2024年12月
12月1日(日) 聖日礼拝 説教要約
「平和の計画」 エレミヤ書29章10-14節
様々な喜びがあります。その中でも一番大きな喜びは大きな借、金を返済し終えた、また難しい病気が良くなって退院できた、また長く続いた戦争がようやく終わったということではないでしょうか。しかし、現実にはなかなかうまくいかないということも多くあります。
主のもとでは希望があります。なぜなら、生ける祝福の神は、信じる者を励まし、希望を与えてくださるからです。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。」(12-14節)。主が祈りを聞いてくださり、ご自身を見出させてくださり、出会ってくださるというのです。また、つらいバビロン捕囚より解放してくださるとの約束です。
第1回のバビロン捕囚は、紀元前598年、第2回目は南ユダの国が滅んだ紀
元前586年、第3回目は紀元前583年です。「主はこう言われる。バビロ
ンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの
約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。」(10節)。神はそのこと
を導いてくださいました、バビロニアは、ペルシャによって滅ぼされ、民は、
祖国に戻ることができました。
「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は
言われる。それは平の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与え
るものである。」(11節)。
神はお持ちなのは、災い、悪の計画ではなく、平和の計画であると、それは
なんと幸いなとでしょう。神が与えてくださる平和は外側のことではなく、平
和の君である主イエスを信じる者に与えられる内側の平安、平和です。この平
和、原語ではシャローム意味している平和は、深い意味を持っています。人や
国とのへいわであり、安心、安全、平安、繁栄、肉体的にも精神的にも健康で
あること、満足と生きる意欲があること、知恵に充ち、罪と世に対して勝利し
ているあり方です。
(久多良木和夫)
12月8日(日) 聖日礼拝 説教要約
「まことの光の力」 ヨハネによる福音書1章1—13節
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(1—3節)。この言(ことば)は、原語のギリシャ語では「ロゴス」です。言葉を意味するロゴス、それは哲学的な意味ではなく、まさに神の御思いを伝える力を持つ特別な存在を意味し、主イエスを指しています。主イエスはこの宇宙、世界が創造される一番初めにおられました。主イエスは、父なる神と共におられ、神ご自身であられました。
初めに、神は天地を創造された。神は言われた。「光あれ。」こうして、光が
あった。(創世記1章1,3節)。「光あれ」という神の言葉の力により光が
できました。
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いて
いる。暗闇は光を理解しなかった。」(4-5節)。「この言に命があった。
そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみは
これに勝たなかった。」(口語訳)。主イエスは命をお持ちで、私たち人間の
内側を照らすことができる方です。私たちを支配しようとする闇を打ち破るこ
とのできる方です。
「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(9節)。子どもも大人も、赤ちゃんも老人も、正しい者も正しくない者も、貧しい者も富める者も、自信のない者もある者もすべての者を照らすことのできる方です。今抱えてる難しい問題、課題、健康のこと、家族のこと、過去のこと、いろいろな不安、恐れが私たちを取り囲みます。それらのことに光を与えてくださるのです。
「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、
自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受
け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(10-
12節)。救い主としておいでくださった主イエスを受け入れない人は多くい
ます。しかし、その方を信じ受け入れる者に対して、神は、罪の赦しを与え、
神の子どもとしてくださいます。人が神のような存在になるではありません。
神との断絶が取り除かれ、神とつながって歩む者とされるのです。神の霊をい
ただき、神の子どもとして歩むのです。
(久多良木和夫)
12月15日(日) 聖日礼拝 説教要約
「恵みと真理に満ちた主」 ヨハネによる福音書1章14-18節
満ちてほしいものと聞かれたら何と答えるでしょうか。お金、財産という答えもあるでしょう。平和、希望、愛という答えもあることでしょう。表面的な愛、一時的な愛、偽りの愛ではなく、真実の愛で満ちてほしいものです。
この世は、暗闇と悪、罪に満ちています。逃げ出したいと思っても逃げ出すことはできません。大変な状況の中にあるとことに飛び込むことが普通はできません。もし飛び込めば同じ大変さを経験するからです。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(14節)。神であられた主イエスは、神の位を捨て、私たちと同じ人間となってこの世にお生まれくださいました。人間には、様々な制限があり、弱さがあり、病気、悲しみ、憎しみ、絶望的な思いの中に陥ります。一切の制限、弱さのないお方が、人となってくださいました。
恵みとは何でしょうか。原語のギリシャ語では「カリス」です。もしヘブル語で表すとしたなら「ヘセド」ではないでしょうか。変わることのない、真実の愛です。他のギリシャ語で表すなら「アガぺ」でしょうか。自らを犠牲にして他の人を救う愛です。
真理とは何でしょうか。原語のギリシャ語では、「アレセイア」です。口語訳、新改訳ではまことと訳されています。へブル語で表すなら、「エメス」でしょうか。「アーメン」と同じ語源です。
「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」(17節)。律法の代表は十戒です。律法は大切なことを教え命じます。それを守ることで神の前に良しとされるとするなら、満点でなければなりません。一つでも落ち度があることは許されません。恵みと真理とは、神の救いを意味します。神の前に私たちは自らの行いで良しとされることは不可能です。足りなくてどうしようもない私たちのために、イエス・キリストがこの世に人としておいでくださり、自らの命を犠牲として捧げてくださったゆえに、私たちはその方を信じることで良しとされ、合格とされます。
「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」(18節)。人は直接神を見ることはできません。奇跡を見たら信じますと言ったとしても、人は奇跡の連続に生きることはできません。神が一番大切な独り子イエスを私たちのために与えてくださったクリスマスの出来事、そしてその命を捧げてくださった主イエスを通して、私たちは神が愛のお方であることを知ることができたのです。
(久多良木和夫)
12月22日(日) 聖日礼拝 説教要約
「飼い葉桶に寝かされた救い主」 ルカによる福音書2章1-7節
毎年やって来るクリスマス、クリスマスは、英語の綴りで、christmas、すなわち、christキリスト、mas祭り、祝祭日、イエス・キリストの誕生のお祝いの日です。今からおよそ2千年前の出来事です。
救い主の誕生の場所は、ユダヤのベツレヘムという小さな町です。その町の一つの家畜小屋でした、なぜ有名で立派なエルサレムではなかったのか、なぜ立派な宮殿や最高級のホテル、宿屋ではなかったのか、そこにこそクリスマスの意味が込められています。
ああみじめだ、ああ悲しいと思ったことはあるでしょうか。そのように思うことがあるでしょうか、辛い中に置かれる時にそのように思います。
当時のユダヤの人たちは、ローマに支配され、命じられるままに歩まねばなりませんでした。現代においては、ウクライナの国の人たち、また独裁者と言われる者に支配されている国の人たちも同じような苦しさを味わっています。
ローマ皇帝より、住民登録をせよとの命令が出されました。マリアとヨセフは生まれ故郷のベツレヘムに向かいました。マリアのおなかの中には、神の聖い霊である聖霊によって授かった命がありました。それは、救い主イエスです。
ベツレヘムには、泊まることのできる宿屋はどこもいっぱいでした。借りることのできたのは牛やろば、羊や馬が飼われていた家畜小屋でした。そこでマリアは赤ちゃんイエス様を産みました。クリスマスの夜、赤ちゃんイエス様は誕生しました。
「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(6-7節)。寝かされたのは、立派なベビーベットではなく、家畜の餌箱である飼い葉桶でした。
救い主は飼い葉桶に寝かされました。飼い葉桶は、餌の残りかすがあり、家畜のよだれがついていて決してきれいとは言えません。それは、ちょうど私たちの心を似ています、怒り、おごり、妬み、むさぼり、失意落胆、嘆き、悲しみが詰まっている心にです。
なぜ、赤ちゃんイエス様は飼い葉桶に寝かされたのか、理由はただ一つです。私たちを見捨てず、私たちに寄り添うためです。私たちを救い、神の子どもとして生かすためです。
(久多良木和夫)
12月29日(日) 年末感謝礼拝 説教要約
「主の名によって集い進む」 マタイによる福音書18章18-20節
2024年の私たちの教会の御言葉として、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書18章20節)を掲げました。標語として、「主の名によって共に集い進もう」としました。」
神の家族として、共に教会に集い礼拝を捧げたい、祈祷会でお祈りしたいと願ってのことでした。家族は、遠くから声を聞き、顔も見るだけで良しとせず、直接顔を合わせ、言葉を交わし、また食事をします。そのような麗しい関係を大事にしたいものです。
この世では、様々な悲しい出来事、辛い出来事が起きます。私たち人間の身勝手な行動が多くの人に悲しみをもたらします。困難、悲しみが少しでも少なくなってほしいものです。
「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(18節)。ペトロがイエスを救い主として告白したときに、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16章19節)と告げられました。イエスを主と信じる信仰に立って進む時に、主は御業をなしてくださいます。
「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(19節)。二人の者が心を一つにして祈り求める時にその祈りを聞いてくださいます。二人の者が心を一つにすることを大事にしていきましょう。
「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15章16節)、「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」(ヨハネ16章23節)。主イエスは、ご自身の名前によって祈るならばかなえられる、主イエスの名によって祈りなさいと語られました。
少年ダビデは巨人であるゴリアテと戦い勝利しました(サムエル記上17章)。ダビデは、万軍の主の名によって立ち向かい勝利したのでした。
一番幸いなことは、主が共にいてくださり、主の恵みのご支配の中で生きるということです。主を共に礼拝し、主を共に讃美しましょう。
(久多良木和夫)