニア州の教会の人たち

 その神の愛の恵みを受け生かされた。 生きる力と希望をいただいた。

 主よ、感謝します。 その恵みに感謝します。 感謝にとどまらなかった。

 神の愛がこの私に注がれている、この自分たちに注がれている。

 感謝するだけで終わらなかった。

 具体的に、持っているもの、与えられているものを用いたい。

 自分たちだけのために用いるのは申し訳ない。

  どのように用いたらよいか? 神に尋ねたことでしょう。

 困難の中にあるエルサレム教会のために用いようと示され、それを実践した。

◎5節

8:5 また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので

 自分自身を献げた。私自身を献げます。あなたがこの私を見出してくださいました。 見出された者として、歩んでいきます。

 天の神様のご愛に感謝して歩んでいきます。

 

★主の貧しさによって豊かに

 予告を間違えました。 

 主は貧しさによって豊かにと予告してしまいました。 主は貧しさによってではなく、主の貧しさによってでした。

 豊かにされたのは、私たち自身です。 貧しくなられたのは、主ご自身です。

 貧しさを経験するとします。 貧しさというのは、乏しい、貧困、苦しみ、損

  それを経験する そのみじめさを味わう。 

  何とかそこから抜け出そう。 そんなみじめさは嫌だ。

  そこから抜け出す。貧しさが解消され豊かに、裕福に

  そのような道があります。ストーリがあります。

  その人の苦しみ、頑張り、運、その他によって上っていく。

 それを追い求めて、人生を進む。

 二度と貧しさは経験したくない。 豊かさの中に生きるのだと考えてしまう。

 

★貧しさを憐れんで助けてくれる人

 自分の頑張りでは限界

 貧しさの中にある自分を覚えて励ましてくれる存在、それはありがたい。

 それは、親であり、友である。

 祈りの友である。 支え励ましてくれる存在はありがたい。

 

★その貧しさを一番よくご存じのお方は主ご自身です。

 わたしの貧しさ 私自身の一番貧しいところ、弱いところ

 心の底にある深い悩み、苦しみ、そしてそこにある闇をご存じであるお方

 主御自身 主は、そのことをご存じで、憐れんでくださるお方です。

 

★主は私たちのもとにおいでくださった。

 神を認めず、神の背を向けて歩んでいた私たち。

 そして、ますます闇の中に進んでしまっていた私たち

 その闇から抜け出すことができなくなっていた私たちのもとに主はおいでくださった。 神のもとから、この世においでくださった。

◎9節

8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

 主は富んでおられたのに、わたしたちのために貧しくなられた。

 

○フィリピ2:6-8

2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、

2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、

2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

自分自身を捨ててくださった。 僕の身分になってくださった。

 神であられた方が人となってくださった。

へりくだって、死に至るまで、十字架の死に至るまで従順であってくださった。

私たちの罪を贖うために。 救いのために歩んでくださった。

 キリストの命の犠牲によって、罪の赦しを与える。

 主は豊かであられた。その豊かさをお捨てくださった。

 私たちを贖うために。 私たちの罪を赦し、神の子どもとするために。  

 

 

 5月7日() 聖日礼拝 説教メモ

 

 「豊かに蒔き、豊かに刈入れる」 

                                       コリントの信徒への手紙二9章1-15節

     

★熱意

 何かに熱心になって取り組む そこに心を向ける

 自分の関心事、自分のやりたいこと 燃える心を持って事に当たる

 その熱意は、それに触れる人に伝わる。

 

★コリント教会の熱意

 それはまずアカイア州にあったコリントの教会に人たちに与えられた。

 エルサレム教会に人たちが困窮の中になる。 エルサレム教会の人たちを支えよう、励まそう。 祈りをもって覚える。具体的に献金、募金を集め、支えよう。 

 エルサレム教会の祈りがあり、そこから散らされてきたクリスチャン、また使徒パウロを通しての伝道により、自分たちコリントの教会が誕生した、

 母なる教会のエルサレム教会を支えよう。自分たちのできることをしよう。

 

★その熱意は伝わった。 

 その熱意は、マケドニア州の教会の人たちに伝わった。

◎1-2節

9:1 聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません。

9:2 わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです。

 マケドニアにあるベレア、テサロニケ、フィリピにある教会の人たちの心に伝わった。

 自分たちの教会が生み出された元になってエルサレム教会

  その教会が困難の中になる。 何とか支えたい。助けの手を伸ばしたい。

 マケドニアの教会の人たちは、祈りを捧げ、具体的に献金、募金を集めた。

 マケドニア教会の熱心となっていった。

 

★コリント教会に対して、使徒パウロの問いかけと励まし

 最初の熱心さ それを継続していますか?

◎3-4節

9:3 わたしが兄弟たちを派遣するのは、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りが、この点で無意味なものにならないためです。また、わたしが言ったとおり用意していてもらいたいためです。

9:4 そうでないと、マケドニア州の人々がわたしと共に行って、まだ用意のできていないのを見たら、あなたがたはもちろん、わたしたちも、このように確信しているだけに、恥をかくことになりかねないからです。

  マケドニアの教会の人たちに、あなたたちのことを誇った。

 その熱心が途中で息切れしたり、途絶えたりしていることはないですかと

 マケドニア教会の人たちに失望させないように。

 

★熱心さは冷えることもある。

 最初は熱心であったのに、いつの間にか、その熱心さが衰えてしまうことがある。 長続きしないことも起こる。 コリント教会の人たちへの問いかけ

 

★最初の約束

 コリント教会の人たちの約束 約束した贈り物

 これこれの献金、募金をしようと決めた。 それが、途中で少し怪しくなった。 

 その熱意を知り、マケドニア州の人たちも熱意を持った。

 マケドニア州の人たちにも、その献金、募金を見てもらいたい。

◎5節

 9:5 そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました。渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。

 最初の約束の贈り物を確かにしてもらうために、この兄弟たちを先に送ります。

 

★祈りと献金

 困難の中にあったエルサレム教会のことを覚えて祈る、必要を覚えて献金する。 エルサレム教会を何とか支えたい。励ましたい。

 祈りと献金は、神によって示され、自発的に起こったもの。

 神が今このことのために、自分を、自分たちに働きかけておられる。 神からの語り掛け

 自分たちを愛して、救いへと招いてくださった天の神さま

 その神の愛によって、救いへと導かれた。

 神の愛に生かされて今、自分たちは感謝のうちに歩んでいる。 その神の愛に応答したい。 具体的には、エルサレム教会の人たちの必要が満たされるために、自分たちに与えられているものの一部を捧げたい。捧げよう。

 

★祈りと献金の原点は、主への感謝の応答

 主が自分たちを神の子どもにしてくださった。

  かつては、真の神を知らず、むなしく歩んでいた。さまよっていた。

  その自分を主は目をとめてくださった。

 かつては、滅びに向かっていた。 その自分を憐れんで、救いへと招いてくださった。 主よ、あなたのうちにあって生きる者となりました。 主にあって、平安の中に生きる者とされました。

 主よ、感謝します。 あなたの愛と憐れみに感謝します。

 感謝をもって歩みます。 自分はどのように歩んでいったら良いでしょうか?

 自分に与えられている人生、その歩む、その与えられているもの、賜物、持ち物も含むそれらのものを主の御心に沿って用いたいと考えた。

 

★人から強制されるものではない。   

 人が誰かに祈りを強制する、献金を強制する。 それは根本的に間違っている。 偽りの宗教 人の心を支配する。その宗教の教え、その宗教で、そこに働く人たちが、人の心を支配し、誘導して、祈りを捧げさせる、献金を捧げさせる。 その人の大切な思いを、大切な持ち物を吸い上げる それは大きな間違いであり、偽り。 その人はいつの間にか、それに支配され、だまされ、心と持ち物を支配される。  そうしなければならない、そうしなければ、自分と家族、祖先が苦しむことになると教え込ませされる。 それは偽り。

 その人の心とその人の持ち物は、その人のもの その人自身が自由に、用いて良いもの その人自身のために感謝して、自由に用いて良いもの

 

★喜んで与える、惜しまず施す

 心から与える、惜しむことなく大切なものを与える。

 それは輝いた姿 そこには感謝と喜びがある。 心からそうしている。 相手のために、その人のために そうすることが喜び、そうしたくてたまらない。

◎7節

9:7 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。

 喜んで与える。 自分の持っているものを相手に与える。

  料理の賜物 それを用いておいしいものを作る それを食べてもらう。 

  音楽の賜物 演奏、歌をもって素晴らしい音楽、歌声を聞いてもらう。

  自分の持っている持ち物 それを喜んで与える。

  自分が愛してやまない人、自分の子ども、自分の孫に、自分の友人に、出会った人、誰かのために 喜んで与える人を神は愛してくださる

  自分で決めた通りにしなさい。

◎11節 

9:11 あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。

 惜しまず施す 自分が持っているもの、持ち物、お金を心から喜んで用いてもらう。

 世界で大金持ちを呼ばれる人たちがいる。 一生かかっても到底使いきれない、それをますますため込む人もいる一方、その多くを慈善事業のために惜しげもなく、用いる人たちもいる。 貧困、病気の人たちのために大切な社会事業のために、惜しまず施す人もいる。 自分にこれだけの多くのものが与えられた、自分は稼いだ。 そのことの感謝の応答として

 神のみ救いに与り、助けをいただいた。

  そして、特別に多くのものを与えられた、多くのものを持つ身とされた。

  神がこの私を顧みてくださった。 主よ,感謝します。

  この与えられているものをどのように用いたら良いでしょうか?

  主に問いかける。 主によって示される。 このために用いよう。 

  自分のために、自分の名誉のために、自分を誇るために、用いる者もいないわけではない。 人のものを奪い取って、自分がますます豊かになろうとする者がいないわけではない。

 一方、良いものに富む者にしてくださったのは、天の神さまだ。 

 その神さまに感謝する。そして、神様に喜んでいただくべく、与えられているものを用いる。 用いたいと願い、実際にそのように用いる。

 

★永遠に続くもの

 永遠に続くもの、永遠に残るものを打ち立てたいと願う。 

 そのことは可能であるか?

◎8-9節  

9:8 神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。

9:9 「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。

○詩編119編9節の御言葉の引用 

112:9 貧しい人々にはふるまい与え その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。

○口語訳

112:9 彼は惜しげなく施し、貧しい者に与えた。その義はとこしえに、うせることはない。その角は誉を得てあげられる。

○新改訳

112:9 彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠に堅く立つ。その角は栄光のうちに高く上げられる。

 永遠に残るものは何であるのか

 それは、自分のためになしたことではない。 自分の名誉を誇るためにどんなに立派な記念碑を立てても、それはいつか忘れ去られる、朽ちてしまう。

 いつまでも残るものは、貧しい人のために、困難な人のためになすことである

 

★惜しむ心

 惜しむ心が起きる。 計算してしまう。 ここでこれだけ用いたら、その分減ってしまう。 この心は、通常起きる心。計算する心 ここでこれだけ用いたらその分減ることになる。

 セーブする。 これ以上は用いない。 放出しない、放出したらその分減ってしまう。

 貯水池、ダムに水をためる。 

 それをいっぺんに放出してしまったら、確かに、なくなってしまう。だから、計画的に、よく考えて放出することは必要なこと。

 自分の持ち物に関しても、時にブレーキがかかる。 これを今大きく用いたら、減ってしまう。 今これだけ用いることは勿体ないと思う。 

 

★惜しまない心

 今あるこの水を、必要としている土地のために、人のために放出する。

 今こそ用いるべき時だと判断したなら、一気に放出する。 そのことで、乾ききった大地が潤う、飲み水が届く。 

 その人を助けるために、その人たちを助けるために用いるのだ。 心を定めて、存分に用いる。

 自分の持ち物が減るといったことは考えない。今この必要のために。

 貯水池、ダムも、一気に減ったとしても、やがてしばらくすると天からの雨、注ぎ込む川からの水で満たされて来る。

 

★神のご支配

 神は必要を与えてくださるお方

○マタイ6:25-32

6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。

6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。

6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。

6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。

6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

神は必要をご存じで、備え与えてくださる。

9

9:10 種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。

 必要の種を与えてくださる神さま 

  その必要の種を与えてくださる。 蒔くための種を与えてくださる。

  実を成長させてくださる。 天からの雨、太陽の光を注ぎ、その種からの芽を成長させ、実を成長させ、必要を満たしてくださる、

 

★慈善の奉仕の結果

 エルサレム教会を覚え祈り、献金、募金を捧げる。

 大切のものを用いる。 その恵みを受けたエルサレム教会の人たちは、助けられた。

 アカイア州にあるコリント教会、マケドニア州にあったベレア、テサロニケ、フィリピ教会の人達に感謝すると同時に、神をほめたたえた。 神に感謝した。

 そして、エルサレム教会の兄弟姉妹は、コリント教会のために、ベレア、テサロニケ、フィリピ教会のために祈った。

◎12-15節

9:12 なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。

9:13 この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。

9:14 更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。

9:15 言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。

  神の祝福が豊かにあるようにとお祈りした。

  

★豊かに蒔き、豊かに刈入れる。

 種を惜しみ少しだけ蒔く 刈入れは少し

 種が減ってしまう。出し惜しみして少しでしか蒔かない。 すると種は手元に多く残るけども、収穫は少し。

6節 

9:6 つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。

 種を惜しみなく蒔く。手持ちの種は減る、ほんの少しになる。

 しかし、その種が芽を出し、大きく成長してたくさんの収穫を手にする。

 惜しまず蒔きなさい。  

 神に期待して惜しまず蒔きなさい。神はその信仰に応えてくださるお方です。

  収穫を豊かに与えてくださる、刈入れも豊かにすることができる。

 神に感謝して、神に信頼して、喜びをもって捧げる時に、神は応えてくださる。

 箴言にはこのような御言葉もある。

○箴言22:9

22:9 寛大な人は祝福を受ける 自分のパンをさいて弱い人に与えるから。

 主イエスは、弟子たちに語られた。

○ルカによる福音書6:38

6:38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。

 無理をしてではなく、神への感謝をもって、神の愛に応答して行動しなさい。

  特に他の人に対して、心を用いなさいと。

 豊かに蒔き、豊かに刈入れる者として、ありなさい。

  主の語り掛けと主の約束。

 

 

 

 5月14日() 母の日歓迎礼拝 説教メモ

    「母ハンナの祈り」      サムエル記上2章1-10節 

 

★母の日

 本日は母の日です。 母に感謝したいと思います

 母によって育てられた、母から愛情を注がれた。 母に守られた。

 今も母が健在であるならば、母に直接感謝を伝えましょう。

 既に、この地上にはいないならば、心の中で、母に感謝を伝えましょう。

  主を信じる者は、母親が与えられたことを主に感謝しましょう。

 

★カーネーション

 母の日のカーネーション

○赤色のカーネーションの花言葉

 赤色のカーネーションの花言葉には、「母への愛」や「熱烈な愛」、「愛を信じる」というものがあります。

○ピンク色のカーネーションの花言葉

 ピンク色のカーネーションには、「温かい心」や「感謝」、「気品・上品」や「美しい仕草」といった花言葉があります。

○白色のカーネーションの花言葉

 清楚なイメージのある白色のカーネーションには、「純潔の愛」や「尊敬」、「あなたへの愛情は生きている」といった花言葉があります。

 愛や尊敬のあるポジティブな意味が含まれている一方で、白色のカーネーションは「亡き母を偲ぶ花」とも言われています。

 

★母の役割

 子どもを生み出す。 その子どもを守り育てる。 子どものために多くの時間を用いる、 愛情を注ぐ。 母が子どもを見る目 それは優しく、慈しみに満ちている。

 共働きの家庭も多くなった。 仕事をしながら、子育てをする。

 子どもが小さい時は、保育園、幼稚園に預ける。 子どもが小学校に通い出す。 今は給食がある。 以前は、毎日お弁当作り。 遠足、運動会の時には、特別においしい弁当を作る。 家族のために、多くの時間を用いる。 食事作り、洗濯、布団干し、・・・  父親も愛情を子どもに注ぐけれど、母親としての特別な愛情を注ぐ。

 

★本日の主人公ハンナ

 サムエル少年の母となったハンナ 預言者サムエルは、母親のハンナに愛された。 小さい時に祭司エリのもとに預けられた。

 母ハンナは、幼い少年サムエルのために上着を縫い、サムエルに届けた。

○2:18-19 

 サムエルは大きくなっても、母ハンナの手作りの上着が届けられ、それを着ていたことを思い出したことでしょう。

 私たちにも、そのような思い出があるのではないでしょうか?

 あの時母があの料理を作ってくれた。 あのおいしかった弁当 あの服を手作りで作ってくれた。あの服を、あのバックを作ってくれた。買ってきてくれた。

 

★ハンナの悲しみ

 つらい経験 それは、サムエルが誕生する前。 夫エルカナには、その当時、二人の妻がいた。 一人は、ハンナもう一人はペニンナ

 ペニンナには、多くの子どもが誕生した。 ハンナには、一人もいなかった。

○1:1-18

 ペニンナに苦しめられる

 あら、あなたには子どもがいないのね、 神さまの祝福が注がれていないみたいね。そのように言われたかもしれない。

  夫エルカナに愛されていることはわかっても、もう一方に妻ペニンナには次々と子どもが与えられるのに、自分には与えられない。

  自分は、神さまから祝福を注がれていないのではないか。

  神さまからの愛はほんの少ししか注がれていないのではないか。

 毎年、主の家に上り捧げものをするときに、特にそのことを感じる。

 ペニンナの意地悪な言葉で余計に傷ついていた。 もうたまらない、涙を流しつつ、祈っていた。どうしてなのですか? なぜ、私には子どもが授からないのですか? 長く祈っていた。 祭司エリの言葉 ハンナの言葉

  ハンナの心は痛んでいた。 ただその悲しみを主に祈り訴えた。

  子どもを授けていただけるなら、・・ ハンナは長い期間、悲しみを抱えていた。

 

◎19-20節

 サムエルが与えられた。 母となったハンナの喜び、感謝

1:19 一家は朝早く起きて主の御前で礼拝し、ラマにある自分たちの家に帰って行った。エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を御心に留められ、

1:20 ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。

◎21-28節

 ハンナは神さまへの約束を守った。

 子どもを与えてくださいと熱心に祈り、その祈りが聞かれたら、主に祈ったことを忘れる女性ではなかった。 与えられたなら、主に捧げます。

 主の御用のために、仕える者とさせますという祈りの時の言葉を忘れなかった。 祭司エリのもとにサムエルを預け、そこで育つようにした。

  

★つらさ、悲しみからの解放

 ハンナは、もはやつらさ、悲しみの中に留まっていなかった。

 つらさ、悲しみから解放された。 喜びの中に置かれた、感謝の中に置かれた。 喜び、感謝を持って生きる者になった。

 持っていない者から持つ者になったということも当然あるでしょう。

 しかし、それが中心では決してない。 主なる神が祈りを聞いてくださった。

 つらさ、悲しみの中からの祈りに応えてくださった。

 主は生きておられ、働いてくださった。 この私は見捨てられなかった、顧みていただいた。そのことで、主をほめたたえた。

 

★母ハンナの祈り

 サムエルの母となったハンナの祈り

 喜び、感謝の祈りであった。 主への賛美であった。

 

★主による逆転

①上から下へ、上にある者は下に

*驕り高ぶり、高ぶり、思い上がり

 自分が立派だと思う、それを誇る 自分は何でもできると考える、どんなものだと考える。

◎3節

2:3 驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神 人の行いが正されずに済むであろうか。

 *勇士

◎4節前半 

2:4 勇士の弓は折られる

   勇士の弓 弓がある、武器を持っている、資金をたくさん持っている。

  軍事力は大いにある。 それをもって、そうでない者に襲いかかる。

  人間的に見れば、圧倒的な武器、資金、軍事力がある。

  それらは、折られる。それらのものは取り去られる。 それらを失う。

*主に逆らう者

 人を苦しめる。 自分の思い通りに人を扱う。 その人の持っているもの、大切にしているものを踏みにじる  それは、主が望まれていることではない。

◎9節後半

2:9主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。

  主の御心を無視し、自分の思い通りに事をなす。他の人を、他の国を苦しめる。 それは主に逆らうこと

◎10節前半 

2:10 主は逆らう者を打ち砕き 天から彼らに雷鳴をとどろかされる。

 主に逆らう者は闇の沈黙に落とされる。 逆らう者は打ち砕かれる。

 

②下から上へ 下にあるものは引き上げられる

◎1節

2:1 ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び 主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き 御救いを喜び祝う。

◎口語訳

2:1 ハンナは祈って言った、「わたしの心は主によって喜び、わたしの力は主によって強められた、わたしの口は敵をあざ笑う、あなたの救によってわたしは楽しむからである。

 主なる神は、喜ぶことのできる者にしてくださった。

 口を大きく開ける者にしてくださった。元気を与えられ笑うさま

 主の救いを喜び祝う者とさせてくださる。

 ハンナの時代 主なる神がこの自分を守り、助けてくださった。

 今の時代 主イエスによる罪の赦し、神との断絶が取り除かれた。

  神の子どもとされた。これこそが感謝。

◎4節後半

2:4よろめく者は力を帯びる。

力を失いよろめく 力を失っている者 その者に力を与えてくださる。

◎6節 

2:6 主は命を絶ち、また命を与え 陰府に下し、また引き上げてくださる。

 命を失う、希望を失う、闇の中に沈む そこから希望を与えられる。

 陰府に下る 最も暗いところ、希望のないところ そこに沈んでいくこの身 その身を引き上げてくださった。沈んでいったらそれでおしまい。そこから引き上げてくださるお方

7

 2:7 主は貧しくし、また富ませ 低くし、また高めてくださる。

 貧しくされる 低くされる

 多くを持っていたのにそれを失う。なんということかと苦しむ。落ち込む、沈みこむ。そこから、もう一度富ませてくださる

 低くされる、高いところから低いところへ ああなんということかと思ってしまう。

  そこから、再び引き上げ高くしてくださる。

  前のように見えるところで富み、見えるところで高くということではない。

  主のご支配の中で、そのことを心にとめて歩む。生きる。

◎8節

2:8 弱い者を塵の中から立ち上がらせ 貧しい者を芥の中から高く上げ

 弱い者 なんと力がないことか、嘆き

  その者を塵の中から立ち上がらせてくださる。

 貧しい者、乏しい者 その者を芥の中から高く上げてくださる。

◎9節前半

2:9 主の慈しみに生きる者の足を主は守り

◎口語訳

2:9 主はその聖徒たちの足を守られる、

主と共に生きる者の足を守ってくださる。

◎10節後半

2:10王に力を与え 油注がれた者の角を高く上げられる。」

 主によって立てられた王に力を与えてくださる。

 王、預言者、祭司 特別な働きのために選ばれた者 それらのものを高く上げてくださる。

 

★母ハンナの祈り

◎1-2節

2:1 ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び 主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き 御救いを喜び祝う。

2:2 聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。

 ハンナは、子どもサムエルを与えてくださった主は、この子の母となった自分を守り助けて共に歩んでくださるお方。

 この子を守り助け、共に歩んでくださいと祈り続けたことでしょう。

 

 

5月14日() 母の日歓迎礼拝 説教メモ

    「母ハンナの祈り」      サムエル記上2章1-10節 

 

★母の日

 本日は母の日です。 母に感謝したいと思います

 母によって育てられた、母から愛情を注がれた。 母に守られた。

 今も母が健在であるならば、母に直接感謝を伝えましょう。

 既に、この地上にはいないならば、心の中で、母に感謝を伝えましょう。

  主を信じる者は、母親が与えられたことを主に感謝しましょう。

 

★カーネーション

 母の日のカーネーション

○赤色のカーネーションの花言葉

 赤色のカーネーションの花言葉には、「母への愛」や「熱烈な愛」、「愛を信じる」というものがあります。

○ピンク色のカーネーションの花言葉

 ピンク色のカーネーションには、「温かい心」や「感謝」、「気品・上品」や「美しい仕草」といった花言葉があります。

○白色のカーネーションの花言葉

 清楚なイメージのある白色のカーネーションには、「純潔の愛」や「尊敬」、「あなたへの愛情は生きている」といった花言葉があります。

 愛や尊敬のあるポジティブな意味が含まれている一方で、白色のカーネーションは「亡き母を偲ぶ花」とも言われています。

 

★母の役割

 子どもを生み出す。 その子どもを守り育てる。 子どものために多くの時間を用いる、 愛情を注ぐ。 母が子どもを見る目 それは優しく、慈しみに満ちている。

 共働きの家庭も多くなった。 仕事をしながら、子育てをする。

 子どもが小さい時は、保育園、幼稚園に預ける。 子どもが小学校に通い出す。 今は給食がある。 以前は、毎日お弁当作り。 遠足、運動会の時には、特別においしい弁当を作る。 家族のために、多くの時間を用いる。 食事作り、洗濯、布団干し、・・・  父親も愛情を子どもに注ぐけれど、母親としての特別な愛情を注ぐ。

 

★本日の主人公ハンナ

 サムエル少年の母となったハンナ 預言者サムエルは、母親のハンナに愛された。 小さい時に祭司エリのもとに預けられた。

 母ハンナは、幼い少年サムエルのために上着を縫い、サムエルに届けた。

○2:18-19 

 サムエルは大きくなっても、母ハンナの手作りの上着が届けられ、それを着ていたことを思い出したことでしょう。

 私たちにも、そのような思い出があるのではないでしょうか?

 あの時母があの料理を作ってくれた。 あのおいしかった弁当 あの服を手作りで作ってくれた。あの服を、あのバックを作ってくれた。買ってきてくれた。

 

★ハンナの悲しみ

 つらい経験 それは、サムエルが誕生する前。 夫エルカナには、その当時、二人の妻がいた。 一人は、ハンナもう一人はペニンナ

 ペニンナには、多くの子どもが誕生した。 ハンナには、一人もいなかった。

○1:1-18

 ペニンナに苦しめられる

 あら、あなたには子どもがいないのね、 神さまの祝福が注がれていないみたいね。そのように言われたかもしれない。

  夫エルカナに愛されていることはわかっても、もう一方に妻ペニンナには次々と子どもが与えられるのに、自分には与えられない。

  自分は、神さまから祝福を注がれていないのではないか。

  神さまからの愛はほんの少ししか注がれていないのではないか。

 毎年、主の家に上り捧げものをするときに、特にそのことを感じる。

 ペニンナの意地悪な言葉で余計に傷ついていた。 もうたまらない、涙を流しつつ、祈っていた。どうしてなのですか? なぜ、私には子どもが授からないのですか? 長く祈っていた。 祭司エリの言葉 ハンナの言葉

  ハンナの心は痛んでいた。 ただその悲しみを主に祈り訴えた。

  子どもを授けていただけるなら、・・ ハンナは長い期間、悲しみを抱えていた。

 

◎19-20節

 サムエルが与えられた。 母となったハンナの喜び、感謝

1:19 一家は朝早く起きて主の御前で礼拝し、ラマにある自分たちの家に帰って行った。エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を御心に留められ、

1:20 ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。

◎21-28節

 ハンナは神さまへの約束を守った。

 子どもを与えてくださいと熱心に祈り、その祈りが聞かれたら、主に祈ったことを忘れる女性ではなかった。 与えられたなら、主に捧げます。

 主の御用のために、仕える者とさせますという祈りの時の言葉を忘れなかった。 祭司エリのもとにサムエルを預け、そこで育つようにした。

  

★つらさ、悲しみからの解放

 ハンナは、もはやつらさ、悲しみの中に留まっていなかった。

 つらさ、悲しみから解放された。 喜びの中に置かれた、感謝の中に置かれた。 喜び、感謝を持って生きる者になった。

 持っていない者から持つ者になったということも当然あるでしょう。

 しかし、それが中心では決してない。 主なる神が祈りを聞いてくださった。

 つらさ、悲しみの中からの祈りに応えてくださった。

 主は生きておられ、働いてくださった。 この私は見捨てられなかった、顧みていただいた。そのことで、主をほめたたえた。

 

★母ハンナの祈り

 サムエルの母となったハンナの祈り

 喜び、感謝の祈りであった。 主への賛美であった。

 

★主による逆転

①上から下へ、上にある者は下に

*驕り高ぶり、高ぶり、思い上がり

 自分が立派だと思う、それを誇る 自分は何でもできると考える、どんなものだと考える。

◎3節

2:3 驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神 人の行いが正されずに済むであろうか。

 *勇士

◎4節前半 

2:4 勇士の弓は折られる

   勇士の弓 弓がある、武器を持っている、資金をたくさん持っている。

  軍事力は大いにある。 それをもって、そうでない者に襲いかかる。

  人間的に見れば、圧倒的な武器、資金、軍事力がある。

  それらは、折られる。それらのものは取り去られる。 それらを失う。

*主に逆らう者

 人を苦しめる。 自分の思い通りに人を扱う。 その人の持っているもの、大切にしているものを踏みにじる  それは、主が望まれていることではない。

◎9節後半

2:9主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。

  主の御心を無視し、自分の思い通りに事をなす。他の人を、他の国を苦しめる。 それは主に逆らうこと

◎10節前半 

2:10 主は逆らう者を打ち砕き 天から彼らに雷鳴をとどろかされる。

 主に逆らう者は闇の沈黙に落とされる。 逆らう者は打ち砕かれる。

 

②下から上へ 下にあるものは引き上げられる

◎1節

2:1 ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び 主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き 御救いを喜び祝う。

◎口語訳

2:1 ハンナは祈って言った、「わたしの心は主によって喜び、わたしの力は主によって強められた、わたしの口は敵をあざ笑う、あなたの救によってわたしは楽しむからである。

 主なる神は、喜ぶことのできる者にしてくださった。

 口を大きく開ける者にしてくださった。元気を与えられ笑うさま

 主の救いを喜び祝う者とさせてくださる。

 ハンナの時代 主なる神がこの自分を守り、助けてくださった。

 今の時代 主イエスによる罪の赦し、神との断絶が取り除かれた。

  神の子どもとされた。これこそが感謝。

◎4節後半

2:4よろめく者は力を帯びる。

力を失いよろめく 力を失っている者 その者に力を与えてくださる。

◎6節 

2:6 主は命を絶ち、また命を与え 陰府に下し、また引き上げてくださる。

 命を失う、希望を失う、闇の中に沈む そこから希望を与えられる。

 陰府に下る 最も暗いところ、希望のないところ そこに沈んでいくこの身 その身を引き上げてくださった。沈んでいったらそれでおしまい。そこから引き上げてくださるお方

7

 2:7 主は貧しくし、また富ませ 低くし、また高めてくださる。

 貧しくされる 低くされる

 多くを持っていたのにそれを失う。なんということかと苦しむ。落ち込む、沈みこむ。そこから、もう一度富ませてくださる

 低くされる、高いところから低いところへ ああなんということかと思ってしまう。

  そこから、再び引き上げ高くしてくださる。

  前のように見えるところで富み、見えるところで高くということではない。

  主のご支配の中で、そのことを心にとめて歩む。生きる。

◎8節

2:8 弱い者を塵の中から立ち上がらせ 貧しい者を芥の中から高く上げ

 弱い者 なんと力がないことか、嘆き

  その者を塵の中から立ち上がらせてくださる。

 貧しい者、乏しい者 その者を芥の中から高く上げてくださる。

◎9節前半

2:9 主の慈しみに生きる者の足を主は守り

◎口語訳

2:9 主はその聖徒たちの足を守られる、

主と共に生きる者の足を守ってくださる。

◎10節後半

2:10王に力を与え 油注がれた者の角を高く上げられる。」

 主によって立てられた王に力を与えてくださる。

 王、預言者、祭司 特別な働きのために選ばれた者 それらのものを高く上げてくださる。

 

★母ハンナの祈り

◎1-2節

2:1 ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び 主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き 御救いを喜び祝う。

2:2 聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。

 ハンナは、子どもサムエルを与えてくださった主は、この子の母となった自分を守り助けて共に歩んでくださるお方。

 この子を守り助け、共に歩んでくださいと祈り続けたことでしょう。

 

 

5月21日() 聖日礼拝 説教メモ

   「神に由来する力で」  コリントの信徒への手紙二10章1-11節 

 

★夏に向かって進む。

 春を経て初夏、野菜や果物が育つ。

  梅の実やスモモの実が育ってゆく。サクランボ、桃、ぶどう、スイカ、・・

 実がこれから少しずつ大きくなり、熟れてゆく

 農作物もこれからは育つ時

  きゅうり、トマト、ナス、ピーマン、トウモロコシ、・・

 ヒバリが巣を作り、卵を産み、ひなが誕生する。 自然界はそのような時期  

 夏に向けて、個人においては

  夏の活動、仕事、・・

  教会においては、弾圧受難記念礼拝、地区講壇交換礼拝、西南夏期聖会、召天者合同記念礼拝、・・

 

★何かを推し進めていく。

 季節の中で、なすべきことがある。

  やらなければならない仕事があり、やって来る行事があり、

 そこに身を置いて、なすべきことをなしていく。

 流れの中で事が自然に進むこともある。

 一方、馬力をかけなければ進まないこともある。

 

★生きるということ

 日々の中で経験する喜びがある。

 朝のさわやかな光、心地良い風、おいしい食事、・・ 感謝だなあと思う。

 それでも、その日の体調によっては、嬉しいと思い、反対にだるいと感じる。

 生きるということは、目の前の課題に対してどうするかを考えなければならない。 どう対処するか、どう決断するか?

 さっと対処できることもあり、なかなか対処できないこともある。

 学校に元気よく行けることもあり、なかなかその元気が出ないこともある。

 行けていたのに、行けなくなることもある。

 学校のテストを控え、よし準備しようと思うこともあり、ああいやだなと思うこともある。

 取り組まなければならない仕事、課題に対して、前向きに心を向ける時もあり、その仕事、課題の大変さがのしかかってくることもある。

 自分自身においても、何の悩み、煩いもなく進める時もあるし、その反対の時もある。

 

★使徒パウロはどのような人であったのか?

 偉大な人、大きな仕事をした人、多くの働きをした人 異論はないのではと思う。 偉大な伝道者、宣教者であった。良き指導者であった。

 そのような素質も持っていたとも思われる。

 パウロは、コリント教会を生み出し、その教会に今、手紙を書いている。

 コリント教会の兄弟姉妹が、神の愛に生かされ、御心にかなって進んでいけるように、心から祈り、取り組んだ。

 

★そのパウロに対する評価は様々であった。

 評価が良いと気持ち良い。ああよい評価がなされているなあ、感謝だなあ。

 ますますこの道を進んで行こうかと思う。

 その反対だと、どうでしょう?  ああショックだなあ、どうしてなのだろう。これはどうしたことか、 何が問題なのか、これからそうしたらよいのかと悩む。思い煩う。

◎1-2節

10:1 さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。

10:2 わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています。

◎10-11節

10:10 わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。

10:11 そのような者は心得ておくがよい。離れていて手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはありません。

 パウロという人も、そのように評価されたことがあったのだ、少しホッとするのではないでしょうか?

 パウロは偉大な人、いつも良い評価、皆がいつもパウロの言うことには全面的に信頼して従ったと考える。 でも実際にはそうでないこともあった。

 かなり、辛辣に評価された。

 パウロ先生は立派なことを言っているが、実際には、そうでないと。

 

★低い評価、悪い評価を受けると

 自分が低い評価、悪い評価を受けたとする。 喜ぶ人はいるでしょうか? 時にそれをバネにして頑張る人もいないわけではない。

 でも、普通は、落ち込む。 ああ、自分はダメだ、ふさわしくないのだ、力不足なのだ。 また、そのような評価をする人たちに対して、反感を持つ。 これだけしているのに、もう知らない、もう関わらない。 その働きを放棄するさえあるかもしれない。

 

★パウロはどうしたか?

 その評価が出されたことは間違いではなく、実際に起きたことだと受け止めた。 その相手との関わりをやめることはしなかった。

 そのような評価は、見えるところでなされたものに過ぎない。

 その評価がすべてだとは考えなかった。

◎2-3節

10:2 わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています。

10:3 わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。

  勇敢さを失わなかった。

 その評価は評価として受け止めつつ、その間違いを正す勢いがあった。

 その相手に対して、もう知らない、もう関りを持たないという風には考えなかった。

◎7節

10:7 あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい。

 あれこれ評価することは結構だが、その評価はどこから起きているのですか?

人間的な思いだけから起きている評価は、上っ面なものです。

あなたたちは、キリストのものだ、理解しているのですか?

キリストにあって歩み、そのキリストのご支配の中で生きているのですか?

私はそのように歩み、生きています。

その土台抜きに、人をどのように評価しようとも、それは、人間のなした評価にすぎません。そのようなものは、じきに、風に吹き飛ばされてしまうものですよ。

 大切なことは、他の人を表面的に評価し、批判することではなく、自分自身がキリストを土台として歩むことです。

使徒パウロは、まさにそのことを一番大切なこととして歩んでいた。私たちもそうありたい。

 様々な評価、批判が起き、時に大きな行き詰まりを経験する。

 順風だけでなく、逆風に直面する。

 逆風は強ければ強いほど、前に進むことを難しくし、それに立ち向かえば、体力を消耗する。前に進めないどころか後退させられる。

 そのような時、起きているそれだけを見れば、苦しくなる。

 その時、主イエスにつながり続ける。主イエスにつながって歩み続ける。

主が、すべてをご存じである、主がすべてを導いてくださる。

今は、どうしたら良いかわからない時でも、主のものとされたことを心にとめて歩み続ける。

 

★主の御心を心にとめる。

 目の前のことがうまくいかない、困難があると、苦悩しますし、時に落ち込むこともある。 自分がこれだけしたのに、やったのにうまくいかない。

 今までの働きは何だったのか? パウロもそのような思いもやってきたかもしれない。しかし、パウロは前を向き続けた。

 なぜ、そうできたのだろうか?

 それは、神の御心に心を向けたからではないでしょうか。

 主の御心は何だろう、私に対する主の御心は何だろうかと考えたことでしょう。

◎8-9節

10:8 あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう。

10:9 わたしは手紙であなたがたを脅していると思われたくない。

主は、私に権威を授けてくださった。 それは自分が高いところに立って威張り散らすためではない。 それは、ただ一つ、コリントの教会の兄弟姉妹を造り上げるためだ。

 コリントの教会の兄弟姉妹、コリントの教会にはいろいろな課題があった。

  問題が次々と起こってくる。自分に対する批判まで起きて来る。

 それでも、パウロは前を向いて進んだ。 どうしてそうできたのか?

 それは、神の御心の中で、自分は今このことに取り組むように主から召されていると考えたから。 造り上げるために、私は、神の御心の中で、ここに身を置き、なすべきことをなすのだと受け止めた。

◎4-6節

10:4 わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、

10:5 神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、

10:6 また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。

 コリント教会が神の御心にかなうものにされるために、自分は歩み続ける、関わり続けるのですと。 理屈を打ち破ります。 神の知識に逆らう高慢を打倒します。

 人間的な思惑を打ち砕き、キリストに従わせます。 すべての不従順を罰します。

 

★神に由来する力

 戦いの武器 戦争の戦いをたとえに用いている。 戦争を肯定しているのでは決してない。 ここでは一つのたとえ。

 要塞 その要塞が残っている以上、いつまでも攻撃される。 その要塞を破壊する必要がある。

 肉の武器では、とても対抗できない。打ち破れない。破壊できない。 それで、いつまでも苦しめられる。

 使徒パウロは、肉の力で進んだのではなかった。

 

○エフェソの信徒への手紙6章10-20節

6:10 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。

6:11 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

6:12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

6:13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

6:14 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、

6:15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。

6:16 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。

6:17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

6:18 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

 神の武具 

  ①真理の帯、        ②正義の胸当て

  ③福音を告げる準備の履物  ④信仰の盾

  ⑤救いの兜         ⑥神の言葉である霊の剣

  ⑦聖霊に助けられての祈り

 

◎4節

10:4 わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。

【口語訳】

10:4 わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。

【新改訳改訂3】

10:4 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。

 肉の力は、限界がある。 闇の力に対抗できない。闇の支配を打ち破ることはできない。

 神に由来する力こそ、勝利の力です。

神のためには力あるもの。 神の御前で力あるものです。

聖霊なる神のご支配の中で、勝利を与えてくれるものです。

生ける主、愛の主は、神のご支配の中で、必要な力を与えてくださる。満たしてくださる。

その恵みを受けて、歩を進めていきましょう。

 

 

5月28日() ペンテコステ礼拝 説教メモ

   「聖霊に満たされて」        使徒言行録2章1-13節 

 

★満たされて生きること

 満たされて生きることは幸いなことです。

 さて、皆さんは、どのようなことに満たされたいですか? その満たされたいことを思い浮かべることがあるのではないでしょうか?

 私自身、このようなもので満たされたら良いなあということを思い浮かべてみました。

①喜びに満たされたい。

 喜ぶことは幸せ。 楽しいこと、嬉しいことがたくさんあれば喜びが満ちる。

 喜ぶことができれば幸せ。 笑顔が出て来る。

 普段どのような顔をしているだろうか? 笑顔がない状態、ぶすっとした顔になっていないだろうか。 喜びに満たされたい。

②希望に満たされたい。

 希望があれば、今を生きることができる。 希望は、まだ見ていないことだが、将来の良きことを望み見ていたら、この先に、楽しいことが待っている。 良いことがあるに違いない、それを待ち望みつつ歩む。 今、少しきついことがあっても、頑張ることができる。 山頂まで、もう少し、絶景を見ることができる。もうひと頑張りだ。

③愛の心に満たされたい。

 愛の心があれば、人との出会いが楽しい。

 相手を大事にしつつ歩む、共に過ごすことができる。

 相手の大切さ、かけがえのなさを心にとめつつ、良い時を過ごせる。

 愛の心に満たされたい。

④赦しの心に満たされたい。

 赦す心、相手を赦す心。 赦せない心がどこかにある。 相手を赦せない、特定の人を赦せない。 あることで、嫌な思い、辛い思いをした。その原因は、相手にある。特定の人にある。 そのことを思い出すとイライラする。

 そのようなイライラした思いは、自分をダメにする。

⑤事に取り込む力に満たされたい。 

 しなければならない仕事、課題。 取り組むべき事柄をこなしていかなければならない。 もし、そのための力に欠けていたら、大変。

 きつい、できない、困難だ、 心をいつも疲れている、疲労困憊。

 それを成し遂げるための知恵と力、知力、体力、気力。

 それらがあれば、それらのことをやり遂げていくことができる。

⑥意欲で満たされたい。

 意欲が、やる気があれば、感謝。

 いろいろな仕事があっても、なすべきことがあっても、それをなしていける。

 意欲をもって事に当たることができれば感謝。

⑦落ち込まない心で満たされたい。

 落ち込む、うまくいかないと落ち込む。 気分が落ち込む。

 落ち込まない心があれば感謝。

⑧他の人と共に歩むことに感謝する心で満たされたい。

 他の人と関わることにはエネルギーが必要。

 面倒だと思うことがある。 関わることをやめてしまう。 自分のことだけを考えて歩みたいと思う。 でも、他の人と関わらずして生きていけない。

 願わくば、その関わりを感謝する心を持ちたいと願う。

⑨その他、いろいろあることでしょう。

 お金で満たされたい。 財産で満たされたい。 友達で満たされたい。 

 名誉で満たされたい、・・

 なぜこうして挙げることができたか? それらが枯渇する、それらがあったと思っていたのに、なかったことに気が付かされるから。 それらが乏しい自分に気が付いたから。

主よ、これらのことを与えてくださいと願わざるを得ないから。

 

★主の弟子たちは、何を願っていたのでしょう?

 偉くなることでしょうか? いろいろなことに取り組む力でしょうか?

 主イエスと共に歩む中で、大切なことを教えられていった。

 偉くなりたい者は仕える者になりなさい。

 主から命じられて町々に出かけて行った。 主イエスから聞いた良い知らせを伝えていった。

 弟子たちは、次のことを経験した。

 1)主イエスに出会い、人生の歩みの一つ一つのことにおいて、足りないことにおいて必要が満たされることを願ったのではないでしょうか?

 2)そして、もう一つのことを経験した。

  それは、その主イエスが奪われてしまうこと。 すなわち、主イエスが捕らえられ、十字架につけられる。その命が奪われています。

 希望の主、力の主、導きの主がいなくなってしまった。 

  失意落胆、さらに、絶望、お先真っ暗。

 3)そして、さらにもう一つのことを経験した。

  主イエスが戻ってきてくださった。主イエスが復活された。 命の主が戻って来てくださった。 命の主と共に再び歩むことができる。  夢のような出来事。

  その期間は40日であった。 40日後には、主イエスは天に帰って行かれた。昇天された。 天に昇って行かれた。

 4)そして、最後にもう一つのことを経験した。

  別の助け主がおいでくださった。 と言っても、主イエスと関係のない方ではない、大いに関係のある方。 イエス・キリストの霊とも言われるお方。すなわち聖霊。

  聖霊降臨の出来事、すなわちペンテコステの出来事を経験した。

  ペンテコステ 50日目の意味。

  過ぎ越しの祭りから50日目 過ぎ越しの祭りの期間に主イエスは十字架刑に処せられ、命を奪われた。 それから50日目、40日目の昇天の出来事から10日目であった。

 

★本日の箇所は、まさにその出来事を伝える記事。

 聖霊降臨のことを伝える記事

◎使徒言行録2:1-13 

2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

2:5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、

2:6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。

2:7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

2:8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

2:9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、

2:10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、

2:11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

2:12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。

2:13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 

★ペンテコステ礼拝

 毎年やって来る。 クリスマス、イースターと共に大切なお祝い 特別な礼拝の時 毎年、同じように開かれる聖書箇所。もう何度も開かれた箇所。

 この箇所から何度ペンテコステメッセージを聴いたことでしょう。

 語る者も何度語ったことでしょう。 実は、ここから、何を語れば良いのかと、昨日、大いに悩んだ。 何か語ることができるのだろうか?と思った。

 

★ペンテコステの恵み

 それは、一度起きた出来事、主によって起こされた出来事。

 それは特別な出来事。 スペシャルな出来事。

 この出来事を少し確認しましょう

 弟子たちは、上からの聖霊降臨を経験した。 電撃的なこと。 それは、初めての経験。 聖霊が上から降った。 自分たちの上に臨んだ。 弟子たちは聖霊に満たされた。

 そして、弟子たちは、主の偉大な御業を力強く語った。

 その弟子たちの様子を見た人たちはとても驚いた。

 違った言語を話すそれぞれなのに、それぞれの言語で聴くことができた。

 そしてもう一つ大切なことは、それは突然起きた出来事であったけれど、主イエスによって予告されていた。 祈って待ちなさい。

◎ルカ福音書24:45-49

24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、

24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。

24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、

24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。

24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。

 弟子たちは、祈って待った。心を合わせて祈った。

◎使徒言行録1:3-5、8、12-15

1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。

1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。

1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。

1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

1:12 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。

1:13 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。

1:14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

1:15 そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。

 

★主イエスから予告されたことが起きた。

 それがペンテコステの出来事、聖霊降臨の出来事。

 弟子たちは、聖霊を注がれ、満たされ、進んでいった。

 

★なぜ、ペンテコステの出来事を毎年確認するのか?

 それは、とても大事な出来事であったから。

 弟子たちにとっては、大きな出発点であった。

 主イエスの弟子として、歩んでいく原点の出来事となった。土台となった。

 

★私たちは、ペンテコステの出来事をどう受け止めたら良いのか?

 主イエスの弟子たちがおよそ2千年前に経験したこと。

 すごいことが起きた、それで、弟子たちはエルサレムを出発点として、主の教会ができ、各地に主の教会ができて行った。 主イエスを信じる者たちが起こされていった。

 やがて、ヨーロッパ中に、そして世界中に主の教会ができて行った。

 今、私たちは、主を救い主を信じて、毎週教会にて礼拝を捧げている。

 そして、日々の歩みを営んでいる。

 うまくいきこともあれば、うまくいかないこともある。

 主の救いに与って、感謝だなあと思う時もあれば、救いに与りながら、乏しさを覚える、力のなさを覚えることもある。

 劇的なペンテコステの出来事は、初代教会の主イエスの弟子たちが経験したこと。 そしてその出来事は、私たちと大いに関係のある出来事。 2千年後の現在を生きる私たちにも、与えられている出来事。 経験できること。 

 熱心に祈って、劇的な出来事を体験することもあるかもしれないが、主イエスを信じる者、すなわちキリスト者に、備えられている恵み。

 そのことを体験して生きることができる。

 その意味で、毎年、ペンテコステ礼拝において、聖霊降臨の出来事を学び、確認しているのです。

 

★聖霊が与えられ、聖霊と共に生きること

 開かれた門は閉じることはない。

 主イエスの十字架の出来事、そして復活の出来事により、主イエスを救い主と信じる者に罪の赦しが与えられる。神の子どもとしての資格が与えられる。

御国の命の保証が与えられる。 それは大きな喜び、この世が与ええない喜び。

 

★生きる中で、必要なこと

 ①喜び、 ②希望、 ③愛の心、 ④赦しの心、 ⑤事に取り組む力、 ⑥意欲、 ⑦落ち込まない心、 ⑧他の人と共に歩むことに感謝する心、 ⑨その他、・・

 それらのものが必要。 その他に大切なものがあります。 それは、何でしょう?

 

1⃣苦難を乗り越える力

 苦難を経験する。 希望が吹き飛ぶようなことを時に経験する。

 その中で沈み込みそうになる。 主によって支えていただき、そこから浮かび上がる。立ち上がってゆく。

 

2⃣自分が飲み込まれそうになっても、立ちゆく力

 うまくいかない、大きな困難に出会う、 想定外の苦しみ。

 人生における様々な困難、 病気、 自分の命が飲み込まれそうになる。 命の終わりに近づく、命の終わりが近いと感じる。 

 自分の中には、そのような力はない。 しかし、主が与えてくださる。

 

★主のご支配  

 聖書は、それらのものを与えてくださる主がおられることを示している。

 私たち人間の中心的な考え方の中で、それらのものを手に入れたい、満たされたいと願う。 そして、それらを手に入れたらそれで良い。 それらに満たされなら、自分はそれで良いと考える。

 後は、自分の力で歩んでいきます。 私のやり方で歩みます。

 主よ、もう大丈夫です。 どうぞ、少し離れたところにいてくださいと考えてしまうことがある。

 しかし、聖書は、主と共に歩む中でこそ、それらのものは与えられ、満たされることを教えている。 

 与えられ、満たされても、また失うことがあり、枯渇してしまうことがある。

 主と共に歩む中で、また与えていただき、満たしていただきなさいと

 

★主の命の中を生きる

 主の命の中を生きる。 主につながって歩む。主につながり続ける。

 そのためには、主を信じる信仰、主を仰ぐ信仰が生きたものでなければならない。

 信仰はなくなってしまうことがある。 時に信仰を捨ててしまうことがある。

 なくなってはいないが、捨ててはいないが、その信仰の命がなくなることがある。 かつての信仰、あの頃の信仰、でも今はその信仰は命を失っている。

 その信仰に再び命を与えてくださるお方がおられる。その方こそ、聖霊なる神

 聖霊のご支配の中で、信仰がよみがえる。再び命を持つ。

 

★主の弟子として生きる。

 もう一つ大切なことは、信仰がいきいきしている。その信仰が燃えていること。 信仰がはっきりしている。信仰がボーとしていない。 信仰に勢いをもたらすお方は聖霊なる神です。 

 聖霊なる神のご支配の中で、信仰がいきいきしてくる。 主をさっと仰ぎ、主をあがめつつ歩む幸いに導かれる。

 自分に与えられている信仰は、自分自身が持っているものだが、主より与えられ、生かされている。

 この信仰を大切にしたい。この信仰こそ、大切なものとして歩む。

 この世のいろいろなものも大切だが、この主を信じる信仰はとても大切なものであり、この信仰を中心に据えて歩みたいと思う。 その幸い。

 自分の歩みを整えつつ、信仰に生かされつつ、キリストにあって歩み続ける。

 いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する。

 その歩みの中で、家族、親族、友のことを覚え祈る。

 聖霊に満たされて、聖霊の豊かなご支配の中で、この信仰に生かされ、願わくば、この救いの恵みをどなたかに証ししたい、伝えたいと願う。

  

★聖霊に満たされて

 聖霊の大いなるご支配の中で、感謝しつつ、聖霊なる神に依り頼み生きる。

 聖霊なる神よ、内に満ちてくださいと祈りましょう。

 聖霊に満たされることほど、幸いなことはありません。聖霊に満たされることを心から願いましょう。

 

 

6月4日() 聖日礼拝 説教メモ

   「預言、幻、夢の恵み」 使徒言行録2章14-21節 

 

★力を失うことがある。

 おなかがすいて、力を失う。 エネルギー切れ

 目の前のことが大きすぎて、難しく感じ、戸惑う、圧迫感で押しつぶされそうになる。 体調が良くない時、 物事がうまくいかない時。

 

★力を得る。

 力を得ることは感謝なこと。力がみなぎる。その力で活動をなす。 それは幸いなこと おなかがペコペコ 食事をすると元気になる。

 目の前の課題をなし終えると、心が軽くなる。

 誰かが、自分の置かれている大変さを分かってくれる時、励ましを覚える。

 励ましの言葉をかけられるとき。

 嬉しいニュースを聞いた。 孫の写真、動画が届く。

 

★ペンテコステの出来事

 主の弟子たちは、力を受けた。 大いなる力。

 大胆に、主を証しした。 主の大いなる御業を語った。

 その原動力は、聖霊なる神 イエス・キリストの霊

 主イエスの十字架と復活を通して、主イエスにつながる弟子たちの上に聖霊が注がれた。

 

★大胆で勢いを得た。

 あまりに大胆で勢いを得たので、それを見た人たちも驚いた。

 酒に酔っているのではないか?と 嘲笑った。 でも、そうではなかった。

 酒に酔う、アルコールに酔う。 その時には、確かに気が明るくなる。 饒舌になる。 普段あまりしゃべらない人も、良くしゃべるようになる。

 酒に酔いすぎると、後で何をしゃべったかを忘れてしまうことがある。上滑りしてしまうこともある。

 しかし、聖霊に満たされて、弟子たちは、大胆に力強く語った。

 何を語ったかもしっかり心にとめつつ。

 

★酒に酔うはずはない。

 朝の9時であった。 ユダヤ人は、その時間帯は、神に祈りを捧げる時。

 酒に酔うことはまずない。

◎14-15節 

2:14 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。

2:15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。

 酒に酔うとしたら、祈りを放棄している姿、一番大切なことを見失っている姿ということになる。

 

★一番大切なことを見失い、さまようことがある私たち

 一番大切なことから外れてしまう。 一番大切なことを見失う。

 自分を愛するゆえに、他の人のことを考えない。

 自分の願いを叶えるために、他の人を踏み台にする。他の人のものを奪い取る。 自分の思いを第一にする。  これを手に入れたい。  このことを成し遂げたい。 自分の栄誉、名誉を第一とする。 自分の持ち物を増やす。

 そのことで、他の人のことを見失う。 他の人の大切なものを踏みにじる。奪い取る。 悲しい歩みであり、悲しい姿。

 

★かつての弟子たち

 かつては、自分が一番偉くなりたい。 他の人より良いものを手に入れたいと願った。  自分のことで頭がいっぱいだった。

 少し前までは、失意落胆していた。

  主イエスが捕らえられ十字架につけられ殺されてしまった。奪い取られた。

 希望の星が消えた。

 その弟子たちに、希望の星が戻って来た。

  主イエスの復活の出来事。復活の主が戻って来てくださった。

  40日共に歩む。 その後。主イエスは昇天されて行ってしまわれた。

  大丈夫だろうかと不安にもなった。

 

★しかし、今、聖霊の注ぎと満たしを得た。

 不安、恐れは取り除かれた。

 主が共にいてくださることを心にとめ、喜びに満たされた。

 心は自分ではなく、主に向かった。そして他の人に向かった。

 主を証ししたい。 主の恵みに共に与りたい。

 その思いの中で、大胆に主のことを語った。

 

★ペトロは大胆に立ち上がり、語った。

 かつて漁師であったペトロ、 この時には、メッセンジャとして語った。

◎16-21節

2:16 うではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。

2:17 『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。

2:18 わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

2:19 上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。

2:20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。

2:21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。

 

★解き明かし

 預言者ヨエルの語った預言の成就だと

○ヨエル書3:1-5(新共同訳)

3:1 その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。

3:2 その日、わたしは 奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。

3:3 天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。

3:4 主の日、大いなる恐るべき日が来る前に 太陽は闇に、月は血に変わる。

3:5 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように シオンの山、エルサレムには逃れ場があり 主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

○口語訳

2:28 その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。

2:29 その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。

2:30 わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。

2:31 主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。

2:32 すべて主の名を呼ぶ者は救われる。それは主が言われたように、シオンの山とエルサレムとに、のがれる者があるからである。その残った者のうちに、主のお召しになる者がある。

 

★聖霊が注ぎ与えられる恵み

 主を仰ぎ信じるすべての者に与えられる。 かつては、特別な者にだけだった。 ペンテコステの出来事を通して、主を信じる者すべてに注ぎ与えられる。

 一つの国を治める大いなる王がいたとします。

 その王は、すべての良いものを持っており、すべての権限を持っている。

 すべての良いもの、莫大な財産をお持ちである。

その王から、その財産の一部をいただくとするなら、生活の必要が満たされる。

  お金かもしれない、住む家かもしれない。

  しかし、見えるお金はやがてなくなる。見える家はやがて古びてしまう。

  見えるものではなく、王の一族、家族としての身分であるなら、必要はいつも満たされる。王の一族であり、家族であるから。

 この世の王であるなら、その支配もいつかは終わる。王が交代することもある。

 しかし、その王が変わることのない王、すなわち主であるなら、いつまでも王であり続ける。

 

★聖霊は、神の子としての資格です。

 この者は神の子どもである。神の子としての資格が与えられた者である。

 普通考えれば、その特別な資格は、特別な人にしか与えられない。

 しかし、神は、主を信じるすべての者にその資格を与えられた。

 ペンテコステの出来事を皮切りに、そのことがスタートした。驚くべきこと。

 大きな感謝。

 

★預言者ヨエルのメッセージ

 紀元前8世紀に活躍したヨエルという預言者。

 そのメッセージを読むと、イナゴの大群が押し寄せる。すべての作物を食い尽くすイナゴの大群。 それは恐ろしい光景。 すべてを食べ尽くされてしまったら、食べるものが亡くなってしまう。

 主に背いたイスラエルの民への裁きが語られている。

○ヨエル書1:4 

1:4 かみ食らういなごの残したものを移住するいなごが食らい/移住するいなごの残したものを若いいなごが食らい 若いいなごの残したものを/食い荒らすいなごが食らった。

○ヨエル書1:15

1:15 ああ、恐るべき日よ 主の日が近づく。全能者による破滅の日が来る。

○ヨエル書2:1-2

2:1 シオンで角笛を吹き わが聖なる山で鬨の声をあげよ。この国に住む者は皆、おののけ。主の日が来る、主の日が近づく。

2:2 それは闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。強大で数多い民が山々に広がる曙の光のように襲ってくる。このようなことは、かつて起こったことがなく これから後も、代々再び起こることはない。

 主の日、裁きの日が来る。 ああ、もう駄目だ、もう間に合わない。 

 主の御前に悔い改めよというメッセージ。

 これだけならば、ヨエル書はとても厳しいメッセージの書。 耳を塞ぎたくなる。 ところが、一筋の光がある。大いなる希望の光。

 それが、ペトロが引用した箇所

◎17-21節

2:17 『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。

2:18 わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

2:19 上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。

2:20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。

2:21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

 

○ヨエル書3:1-5(新共同訳)

3:1 その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。

3:2 その日、わたしは 奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。

3:3 天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。

3:4 主の日、大いなる恐るべき日が来る前に 太陽は闇に、月は血に変わる。

3:5 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように シオンの山、エルサレムには逃れ場があり 主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

○口語訳

2:28 その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。

2:29 その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。

2:30 わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。

2:31 主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。

2:32 すべて主の名を呼ぶ者は救われる。それは主が言われたように、シオンの山とエルサレムとに、のがれる者があるからである。その残った者のうちに、主のお召しになる者がある。

 どんな激しい嵐が来ても沈まない船を与えよう。 その船に乗ることができる。 その船に乗れば、決して沈まない。 どんなに激しい嵐が襲ってきても、大丈夫。 その嵐に飲み込まれてしまうことはないというメッセージ。

 

★すべてを飲みつくす嵐

 それは、恐ろしいもの。 対抗することはできないもの。

 それは、私たちそれぞれの存在すべてを飲みつくす死であると言える。

 死を打ち破られたお方は、主イエスお一人。

 その復活の主である主イエスの命を、主を信じる私たちもいただくことができるようになった。 そのしるしが聖霊なる神ご自身。 命のパスポート。

 パスポートは、落としてしまうかもしれない、盗まれることもある。失効してしまうこともある。

 しかし、聖霊なる神は、失われることもなく、失効してしまうこともない。

 

★聖霊を内にいただく。

 これほどの幸いはない。 救いのしるしをいただいて生きてゆくことができる。 失われることのない命のパスポート、救いのしるし。 大いなる幸い。

◎17-18節

2:17 『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。

2:18 わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

 

★預言をする 

 御言葉を預言する。 前もって語る予言ではなく、御言葉を預かる預言。

「あなたたちの息子と娘は預言し」

 ここに命の御言葉がある。 自分への語り掛けがある。 信頼して良い神の語り掛けがある。 そこに身を任せて良いお方がおられる。 そこに逃げ込む場所がある。

 嵐の日にも、逃げ込める避難の場所がある。 避難して良い港がある。

 それは、とても幸いなこと。

○申命記33:27

いにしえの神は難を避ける場所 とこしえの御腕がそれを支える。

 難を避ける場所 とこしえの御腕が支えてくれる。

○詩編16:5

主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。

 主は私の運命を支えるお方。

○イザヤ41:10

恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。

 あなたを助け、救いの右の手で支えてくださるお方。

 

★幻を見る。

 将来に向けて希望を持って進む。

 希望を持ちにくい、希望をなかなか持たせてくれない現代社会

 将来の予測

  様々な暗いニュース

 食糧危機 人口増加に食糧が追い付かない

 自然破壊 大気汚染、海洋汚染、森林の伐採、沙漠化

 地球温暖化 気温の上昇 南極、北極の氷が解ける。 氷河が消失して

 核兵器の問題 核兵器が用いられたならば

 各個主義 自分だけ良ければ、自分国だけ良ければ。

 人口減 日本の国では、人口がどんどん、減っている。

 そのような中で、希望も持ちにくい。 どうせ、なるようにしかならない。 あきらめ、刹那主義

 そのような状況の中にあっても、希望を持ち、将来こうあってほしい。

 そのためには、今なすべきことはこのこと 若者たちがヴィジョンを持ち、それを分かち合う。 それは、幸いなこと。

 

★夢を見る

 老人は夢を見る。

 年を取るとうつらうつらするようになる。 確かに、次々と仕事をする必要もなくなる。 時間的な余裕ができる。 活力は下がる。

 良い夢を見たい。 眠りの中で、昔を思い出し、励まされる夢を見たい。

 一方、年を取ると、自分のする仕事も限られてくる。若い時のように、取り組むべき仕事は激減する。 依頼される仕事も減る。

 自分の使命は何だろうか? 日々歩む意味はどこにあるだろうか?

 伴侶を先に天に送ることも起きて来る。 孤独感にさいなまれることもある。

 人生の終わりが確実に近づいている。 どうこの人生を着地するか、終活のことも気になる。 この命を終えて、すべてが終わり、消滅するのだろうか?

 主イエスを信じる者には、天の御国に迎えられることが約束されている。

 主がお迎えくださる、 天の御国での歩みが用意されている。

 主が、だんだん体が弱って来ても、共にいて支えてくださる。

 主の守りと助けをいただきつつ、

  

★預言、幻、夢の恵み

 聖霊なる神のご支配の中を生きる。 

 預言、幻、夢の恵みをいただきつつ、日々を生きる。 ハレルヤ!

 

 

6月11日() 聖日礼拝 説教メモ

   「聖霊の導きに従って」 ガラテヤの信徒への手紙5章22-25節

 

★人として生きる。

 この世に生まれ出たのは、父がいて、母がいたから。

 両親が出合い、夫婦となり、その親のもとで、命が与えられ、この世に生まれ出た。それは、命として母の胎内に宿ったことであり、その神秘は図りしれないことです。 しかし、確かに命として宿り、胎内で大きくなり生まれ出たのです。

 生まれ出た時、オギャと産声を上げ、人としての歩みが始まったのです。

 神によって、この世に命が与えられ、その命をもって成長し、人として歩んできました。 両親に感謝すると同時に、神に感謝します。

 

★神の子として生きる

 クリスチャンとなった者は。主イエスを救い主として信じ、私の救い主として受け入れました。

 全人類のために、その命を十字架で捧げてくださった主イエスを認め、この私のためにも十字架で命を捧げてくださったことを認め、主イエスを自分個人救い主として信じました。

 

★私自身の証し

 主イエスを自分の救い主として信じることを躊躇していた私にも、ある一人の人が熱心に主イエスを信じることを勧めてくれました。

 大学2年生の終わりの春休みの時でした。

 九州KGK(キリスト者学生会)の春季キャンプにおいて、関西から来てくださっていた一人の主事によってでした。

 大学3年生になって、5月のペンテコステの日に、宮崎清水町教会にて、洗礼を受け、クリスチャンとなりました。

 

★クリスチャンとなることの2つの意味

 *第1は、神の子どもとされるということです。 

人は神にはなれませんし、神のような存在になることもできません。神の子どもになるということは、罪が赦され、神との断絶が取り除かれたということです。

 神の家族である教会員の一員になり、クリスチャンとして歩み出したのです。

 神によって罪赦された者として、永遠の命をいただいて歩み出すのです。

 

 *第2は、内に聖霊をいただくということです。

それまで持っていなかった命をいただくのです。聖霊を内にいただくのです。

 命のパスポートをいただいて生きる者となった。

 それは、取り出して見せることのできるものではありません。

 聖霊なる神が、私たちのうちにお住まいくださったのです。

 私たちがどのようになろうとも、時に強く、また時に弱くなっても共にいてくださいます。 私たちの信仰の歩みを守り導いてくださいます。

神の御前に立つ時、この者は罪赦され、御国を受け継ぐものだということを証明してくださいます。

 

★クリスチャンとして歩み出した喜び

 新しく歩み出すことは大きな喜びです。

 学校に入って1年生として歩み出す。

  すべてが新鮮、すべてがこれから。

  いろいろなことを学び、いろいろなことを吸収する。

 教会生活を喜び楽しむ。 毎週の礼拝、青年の人たちとの交わり、教会での奉仕できることを喜んで担ってゆく。

 

★クリスチャンとしての歩みの中で、出会う壁

 神の子どもとされた事の感謝 礼拝を捧げる喜び できる奉仕をする喜び

 教会生活をしつつも、この世に生きる者

 この世で生きる中で、様々なことにも直面する。

  物事がうまく進むこともあるがうまく進まないこともある。

  人との関係がうまくいくこともあれば、うまくいかないこともある。

   人と仲良くできることもあれば、そうできないこともある。

   人と険悪な関係になることも時にある。

 様々な誘惑を受けることもある。 悪いことへの誘いを受けることもある。

  それを退けることもあれば、退けることができないこともある。

 そのような誘惑から距離を置くこともあれば、自分から近づいてしまうこともある。

 

★クリスチャンとなる救いに与った者なのに

 救いに与った者なのに、様々な問題にぶっつかり、立ち止まってしまう。

 礼拝よりもこの世のことを優先してしまう。

 神の御心よりも自分の願い、願望、計画を優先してしまう。

 様々の誘惑に飲み込まれてしまう。

 救いに与る前と全く同じ、いやそれよりも堕落してしまうことさえある。

 自分は何者なのだ。

  あの洗礼式は何だったのか。神の子どもとされ、喜び感謝して歩み出した経験は何だったのかと考え込んでしまう。

 

★様々な問題

 肉の業の中に身を置いてしまう。

○17-21節

5:17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

5:18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。

5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、

5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、

5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 

★肉の業の4つのグループ

 ①性的堕落

  姦淫、わいせつ、好色、

  性的誘惑、間違った関係、ひずんだものに引っ掛かってしまう。

  異性関係で踏み外してしまう。

 ②真の神を見失う

  偶像礼拝、魔術

   元の迷いの森に逆戻りしてしまう。 迷いの偶像礼拝

   どの神でもよいと考える、自分の願いが叶えられればそれで良いと

   魔術、占いにはまる、 惑わしの霊が働いているのに。

 ③人間関係での争い

  敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、

  人との間の様々な問題 これに翻弄される。

   この項目が一番内容が多い。 人間関係の中でもめる、苦しめる、苦しめられる。

 ④依存

  泥酔、酒宴  自分を見失う。その中に飲み込まれてしまう。

  それに身を任せてしまう。

  アルコールだけでなく、薬物もあります、ギャンブルもあります。

   それらのものに流されてしまう。

 

★クリスチャンとしての誇り、喜びがなくなる。

 神の子どもとされたことの喜び、感謝が乏しくなる。

 自分の罪は本当に赦されたのだろうかと考えるようになる。

 揺れ動き、停滞、力を失う

 

★肉の思い、願いを中心に歩むようになる。

 救われる前の自分、この世と調子を合わせる自分

 自分の思い、願いを中心にして歩むようになる。

 自分の思い、願い、欲望を満たしたいと願い、歩むようになる。

 一時的な満足はあっても、しばらくすると満たされない自分自身に気が付く。

 真の神を知らない人と同じように歩むようになる。

 礼拝を捧げることから遠ざかる。 

 与えられている時間、賜物を神の御心を心のとめ、それに沿うように用いたいとは考えなくなる。

 これは、自分のもの、だから、自分の思うままに使うのだ。

 そのように歩むのが当たり前になってしまう。

 心のどこかにむなしさを覚えつつも、事のなるままに歩み進む。

 

★神の御心

 神は、主イエスの救いを知らずに歩んでいる者たちのことを心にとめていてくださる。 この救いの恵みに与るようにと働きかけてくださる。

 それと共に、一度主の救いに与り、その恵みを経験した者となりながら、その恵みから遠ざかっている者、救われる前の時のように歩むようになった者に対して、働きかけてくださる。

 わたしに立ち帰るように。

 再び、わたしと共に歩もうと、御声をかけておられる。

 その御声がなかなか聞こえなくなる。

  礼拝から遠ざかり、聖書の御言葉に触れる機会も減る中で、神の語り掛けがなかなか聞き取れない。

 

★働きかけ続ける神

 神は、一度は救いの恵みに与った者に対して、特に忍耐強く働きかけ続けてくださる。

 聖霊なる神による働きかけ。

 救いに与った時の喜びの歩みをもう一度回復したいという願いを持たせてくださる。

 このままでは良くない。

 主に対するうめきを与えてくださる。

 聖霊なる神は、特別に働いて、共にうめいてくださる。

 

★聖霊による実

 聖霊によって与えられる実がある。

◎22-23節 

5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、

5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

 1)愛  

愛に生きる 神の愛に感謝して、その愛の中を生きる。 その愛に応えて歩む

 2)喜び 

喜びが内に満ちる。 大きな喜び、一時的な喜びではなく、継続する喜び

 3)平和(平安) 

神との平和を感謝する。神の子とされ、神とつながって生きる幸い 

 4)寛容

   寛容の心がみなぎる。人に対して寛容、人の悪しき言葉や振舞いに対して許す心

 5)親切(慈愛)

   人に対して親切、 何らかの助けになりたい

 6)善意

   何か人のために良いことをしたい、できることをしたい。人の出す言葉に 

 対して穏やかな心で対応する

 7)誠実(忠実)

   真摯な態度、 相手に対してしっかり向き合う態度。 相手の言わんとす  

 ることを理解しようとする。

 8)柔和

   穏やかな心、態度。 もの柔らかい

 9)節制(自制)

   ブレーキをかけることができる。

   様々な誘惑に対しても、それらのものに対して、簡単に乗って行かない。

   食べ過ぎに対してブレーキ

   怒り過ぎにブレーキ、 いろいろなこだわりにブレーキ

 

★肉の望むことと霊の望むこと

 *肉の望むこと

  もともと持っていた肉の性質

 それはいつの間にか自分を支配し、自分の願いや欲望を中心に歩んでしまう。

  一時的な満足を与えても、それは一時的にとどまる。それどころかむなしさを覚える。 後で後悔する。 その時にはこれこそ自分の願うこと、これこそ正しいと思って歩んできたのにと後悔する。

  それでも、自分の思いを中心に、自分の心が赴くままに歩んでしまう。

 *霊すなわち聖霊が望むこと

  聖霊なる神が、私たちを愛するゆえに、願ってくださること。

 自分の思いを中心にして歩むのではなく、神の御思いを心にとめ歩むように。

  神から離れて歩むこと それは結局のところさまようことになる。

  神から離れずに歩むように。

  虚しさの渦の中に飲み込まれないように。

  どうすることもできない苦しみの渦の中に飲み込まれないように。

主の愛に生かされ、主の恵みの中を歩むことができるようにと導いてくださる。

 

★その対立の中で

 そのはざまの中で揺れ動く。 どちらに身を置くか。

○17-18節

5:17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

5:18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。

 自分の思いを優先する、 自分の思い通り、願い通り 心地よい

  一方、それを中心として歩むときに、行き詰まりを覚える。

 私たちを愛してやまない神のご支配、働きかけ

  わたしに聞き従いなさい。 わたしの語ることを聞きなさい。

  わたしの示すことに心をとめなさい。

  わたしの御手の支配の中に歩み続けなさい。 ここに本当の喜びがある、永続する喜びがある。 永遠の命の道がある。

 主よ、あなたに従います。この私を導いてくださいと主に申し上げる。

 

★主にお任せする

 主よ、あなたに従います。

 わたしの思い、願いがありますが、それを第1とはしません。

 主の御心を第1として歩みます。

 この肉の思い、願いを持つ私自身を主におゆだねします。

 その思い、願いを、主を中心として、主に従う中で、捧げます。

 新生から聖化の道に

○24節  

5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。

 

★霊の導きに従って

聖霊を内にいただき、聖霊のご支配の中に置かれた。

聖霊の導き

 何か特別に声が聞こえるわけではない。

 聖霊なる神が、この私を神の子どもとし、神の子どもとして育て導いていてくださる。

 そのことを感謝しつつ、聖霊の助けと導きを祈りつつ歩む。

○16節

5:16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

 聖書を通しての神からの呼びかけ

◎25節 

5:25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。

 聖霊の守りと助けと導きがある。

 そのことをしっかりと心にとめて、聖霊なる神に従って歩む、前に進む。 

 主は、喜んでくださる。 主はなお豊かに導いてくださる。 ハレルヤ!

 

 

 

6月25日() ホ群弾圧受難記念礼拝 説教メモ

    「熱心なとりなしの祈り」    使徒言行録12章1-19節 

  

★本日は、ホ群弾圧受難記念礼拝

 毎年6月第4日曜日に、弾圧受難記念礼拝を捧げます。

 1942年(昭和17年)6月24日の日に、ホーリネス系の教会に対して、国家が宗教弾圧を始めた日 今から81年前の出来事

 その後1年の中で、第2次、第3次と弾圧がなされた。

 日本にあるホーリネス教会だけでなく、海外すなわち中国、台湾、朝鮮にあるホーリネス教会に対しても弾圧がなされた。

 当時のホーリネス教会においては、牧師が検挙され、教会の礼拝、祈祷会等はできなくなった。

 翌1943年(昭和18年)には教会解散命令が出された。

 この弾圧は、日本の敗戦、終戦の時1945年(昭和20年)まで続いた。

 

★国家も間違うことがある。

 国家は、本来国民のためにあるべきなのに、その時の政府、政治家によって動かされ、

 国民を支配する、国民を自分たちの思う通りに支配し動かそうとする。

 それに従わない者に対して、厳しく臨むことがある。

 80年前の日本がまさにそのようであった。

 現在において、ロシアしかり、 中国しかり、 北朝鮮しかり。

  そして、アメリカであれ、日本であれ、そうでないとは決して言えない。

 

★権力者が自分の思いを通す。

 権力を握ると、それを大きくし、それを維持しようとする。 その権力を持って、自分の思い通りに事を運ぼうとする。 その権力を守るために、それを維持するために、自分の栄誉、名誉のために、何でも行うことがある。 それが多くの人を苦しめることになっても、構わない。 恐ろしいことであり、悲しいことです。

 

★80年ほど前の日本

 太平洋戦争に突入していた。 中国、朝鮮、台湾、アジア諸国を支配しようとしていた。

 主な相手はアメリカであった。

 そのような時代の中で、キリスト教会に対しても弾圧が加えられた。

 キリスト教会の中では、ホーリネス系の教会を狙い撃ちにして宗教弾圧がなされた。

 教会にとっては大打撃。牧師は検挙され、教会にとっても、牧師家庭にとっても、その大黒柱を失った。

 

★本日の聖書箇所

 ヘロデ王による身勝手な迫害

 ヘロデ・アグリッパ 主イエスの誕生の時にいたヘロデ王の孫に当たる人物

 そのヘロデ王によって、指導者ヤコブが剣で殺され、殉教の死を遂げる。

 そして、指導者ペトロが捕らえられた。牢の中に入れられ、厳重な監視下に置かれた。

◎1-4節

12:1 そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、

12:2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。

12:3 そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。

12:4 ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。

 

★厳しい状況

 これは厳しい。 このままでいくと最悪の事態も起こりかねない。

 私たちも時に厳しい状況に置かれることがある。

 

★エルサレムの教会

 エルサレムの教会は、ペンテコステの出来事の中で誕生し、多くのキリスト信者が起こされた。 言うならば、リバイバルの出来事。 次々と仲間が加えられた。 その中で、ステファノの殉教、エルサレム教会に大迫害が起きた。

◎使徒言行録7章54-60節

7:54 人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。

7:55 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、

7:56 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。

7:57 人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、

7:58 都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。

7:59 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。

7:60 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

◎8章1-2節  

8:1 サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。

8:1 その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。

8:2 しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。

 

★そして、このヘロデ王による宗教弾圧

 踏んだり蹴ったり。 さんざんな目に合う。 大変なことが続いた。

 

★大きな悲しみと動揺

 弾圧が起き、ステファノが殉教し、エルサレム教会からは人が散らされ、ヤコブが殉教し、ペトロが投獄された。 これは大変、悲しみと動揺が起きた。

 私たちにおいても、そのようなことが起きるかもしれない。 宗教弾圧が起きないとは決して言えない。

 他のことにおいても、自分が飲み込まれそうになる、自分たちが飲み込まれそうになることがあるかもしれない。 どうしたら良いか、絶体絶命と思える状況

 その中にあって、どうするか?

 沈み込む? 閉じこもる?  どうしたら良いのか?

 

★仲間たちは、心を合わせて祈った。

 主の教会は祈った。

◎5節

12:5 こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。

 祈るしかない。 祈ることを最優先とした。 祈りに打ち込んだ。 熱心な祈りが捧げられた。

 教会の祈祷会で、心を合わせて祈る。私たちの教会でも、祈祷課題を柱として、毎週名前を挙げて祈っている。

 祈られている。 ぜひ、祈りの輪に加わってほしい。

 

★今から80年ほど前のホーリネス教会への宗教弾圧のこと

 1889(明治22)年明治憲法が発布され、信教の自由についても規定されたが、「国の安寧秩序を乱さない限り」という枠がついていた。常識的には「淫祠邪教」でなければ大丈夫だとされていたが、「安寧秩序」をどう理解するかで、信教の自由にいくらでも制限を加えることができたのである。

  当時の政治的背景

 日清・日露の戦役を耐え抜いた日本は、遅く出てきた帝国主義国家として、韓国を併合し、中国大陸に侵攻しつつあった。

 1931(昭和6)年満州事変。

 1932(昭和7)満州国建国宣言

  5・15事件(犬養首相暗殺)。

 1933(昭和8)日本の国際連盟脱退。

 1936(昭和11)二・二六事件(斎藤内大臣、高橋蔵相暗殺)。

 1937(昭和12)日中戦争始まる。

 1938(昭和13)国家総動員法発動。

 1939(昭和14)第二次世界大戦開始。

 1941(昭和16)太平洋戦争始まる。

 国家は国民に命も財産も全く献げることを要求し、思想信条など人間の内面まで支配しようと望んだ。

 1929(昭和4)年、恐慌が世界に波及するようになると、日本では「万世一系の 天皇をいただく特別な国」としての自国を誇るナショナリズムが広がっていきました。満州事変勃発以降、それは顕著になります。

 当時の人々が生きた時代はどのようなものだったか。

 1937年、日中戦争が起こると近衛文麿内閣は「挙国一致」を呼びかける。

 1938年「国家総動員法」が成立。軍事力・経済力・人的能力のすべてを投入する総力戦の体制となる。

 1940年、大政翼賛会が結成されると、10戸を単位とした隣組が組織され、伝達・配給・防空・監視・防諜などの役割が課せられるようなる。

 1941年12月、米・英との開戦を機に、大政翼賛会は活動の幅を広げ、総動員体制はさらに強圧的なものになっていく。

 学校には1920年代後半から、天皇・皇后の写真(「御真影」)や教育勅語を置くための「奉安殿」が設置されるようになり、子どもたちは登下校の際に脱帽して最敬礼するよう、しつけられた。

 1941年3月、「国民学校令」が公布され、小学校は国民学校と名を変えました。学校生活の目的は、天皇と国家に忠実に従う国民をつくりあげる事におかれ、小学生は「少国民」と呼ばれました。また、中等教育の生徒を軍需工場での働き手にする勤労動員はやがて通年となり、1943年秋からは「学徒出陣」も行われるようになった。

 1944年8月から、国民学校初等科の子どもを郊外へ集団移住させる「学童疎開」が始まった。

 1937(昭和12)年7月、遂に、北京郊外の蘆溝橋で日中両軍が衝突し、政府の戦争不拡大方針に反して、軍部は強硬に戦場を拡大して収拾できない日中間の長期戦争へと発展した。

 国内では急速に戦時体制が整えられ、軍人の召集はもとより労働者の軍事工場への徴用や衣料・食料など生活必需品の配給制の実施等々、国民あげての総力戦体制が強化されていった。

 1941(昭和16)年12月8日、日本海軍のハワイ真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争が始まり、ヨーロッパの戦場とともに世界的な大戦争になった。

 日本はアメリカ・イギリス・オランダなど連合国側に対抗して、ドイツ・イタリアと結ぶ枢軸国の陣営に入って世界的大戦争の渦の中にたった

 

1939(昭和14)年、宗教団体法が成立したが、宗教団体の中に神社は含まれない。神社はどんな宗教者も拝むべきものとされたのである。

 

◆治安維持法

 治安維持法とは  治安維持法は 1925 年(大正14年)、社会運動や革命運動の弾圧を目的として制定された。その後、1928年(昭和 3 年)の最初の改正で最高刑が死刑に変更され、適用範囲も大幅に拡大された。更に 1941年(昭和 16 年)の大改正で、弾圧立法としての機能をより強めることになる。 

 1941(昭和16年)年、法は同年515日に施行されたが、全般的な重罰化 禁錮刑はなくなり、有期懲役刑に一本化。また刑期下限が全般的に引き上げられたこと。

 取締範囲の拡大

 「国体ノ変革」結社を支援する結社、「組織ヲ準備スルコトヲ目的」とする結社(準備結社)などを禁ずる規定を創設したこと。官憲により「準備行為」を行ったと判断されれば検挙されるため、事実上誰でも犯罪者にできるようになった。また、「宣伝」への罰則も復活した。

治安維持法による宗教弾圧

 「国体の変革」、「私有財産制度の否認」などの規定加えて、新たに、・・・ 

「国体の否定、神宮もしくは皇室の尊厳の冒涜」 という規定が加えられたのが、1940(昭和16)年310日であった。 改正 1941年515

 

 *小山宗祐師の死

  1941(昭和16)年一月、函館聖教会の牧師補小山宗祐は憲兵隊に検挙され、三月二三日に獄中で自殺したとして死体で返されてきた。彼は神社参拝をしなかったことで隣組によって密告されたのだ。日本人の異分子排斥である。

  *旧ホーリネス教会三派弾圧

6月26日はホーリネス弾圧事件のあった日です。1942年のこの日早朝、日本政府により牧師96人が「治安維持法違反容疑」(キリストが統治者として再臨することを説いたのが天皇制を否定するものとされました)で逮捕されました。

 *一斉検挙

 1942年6月26日早朝、ホーリネス系の教職者96名が逮捕された。これが、第一次検挙である。19434月に第二次検挙が行われて、第一次と第二次を合計すると、日本基督教団に併合されていた第6部(旧日本聖教会)60人、第9部(旧きよめ教会)から62人、妥協して教団に加わらず宗教結社であった東洋宣教会きよめ教会12人、合計124人が逮捕された。 

 裁判が行われ、134人の検挙者のうちの75人が起訴された。車田秋次、米田豊らが実刑判決を受けた。全員が上告して、戦後免訴扱いになった。

 しかし最終的に、菅野 鋭師、斉藤保太郎師、辻 啓蔵師、小出朋治師(獄中での死亡順)、竹入 高師、池田長十郎師、佐野明治師(出獄後死亡)ら7名が獄死した。

 

 1943年4月、文部省は宗教団体法に基づき、第六部と第九部の、教会設立認可の取り消し処分と教師を辞任させるように、日本基督教団の富田満統理に通知した。これを受けて、日本基督教団は、獄中にある教師と家族に、教会設立認可の取り消しと、教師の自発的な辞職を求める通知を行った。そして、日本基督教団内のホーリネス系の教会は強制的に解散させられた。

 

 6月26日の早朝、特高警察が教会、牧師館に踏み込み、牧師を拘束して警察に連れて行ったのでした。

 聖書や信仰の書物も没収し、有無を言わせず、連行して行った。

  厳しい取調べ、尋問 数カ月とどめ置かれた牧師から、1年、2年ととどめ置かれた牧師までさまざま 

  食べるも粗末なもの、夏は暑く、冬は寒い獄の中 蚊やノミ、南京虫に悩まされた 夫、父親を突然連れて行き、いつまでも返さない

 殉教の死を遂げた方も 家族はほったらかし

 日本国内(内地)だけでなく、国外(外地)中国、台湾、朝鮮半島にあったホーリネス系の教会の牧師も、そのような弾圧を受けた。

 

 ・米子教会‐山中日出刀師

 ・門司宗利教会(門司聖教会)‐長畑辰二郎師

 ・戸畑向町教会(戸畑聖教会)‐加藤俊守師

 ・八幡東部伝道所(八幡聖教会)‐桑原福三師

 ・熊本城東教会‐森田豊熊師

 ・宮崎清水町教会‐吉間礒吉師

 ・都農仲町伝道所‐黒木光雄兄(信徒代表)

 ・高鍋南伝道所

 1943年(昭和18年)48日に至り、日本キリスト教団第6部系の全教会に対して「宗教結社禁止令」が通達された。

 解散理由としては、

  1)神宮に対する不敬

    唯一の創造神に対する信仰が神宮に対する不敬

  2)天皇に対する不敬

    すべての人がキリストに対する信仰によって救われるとすることは天皇を罪人とすることで、天皇に対する不敬

 3)国体変革を企図せる罪

    キリストが主の主、王の王として再臨されることを宣伝することは、国体変革を企図せる罪すなわち治安維持法違反になる

この弾圧によって、ホーリネス系教会は大打撃

 礼拝を、集会を開くことができない  牧師は連行されて行ってしまった。

 特高警察による監視  教会に集っていた多くの人たちも集えなくなった

 教会生活ができない  教会から多くの人たちが去って行った

 もう一つ、弾圧の標的になった要因があった。 それは、再臨信仰

 主イエスは、歴史の中で、もう一度来られる 栄光の主として

 すべてを裁き、すべてと支配する主として来られる

 このことは、聖書に記されている大切な約束、預言 再臨信仰を旗印としていた これが、国家から狙い撃意された最大の理由

  当時、日本国家は戦争一色 戦時体制  日本がアジア全域を支配する

  国家神道をかかげ その頭に天皇をかかげて、戦争の遂行 ほとんどの日本人は、この戦争が正しい戦争であると洗脳され教え込まれていた。

 また、この戦争を正面から反対する人たちはほとんどいなかった

 正面から反対するのは、共産主義の方や特別な人しかいなかった

 そうすることは、捕えられ、拷問、死を意味していた  ほとんどの人は、反対できなかった。 ホーリネス系教会でも例外では決してなかった。

  正面から、戦争反対、この戦争は間違っている、おかしいとは言えなかった

 再臨信仰は危険な考え方だ

  国家にとっては、都合が悪い 国家の言うことがすべて、正しい

   それは、だれも批判できない、してはならない

 国家を裁く者がいるなど断じて許されない  再臨のキリストが、日本国家を裁くなどとはと

 

★とりなしの祈りの結果

 ペトロは助け出された。 不思議な出来事

◎6-19節

12:6 ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、 

二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。

12:7 すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。

12:8 天使が、「帯を締め、履物を履きなさい」と言ったので、ペトロはそのとおりにし  

た。また天使は、「上着を着て、ついて来なさい」と言った。

12:9 それで、ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。

12:10 第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに  

開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った。

12:11 ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」

12:12 こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。

12:13 門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。

12:14 ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。

12:15 人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出した。

12:16 しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいた  

ので非常に驚いた。

12:17 ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言った。そして、そこを出てほかの所へ行った。

12:18 夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒  

ぎになった。

12:19 ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。

 

★ペトロと仲間たちの祈り

 牢の中でのペトロの祈り

 仲間たちのとりなしの祈りがなされた。

 

★かつての宗教弾圧

 突然の宗教弾圧 牧師家庭から、教会から、牧師が検挙される。 連れて行かれる。

 牧師のいなくなった家庭を守る家族、牧師のいなくなった教会を守る教会員

 どれほど、大変であったことか。 監視され、集会を開くこともできない。

 牧師家庭は教会からの謝儀を受けることもできない。教会では、礼拝を捧げることもできない。 その中で、ひそかに、熱心に祈りが捧げられていた。涙の祈り

 

★熱心なとりなしの祈り

 熱心なとりなしの祈りが捧げられた。 その中で、ペトロが救出された。

 ペトロは、仲間たちのところに駆けつける。

 仲間たちの驚き、信じがたい。

  仲間たちは、一所懸命祈っていたけれども、すぐにその答えが与えられるとは信じていなかった。

 それでも、その祈りは聞かれた。

 主は、人のためにとりなす祈りを聴いてくださる。

 大きな困難に直面した中での、祈り。 手を挙げて祈って行きましょう。

 

  

7月2日() 聖日礼拝 説教メモ

   「誇る者は主を誇れ」 コリントの信徒への手紙二10章12-18節

 

★輝いているもの

 輝いているものがあります。 輝いているものを挙げるとしたら、何を挙げるでしょうか?

 宝石? ダイヤモンド、ルビー、エメラルド、・・

 太陽? 月、・・

 大きなゾウ? 強いライオン、足の速いチーター、・・

 クジラ? 大きなマグロ、ブリ、・・

 錦鯉? 熱帯魚、金魚、・・

 確かにそれらのものは目立ち、輝いています。

 しかし、それらだけではありません。

 鉄、銅、・・、小さな星々、 ウサギ、モグラ、・・

 小さなメダカ、フナ、・・  それらも輝いている。

 活躍してスポットライトを受けている人 大リーグで活躍している大谷翔平

 有名な芸能人、・・

 それらの人だけではありません。 いろいろなところで、自分のなすべきことを担っている方 それらの人がいてこの社会は回っています。

 小さな子ども、赤ちゃんも、それぞれ輝いている。

 

★輝きはどこから来るのか?

 確かに特別に秀でているものは輝いて見えます。

 しかし、他と比べて秀でているから輝くとも言えません。

 その存在が、そこにあり、その存在らしくあること。

 他との比較でなく、それ自体としてある、その存在を喜んでいる、そして、その中で

 ありのままあり続ける、なすべき歩みをなす、なすべき働きを担っている。

 特別に何かをしているというよりも、その与えられたところで感謝して歩んでいること、そのことの中に輝きがある。そして他の人に何かをもたらす。

 そのようであることができたら、幸いであり、感謝です。

 

★その持ち味、ありのままの姿

 それぞれには持ち味がある。 その持ち味は違う。

 神は、それぞれに良いものを与えてくださっています。 わたしに、あなたに。

 ただ、神を仰いで生きる時にそのことがわかる。

 神を仰いで生きていないと、そのことはわからない。

 その持ち味は、その人にしかないもの。それぞれの持ち味を感謝しましょう。

 

★持ち味を忘れてしまう。消してしまうこともある。

 自分の持ち味を理解しない、それを消してしまうことがあります。

 神さまを仰がず、周りを見てしまう時、そうしてしまうことがあります。

 他との比較、他と比べてしまう。

 他と比べて、優れているか、劣っているかと考えてしまう。

 現代社会は、情報があまりにも多く入って来る、競争社会になっている。

  小さい時から、他との比較で、評価されることが多い。

  いつの間にか、他と比較しつつ生きる。

  他と比較して優れているか、劣っているかと考える。

  それが行き過ぎると、優れていれば優越感、劣っていれば劣等感に支配されてしまう。

 

★主にあって喜び、自由に生きる者でありたい。

 主にあって喜び、自由に生きる者でありたい。

 今ここにあること、今こうして生きていること、今このことができていること、今自分にできることがあること、それらのことを感謝したい。 

 そこに自由があり、喜びがあり、感謝がある。そして、そこに輝きが起きる。

 

★本日の聖書箇所

 使徒パウロがコリント教会の信徒の方々に送った第2の手紙 その10章

 パウロが置かれていた状況

 パウロはコリントの町に行き、福音を宣べ伝えた。第2伝道旅行では1年半、そこに滞在した。旅行の中では、他の町々に比べて長期であった。 コリントの教会が設立された。

 パウロは、他の町々にも伝道旅行に駒を進めて行った。

 コリント教会に、パウロ以外の指導者がやって来た。コリントの教会をリードしていった。 その中には、優秀な指導者アポロもいた。

 ある指導者は、コリント教会の人に、自分たちが優れていること、自分たちに聞き従うようにと語る者もいた。

 最初の宣教者、指導者パウロを批判する人もいたことを伺い知ることができる。

 その中にあっても、パウロは、コリント教会の歩みを覚え祈り続けた。

 コリント教会の人たちを愛し、手紙を書き送った。

 

★コリント教会の信徒たちは、混乱させられた。 

 混乱させられた原因があった。

 それは、彼らの目が主ではなく、人に向かって行ったから。

 混乱させる者たちは、自分たちに目を向けさせた。

 自分たちの言うことが正しい、このことに耳を傾けなさいと

 

★問題はここにあった。

 問題は、ここに、すなわち自己推薦、他者との比較にあった。

*自己推薦

◎12節

10:12 わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。

◎18節

10:18 自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。

 自己推薦する。自分を推薦する。

 自分こそはすばらいい、自分たちこそは正しい、自分こそは優れていると考え、そのことを表明した。

 他の人と比べたら自分は素晴らしいと考えた。自分は最高のものだと考えた。

 いつの間にか、大きな間違いのもとに。

 自分の考え、自分の計画はすべて正しいのだ、これこそ最高なのだ、

 いつの間にか、その評価もすべて自分が行う。他の人の評価を受け入れない。

 そのことで、大きな間違いが起きる、大きな苦しみも起きる。

昨年2月末方始まったロシア大統領なる人物によって仕掛けられた戦争を見れば、明らかです。 自己推薦はとても危うい、危険。

*他者との比較

 他者と比較する。 他の人と評価し合う、比較し合う。

 時には良いこともあるが、それが行き過ぎると、いつも評価し合わなければ済まない、比較し合わなければ済まない。

 人との比較に終始する。 互いを受け止め、その良さを見ることよりも、自分との比較、

 自分の基準で見てしまう。 主を抜きにして、自分の基準。

 本当は、主がそれぞれを選び、それぞれを立てておられる。それぞれに良いものを与えてくださっている。 それぞれに輝きを与えておられる。

それなのに、人との比較でしか見ない。 その結果、輝きを消し合ってしまっている。

 優越感の中で歩んでしまったり、劣等感の中で歩んでしまう。

 

★混乱をもたらしている者たち

 自分たちの思いを中心して歩み、教会にある兄弟姉妹を、自分たちの陣営、自分たちの思い通りに動かそうとしていた。 使徒パウロに対しての厳しい評価も出していた。

 主を指し示すのではなく、自分たちを向くように仕向けた。そこに問題があった。

 そのようなことは正しくない、間違っていることを、使徒パウロは語った。

 

★使徒パウロ

 使徒パウロの生き方、考え いつも神を中心に据えて歩んだ。

 彼は、喜び、感謝した。何を?

 主によって、自分はなすべきことをなさせていただいた。

 かつて、サウロという名前の時代があった。 その意味は大きな者、偉大な者

 その時、彼はユダヤ教徒のエリートとして歩んでいた。

  主イエスを救い主と信じるキリスト者を許すことができない。徹底的に迫害する者として歩んでいた。 その自分に復活の主は現れてくださった。

 彼は、神の愛に打たれた。そしてその愛によって生まれ変わった。ダマスコ途上の回心によりイエスを主を信じる者に変えられた。

 名前もパウロという名に変えた。 その意味は小さな者ということ。

 主の救いに与り、主の救いを何よりも喜び、感謝した。

 主イエスを宣べ伝える者、宣教者となった。 その働きに従事した。

 その働きを心から喜び、感謝した。

◎13節

10:13 わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。

◎18節

10:18 自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。

 主が割り当ててくださった働き、主がなすように示し導いてくださったことを心を込めて行った。

 そのことの中で、コリントの町まで行くことができた。そして伝道に励んだ。

 そのことを喜び、感謝して、誇った。

 主がそのことをなさせてくださった。主にあって誇った。

 主に何よりも感謝した。 そこには喜び、感謝があった。

 

★使徒パウロの願い

 キリストの福音を宣べ伝えたい。

◎14-16節

10:14 わたしたちは、あなたがたのところまでは行かなかったかのように、限度を超えようとしているのではありません。実際、わたしたちはキリストの福音を携えてだれよりも先にあなたがたのもとを訪れたのです。

10:15 わたしたちは、他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません。ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、

10:16 あなたがたを越えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。

 キリストの福音を宣べ伝えたい。 その福音を携えて、あなたがたのもとを訪ねた。

  何よりも幸いなキリストの福音を携えて

 この福音を告げ知らせたい。 少しでも多くの人に、他の地域にも

 かつて、小倉北区清水から、小倉南区の曽根の地に福音の種が蒔かれた。

  家庭集会から始まり、定期集会、そして、曽根集会所

  八幡西区の黒崎の方面に対しても、願いがあった。ヴィジョン

 

★誇る者は主を誇れ

 誇る者は、主にあって誇れ。 主によって生かされていることを感謝して、主をほめたたえる。

 ◎17節

10:17 誇る者は主を誇れ。

 主を崇め、主をほめたたえる。

○コリント一3:4-9

3:4 ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと  

言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。

3:5 アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導  

くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。

3:6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。

3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

3:8 植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。

3:9 わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。

 大切なのは植える者でも、水を注ぐものではない。成長させてくださる神こそ大切な方である。

 アポロもパウロも、主によって立てられ、なすべき働きをした者に過ぎない。

 アポロ、そしてパウロを救いに満ちびかれた主、伝道者として立ててくださった主がいなければ、パウロの働きもアポロの働きもなかった。

 使徒パウロはいつも主を仰いでいた。

 

○コリント一1章26-31節

1:26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。

1:27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。

1:28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。

1:29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。

1:30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。

1:31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

世の無学な者を選んでくださった主 世の無力な者を選んでくださった主

世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選んでくださった。

 命の主、永遠の命の主を知らずに歩んでいた者を引き寄せ、天の命があること、永遠の命があることを教え示してくださった。

 神と断絶していた者を神と結び合わせてくださった。 神の子どもにしていただいた。

 キリストこそ、私たちにとって、神の知恵となってくださった。

  生きる道を教え導いてくださるお方

義と聖と贖いとなってくださった。

  この者は罪赦された者であると宣言してくださった。神の子どもであること宣言してくださる。

 この者は、神の御手の中で、その歩みを守ってくださる、日々、御心にかなうように引き上げてくださる。

 すべての罪の負債を支払ってくださった。

 この主に感謝して、すべてをゆだねて生きる。 主よ、感謝します。

 主こそ、生ける主、愛の主、永遠の命の主です。

 主をほめたたえます。

 私は、主を誇ります。 私たちは主を誇ります。 ハレルヤ!

 

 

7月9日() 聖日礼拝 説教メモ

      「誰かが弱っているなら」    コリント11章16-29節

 

★自分と他の人

 自分と他の人の関係 自分を理解し、他の人を理解する。

 自分は何者か、どのようにして今があるのか その理解は、自分の生き方において、他者との関係において大事な要素。

 

★自分を愛する、自分を大切にする

 自分を愛する、自分を大切にする そんなこと、当たり前ではないですか?

でも、それはとても大切なこと

自分を愛すること、自分を大切にすることができるか、できないか。

それは、自分の子ども時代、自分の今までの歩みに関係している。

子ども時代、今まで、愛されて、大切にされてきたという経験のある方は、大きな財産。幸い。その経験が、自分を愛すること、自分を大切にすることにつながる。

反対のことも当然ある。子ども時代、また今までの歩みにおいて、あまり愛されて来なかった。大切にされなかったという経験

自分を愛することがなかなかできない、自分を大切にできない。

それでは、そのような人は、そうできないかというと、決してそうではない。

過去に戻ることはできないが、すべてを支配しておられる主の愛を経験することで、生き直すことができる。

自分を愛する、自分を大切にすることができる。

 

★他の人を愛する、他者を大切にする。

 それは、簡単ではない。

自分のことではなく、他の人、他者のこと 自分のことで頭がいっぱいの現代人である私たち。 他の人のことまではどうも。

自分を愛する、自分を大切にできなければ、他の人を愛したり、大事にすることはできない。

他の人を愛しなさい、大切にしなさい、大事にしなさいとどんなに言われても、簡単ではない。そう簡単にはできない。

自分を愛し、自分を大切にできて、初めて、他の人を愛し、大切にできる。

 

★使徒パウロ

 彼はどのような人であったか。どのような歩みをしてきた人か?

 彼の3つのあり方、経験

①第1 それはエリートとしての歩み

 特別な血筋 ヘブライ人 イスラエル人 アブラハムの子孫

◎22節 

11:22 彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそ  

うです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。

 特別な血筋、 選民イスラエル

 ユダヤ教の中心の律法を厳密に守る。 そのことを何よりも大事にして歩んだ。 そのことで、神の御心にかなう。神の愛の中に生きることができる。

 律法を完全に守らないならば、律法をないがしろにするなら、神の愛は注がれない。

 律法を大事にしない者は、律法に従って歩まない者は、失格者だ。

 自分たちこそは、自分こそは、律法の遵守者、自分こそは、神から愛される最高の者だという自負があった。

 律法を守らない者、律法をおろそかにする者、律法を知らない者は、呪われよ。

 神の愛の外に置かれている者だ。とんでもないものだと考えていた。

②第2 キリストに仕える者

 その上記のパウロが一転して、キリストに仕える者になった。

 私たちも誰に仕えるかを選ばねばならない。 仕えるべきいろいろな存在がある。

上司に仕える、 会社に仕える、 この世に仕える、 お金に仕える、 名誉に仕える

 このために、このことを一番として歩む  人によって、それぞれ

◎23節

11:23 キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。

 キリストを信じ歩む者になった。

 かつては熱心なユダヤ教徒、そこから熱心なキリスト教徒

 自分は、主に仕えるのだ、主の御心に従うのだと、伝道者、宣教者になった。

 使徒言行録を読むと、彼が、第1伝道旅行、第2、第3伝道旅行に進んで行ったことを知ることができる。

 キリストに仕え、キリストを宣べ伝えるのだと進んで行った。

③第3 苦難の連続

 その伝道者、宣教者としての道は、楽な道とその反対の道

 つらいことを多く経験する。 誰もそれを望まない。 でも、そのような歩みがある。

 パウロはどのような経験をしたのか?

◎23-28節 

11:23 キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。

11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。

11:25 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。

11:26 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、  

荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、

11:27 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、  

寒さに凍え、裸でいたこともありました。

11:28 このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教  

会についての心配事があります。

 これでもか、これでもか

 キリストに仕えて歩む、すなわち伝道者、宣教者として歩む中で、つらいことを数多く、経験した。

 ・投獄される      ・鞭を打たれる   ・石を投げられる

 ・難船する 海上を漂う ・川の難      ・盗賊の難

 ・同胞からの難     ・異邦人からの難  ・町での難

 ・荒れ野での難     ・海上の難     ・偽の兄弟からの難

 ・苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、

・飢え渇き、しばしば食べずにおり、    ・寒さに凍え、裸でいた

・日々わたしに迫るやっかい事、      ・あらゆる教会についての心配事

 これだけのことを経験したら、どうかなってしまう。 堪えられない。

 普通なら逃げ出したくなる しかし、パウロは逃げ出すことをしなかった。

 

★誰かが弱っているなら

 誰かが弱っている。 困っている人がいるとほおってっておけない

 誰かが弱っている 一緒にいてあげたい。助けたい。

◎29節

11:29 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。

 このようなことが実際問題、できるのだろうか?

 なぜ、そのようにできたのか?

 

★使徒パウロの後悔

 思い出すとつらくなる経験 2つ

①ステファノの殉教

 7人に執事と呼ばれる働きに召された人たちの中にステファノという人がいた。

 信仰において、恵まれた人であった。 彼は霊的に輝いていた。

 そのステファノは最後、殉教の死を遂げた。

○使徒言行録7:54-60

7:54 人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。

7:55 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、

7:56 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。

7:57 人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかか  

り、

7:58 都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。

7:59 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わた  

しの霊をお受けください」と言った。

7:60 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声 

で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

○使徒言行録8:1-3

8:1 サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。

サウロ、それはパウロの主イエスに出会う前の名前

 サウロはステファノの殺害に賛成していた。

 ステファノが最後の最後まで、キリストを仰ぎ見つめ、キリストに祈っていた姿、

 迫害する者に罪を負わせないでくださいととりなし祈りつつ、息を引き取った姿を見ていた。

 

②キリスト者への迫害

 キリストを信じる者を見つけたなら、かたっぱしに捕らえ獄の中に投げ込んだ。 

○使徒言行録8:1-3

8:1 サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。

8:1 その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤ  

とサマリアの地方に散って行った。

8:2 しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。

8:3 一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。

教会を荒らし。教会をつぶす。キリスト者すなわちクリスチャンを徹底的に痛めつけ

る。

 後になって、すなわち、自分自身がキリストを信じ、従う者になって、大きな後悔になったことでしょう。

 なぜ、あんなことをしてしまったのだろうかと。

 

★パウロにとっての忘れることのできない経験

 ダマスコ途上で、復活の主と出会う。 回心の出来事

○使徒言行録9:1-20

 ダマスコ途上で、復活の主と出会う。 ダマスコ途上の回心

 とんでもないこと、ひどいことをしていたこの自分

 滅ぶべきこの自分を神は滅ぼさなかった。斥けなった。

 むしろ、ご自身の懐に中に招き入れた。 

 神の愛に打たれ、神の愛に捕らえられた。

 自分こそは、神の律法を守り従い生き、神に最高に愛されていると思っていたが、その反対であった。神の顔に唾をかけるようなものであった。

 しかし、神は忍耐し、憐れみ、この自分を招き入れてくださった。

 

★パウロはどう変わったのか?

 キリストに捕らえられた。神の愛に捕らえられた。

 神の愛の大きさ、深さ、広さを知った。

 この許されざる者が許された。 神の愛の中で憩い、生きる者になった。

 

★誰かが弱っているなら、自分は

 誰かが弱っている。 困っている人がいるとほおってっておけない

 誰かが弱っている 一緒にいてあげたい。助けたい。

◎29節

11:29 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。

 誰かが弱っている、悲しんでいる、苦しんでいる、悩んでいる、行き詰まっている。

 弱り切っている。 自分も同じ思いでそこに立つ、同じ思いになってそばに寄り添った。

 誰かがつまずき倒れている。何とか支えになりたい、何とか起こしてあげたい、立ち上がらせてあげたいと願い、そのように歩んで行った。

 それは、ちょうど、よきサマリア人のようであった。

○ルカによる福音書10章25-37節

 祭司、レビ人は、強盗の襲われ傷つき倒れ、瀕死の状態にあった人を見殺しにして去っていった。しかし、サマリア人は、その傷つき倒れている人のところに近づき助けた。

 ケガの治療をし、介抱した。

 宿屋にまで連れて行き、その費用まで支払った。

 身の危険をも顧みず助けた良きサマリア人のように、パウロは歩む者になった。

 

★神の愛に支えられ、励まされつつ

 神の愛に支えられ、神の愛に励まされつつ歩む。

 自分自身を愛し、大切にする。

 そして、自分の目の前の相手を愛し、大切にする。

 悩み、悲しみ、苦しみの中にある人たちを忘れない、その人たちに寄り添う。

 そのように歩ませていただきましょう。

 

7月30日() 聖日礼拝 

   「誇る者は主を誇れ」 コリントの信徒への手紙二10章12-18節

 

★現在を生きる。

 現代という時代を生きる。 現代という時代特徴の一つは競争社会で得あるということ。 より強く、より早く、より多く。

 他の人よりもより強くある 自分が強い存在である。強力に物事を進めていく。 他の人よりも早く進む。 他の人よりも少しでも早く前に進む。

他の人よりもより多くのものを手に入れる。 より多くのものを手に入れることが素晴らしいこと、勝利者であると考える。 それらのことを目指して歩む。

すべてが競争、それに勝ち抜いたものが素晴らしいと、勝利者であると考える社会。

それに向って進む。いつも競争、いつも頑張らなければと考える。そのように、歩んできた。大切な人生が、そのことを中心に進む。

そのように歩むことで何かを手に入れる。他の人からの評価、自分の自己満足。

 

★人生は何のために。

 自分の生涯、人生は何のためにあるのか。

 何かを達成するためにある。満足を入れるためにある。

 実際には、達成できないことは多い。必ずしも満足できないことは多い。

競争は確かに一つの動機とはなるが、それは一部にしか過ぎない。

競争を中心に据えるならば、確かに頑張ろう、頑張らねばとなるが、それだけならば、むなしい。競争で疲れきってしまうことがある。

自分の命、人生をどう豊かに生きるか。これは大きなテーマです。

 

★豊かに生きる。 

 自分に与えられた命、自分に与えられた人生。

 これを豊かに生きる。 そのことを喜び、感謝して歩む。これこそ幸いなこと。 主なる神によって与えられた命、主なる神によって与えられた人生。

 自分の命、自分の人生ではあるが、主なる神から与えられた命、人生であることを心に留めたい。

 自分の命、自分の人生であるが、主より与えられた命、与えられた人生である。 そのことを知る時に、私たちは大きな喜び、感謝を持つことができる。

 

★大きな喜び、大きな感謝

 自分の命、自分の人生に対しての喜び、感謝を主にあって持つことができる。

 この命、この人生は、主からのプレゼントなのだ。

 与えられたもの、そのことに感謝。

  プレゼントは、立派さ、大きさ等に関わらず嬉しいもの。

  この自分に与えてくださった相手への感謝があり、これをいただいた。嬉しいなあ。 この自分を覚えてくれた相手に対する感謝。

 自分の命、人生は、神によって与えられたもの、なんという感謝なことか。

 その与えられた命、人生を喜び、感謝しつつ、歩みたい。

 競争のために与えられたものではない。それを享受するために与えられたもの

 

★享受することを妨げるもの

 ①妨げる第一のことは、主を見上げず、人を見ること

  競争に終始する。ある時にはうまくいくかもしれないが、ある時にはうまくいかない。 他の人を見る。 他の人はああだ、こうだ。 それと同じように、それに負けないように。それはとても疲れてしまう。

 基準が他の人との比較であるから。 他の人との比較ではなく、自分に与えられた命、人生。 神から与えられたものなのに、その与え主を見ないで、人を見る。  いつの間にか、その中で疲れきってしまう。

 ②妨げる第2のことは、自分の頑張りで、自分の力で、進もうとすること。

  うまく行くこともあるが、そうでない時もある、そうでない時の方が多いかもしれない。 頑張ったけど、うまく行かなかった。

  自分の力不足を覚える。自分の限界を覚える。

 その前に進む力がなくなる、それを妨げる大きな事柄に直面することがある。

 

★与えられている命、人生を享受するためにはどうしたら良いか?

 ①第1は、人ではなく、主を見上げる。

  この命、この人生は主によって与えられたことを心にとめること。

  主と出会うまでは、自分の命、自分の人生、これは自分で何とかしなければと考えていた。

  主との出会いの中で、主によって与えられた命を生きているのだと、主によって与えられた人生だと考えるようになった。

  主よ、この命を、この人生を与えてくださり、感謝しますと心に覚えつつ、生きる。

 ②第2は、その主に必要を満たしていただく。 

  与え主なる主よ、この命、この人生を進むのに必要な力を与えてくださいと祈りつつ、歩むこと。

  主は必要をご存じであり、与え、満たしてくださる。

 

★弱い時を経験する、弱い時を過ごす。

 これは、どうでしょうか? 心地良いものでしょうか? 普通はそうではない。 弱い、乏しいことを経験することがある。  

 うまく行っていたことがうまく行かなくなった。  

  今まではなんとか行けていたのに、そうできなくなった。

  学校や職場での歩み。 前に進めなくなった。 

そこでの歩みに喜びがなくなった。疲れが出て、そこに身を置くことがつらい。

  人間関係がうまく行かなくなった。

   それまでは何とかうまく行っていたのに、どうもうまきいかなくなった。

   喜びがなくなった。 苦痛を覚えるようになった。

  健康が優れなくなった。 体調が良くない。病気になった。

   力を失う。 今まであって力が急に乏しくなった。

  思春期に、壮年期に、初老期に、老年期に 人それぞれ違う。

 弱さを経験する。

  それまでは良かったのに、急に、それ以降、どうも良くない。

 私自身の一つの経験

  中学3年生の時に、右眼の眼底出血。 思ってもみなかったこと。

  家での絶対安静を言い渡され、休学。

  自分だけこのようになってしまった。自分だけ学校に行けない。これからどうなるのという不安、恐れ。3カ月ほどの休学を経て、再び復学。右眼には眼帯をしたまま、

  通院治療の甲斐なく、1年後には、右眼は失明してしまった。

  思春期に経験したことでした。

 

★パウロ自身の経験

 パウロ自身は、あることを経験していた。

◎7-8節

12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。

12:8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。

 とげが与えられた。 とげそれは決して小さなものではなく大きなものであったようです。 とげは小さなものであっても、それが刺さっていれば、気になってしょうがない。それによって痛みを覚える。そのとげを抜き去るまでは落ち着かない。 指や手に刺さったとげならば、自分で何とか抜き去ることができる。

 私は時々、木を切ったりという作業をするので、良くとげが刺さる。カッターナイフを使った抜き去る。

 とげは深く刺さっていたりすると、抜き去ることは大変。 自分では抜き去ることは難しいこともある。

 また、返しのついた針 その代表は釣り針。どんなに頑張っても抜けない。

 病院に行って抜いてもらったことがある。

 ある方は、眼のすぐそばを奥深くに木の枝が刺さり入り込んだ。

  緊急に手術をして、手前の部分は抜き去ることができた。その奥は抜き去ることができない。その奥の部分は、遠いところの専門の病院に入院して、大変な手術をして抜き去ることができた。

 パウロの場合はどうであったか?

  そのとげを抜き去ってください、取り除いてくださいと切に願った。三度願った。 何度も何度も、願った。 しかし、そのとげは刺さったままであった。

 とげが刺さったまま。それは大きな痛みが続き、大きな支障が出る。

 そのとげは、彼の生涯において、大きな支障となった。

 どのようなとげであったのでしょう。

いろいろなことが言われている。

 伝道旅行の中で、マラリアを感染した。その後遺症

マラリア原虫をもった蚊(ハマダラカ属)に刺されることで感染する病気

  発熱に伴い、倦怠感、頭痛、筋肉痛、関節痛などがみられるが、腹部症状(悪心・嘔吐、下痢、腹痛)や、呼吸器症状がめだつこともある。

 マラリアの典型的な症状には、発熱や頭痛、震えや悪寒などが挙げられる。周期があるのがマラリアの特徴で、三日熱は48時間、四日熱は72時間の周期で症状が繰り返される。治療が遅れ症状が悪化すると、脳症、意識障害や多臓器不全、といった合併症を引き起こす。これらの合併症は致死的となることもあるため、迅速な治療が必要。

 てんかん発作を持っていたのではないか

 てんかんにもいろいろなタイプがある。あるタイプは、突然けいれん発作を起こす。その時に意識も遠のく。突然、全身がけいれんして倒れてしまう。

 パウロはそのようなてんかん持ちであったのではないか。

  人前で急に意識が混濁して全身を引きつらせて倒れてしまう。

 人々は驚くことでしょう。福音を堂々と語っていた自分が、突然そのようになる。 もしそうならば、福音宣教において、人々のつまずきになったこともあったでしょう。

 眼の病 眼の痛み、眼の調子が良くない。眼が良く見えない。 これは日常生活においては大きな支障です。

 そのとげによって、大きな支障。 人々からは、そのことでさげすまれまれる。 自分の中においても頑張ろうと思っても、そうできない。大きなブレーキとなったことでしょう。

 

★パウロは悲しみ、苦労した

 そのとげを内に持ちつつ歩む。大変だったことでしょう。

 悲しみ、苦労したことでしょう。

 あの使徒パウロ、優秀な人物であったであろうパウロに、大きな大変さがあった。それを内に持ちつつ歩んだパウロ。

 驚くと同時に慰めを覚える、励ましを覚える。 自分だけではない、あのパウロもそうだったと

 サタンから送られた使いである。そのことで、パウロ自身は苦しみ、悩んだ。

 それは大きな悲しみ、苦労であった。

 生涯にわたって抱えていた大変さであった。

 

★パウロは二つの大きな経験をしていた。

 パウロ自身の大きな経験

 1つは、あのダマスコ途上での経験 復活の主イエスが自分に現れてくださった。 主イエスよりの語り掛け、回心の出来事 そのことで主イエスを信じる者になった。

 もう一つが、天上の世界を垣間見た。

◎1-4節

12:1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。

12:2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。

12:3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。

12:4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。

◎7節

12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。

 招かれている天の御国、やがて行く天の御国 第3の天 楽園

 そこがどんなに素晴らしいと事かを垣間見た。

 ある一人の経験。それはおそらくパウロ自身であったことでしょう。 

言い表しえない言葉を聞いた。 どのような言葉であったのか。

 ここに永遠に住むことになる。 主なる神と共に、主をほめたたえる天の聖徒として。  この地上の生涯を終えた後に移されるところ。

 目指すところ、ゴールの幸いを知らされた。

 

★とげを通して何をパウロは得たのか?

 とげがあり続ける。内に持ち続ける。それは良くないこと?、まずいこと?

 マイナスなこと?

 普通はそう考える、受け止める。

 

★第1には、思い上がることのないように。 

謙遜に歩むために。へりくだって歩むこと。

◎7節

12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。

 人は、力を得ると、頂点に立つと自分勝手な歩みをしてしまう。

 傲慢になる。 自分の思い通りに事を運ぼうとする。 

 自分こそは偉い者、偉大なる者、自分こそは間違いがない。 

 自分の考え、計画はすべて正しいとして、強引にことを進める。

 そのために、周りの者たちは苦しむ。 どれほど多くの人が悩み、苦しむことでしょう。 そのようにならないように。 遜って歩む者とされた。

 

★第2には、弱さを抱えつつ歩むことの尊さを心にとめるために。

 弱さを認め、それを抱えつつ歩んだパウロ

 マイナスのものではない、これがあるからこそ、主と共に歩むことができるのだ。 弱さを誇ったパウロ。

 普通は弱さは、まずいもの、マイナスのもの、隠すべきものと考えられた。

 しかし、パウロは、弱さを誇った。弱さこそを誇った。

 人と違った弱さ、これさえなければと考えるもの。しかし、パウロはこの弱さを誇った。 これこそ、私の誇り。

◎5節、9-10節

12:5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。

12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 

★第3には、キリストの力をいただくために。

 弱い自分、弱さの中に投げ込まれた。

 弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まり。もうどうにもならない。その中に投げ込まれどうしようもなくなる。

 もうだめだ、これ以上は進めない。万事休すだと考えてしまう中で、使徒パウロは、主を見上げた。主に祈った。

 どうしたら良いでしょうか? もはやここまでです。

 主よ、守ってください。支えてください。私の力も知恵も限界です。

 主よ、憐れんでくださいと

 キリストがパウロ自身を支えてくださった。必要な力を与えてくださった。

 驚くべき力に満たしてくださった。

主は、必要な力を与えてくださるお方です。

イザヤ書40章の御言葉です。

○イザヤ40:27-31

40:27 ヤコブよ、なぜ言うのか イスラエルよ、なぜ断言するのか わたしの道は主に隠されている、と わたしの裁きは神に忘れられた、と。

40:28 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神 地  

の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく その英知は究めがたい。

40:29 疲れた者に力を与え 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。

40:30 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが

40:31 主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

 

★弱い時にこそ強い。

 弱い時、それは自分の力では限界、行き詰まり

 その時にこそ、主により頼む、主に叫び求める。

 苦難の時こそ、主を呼び求める、主は応えてくださる。

 必要な力を与えてくださる。 自分の力により頼んでいた時よりも、より幸いな力を備え与え、満たしてくださる。

 弱さを抱えつつ、主により頼み、キリストの力が宿るようにと願い求めつつ、歩んでいきましょう。主は与えてくださいます。満たしてくださいます。

 

 

 8月6日() 聖日礼拝 説教メモ

   「造り上げるために」 コリントの信徒への手紙二12章11-21節

 

☆暑い日々

 猛暑の中、毎日、大変。 クーラーがなければ、どうにもならない。 

 地球温暖化の影響で、年々、夏の気温が高くなっている。以前は8月半ばを過ぎればぐっと涼しくなった。今は9月になっても暑い。

 それでも、暑さのピークはあと2週間ほど。この暑さを乗り越えていきましょう。

 

☆暑さの中で、水分補給

 体をうまく涼みつつ、水分補給をしっかり。 塩分も少々摂りつつ。

 暑さの中で、雨が降らないと、プランターや花壇の土は一気に乾く。そのままにしていると花や野菜は枯れてしまう。

 その都度、水をやる必要がある。花や植物の世話は一仕事。

 農家の人は畑の作物への水やり、大変。 これは作物を育てるためにしなければならない。

 土がカラカラの時に、すぐに対処が必要。 この時に手を抜けば、枯れてしまう。

 

☆世話を受ける花や野菜、作物は

 世話を受ける花や野菜や作物は元気に育つ。

 労を惜しまず、花や野菜や作物、木々の世話が必要。

 花や野菜、作物は、その元気を失った姿をもって水を求める。

 金魚でも亀でも、おなかをすかせると餌が欲しいとアピールする。そのアピールを見て、また決まった時間に餌をあげる。 「おなかがすいた、餌を食べさせて」

 飼っているネコや犬に対しても、様々な世話をする。飲み水をあげ、餌をあげる。

 

☆親は子どものために

 親は子どものために、労を惜しまない。特に子どもが小さい時に。

  乳幼児期、小学生、中高の時。

 子どもが健やかに成長するように、愛情を注ぐ。 おいしいご飯を食べさせる。

 その成長のために、様々なことに心を用いる。

 子どもは、その愛情を受け、その世話を受けて、すくすくと成長する。

 

☆使徒パウロの姿勢

 コリントの教会の人たちに対してのパウロの姿勢

①忍耐強く

◎12節 

12:12 わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。

 主にあって、しるしや、不思議な業や、奇跡を行った。主がそのことを助けてくださった。

 それらを通して、コリントの教会の人たちが主にあって歩み続けるように、主にしっかりつながるように。

 楽々と行ったのではない、心を込めて歩みつつ、なしていった。

 そこにあったのは忍耐強さ。

 水やり一つにしても、餌やり一つにしても、毎日、欠かさずに。 そこには忍耐強さが必要。

 小さな子どものために、大きな子どものために、家族のために、食事作りをすること、これも大変な仕事。 そのことで、家族が養われる。

 パウロは忍耐強く、なすべきことを行った。

 

②負担をかけないように

 水やり、世話やり、食事作り、1回につき100円と請求しない。

 レストランで食事をすれば、1食につき、500円、1000円はすぐにかかる。 下手をすると、2000円を超えるかもしれない。

 家では、請求されない。

 1食を作るのに、食材費、そのための手間、時間もたくさんかかる。

 その代金を子どもに請求する親はいない。

◎13節

12:13 あなたがたが他の諸教会よりも劣っている点は何でしょう。わたしが負担をかけなかったことだけではないですか。この不当な点をどうか許してほしい。

 パウロは、コリントの教会の人たちに対して,負担をかけなかった。

 これはパウロ自身の姿勢であった。使徒として、宣教者としての働き。

 日々、食事を必要、住むところも必要であった。普通は、働き人のために、その教会がその生活の必要を差し上げる。

 牧師、伝道師のために、教会では、その働きに対して、住まい(牧師館)を用意し、その生活の必要を謝儀として渡す。 私たちも皆さんの祈りを受け、教会から必要なものを受けて歩ませていただいている。 大きな感謝。

 パウロは、天幕作り、移動しようと思えば移動できるテントを作ることで、その収入を得て歩んだ。自分の生活のための必要を自分でまかなった。

 教会の人たちに負担をかけなかった。

 それは、金銭的なことだけでなく、様々な面において、心がけた。

 

 コリントの教会、そこにつながる人たちのためにそうした。

 

③間違った道に進まないように。

 コリントの教会の人たちが間違った方向に進まないようにと心を用いた。

 キュウリ、ニガウリ、ぶどう、メロンの特徴が一つあります。 それはつるを伸ばすことですね。 その蔓で自分自身を固定して上に伸びていく。

 その蔓が変なところに絡みついたり、おかしな方向に向かっていったら大変。時に方向をうまく調整する。

◎20-21節 

12:20 わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、と いうことにならないだろうか。争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。

12:21 再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。

  争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動、不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行い それらは時に陥ってしまう。

 霊の親であったパウロは、霊の子どもであるコリント教会の主にある兄弟姉妹の歩みが間違った方向に行かないように、祈り、心を用いていた。

 万が一、そのようなことに陥ったならば、そこから抜け出すことができるように。☆より良いものが壊れないように

 そこから悔い改めることができるようにと祈り、関わった。

 

 ☆より良いものが壊れないように

 この世の中で、より良いものが多くある。

 心を込めて形成されている家庭 親と子ども、親戚   互いに励まし合って歩む

 インフラ、建物 生活のために必要なものが設置され、建築される。

 人間関係 互いに助け合い、仕事を進める、社会を形成する。

 より良いものを時間をかけて造り上げる。それらが、破壊されていくならば、悲しいこと。

しかし、私たち人間は、時に、それらの大切なものを踏みにじったり、壊してしまうことがある。強引にそうしてしまう。 平和を踏みにじる。その代表が戦争ですね。

 

★戦争がやむように、戦争が起きないように、平和が訪れるように、平和が回復するように。

 これは私たちの願いです。でも実際には、悲しい現実がある。

 今も世界のいろいろなところで、戦争が起きている。弾圧、迫害が起きている。

 小さな存在が踏みつけられている。

 8月は、日本人である私たちにとって平和を願う月ですね。

 8月第1聖日、日本キリスト教団においては、平和聖日と定められている。

 世界の平和、日常の歩みにおけるこの社会の平和を願い求めていきましょう。

 教会婦人8月号に、「平和の実現を」という題で説教を書きました。

 九州教区で出された、2023年平和聖日に寄せての「祈りの言葉」が届きました。

 とても良いものでしたので印刷して皆さんに配付させていただきました。

 交読の形で記されています。世界の平和を願いつつ、交読してみたいと考えました。司式者とみんな、そして一同となっているところは一緒に。

 では、言葉をかみしめつつ、祈り心をもって交読したいと思います。

 感謝です。

 

☆使徒パウロの姿勢、祈り

 ①、②、③に続いて、さらに2つ。

 

④自分を使い果たそう。

 コリントの教会の人たちの持ち物を使わず、パウロ自らの持ち物を使って歩んだ。

◎15節

12:15 わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。

愛の労苦

自分自身を使い尽くそう。そのような心意気。

 

⑤造り上げる

 造り上げるために労したパウロ

 一人の人が大きくなる。いろいろなことを学んで大きくなる。

 そのために多くの愛が注がれる。

 私たち一人一人も、多くの愛が注がれてきた。

  親から、祖父母から、兄弟姉妹から、叔父、叔母、親族から 

  先生から、・・

◎19節

12:19 あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。

 造り上げるために、労する方々、労した方々

 そのために働きかけてくださる聖霊なる神さま

 感謝します。 応答していきます。ハレルヤ!

 

 

8月13日() 召天者合同記念礼拝 説教メモ

  「仕えるために来られた方」 マルコによる福音書10章35-45節

 

☆召天者合同記念礼拝

 コロナ4年目の中での召天者合同記念礼拝を捧げます。

 今年も午前と午後に分散して行います。 コロナ1年目より、2年目、2年目より3年目と出席者が増えました。 今年4年目にして、参加者も増えています。 先に召された方々を覚えます。

 召天の年から50年、40年、30年、20年、10年、7年、5年、3年、初年と記念の年の方々は1ページ目のプリントのごとく、33名です。

 その中で、初年の方々は7名です。

  

☆上に立ちたいと願った弟子たち

 人の上に立ちたい。 それは、多くの人の願いかもしれません。

 今日の聖書箇所において、そのことが具体的に記されています。

 主イエスの二人の弟子は、1つの願いを持っていました。

 それは、特別の位につくことでした。

 「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」お願いました。

◎マルコ福音書10:35-45

 主イエスの特別の弟子の数は、全部で12名でした。その中の2名が抜け駆けをしたのでした。 特別の位につく、主イエスと共に特別な特権を持つということです。

高い地位、人々から褒めたたえられる、人々から特別に仕えてもらえる。

特別な地位に就くということは、多くの人が憧れます。 二人の弟子、ヤコブとヨハネはそのことを願い、そっと求めました。

 あなたの右に、あなたの左に、右大臣、左大臣に、特別な位にと願った。

主イエスは、やがて栄光の座に就くことだろう。その時に自分達こそ、その右と左にと願い求めた。

主イエスの答え、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」

その話を聞きつけたその他の10名の弟子たちは、腹を立てた。

抜け駆けをした。許しがたい。 その他の10名の弟子たちも、みな同じ思いを

持っていた。 自分こそ、特別な位につきたい。右大臣、左大臣になる。

他の人たちに仕えられる身となる。

他の人に仕えてもらう。他の人に上に立つ者として、命令することができる。そのような者になりたいと願っていた。

 

☆主イエスの答え

 主イエスの答えは以下の通り。

◎42-44節

 

10:42「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。

10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、

10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

 偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい。

 一番上になりたい人は、すべての人の僕になりなさい。

 仕えられること、他の人に僕になってもらいたいと願っていたのに、仕える者になりなさい、僕になりなさいと言われた。

 

☆仕える者、僕とは。

 主人に対して、お客さんに対して、心を込めて接待する。

 おいしい食事を作る。その主人、そのお客は、おいしい料理がテーブルの並べられるのを椅子に腰かけて待つのみ。

 仕える者、僕は、その食事のために食材を買い揃え、台所で、おいしい料理を作る。夏の暑い日、クーラーをつけていても、厨房は、料理を作る火で、クーラーも全然効かないほど。時に汗びっしょりになる。

 どんなにおなかがすいていても、主人のために、お客のために、ひたすら作る。 その料理を一所懸命に作る。

 そのできた料理を盛りつけ、テーブルに運ぶ。 その料理をきれいに並べる。

次ぎ次とおいしい料理を作る。そして運ぶ。 お代わりがあれば、更に運ぶ。

主人、お客が食べ終わるまで、接待する。

 日常の中で、そのようにしている人たちもいることでしょう。

子どもたちのために、家の者たちのために、毎日、精出す。

 

☆仕えられる者、仕える者

 弟子たちは仕えられる者になることを願った。

 その弟子たちに、仕えられる者ではなく、仕える者になりなさいと主イエスは語られた。

 弟子たちは、仕えることは損、仕えられることは得だと考えた。

 

☆世界における苦しみ

 その代表の一つは戦争ですね。

 昨年2月24日にロシアによるウクライナへの軍事侵攻、その実態は戦争。 

 今なお続いている。

 そのことを命じたロシアの大統領は、軍人たちを戦場の前線に送った。しかし、自らは決して、前線には行こうとしない。ただ命令するだけ。

 多くの人が亡くなった。ウクライナの人の一般人、兵士たち、そしてロシアの兵士たち。

 ウクライナの人達がどれだけ嘆き苦しんでいることか。それだけでなく、ロシアの人たちも。 ロシアの大統領は、多くの兵士が亡くなり、追加の動員を行った。若者たちが駆り出された。そして多くの者たちが今もなお多く亡くなっていく。

 上に立つ者が、人々にその悲しみ、苦しみが少しも分かっていない。

 ロシアは人口の8割近くがロシア系だが、約80の民族が住む。 少数民族国家から招集された若者たちは、戦闘の激しいところに送り、多くの人が亡くなっている。

約9割がイスラム教徒のダゲスタン共和国、モンゴル系ブリヤート人が人口の約3割を占めるブリヤート共和国。少数民族が優先的に激戦地へ投入されている、イスラム教徒やモンゴル系が多い地域から派遣された兵士の死者数が突出している。

 上に立つ者が自分の都合の良いように、自国民であるのに、少数民族国家の若者たちをぞんざいに扱っている。悲しい現実がある。

 

☆平和を願う。

 かつての日本 日中戦争に、そして太平洋戦争に突入

 多くの若者が戦争の招集された。そして戦死した。

 日本の国が、アジア諸国へ 朝鮮への侵略、中国への侵略 多くの人を苦しめた。 多くの戦争の犠牲者、アジア諸国、日本において

 15年にわたる戦争は日本人の軍人軍属などの戦死230万人、民間人の国外での死亡30万人、国内での空襲等による死者50万人以上、合計310万人以上の犠牲 日本の侵略戦争は、アジア・太平洋各国に2000万人以上の死者を含む史上最大の惨害をもたらしました。

 

☆多くの悲しみに満ちた世界に生きている私たち

 私たちは、多くの悲しみに満ちた世界に生きている。

 その中にあって、心を通わせ合って励まし合い、歩んでいる。

 その人間関係の中で、特につながりが深いものが家族であり、親族です。また共に歩んで来た信仰共同体の神の家族です。

 多くの励ましを受けた、愛情を受けた。

 また励ましを与え合った。愛情を互いに交わした、愛情を注がれ、愛情を注いだ。

 毎年の召天者合同記念礼拝において、先にこの地上の生涯を終えた方々を追悼する。

 

☆記念の年の方々

 召天の年から50年、40年、30年、20年、10年、7年、5年、3年、初年と記念の年の方々は、全部で33名です。

 その中で、初年の方々は7名です。

  朝位真士先生、福江幸子姉、平河友代姉、黒田キワ姉、福江 聰兄、藤原力惠姉、谷本信子さんの7名です。

   

☆仕えることの究極   

 仕えられることは簡単、でも仕えることは簡単ではない。

 仕えられることは人が身を削る。それに対して、仕えることは自分の身を削る必要がある。 自分の身を削ること、簡単ではない。 

 

☆溺れる子どもを助けようとして

 溺れる子どもを助けようとして、海に飛び込む

 子どもを助けて手渡した後で、その父親が力尽きて沈んで溺れ死ぬということが時にある。

 

☆子どもを生み出す母親

 命がけの仕事。

 子どもを生み出す中で、母親が亡くなる、今は少なくなったとはいえ、かつては、子ども産むことで、出血多量や感染症で亡くなることは結構あった。

 出血により輸血 それで肝炎になり、寿命が短くなった人もいる。

 

☆人の子主イエス

 主イエスはご自身の命を捧げてくださった。

◎45節

10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。

 人のことは、主イエスを指す言葉。

 主イエスは仕えられるためではなく、仕えるために来られた。

 公生涯の最後には、弟子たちの足を洗った。

○ヨハネ福音書13:1-15

13:3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、

13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

13:12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。

13:13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。

13:14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。

13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

 主イエスは、僕がすることを自らなした。

 僕になり、互いに仕え合う者となるようにと諭された。

 その方は、案の罪もないのに、最後には捕らえられ、十字架につけられ処刑された。 その命を奪い取られた。 自らの命を差し出された。

○ローマの信徒への手紙6:23

6:23 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

 真の神を見失った私たち人間、真の神を無視して歩むようになった私たち。

 その結果、間違ったことも正しいと考えて歩み、自らだけでなく、周りの人をも苦しめる者になってしまった。取りかえしのつかない事さえしてしまう者になってしまった。 払いきれない罪の重さ、重大さ。

 その報酬は死であると。自分の命でもって償うしかない。

 でもその命を差し出したら、それは死をもって命の終わり。

 その命を差し出しても償いきれない人の犯す罪の重大性。

 罪が全くないお方である神の独り子である主イエスがおいでくださった。

私たち人間全体の罪、私たち個々人の罪、その罪の代価を支払うために、主イエスはおいでくださった。

 そのことで、罪の償いがなされ、罪が赦され、神の子どもとされ、主なる神と共に 歩むことができる。

 

☆神の愛

 神はその独り子をお遣わしくださった。

 私たちが、主イエスによって永遠の命を得るために。

○ヨハネ福音書3:16

 3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 

☆仕えるためにおいでくださった方

 その方は、まさにその命を私たちのために捧げてくださった主イエスです。

 仕えられるためではなく、仕えるためにおいで下さいました。

 本日、召天者の方々を覚え、御前に記念礼拝を捧げています。

 先に召された方々との出会い、交わりを主は与えてくださいました。

なお、この地上に残って歩む私たちも、故人を偲びつつ、主の愛に生かされて進

みましょう。

 

8月27日() 聖日礼拝 説教メモ

 「神の力によって生きる」 コリントの信徒への手紙二13章1-23節

 

☆かつての自分

 振り返って、かつての自分を思い出す。

 ・かつて、とても勢いがあった。強かった、元気が良かったと思う人もいることでしょう。 しかし、今は、その勢い、強さ、元気が乏しくなったと思う。

 ・かつては、好き勝手に生きていた。他の人のことを考えずに自分の思うままに生きていた。自由だった。 一方、他の人に迷惑をかけていた。

 ・かつては、希望なく生きていた。むなしさの中に歩んでいた。心の中にむなしさを覚え、それを打ち消すべく強がって生きていた。

 

☆この手紙を書いたパウロ自身

 かつては熱心なユダヤ教徒

 クリスチャンに対して迫害を加え、多くのクリスチャンを捕らえ、牢の中に投げ込んだ。

 その自分が、キリストとの出会いを通して、悔い改め、キリストを信じ、キリスト者、クリスチャンになった。 そして、キリストを宣べ伝える者になった。

 

☆キリストを紹介する。

 キリストはこのような方ですとパウロは紹介する。

 よく知っている方を紹介する。この方はこのような方ですと。

 

☆キリストは強い方です。

 キリストは強い方

◎3節

13:3 なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。

 あなた方に対して弱い方ではなく、強い方。

 力強い方 私たちを生かしてくださるお方。 祈りを受け止め、聴いてくださるお方。

 私たち人間は強く見えて、そうではない。あることで、急に弱くなることがある。 病気になれば、とたんに弱くなる。 大きな試練に遭えば、意気消沈してしまう。希望を失ってしまう。

 キリストは、弱い方ではなく、強い方。 寄り頼んで良い方。 寄り縋って良い方。 

 主にお祈りしつつ、相談しつつ、 力をいただきつつ。

 私自身は決して強くはない。 強いお方を見上げつつ歩む。

 主に寄り縋りつつ、キリストを誉めたたえつつ。

 

☆キリストは、十字架にかかり、復活されたお方

 キリストは十字架にかかり、3日目に復活された。

◎4節

13:4 キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。

 キリストは小さくなってくださった、弱くなってくださった。

 神の位を捨て、私たちのこの世に、人の子としてお生まれくださった。

 私たちはどうでしょうか?

自分を捨てることは簡単ではない。プライドがある。

私はこれこれの者、こんなことは私のする仕事ではない。自分はこんなことはしない。 自分を捨てることは簡単ではない。

 

 キリストは、神の地位を捨てて、父なる神のもとを離れ、この世においでくださった。 人となっておいでくださった。 弱い人間となっておいでくださいました。 それだけではない、私たちの罪の代価を支払うために、十字架にかかってくださった。 その命を捧げてくださった。

 十字架での死、すべてが終わったように思えた。 しかし、そうではなかった。 十字架の死より3日目に復活された。

 父なる神が、このイエスを復活させてくださった。

 神の力により、死を打ち破る力によってそのことがなされた。

 神の力によって生きておられる方です。復活の主として立っていてくださる。

 

☆使徒パウロの願い

①悪を行わないように

 悪を行わないように、分かっていても、ひきつけられるのが私たち。

◎7節

13:7 わたしたちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。

 これはしてはいけないと頭ではわかっていたはずなのに、気がついたらそのことをしていた。 さまざまなこと、 ネットの闇サイトにひっかかる。・・

 相談する方が必要。 自分だけでしているといつの間にか間違ったことにも引っかかる。

 主に祈りつつ歩む。 万が一、そこに陥っても、回復の恵みをいただく。

 もう引き返せないのではない。そこから引き揚げていただく。

 

②善を行うように

 善を行う。 これはすべきだ、した方が良いと思うこと。

 わかってはいても、時間を取られたくない。 自分の計画、自分のしたいことがある。 頭の上を素通りしてしまうことは多い。

◎7節

13:7 わたしたちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。

 その中で、主によってこれは大切なこと。これはなすべき善だと教えていただき歩む。

 瀕死の旅人を助けた良きサマリヤ人のように。

 人を思いやる心をしっかり持ちつつ。

 

③完全なものになりなさい。

◎9節

13:9 わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。

◎11節

13:11 終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。

 すべてを完璧にこなすことはできない。

 すべてをパーフェクトにこなそうとすればどこかに無理が来る。

 自分の思い通りに事を運ぼうとすれば、自分勝手な思いの中で、自己満足にすぎなくなる。他の人にそのひずみが及ぶ。 そのような自分中心の完全は破綻してしまう。

 主を仰ぎつつ、このことをどう歩んだら良いのでしょうかと主に問いつつ、歩む。 主に喜んでいただけるようにするにはどうしたら良いでしょうかとお尋ねしつつ、取り組む。 自己満足ではなく、主を仰ぎつつ歩み、心に平安が来るように。

 他の人にも喜んでいただけるように。他の人にも主を証しできるように。 

 共に主の恵みに与かって行けるようにと祈りつつ、歩む。

 

④喜びなさい

 主にあって喜ぶ。

◎11節 

13:11 終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。

 心沈むことがある。 落ち込むことがある。

 様々なことの中で、うまく行かないことの中で、弱気になる。心が下を向くことがある。 そのような時にも、主を仰ぐ。

 このことの意味はどのようなことでしょうか?

 今このようなことでストップがかけられています。行き詰っています。

 でも、これでおしまいでは決してありません。

 主が共にいてくださいますから、感謝します。

 きっと、何らかの意味があり、道が新たに開かれていくことを信じます。

 主を見上げつつ、祈りつつ歩むときに、励ましを心に与えられる。

 大きな山も主にあって小さく見える。 平安を回復する。

 喜ぶことができる。感謝。

 

⑤励まし合いなさい

 励まし合うことは喜び。

◎11節

13:11 終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。

 互いに励まし合うこと、喜び。

 個人主義の現在。 自分のことばかりで、他の人のことは我関せずという時代。 その中で、励まし合うことは大きな感謝。

 自分の大変さを理解してくれる人がいたら、励まされる。

 昨年の1月から来島絵美子姉が当教会に出席するようになり、その年のペンテコステの日に転入会され、教会員になりました。

 もともと献身の思いを持っていた姉妹ですから、神学校入学に向けて、覚え祈りました。 そして今年度から東京聖書学校に入学されました。

 前期を終えて、後期に向かう時です。

 来島姉を覚えて、送り出した教会として、祈ることができ感謝です。

 毎月有志で、それぞれ示された口数の援助献金をし、毎月限られた金額ですが、支援のお金を送ることができるようになりました。

 神学校の期間は4年間です。この4年間は、サポートによってその生活の必要を満たしていただきつつ、歩む期間です。 励まし合って共に歩んでいきましょう。

 

⑥思いを一つにしなさい。

 自分勝手な思いは輪を乱す。 自分だけ、自分達だけ良ければ良いとなり、周りの人を苦しめることになる。

 周りから総スカンを食うことにもなる。

◎11節 

13:11 終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。

 互いを思い合い、互いの益を求める。

 一つのことに取り組む。

 いろいろなことに教会としても取り組んで来ました。

 この20年ほどの間にもいろいろなこと

 60周年記念誌の発刊 4年ほどの準備、取り組みが必要でした。

 70周年記念誌も発刊

 第1駐車場(およそ70坪ほど)の取得 福岡県の土地の売り出し

   これを取得、皆で、予約献金を募り、捧げ、満たすことができました。

 清水会堂の外壁補修と塗装にも取り組むことができました。

 曽根会堂の増築 礼拝堂の隣半分を増築することができました。

 今取り組んでいることがら 納骨堂建設

  主のみ心を仰ぎつつ、心を合わせて取り組んでいます。

 意見と違いが全くないことはありません。しかし、その中で、心を合わせ、祈りを合わせ歩む。 それは大きな感謝です。  

 

⑦平和を保ちなさい。

 平和を願い、求める。

◎11節  

13:11 終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。

 8月は、日本にとっても平和を求める月です。

 終戦から78年の年。

 かつての戦争でどれだけ多くの人が亡くなったことか、日本の国が引き起こした太平洋戦争で、アジア諸国で2千万人ほどの方々が亡くなられました。

 日本の国でも300万人を超える方が亡くなりました。

 中国、韓国、朝鮮等への侵略。 どれだけ多くの大きな悲しみをもたらしたことです。 今も、ウクライナでは戦争が続いています。

 国と国の平和を願います。

 人と人の平和はまた、それ以上に大切です。

 互いの思いを受け止め合い、相手を尊重して、心を合わせる。

 国と国の関係、人と人の関係の中で、難しい問題もないわけではありません。

 その間に、主を置いて、主のご支配のもとで、互いが受け止め合えるように、支え合えるように。互いを尊重し合えるようにと進んで行きましょう。

 

☆自分は強い、弱い?

 自分は強いと考える人もいます。

 反対に、自分は強くない、弱いと考える人もいます。

◎4節

13:4 キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。

 いろいろなことを経験してくると、やはり、強いとは決して考えられない。

 強く見えても、強くない、弱いということを実感する。

 様々に行き詰まり、危機を経験して、自分は本当の弱い者だと思う人は多い。

 強い、なんでもできること、それはすごいことに見える。

  周りの人からもそう見られる。自分はそのような者だと誤解してしまう。

  そして、自分勝手なことをしてしまい、周りの人に迷惑をかける、周りの人を苦しめる。 自分は強い、なんでもできる、なんでもしても良いのだと考えて歩むときもないわけではない。そのような時は傲慢になってしまうことがある。他の人の思い、苦しみ、悩みに心が向かないことが多い。

 自分が弱いことを覚える時、自分の小ささを覚える時、謙虚さが与えられる。

 自分にできることはそんなに多くはない、限られている。

 そのような中で、できることは何だろう。 他の人の思い、苦しみ、悩みに心を向ける。

 自分の弱さの中で沈んで行ってしまうこともないわけではない。

 でも、感謝なことは、一人孤独の中ではない。

 主に結ばれた者として生かされている。支えられている。

 主よ、なお生かしてください、支えてくださいと祈って進むことができる。

 

☆真理のために  

 自分は何をもって生きているのか。 人それぞれ違うことでしょう。

  今の健康、体力によって  自分の能力、賜物によって

  自分の持っている財力によって   自分のかつての業績によって、成し遂げたことによって  自分のプライドによって。

 クリスチャンである私たちは、何をもって生きたらいのか?

◎8節

13:8 わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。

 真理に逆らう。 間違ったことも良しとして歩むなら、うまくっているように思えても、決して良い実を結ぶことはできない。

 正しいこと、主の心に沿って歩むときに、主は必要な力を満たしてくださる。

 主の御心を求めて、その御心に従って歩むときに、主は助けてくださる。

 

☆内に住んでくださるキリスト

 主イエスを信じる者の内にキリストは住んでくださる。

 キリストの霊である聖霊が内に住んでくださる。なんという感謝。

◎5節 

3:5 信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。

  思い出を心にとめて歩む それも時に励ましになる。 しかし、悲しみにもなることがある。

 かつての業績を心にとめて、しかし、今の励ましにはあまりならない。

 内に住み給うキリストを心にとめて歩みたい。

 

☆神の力によって、キリスト共に

 神のご支配の中、力を受けて受けて歩むことはどんなにか幸いなことでしょう。

◎4節

13:4 キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。

 聖歌588番

  1主と共に歩む その楽しさよ  主の踏みたまいし みあとをたどる

   ひと足 ひと足 主にすがりて たえず たえず われは進まん

  2赤子にひとしき か弱きわれは ただ主にすがりて いのちに歩まん

    ※折り返し

  真衣姉の伴奏で讃美しました。 主と共に歩む。キリストと共に歩む。

  確かな人と共に歩む、力ある人と歩む、良く道を知っている人と共に歩む。

  正しい方と共に歩む。 ゴールへと導いてくれる人と共に歩む。それは幸いなこと。

  一足一足、主にすがり、絶えず絶えず進む キリストと共に。

 キリストが力を満たしてくださる。

 上からの神の力を日々注いでいただきつつ歩む。

 

 

 

9月3日() 聖日礼拝 説教メモ

    「生き生きとした希望」     ペトロの手紙一1章1-5節 

 

☆神のご計画

 神のご計画は最善です。

 神は、善にして善を行ってくださるお方です。神は最善をご計画くださる。

 神は良きお方です。 愛のお方です。 その神が御心の中で、この世界をお創りくださった。地球が存在している大宇宙、その大宇宙の中に最高に素晴らしい地球 その地球に住む私たち人間

 その私たちのために最高のご計画をもって、ご支配してくださっているのです。 神のご計画は完全です。

 

☆人の計画

 一方、人の計画は完全そうに見えたとしても、不完全です。

 その計画は、自己中心です。かなり偏っています。

 自分のことばかり考え、他の人のことはあまり考えません。

 それは、一時的で、途中で変わってしまうことがあります。

 

☆神の大いなるご計画

 それは、この世界に生きる私たち人間を愛し、主と共に歩むようにすることです。

 真の祝福の神を見失い、自分勝手に歩むようになり、さまよう者となってしまった私たち。 その私たちを見出し、主と共に歩むようにすることです。

 そのために、私たち人間の歴史の中に現れ出でてくださいました。

 それは、父・子・聖霊なる三位一体の神、聖なる神が、この世に現れ出るということです。

 神の御子イエスが人となり、この世においでくださるということをもって、私たち人間の救いを成し遂げるということです。 神が大いなる愛の犠牲を支払ってくださるということです。

  私たちを神のものとしてくださるというご計画。 なんという感謝なことでしょう。 

◎2節

1:2 あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。

 

☆神の選び

 神が選んでくださった。

 神がこの私たちを選んでくださった。なんという幸いでしょう。

 この世で、ある学校に入るために、ある会社に入るとします。

  その学校、会社が特別に入るのが難しいとします。そうだと、特別に入るために努力しなければならない。その入るために自分を磨き高めなければならない。そこには競争がある。その競争に勝ち抜かなければそこに入ることはできない。 その時には、他の人よりも優れたものが要求されます。 どれだけ、優れているか、秀でているか、良いものを持っているかが問われます。

 その選びのために四苦八苦しなければならない。うまくそれを乗り越える人もいますが、そうでない人もいます。

 この世では、選ばれるためには、優れていなければならないということがあります。

 しかし、神の選びは愛の選びです

 私たちが他の人と比べて優れているから、私たちを選ばれのではありません。

 むしろその反対です。

 あの100匹の中の迷い出た羊のたとえを思い出します。

 迷い出た1匹の羊を、真の羊飼いである主は探し求めてくださるのです。

 立派だからではありません。むしろその反対だからです。

 迷い出てさまよい苦しんでいるから、主は憐れんで探し求め、み救いへと導いてくださいます。

 

☆イエス・キリストを通して

 救いの代価は、主ご自身が支払ってくださった。

 イエス・キリストを通して支払ってくださいました。

 払いきれない罪の代価を、あの十字架で、主イエスがその命を犠牲として支払ってくださった。

 神を見失い、さまよい、勝手な歩みをした。多くの人の愛を受けながら、その愛に感謝もしないで歩んできた。 それどころか、恩を仇で返すようなことをしてきた。 時に、周りの人を傷つけ、苦しめたことか。

 そのようなことがどれだけ多くあったことか、ほとんど気が付いていないこともあり、忘れてしまったこともある。

 その中のいくつかを思い出し、心が苦しくなることがあります。

 そのことに対して、お返し、償いができることもあるかもしれませんが、ほとんどできません。 過去に戻って、その間違いをやり直すこともできません。 まさには払いきれません。

 人に対してだけではありません。

 自分に対して、あの時そうしてあんなことをしてしまったのだろう、どうした甲できなかったのだろうと悔やむことがあります。 しかし、過去には戻れません。

 神の愛に背いて、神の愛を無視して歩んだ。神の御心を無視し、神の愛に対して、それを踏みにじって歩んだことがどれだけあったことか

 しかし、神は、イエス・キリストの命を通して、すべてその代価を支払ってくださったのです。なんという感謝でしょう。

 

☆守られていること

 守られていることほど幸いなことはありません。

 安心感、これほど幸いなことはありません。 

 安心感を得るために、人は心を用います。

◎5節 

1:5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。

 現在の生活、将来の生活が確かであるように。しかし、様々な心配が起きます。 

 その生活が確かであるためには、先立つお金が必要だ。貯えがなければ心配だと考えます。貯えたしても果たして足るだろうか、いや足りないかもしれない。 思うようにならない、そして焦ります。

 たくさん貯えているけど、急な出費が出るかもしれないと考えると気が休まらない。

 今与えられている健康がどれだけ確かだろうか、この健康が害されたならどうしう。 普段はあまり考えないとしても、病気になると急に弱気になります。

この病気は治るのだろうか、この病気がひどくなっていったらどうしようと不安になります。 そう考えると、私たちは、心配の種は尽きません。

守られているという安心感を持つことができるなら、それは幸いなことです。

神の力により信仰によって守られている。

○マタイ6:33-34

6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

 主がすべての必要を満たしてくださる。主に信頼する。

 自分がすべてを満たそうと考えれば、今日のことだけでなく、明日のことまで思い煩うことになる。

神に信頼して歩む。 心配のことも主にお任せして、お委ねする。

主は、私に必要なものをご存じである。その主に信頼する。

主は必要なものを満たしてくださる。 神の力によって守れ、歩むことの幸い。

 

☆天の財産

 この地上で財産を蓄える。 

 貯えもいつかはなくなってしまう。 この世にあっては、それは盗まれることもある。 すべてを失うこともある。

 たくさんの貯えがあれば、安心であると同時に心配でもある。

 誰かがこのたくさんの貯えを狙っているかもしれないと考えると気も抜けない。 このたくさん貯えたものはこれからどうなるのか、生きている間に使いきれない。 誰の手に渡るのだろうかと心配になる。

 この地上に財産を蓄えることも一つの道だが、もう一つの幸いな道がある。

 それは、天に財産を蓄えること。

 永遠に残るもの それは神の御手の中で守られるもの

 神に覚えられるもの

 神に対して、神の御心を覚えつつなしたこと。それこそが永遠に残る。

 この地上に命が与えられ、生かされて歩む。

  その中で、主のみ心をなす。

 ①神の子どもとなり、主に感謝しつつ、喜び生きる。

  主を心から褒めたたえ、礼拝を捧げつつ、歩む。

  礼拝を捧げること。それを抜きにして歩んでも良いのではという誘惑を退けつつ歩む。

 ②他の人に対して

  自分のできることをなす。 共に歩む。

  自分のことだけでなく、他の人のことを考え、できることをなす。

  苦しみの中にある人達を支える。 何らかの援助を行う。

  他の人と共に、その歩みを大切になしていく。

 ③主の愛を証しする、主のみ救いを宣べ伝える。

  神は愛なるお方であること、その方と共に歩むことの幸いを、自分の生きざま、生活をもって証しする。

  主イエスによって、神は、救いを成し遂げてくださった。

  その愛は今も働いておられる。

  岡摂也牧師

   長年の付き合いの友だちがいる。いつも会うと、食事の時などには必ず食前のお祈りを捧げていた。それだけで良いのかと示され、悔い改めて、主イエスによる救いについて、少しだけ語ったと証しされた。素晴らしいなあと思いました。 これらの歩みをすることを通して、天に宝を積む。

 

☆さらに素晴らしい財産

 それは、主イエスを信じ受け入れ、この地上にあって神の子とされた者に対して、神が用意してくださっているもの

◎4-5節

1:4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。

1:5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。

  朽ちず、汚れず、しぼまない財産

 それは、天の聖徒としても歩み。

 神の直接のご支配のもとで、永遠に生きる。 御国の民として歩むということ。

 この地上にあっては、様々なつらいことがある。

 戦争によって、大切な家が破壊され焼かれる、愛する家族を失う。

 様々な苦しみを時に経験する。 災害や事故で愛する家族を失う。

 重い病気にかかり、人生の半ばで、人生を終える。

 愛する者と共にもっと長く生きたいと願いつつ、別れなければならない。

 人に裏切られる。 借金の返済に追われる、・・ この地上での歩みの大変さ

 そのような私たちを主は憐れんで、励ましてくださる。

 なぜですか?どうしてですか?と主に尋ねつつ、最終的に主にお委ねして歩む。

 主イエスにある神の愛を受け止め、主イエスを救い主として信じる。

 神の子とされて新たに歩み出す。 天の御国の後継ぎとされる。

 

☆希望に生きる

 希望に生きたい。 どんな時にも希望を失わず歩みたいと願う。

 しかし、その希望はしぼむことがある。 ぺしゃんこに

 自分の内に希望をため込もうと思っても、簡単ではない。

 希望はなくなってしまうことがある。

◎3節

1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、

 ため池の水は濁る、枯渇することがある。 

 一方、川の水は濁りにくい。次々と上流からきれいな水が流れてくるから。

 水源、上流から、次々流れ込んでくるので、干上がることはない。

 

☆希望の源である神

 神は希望の源であるお方です。

○ローマ15章13節

15:13 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

 神こそ、希望の源 希望を与え続けてくださるお方

  聖霊の力によって希望を満ち溢れさせてくださる。

 

☆生き生きとした希望

 生き生きとした希望、生ける希望

◎新改訳

1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

 尽きない希望。

◎ヨハネ福音書4:13-14

4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。

4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。

 生ける望み

 復活の主によって、生ける主によって、満たしを受ける。

 主イエスを信じ、神の子としていただく。 新生の恵みを受ける。

 復活の主が、生ける聖霊を注ぎ与えてくださった。

 その聖霊なる神に生かされて、生き生きとした希望、生ける望みを絶えず、満たしていただく幸い。

 これをいただきつつ、歩む。 ハレルヤ!

 

 

 

 9月10日() 聖日礼拝 説教メモ

    「魂の救いを得て」      ペトロの手紙一1章6-12節

 

☆夏が終わり、秋を迎えました。

 夏の暑さも過ぎ、朝晩、少し涼しくなり、過ごしやすくなりました。

 夏の暑い日差し、厳しいもの

 でも、その暑い日差しを受けて、幸いな収穫があることも確かです。

 稲の実り 穂が色づき、おいしいお米ができる。

 これからなし、栗等、秋の実りが楽しみです。 

 あの暑さを経て、おいしい収穫が備えられる。

 夏の暑さを経て、秋にはミカンも色づき、甘さも増しおいしくなる。

 

☆スポーツの秋

 秋には、様々なスポーツがなされる。 暑い夏には、甲子園野球もあった。

 この秋にも、様々なスポーツが盛んになされることでしょう。

 バスケットのワールドカップで、日本も頑張り盛り上がった。

 ラグビーのワールドカップも始まりました。

 そのスポーツにおいては、勝つための準備をする。 体を鍛える。

 ラグビーにおいては、まさに肉弾戦。体を鍛えておかなければ、吹っ飛ばされてしまう。

 ぶっつかる、走る 様々なことにおいて、練習を重ねる。

 体力の限界まで、練習をなし準備する。 体に負荷をかけ、鍛え上げる。

 勝負に臨み、勝利すれば、大きな喜び。

 

☆山登り

 登山 山登り 若い時の山登り

  山登りは、途中、厳しい。 上に向って歩いて行かねばならないから

岩山があれば、それを登って行かねばならない。

  その途中のきつさも山頂につくと、喜びがあふれる。

  山頂に着いた。山頂から眺める景色は最高です。

 

☆日々の歩みにおいて

 歩みを進める中で、前に進むのを妨げるものがある。

 道の途中にぬかるみがあれば、そこで足を取られる。 なかなか前に進めない。

 前に進むことができない、ストップ。 それどころか、後退させられることもある。

 

☆困難

 様々な困難がある。 今までうまくいいっていたのに、うまく行かなくなった。 仕事において、人間関係において、健康において

 仕事がうまく進まなくなった。 人間関係がうまく行かなくなった。

 人からの中傷を受ける。 仲間外れに合う。

 自信のあった健康が、優れなくなる。 体がきつくてたまらない。

 

☆試練

 なぜ、どうして、こんな大変さが降りかかってきたのだろう。

 うちしおれることがある。

◎6節

1:6 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、

 こんなつらさの中に投げ込まれた。

 ヨセフのことを思い出します。

  兄たちの妬みを買って、エジプトに奴隷として売られてしまった。

  そこでの悲しみ

 フィリピの町に着いたパウロとシラス

  占いの霊につかれた女性からその悪しき霊を追い出してあげた。

  その結果、その女性を利用し、商売をしていた者たちから捕らえられ、鞭打たれ、足枷をはめられ、牢の中に投げ込まれた。

 

☆試練の中で

 行き詰まり悩み、苦しむ。 なぜ、どうして。 これからどうなるのかと悩む

 中3の時の右眼の眼底出血

  突然の休学 これからどうなるのかと悩んだ。不安、恐れ

  1年後には、もう治る見込みがないということで、右眼の治療打ち切られた。

  その期間、不安があり、恐れがあった。

 なぜ、乗り越えることができたのか

  それは、自分のことを心配し見守ってくれた両親がいたから。

  一人ではない。身近で心配してくれる親がいた。

 

☆共にいて支え励ましてくれる存在

 困難、試練に遭った時、不安と恐れがやって来る。焦りもやって来る。

 孤独感、どう対処したら良いのか,果たしてどうなるのか。 

 このまま沈んで行ってしまうのではないか。

 その時に、近くにあって励ましてくれ者がいれば、大きな励まし、力となる。

 子ども時代には親がいた。 しかし、もうその親はいない。

 大人になって、共に励まし合って歩んだ友がいた。その友も遠くに旅立ってしまったということもあるかもしれない。 励まし支えてくれる存在は大きい。

フィリピにて牢に投げ込まれたパウロとシラス

 どうしたか? 恨みつらみを叫んだか? そうではなかった。

 真夜中に賛美と祈りを捧げた。

 二人で励まし合ったことも支えだったでしょう。しかし、何よりも主が共にいてくださることが分かった。決して見捨てられてはいない。 

 ここから出る道も主がきっと備えてくださる。 今のこの大変さにもきっと意味がある。

 その夜大地震が起きた。

  その夜、一人の看守とその家族が主の救いに与かることができた。

 

☆試練の中にあっても喜ぶ

 試練の中に置かれたら普通は喜べない。 なぜ、どうして、こんな苦しみ、試練 ああもう嫌だ 沈み込んでいっても決しておかしくない。

 しかし、沈み込まない。その反対に喜びにあふれる。 その幸いを主は備え与えてくださるお方。

◎8-9節

1:8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。

1:9 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

  心に平安がある。不思議な平安。

  喜び、感謝がある。 それはまさに奇跡。

 

○ローマ8:26-39

8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

8:27 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

 

8:34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

 

 聖霊のうめき、とりなし 主イエスのとりなし

 この私は忘れられていない。忘れられないどころか、覚えていただき、執り成し祈られている。 聖霊なる神が内にあって執り成し祈ってくださる。

 復活の主イエス、神の右の座におられる主イエスが執り成し祈ってくださる。

 私が頑張っているからではない、わたしはもはや頑張ることもできない。

 この私を主は愛してくださり、支え守っていてくださる。

 愛を注いでいてくださる。この私は、見捨てられることなく、覚えられ、愛が注がれている。なんという感謝なことでしょう。

 そのことがわかる。主イエスを信じ救われた者における喜び。

 主は私の助け主、支え主、導きの主  私を守り支え、最善に導いてくださるお方。

 この地上の歩みの先には、御国を用意し待っていてくださっている。

 

☆試練には意味がある。

 試練には意味があると心に留めたい。 この試練にはきっと何か意味がある。

 この試練がなければ、この私はとんでもない者になってしまうかもしれない。

 試練がこの私を造り変えてくれる。

◎7節

1:7 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

6節における試練 peirasmo  試み

7節における試練 doki,mion   ためされること、試練

  7節の言葉 試験済みの、検証済みの、最善のものなどの意味がある。

 主がその試練を通して、私たちを引き上げようとされている。 

  この私を新たに造り変えようとしておられる。

  金の精錬 純金を作り出すために。

灰吹き法

 灰吹き法はまず磨り臼や回転臼で鉱石を細かく粉砕する粉砕作業を行います。細かく砕かれた状態では金銀だけでなく不純物が含まれるため、金の純度を高める工程が必要となります。鉛と一緒に炭火で溶かしていき、金銀と鉛の合金を作ります。この合金を灰で敷かれた鍋の中で熱することで、最初に鉛が溶けて最後に金銀だけ残るのです。

 灰吹き法が確立される前は金を生成する方法がなかったので、純度が低いまま使用されていました。地域によっては品位もばらつきがあったと考えられています。

 火を通して不純物を取り除く.純度の高い金を作るために。

 

☆やがておいでくださるお方

 やがておいでくださるお方がおられる。 再臨の主イエス

 主はいつの日にか、再臨の主としておいでくださる。

 この地上の歩み 力ある者が我がもの顔で支配している。 悪しき者、闇のものが暗躍している。 それらのものはやがて、裁かで、滅ぼされる。

 再臨の主がすべてを裁かれる。

  主につく者とそうでないものを振り分けられる。  

 主につく者と共に、永遠のご支配をなされる。

 やがておいでくださる方がおられる。

 勝利の主は、すべてを支配される。

 称賛と光栄と誉れとをもたらされる。 

 e;painoj    誉れ、賛美

 do,xa 栄光、栄華、好評、名誉

 timh 価格、価値、代価、 尊敬、敬意、謝礼、ほまれ、名誉、栄誉

【新共同訳】

1Pe 1:7 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

【口語訳】

1Pe 1:7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。

【新改訳改訂3】

1Pe1:7 あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キ リストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。

 

☆キリストの苦難とそれに続く栄光

 キリストご自身が苦難を受けてくださった。  キリストご自身が苦難を受けてくださった。

 その最後は十字架での死、しかし、その3日後に復活してくださった。

 苦難の主が勝利の主になってくださった。

 その苦難は私たちのためであり、私たちに救いをもたらすためであった。

○イザヤ53:1-12

苦難の僕 それは後の世に生きる私たちのためであることを示された。

◎10-12節

1:10 この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。

1:11 預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。

1:12 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。

 

☆魂の救いを得て

 主のみ救いをいただき、神の子どもとされて歩む者とされた。 主こそ、私の主。 私と共にいてくださる。 愛を注いでくださる。  どんなことがあっても主が助け導いてくださる。 私は、主にあって憩い、歩む。

 思いもかけないことが起きても、主は共にいてくださる。 私は主のもの。

 

 私の魂は、主によって救われ、歩む者とされたのだ。ハレルヤ!

 

 

 

 9月17日() 敬老祝福礼拝 説教メモ

 「道、真理、命なる方」   ヨハネによる福音書14章9-14節 

 

☆人生の秋

 人生の歩みは季節になぞらえることがある。

 ・人生の春 子ども時代、思春期

 ・人生の夏 壮年期 なんでもバリバリとこなす

 ・人生の秋 50代を過ぎ、60代以降、70代、80代

 ・人生の冬 年齢がかなり進んだ時の意味もあるかもしれないが、難しい問題にぶっつかったり、試練の中に置かれた時を意味するのではないか。

 人生の秋

  初秋 月で言えば9月 60代  中秋 秋半ば、10月 70代

  晩秋 秋の後半11月 80代、90代

 

☆本日は敬老祝福礼拝

 80歳以上の方々 清水会堂では、35名の方々

 人生の秋 晩秋の中にある方々 なお守られ豊かな日々でありますように!

 かつて100年以上前? 人生50年と言われていた?

 今は人生80年、90年、100年と言われるようになった。

 その年齢に達する前に人生を終わる方々も当然おられる。

 でも80歳になられ、なおお元気な方々も多くおられる。

 その年齢にならなければ分からないことは多くあることでしょう。

 長生きをしたことの中で、この年齢まで守られたと喜ぶことも多いことでしょう。

 長生きをするということは悲しみや不安も抱えることでしょう。

 共に歩んできた伴侶を先に天に送る。 親しかった友が先に旅立つ。

体も、当然壮年の時とは違う。 すぐ疲れを覚える。病気を抱え込む。

 記憶力も衰える。 自分でいろいろなところの出かけることも少なくなる。家に閉じこもることも多くなる。  これからの日々をどう過ごすか

 人生の終わりが近いことを感じつつ、どう最後のところを歩むかを考えざるを得ない。

 

☆人生の歩みにおいて

 人生の歩みにおいて何かができた、できなかったということも一つの柱となる。 このことを成し遂げる、このことをこなす。

  そこには取り組む情熱やエネルギーが必要。努力も必要。

  目標を立て、それに取り組む。それを成し遂げるには様々な苦労もある。

  それを成し遂げた時の達成感も味わうこともできる。

  その準備としての、人生の春の歩み、そして、それに正面から取り組む人生の夏の歩みがある。

 人生の歩みにおいて、もう一つの大切な柱がある。

 それは何か、それは平安の中に、感謝しつつ歩むということ。

 人生の夏において、様々なことに取り組む。うまく行くこともあり、うまく行かないこともある。その歩みの中で、平安と感謝があるかはとても大切なこと。

 いろいろなことに取り組んで、こなしている。でもそこに平安と感謝が乏しかったら残念なこと。

 人生の秋において、なお仕事に取り組む人はいないわけではない。

  ほとんどは第1線を退き、自分の時間も多くある。第1線、現役の時のように忙しくは決してない。自分のリズムで毎日を過ごす。自分と向き合う時間も多い。 その中で、平安と感謝を持ちつつ歩むことができるならば幸いです。

 

☆人生は道である

 人生は自分の歩む道である。

 自分の歩む道において、人との比較ではなく、自分自身の心に平安と感謝も持って歩むならば幸いなこと、これほど幸いなことはない。

 道においては二つのことがある。

 一つは、その道がまっすぐでない、時に曲がりくねることがある。舗装された道だけではない。山に登る道で考えるなら、途中岩だらけであったり、前に進むのを妨げる岩が転がったりする。 その時、困難を覚える、大丈夫だろうか、これ以上進めないのでないか。大きなエネルギーを奪われる。心配になる。

 もう一つは、進むべき道が分からなくなる、迷い道に入ってしまう。

どちらに進むべきかわからなくなる。どの道を進めば頂上に行きつくことができるのか、また、ちゃんと下山できるのかと焦る。

 夢の中で、どの電車に乗れば良いのかわからなくなる。どの道を進んだら目的地に着くことができるかわからなくなり、とても焦ることがある。

目が覚めて、ああ夢で良かったと思うことがある。

 夢の中ではなく、現実の歩みの中でどう進んだら良いかわからなくなることがある。

 

☆進むべき道

 進むべき道が分からなくなった時、一番助けになるのは、その道をよく知っている人に進むべき道を教えていただくことではないでしょうか。 人生の秋において、進むべき道

 今まで経験したことが役に立つこともあるでしょう? しかし、80歳以降の歩みは今まで歩んだことがない。 その歩みを助けてくれる存在があったなら、これは程大きな恵みはない。

 

☆主イエスの宣言

 主イエスは宣言された。わたしは道であり、真理であり、命であると

◎6節

14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

 そのお方は、私たちを父のもとに導いてくださるお方

 天の御国へと確かに導いてくださるお方。

 人生の晩年において、一番大きな心配、課題は人生の最後のことではないでしょうか? どうこの人生を着陸するか、人生を終えるか。

 違った言い方をするなら、この地上から天の御国へとどう離陸するか

 主イエスはその大きな事柄においても、助け導いてくださるお方です。

 

☆主イエスは道です。

◎6節

14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。

道、歩みということで詩編を少し探してみました。

*道

○詩編16:11 ○詩編23:3 ○詩編25:8 ○詩編27:11 

○詩編37:23

 歩むべき道を教えてください。命の道を教えてください。と祈り求めている。

この私に、道を見失たこの自分に その道を示し教えてくださるのはあなたのみです。主なる神のみですと歌っている。祈っている。

 主こそ、命の道を教えてくださるお方、正しい道を教えてくださるお方。

間違いなく頂上に着く道、それは天の御国に入る道です。

その道は、新しく造られた。 天の御国に入る道は、主イエスの命の犠牲があって初めて完成した。 その犠牲なくしては、完成されなかった。

しかし、あの十字架の死を通して、主イエスの命の犠牲を通して完成された。

*歩み

○詩編37:31  ○詩編56:14 

 歩みが弱くなることがある。

 そのような時にこそ、共にあって励まし助けてくださる。 支えてくださる。

 時に背負ってくださる。 よろめくことなく歩むことができるようにしてくださる。 

○詩編121:1-8

主はよろめかないように見守り助けてくださるお方。

主は、あなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。

 見守ってくださるお方、危険から、敵からも守ってくださるお方。

 見捨てることなく、離れることなく共にいてくださるお方。

 

☆主イエスは真理です。

◎6節

14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。

 人の造ったものはやがて廃れてしまう。どんなに真理だと主張しても、それは変わってしまう。そのことを言った本人は、それとは外れた歩みをしていることもある。

 人の考え出した真理は、時代と共に廃れ過去のものになってしまう。

聖書の示す神は、永遠の初めから永遠の終わりまでを支配しておらえるお方。

この世界のすべてを創造してくださったお方。

この世界を支え、導いておられるお方。

主イエスは、十字架の死の後、3日目に復活して今も生きておられるお方。

主イエスの霊である聖霊は、私たちを真理へと導いてくださるお方。

 神がどれだけ確かな方か、どれだけ愛を注いでいてくださっているかを教えてくださる。 

 命の主をいつも指し示してくださる。

○詩編119:105

119105あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。

道を進むとき、よろめくことがある。ふらふらすることがある。

 命の御言葉をもって、私の道の光となり、歩みを照らす灯としてなってくださる。

 今も生ける主が、人の言葉や考えではなく、聖書の御言葉、神の言葉をもって主から離れないように導いてくださる。

 崖から転落しないように導いてくださる。

◎9-12節

 父なる神から遣わされた主イエス 主イエスは父なる神の内のおられ、父なる神は主イエスの内におられた。

 その地上での歩みを通して、神を示してくださいました。

そして、その十字架の死をもって、そして復活を通して、救いを成し遂げてくださったのです。

神の見守り、励まし、支え。

 主イエスを通して救いへと導いてくださる。

 魂の救いを与えてくださる。信仰の実りとしての魂の救い

 主イエスがこの私の罪をすべて背負って、あの十字架にかかってくださった。

 ただこの私を愛するゆえに、この私を救うために。

 私が何かましな人間になったからではない、何か少し良いことをしたからではない。

 自分の罪を贖うことは私たちには決してできない。

 しかし、この私のために主が、ご自身の命を持って、罪の代価をすべて支払ってくださった。このことを受け止め、主よありがとうございます。

 主イエスを私の救い主として受け入れますと心から信じ、そのことを表明することで、主はみ救いへと導いてくださる。

 

☆主イエスは命です。

6節

14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。

日々、主につながって歩む者に実を結ばせてくださる。

○ヨハネ15:5

15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

 その約束の通り 信仰は生きたもの。

過去に生き、現在に生き、未来に生きる。

特に現在の歩みにおいて、主イエスにつながって歩み続ける。

その時のカギになる御言葉の一つ

◎13-14節

14:13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。

14:14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 主イエスの名によって祈る。

 ただ祈るのではない。主イエスの名によってお祈りします。お願いします。

 郵便の最後に、中身を封筒にしっかりいれること、封をきちんとすること。

 そして送り先をちゃんと書いておくこと 最後に料金の切手をちゃんと貼ること。

 主イエスの名によって、最後に貼る切手のようだ。

 主イエスの名によってお祈りする。

  主イエスを救い主として信じ、主イエスに信頼してお祈りする。

 その祈りをかなえられる。

 主にいよいよ信頼して歩む。命の主につながって。ハレルヤ!

 

                          (久多良木和夫)

 

 

 10月1日() 聖日礼拝 説教メモ

    「あなた方の信仰と希望」  ペトロの手紙一1章13-25節 

 

☆良きもの

 良きものを求め、良きものを手に入れ、その良きものと共に歩みたい。

 ある人にとっては、それは一生かけて学ぶ学問である。その学を深める。

 あることの研究に生涯を費やすこともあるでしょう。 病気の治療、病気に対しての新薬 この仕事、この仕事に生きがいを持ち、それに打ち込む。

 友との出会い、伴侶との出会い

  親友と呼べる人を持っている人は幸い、助け合って歩む伴侶 子ども、また孫 ペット 家で飼っている犬や猫 かつて飼っていた犬や猫

 自分を生き生きさせる趣味 それらの良きものをもって歩めることは幸い。  

☆それぞれの生涯で大切にするもの

 これこそ、大事にしたい。 それがその人を生き生きさせる。

  自分が持っている良いもの、自分が出会ったその良いものを大切にする。

 ある人は、他の人に幸せを求めて、大きな喜びを心に持つ。

 

 

☆本日の説教題は、「あなた方の信仰と希望」

 信仰 これこそ大切なもの、これこそ信頼する者、この方こそより頼むべき方

 希望 今を生かすもの、将来に向けての明るい光 このことを心にとめる時、大きな喜びとなるもの

 信仰、希望はとても大切なもの それを持っていない時、不安であり、恐れが心によぎる。不安や恐れが心を占める。 人生における不安や恐れ 一時的なものもある、一方、長くそれに付き合うこともある。それと向き合い、苦悩することもある。

 信仰、希望をしっかり持ちたいものです。

 

☆信仰、希望を超えるもの

 信仰、希望を超えるものはなんでしょう?  聖書が示すもの その箇所があります。 キリスト教式の結婚式でもよく開かれる聖書の個所

○コリント一13:13

  13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

 信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る、との宣言。

 信仰こそ大切だと主張する信仰者がいたとする。しかし、愛がないならそれはむなしい。

○コリント一13:1-3

 信仰、希望を超えるものは愛であると聖書は告げる。

 

☆信仰、希望を支えるもの

 もう一つの問い、信仰、希望を支えるものは何ですか? どう答えるでしょうか? 信仰、希望は自分が持つもの、その本人である自分ではないかという答えもあるかもしれない。 自分がしっかりしていることが大切だ。

  自分がしっかりと信仰の心をもって歩むこと。 自分がしっかり希望を見つめ、心にとめて歩むこと。 その通りという面も大きい。

 今日の聖書箇所が教えることは、そうではない。

◎21節

1:21 あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。

  信仰と希望とは神にかかっている。 その信仰と希望を支えているものは神である。

 その神はどのような方か? それはとても大切のこと

 その神が、ある期間はいてくれたのに、ある期間が過ぎたら、どこかに行ってしまった、。消えてしまったというならそれは困る。

 その神が、もし、こうせいよ、ああせよと指示ばかりするような存在だったら、その指示に従い続けなければならない、疲れきってしまうことでしょう。

 聖書が指し示す神とはどのような方であるのか?

 

☆復活の神

 復活の力を持つ神である。 復活の主である。

 復活は幸いのこと もうだめだと思っていたものが蘇ることは幸いなことですね。

 傾いていた店が、勢いを回復して勢いを増したならうれしい。

 これはもう処分ものだ。それをもう処分して捨てるだけだと思っていたものがリサイクルされる。 これでもうだめかなと思うものが、もう一度力を発揮することは嬉しいこと。

 復活の力を持つ神は、イエス・キリストを復活させてくださった。

 十字架につけられ殺されてしまったイエスを、復活させてくださった。

 十字架にかかって死なれたイエスは、その3日後に蘇ってくださったお方。

 

☆復活の主の恵みを受けて

 復活の主の恵みを受けて生かされる。 望みえない時に、望みを持つことができる。とができないような状況の中にあっても、希望を持つことができる。

 希望を持つことがとても難しい状況の中に置かれることがある。

 人生の歩みにおいて、希望が根こそぎ取り除かれるような出来事、状況 もはやこれまで。 思っていたようには事が運ばない。思い通りには事が運ばない。 自分が取り組んできたことが、挫折するということもないわけでない。

 これがあるから大丈夫だと思っていたのに、この人がいるから大丈夫だと思っていたのに、それを失うということも時に起きる。  

  順調に進んでいた事業が傾いて、倒産してしまうということもある。

  自分自身が、突然弱くなる。 年齢が進み、今までできていたことに自信がなくなる、できなくなる。 突然の病気 

  大きなストレスが続き、精神的にも不調になることもある  

 あの日本の短距離界のホープの一人桐生祥秀(きりゅうよしひで)も、潰瘍性大腸炎になって療養の期間を過ごしたと聞いている。また、元気になり走っている。

 ああここまでかと思えるようなことを私たちも経験することがある。大きな行き詰まり、困難。 自分の力では、どうすることもできないような事柄に遭遇することがある。 そのような時にも、助けを受けて進みたいものです。

 

☆パウロの告白

 それは、過去における歩み

◎14節

1:14 無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、

 無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順なことなりと

 それは、裏を返せば、キリストと出会う前 欲望に引きずられていた。

  様々な欲望 渦巻く欲望 それが自分をあらぬ方向に導き、深い沼に引きずりこむ。

  自分で制御できるように思えてできない。そのことで人生がめちゃくちゃになることもないわけではない。

  ギャンブル依存になってしまう。 ギャンブル、楽しくて仕方ない。ここまででやめておけば良いのだが、もう少し、もう少しと、だんだん深みにはまってしまう。

 ギャンブルだけではないですね。様々の欲望が私たちの歩みを狂わせることがありますね。

  パウロ自身は、かつてサウロという名の時代には、キリスト者に対して激しい迫害に息を弾ませていた。

◎18節 

1:18 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、

  先祖伝来のむなしい生活

  先祖からの言い伝えに従い歩んでいた。 この言い伝えに従えば大丈夫だと

  みんなそのように歩んでいる それがユダヤ人としての生き方 日本人としての生き方 でも、むなしい生活だったと告白している。

 なぜ、むなしかったのか、本当の人生の喜び、感謝、希望につながらなかったということではなかったか。

◎24節

1:24 こう言われているからです。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。

  人は草のようだ、花のようだ。 華やかさをいつか過ぎ去ってしまう。消え去ってしまう。

 

☆生かす主の言葉

 生かす確かのものがある。それは神からの言葉。

◎25節

1:25 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

 変わってしまうもの、一時的なものに依り頼むことはできない。

 願わくば、確かなもの、根拠あるもの、一時的ではなく、永続するものに依り頼みたい。 主の言葉は永遠に変わることはない。

 永遠の初めから存在しておられ、永遠から永遠を支配しておられるお方。主なる神に依り頼むことは幸いなことです。

 その方のみ旨を記した聖書の御言葉、この主の言葉に聞いていきましょう。

◎23節

1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

 主の言葉は、神の変わることのない生きた言葉です。

 聖書の御言葉、それは神の言葉であり、朽ちない種です。 命を産み出す種です。 私たちの内に命をもたらす御言葉です。

 

☆受けた大いなる恵み

受けた大いなる恵みがある。

◎18-19節

1:18 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、

1:19 きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。

 贖われた 難しい用語

 奴隷の身にあるものが自由にされるために支払われる身代金 それがすべて支払われた。 そうすると、その奴隷は、奴隷の身分から解放され、自由の身となる。 神が、イエス・キリストの血潮をもって、罪の代価、借金をすべて身代わりとなって支払ってくださった。 すべての罪が赦されたという意味です。

◎22節

1:22 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。

  魂が清められた。

 心の奥底、心の中心にある魂を人は自分で清めることはできない。その魂を神が清めてくださった。 魂が新たなものとされた。

 そして、偽りのない兄弟愛を抱くようになったとパウロは告白する。

 その恵みを受けたのですから、感謝しつつ、清い心で、深く愛し合いなさいと語っています。

 

☆勧め

 こうありなさいと勧められている。

◎13-16節

1:13 だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

1:14 無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、

1:15 召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。

1:16 「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。

 主イエスの再び来られる時に与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

 聖なる神に倣って、生活のすべての面で聖なる者になりなさい。

 主の御心に沿って、歩み続けなさいと。

 

☆あなた方の信仰と希望

 あなた方の信仰と希望は神にかかっている。

◎21節

1:21 あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。

 その神は、永遠を支配しておられる力ある神、愛の神。

 私たちを愛し助け導いてくださるお方です。

 

 その主が、私たちの内にある信仰と希望を支え守ってくださいます。ハレルヤ!です。

 

 

 10月8日() 聖日礼拝 説教メモ

    「天からの命のパン」  ヨハネ福音書6章33-40節 

 

☆生き物の成長

 生き物の誕生 その生き物の成長 それは感動

 牧師館のベランダでカメを飼っています。

 毎年数匹ずつ子ガメが誕生する。そのカメを数カ月飼い、育ててみたいという方に差し上げて来た。 夏前に土の中に産み付けられた卵が、1ヵ月半ほどでしょうか、卵からかえって、土の中から出てきて、ベランダをひょこひょこと歩いている。それを拾い上げ、容器に入れます。 それを育てます。

 

☆鳥類や哺乳類

 爬虫類は、親は生まれて来た赤ちゃんの世話をすることはありません。

しかし、鳥類、哺乳類は、生まれて間もない赤ちゃん鳥、赤ちゃんの時は、親が、体温が下がりすぎないないように温める。餌を与える、乳を与える。そして大きくなる。

 

◆NHK特集 鶴になった男~釧路湿原 タンチョウふれあい日記~

 昨日午後、以前放送されたドキュメント放送 年度:1987年度

北海道・釧路湿原に生息する日本を代表する野鳥タンチョウ。一度は絶滅したと考えられていたが、再発見後、手厚い保護が続けられてきた。高橋良治さんは、釧路丹頂鶴自然公園で30年にわたってタンチョウの保護と人工飼育に取り組んできた。

釧路湿原に雨が振り、地面に巣を作るタンチョウには危険な時期だ。卵が雨で濡れると孵化を止める親鶴がいるので、代わりに高橋さんが人工孵化をするという。

これから孵化する雛鳥のために、餌を調達した。湿原で体長が小さい魚を捕まえる。

タンチョウは外敵から雛を守っている。高橋さんは、鶴の親を真似て雛を守る。その後、雛は元気に育ち、親鶴と同じ大きさになった。公園に住む鶴は親に習って飛ぶ練習を始めた。高橋さんも鶴の雛に飛び方を教えるそうになった。高橋さんは雛のために、毎日猛ダッシュし練習に付き合った。そして遂に飛べるようになった。そして、雛から育て上げたタンチョウが旅立った。

 

☆子どもは親の愛と親の世話を受けて育つ

 鳥類であれ哺乳類であれ、赤ちゃん、子どもは親の愛と親の世話を受けて育つ。

 人間である私たちも親の愛を受け、親の世話を受けて育ち大きくなった。

 赤ちゃんの時、乳幼児の時のこと、ほとんど覚えていない。でも確かにその時に自分に愛以上を注ぎ、世話をしてくれた人がいた。

  親であるかもしれない、祖父母であったかもしれない、それ以外の人であったかもしれない。 その愛情と具体的な世話があった。

 

☆愛する者に対して

 愛する者に対して、その必要に応えたいと思う、必要なものを与えたいと願う。 それは、神が私たちに与えてくださっている心

 それは、本能ということもあるし、その心を自然に学ぶということもできる。

 その元には、神がその愛をお持ちの方であるから。 神という存在を聖書は告げます。

 神は永遠の初めからおられたお方、神は、力あるお方、愛のお方。

 全宇宙を創造された、私たちの住むこの地球も。それは偶然の出来事ではない。 神の意志がそこにあり、神の知恵を愛によるもの。 

 この地上に生きる私たちに対しての神の愛。

 

☆愛は行動する。

 その愛が本物である時に、愛は行動に移る。

 愛する者が弱っていたら、心配し一生懸命世話をする。

 赤ちゃんや幼子が熱を出したら、親は、特に母親は一生懸命、頭を冷やしてあげ、熱が下がるまで世話をする。

 おなかがすいて泣きだしたら、ほったらかしにはしない。そのおなかを満たすべく、母乳を挙げ、ミルクを挙げる。食べ物を挙げる。 愛は行動する。働きかける。

 

☆神の愛は働きかける愛 

 今日のメッセージの題は、「天からの命のパン」と付けました。

 聖書の中に、パンを与えるということで記事がある。

 1つは、旧約聖書の中の出エジプト記に記されている。

○出エジプト記6章1-36節

 エジプトの奴隷の苦しみから救い出されたイスラエルの民、しかし、民は、つぶやき、不平不満 おなかがすいた、かつていたエジプトの方が良かったと言った。

 それに対して、神は毎日の食べ物を夕べにはウズラを、朝にはマナと呼ばれるパンのようなものを与えてくださった。

 毎日の食べ物を与えてくださった。 神の愛、憐み、忍耐。 それはカナンの地に着くまで40年間続いたというのです。

もう一つの出来事が、新約聖書の福音書に記されている5つのパンと2匹の魚の奇跡の出来事

○ヨハネ6章1-15節

 主イエスによって、5つのパンと二匹の魚を何千倍にも増やす奇跡がおこなわれた。 人々の空腹は満たされた。

 

☆神の愛は、注がれている。

 神の愛は上から注がれている。

 私たちは、何か問題を抱えた時、思わず上を仰ぐ。どうしたら良いのだろう。何か良い方法はないものかと。 上からの知恵を仰ぐ。

 どうしたら良いですか? どうか解決したら良いですか? 良い道はないですか?と  必要を満たしてくださいと願う。

 神は、私たちの窮乏をご存じである。 今抱えている問題、課題を

 その問題、課題に対して、良い道を備え、導いてくださる。

  どうなるかわからない時、一番不安、恐れ

 その時に必要なものが2つある。

  一つは、その問題、課題が解決されること。 それは本当にありがたいこと、 問題解決。 これほどうれしいことはない。 平安と喜びが回復する。

  もう一つは、その問題、課題が進行中だとしても、それが解決されていないとしても。 共にいてくれる存在があるということ。

  自分は支えられている、見捨てられていないという思い。 これは力強い。

 

☆神の愛は、天からのパン

 神は天からパンを与えてくださった。

 そのパンとは、どういうものなのか? それは世に命を与える。

  この世に生きる私たちに命を与えるもの まさに、今日の聖書の御言葉

◎ヨハネ福音書6:33―35

6:33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。

6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、

6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

 そのパンは命のパン そのパンを食べる者は飢えることがなく、渇くことがないという約束。

 おなか一杯、ご飯を食べる、パンを食べる、ご馳走を食べる。でも、数時間、半日過ぎれば、おなかがまたすいてくる。

しかし、そのパンを食べる者は、決して飢えない、決して渇かないという。

 そのパンは、命のパンであり、不思議なパン、不思議な食べ物。

 

☆そのパンこそ、主イエス

 人生は素晴らしい。いろいろな出会いがあり、いろいろな体験をする。

 そこに喜びがあり、醍醐味がある。 一方、行き詰まりや困難をも経験する。

 どうしたら良いのだろう、難しい、これはもうおしまいだと感じることもある。 大きかった希望が急にぺしゃんとなったりする。 不安と恐れを感じる。そのような私たちを、神はご存じである。そのような私たちを神は心配してくださる。

そのような私たちを助けたいと願っていてくださる。

神の取られた方法、それこそこの命のパンである主イエスを与えるということ。

 

☆その命のパンである主イエスを心に迎え入れる。

 その人の内に新しい命が宿る。その方の命を受け生きることができる。

 この世が与えることのできない命

 その命が息づいて、その後の半生を歩む。 それは最も幸いなこと。

 

☆一人の方のこと

 その方は、前任の都農教会の教会員の方でした。

 その方のおじいさんが、大正の時代でしょうか、若い時に九州から京都に行き、そこで過ごす中でキリスト教信仰を持った。

その息子、すなわちその方のお父さんは、若い時にキリスト教信仰を持った。熱心なクリスチャンとなった。

 その方は、小さい時から、キリスト教のことは知っていた。でも、キリストを信じることはしなかった。 やがて素敵なクリスチャンの女性と結婚した。

 それでも、クリスチャンにはならなかった。信仰、教会は妻に、また信仰熱心な両親に任せておけば良いと考えていた。

奥さんの熱心な祈りを受けつつ、商売に打ち込んだ。電気屋という割と大きな会社を経営していた。 

 しかし、50代になって、自分にないものを心にとめたのでしょうか、奥さんの勧めもあり、洗礼を受けてクリスチャンになった。

その方は、キリスト教信仰を持ち、大きな平安を経験した。

 キリスト教信仰を持つ前は、会社経営、社長として活躍していたけども、いろいろな思い煩い、焦りがあり、平安があまりなかった。

 信仰をもって、任せ、ゆだねることのできるイエス様がおられる、天の神さまがおられるという平安が与えられた。

信仰を持った後、肺の一部切除という大きな手術を受けなければならないことがあった。

 大きな手術を受ける。すべてをお任せすることができた。大きな大きな平安。

 すべてを支配しておられる神さまにお祈りして、すべてをお任せして手術に臨み、術後の回復も主が最善をなしてくださると信じて、大きな平安があった。

そして、つくづく、もっと早くキリスト教信仰を持っていれば良かったと話した。

 その方は50代でクリスチャンとなり、それからおよそ30年歩まれた。

 それは幸いなことでした。主の平安に包まれて天の御国に戻って行かれた。

復活の主イエス、生ける主イエスと共に歩まれた。

◎39-40節

6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。

6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。

 天の神さまの御心を心にとめつつ、歩まれた。

 主と共に歩んだ後半生であった。

 神の約束された御国を仰ぎつつ,希望と平安をもって、この地上の生涯を全うされました。

 

☆あなたも、この天からの命のパンを受け取ってください。

 あなたも、ぜひ、この天からの命のパンである主イエスを心に信じ、受け入れ生きる者になってください。

 10月22日() 聖日礼拝(曽根会堂) 説教メモ 

    「死から命へ」       ヨハネ福音書5章19-30節

 

☆遣わされる。

 自分から出かけることも尊いことですが、遣わされることはもっと尊いことです。 なぜでしょうか? 遣わされる理由があるからです。

 この働き、使命のためにあなたを遣わすと任命されたなら、その働き、使命を成し遂げる必要があります。

 

☆主イエスは、父なる神から遣わされました。

 遣わした先はこの世です。この私たちが住む世界です。

 罪と闇に満ちたこの世に、主イエスは父なる神から遣わされたのでした。

 遣わす者が真実な者であるなら、その働き、使命の結果もさることながら、その遣わした者のことを心配する。全然知らない人ではなく、知っている人、良く知っている親しい人を遣わしたなら、その遣わした人のことが気になる。

 その遣わす者が、自分の子どもなら、もっともっと気になる。

 

☆遣わされた主イエスは、その働き、使命に向っていった。

 主イエスの働き、使命 それは、この世で苦しむ私たちを救うこと。

 ○5:1-18

 38年間、病で苦しんでいた男の人 彼の周りの人は次々と癒されていくのに。彼はずっと病で苦しんでいた。

 その人に良くなりたいのかと尋ね、憐れんで、主イエスは安息日の日に癒してあげられた。 それは、その男の人にとってはなんと嬉しい日であったことでしょう。

◎17節

 5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」

 主イエスは、この地上で働かれました。 それは、孤軍奮闘ではありませんでした。父なる神と共に働かれたのでした。 なんと麗しい関係でしょう。

 

☆父なる神と子なるイエス

 父なる神と子なるイエスとの関係 それはなんと麗しい関係であったことか。

 三位一体の神Triune God The Holy Trinity です。

 父なる神、子なる神、聖霊なる神  その三者が一つとして働かれる。

☆父が自分の子どもを何かの働きに送り出すとしたなら

 安否を心配しつつ、その働きが守られるように、毎日お祈りする。

 その前には、大切なことを伝える。

  これはこうするのだと、このような時にはこうするのだと教える。

  子どもは、親から聞いて学ぶ、見て学ぶ。

 そのような時を十分持って、送り出す。送り出されて行く。 

◎20節

 5:20 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。

 父なる神はご自分のなさることをすべて子なるイエスに示される。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。

 すべてを示し教えられる。 そして、より大きな業を教えられる。

 

☆裁き

 裁き、これは一番厳粛なもの、恐ろしいもの

 人からの裁き 怖くいないと言えばうそになる。人からどう判断されるか、そう思われるか、どう判定が下されるか やはり怖い 自分が不安定であると、余計怖い。

 しかし、もっと怖いもの それは神からの裁き それは間違いのないさばき

 すべてをご存じであり、公正なる方の裁き それは間違いがない。

 自分のなしてきたこと、自分の歩んだ道。 そこにやましさがあれば、余計怖い。 その裁きの判断は、人の思いを超えている。神の高い基準がある。

 

☆大切なもの、裁きを与え任せる

  遣わす者に大切なこと、特に裁きを与え任せられた。

◎22節

5:22 また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。

 父なる神が持たれている権威 それは裁きをなすということ。 

 その権威を子なるイエスに任せられた。 その権威を譲られた。

◎27節

5:27 また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。

 裁きを行う権能を子なるイエスにお与えになった。裁きは子なるイエスにゆだねられた。

◎30節

5:30 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」   裁くということ、それは神の権威。

 

☆その裁きが子なるイエスに委ねられている。

 子なるイエスに任されている。 子なるイエスはどう裁かれるのか? 

 裁きはどうバトンが渡されたか? その結末は、どうなったか?

 主イエスは、裁く者になられたのか?

 その答えは、十字架。 十字架は裁きの象徴である。でもそれは、人の受けた裁きではなく、神の子であるイエスの受けた裁き。ここに、キリスト教の中心、すなわち福音がある。

 

☆父なる神がお持ちのもの、それは命

 父なる神は、すべてをお持ちです。 その中で最高のもの、それは命です。

 命ほど、最高のものはない。 生き生きとしたもの、それは命

 命のあるところに輝きがある。命のあるところには喜びがある。感動がある。

 命があるところには、成長もある。大きくなる。

  そして次の命を産み出すこともできる。 その命を父なる神はお持ちです。

◎26節

5:26 父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。

 子なるイエスにも、内にも命を持つようにしてくださった。

 この地上においでくださった主イエス  その方は、命をお持ちである。

 それは人の持つ命ではなく、神だけがお持ちの命。上からの命。永遠の命。

 

☆裁きと命をお持ちの主イエス

 裁きと命を主イエスはお持ちである。

 この裁きと命を主イエスはどのようにお持ちになられたのか。

 その答えも、十字架。 十字架の上で、主イエスご自身が裁かれた。

 私たちが受けるべき裁きを主イエスご自身が、身代わりとなって受けられた。

 その結果、命が生み出された。 罪の代価はすべて主イエスによって支払われた。 命は主イエスを通して受け取る道が開かれた。これがキリスト教における福音です。

 命の水の泉が据えられた。 その泉から命の水が噴き出すようになった。

  その水を、飲むことができるようになった。

 

☆主イエスの御声

 死んだら何も見えず、何も聞こえず。 死は静寂の世界、命のない世界。 すべてが終わり。 ところが、そこに、子なるイエスの御声が響く。

 それを聞くときが来る。 その時に、すべての者は神の御前に立つことになる。

◎25節。

5:25 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。

◎28-29節

5:28 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、

5:29 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。

 最終的に、命を受けるか、裁きを受けるかが決まる。 一番心にとめるべきはそのこと。

 

☆言葉は力

 言葉には力がある。 私たちは言葉によって意思疎通を図る。コミュニケーションをとる。

 言葉は人を励ます。言葉によって励ましを受ける。 言葉には力がある

 一方、言葉によって傷つくこともある。 棘のある言葉は人を傷つける。

 

☆言葉にあふれている現代

 情報過多の現代。 今という時代は情報があふれています。

 特に、インターネットの普及により、いろいろな情報、知識が簡単に手に入ります。 そのあふれる情報、知識は、表面的には、私たちの生活を助ける面は広がった。 では、現代人は、かつてインターネットのなかった時代と比べて、生きる力が増したか? 希望を力強く持っているか? 必ずしもそうではない。 生きる力はそれほど増してはいない。 希望をそれほど力強くは持っていない。

 むしろ、かつてより、生きる力は乏しくなったかもしれない。希望は弱弱しくにしか持っていないかもしれない。 いろいろな不安や恐れを抱く。

 言葉や情報、知識は増えたのに、不安や恐れが増した。

 人と人、民族と民族、国と国 互いに信頼できず、時に争い、戦争が起きている現実がある。

 

☆現代人である私たちは命に導く言葉を求めている。

 命に導かない言葉、命の反対に導こうとする言葉があふれる現代。

 命に導く言葉があるならば、それは幸いの言葉。 その言葉をどこに見つけることができるか? 文学作品の中に? 感動の映画作品の内に?

 その言葉は、聖書の中にあるのです。 聖書の中に神の言葉が記されています。

◎24節

 5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。

 主イエスは、語っておられます。わたしは遣わされた者だと。

 わたしをこの世にお遣わしになったお方がおられる。その方は天の父なる神さまだと。 神がわたしをこの世にお遣わしになった。

 あなたたちを愛するゆえに遣わされた。あなたたちを救うために遣わされた。

 命に導く言葉は、主のもとから与えられている。

 

☆言葉を聞く

 赤ちゃんは、お母さんのおなかの中にいる時から、お母さんの声、お父さんの声を聴いている。ママの声、パパの声を

 赤ちゃんは、ママ、パパの語り掛けの言葉を聞いて、日々過ごす。

 ママの語り掛け、パパの語り掛けを受け、赤ちゃんはすくすくと育つ。

 

☆主イエスの言葉は遣わされた父なる神を指し示す。

 自分を遣わされた方がおられる。

 その方は、全知全能なるお方。力あるお方。 愛のお方、義なるお方、聖なるお方。

 私たちに心にとめていてくださるお方。

 私たちのもとに、救い主をお遣わしくださったお方。

 その独り子である御子イエスをお送りくださった。

 

☆死から命へ

 主イエスをこの世に遣わされたお方 それは父なる神さま

 その方を信じるならば、大きな幸いを得ると今朝の聖書箇所は告げています。

◎24節

 5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。

 主イエスをお遣わしくださった方を信じる者は、永遠の命を得ると。

 永遠の命とは、まことの神とイエス・キリストを心にとめ生きることです。

 ○ヨハネ福音書17章3節

  17:3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

 永遠の命とは、主と共に生きることです。

 もはや、恐れる必要はない。なぜなら、もはや裁かれはしないから。

 裁きは、父なる神から、御子イエスにゆだねられた。 そしてその御子イエスは、裁きをその身に受けてくださった。あの十字架の上で。

 あなたの罪は、私が背負い、身代わりとなって十字架の上でその受けるべき裁きを、罰を受けてくださったのです。

 もはや、裁かれることはありません。 それゆえ、もはや恐れる必要はありません。

 死から命へ移されたのです。 

 どんな時にも、主なる神を仰ぎ生きることができるのです。

 その幸いが、私たちに与えられたのです。 ハレルヤ!

 

 

 11月5日() 聖日礼拝 説教メモ

    「神に喜ばれる献げもの」  

  

☆わかっていること

 これは良いもの、これは悪いもの 私たちは、それがどのようなものかわかる。 良いものを持ち続けるようにする。悪いものは持ち続けないようにする。

 これも頭では、大体わかっている。ただし、実際にそれを実行することは必ずしも簡単ではない。

 

☆心の中

 いろいろなものが入って来る。 また、そこにとどまり続ける。潜む。

 心の思い。 様々な思い その中で、持ち続けないようにとの警告

◎1節

2:1 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、

 人に対する悪意 特定の人に対して悪意を持つ。

  そこにはいろいろな背景がある。 その相手に対するこだわり、

 偽り、偽善 真実であるように見せかけて、そうでない。不真実

  現代、そのようなことで人をだますことがいかに多いことか。

 ねたみ  他の人に対して、ねたみの心を持つ

  あの人は、あんな良いものを持っている。 自分は持っていないのに。

  あの人は輝いている。 自分は輝いていないのに。

 悪口 特定の人に対して、悪口を言う。

  あの人はああだ、こうだ。 あの人はとんでもない人だ。 その人の前で言えないことを、他の人に話す。

 そのようなものが心の中にとどまる、潜む。 それが心を占める。

 そうする理由がある。 自分は悪くないと自己防衛をする。

 それを持ち続ける。 しかし、それが最終的に自分の身を亡ぼすことになる。

 主は、命じられる。  それらを捨て去りなさい。きっぱりと。

 主が語りかけておられる。 主よ、受け止めます。そのようにします。

 主よ、私の理由ではなく、あなたのご命令ですから、従いますと。

 それは幸いな決断、従い。 ハレルヤ!

 

☆慕い求めよ

 様々な声、情報が飛び交う現代。 いろいろな声、いろいろな情報。

 インターネットの時代、パソコン、スマホ。

 これなしには生きていけない。 朝起きてすぐスマホを見る。隙間時間にスマホを見る。 たくさんの情報、ニュース、楽しいものが満載。 これで一日中でも過ごせる。 かつてはテレビ これも、つけっぱなしにすれば、次々と楽しい番組。 たくさんのニュース、知識、ドラマ、あり。

◎2節

2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。

 一日で起きている時間 パソコン、スマホ、テレビから、次々と流れて来る情報、 確かに、そのことで、多くの知識、情報をキャッチする。

 このような情報過多の時代はかつてなかった。 幸せと言えば幸せ,しかし不幸と言えば不幸。 そのような多くの情報、ニュース、エンターテイメントが洪水のように打ち寄せる。 その洪水に飲み込まれ、流さされてしまう。

 聖書は、霊の乳を慕い求めなさいと命じている。

 

☆赤ちゃんは母乳を、ミルクを求める。

 赤ちゃんは、おなかがすくと激しく泣く。とにかく泣く。

 赤ちゃんは、唯一、口にするものは、母乳であり、ミルク それがすべての栄養源 おなか一杯になるまで飲む。 足りないと泣く。

 それは、赤ちゃんが大きくなるために必要なこと。

 

☆聖書の御言葉

 霊の乳、それは聖書の御言葉。 聖書の御言葉を慕い求めよ。

 信仰の成長のためには、聖書の御言葉が必要。

 日々に聖書を開く。 毎日曜に聖書からのメッセージを受け取る。

 信仰を持って間もない時、霊の乳を慕い求めよ。 信仰の成長のために必要。

 信仰を長く持っている人にとっても、聖書の御言葉がその人を生かす。

 

☆主は恵み深いお方

 主は恵み深い、慈しみ深い、親切なお方

 憐み深いお方、見捨てないお方

◎3節

2:3 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。

あの良きサマリア人のようなお方。

○ルカ10:30-37

 強盗に襲われ傷ついた旅人を見捨てずに助けたサマリア人

 自分の身の危険を顧みず、近寄り助けた。最後までその責任を担った。

 主は、恵み深いお方。

 

☆主イエスは生きたかなめ石

 神から遣わされたお方 主イエス

◎4節

2:4 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。

◎6節

2:6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」

◎7節

2:7 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、

 かなめ石 かしら石、礎石 その石はとても大切な石、基礎の土台となる石

 建物は見える部分と見えない部分がある。見える部分は目を奪う。外観、内装

 見えない部分が実は大切。 基礎の土台部分

 この世界に打ち立てられた神の国、神の家 その土台になってくださった主イエス その方は神によって選ばれた尊いお方

 この世に生きる人達からは捨てられた。 しかし、その石が神の国、神の家の土台石となった。 その石はとても大切な石となった。その埋められた石がかなめ石(要石)、かしら石、礎石、親石となった。

 主イエスは、ご自身の命を捧げてくださった。 十字架の道から逃げず、選び、十字架にかかってくださった。その十字架でご自身の命を捧げてくださった。 その命の犠牲により、私たちの救いの御業が成し遂げられた。 救いの門が開かれた。

 

☆失望しないことの幸い

 失望することがない。それは幸いなこと。

 失望 それは希望を失うこと。 これほど悲しく、つらいことはない。 

 人生の歩みにおいて、希望を失いそうになることがないわけではない。

  なぜ、どうして。あまりにつらい、あまりに悲しい。 自分が依り頼んでいたものが失われる。愛する者を失う。 道が閉ざされる。道が開かれない。大きな石が目の前に立ちはだかる。 大きな困難を経験する。

 希望がぺしゃんとしぼんでしまう。 希望どころではない。希望を失う、絶望してしまう。

◎6節

2:6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」

 そのような時にこそ、支えてくださるお方がおられる。その方こそ主イエスです。

 希望を再び注ぎ与えてくださる。 希望の光をして共にあって支えてくださる。 希望の光として、前に導いてくださる。 希望を失ったとき、希望を失いそうになった時にこそ、共にあって支えてくださるお方。

 この主イエスを信じる者は、決して失望することはないのです。

 この方に依り頼む者は失望のどん底にとどまり続けることはない。なんという感謝。

 

☆霊の家

◎5節

2:5 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。

  霊的な家、霊の家とは教会を指しています。神の家族としての教会

 教会は建物ではありません。 救いに与かった者たちの集いであり、そこに集う者たちによって形成される神の家族を意味します。

 レンガの塀、レンガ造りの建物

  そこに用いられるレンガ、その一つ一つが大切な要素、力となっている。

  そこにある一つのレンガ、一つ一つのレンガが大切。

  自分一つくらい抜けていてもと思うなら、そこが隙間となって、塀は、家はもろくなる。 そこから壊れていく。

 霊の家において、つながる兄弟姉妹一人一人が大切。 自分もその大切な一員として、共に歩む。 自分のできることを感謝をもって歩む。

  聖日礼拝を共に捧げる。 神の家族として 聖餐の恵みにも共に与る。

  自分のできる奉仕、自分が捧げることができるもの

  誰かがやってくれている、それはとても感謝なこと。 そのことで、教会の歩みも守られている。 誰かがやってくれているところから、自分もどこかの奉仕部門を担わせていただこう。 そのような方が起こされることを心から願います。

 かつてはあの方々が担ってくださった。高齢になりそれもリタイヤされた。今度はこの私がその一部を担わせていただこう。 そのような方々がおられることを感謝します。

 なお、起こされることを願っています。

 

☆聖なる祭司となる

 神の祭司 旧約の時代 特別の者しか アロンの家系の人のみ

 新約の時代 主イエスを信じる者は、祭司として歩むことができる。

  宗教改革において、打ち出された一つのこと それは万人祭司

  主イエスを信じる者、キリスト者は祭司として歩むことができる。

 祭司とは、神と人の間に立って、主の御用に仕える。

  旧約の時代には、神殿において、祭壇に動物のいけにえを捧げる働き、関連する働き 神と人の間に立って、執り成し祈る。

 神の子どもにされた者として、神の御心を心にとめ、この働きをと導かれたことを感謝し 行う。

 

☆神に喜ばれる献げもの

 神に喜ばれる献げもの それは何を意味しているのでしょう。

 神に喜ばれる霊的ないけにえ 神に喜ばれる霊のいけに

◎5節

2:5 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。

  見える行いでしょうか? 良いと思えることでしょうか?

 一番大切な献げもの それは天の神さまに心を向け、心から感謝して礼拝を捧げること、心から感謝してお祈りをささげること。

 恐れの心で何かをするのではない、喜びと感謝の心で。

○詩編51:18-19 

51:18 もしいけにえがあなたに喜ばれ 焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら わたしはそれをささげます。

51:19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。

 神の求められるいけにえは打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心です。

 これは決して譲りません。これは私の決意です、決心です。 これを変えることはしませんと言い張ることがある。

 これは、私の計画です。これは私の持ち物です。 これは私のものです。 これを手放すことはしませんと言い張ることがあります。

 それらを主の御前に差し出しましょう。 この決意、この決心、この計画、この持ち物 これを主にお委ねします。

 どのようにすることが神の御心にかなうことでしょうかと尋ねつつ、感謝して従っていく。

 強制されて、強いられては喜ばれない。

 本当はそうしたくないのですが、仕方なくでは、主は喜ばれない。

 

 心から、そうさせていただきたいと願い、歩むこと。 主は、喜んでくださいます。

 

 

12月3日() 聖日礼拝 説教メモ

    「大いなる光を見る」       イザヤ書9章1-6節 

 

☆1年の最後の月

 今年最後の月となりました。 1年があっという間に過ぎた感がします。

 新年を迎える前に、クリスマスアドベントを過ごします。クリスマスの主を心にとめ、この期間を過ごしましょう。

 クリスマスの案内のチラシもできました。どなたかにクリスマスの主をご紹介したいですね。何よりも、私たち一人一人がクリスマスの主のご愛に包んでいただき、恵みの中を進ませていただきましょう。

 

☆希望を持ちつつ

 1年の終わりは、新しい1年の始まりを意味しています。 その意味では、希望がありますね。 今年を締めくくり、来年に希望を託しつつ 良い年であることを願いつつ

 

☆闇の中に生きる苦しみ

 現実の歩みの中では、厳しい現実があります。 

 世界に目を向ければ、ウクライナとロシアの戦争はまだ続いています。

  イスラエルとハマスとの戦争

 今抱えている課題

  現在の自分の生活をどう営むか、将来の生活の不安がある。 

  健康に不安がある。 今患っている病気はどうなるのか

  自分のこと、家族のこと いろいろと課題がないわけではない。

  不安や恐れ 心が前向きになれない。心が沈む、心が暗くなることがある。

 

☆闇の中を歩む民

 このイザヤが生きた時代はどうだったのか? イスラエルの国は、北イスラエルと南ユダに分かれていた。 北イスラエルはアッスリアという大国に滅ぼされた。 南ユダは、バビロニアの脅威にさらされていた。 大きな力を持つ国が、飲み込もうと迫っていた。これは大きな脅威。

 自分たちの住む家は壊され、町も破壊され、良いものを奪われる。

 相手の国に連れていかれ、そこで奴隷のように働かされる。

 

☆大きな力に飲み込まれる

 大きな力 それは脅威 

 時代という波 この波に乗って行けるか とても乗っていけないという時がある。ついていけない。対応できない。

 これから取り組まなければならない事柄が難しい。

 年齢という波 年齢が進むということは、大変なこと 60代、70代、80代に差し掛かると、いろいろなことが。若さが遠のく。 体の不調。 第1線から退く。 前向きになかなか考えられなくなる。

 病気という波 健康を害するということは大きなダメージ、これからどうなるのだろうか?

 人間関係の波 以前のような親しい人間関係が少なくなる、乏しくなる 孤独感、人間関係がうまく行かないことが起きると、行き詰まりを覚える。

 自分という存在 その価値はどこにあるのだろうか 以前は仕事をし、なすべきことが次々あり、毎日が忙しいけどもやりがいがあった。子ども育てで忙しかった、・・ それなりの充実感

 それがなくなり、自分という存在の意味、価値はどこにあるのだろうとふと考える。

 

☆闇の中に身を置く

 闇の中にいるような感覚になる。 先が見えない、希望が薄くなる。

 前向きに考えられなくなる。 意欲が乏しくなる。

 心が沈む。 心に元気さを失う。難しい問題を抱えていると余計に心は元気さを失う。

 

☆心に励ましを

 心に励ましを得たい。 時にいろいろな心配事を忘れたい。 いろいろな工夫を

 

☆現実の世界

 闇が迫る、闇に囲まれる。 心がどうしても、沈み込む。

 そのような中に身を置く私たち 預言者イザヤの時代の人たちも、深い闇を経験していた。 この世界にある大きな闇 自分の内に巣くう闇

 その闇が深く、強い。 去って行かない、居座る。支配しようとする。

 そのような闇の中に私たちも身を置いていると思う時があるのではないでしょうか?

 えも言えない寂しさ、悲しみ、不安、恐れ この私の人生は何だったのだろうか。 この人生を終えなければならない。 終活 飛び立った飛行機がやがて着陸しなければならないように、自分の人生を着陸しなければならない。

 

☆神のお心

 私たちに深い喜びを与えること 不安や恐れを取り除き、平安を与えられる。 喜び、希望、感謝を満たしてくださる。 重いくびきを取り除いてくださる。くびきのために不自由、自由に行動できない。そのくびきを取り除いてくださる。

 肩を打つ杖、虐げるものの鞭 それは人を苦しめる行為 

 それらを折ってくださる。

 力ある者がその力によって力弱い者を虐げることは神の御心ではない。

  ・ロシアによるウクライナ侵攻  ・イスラエルによるガザ侵攻

  ・ミヤンマー軍事政権による国民の支配  ・中国政府による少数民族ウイグル族への強引な支配  ・北朝鮮政府による国民への支配、・・

 それらのことは神の御心ではない

◎2-4節

9:2 あなたは深い喜びと 大きな楽しみをお与えになり 人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように 戦利品を分け合って楽しむように。

9:3 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を あなたはミディアンの日のように折ってくださった。

9:4 地を踏み鳴らした兵士の靴 血にまみれた軍服はことごとく 火に投げ込まれ、焼き尽くされた。

 兵士の靴、血にまみれた軍服は、火に投げ込まれ、焼き尽くされる。

 それらの戦争による争い、持てる軍威力、権威によって多くの人が苦しんでいること 尊い命が失われている現実 一日も早く終わるように。

 時の権力者、力を持つ者は、強引にそのような間違いを続けている。

 それらは、最後の日に神の御前に、すべて神の裁きのもとに裁かれる。

 しかし、今、この現実の世界において、一日早く、苦しみが取り除かれますように!

 

☆神のなしてくださったこと

 この世界に生きる私たち、この世に生きる私たち その必要を神が満たし与えてくださっている。 健康、生活の糧、食べ物、・・ 神は、私たちを顧み、生かしてくださるお方 神の視点は、私たちの視点とは違う。

 神に造られた私たち。 私たちは、自分ですべてを満たして生きようとする。

 自分の願い、思いを最優先にして歩む。 それを神との関係をおろそかにして歩む。 一番大切ことを遠くに追いやる。 自分の願い、自分の思い、自分の考えが一番 そのようにしすぎるあまり、神との関係をおろそかにしてしまう。

 神は、一番大切なことを抜きには、私たちをそのまま置かれない。

 その一番大切なこととは神との交わり  神を神として崇め、神を礼拝すること 日々の歩みにおいて、神を崇めつつ、神の語り掛けを聖書から聞きつつ、主に祈りを捧げ歩むこと。 神との関係が確かでなければ、私たちは勝手に歩んでしまう。

 

☆神のなしてくださった最高のこと

 それこそが、クリスマスの出来事 クリスマスのお祝い その意味を知ってお祝いしたい。 その意味とは、神と私たちをつなげる出来事

 神と私たちがつながるためには、そのつながる橋が必要である。

 私たちの行いや修行、行動の改めでは間に合わない。

 神と私たちの断絶が解消されなければならない。その原因のもとは私たちの罪

その罪の問題を解決するためには、命が必要。 罪のない方の命が必要。

 その罪のない方はこの世界にただ一人。それこそ、神の御子である主イエスお一人。 その方は、尊すぎてもったいない方

 その方がこの世界に送られた、神からのギフト。最高のギフト

 御子イエスがこの世に送られた、遣わされた。

◎5節

9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。

 一人の嬰児(みどりご)、一人の男の子

 その方は、私たちのためにお生まれくださった。救い主イエス

 

☆最高のプレゼント

 それは、神の独り子イエスご自身が、この世に、この世に生きる私たちに与えられた。 それこそ、最高のプレゼント

 

☆その方の権威

 4つの権威、力

①驚くべき指導者

 不思議な助言者、Wonderful Counselor

  私たちの心の一番深い事柄を取り扱ってくださるお方

 私たちの心の内をご存じのお方、どのようなカウンセラーよりも、私たちの心を、そして魂を取り扱ってくださるお方

②力ある神

 力をお持ちのお方

 この全宇宙をお創りになられた主、この地球をもお創りになられた主

  私たちを造り変えることのできるお方

③永遠の父

 永遠の初めから存在しておられ、永遠の終わりまでを支配しておられるお方

 神としての権威をお持ちの方

④平和の君

 神と私たちの懸け橋になってくださった。

 神との断絶が取り除かれた。神と私たちがつながるようにしてくださった。

 罪の赦しを備え与えてくださった。

 あなたの罪は赦された。あなたの罪の罪の身代わりとなって、命を捨ててくださった。

 そのような方がおいでになると

 

☆主の熱意によって

 私たちの熱意ならば限界があり、いつか冷めてしまう。

 主の熱意、熱心さによって、主のご愛によって

◎イザヤ9:1-6

9:6 ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

 

☆大いなる光を見る

 大いなる光、闇を打ち破る光 

 私たちは死の陰に住む者、やがてこの地上の生涯を閉じなければならない者

 この地上の歩みにおいて、光の主のご愛と恵みを十分に受けて生かされるようように導いてくださる主

◎1節

9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

 大いなる光を見る。その光は輝く

 その光は闇を打ち破る。死の陰の地に住む私たちを生かしてくださるお方

○ヨハネによる福音書8章12節

8:12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。

 世の光としておいでくださった主イエス

 その主を、救い主として信じ、受けいれる者、その主と共に歩む者は、暗闇の中を歩かない、命の光を持つ。

 暗闇と思えるところをたとえ通っても、そこから抜け出すことができる。希望を失わない。主のご愛と恵みに生かされて。希望をもって歩むことができる。

 その幸い、ハレルヤ!

 

 

 12月24日() クリスマス合同礼拝 説教メモ

「神は我々と共におられる」  マタイによる福音書1章18-25節 

 

☆思いがけないこと

 思いがけないこと、それは急に目の前に

 思いがけない訪問を受け、再会を喜ぶ。 思いがけないプレゼントをいただいて喜ぶ。

 反対に思いがけない大変さを担い、戸惑う、苦しみを味わう。

 心から喜び、歓迎することもあり、 反対に、受け入れがたい、戸惑うこともある。

 

☆ヨセフが経験したこと

 救い主の母として選ばれたマリアと婚約をしていた男性ヨセフ

 まさか、そのようなことになるとは夢にも思ってはいなかった。

 当時の婚約は、 結婚を前にした1年間、結婚の約束をして歩む。 1年後には結婚式を挙げ、一緒に住むようになる、夫婦となる。 一番幸せな期間 共に生活をする結婚を夢見て過ごす。 そのヨセフは、驚くべきことを聞く。

 婚約者のマリアのおなかが大きくなる。

  当時の人たちは、婚約の期間、1年後の結婚生活を夢見つつも、男女の交わりは一切しなかった。ですから、妊娠して、おなかが大きくなることは決してなかった。

  妊娠するということは、おなかに新しい命が宿るということ。

 ヨセフも、マリアとの結婚の後には、二人の間の子どもが誕生することを夢見たことでしょう。 ところが、その婚約期間にマリアから告げられた。

  おなかに命が宿ったと。 その命は、他の男性との間の子どもではない。

  神の清い霊である聖霊によって宿ったのだと。

 み使いガブリエルによって告げられたこと、それを引き受けますと応答したことを話した。

 

☆ヨセフの苦悩

 そんなことが起きるはずはない。 命は男女の交わりを通してできるものだ。

 神の霊によってできたなど、信じられない。

 マリアの言うことは信じられない。 マリアは、婚約期間にも関わらず、自分以外の男性 

 と交わりを持ったに違いない。 自分を裏切った? それとも、事件に出会った。

 当時の律法では、婚約期間に赤ちゃんができることは許されない。 まして、婚約の相手 

 以外の男性との交わりで赤ちゃんができたことが知れたら、石打ちの刑 大きな石をたく 

 さん投げつけられて、命が取られる。 ヨセフは苦しんだ。

 マリアの話したことは、本当なのか? マリアが自分を裏切るはずはない、しかし、現実には、マリアのおなかに命が宿っている。

 ◎18-19節

1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

 ひそかに婚約を解消しようかと考えた。 マリアとの結婚は永遠になくなる。

 そうなりたくない。 でも、このままだと、マリアのおなかは大きくなり、人に知れるこ 

 とになる。マリアを生かすためにはそれしかない。

 

☆ヨセフは夢を見た。

 ヨセフは夢を見ました。 不思議な夢 神からの語り掛け

 主の天使が現れて告げた。

 ◎20-22節

1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。

1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。

1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 マリアの話したことは嘘ではない、本当だ。 マリアは、神の清い霊、聖霊によって命を 宿したのだ。 その子はやがて生まれ出る。 その名をイエスと名付けなさい。その名前の意味は、罪から救うということである。 救い主として、その命は誕生するのだと。

 ヨセフは、神からの語り掛けを受け止めた。 マリアの胎内に宿っているのは、神からの特別な命だ。 その命は神からの祝福であると受け止めた。

 この命を自分は守っていく。婚約者のマリアを支え、共に歩むことを決断しました。

 

☆重いことを受け止めることは簡単ではない。

 マリアは、信仰によってガブリエルからのみ告げを受け入れた。

 ヨセフも、信仰によって受け入れた。 神のご計画を受け止めよう。

 自分では到底受け入れがたい。 しかし、神のご愛、お力、ご支配を信じよう。

 神の支え、励ましをいただく時に、そのことは可能となった。

 私たちの人生の歩みにおいても、重い事柄が時に起きます。

 それを受け止めることは簡単ではない、時に不可能と思える。

 その時に、自分だけの力、頑張りでは無理。 しかし、神の支えをいただくなら、乗り切ることができる。 神よ、支えてください。必要な助けを与えてくださいと祈り、歩を進めていきましょう。

 

☆イエス、その意味は罪から救う

 罪とは、神さまを知らないこと。 命の主である神、 この世界をお創りくださった神  この地球に命を与え、私たちを産み出してくださった神

 その真の命の主を知らず、認めず、自分勝手に歩むこと。

 真の神以外のものを拝むこと、従っていくこと。 その結果、生きる意味を見失うこと。 自分を苦しめ、人を苦しめてしまうこと。

 生きる意味を見失い、希望を失ってさまようこと。

 罪の結果は、神との断絶 神との交わりを失い、その命に与れないままに歩んでいる状態。

 その罪から救う。 真の神を知り、その神を共に歩むようになる。

 罪の支払う報酬は死です。その最後は滅び。 それほど、残念なことはない。

 死の反対の命をいただく。 神の子どもとしての命をいただくこと。

 

☆クリスマスの出来事

 御子イエスの誕生、ご降誕

 神と人との断絶を取り除くためには、神と人をつなぐ架け橋が必要。

 その架け橋となるためにおいでくださったのが、御子イエス、救い主イエス。

 架け橋となる資格のある人はただお一人、 罪の全くない神の独り子イエスのみ。

 父なる神にとっては、一番大切の宝。 その方をこの世に生きる私たちのためにギフトとして与えてくださった。

 クリスマスプレゼント 人形、おもちゃ、ケーキ、料理、・・

 その源は、神からの最高のプレゼント 御子イエス

 

☆救い主のもう一つの名

一つはイエス、もう一つがインマヌエル

 ◎23節

1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

インマヌエルと呼ばれる  インマヌエルの主 その意味は、神は我々と共におられる。

 

☆とても一人では無理と思える出来事

 とても一人では無理と思える出来事を経験する。 とても難しいこと、困難なこと。 行き詰まり。 どうしたら良いのか、 とても対処できない。 とても担えない。 もうつぶれてしまいそう。 どうしたら良いのか?

 出口が見つからない。 出口はないと思った時、これほどつらいことはない。

 ここまでだ。 これほど、苦しいことはない。

 大丈夫だと思っていたのに、そう思えない出来事、状況。

 どうしたら良いのか? 助けを呼び求める。 誰に届くのか?

 助けを叫び求める その叫びは誰に届くのか? 誰にも届かないではないか

 そうではない。 その叫びを聞いて受け止めてくださる方がおられる。

 この世に生きていて様々な大変さがある。  私たちの周り、世界、 自分自身において世界を見回せば、戦争や争い ウクライナとロシアの戦争 戦争が始まって、2回目の冬 寒い冬を過ごさなければならない。

  イスラエルによるハマスへの攻撃 ガザの人々の苦しみ

  自分や家族の病気 この病気、痛みはどうなるのかという不安

   入院中の方々がいます。 痛みとの戦いの中にある人たちがいます。

   家族と離れ離れで生活をしている人たちがいます。

  今抱えている困難、難しい事態。

  これから担っていかねばならないことの大きさ、難しさを考えるとつぶれそうになる。

 

☆クリスマスの主は受けとめてくださいます。

 クリスマスの出来事を起こしてくださった神は、今も生ける主。

 私たちの叫びを受け止めてくださるお方 命の主よ、力の主よ、愛の主よと呼び求めることができる。

 クリスマスの主は、私たちそれぞれ、私が抱えている事柄、あなたが抱えている事柄をご存じです。そして、良い道を用意していてくださっている方です。

 

☆インマヌエルの主に生かされた人たち

 聖書の中で 旧約聖書の中に登場するヨセフ

  兄たちからねたみを受け、エジプトに奴隷として売られてしまったヨセフ

  様々な試練、苦しみを経験した。

  そのヨセフと神は共におられたと記されている。そして、ヨセフは、ついにその苦しみから助け出され、エジプトで大事な働きをする者に引き上げられました。 兄たち、父、そして一族を救う者となった。 神が共にあって、支え、導いてくださった。

 私たちの教会員で既に天に帰って行かれた方々

  一人の姉妹は、クリスチャンのご両親のもとで育ちました。

  小さな時から教会に通い、イースター、クリスマスの喜びも経験しました。

  親御さんの祈りを聴きつつ育ちました。 神さまを心にとめ歩みました。

  やがて結婚して二人の子どもさんを授かりました。

  結婚生活の感謝、それと共に大変なこともいろいろと経験されました。

  神さまを心にとめ祈りつつ、歩みました。

  77歳の時にご主人と共に洗礼を受けクリスチャンとなりました。

  晩年は、脊椎の関係で、大きな手術も受け、歩くことも十分にできなくなりました。 痛みもありました。でも、いつも主を仰いで、平安を得ました。

  90歳で、平安の中、主の御許に召されて行かれました。

  大変なこと、難しいことがなかったわけではありません。しかし、主と共に歩み、助けをいただき、勝利をいただきました。

 

☆神は我々と共におられる  

 神は我々と共にいてくださる。

 クリスマスの出来事を通して、その救い主を心に受け入れる者に救いの恵みを与えてくださいます。 どんな時にも依り頼むことができます。

 もうどうしようもないと思える時にも、主は共にいてくださいます。

 クリスマスの主は、あなたと共にいてくださいます。 私たちそれぞれが、あなたが抱えていることをご存じであり、受け止めてくださっています。

  決して見離さず、助けてくださるお方です。 インマヌエルの主、クリスマスの主が、私たちの主となったくださったのです。  ハレルヤ!

 

 

12月31日() 聖日礼拝 説教メモ

     「神の国と神の義を」  マタイによる福音書6章25-34節 

 

☆1年を振り返って

 世界の10大ニュース その中には

  *トルコ・シリア地震

  *コロナ緊急事態WHOが解除

  *ハワイ大規模山火事

  *イスラエルガザ侵攻

  *ウクライナ戦況膠着

 日本の10大ニュース その中には

   *WBC14年ぶり優勝…最強侍 列島沸く

   *新型コロナ「5類」移行

   *夏の平均気温過去最高

   *処理水放出開始 

 

☆私たちの北九州復興教会

 *クリスマス祝会(愛餐会) 4年ぶりの愛餐会

 *納骨堂建設への取り組み

   2月の定例教会総会で、このことの取り組みの決議

   5月末に納骨堂建設委員会の立ち上げ  11月末には説明会

 *教師人事 教師2名の人事異動の可能性  後任者が決まらずに白紙に

 *受洗  林美智雄夫兄の病床洗礼 10/31

 *この年の召された方

   ・藤田幸雄兄 1月17日 召天 91歳

   ・藤原力恵姉 4月 5日 召天 97歳 

 

☆本日の聖書箇所

 ◎マタイ福音書6章25-34節 

 

☆思い悩むな

◎25節

6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

 

◎31節

6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。

◎34節

6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 口語訳では、思い煩うな。 新改訳では、心配したりしてはいけません。心配するのはやめなさい。

 

☆思い悩み、思い煩い、心配の種

 そのような種はたくさんある。 朝起きてから夜寝るまで、心配なことがいろいろある。

 起きている間だけでなく、寝ているときも、眠っている時も、悩みの夢を見ることがある。

 

☆夜ぐっすりと眠ることができない状況

 *ガザに住む人たち 

  ぐっすり眠るどころではない。 次々と攻撃を受け、命の危険

  住む家が壊され、自らも負傷、愛する家族、親族、友の死 悲しみの連続

 *ウクライナの国の人たち

  昨年2月末から始まって戦争、ロシアからのミサイル攻撃 家々の破壊、町々の破壊、発電所等の大事な施設への攻撃 気の休まる時がない。

   

☆悪い方に考えてしまう。

 今抱えている課題、難しい問題 これがうまく行かなかったらどうしよう。

 病状が悪化したらどうしよう。 悪いことばかりを考えてしまう。 思い悩む、思い煩う、心配する。 様々な問題、難しい問題  悪い方、悪い方に考えてしまう。心が重くなる、心が沈む。

 心ががんじがらめになる。 心が重く重くなる。 笑顔がなくなる。心がいつも下向き。

 気分転換が必要です。 それでも、やはり心が重い。心が晴れない。

 気になることが心を覆う、心を下に下にと引きずりこむ。

  

☆悲しい現実

 今ある現実、それが厳しい時 起きた現実が厳しい時

  なぜこうなったのかと考える。 自分のせいでこうなったのではないか

  自分を責める。 ああできたのではないか、こうできたのではなかったか

  なぜ、あの時ああしなかったのだろうかと自分を責めてしまう。

  自分を責める声が聞こえる お前のせいで、あなたのせいで

 その悲しい現実が自分を苦しめる。 自分を追いかけて来る。

 

☆主なる神は責められる方ではない。

 主なる神は責められる方ではない。 あなたが責任を取りなさいと責められるお方ではない。 人は時に責める。 神と敵対する闇の主は責める。 あなたが責任を取りなさい、お前が責任を取れと 

 しかし、神は責められない。 主なる神は、私がその責任を取ると語られる。

 そのために、御子イエスをこの世に遣わしたと語りかけられる。

 主なる神は、私たちのことを心配してくださるお方。

 

☆空の鳥、野の花

 空の鳥、野の花

◎26-30節

 野鳥は、野山で木の実や虫を捕まえて食べる。 たくましく生き延びている。

 野の花もたくましく季節を経て花を咲かせる。

 

☆私たち人間は思い悩む

 私たちは、思い悩む、心配する、思い煩う。 何を着ようか、何を食べようかと 過去のことで、思い悩む。 現在のことで思い悩む。 将来のことで思い悩む。 思い悩み、心配、思い煩いでエネルギーを費やす。 それらのことが、自分自身を押しつぶす。 その思い悩み、心配、思い煩いで心がいっぱい。 それで疲れてしまう。

 それらが自分の心を暗くする。笑顔を失う。輝きを薄なわせる。 悪い方に考えてしまう。

 

☆乳幼児の笑顔

 乳幼児の笑顔は最高、とても輝いている。 見る私たち大人を癒すもの。

 その笑顔はどこから来るのか。 それは思い悩み、心配、思い煩いがないところから。 自分の親に信頼しきっている。

 すべて良いものが与えられる。 親が自分に与えてくれる。 そのことを疑わない、 私たちも、あの乳幼児のような笑顔をいただきたい。

 

☆思い悩むな、思わずらうな、心配するな

 思い悩むことをやめなさい、思い煩うことをやめなさい。心配することをやめなさい。 どうして、そんなことができるでしょう。

 このこと、あのことと思い悩みの種、思い煩いの種、心配の種があるのに。 借金があるのに。 もし誰かがその借金をすべて代わりに支払ってくれたとしたら、もうその借金で悩まなくて良い。

 思い悩み、思い煩い、心配を主にお委ねする。お任せする。

 どうすることもできないことがある。 心の深いところで抱えている心配事がある。

◎32節 

6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

 主は、私たちに必要なことをご存じである。 主は与えてくださるお方。

 主にお委ねしましょう。

 

☆神の国と神の義を求めなさい。

◎33節 

6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

 *神の国とは、神のご支配を意味しています。

  神がこの世界のすべてを創造してくださった。今もこの全宇宙を、そして私たちの住むこの地球もご支配してくださっている。

 それなのに、この地球、世界を見ると問題だらけ 大自然が破壊され、大気汚染、海洋汚染が広がっている、 戦争が絶えない。

 私たち人間の傲慢、自己中心、自分だけ良ければ、自分たちだければ良ければ、自分たちの思いのままに支配したいと身勝手な思い、そのような世界に、神は、クリスマスの出来事を起こし、おいでくださった。

 私たちを滅びに向かわせる罪の支配を打ち破るために、主イエスを通して、成し遂げられた救いの御業  神の国は、遠いところに置かれているのではなく、私たちの目の前に置かれた。 その中に生きることができるようにしてくださった。

*神の義とは、神の正しさを意味しています。

 人間の義はいつも崩れ去ります。他の人を他の国の人を傷つけ、苦しめます。 人間の義は、その人の都合で勝手に変えられます。 神の義は決して変わりません。

 クリスマスの主イエスを通して成し遂げられた救いのゆえに、神の義は、冷たい義ではなく、温かい義、すなわち、救いを意味していることが明らかになりました。

 

☆何よりもまず神の国と神の義を

 神の国と神の義を中心軸に据える 軸足を主に置く 軸足を主の下に置く

軸足をそれ以外のところに置いていくならば、どんどんずれて行ってしまう。

 軸足を主において進んで行きましょう。

 毎週のこの礼拝を大切に励まし合って歩んでいきましょう。

 毎週の水曜祈祷会にも励みましょう。

 毎日のデボーション、主のみ前に静まり祈ること、日々の歩みの中で、聖書の御言葉を読み、主に祈ることを大事にしていきましょう。と

この1年を振り返ってどうだったでしょうか?

 教会における聖日礼拝、祈祷会

 個人におけるデボーション、静まり祈ること、日々の聖書

 

☆神の国と神の義を

 神の国は、私たちのもとに訪れている。主イエスによって神のご支配は及んでいる。 神の義、神の救いは主イエスを通して備えられた。

 神の愛が注がれ、神の恵みは注がれています。

 その愛の中で、恵みの中で、主に感謝しつつ歩んで行くことができるのです。