2018年

 1月7日() 聖日礼拝

        「信仰によって生きる」     ハバクク書2章14節 

  

 預言者ハバククが活躍したのは、紀元前7世紀からの後半です。南ユダ王国を支配しようと迫っていたアッスリアの国が滅び、第16代目のヨシヤ王が宗教改革を行いました。しかし、彼はエジプトの国との戦いで戦死してしまい、南ユダの国はエジプトの支配下に置かれました。次にはバビロニアに支配されていった大変な時代でした。ハバククはその苦しみを神に訴え抗議しました。「それなのになぜ、欺く者に目を留めながら黙っておられるのですか 神に逆らう者が、自分より正しい者を呑み込んでいるのに。」(1:13)。

 

 主なる神は、彼に語りかけられました。「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」(4節)。この御言葉は、ローマの信徒への手紙1章17節で、使徒パウロによって引用されています。ガラテヤの信徒への手紙3章11節においても語られています。

  

 どのような時にも、主を仰ぎ、主に祈り、主に信頼して主の助けと導きをいただいて歩んでいきましょう。目の前の困難、行き詰まりに打ち沈む時があります。その時に主を見上げる者であらせていただきましょう。「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。」(詩編62:6)。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。」(哀歌3:22)                        

                         (久多良木和夫)

 

 1月14日() 聖日礼拝

        「ただ中におられる主」  ゼファニヤ書3章14-20節 

  

 ゼファニヤは預言者ハバククよりも少し前に働きをなした預言者です。ハバククは南ユダの国がエジプト、バビロニアという大国に支配されていた時に、「神に従う人は信仰によって生きる」と語り、信仰の目を主に向けて歩むことの大切さを告げました。  

  

 ゼファニヤは、南ユダの国がアッスリアという大国に支配されていた時に、真の神以外のものに心を向け歩んでいた南ユダの人々に、そして真の神以外の神々に心を向けて歩んでいた南ユダの国以外の諸国の人々に、主の日の審きを告げました。

  

 それと同時に、ゼファニヤは、 「お前の主なる神はお前のただ中におられ 勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」(17節)と告げました。

  

 主なる神がただ中にいてくださり、勝利を与えてくださるというのです。実際の歴史を見ると、南ユダの国は、その後、バビロニアに滅ぼされていまい、多くの者はバビロン捕囚となります。しかしその期間が終わってもう一度南ユダの国は再興されます。神殿中心の信仰から、律法中心の信仰へと変わっていきます。その後、主を見失いますが、天の父なる神は、独り子イエスを救い主として遣わしてくださいました。

  

 主は、私たちそれぞれが抱えている事柄をご存じで、助けを与え、希望を与え、勝利を与えてくださるお方です。                                    

                          (久多良木和夫) 

 

   1月21日() 聖日礼拝

       「その偉大な力によって」     エフェソ6章1018節 

  

 人生は旅であると同時に戦いでもあります。悪魔は、神から引き離すべく立ち向かってきます。その戦いに勝利するために、神の武具を身につけなさいと命じられています。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(11節)

  

 第1は、真理の帯です(14節)真理とは主イエスを指しています。

  

第2は、正義の胸当てです(14節)天の神さまは、すべてを公平に裁かれます。ひどいことを言ったり、ひどいことを言う敵に自ら復讐しようとせず、神に任せなさいと告げられています(ローマ12:19)

  

第3は、平和の福音を告げる準備の履物です(15節)どんなときにも主の救いの恵みを証し伝えることが大事です。

  

第4は信仰の盾です(16節)神を信じ、神にすべてをゆだねる信仰こそ大事です(ヘブライ11:6)

  

 第5は、救いの兜です(17節)主イエスによって与えられた永遠の命を何よりも大事なものとして歩みましょう。

  

 第6は、神の言葉の剣です(17節)真理からそらそうとする多くの声に惑わされず、聖書の御言葉に聞き従って行きましょう。

  

 第7は、祈りです(18節)たゆまず祈りましょう(ローマ12:12)

  

 「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」(1節)神の偉大な力を受けつつ、歩み行きましょう。                               

                          (久多良木和夫)

 

 1月28日() 聖日礼拝

        「味わい 見よ 主の恵み」      編34123節 

  

 賛美とは、褒め称えである。主への感謝と歌詞を通して、主を証していくので「主に賛美する」ではなく「主を賛美する」が本来であろう。

  

 詩編34編は、賛美することの意味が描かれている。「どのようなときも、わたしは主をたたえ わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。」(2節)とあるように、賛美は心が晴れやかな時だけではなく、辛い時などもする。ダビデ自身がこの詩を書いた時、サウル王に敵意を持たれ襲われているため、逃げている中書かれたものである。その中でも、ダビデが賛美することが出来たのは「苦難から常に救ってくださった。」お方が主であることを確信していたからである(718節等)。

  

苦難とは、罪のこともあらわす。神様は、救いの神であり、贖いの神でもある(23節)。主を信じる者として、通るべきものは自分の持っている負、醜いもの罪を悔い改めることが必要である。その先に喜びがある(19節参照)。

  

喜びをもって生き長生きする秘訣は、「主を畏れること」にある(1213節)。「主は何も欠けることがないお方」(詩編23:1)であるので、主に従うものは何も欠けることがない。

  

主に従うものとして生き続けることは、御言葉によって生かされること。御言葉を味わって、神様を見ていくことで神様からの恵みに気づかされる。

                           (後藤真英)

 

  2月4日() 聖日礼拝

        「ただ神の霊によって」      ゼカリヤ書4章114節    

 

 預言者ゼカリヤは、預言者ハガイと同じ時代に活躍した人物です。               

 

 ユダヤの民は、南ユダの国がバビロンに滅ぼされ、多くの人が遠いバビロンに捕囚の民として連れて行かれました。大きな苦難の後、ペルシャの国がバビロニアを滅ぼし、キュロス王の命令で祖国に帰ることができました。 

  

 エルサレム神殿再建に取り組みましたが、大きな妨害等もあり、途中で中断しました。その時に神から遣わされたのがハガイとゼカリヤです。

 

 ゼカリヤが見た幻は、金の燭台と7つのともしび皿です。両脇の二本のオリーブの木からともしび皿に油が供給されていました(2、3、12節)。

  

 指導者として立てられた大祭司ヨシュアと総督ゼルバベル、そして民を神は奮い立たせてくださいました。中断した神殿再建は再開し、紀元前515年に完成に至りました。

  

 「これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。武力によらず、権力によらず ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。(6節)。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる(新改訳)。武力とは、組織的な力を意味します。権力とは、個人の能力を意味します。組織的な力や個人の能力が何よりも大事だと私たちは考えます。でも、本当の力は、神からの霊である聖霊によって、与えられるものです。

                           (久多良木和夫)

 

 2月11日() 聖日礼拝

         「わたしの名は」        ルカ9章18-20節

 

 イエス様は、弟子たちに「わたしを何者であると言うのか?」と問いました。それに対し、ペトロが「神からのメシア」(20)と告白した。群衆たちが、「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」などの答えがある中、そのような噂に流されることなく、ヘブル語で油注がれた者を意味するメシアであること、そして神であると信仰告白をした。

  

主イエスは、何か大きなことが起こる前は必ず父なる神に祈っている。当箇所の初めでも、主イエスは人々に問われる前に、一人で祈られている。それは、信仰告白のためだけではなく、その後弟子たちに初めて明かすご自身の死と復活のことのためであっただろう。

  

主イエスは、三度弟子たちにご自身の死と復活を述べている。それぞれその前後では主イエスの神顕現がなされている。①ペトロの信仰告白の後、②イエス様の姿が変わる場面の後、③エルサレム入城。そして、三回とも死と復活の内容に変化がある。 

 

 1回目では、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(23)と語っている。弟子たちには、主に従う者として、わたし(イエス様)がメシア(キリスト)であるという信仰を持ち続けてほしいと思っていたのであろう。                                   

                            (後藤真英)

 

 2月18日() 聖日礼拝

       「十字架を背負って」    マタイ福音書16章21-28節

   

主イエスは、十字架につくためにこの世に来てくださり、私たち一人一人の救いのために十字架にかかってくださいました。

  

 主は、その公生涯の終わりが近づいてきたとき、十字架の死と復活の予告をされました。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と弟子たちに打ち明け始められた。(21節)。

  

 そんなことがあってはなりませんといさめたペトロに対して、主は厳しい言葉で叱られました。ペトロは人間的な思いからそう言いました。その根底には、主イエスの十字架がなくても済みますという考えがあり、神の救いの計画を邪魔しようとしました。そのことを主は厳しく叱責されました。十字架なしでは、解決できない問題があるのです。それは、私たち人間の罪であり、神との断絶の問題です。

  

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(24-25節)。自分の願い、思い、計画がうまくいけば、神なしでも良いと考える時、その行きつくところは永遠の滅びです。主の十字架の大いなる恵みを受け取って、神と共に歩むならば、主との幸いな交わりが与えられ、その行きつくところは永遠の命です。      

                          (久多良木和夫)

 

 2月25日() 聖日礼拝

        「この最後の者にも」    マタイ福音書20章1-16節

  

主は、私たちを大きな愛しみと憐れみの愛によって救いに招かれています。

  

主イエスは、天の国についてのたとえ話をされました。ぶどう園の主人は働き人を求めて町に来ます。まず夜明けに雇われた人がいます。その後、午前9時、12時に、そして午後3時にも来て、雇って行きました。夕方の午後5時にも来て、雇われていない人に声を掛けました。彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。(7節)。もう雇われることもないとあきらめていたのに、雇われどんなに嬉しかったことでしょう。

  

賃金は、夕方の人から順番に支払われ、一番最後が夜明けに雇われた人でした。皆同じく1デナリオンの賃金でした。夜明けの人は抗議しました。それに対して、主人は「自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」と答えました。(14節)。

 

ぶどう園の主人とは、天の神さまのことです。支払われた1デナリオンとは、救いの恵みであり、永遠の命のことです。主は、招きに応じた人すべてに、永遠の命を与えてくださるお方です。

  

この世の選びは、その人の見栄え、能力等によってなされることが多いことです。でも、主なる神は、ただ一方的な愛によって招き救ってくださいます。

                          (久多良木和夫)

 

 3月4日() 聖日礼拝

        「ロバに乗った王」       マタイ福音書21章-11節

  

真の救い主であり、真の王としてこの世においでくださった主イエスは、最後、ロバに乗ってエルサレムの町に入って来られました。ご自身が神から遣わされた救い主であることを明らかにするためでした。

  

主イエスは、ロバに乗ってエルサレムの町に入城されました。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」(ゼカリヤ書9章9節)の預言の通りでした。

  

主イエスは、馬ではなくロバに乗られました。ロバは平和のために用いられる動物です。主は、平和の主としておいでくださいました。人間の罪のためにこの世には争いがあります。その根本のところには、命の主、真の愛と祝福の神との断絶があります。その断絶を取り除き、神との平和を与えるために主は来てくださいました。

  

もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」(3節)。主は、あなたが必要なのです。あなたを用いたいと願っておられます。 

  

群集は、歓喜して、「ホサナ」と叫びました。その中の多くは、5日後、「イエスを十字架につけよ」と叫びました。ホサナの本来の意味は、「今、救ってください」ということです。このホサナの原点を忘れないようにしましょう。

                          (久多良木和夫)

 

 3月11日() 聖日礼拝

       「最後まで耐え忍ぶ者」     マタイ福音書24章-14節

  

主イエスは、エルサレム神殿の崩壊と終末のしるしの予告をされました。 

  

どんなに立派なものもいつか崩壊します。私たちは、見えるものに寄り頼みやすいすが、変わることのない主に寄り頼む者でありたいと思います。

  

エルサレム神殿は、紀元70年にローマ軍によって、徹底的に破壊されました。福島第一原発事故は、人の英知ではなく、主の御前にへりくだることの大切さを示しています。

  

主イエスは、この世界の終末のしるしを教えてくださいました。終末とは、人間が何でもできる、何をしてもかまわないというそのような事柄が終わり、神の完全な支配の前に、すべての者が神を仰ぎ、助けと憐れみを求める時です。

  

終末のしるしは、6つあります。第1は、偽のメシア、預言者の出現です。ものみの塔、モルモン教、統一教会(世界平和統一家庭連合)、オーム真理教、幸福の科学等々です。第2は戦争と戦争の噂です。アメリカ、ロシア、中国の三強の牽制し合い、北朝鮮問題等です。第3は飢餓と地震です。世界で現在9億人の人たちが飢えで苦しんでいます。世界各地で起きている大地震等です。第4は迫害です。パキスタン、インド、中国、中東の国々、アフリカの国々でクリスチャンに対する迫害が起きています。第5は不法と愛が冷えることです。現代社会において、互いに無関心になり、助け合うことをしなくなっています。第6は世界宣教です。現在、キリストにある救いの福音が全世界に宣べ伝えられています。

  

「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(24節)。主のご支配、助けをいただきつつ、最後まで信仰の歩みを進んで行きましょう。

                           (久多良木和夫)

 

 3月18日() 聖日礼拝

       「真っ白に輝くイエス」    ルカ福音書9章28-36節

  

イエス様は、祈るために山に登られました。祈っている時「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。」(29節)。主の栄光に包まれた状態となったのです。そして、イエス様が栄光に包まれた中に律法授与者であるモーセと預言者の代表としてエリヤが現われました。彼ら3人は「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」(31節)この「最期」とは、受難と十字架と復活の事です。そして、「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」(34節)と神の御声からイエス様は、神の子であり、メシアであることが神から語られました。そして,そこにいたのはイエス様のみでした。

  

一方、弟子たちは、栄光に包まれている真っ白に輝いている3人であることは分かったが、話している内容までは理解できていませんでした。そこがモーセと弟子たちの違いです。しかし、弟子たちは、分からないながら、眠気の中でも、見落としまいと「じっとこらえながら」その栄光を見続けていた。わたしたちも、霊的な事は素晴らしさは分かっても難しいことが多いです。その時でも、弟子たちのように見落としまいと主の栄光を見続けていくことに意味があります。そして、またモーセやエリヤのようにわたしたちが主の栄光に包まれて主を証していきましょう。

                            (後藤真英)

 

 3月25日() 聖日礼拝

        「ゲッセマネでの祈り」    マタイ福音書26章3646節          

 

主イエスが十字架を前にして、最後の最後になしてくださったこと、それはゲッセマネの園での祈りでした。この祈りがなければ、主イエスの十字架刑もなかったでしょうし、救いの業も全うされなかったことでしょう。

  

主イエスは、最後の週の日曜日にはろばに乗ってエルサレムに入城し、木曜日には、弟子たちの足を洗い、最後の晩餐がなされました。 

 

最後の晩餐の後、主イエスは3人の弟子を連れて、ゲッセマネの園に行き、祈られました。共に心を合わせて祈ることを要請された弟子たちでしたが、眠っていました。

  

その弟子たちに、主は、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」と語られました(41節)。

  

主イエスは、十字架刑がどれほどつらく苦しいことかをよく知っておられました。

   

主の最初の祈りは、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」というものでした(39節)。しかし、主が行きついた祈りは、「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」というものでした(42節)。私たちの救いのために、主は十字架の道を選び取ってくださいました。

                          (久多良木和夫)   

 

 4月1日() 聖日礼拝

       「前に進まれる復活の主」    マタイ福音書28章1-10節             

 

主イエスは、全世界の人々のために、その命を十字架で捧げてくださったお方で、その主は、死を打ち破って復活してくださった主です。

  

十字架から三日目の日曜日の早朝、マグダラのマリアともう一人のマリアに天使は告げました。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』(7節)。その後、復活の主イエスが、二人に告げました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(10節)。

 ガリラヤは4つの地を意味しています。

第1は、日常の歩みです。ガリラヤとは弟子たちの出身地です。日常生活の中で、復活の主は共に歩んでくださいます。

第2は、私たちが不安を覚える場所、ところです。初めて体験する出来事において、困難が予想される不安が襲ってきます。復活の主は先に行って待っていてくださいます。

第3は、死という大きな壁、関所です。人生の最後に待ち伏せている死という怪物であり、敵です。復活の主は、その死を滅ぼしてくださいます。「最後の敵として、死が滅ぼされます。」(コリント一15:26)。

第4は、天の御国です。主イエスは、十字架の死と復活を通して、天の御国に住まいを用意してくださいました(ヨハネ14:2-3)。自分自身が罪人であることを認め、主イエスを救い主として信じる者を天の御国に迎え入れてくださいます。

                         (久多良木和夫)    

 

 4月8日() 聖日礼拝

        「平和があるように」     ルカ福音書24章3649節             

 

主イエスは、復活して弟子たちのもとに帰って来てくださいました。そこには2つの目的がありました。第1は弟子たちの恐れを取り除くため、第2は弟子たちを新たに遣わすためでした。

  

弟子たちは、多数派であり、権力と力を持っていたユダヤ教徒を恐れました。それと自分たちの裏切りに対する神の怒りを恐れていました。復活の主は「あなたがたに平和があるように」と言われました(36節)それは恐れる必要はないことを意味し、赦しの宣言でした。

  

「復活の主は、弟子たちに罪の赦しと平安を与え、新たにして、新しい使命をお与えになりました。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(47-48節)。弟子たちは主の福音に生かされ、その恵みに与り、そのことの証人となる使命が与えられました。

 

復活の主イエスは、今生きる私たちにも、恐れを取り除き、新しい使命を与えてくださっています

                        (久多良木和夫)

 

 4月15日() 聖日礼拝

      「イエス・キリストの福音」  マルコ1章1節、イザヤ52章710節

   

 マルコ1:1は、マルコによる福音書の概要が込められていると言ってもよい。

 

 Ⅰ「神の子イエス」‐西暦は、主イエスの誕生から始まっている。主イエスは、2000年以上前にこの世界に人となり来られ、33年間歩まれた。福音書は、その中での公生涯と言われる3年間の働きを記している。マルコは、その中で特に、病の癒しなど神の業における奇跡など「神の子イエス」としての働きを強調している。マルコにだけ、主イエスの降誕の箇所がない。すぐに、洗礼者ヨハネになる。(2節~)その事からも、神の子イエスが見えてくる。

  

 Ⅱ「イエスキリストの福音」‐福音書とは、著者の自叙伝ではない。「イエス・キリストの福音」である。そして、福音とは神からの良い便りである。「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える足は」(イザヤ52:7)主イエスの生涯そのものが福音である。「イエス・キリストの福音」は別の言い方で言うと、十字架の道である。主イエスは、自分の命をささげ、この道がいかに美しいものであるかを伝えた。

  

 Ⅲ「福音の初め」‐聖書に、「福音の初め」はあるが「福音の終わり」とはどこにもない。福音、主イエスの十字架は今もなお続いている。十字架とは、主イエスの死で終わりでないということである。復活の喜び、そして昇天を通し今もなお導いていることを示している。

 

 イエス・キリストの福音という、主が用意してくださった、素晴らしく美しい道を主イエスの後に続いて歩み続けて行こう。                 

                             (後藤真英)

 

  4月22日() 聖日礼拝

        「正しい礼拝」             マラキ書1章6-14節

  

正しい、正しくないは、人が判断することでなく、神が判断されます。礼拝は、毎聖日の礼拝だけを指しているのではなく、日々の神への礼拝、日々の歩みをも指しています。

  

 「わたしが父であるならわたしに対する尊敬はどこにあるのか。わたしが主人であるならわたしに対する畏れはどこにあるのかと万軍の主はあなたたちに言われる。」(6節)。民は、神への尊敬と畏れを忘れたことにより、神に喜ばれない捧げものをするようになりました。「あなたたちが目のつぶれた動物をいけにえとしてささげても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても悪ではないのか。」(8節)。

 

 その一番の原因は、祭司であり、レビ人でした(2:1-9)。神に直接仕える者の責任は重大です。

 

 礼拝における献げものは、何でしょうか? 献金でしょうか、それも献げものの大事な要素ですが、それ以外に、神への感謝、讃美、祈り、神の御言葉を慕う心、それに従おうとする心と大事なものがあります。

 

 アベルの献げものを神は喜ばれました。一方カインの献げものを神は喜ばれませんでした。アベルは自分にとって一番大切な肥えた初子の羊を捧げました。

                          (久多良木和夫)

 

 4月29日() 聖日礼拝

          義の太陽           マラキ書3章1924節 

 

 本当の愛は、時に厳しさを伴います。愛する者のために間違ったことに対しては、それを指摘し、やめるように諭します。

  

 神への尊敬と畏れを失った民や祭司に対して、神は、預言者マラキを通して立ち帰れと呼びかけられました(3章7節)。

 

 神は私たちの心の内面をご覧になります。神は急に来られます(31節)。お客さんが急に来られて困ることがあります。それは準備していない時であり、家の中が片付けられていない時です。

  

 高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようにすぐに火で燃えてしまいます(19節)。逆らう者は灰になってしまいます(21節)。

 

 「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る。」(20節)。義とは、ヘブライ語で「ツェダーカー」であり、全く正しいということであり、神のみがお持ちの性質です。そして、そこには救いという意味があります。 

 

 義の太陽とは、救い主である主イエスご自身を意味しています。神は、私たちの救いのために主イエスをお遣わしくださいました。主によって、罪の赦しが与えられ、確かな平安、失われない希望が与えられました。躍り出て飛び跳ねる喜びをいただくことができます。                                          

                                                                   (久多良木和夫)

 

   5月6日() 聖日礼拝

        弟子たちの祈り         使徒言行1章1226節  

  

 動物にできなくて人にできる特別なことの中に、お互いの間での会話、議論、そして創造主なる神へ心を向けて言葉を用いての祈りがあります。主に向かっての祈り、讃美は、議論よりもずっと大事なことです。議論は、頭の良い人、頭の回転の速い人が勝ちます。祈りは神の前に謙虚な人、神に向かって辛抱強く、熱心な人が勝利します。願わくば、議論ではなく、祈りによって勝利し、神の御業を拝する者でありたいと思います。

  

 主イエスの昇天の後、弟子たちは不安と自分たちの力なさを覚えたことでしょう。弟子たちは、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24章49節)という主イエスの約束を握って、エルサレムの一軒の家の二階の部屋に集まって一緒に祈りました。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」(14節)。

 

 先日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」についてユネスコの諮問機関が世界遺産にふさわしいと勧告をしました。キリスト教信仰が禁じられた禁教期に弾圧を受けながらもひそかに独自の形で信仰を続けた潜伏キリシタンの人たちがいたのでした。そこにはお互いの励まし合いと共に神への切なる祈りがあったことでしょう。

  

 私たちも祈りを合わせつつ進んで行きましょう。そしていろいろな事柄を乗り越える忍耐と希望をいただきましょう。 

   (久多良木和夫)

 

 5月13日() 聖日礼拝

          「イエスの母マリア」       使徒言行1章614節  

  

 主イエスが天に昇って行かれた後、ガリラヤの出身であった弟子たちが「戻る」ところは、ガリラヤではなくエルサレムでした。そして、主が十字架にかけられる前の日、最後の食事をされた場所、「泊まっていた家の上の部屋」に上がったのです。

  

 14節に「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」とあります。弟子たちと、女性たち、主イエスの親族という集まりの中でマリアは主イエスの母親という特別な存在でした。

  

 主イエスが十字架刑を受けられるのを見たマリアは、「剣で心を刺し貫かれ」ました。心は傷を受け、血を流しました。その母マリアが悲しみを乗り越えて、祈っているのです。そしてマリアもペンテコステの恵みを受けるのです。世界に教会が誕生する準備の時、マリアは自らをそこに置いています。息子イエスを裏切った弟子たちと心を合わせて真剣に祈り、主なる神様の約束を待ち望みました。主イエスのことを伝えていく重要な一人としてこれから生きようとしています。マリアは弟子たちから離れていくことはしませんでした。彼らと一緒にひたすら祈りました。

  

 「イエスの母マリア」の祈りに学びましょう。神様と1対1で祈る祈りと共に、祈りの集団の一人として祈るのです。ホーリネス誌5月号に記されています。佐藤雅文『祈りの生涯』より、-「祈祷」は祈祷であるとともに「祈闘」である。悪魔との白兵戦である。彼の退くまで頑張り通す攻撃戦闘である。        

                        (久多良木志津子) 

 

  5月20日() 聖日礼拝

        聖霊の注ぎ           使徒言行2章1-13節  

 

天の神さまは、三位一体の神です。創造主である父なる神、救い主である子なる神、そして聖霊なる神の三つの位格をお持ちです。生ける力ある祝福の神です。

  

 主イエスは、十字架の死より三日目に復活し、弟子たちと共に40日間共に歩んでくださいました。召天より10日後、聖霊が弟子たちの上に降りました。

  

 弟子たちは、変わりました。お金持ちになったとか立派な身なりになったということではありません。確信を持って主イエスの弟子として大胆に恐れなく歩むようになったのです。この聖霊降臨の出来事は、ヨエル書3章の預言が成就した出来事でした。

  

 「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」(2章32-33節)

 

  聖霊降臨、それは神が与えてくださった大いなる恵みです。聖霊なる神は、以下の通り6つの大いなる恵みの主です。

 ①神の子どもとしての命、身分を与えてくださる方(ローマ8章16節)

 ②御国の命の保証を与えてくださる方(エフェソ1章14節)

 ③御言葉を理解し受け取る恵みを与えてくださる方(ヨハネ14章17節)

 ④執り成し祈ってくださる方(ローマ8章26節)

 ⑤助けてくださる方(ヨハネ16章7、13節)。弁護者、助け主なる方です。人生においては、山があり谷があります。順風の時があり、逆風の時があります。その中で、希望を失わず生きるようにしてくださいます。

 ⑥力の与え主です(使徒1章8節)。それは主の弟子としての力であり、主を証しする力です。  

                          (久多良木和夫)

 

 5月27日() 聖日礼拝

       イエス・キリストの名によって     使徒言行録3章110節        

  

主なる神によって私たちに与えられているものは、主イエスによる救い、永遠の命、そして聖霊なる神の内住、そしてイエス・キリストの名です。

  

生まれつき立ち上がることも歩くこともできずにいた一人の男性がいました。彼は大きくなり物乞いをして生計を立てていました。毎日、エルサレム神殿の美しい門と呼ばれるところに運んで来てもらっていました。彼は癒しを必要としていました。私たちもそれぞれ癒しを必要をしている存在です。

 

彼の人生はある日を境に変わりました。ペトロとヨハネに出会ったのでした。ペトロは彼に言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(6節)その時、彼は自分で立ち上がり歩けるようになりました。

 

主イエスは、弟子たちに主イエスの名でお祈りすることの大きな恵みについて告げられました(ヨハネ14:13、15:16,16:23-24)。

  

ペトロたちは、聖霊なる神に強めていただき、信仰をもって主イエスの名を用いました。そのとき大きな御業がなされました。

 

 イエス・キリストの名を用いて祈ること、宣言することを聖霊なる神の助けの中でなさせていただきましょう。                              

                          (久多良木和夫)

 

  6月3日() 聖日礼拝

        「荒れ野で叫ぶ声」          ルカ福音書3章1-14節 

  

 今の世界は、真実の執り成しの叫び、訴えを必要としています。

 

 洗礼者ヨハネは、「悔い改めにふさわしい実を結べ。」(8)。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と叫びました(マタイ3:2)。時代は、ローマの支配下にあり、政治は腐敗していました。人々の歩みも投げやりになっていました。

 

 ヨハネは、父はザカリヤ、母はエリサべトでした。彼は、生まれた時から、救い主イエスの道備えをする者と定められていました。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」(ルカ1章76-77節)。彼は大きくなり荒れ野に向かいました。律法を守ることに厳格でメシアを待望していたエッセネ派に属していたのではないかと言われています。

  

 どうしたら良いかとの問いに、ヨハネは具体的に答えます(10-14節)

 

 罪の赦しによる救いとは、主イエスによる罪の赦しをいただくことであり、真の祝福を与えて下さる神の愛に生かされて生きることです。その恵みに感謝して生き、主の助けと導きを得て歩むことです。むなしいものにくっついたまま歩まないことです。

  

 ヨハネは、救い主であるイエス様の道備えとしての働きをなしました。                                               

                         (久多良木和夫) 

 

 6月10日() 聖日礼拝

        「主イエスの洗礼」       ルカ福音書3章15-22節

 

 大切なことは、言葉で語るより歩みを通して語る方が後に残ります。父なる神、救い主なるイエス、聖霊なる神の三位一体の神は、この世界の歴史の中で降誕、十字架、復活、聖霊降臨の出来事を通して救いの御業をなしてくださいました。

  

 洗礼者ヨハネは、悔い改めの水の洗礼を授けました。人々にそのままでは滅ぶことを伝え悔い改めを迫りました。その警告には大きな意味がありました。しかし、限界や課題がありました。悔い改めた歩みを継続すること、どんなときにも希望を失わずに歩み続けることはとても難しいことです。

 

 ヨハネは、聖霊と火で洗礼を授ける主イエスを紹介しました(16節)

 

 その主イエスは、洗礼者ヨハネより水の洗礼を受けられました。罪の全くない方が私たちのために洗礼を受けられたのです。

 

 「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブライ2章18節)。私たちの受ける試練を深く理解し助けるためです。

 

  『主イエスの洗礼の時に、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(21-22節)。父なる神、救い主なる主イエス、聖霊なる神がその時臨在され、働かれました。                                                           

                           (久多良木和夫)

 

 6月17日() 聖日礼拝

         「荒れ野で誘惑を受けられた主」    ルカ福音書4章113節 

 

 主イエスは公生涯の働きに入られる前に試験を受けられました。それは悪魔からの試み、誘惑でした。その試験をパスすることはご自身のためではなく、私たちのためでした。

  

 あなたは、どのような試み、誘惑を受けることが多いでしょうか?、

主イエスは、40日間、荒れ野で過ごされ悪魔から3つの誘惑を受けました。

 

 第一は、石をパンに変えて空腹を満たしたら良いのではという誘惑です。イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった(4節)。申命記8章3節の御言葉を引用して悪魔の誘惑を退けました。生きる上で物質的なものすなわち食べ物、お金は確かに大切です。しかしそれがあれば、生きる希望を持ち続けることができるかといえば否です。神を信じ、その御言葉で生かされる必要があります。

 

 第二は、すべての権力と繁栄を与えるから、自分を拝めという誘惑に対して、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」と申命記6章13節のみ言葉を引用して。斥けられました (8節)。人間は、莫大な富、大きな権力を手に入れようと願い、してはいけない恐ろしいことに手を伸ばすことがあるのです。

  

 第三は、神を自分の都合で僕(しもべ)のように扱っても良いのではという誘惑に対して、主イエスは、『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』と申命記6章16節を引用して答え、その誘惑を斥けられました。

 

  主イエスは、荒れ野での誘惑に勝利して、公生涯の働きにつき、十字架への道をなお進み出されました。                                                                       

                           (久多良木和夫)

 

 6月24日() 聖日礼拝

         「迫害で散って行った人々」    使徒言行録8章1-8節

  

 聖霊降臨の恵みの中で、主イエスの弟子たちは力強く証しをなし、主イエスを信じ仲間に加わる者も多くなりました。しかし、信仰と聖霊に満ちていたステファノが殉教の死を遂げました。そして、エルサレム教会への大迫害が起こり、多くの弟子たちが散らされて行きました。

  

 ホーリネスの教会は、今から76年前の1942年から翌年にかけ、国から宗教弾圧を受け、それは1945年まで続きました。また1943年には、教会解散命令が出され、大打撃を受けました。その大きな原因は、ホーリネス教会が伝道熱心であったことと共に再臨信仰を高く掲げていたことにありました。戦争一色の国家にとって都合が悪かったのです。戦後2年目の1946年、ホーリネスの群は新しく結成されました。

  

 エルサレム教会への大迫害で散って行ったキリスト者たちは、散って行った各地で、伝道しました。「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。」(4節)。困難を経験しましたが、主は共にいてくださいました。                                                                      

                           (久多良木和夫) 

 

  7月1日() 聖日礼拝

         「主によって遣わされた方」     ルカ福音書4章1630節

 

 神は愛のお方です。この世界に住む私たちに対して、関心を持ち、心を向けてくださっています。そして、最後には、私たちのために御子イエスをお遣わしくださいました。    

 

 主イエスは、公生涯の初めに、ナザレのユダヤ会堂にて、イザヤ書61章1-2節の御言葉は、今日実現したと告げられました(21節)。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(18-19節)

 

 私たちは様々なものに囚われています。過去の出来事での恨み、悔い、劣等感、優越感、死の恐れ、世の思い煩い、富の誘惑、いろいろな欲望、その他です。また、私たちは将来が、真理が見えません。それで恐れがあり、偽りのものに惑わされます。神は、私たちに解放と自由を与えるために主イエスをお遣わしくださいました。すべてを支配しておられる主に寄り頼むように導いてくださいます。

 

 ルカ福音書の主題の一つは、異邦人に対する神の愛であり、救いです。異邦人であったサレプタのやもめ、シリア人ナアマンへの特別なる神の愛を示しつつ、血筋によらず、持ち物によらず、ただ、神の愛によって救いは与えられるのです。選ばれた民族であるユダヤ人ではなく、ユダヤ人以外の異邦人のために、すなわち全世界の人々のために主イエスは来てくださいました。    

                          (久多良木和夫)

 

  7月8日() 地区講壇交換礼拝

     「『殺すな』の正しい理解」      マタイ福音書5章2122節 

 

 私たちは自分は、殺人を犯すような悪い者でないと考えます。しかし、聖書はこう告げています。「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(22節)。兄弟を憎む者は人殺しだという神様の宣言です。人間は結果だけを見て判断しますが、神様は心の動機を見て判断されます。

  

人は神のかたちに似せて造られた。神は、神のかたちを持っている人間を一番愛してくださっています。だから、人を殺すなと戒めておられます。

  

神さまは、私たちの救いのために独り子であるイエス様を犠牲にされました。その赦しの愛を信じれば、誰でも滅びることなく永遠の命を得るようにしてくださいました。サタンの奴隷から神をアバ父よと呼ぶ神の子どもにしてくださいました。

  

怒りの反対は愛、柔和と言えます。最後の勝利者は怒る者ではなく、あくまでも優しく、そして親切な者です。しかし、それは不可能なことではないか、今までどれだけ相手を傷つける言葉を発したのか、どれだけ怒って来たことか。

  

聖書の中に、激しく怒る人だったのに変えられた人物が記されています、それが大きな励ましです。モーセは、40歳の時 激しく怒り人を殺してしまいました。40年の訓練の後、柔和で謙遜の人に変えられました。民と喧嘩することなく、神に祈り勝利しました。ペトロしかり、パウロしかりです。

  

ファリサイ人のような傲慢な心、霊的な無知を認め、悲しみつつ真剣に悔い改め、イエス様の愛を真剣に見上げるならば、聖霊によって生まれ変わることができます。

              (在日大韓基督教会折尾教会牧師 千 奉祚師)

 

  7月15日() 聖日礼拝

         「権威と力の主」         ルカ福音書4章31-44節  

 

私たちはいろいろな支配またいろいろな影響の下に生きています。願わくば、良き支配、良き影響の下に、助けをいただき希望をもって歩みたいものです。

  

主イエスは権威と力の主であることを確認したいと思います。

 

 主イエスは、第1には汚れた霊を追い出す権威と力をお持ちでした。人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」(36節)。「イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。」(41節)。汚れた霊、悪霊は人の命令では出て行きません。しかし、主イエスの命令の下では出て行きます。現在も悪霊は、様々なものをもって人を束縛し苦しめます。主は、今も、悪霊、サタンによって苦しめられている者に対して悪霊、サタンを外に追い出してくださるお方です。

  

主イエスは、第2に病で苦しむ者を癒す権威と力をお持ちです。「シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。」(38-39節)。「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。」(40節)。

  

主イエスは、愛と憐れみの主であり、私たちの救いのためにこの世においでくださった方であり、十字架にかかってくださった方です。死を打ち破り復活されたお方です。主は、私たちのために最善の助けを与え、最善の道を備え開いてくださる主です。

                          (久多良木和夫)

 

  7月22日() 聖日礼拝

         「固い決意をもって」     使徒言行録1119-26

  

ユダヤではステファノ事件後、迫害のために散らされた人々は、同じユダヤ人以外に主の御言葉を語らなかった。そんな中、キプロス島のキレネの人が、アンティオケアで、ギリシア語を話す人々に、主の御言葉を宣べ伝えた。そこに「主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。」(21)

  

この事はエルサレムにも伝わり、バルナバをアンティオケアへ遣わした。バルナバは、まず、アンティオケアに到着して、主に立ち帰った者の数などの主の恵みを見て、喜びんだ。そして、彼らに「固い決意をもって主から離れないように」と語った。固い決意をもってとは、主の言葉をと救いの恵みをいつも握っていく事である。

  

ホーリネス信仰は招きを大切にする信仰である。招きとは、その時決意してその時だけ神の前に出るだけで、終わるのではなく。その思いをいつも持ち続けることが大切である。その事をバルナバは語り、彼らに自分の信仰の姿で証をしていった。「バルナバは立派な人物で聖霊と信仰に満ちていた」(24節)「聖霊に満たされる」とは、主イエスの十字架と復活が神の自分たちへの愛であることを理解できる唯一の真理の道である。バルナバも自分で知ることはできなかった。十字架と復活の信仰を持てるように神に仕えていたからである。

  

バルナバと回心したサウロという二人の宣教者の姿を通し、アンティオケアの人々は「キリスト者と呼ばれる」ようになるほど主の教えを聞き続けていた。私たちも、信じて洗礼を受けて、それで終わりとせず、持ち続けられるように、いつも聖霊を求め続ける固い決意の信仰をもって行きましょう。       

                             (後藤真英)

 

 7月29日() 聖日礼拝

         「人間をとる漁師に」      ルカ福音書5章1-11節

 

自分から道を選んで進む道も素晴らしいことですが、招かれてそれに応じて進む道も 素晴らしいものです。

  

ペトロは、ガリラヤ湖の漁師でした。そのペトロが主イエスに招かれて、弟子となりました。主イエスがペトロを12弟子の一人にされたことは不思議です。

  

ある日、主イエスはペトロに舟を少し漕ぎ出すように頼み、その舟の上から群衆に教えられました。その後、沖に漕ぎ出して網を降ろし漁をするように命じました。その命令に従って網を降ろしたところ、たくさんの魚が獲れました。夜通し漁をして一匹も獲れなかったペトロは驚きました。この方はどなただろう、神のもとから来られた方に違いないと思い、自分の罪深さを示されました(8節)

  

イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。(10-11節)

  

ペトロは、自分を招かれた主イエスのお言葉に従って主イエスの弟子となりました。その生涯には失敗も多くありましたが、主の愛と憐れみによって、その働きを最後まで全うしました。                                  

                          (久多良木和夫)

 

  8月5日() 聖日礼拝

        「罪を赦す権威」       ルカ福音書5章12-26節 

   

主イエスは、重い皮膚病の人と中風の人を癒されました。主の特別なる御手が置かれ、病が癒されたのです。

  

私たちが一番苦しむことの一つは病ではないでしょうか。主の助けを願い求めて、癒しの恵みをいただきましょう。

  

「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。」(24節)。罪を赦す権威は、この地上においては誰にも与えられていません。主イエスのみがお持ちです。

  

病の癒しをなされる主は、神と私たちの関係が断絶している事柄、すなわち罪という最も大きな問題を解決するために来てくださいました。私たちが自分では払いきれない罪の代価をすべて支払うために主は、十字架の上でその命を献げてくださいました。

 

主イエスを信じ、その一番大切な罪の赦しをいただきましょう。既にいただいている一人一人は、この罪の赦しを何よりも大いなる恵みであると感謝しつつ、歩んで行きましょう。                                                    

                          (久多良木和夫)

 

  8月12日() 召天者合同記念礼拝

         「復活、命である主イエス」   ヨハネ福音書11章1727節

 

私たちそれぞれ、この地上に生まれ出て、ただ一つの命を与えられています。その命の長さは、異なります。長寿を全うする方もいますし、人生の半ばで終えることもあります。人は死んだらどうなるのか、どこに行くのか。

 

主なる神は、どのような方でしょうか。第1には、永遠を支配しておられるお方です。第2に愛と憐れみのお方です。第3に解決のお方です。私たちそれぞれの罪の代価をあの十字架においてすべて支払ってくださいました。第4に勝利のお方です。死を打ち破ってくださいました。

  

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(25‐26節)。マルタとマリアの弟のラザロの死に際し、主イエスがマルタに語られたお言葉です。

 

その後、主イエスは死後4日経ったラザロを生き返らせる奇跡を行われました。

  

先に天に召された信仰者は、この地上に住む家族に対して、この天の神の恵みのご支配をいただくよう願い、主イエスのもとで、執り成し祈っていることでしょう。

 

永遠の主、愛と憐れみの主、解決の主、勝利の主によって、復活の命の主のご支配の恵みに与るよう招かれています。                                                     

                          (久多良木和夫)

 

 8月19日() 聖日礼拝

         「宣教するために来た」    マルコ福音書1章35-39節 

  

主イエスは、「朝早くまだ暗いうちに、・・・祈っておられた。」(35)ただ祈っていたわけではない、「人里離れた所へ出て行かれた」(同節)主イエスは「寂しいところ」(口語訳)にわざわざ出向いて、祈りに向われたのである。それは、他の音が入らないようにして、神様との一対一の対話、神様の御心のみを聴くためである。

  

さて、その後をシモンたちが後を追い捜しました。そして、捜し出すと『みんなが捜しています』(37)と言いました。群衆や弟子たちの福音の無理解につながる。人間の限界性である。彼らが捜している理由は、主イエスに病や悪霊から癒していただきたいからである。勿論、主イエスは癒しの御業をなされる。しかし、そこが目的ではない。弟子を含め人々は癒しの奇跡で止まってしまった。

  

主イエスはご自身の口で宣教するために来たと語られた(38)。宣教とは、神の国の福音である。病の癒しや悪霊の追い出しは、神の国の宣教の御業としての手段の一つである。その事を明らかにされた。そしてそれを、大きな都市だけではなく小さな町や村へも語っていくと宣言された。これが主イエスの使命であった。これは福音が一部の人々だけでなく、すべての人々に与えられている事に繋がってくる。私たちも、主イエスの後を追いつつ、福音を宣教する者として歩もう。 

                             (後藤真英)

 

 8月26日() 聖日礼拝

         「罪人を招かれる主」      ルカ福音書5章2732節

  

主イエスとの出会いはレビという徴税人にとってはサプライズでした。思ってもみなかった感激のプレゼントを受け取りました。彼の名前はマタイでした(マタイ9:9)。

  

彼は、同胞を裏切り、ユダヤを支配していたローマの国の手下になりました。決められていた徴収額以上のものを徴収し、私腹を肥やしていました。彼は汚れた者、罪びとと呼ばれ、町の人から嫌われ、友達はとても少なくなり、寂しさを覚えていたことでしょう。誰も彼を食事に誘ってくれません。

  

そんなマタイに主イエスは声をかけられました。イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた(27節)。

 

彼は立ち上がって主イエスに従い、12弟子の一人になりました。彼の家で、主イエスは招かれ共に食事をしました。このことを咎めるファリサイ派の人々に対して、主イエスは語られました。イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(31‐32節)。

 

正しい人ではなく、罪人を招くために主イエスは来て下さいました。

                          (久多良木和夫)

 

  9月2日() 聖日礼拝

       「新しいぶどう酒」       ルカ福音書5章3339節

  

人々、おそらくファリサイ派の人々、律法学者は、弟子たちがバプテスマのヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々のように、断食や祈りをしていないと非難しました。

  

 それに対して、主イエスは、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。」(34節)と答えました。

  

弟子たちは、救い主である主イエスが来てくださったことを心から喜び、結婚式の婚礼のように花婿なる主イエスを祝って過ごしていました。

  

 「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。主イエスは、新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」と語られました(37‐38節)新しいぶどう酒は発酵が進む中で、ぶどうの糖分がアルコールと炭酸ガスに変わります。そのガスの力は大きなものです。古い革袋ではなく新しい革袋が必要です。

  

主イエスは、今までの古い命ではなく、新しい命なる方です。この方を古い観念や考え方ではなく、やわらかい心で受け入れることが大切です。

                         (久多良木和夫)

 

  9月9日() 聖日礼拝

        「安息日の主」          ルカ福音書6章1-11節

  

私たちの心は、その時の状況や他の人の態度によって、その人に対して優しくなったり、厳しくなったりすることがあります。しかし、神の私たちに対する心は変わりません。私たちが愛と祝福の神につながって永遠の命を持って生きるように願い、導かれる愛です。

 

律法学者やファリサイ派の人々は、弟子たちが週の七日目の安息日に麦畑の穂を摘んで食べたことに対して、安息日規定を破ったと非難しました。主イエスは、それに対して、かつて、祭司アヒメレクは空腹のダビデたちに祭司以外に与えてはいけない供え物のパンをあげたことを語りました。 

 

主イエスは、安息日に手の萎えた人を癒されました。それにも律法学者やファリサイ派の人々は、非難の目を向けました。

 

安息日の戒めは、出エジプト20章8-11に記されています。そこには、神が、天地万物を創造され7日目に休まれたことを根拠として記されています。今一箇所は、申命記5章12-15節に記されています。そこには、出エジプトにおいて神の大きな助けをいただいたことを根拠として記されています。

  

「人の子は安息日の主である」(9節)。安息日に、すべての良いものを与えてくださっている主、大きな愛と憐れみをかけてくださっている主を覚えましょう。

                          (久多良木和夫)

 

  9月16日() 敬老祝福礼拝

       「喜び、祈り、感謝」   テサロニケ一5章16-18節  

    

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(1618)

  

喜ぶこと、祈ること、感謝すること、この3つのことは案外と忘れていたり疎かになっているのではないでしょうか。この3つのことは、神の愛、神の恵みがあって与えられ導かれるものです。

 

モーセは、120歳で生涯を終えましたが、最後まで目はかすまず、活力は失せませんでした(申命記34:7)。カレブは、85歳の時に、40歳の時と同じように健やかでした。何よりも主に寄り頼む信仰を持っていました(ヨシュア記14:11-12)。

 

「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう(詩編23:6)。 主は一番良いことをなしてくださいます。主の愛は真実で変わることがありません。主の家とは、この地上においては、教会であり、主への礼拝であり、神の家族の交わりです。また、この地上の命が終わった後における天の御国を意味しています。

  

喜び、祈り、感謝が、主の愛、主の恵みによって、日々の歩みの中で、そして生涯の歩みの中で満ちますように。      

                           (久多良木和夫)

 

  9月23日() 秋の特別歓迎礼拝

      「幸いな人になる」         詩編32編1-11節

  

聖書は時代が変わっても本質的に変わらない幸せとは何かについて語ります。「いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」(1-2節)

 

 聖書が言う幸いとは、神に祝福された人という意味です。本当の幸せは、あなたの外面、あなたの持っているものにあるのではない。あなたの内面、心にある。それを問いかけてくるのが聖書です。

 

罪は、私たちの外にあるのではなく、真ん中にあります。私たちの在りようです。

 

聖書は、罪、咎をなくしてしまいなさい、なくせるとは言っていない。背きはあるけれども赦されている。罪はあるけども覆われている。主がお認めにならない、特別な扱いを受けている。それを受けていることの幸い、心に欺きがないことの幸いです。

 

「わたしは罪をあなたに示し咎を隠しませんでした。わたしは言いました「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。』(5)

  

神は待ち受けていたように赦してくださるお方。ずっと責め続けるお方ではない。言い表したときに待っていたかのように赦してくださる方です。

 

神は、入念なる準備をし、イエスキリストの十字架という多大なる犠牲をもって待っていてくださる。自分の内面の背き、罪、咎を神さまの前に隠すことなくみんな持って出たその時に、わたしはあなたを迎える用意をしていたよと迎えてくださる。そういう神さまです。神は帰って来るものを子どもとして迎えてくださいます。

                        (東京基督教大学学長 山口陽一師)

 

  9月30日() 聖日礼拝

       「幸いと不幸」         ルカ福音書6章2026節

  

24節から26節には、富んでいる者、満腹している者、ほめられる者は不幸であることが告げられていています。普通は富んでいる、満腹している、ほめられることは幸せと考えますが、その反対なのでドキッとします。富、満腹、ほめられることで驕りが生じ、自分の生きる意味を考えない、真の生ける神を見失うことが多いからです。ザーカイ、ダビデがそうでした。

  

「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」(20節)。「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。」(21節)。貧しさ、飢えは、物質的、肉体的なものというよりは、その人自身の内面において、乏しさを覚え、助けを求める姿を意味しています。目に見えるものはいつか失われて行きます。これさえあれば大丈夫だと考えていたものがそうでないことに気が付かされることがあります。行き詰って苦しんでいたザーカイは主イエスと出会い、ダビデは自らの罪を認め悔い改めて、その赦しの中で神の大きな愛に出会いました。

  

憎まれ、ののしられ、汚名を着せられる時も、主を見上げる中で、主よりの慰めをいただき、生きる力をいただくことができます。

  

真の生ける主、祝福の神と出会い、永遠の命をいただき歩む幸いにそれぞれは招かれています。              

                          (久多良木和夫)

 

  10月14日() 聖日礼拝

       「幸いと不幸」         ルカ福音書6章2026節

  

 「担い、背負い、救い出す神」     イザヤ46:1~4 

 

私たちの人生における神の関係での過去、現在、未来を表わしている。

 

過去‐『担う神』 「あなたたちは、生れた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。」(3節b)神は、私たちが生まれた時から、私たちが神の事を知る前から、人生の始めから私たちの事を守ってくださり導いてくださっている。

 

現在‐『背負う神』 「わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。」(4節a)白髪になるまでとは、生涯最後まで背負っていくという約束である。背負うとは、負債など重荷である。それが、主イエスの十字架である。十字架によって私たちの罪を全て代わりに背負ってくれた。そして私たちの前を歩いてくれている。先導をしていくださっている。 

 

未来‐『救い出す神』 「わたしが担い、背負い、救い出す」(4節b)罪を全て背負ってくれて終わりではない。主イエスは十字架の死後3日目に、復活された。罪と死から打ち勝たれ、罪を全て赦してくださった。預言者イザヤの時代に、既にわたしたちを罪の奴隷から解放してくださる約束がされている。

 

神は私たちの人生の初めからそして最後までわたしは担い、背負い、救い出す」神であると約束してくださっている。その神様の後を生涯信じて歩んでいこう。

                          (後藤真英)

 

  10月21日() 聖日礼拝

    「人を裁くな、赦しなさい」  ルカによる福音書6章37-42節

  

喜びがあり、楽しくもあり、時に心を悩ますことがあるのが、人間関係です。  

 

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」(37節)。裁く者は裁かれます。赦さない者は赦されません。一方、裁かない者は裁かれません。赦す者は赦されます。

 

 裁かない、赦すということは、一般的な人ではなく、自分の目の前の相手であり、特定の人だから、難しいのです。「自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」(42節)。自分の目に丸太があるのにと主は語られます。

 

  私たちは、主イエスの十字架での身代わりの死によって罪を赦された者です。その大きな恵みをいただいているのです。  

                        (久多良木和夫)

 

  10月28日() 聖日礼拝

     「倒れない家を建てよ」    ルカによる福音書6章43-49節  

 

「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。」(43節)。「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。」(45節)。良い実を結ぶ者、良い言葉を出す者とさせていただきましょう。

  

家は外観や内部の具合も大事ですが、一番大切なことは、しっかりとした土台の上に建てているかどうかです。別の言い方をすれば、大雨、台風、洪水、地震の時に倒れないことです。主イエスが語られた家とは、私たちそれぞれの人生という家です。大雨、洪水等とは、人生における大きな嵐であり、人生の最後にやってくる死です。

 

倒れる家は、土台なしで地面に置かれた家であり、砂の上に建てられた家です。倒れない家は、地面を掘り下げ、岩の上に土台を置いた家です。

 

 倒れる家は、主イエスの言葉を聞いて行わない者の家です。主イエスの言葉を心の端っこに置き、それをないがしろにする者の家です。倒れない家は、主イエスの言葉を聞いて行う者の家です。主イエスの言葉を心の中心に置き、それを感謝して受け止め、それに従って歩む者の家です。                        

                          (久多良木和夫)

 

 11月4日() 聖日礼拝

     「これほどの信仰を」     ルカによる福音書7章111節 

 

ローマ人であった一人の百人隊長、彼は、天の神さまを信じ礼拝を真実に捧げるユダヤ人を応援して会堂を建ててあげました。また、彼の部下が重い病気になり何とか助けてあげたいと願う優しい人でした。

 

 彼は、使いをやって、主イエスに助けを求めました。自分に向かう主イエスに、御足労を断りました。しかし、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」と主イエスのひと言を求めました(7節)。

  

百人隊長としての権威を経験していた彼は、主イエスが神から与えられている神の子としての権威を心から敬い、その絶大な力を信じていました。

 

 彼は主より「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」とほめられました(9節)。彼の部下は癒されました(10節)。

 

 百人隊長は、時代が変わっても、自分自身が変わり、弱り果てても変わらない確かな力の御言葉を信じていました。自分の分別、知識、悟りには頼らず、主に信頼したのでした。

 

 「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」(ヤコブの手紙1章21節)。主に信頼し、御業を拝し、勝利をいただきましょう。

                          (久多良木和夫)

 

 

 11月11日() 聖日礼拝

      「若者よ、起きなさい」   ルカによる福音書7章1117節 

 

 一人のやもめが受けた大きな恵みの出来事が記されています。彼女は愛する夫に先立たれ、一人息子の成長を楽しみに生きていました。ところが、その一人息子を失い、悲しみのどん底に突き落とされました。

  

 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた

 

(13節)。憐れに思いという原語のギリシャ語は、とても深い同情を意味する言葉です。主は、私たちが抱える悲しみ、苦しみ、悩みを受け留め、共にいて、それを共に担ってくださるお方です。

  

 イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。(14-15節)。起きなさいという原語のギリシャ語は、主イエスが与った復活を意味する言葉です。人の力ではどうにもならないことを、復活の主ご自身がその御力をもってなされることを意味します。

  

 預言者エゼキエルが、見せられた枯骨の谷の幻(エゼキエル書37:1-5)は、ユダヤの民に実現しました。

  

 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。(ヨハネ11:25)。主は、信じ従う者に復活の主の御力を体験させてくださるお方です。           

                         (久多良木和夫) 

 

 11月18日() 聖日礼拝

      「来たるべき方は」      ルカ福音書7章18-35節 

  

 人生という旅において、どう進んだら良いか悩むときがあります。その時に必要なものは、助けと導きではないでしょうか。

  

 洗礼者ヨハネは、二人の弟子を遣わし、主イエスに「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と尋ねさせました(19節)。来たるべき方とは、真の救い主ということです。主よ、その方はあなたご自身ですか。あなたに寄り頼んでも良いのですねと尋ねたのでした。

 

 ヨハネは、主イエスの誕生の時のヘロデ王の息子のヘロデが、律法で禁止されていた結婚をしたことを指摘したことで、捕らえられ獄の中に長く幽閉されていました。ヨハネは、死を覚悟させられる苦しみの中で悩み、確信が揺らぎ、弟子たちを主イエスのもとに送ったのでした。

 

 主イエスは、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」と答えました。(22-23節)。

  

 ヨハネは、苦難の日、悩みの日に、主に尋ね、助けを求めました。そして、主より答えをいただきました。まもなくヨハネは、殉教の死を遂げますが、主よりの答えを握り、天に旅立ったことでしょう。   

                         (久多良木和夫) 

 

 11月25日() 聖日礼拝

      「命の光を持つ」       ヨハネ福音書81-12節 

  

 民衆を前にして座ってじっくりと教え始められた主イエスの所に、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせました。彼らは主イエスを訴えるという下心を持っていました。

 

 かがみ込み地面に何かを書いておられた主は、身を起こして「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われました。彼らはこの言葉に自分自身のことを振り返らざるをえなくなり、立ち去って行きました。この時、女は立ち去らずに留まりました。主イエスのそばに。「あなたを罪に定めない」とは、「罪のないわたしがあなたに代わって十字架で罪の裁きを受けますから、あなたは赦されます」という宣言です。

  

 「イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」(7節)とあります。私たちの周りの人たちが誰もいなくなるこの人生の最後の時、主と二人になるその時に「あなたの罪は赦されている、大丈夫だよ」のその一言をいただくことを願います。

 

  主イエスのそばに留まった女には、新しく生きる道と「命の光」が与えられました。この光は、目に見える消え去る光ではなく、消えない光です。暗闇でこそ輝く光、人の力の限界の時、最後の時に輝く光です。

                         (久多良木志津子) 

 

  12月2日() 聖日礼拝

       「救い主誕生の預言」     ヨハネ福音書8章1-12節 

  

 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(1)。イザヤが預言した紀元前8世紀後半、南ユダの国はアッシリア帝国に侵入され、占領された地域の住民は捕虜として連れ去られ、支配され、大きな苦しみを経験しました。光は、直接的には、アッシリアの支配からの解放を意味しましたが、この世界の救い主到来によって、深い闇の支配から解放されることを意味しています。

 

 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」(5節)。ひとりのみどりご、一人の男の子とは、究極的には神の御独り子を意味します。

 

 驚くべき指導者とは、不思議な助言者とも訳されます。力ある神とは、全能の神、創造主なる神を意味します。永遠の父とは、永遠の初めから永遠の終わりまでを支配しておられる神を意味します。平和の君とは、争いがないということを指すのではなく、神と人との間の平和を意味し、それを土台とした上での人と人との平和を意味します。    

                         (久多良木和夫)

 

 12月9日() 聖日礼拝

        「おめでとう」       ルカ福音書1章26-38節  

  

 ある日突然、天使ガブリエルが、マリアのところに来て言った。「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる。」(28節)マリアは、一体何のことか分からず、戸惑いと恐れを抱いてしまった。初めは、「何故私が」との思いであったが、最終的に「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(38節)と告白した。

 

 マリアは、特別何か大きなことをしたからその報酬として、御子イエス様を授かったのではない。「あなたは神から恵みをいただいた。」(30節)。神様から一方的に送ってくださったのである。

 

 マリアのお腹の中に宿った方の名「イエス」とは、「主は救い」という意味である。また、旧約からの預言の約束の成就だった。(33節)「聖霊があなたに降り、いと高き方があなたを包む」(35節) 聖霊はペンテコステ前、天地創造の時から働かれていた(創世記12節)。聖霊によって守られる約束もガブリエルは告げた。神様が共にいることは、すべてを守って支えてくださることである。

  

 決心の時、悩みもあったであろう。しかし、それ以上に主の恵みが注がれたこと、主が共におられることは大きなことであった。主の降誕は、何よりも私たちと共に主がいてくださるしるしです。大きな希望を持ちつつ主の降誕を待ち望みましょう。      

                            (後藤真英)

 

  12月16日() 聖日礼拝

       「恵みと真理の主」    ヨハネ福音書1章14-18節 

  

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1節)。この言(ことば)とは、主イエスのことです。主イエスは永遠の初めから父なる神と共におられた神なるお方です。

 

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(14節)。主イエスは、栄光の神の位を捨てて、人としておいでくださいました。それは、私たちの内にお住みになり、生涯を導くためでした。

   

恵みとは何でしょうか。ギリシャ語でカリス、そのもとになっているヘブライ語はへセドです。新共同訳では慈しみ、新改訳では恵みと訳されている言葉です。「救う」という永遠の契約(創世記17章7節)を決して破らず貫き通される神の変わらない愛を意味しています。

  

真理とは何でしょうか。ギリシャ語でアレセイア、そのもとになっているヘブライ語はエメスです。まこと、真実とも訳されています。決して裏切らない、決して見捨てないことを意味しています。

 

 主イエスは、恵みと真理の主であり、私たちの救い主なる方、永遠の愛の方であり、命をかけて信頼して良いお方なのです。

                          (久多良木和夫)

 

  12月23日() 聖日礼拝

       「東方の学者たちの献げもの」 マタイ福音書2章1-12節  

 

 クリスマスの意味は、救い主である主イエスがこの世に誕生されたということです。それは、真の神を知らず滅びに向かう私たちを救うため、滅びゆく命しか持っていない私たちに永遠の命を与えるためです。

  

 天の神さまは、ユダヤの国から遠く離れたところに住んでいた東方の学者たちを、星を通して、救い主のもとへ導かれました。学者たちは、預言者ミカの預言の通りにベツレヘムでお生まれになった主イエスに会うことができました。主イエスは、パンの家という意味のベツレヘムという町でお生まれになりました。主イエスは命のパンとなってくださいました(ヨハネ635節)。

 

 学者たちの献げものの第1は、金属の中で一番高価な黄金でした。それはまことの王であるキリストにふさわしいものです。

 

 第2の献げものは乳香でした。それは焚くととても芳ばしい香りが漂います。神への礼拝の時に用いられます。神であられたキリストにふさわしいものです。

 

 第3の献げものは、没薬です。古代エジプトでは、王の遺体葬りの時に欠かせないものでした。キリストの贖いの死を予告するものです。                                  

                           (久多良木和夫)

 

  12月30日() 聖日礼拝

      「主の恵み、喜び、忍耐、祈り」  ローマ12章915節     

 

 この年の標語は、「主の恵み、喜び、忍耐、祈り」でした。私たちの歩みの土台は主の恵みです。その上に、喜び、忍耐、祈りという3本の柱が立てられています。 「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」(12節)

 

 第1の柱の「喜び」は、順調、順風の時には簡単にできます。その反対の時には難しいことです。しかし、主によって希望の光が与えられる時に、喜ぶことができます。

  

 第2の柱の「忍耐」は、苦難、艱難の時、ただ自分の力では限界があります。決して見捨てない、共にあって支えてくださる主を覚える時、忍耐することができます。

 

 第3の柱の「祈り」は、すべてのことをご存知の主に向かって、お祈りをするのです。感謝の祈り、助けを求める祈り、悔い改めの祈り、他の人のために執り成しの祈りをするのです。

  

 土台である「主の恵み」は、主の慈しみの愛のことです。主は私たちを慈しみ愛してくださっています。あのヤコブが、家を飛び出した夜、再び連れ帰ると約束してくださいました。裏切った弟子たちのもとに復活の主は戻って来てくださいました。主の恵みに感謝しつつ歩んで行きましょう。

  (久多良木和夫)