2021年 メッセージ要約

1月3日() 新年礼拝

            「神の口の言葉で生きる」  マタイ福音書4章1-11節     

 

年の初めに、1年のチャレンジをスタートすることは幸いなことです。教会としてのチャレンジは、聖書通読です。

 

主イエスは、バプテスマのヨハネから洗礼を受け聖霊が降り、公生涯をスタートする前に、荒野で四十日四十夜、断食して祈りました。その直後に悪魔から三つの試みを受けられました。

 

第一はパンの試みです。石をパンになるように命じてみたらという誘惑に対して、申命記8章3節の御言葉をもって斥けました。イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(4節)。  

 

第二は神を試してみたらという試みです。神殿の屋根から飛び降りても大丈夫なはずという誘惑です。申命記6章16節の御言葉をもって斥けました。

 

第三は高い山に連れて行き世のすべての国々と繁栄を見せ、自分を拝むならそのすべてをあげようという誘惑です。主イエスは、申命記6章13節の御言葉で斥けました。

 

第一の誘惑で斥けたときに引用した御言葉は、イスラエルの民が、荒野で日ごとに上からのパンで養われた時のことについての御言葉です。生きるためのパンを与えてくださった神は、命のパンである救い主イエスを与えてくださいました。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(ヨハネによる福音書6章33節                                    

                          (久多良木和夫)  

 

1月10日() 聖日礼拝

             「主を畏れる人の幸い」     詩編112編1-10節     

 

幸せであるという思いは得難いものです。その最高の幸せは、心に平安がある、感謝がある、希望があるということではないでしょうか。

 

「ハレルヤ。いかに幸いなことか 主を畏れる人 主の戒めを深く愛する人は。」(1節)主を畏れるとは、主に対してびくびくすることではありません。主の御言葉に耳を傾けるということです。主の御言葉に耳を傾けて歩むときに、主は、私たちの心から惑わす声、不安にさせる声は追い出してくださいます。主は、愛する者を見放さず、共にいてくださり、道を守り、導いてくださいます。

 

「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ福音書10章28節)

真の力をお持ちの天の神さまを畏れ、信頼することの大切さを主イエスは教えてくださいました。

 

「彼の心は堅固で恐れることなく ついに彼は敵を支配する。」(8節)。人からの攻撃、また、自然災害、パンデミック感染症、その他が襲い掛かっても、主が私たちの心を支え、確かにしてくださいます。

 

「まっすぐな人には闇の中にも光が昇る 憐れみに富み、情け深く、正しい光が。」(4節)。大きく、深い闇がたとえ襲いかかって来ても、光なる主は、ご自身の光で闇を追い出してくださいます。

 

「貧しい人々にはふるまい与え その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。」(9節)。神がこの自分に大きな憐みをかけてくださったゆえに、自分は他の人、特に困窮している人に手を差し伸べる。このことを実践している人は尊いことです。                     

       (久多良木和夫)     

 

1月17日() 聖日礼拝

             「御言葉によって、命を」  詩編119編25-31節 

    

普段欲しいものはいろいろあったとしても、緊急事態の中で必要なものは生きるための必要最低限の基本のものです。新型コロナ感染の現在、何が大切なのかを考える時かもしれません。

 

「わたしの魂は塵に着いています。」(25節)。「わたしの魂は悲しんで涙を流しています。」(28節)。魂とは心の一番深い部分のことです。その魂がどん底に沈みこみ、弱り果て力を失うことがあります。その原因は、目に見える敵であったり、大きな困難であったり、病であることもあります。

 

その時どうしたらよいのでしょう。自分で出口を探す、必死に戦う、病院に行く、誰かに相談する、助けを求めるのです。

 

この詩編119編では、神に叫び求めています。「わたしの魂は塵に着いています。御言葉によって、命を得させてください。」(25節)。わたしの魂は悲しんで涙を流しています。御言葉のとおり、わたしを立ち直らせてください。」

(28節)「偽りの道をわたしから遠ざけ憐れんで、あなたの律法をお与えください。」(29節)

 

命を得させてくださいという叫びは、詩編119編の中では他でも何度も叫ばれています(37,88.92,107,116,144節)。ただ、その危機を脱せさせてくださいではなく、御言葉によって命の回復を与えてくださいと願っているのです。

 

主イエスは、サマリアの一人の女性の渇きを癒されました。(ヨハネによる福音書4章13-14節)。 

                               (久多良木和夫)

 

1月24日() 聖日礼拝

             「主が味方でなかったなら」   詩編124編1-8節 

    

自分を受けとめてくれ人がいることはありがたいことです。そのような人がいることで安心して力を発揮できます。

 

この詩編124編を書いたダビデ自身、サウル王の家来になった後に大いに活躍しました。しかし、そのことでサウル王から命を狙われ逃亡しなければなりませんでした。「主がわたしたちの味方でなかったなら わたしたちに逆らう者が立ったときそのとき、わたしたちは生きながら 敵意の炎に呑み込まれていたであろう。」(2-3節)

 

逆らう者、敵意の炎、大水、驕り高ぶる大水、敵、仕掛けられた網、それらがダビデに襲い掛かりました。でも、主によってダビデは守られ、サウルの死後、イスラエルの国の王となりました。

 

あなたの今までの歩みにおいて、同じようなことはなかったでしょうか。あの時に、あの危機の時に、不思議に守られたという経験はあるのではないでしょうか。

 

「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない (イザヤ書43章12節)

 

主なる神は、主イエスを信じる私たちの味方なるお方です。復活の主イエスは、私たちのためにとりなし祈ってくださっています。(ローマの信徒への手紙8章31‐39節) 

                          (久多良木和夫) 

 

1月31日() 聖日礼拝

             「主を待ち望みます」      詩編130編1-8節 

  

 助けがある、守りがあることは、大きな支えです。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」(1-2節) 危機の状況において、どこに向かって、誰に向かって叫んだら良いのでしょう。主に向かって嘆き叫んで良いのです。

 

主は、私たちが信仰熱心だからとか、立派だからではなく、主が愛の方ですからその叫びを聞いてくださるのです。あの旧約聖書の中に登場する預言者ヨナは、神に逆らい逃げていく途中、海の上で嵐に遭い、海の中に投げ出されました。天の神さまはそのヨナを助けてくださいました(ヨナ書2章1-11節)。

 

「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり 人はあなたを畏れ敬うのです。」(3-4節)。

 

放蕩息子のたとえで、みじめになり立ち帰った弟息子を、父は喜んで迎え入れました。(ルカ福音書15章11-24節)。

 

 「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに 豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルを すべての罪から贖ってくださる。」(7-8節)。「わたしは主に望みをおき わたしの魂は望みをおき 御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます 見張りが朝を待つにもまして 見張りが朝を待つにもまして。」

 

 主に信頼し、主に助けを求める者を主は顧み、間近くいてくださいます。助け導いてくださいます。  

              (久多良木和夫)

 

2月7日() 聖日礼拝

             「主が望まれる人とは」     詩編147編1-7節     

 

評価はどこからやって来るでしょう? 第1は人から、第2は自分から、そして第3は神からです。神からの評価は大切なものです。

 

 神からの評価は、私たちの捧げものや立派な行動ではではありません。神は何よりも愛であるお方です。私たちのことを心に留めてくださるお方です。「打ち砕かれた心の人々を癒し その傷を包んでくださる。」(3節)弱り果てている者を顧みてくださいます。

 

「主は貧しい人々を励まし 逆らう者を地に倒される。」(6節)貧しい者とは、金銭的というよりも、自分自身の愛の乏しさ、自己中心のことに気づき、自分のみじめさを受け止めている人のことです。

 

「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく 人の足の速さを望まれるのでもない。」(10節)。武力、軍事力、権力、財力に寄り頼み、自分勝手に歩む者を喜ばれません。

 

 「主が望まれるのは主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人。」(11節)

 

主が望まれるのは敬虔そうな人ではありません。敬虔な者です。主を心から畏れ、主の御心を求める者です。主の慈しみとは、すなわち救うとの契約(約束)をあくまでも貫き守ってくださる主の真実のことです。主が望まれる人は、その主に依りすがる者です。       

                         (久多良木和夫師) 

 

2月14日() 聖日礼拝

             「あなたの道を主に任せて」    詩編37編1-6節 

  

 詩編の中にある「アルファベットによる詩」とは、イスラエルの民たちが、御言葉を暗唱しやすいもの。詩編37編の場合は、2節ごとの組み合わせとなっています。また詩編37編は、主に従うものとしての教訓が教えられています。

 

 1-2節  いら立つな アル・ティルハーフ

ヘブライ語では、1つ目のアルファベットは「A」です。 アルとは「~~ない」という強い否定の言葉。ティルハーフ「いら立ち」という意味であり、合わせて「いら立つな」。私たちは、他人のこと自分自身ことでいら立ったりしてしまう時もあるかと思います。いら立つなとは、主に従うものは主によって、いら立つ必要はないメッセージです。

 

 3―4節  信頼せよ バタフ

ヘブライ語では、2つ目のアルファベットは「」です。続いては、バタフ「信頼せよ」です。主への「信頼」のはどのようにしていくのか

①善を行う(3節) 悪の道から離れ、信仰の糧とする(3節) 

③主を喜びとする(4節 新改訳など) 主に願う(4節)

主に信頼をしていくとは、一部だけではありません。全幅の信頼を持っていく。そして主に従って歩んでいくことになります。

 

 5-6節  ころがせ(委ねよ) ガーラル

ヘブライ語では、3つ目のアルファベットは「G」です。ガラルは、「あなたの道を主にまかせよ」(5節)の「まかせよ」にあたる言葉、直訳すると「転がせ」となります。

主の手のひらで、転がって歩むことを意味しています。主に委ねて、主の手の中で転がって歩むことは、①主への信頼、②主が成し遂げてくれる(5節 新改訳など)、③主の正しさ、義の中で、④真昼の光の輝き

 主に信頼をして、色々な困難の中にあっても主が全て計らい成し遂げてくださり、神様の導きに従っていきるものとなることで、真昼の光の輝きの人生を送れます。

 

「あなたの道を主にまかせよ 主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(5節 新改訳)私たちはいら立ってしまったり、主に信頼して委ねたりすることできず、自分の力で乗り越えてしまうかもしれない。ですが、神様は私たちに大いなる祝福を与えてくださっています。勝利の生活を送る軌道の根がこの3つになります。

                            (後藤真英師)

 

2月21日() 聖日礼拝

             「忍耐によって命を」 マタイによる福音書21519

 

 未来に向かって希望をもって歩みたい。そのために必要なものは、頑張りではない。主の守りと助けをいただいて歩むことです。

 これがあるから大丈夫というものも時に失われることがあります。主イエスはエルサレム神殿が徹底的に破壊される時が来ることを予告されました。

            

 この世の終末のしるしの出来事はどのようなものですかという弟子たちの質問に対して、10のことを教えてくださいました。

 ①偽キリストの出現(8節)自らを再臨のキリストだと言う。

 ②戦争、暴動、敵対(9-10節)  

 ③大きな地震(11節) この50年間においても大きな地震が起きている。

 ④飢餓(11節) 8億を超える人たちが十分な食料を得ることができない。

 ⑤疾病(11節) パンデミックの疾病も歴史の中では起きている。

 ⑥恐ろしい現象、しるし(11節)、  ⑦不法(マタイ24:12)

 ⑧愛が冷える(マタイ24:12)、⑨全世界への福音宣教(マタイ24:14)

 ⑩キリスト者への迫害(12節)

  

 「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(19節)。様々な大変なことが起きても、主に信頼して、主と共に歩ませていただきましょう。主は守り助けてくださいます。主は、御国をも備えてくださっています。

                                                       (久多良木和夫)

 

2月28日() 聖日礼拝

       「目を覚まして祈りなさい」ルカによる福音書212536

 

 今の時代は終末の時代であると言えます。その終末の出来事に満ちています。しかし、この世の終わりでは決してありません。

 

 終末の出来事の後に主イエスは再臨の主として来られます。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」(27節)。人の子とは、主イエスのことです。主イエスは、勝利の主として、すべてを支配される主として来られます。 

 

 主は、いちじくの木の話によって、時を見分けることの大切さを語られました。

終末の出来事については、先週お伝えした通りです。

 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」(34節)。  

  私たちの心を鈍くさせるものはたくさんあります。具体的にはガラテヤ書5章19節から21節に記されている肉の働きです。

 「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(36節)。

 

 目を覚まして祈りなさいとは、どういうことでしょうか。それは、マタイ福音書25章1-13節の賢いおとめと愚かなおとめのたとえ話で示されているように、聖霊なる神をあがめつつ、聖霊により頼み歩むということです。自分の力に依り頼んで歩むことの多い私たちですが、主に依り頼んで歩むということです。

                         (久多良木和夫)

 

3月7日() 聖日礼拝

       「過越の食事を願った主」 ルカによる福音書221423

 

主イエスと12人の弟子たちとの最後の食事は、ちょうど過越しの祭り(除酵祭)の食事で種入れぬパンを食しました。主イエスはこれが最後の食事だとわかっていましたが、弟子たちはわかっていませんでした。

 

 過越しの祭りは、出エジプトにおいて、天の神が行なってくださった特別な業を覚えるための祭りでした。過越しの羊の血を入り口の2本の柱と鴨居に塗ったイスラエルの民の家はすべて守られました。しかし、それをしなかったエジプトの家々の初子はすべて死にました。

 

 イスラエルの民の奴隷の苦しみの中からの叫びは、神に届きました。それは神に必死に叫んだこともありますが、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のゆえでした(出エジプト2章24節)

 

 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」(19-20節)。

 

 主イエスは、十字架にかかる覚悟でした。自らの命の犠牲により、その流される血潮によって、弟子たちを、そして私たちを救うためでした。私たちに罪の赦しを与えるため、神の子としての命を与えるため、御国の命を与えるためでした。

 

「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。(コリント二5章21節)。 

                           (久多良木和夫)

 

  

3月14日() 聖日礼拝

       「わたしの願いではなく、御心のままに」

                  ルカによる福音書223946

 

 私たちは、自分の願いを中心に生きています。自分の願いをかなえたい、一方他の人の願い、求め、抱えている苦しみにはあまり関心を向けません。

 主イエスと弟子たちとの最後の晩餐の後、主イエスは、ゲッセマネの園へ祈りに行かれました。その夜中、そして次の日に何が起きるかを主はご存じでした。弟子たちは知りませんでした。

 

 三人の弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネが連れて来られました。三人は共に祈ってほしいと依頼されましたが、その意味を理解せず、眠り込んでいました。

 

 この個所の平行記事は、マタイによる福音書26章36-46節、マルコによる福音書14章32-42節です。主イエスは、最初「この杯をわたしから取りのけてください」と祈られました(42節前半)。十字架につけられる前のひどい裁判、罵倒、鞭打ち、そして十字架刑における苦しみ、命が奪われることをご存じでした。

 

 でも、最終的には、主はこう祈られました。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(14節後半)

 ゲッセマネの意味は、油絞りの意味です。貴重なオリーブオイルを得るためには、オリーブの実が潰され砕かれ、そのペーストのものが徹底的に圧をかけられ絞られなければなりません。

 

 主イエスは十字架にご自身がかかることを選び取ってくださいました。主イエスの十字架の死、その流される血潮なしには、私たち人間の救いはないからです。父なる神の御心は、滅びに向かう私たちが、滅びではなく、救われることを、罪を赦され、神の子どもとなり、永遠の命を受けることです。

                          (久多良木和夫)  

 

3月21日() 聖日礼拝

       「十字架につけよと叫んだ人々」

               ルカによる福音書231325

 

 使徒信条の中に「主は、・・ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」とあります。ポンテオ・ピラトのもとでの裁判において、4種類の人達がいました。

 

 第一は、兵士たちです、主イエスを捕らえ、主を荒々しく扱い、鞭打ち、平手打ちをしました。

 

 第二は、祭司長、長老、律法学者たちです。彼らは、主イエスの登場により、自分たちの立場が危うくなり、イエスを消し去ろうとしました。そして群衆を、イエスではなくバラバを釈放するように扇動しました(マルコ15章11節)。

 

 第三は、総督ポンテオ・ピラトです。彼は、主イエスに罪がないことを見抜いていました。しかし、群衆の要求通り、バラバを許し主を有罪としました。群衆は、もし主を許せば、皇帝に背くことになるとピラトに詰めよりました。彼は、自分の総督としての特権、権益を失わないために、イエスを罪ある者としたのです。

 第四は、群衆です。彼らは、バラバを釈放することを求め、主に対しては「十字架につけよ」と叫びました(21節)。5日前の日曜日に主がエルサレム入場した時に「ホサナ」と歓迎した人たちもいたことでしょう。

 

 私たちは。そしてあなたは、4種類の人たちの誰に該当します? 主イエスは、私たちのために、あなたのために、不当な裁判にかけられたのです。私たちのために、あなたのために十字架にかかってくださいました。 

                           (久多良木和夫)

 

3月28日() 聖日礼拝

        「十字架上の主イエス」   ルカによる福音書232643

 

主イエスは、最後の週、日曜日にエルサレムに入城され、木曜日の夜に捕らえられ、不当な裁判の末、金曜日に十字架刑に処せられました。

 

 ゴルゴダの丘に向かう途中、キレネ人シモンは、兵士に命じられ、主イエスの十字架を担わされました。最も運が悪い、そして最悪の日となりました。でも、そのことで、シモンは主イエスを信じる者になった可能性があります。

 

 ゴルゴダの丘に三本の十字架が立てられ、真ん中に主イエスが、両側には重罪人がかけられました。手と足にくぎを打ち込まれました。十字架につけられる前にひどい鞭打ちを受け、頬を打たれ、侮辱されました。そのようなことをされたなら、私たちならば絶対に許さないと思い、一生恨み続けることでしょう。しかし、主イエスの祈りは全く違っていました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(34節)父なる神に彼らを赦してくださいとお祈りされたのです。

 

 両脇の二人の犯罪人は、最初両方とも、主イエスを罵倒しました。一人は最後までそうしました。しかし、もう一人は、『この方は罪を犯していない、それどころか神から遣わされた方であること』を見抜きました。

 

 「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた(42-43節)。 

彼は最後の最後に、主イエスを信じ、寄りすがりました。その結果、罪の赦しと御国の命をいただきました。

                          (久多良木和夫)

 

4月4日() イースター礼拝

       「復活された主イエス」  ルカによる福音書24章1-12

 

 周りの人、家族、親しい友達から励ましと支えを受けることは感謝なことです。私たちは、今も生きておられる主イエスに祈り、呼び求めます。

                   

 主イエスは、十字架につけられ死んでしまいました。しかし、その死はむなしいものではありませんでした。私たちの罪を背負い、担われ、その罰を受けてくださったのです。

 

 十字架から3日目の朝、女性の弟子たちは、み使いから告げられます。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(6-7節)主イエスは、自らの十字架上の死と3日目の復活を何度も語られました(ルカによる福音書18章32-33節)。

 

 主イエスの死からの復活は、勝利の初穂としての復活でした(コリント一15章20節)。その復活の恵みを主イエスを信じる者はいただくことができるのです。

 

 復活の主に声をかけられたサウロは、回心して迫害者サウロから伝道者パウロに変わりました。パウロは、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(コリント一15章10節)。

 

 復活の主は今も生きておられます。そしてあなたを愛してくださっています。聖霊によって、私たちの人生を祝福してくださいます。                                               

                          (久多良木和夫) 

    

4月11日() 聖日礼拝

      「とても大きな石が転がされて」 マルコによる福音書16章1-8

 

主イエスが十字架上で死なれた後、そのご遺体は、アリマタヤのヨセフが引き取りと葬りの許可を得て、亜麻布に包み大きな岩をくりぬいて作られた墓に葬りました。入口は大きな石で蓋がれました。

 

 三日目の日曜日の早朝、3人の女性の弟子達は、ご遺体に香料を塗って差し上げようと墓に出かけました。

 

 今日の箇所は、その時にあった出来事が記されています。

 神様がなさった2つのこと。第1は、とても、動かすことのできない墓の入り口の大きな石が動かされたということです。「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。」(4節)。それは神のなしてくださった御業でした。私達の日常において、自分では動かせないことを、気が付かないうちに、神様はすでに動かされていることを知らされるのです。

 

 すべての人にとっての最も大きな問題は「死ぬ」ということです。この死の問題を神は主イエスを通して動かしてくださったのです。死は打ち破られたのです。死の問題の解決は与えられました。 

 

 第2は、問題の解決がすぐにはない時にも、聖書の御言葉によってその解決の約束は与えられるということです。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(6-7節)。み使いによって告げられた言葉です。神さまの業をすぐに目撃できないときにも、聖書の御言葉の中に答えはあります。それを受け取って歩んで行きましょう。 

                         (久多良木志津子)

 

5月2日() 聖日礼拝

        「神に従う人の幸い」       箴言10章21-32節

 

 本日の聖書箇所には、神に従う人への多くの宝石がちりばめられています。多くの人を養う唇(21節)、願い(24節)、長寿(27節)、喜び(28節)、力(29節)、知恵(31節)、好意(32節)です。

 

 「神に従う人は待ち望んで喜びを得る。」(28節)。 「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書40章31節)。神を仰ぎ待ち望む中で喜びをいただくのです。

 

 さて、では、神に従う人とはどのような人を指すのでしょうか。モーセの十戒(出エジプ記10章3-17節)の一つ一つに照らし、それにどう受け止めているかが問われます。表面的ではなく、深いところにおいてもしっかり受け止め、真実に歩んでいる者です。

 

 ただし、神の戒めを守ることは大事なことですが、それは全てではありません。むしろ、神の戒めを守ろうとしてもすべて守ることができない自分を認め、悔い改めることが大事です。

  

 そしてもっと大事なことは、神が自分のためになしてくださったことに心を向けることです。すなわち、御子イエスをこの世に遣わされたこと、主イエスは永遠の滅びに至らせる私の罪を贖うために十字架にかかってくださったことを覚えることです。そして。このイエスを私の救い主と受け入れることです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章16節)。

 

 神に従う人は、神から新しい命をいただいて、神に対して信頼して祈り、神の御心を受け止めつつ歩む者です。          

                          (久多良木和夫)

 

5月9日() 母の日聖日礼拝

        「主にゆだねれば」         箴言16章1-9節

 

 本日は母の日です。今生きている母に、既に天に帰って行った母に感謝する日です。それぞれ、幼い時、母がいて、安心感、安らぎがあり憩いつつ過ごしたことを思い出すのではないでしょうか。

 

 「人間の道は自分の目に清く見えるが 主はその精神を調べられる。」(2節)。「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」(9節)。私たちは、外側の見えるところを気にし、いろいろなことを計画しますが、主なる神は私たちの内側の心をご覧になります。身勝手で自己中心的なものでないか、その動機をご覧になります。主からのゴーサインをいただきつつ、進み出し、歩を進めていきましょう。

 

 「慈しみとまことは罪を贖う。」(6節)「慈しみ」とは原語でヘセッド、神の契約の変わらない愛を意味します。「まこと」は原語でエメス、真理、真実を意味します。罪は人を支配し、神から引き離し、最後には滅びへと引っ張っていきます。人の頑張りや努力ではとてもその罪という借金を完済することはできません。

「贖う」は原語でカファール、自由のための代価を完済することを意味します。神は、ご自身の慈しみとまことによって罪という借金の代価を完全に払って、自由の身にしてくださいます。それはイエス・キリストを通して成し遂げてくださいました。母の愛は、天の神さまの愛に通じるところがあります。

 

 「あなたの業を主にゆだねれば計らうことは固く立つ。」(3節)口語訳では、「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。」です。取り組もうとすることがあまりに大きく、難しいことである場合、潰されそうな思いになることがあるでしょう。主なる神に、その大変さも、その結末もお任せするのです。

 

 旧約聖書に出てくるルツは、夫を亡くし大きな悲しみを経験しました。そのルツは、義母であるナオミについて、外国の地であるベツレヘムに行きました。それはナオミが信じる神をルツ自身が信じてその後の人生を任せたのです。ルツは、ボアズと出会い、ダビデの祖父となるオベデの母となりました。

 

 主は、ご自身を信じ、ご自身にゆだねて歩む者を顧みてくださいます。主に従い、難しいことについては主にゆだねて歩んでいきましょう。

                                                 (久多良木和夫)

 

5月17日() 聖日礼拝

     「あなたは私に従いなさい」  ヨハネによる福音書212025

 

ヨハネ福音書には三回、復活の主が弟子たちに姿を現された記事がある。他の福音書と比べて復活の記事が多いのは、ヨハネが直接的に主イエスの復活を、目撃したからだろうか。

 

ヨハネ福音書で描かれる主イエスは、弟子たち一人一人に心を配られる。疑うトマスのためにお姿を現わし、ガリラヤ湖畔にいた弟子たちのために、現れてくださった。他の福音書よりも、直接的に弟子たちを「愛して愛し抜かれた(ヨハネ131節)」描写が見てとれる。

 

21章で主イエスはペトロを中心に語りかけられる。20節以降では、ヨハネが登場する。理由は書かれていないが、ペトロはヨハネが気がかりだったのだろう。しかし主イエスは、ヨハネに心を向けるペトロに言われる。「あなたは私に従いなさい」。私たちは様々な事柄の中で、他者のことが気にかかる。主イエスを前に、他の事柄に心が向く。しかし主は、はっきりと言われる。「あなたは私に従いなさい」。ヨハネのことはペトロには関係ない、ペトロのこともヨハネには関係ない。互いを比べて「誰が一番偉いか」と議論していた弟子たちへの、究極的な答えがここにある。

 

主イエスは「私の言葉に耳を傾け、私を見よ」と言われる。様々な事柄に心惑う時、家族や隣人のことが気にかかる時、私たちは家族や隣人を、最もよき道を備えてくださる主に委ねよう。主の言葉を聞こう。すべてをご存じで、最もよき道へと私たちを導かれるのは、主イエスである。 

                                               (富山希望師)

 

5月23日() 聖日礼拝

        「主に信頼する者」        箴言29章18-27節

 

「驕る者は低くされ 心の低い人は誉れを受けるようになる。」(23節)。新型コロナのことで思い通りにならないことが多くなり不安を覚えさせられます。その中で、すべてを支配しておられる主に目を向けましょう。主は確かな方であり、誉れすなわち守りと平安と勝利を与えてくださいます。

 

「支配者の御機嫌をうかがう者は多い。しかし、人を裁くのは主である。」(26節)。権力や力を持つ者や国は、周りの人たち、国々に圧をかけ脅威を与え支配しようとします。しかし、恐れる必要はありません。それらの者が勝手なことを行ってもそれが間違ったものであれば、主がそれらの者、国を裁かれます。

 

「人は恐怖の罠にかかる。主を信頼する者は高い所に置かれる。」(25節)。「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」(口語訳)。主イエスの弟子たちは、主イエスが捕らえられた時、十字架につけられるとき、主を見捨てて逃げ出しました。彼らは、そのことで不安と恐れをいだきました。しかし、復活の主より弟子たちは「平和があるように」、「安かれ」、「平安があるように」と語りかけられ、主の赦しを知り、平安、喜び、感謝をいただきました。

 

 主イエスが昇天される前に、弟子たちに約束されたもの(ルカ福音書24章49節)を弟子たちは祈りつつ待ちました。弟子たちは、ペンテコステの日にその約束通りに上からの聖霊を受けました。「幻がなければ民は堕落する。」(18節)。「預言がなければ民はわがままにふるまう」(口語訳)。「預言がなければ民はわがままにふるまう」(新改訳)。幻の原語はカゾーンで、幻とも預言とも訳せます。上からの聖霊は、ヴジョンとそれを成し遂げる力を与えてくださいます。また命の御言葉を与えてくださいます。

ペンテコステの日、ペトロは、ヨエル書の預言「あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」の成就であると語りました。

 

 「主を信頼する者は高い所に置かれる。」(25節)。主を信じ、主を信頼する者を聖霊なる神は、高く引き上げ、正しい道に導いてくださいます。

                          (久多良木和夫)

 

 

5月30日() 聖日礼拝

        「生涯における二つの願い」    箴言30章1-10節

 

 アグルという人物は、かつては粗野で分別もありませんでした。しかし、彼は、この世界は主によって創造され、その方は自分をも顧みてくださる方であることを知り、神の御言葉を慕い崇めるものとなりました。

 

 現代に生きる私たちは、多くのことを願い求めるようになりました。あまりに多くのものを求めすぎこんがらがり、疲れてしまっています。

 「二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせずわたしのために定められたパンでわたしを養ってください。」(8節)。

その理由は、「飽き足りれば、裏切り主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働きわたしの神の御名を汚しかねません。」(9節)です。

 

 

2つの願いのうちの第1は、むなしいもの、偽りの言葉を遠ざけてくださいということです。多くの偽物がこの世にはあります。富、お金、名声、名誉、力、ギャンブル、アルコール、薬物、それらはとても魅力的です。しかし、それらは、いつの間にか、私たちの心を強くとらえ、ついには飲み込んでしまいます。

 

 第2は、貧しすぎず、富みすぎず、そして、必要なもので養ってくださいということです。ソロモン王は知恵、知識、快楽、金銀を多く手にしましたが、最後に死が待っていることを知り、すべては過ぎ去っていくものであると悟りました。私たちの心を主から引き離すものは、世の思い煩いであり、富の誘惑であり、いろいろな欲望です(マルコによる福音書4章19節)。

 

 主イエスは、主の祈りの中で、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」と教えてくださいました(マタイによる福音書6章11節)。今日を生き、明日を生き、人生を進むのに必要なものは何でしょうか? それは平安と希望ではないでしょうか。どんな状況でも、主が共にいてくださるから、主が導いてくださるから、主が助けてくださるから、平安と希望を持つことができるのです。

                          (久多良木和夫)

 

6月6日() 日曜礼拝 

  「新たに生まれなければ」  ヨハネによる福音書3章1-15節

 

 ニコデモという人は、当時のユダヤ社会の中で、ユダヤ教のパリサイ派に属していて、伝統の宗教の最高峰を歩み人々からの尊敬を受けていました。また、サンヒドリンと呼ばれる議会の議員の一人で、名誉を得ていました。

 

 その彼が、主イエスのなさったことに大きな衝撃を受けていたと思われます。主イエスは、カナの婚礼でお祝いの席でぶどう酒がなくなるという事態の中で、水を最高のぶどう酒に変え、危機を救いそこに集まった人たちの感謝と喜びを増しました(2章1-11節)。また、生まれつき目の見えない人の目を見えるようにしてあげ、その人の人生を大きく変え、喜びと希望を満たされました(9章1-12節)。

 

 ニコデモは、自分の努力で勝ち取ったものを持っているが、それがどれだけ確かだろうか、いつか行き詰る時が来た時どうしたらよいのだろうか、自分の内にどれだけ感謝、喜び、平安、希望があるのだろうと考えるようになったのかもしれません。

 

 彼は、主イエスがお持ちの特別なものにあこがれ、夜、主イエスのもとに出かけていきました。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3節)。ニコデモは、再び母の胎内に戻ることはできないと答えました。この新しくとは、原語でアノーセンという言葉です。上からという意味です。上から、すなわち神によって生まれなければという意味です。感謝なことに、神の御心は、私たちが神の愛、恵み、ご支配、助けによって神の国を見ることができる道が備えられました

 

 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。(5節)。水は汚れを落としきれいにする力があります。神の御心がなければ、神の霊によらなければ神の国には入ることはできません。しかし、神の御心は私たちを生まれ変わらせるというものです。そして、主イエスを信じる者に神の霊を与えてくださいます。そのことにより神の国に入ることができる扉が開かれました

 

 神は、二つの大きな恵みを備えてくださっています。
その第1は、神との断絶の原因である罪の赦しを与えて、私たちが神の子どもとされることです。神の子どもとしての資格(特権)を与えてくださいます(ヨハネ1章12節)。第2は、聖霊が内に住んでくださることということです。
この二つの恵みを土台として、それを通して、神の国を見る、神の国に入ることができるということです。すなわち。神と共に歩むということです。その時に主が共にいて、喜び、感謝、平安、希望を与えてくださいます。

 

 ニコデモは、後に主イエスを信じる者となったのでした。そして。主イエスの葬りのために精一杯のことをしました(19章38-42節)。 

                           (久多良木和夫)

  

6月13日() 日曜礼拝 

  「神の愛に応えて歩む」    ヨハネの手紙一4章7-12節

 

著者ヨハネは手紙を送る人たちに、「愛する者たち」と呼び掛けています。この「愛する者たち」という言葉は、ギリシャ語原語では受身形で書かれています。すなわち「愛されている人たち」という意味です。

 

 続いて「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」とあります(7節)。

 10節には、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」とあります。神は、私たちを愛するゆえに、イエスを送ってくださいました。ここに愛があると。神の愛、それが愛の根拠だと述べています。

 

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ福音書3章16節)。愛の主体は神です。

 

 神に愛されていることを意識して呼びかけられています。自分の愛を主体に考えるなら、その愛が届かないとイライラしたり、不安になったりします。愛の主体は神です。私たちが神を愛したからではなく。神が私たちを愛して、その愛の証しとしてイエスを送ってくださいました。

 

 「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(11節)。愛し合うべきですとは特徴的な言葉遣いですが、その意味は愛の負債、借りがあるという意味です。神に大きな借りがある、それを少しずつ返していく必要があります。神は返してほしいから愛を与えたのではありません。返さなければならない愛をあなたの兄弟姉妹に、隣人に返すようにと願っておられます。隣人に分け与えていくこと、それが互いに愛し合うことにつながっていきます。

 神は、私たちが互いに愛し合うように愛を与えたのです。神に愛されている存在として、お互い赦し合い認め合う、それが神からいただいた愛の借りに対して返すことにつながっていきます。

 

イエスは、この世に遣わされ、私たちの罪の償いのために十字架での死を受けてくださいました。そして復活してくださいました。

 私たちは、この神の愛に応えて歩んで歩む者であらせていただきましょう。

                (川内教会牧師・九州教区議長 日下部遣志師)

 

6月20日() 日曜礼拝 

   「命のパンを食べる者」   ヨハネによる福音書6章48-51節 

 

私たちは身体と共に精神が与えられています。神は、その身体と精神に必要なものを与えてくださっています。しかし、それがすべてではありません。人は神に造られたものであるゆえに、神に立ち帰り神につながって生きることが大切です。そのために、神は神の独り子イエスをお遣わしくださいました。主イエスを命のパンとしてお遣わしくださったのです。

 

「わたしは命のパンである。」(48節)。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(33節)パンの使命は、飾られそのままあり続けることではありません。食べられてなくなり、食べて人の空腹を癒し、元気にすることです。神は、心の中心にある魂をこのパンを通して満たすことがおできになります。 

 

 イエス・キリストを通して私たち人間は、神の国に入り、神の国を見ることができるようになりました(ヨハネ3章3節、5節)。主イエスが十字架で死んでくださったことを通して、罪の代価はすべて支払われました。イエスを救い主と信じ受け入れることで罪の赦しが与えられ、神の子どもとしての特権(資格)が与えられました。信じる者の内に聖霊は住んでくださるようになりました。

 

 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(51節)「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(54節)。ディズニーランドの一日パス券で入場したのに、入場門に入ってすぐその所でじっと過ごしたとしたら、またほんの短い時で退場して帰ったとしたらもったいないことです。神の子どもとされたのに、神の国の入り口のところでただ何もせずたむろしていたら残念なことです。主イエスと共に、聖霊なる神と共に生き、その恵みをしっかり受け取って歩んでいきたいものです。

 

 私たちは、時にマイナスに傾いて生きることがあります。いろいろなことがあり、苦しい、希望が持てない、感謝が、喜びが、希望が湧いてこない、人や過去に囚われに振り回される、妬みつつ生きる、恨みつつ生きる、後悔が心を支配するという風にです。妬みを、恨みを捨てて生きる、後悔の中にも、感謝を見出して生きる、主の助けをいただいて、マイナスに傾くことから脱し、プラスに傾いて生きたいものです。

 

 キリスト者とされたのに、光を失って生きることがあります。神を端っこにおいて生きる、信仰を働かせずに不信仰に生きる、神を礼拝せずに生きる、この世の価値観で生きる、自分の腹を神としている、御言葉を聴かずに生きる、聖霊を無視して生きる、神を信頼せずに生きるという風にです。神を真ん中にして生きる、信仰に生きる、神により頼み生きる、神を礼拝しつつ生きる、神の子とされていることを感謝しつつ歩む、神が願っておられることを心にとめつつ歩む、三位一体の神をまことの神のみを神として歩む、御言葉から神の語りかけを聴く、聖霊なる神を崇め、従い歩む、どんなときにも、神に信頼して歩んでいきたいものです。

 

命のパンである主イエスを食べるとは、この主イエスを崇め、共に歩むということであり、聖霊なる神を崇め、共に歩むことです。命のパンを食べ続け、聖霊なる神の助けをいただきつつ、神の国を生き、神に生かされて歩んでいきましょう。 

                         (久多良木和夫)

 

6月20日() 日曜礼拝 

   「命のパンを食べる者」   ヨハネによる福音書6章48-51節 

 

私たちは身体と共に精神が与えられています。神は、その身体と精神に必要なものを与えてくださっています。しかし、それがすべてではありません。人は神に造られたものであるゆえに、神に立ち帰り神につながって生きることが大切です。そのために、神は神の独り子イエスをお遣わしくださいました。主イエスを命のパンとしてお遣わしくださったのです。

 

「わたしは命のパンである。」(48節)。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(33節)パンの使命は、飾られそのままあり続けることではありません。食べられてなくなり、食べて人の空腹を癒し、元気にすることです。神は、心の中心にある魂をこのパンを通して満たすことがおできになります。 

 

 イエス・キリストを通して私たち人間は、神の国に入り、神の国を見ることができるようになりました(ヨハネ3章3節、5節)。主イエスが十字架で死んでくださったことを通して、罪の代価はすべて支払われました。イエスを救い主と信じ受け入れることで罪の赦しが与えられ、神の子どもとしての特権(資格)が与えられました。信じる者の内に聖霊は住んでくださるようになりました。

 

 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(51節)「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(54節)。ディズニーランドの一日パス券で入場したのに、入場門に入ってすぐその所でじっと過ごしたとしたら、またほんの短い時で退場して帰ったとしたらもったいないことです。神の子どもとされたのに、神の国の入り口のところでただ何もせずたむろしていたら残念なことです。主イエスと共に、聖霊なる神と共に生き、その恵みをしっかり受け取って歩んでいきたいものです。

 

 私たちは、時にマイナスに傾いて生きることがあります。いろいろなことがあり、苦しい、希望が持てない、感謝が、喜びが、希望が湧いてこない、人や過去に囚われに振り回される、妬みつつ生きる、恨みつつ生きる、後悔が心を支配するという風にです。妬みを、恨みを捨てて生きる、後悔の中にも、感謝を見出して生きる、主の助けをいただいて、マイナスに傾くことから脱し、プラスに傾いて生きたいものです。

 

 キリスト者とされたのに、光を失って生きることがあります。神を端っこにおいて生きる、信仰を働かせずに不信仰に生きる、神を礼拝せずに生きる、この世の価値観で生きる、自分の腹を神としている、御言葉を聴かずに生きる、聖霊を無視して生きる、神を信頼せずに生きるという風にです。神を真ん中にして生きる、信仰に生きる、神により頼み生きる、神を礼拝しつつ生きる、神の子とされていることを感謝しつつ歩む、神が願っておられることを心にとめつつ歩む、三位一体の神をまことの神のみを神として歩む、御言葉から神の語りかけを聴く、聖霊なる神を崇め、従い歩む、どんなときにも、神に信頼して歩んでいきたいものです。

 

命のパンである主イエスを食べるとは、この主イエスを崇め、共に歩むということであり、聖霊なる神を崇め、共に歩むことです。命のパンを食べ続け、聖霊なる神の助けをいただきつつ、神の国を生き、神に生かされて歩んでいきましょう。 

                         (久多良木和夫)

 

6月27日() 日曜礼拝 

   「自分の道を走り通す」  使徒言行録20章17-24節 

 

これこそ自分の歩むべき道、それを受けとめて歩む者は幸いです。自分の歩むべき道がなかなかはっきりしない場合もあります。道は、まっすぐではなく、途中で大きく曲がることもあります。

 

本日は、ホ群弾圧受難記念礼拝です。国家によるホーリネス系キリスト教会へ宗教弾圧は今から79年前の1942年に始まり、敗戦の1945年まで3年間続きました。1943年には、教会解散命令が出され、教師は辞任させられました。教会は大きな打撃を受けました。

 

その弾圧理由は、1)神宮に対する不敬、2)天皇に対する不敬、3)国体変革を企図する罪でした。その弾圧を受けた原因は、高く掲げていた再臨信仰でした。主イエスは、王として再臨され、すべてを裁かれ支配されるという再臨の信仰は、戦争を推し進め、アジアをそして世界を支配しようともくろむ当時の日本国家にはとても都合の悪いものでした。

 

 パウロは、かつてサウロという名でした。パリサイ派の熱心なユダヤ教徒であり、キリスト者への迫害者でした。その彼が復活の主に出会い、回心し、主イエスを信じ、宣教者すなわち伝道者となりました。そして今度は自分が迫害を受ける者となりました。

 

 彼は、第3伝道旅行の最後のところで、ミレトスにエフェソの教会の長老たちを呼び語った箇所が今日のところです。

 「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。(18-19節)

 

「そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」(22-24節)。

 

 彼は、この後、エルサレムに行きました。そこで捕らえられ、ローマ皇帝に上訴し、ローマに護送されました。ローマで2年間軟禁状態の中で伝道しました。その後、ネロの迫害の時に殉教したと言われています。

 パウロは、主イエスによって自分に決められた道すなわち神の恵みの福音を力強く証しするという任務に命をかけ、それを走り通しました。

 

 79年前の弾圧の時に、キリスト教信仰を失ったり、捨てた者をいました。しかし、その苦難の中にあっても、その信仰を捨てずに、持ち続けた人たちもいました。戦後、教会が、その歩みを再開したとき、その持ち続けた人たちは大きな力となりました。

  

 自分の道を走り通す、主によって与えられた信仰の道を、主を証しする道を私たちも走り通しましょう。

                          (久多良木和夫)

 

7月4日() 日曜礼拝 

  「キリストに結ばれて」 コリントの信徒への手紙一1章1-9節

 

建物において一番大切のものは、その土台、基礎でありその構造の確かさです。人生の歩みにおいても同じです。自分を支えるもの、自分が依り頼むものが確かであれば、人生も確かです。

 

 パウロはコリント教会の信徒に手紙を書き送りました。彼は、最初に自分のことを「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」紹介しています(1節)。

  彼は、かつて主イエスの復活を否定し主イエスを信じる者たちを迫害していました。ダマスコ途上で天からの光を受け復活の主イエスに声をかけられます。彼はその時に目が見えなくなりました。その自分に主イエスはアナニアを送り、再び目が見えるようにしてくださいました。そして主イエスを信じる者に回心させてくださいました。彼は、神の大きな愛と憐みが自分に集中的に注がれたことを知りました。神の御心は、自分が神の愛を知り、その愛の中で生きることそして主を宣べ伝える者であることを確信させられたのです。

 

 「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(3節)。恵みとは神の特別の愛、憐みの愛、恩寵、神の顧みです。

 あの放蕩息子のたとえで、父のもとを去りすべてを失い、父の家を思い出し、雇人にしてもらおうと家に向かう弟息子を父親は駆け寄り、息子として迎え入れてくれました。受ける資格のない者に神は大きな愛を注いでくださっています。恵みがあるようにとは、その神の愛を受けて歩むようにとの祈りです。

 

 平和があるようにとは、心の平安、安らぎがあるようにとの祈りです。その平和は、単なる平安ではなく、神につながって生きることであり、そこで与えられる平安です。「いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。」(詩編32編1節)。神と断絶した者が、罪を赦していただき、神の子どもとされ、神とつながったものにされたことにより与えられる幸いです。

  

 「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。」(5節)。キリストに結ばれての原語は、口語訳、新改訳ではキリストにあってと訳されています。新共同訳では、キリストにあるということをキリストに結ばれると訳しています。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリントの信徒への手紙二5章17節)。キリストのご支配によって、人は造り変えられるからです。また、キリストに結ばれて生きる中で実を豊に結ぶことができるのです。

                          (久多良木和夫)

 

7月11日() 日曜礼拝 

     「目標を目指して」  フィリピの信徒への手紙3章12-21節

 

フィリピの信徒への手紙は「喜ぶ」という言葉が沢山使われています。しかし、この書簡が書かれた時、パウロは獄中におりました。この書簡は、パウロが 自らの最後を見つめながら書いたのがこの手紙です。

 

パウロは「完全なものとなっていない」と言います。この完全なものとは 何か人格的に完成した存在という意味ではありません。そうではなく、ここで言われているのは「救い」についてです。イエス・キリストを信じる時、私たちに「救い」は訪れます。しかし、私たちは完全な救いの完成を得ていないのです。

 

キリスト者として「完全にされている」、この「完全」という言葉は、「大人になる」、「成人する」ことに似てるとある説教者が言っていました。日本では二十歳になったら法的には「成人」です。しかしそれが「大人としての完成」を意味しているか、と言えばそれはまた別のものです。「完成した者」となるには時間がかかります。イエス・キリストによって救われた者も時間をかけて、「救いの完全」を頂いていくのです。パウロはその「完成」を目指しているのだ、と言うのです。

 

13節でパウロは「後ろのものを忘れ」と言います。「後ろのもの」とは自分の過去の罪、そして自分の名誉です。パウロは両方とも持っていました。彼は「熱心なユダヤ教徒であり、律法の専門家、熱心の点では非の打ちどころのないもの」であった。これは彼の名誉。そしてこのパウロの賜物は、キリスト者として生きるようになってからも用いられていきました。それと共に、パウロは大きな罪も負っていました。「キリスト者」たちを迫害し、人々の多くの命を奪ったことです。パウロは一生涯かけてこの罪を負っていったのではないかと思うのです。

 

しかし、最期が近づく中で、キリストにあってこの二つを手放します。自分の栄誉も、自らの罪も、キリストの前に明け渡し委ねて、ただ「キリストが捕えていてくださる」というところに自分自身を置いて、フィリピの人々に勧めるのです。

 

「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによて上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指して、ひたすら走ることです」(13-14節)。パウロは、この手紙を書く中で 自身の生涯を振り返っていたとも考えられます。その中で、キリスト・イエスを見つめ キリストの与えてくださる賞与に心を向けていきました。それが彼に深い喜びを与えたのです。

                            (富山希望師)

 

7月18日() 日曜礼拝 

   「心と思いを一つにして」 コリントの信徒への手紙一1章21-26節

 

願ったことがかなったときには、大きな喜び、感謝があります。家族や友達と心がつながっている時、共に協力して励まし合って進める時、更に喜び、感謝があります。

 

 喜び、感謝と反対は、安らぎがないということです。人と人との間で仲たがい、争いがあるときそれは大きくなります。

 

 コリントの教会に起きていた課題、問題は、仲たがいであり、争いでした(10,11節)。教会に集う者たちの間で、分裂、分派があったのでした。あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです (12節)。パウログループ、アポログループ、ケファグループ、キリストグループと分かれていたのです。

 

 「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」(17節)

 

 言葉の知恵とは、人間の言葉の知恵のことです。その意味するところは、お互いに知識がある、知恵がある、力があると互いに誇り合い、競い合うことです。

 

 主イエスの弟子たちも、自分こそは良い地位をと虎視眈々と狙っていました(マタイ福音書20:35-45)。それに対して、主イエスは、「しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」と諭されました(ルカ福音書22:26)

 

 そして、主ご自身は、最後の晩餐の前に、弟子たちの足を洗われました。「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ福音書13:14)

 

 

 「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」(10節)心と思いを一つにするとは、同じ心と思いを持つということです。そのために必要なことは、キリストを見上げ、キリストの心を受けとめつつ、歩むことです。

                                                                    (久多良木和夫)

 

7月25日() 日曜礼拝 

    「十字架の言葉は神の力」 

コリントの信徒への手紙一1章18-25節

 

 今朝の聖書箇所の中心聖句は、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(18節)です。

 

 十字架の言葉とは、十字架にかかってくださった主イエスのことです。この十字架の意味を理解しない者にとっては、愚かだと思えます。しかし、その意味を理解した者にとっては尊いものであり、神よりの大きな恵みです。

 

 知恵には、二種類あります。一つ目は人間の知恵です。もう一つは神の知恵です。

人間の知恵は、どのようなものでしょう。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探します」(22節)。ギリシャ人は、知恵を求めます。哲学的な真理を求め、目新しいものを追い求めます(使徒言行録17:16-21)。それはきりがありません。ユダヤ人はしるしを求めます。奇跡的なものを追い求めます。人間の知恵は、知恵としるしを求めますが、珍しいもの、大きいもの、偉大なもの、益をもたらすものを神々としてしまい、真の神に至りません。

 

 神の知恵は、私たちの知恵をはるかに超え、独り子イエスをこの世に遣わし、そのイエスが十字架にかけられることを通して、私たちを救うというものです。

 

 使徒パウロは、十字架にかかって救いの御業を成し遂げてくださった主イエスを宣べ伝えました。「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」(23節)。「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(24節)

 

 自分が獲得したもの、すなわちお金や持ち物や地位等は、やがて失われていきます。自分に与えられたもの、すなわち自分の命や家族さえも乏しくなることがあり、失われていきます。しかし、主イエスによって、生かされ守られ進んで行くのです。

  

 十字架の主イエスこそ、私たちを救うものであり、私たちを生かしてくださいます。)

                          (久多良木和夫)

 

8月1日() 日曜礼拝 

    「義と聖と贖い」   コリントの信徒への手紙1章26-31節

 

「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。」(26節)。主に出会う前は、希望を持てずにさまよい、将来に向けて不安、恐れがあった。エフェソの信徒への手紙2章1-5節には、以前は、自分の過ちと罪のために死んでいたと記されています。自分がどこに向かっているのかもわからず、一時的な満足はあっても、むなしくさまよい、滅びに向かっていました。

 

 「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」(27節)。主イエスは、ザアカイに会うためにエリコの町に行かれました。そしてザアカイを招かれました。主イエスは、町の人たちから嫌われ、むなしく生きていたザアカイの友になってくださいました。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ福音書19章10節)

 

 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。(31節)。私たち一人一人は、ただ、神の憐れみと愛によって選んでいただき、救っていただきました。自分の立派さや善行や持ち物よっては救いに達成することはできません。だから、その主を誇るのみです。

 

 「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」(30節)。

 義とは、神さまに近づくことのできる正しさです。罪が赦されキリストの義をまとい神さまの前に立つことができる者とされました。

 聖とは、神さまの前に立つことのできる清さです。霊なる神が、私たちをご支配して、日々、そして生涯にわたって主の御心にかなう者に造り上げてくださいます。

 

 贖いとは、罪の代価が支払われ解放されたということです。神は、イエス・キリストの十字架上での死という大きな犠牲を通して、罪の代価をすべて支払ってくださいました。

 

 私たちは、救いに与りキリストに結ばれました。義と聖と贖いになり、神の知恵となってくださった主イエスをあがめ、感謝します。

 

 

8月8日() 日曜礼拝 

     「神の力によって」   コリントの信徒への手紙2章1-8節

 

 力はあこがれの一つです。様々な力があります。それらを手に入れることは必ずしも最高ではありません。それらが心をオーバーヒートさせることもあります。その力で人のものを奪うこともあるからです。人の力は、限界があります。それで他の人を傷つけることもあります。

 

 「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」(3節)。パウロは、弱り、恐れ、不安の中に投げこまれました。身体的な病によるものだったかもしれません。アテネでの宣教の失敗によるものだったかもしれません(使徒言行録17章16-33節)。

 

 「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」(2節)。たとえ、議論に勝ったとしても人の心は動かず、福音は届かないからです。

 

 「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」(4-5節)。福音が相手の心に届くためには、聖霊なる神がその人の心に触れてくださり、神の力が臨んでくださる必要があります。

 

 マイナスと思える事柄の中でも、主が働いてくださるとき、悔い改めが起き、信仰紅白がなされ、主に立ち返る者が起こされます。だから、主が働いてくださるようにお祈りすることが大切なのです。

 

 「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」(コリントの信徒への手紙二4章8-11節)。主イエスの死を体にまとっているとき、主イエスの復活の命が現れることをパウロは経験しました。

 

 十字架にかかってくださった主イエスを救いの土台として、その恵みに支えられて生きる時、神の力が臨んでくださいます。

                            (久多良木和夫)

 

8月15日() 召天者合同記念礼拝 

     「死の陰の谷を歩むときも」       詩編2316

 

 詩編23編は。良き羊飼いに養われる羊を描いています。その羊とは私たちのことであり、羊飼いは天の神さまのことです。羊は、オオカミに襲われればおじ惑い弱く、視力があまりよくなく迷いやすい動物です。

私たちも、羊に似ている存在です。強く見えていても決して強くなくむしろ弱い者です。私たちは迷わないように見えて迷いやすい者です。

 

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(1節)。原語の中には私のという言葉があり、口語訳では、「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。」、新改訳では「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」と訳されています。

 

 

 主イエスは、ご自身のことを語っておられます。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネによる福音書10章11節)。主は良い羊飼いであり、羊である私たちのために、その命を十字架の上で献げてくださいました。

 

 「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。(4節)。死の陰の谷、そこは最も暗く心細いところです。死に対する恐怖があり、人生における最大の危機の時です。しかし、その時に恐れないのです。なぜでしょうか。それは、主が共にいてくださるからです。

 

 人生の最後の時に、その恵みをいただくためには、歩む人生において、主と共に歩む経験をたくさん積むことが必要です。「魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。」(3節)。魂を癒していただく経験、引き揚げていただく経験です。

 

 「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」(6節)。人生の歩みを守ってくださる主は、復活の主です。この地上の歩みをご支配くださり、天の御国をご支配しておられます。

主を信じる者たちのために天の住まいを備えてくださる主です。その御国に住む恵みをくださっています。

 

 先に召された兄弟姉妹を覚え、主に従っていきましょう。先に召された祈られた教会員の家族を覚え、主を信じる者とさせていただきましょう。

                              (久多良木和夫)

 

8月22日() 聖日礼拝 

     「キリストの心」   コリントの信徒への手紙一2章9-16節

 

 雨や太陽の光は、上から与えられる良きものの代表です。御子イエスは天からの恵みの代表です。主イエスを通して、永遠の命、天の御国の命が備えられました。

 

 「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(14節)。 自然の人とは、世の霊によって歩む人であり、人間的知恵、考え方を中心として歩む人です。その人は、真の神を知ることができません。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。」(1章21節)。 自分の知恵では、神を知ることはできません。自分の側に神を引き寄せようとすることは愚かなことです。神を支配することはできません。

 

 「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。」(15節)霊の人とは、主の前に遜る人であり、主を心から仰ぐ人、信仰にあって生きる人です。その本質は、神の霊を受けている人です。自分の罪を認め、自分が罪人であることを認め、主イエスを救い主として受け入れ、信じた人であり、罪を赦され、神の子とされた人です。

「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。」(12節)。 神の霊こそが、人に神の命の道を歩ませてくださいます。神の御心を知ることができるようにしてくださいます。“霊”すなわち聖霊によって、神の知恵をいただく者、神の御心を教えていただく者は幸いです。

 

聖霊は、真理の霊です 真理の霊として、私たちを導いてくださり、神の御心を教えてくださいます。 「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネによる福音書15章26節)。 「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(ヨハネによる福音書16章13節)

 聖霊なる神は、何が大切なことかを教え、人の知恵ではなく、神の知恵へと導いてくださいます。主イエスの十字架と復活の大いなる恵みを教えてくださいます。

 

だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」(16節)。 いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。」(新改訳)

 キリストの思いとは、キリストの心であり、神の御心です。それをいただいて、その御心を受け止めて生き、神の命に生かされる幸いをいただきましょう。 

 

「地の果てのすべての人々よ わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。」(イザヤ45章22節)。 主を仰いで、救いを得よと

「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず 月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり あなたの神があなたの輝きとなられる。あなたの太陽は再び沈むことなく あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり あなたの嘆きの日々は終わる。」(イザヤ60章19-20節) 嘆きの日々を終わらせ、喜び、感謝へと。

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネによる福音書8章12節) 暗闇の中を歩く日々は終わる。 命の光を持って、歩みなさいと。

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。(ヨハネによる福音書15章4節)。 実を結ばない者ではなく、実を結ぶ者とすると。

 

 キリストの心、神の心は、私たちに対する愛であり、その愛はあなたを生かすものです。主の御心は、あなたの人生を祝福へと導くことです。 

なんという感謝でしょう。

 

  

8月29日() 聖日礼拝 

  「成長させてくださる神」  コリントの信徒への手紙一3章1-9節

 

人の集まりにおいてほしいものは一致であり協力です。しかし、実際には、なかなか難しいものです。

 

コリント教会の課題の一つは、不一致、対立、抗争、分派でした。パウロ派、アポロ派、ケファ派、キリスト派と分かれていました。

 それに対して、使徒パウロの言葉、進言、忠告、アドバイスは以下の通りです。「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」(1章10節)。

 

不一致、非協力、対立 どうしたら良いのか? 「相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。」(3節)。

 

 肉の人は、霊の人と対立する言葉です。人間的な視点で物事をとらえ、自分の思い、考えが中心で、やられたら、やり返す、一度受けた痛みは決して忘れない。自分は正しい、間違っていない。相手こそ、あの人こそ間違っているという歩みをする者です。

問題は相手ではなく、自分であるということは多分にあります。そのことに気づかない。気づこうとせず。神の前に静まる時、祈る時がありません。たとえあったとしても、自分の主張ばかりを神に申し上げ、神の御心を受け取ろうとしません。

 アポロも、パウロも、ケファも、それぞれ、大事な働きを担ってきました。しかし、コリントの教会の一部の人は、神さまを無視して、人間的な思いで、派閥を結成し、自分たちの正しさを主張し、勢力を増そうとしました。その結果は、ねたみや争い、そこには、あるのは、人間的な満足であり、力の誇示です。真の平安、平和はありません。

肉の人は、あくまでも、私が主導権を握り、自分の思い通り、感情に従って歩み、一番大切な最終判断においては、自分がすべてを握り、決めます。

 

 一方、霊の人は、主体的に歩みつつも、一番大切な最終判断においては、自分がすべてを握る、決めるのではなく、主の御心を第一にします。主はどう思われておられるだろうかと、主に問い続けます。霊の人は、あくまでも、主の御前にへりくだり、主に祈りつつ歩みます。聖書のみ言葉を読みつつみ言葉に聞き、歩みます。主に近く歩みつつ、主の御心を教えていただきます。

 

「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは 神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」(6-7節)

 主のご支配の下で歩み、一歩一歩の歩みを助け導いていただく。肉の人ではなく、霊の人に変えられつつ、生きる。時に間違った判断をしたとしても、間違った歩みをしたとしても、そこから引き揚げていただく幸い 方向転換をさせていただく。すべてを最善に導いてくださる主 主の下で歩み、生きることが大切です。主なる神が、御心にかなうべく引き上げ、成長させてくださいます。

                          (久多良木和夫)

 

9月5日() 日曜礼拝 

  「イエス・キリストという土台」 

             コリントの信徒への手紙3章10-17節

 

 土台 土台とは基礎部分です。建物の基礎部分は直接見ることができません。しかし、とても大切な部分です。これがしっかりしていないと、大きな地震、洪水の時に倒れてしまうか流されてしまいます。人生においての土台、基礎部分とは、乳幼児期、小中高の時代、そして青年期です。どのように育てられたか、どのように愛情を注がれたか、どのように過ごしたかは大切です。これは、自分ではなかなか選べない部分も多く、過ぎた過去になってしまうことも多いことです。

 

 家を建てる 基礎部分が、しっかりしていないと、立ち上がって、家が、マンションが傾いてしまいますし、修復はとても難しい。人生という家が、傾いたなら、なお、難しい。お金を蓄える、学問を積む、人脈を作ることは、一つの助けにはなりますが、土台とはなりません。お金を貯え、財産をたくさん築いたとしても、たくさんの学びをし、知識を身につけたとしても、人脈をたくさん作ったとしても それで、幸せになるとは限りません。それらのものは、いつか失われてしまい取り去られます。確かな土台を据え、その生涯が確かな歩みであれば、平安、希望、感謝な歩みとなります。

 聖書は、その土台をイエス・キリストにするようにと勧める。イエス・キリストを土台とするということの意味は、イエス・キリストを信じて、天の神さまにつながって生きるということです。

イエス・キリストを信じることなくしては、神とつながらずに歩むということはできません。れはどこに流れ行くかわからない浮き草のようなものであり、間もなく、落ちてゆく、どこに落ちるかわからない糸の切れた凧のようなものです。主と共に、確かな人生を歩むとは、罪を赦され、神の子どもとされ、永遠の命をいただいて歩むということです。

 

 岩の上に建てられた家と砂の上に建てられた家 岩の上に建てられた家と砂の上に建てられた家のたとえ(マタイによる福音書7章24-29節)で、その真価が問われたのは、大雨、洪水の時でした。主イエスの言葉を聞き、受け止め生きるか、聞いても聞き流し、受け止めずに生きるかによって、分けられました。

 

 どのようなものを用いて家を建てるか 基礎が据えられた後は、柱を立て、鉄骨を組み、家を建て上げます。人生を進めていきます。その時に、何を素材に家を建てるかは大切です。昔あった3匹の子豚 ブー、フー、ウーの子ども番組で、長男ブーは、わらで家を建て、次男フーは板で家を建て、三案ウーは、レンガで家を建てました。オオカミがやってきて、ブーの家を吹き飛ばし、フーの家を吹き飛ばします。でも、ウーの家はふき飛ばされません。

 「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」(12-15節)

 わらや草で建てることは簡単です。しかし簡単に吹き飛ばされ火に耐ええません。木はわらや草よりもしっかりしていますが、火には耐えられません。

宝石とは高価なものを用いるということであり、心を込めて犠牲を払って家を建て上げることです。銀や金は、火で精錬された末にできたものであり、それを用いて家を建てならば、火に耐ええます。主を心にとめ主の御心を尋ねつつ、それに沿って歩むことを指しています。

 

 タラントンのたとえ話 タラントンのたとえ話(マタイ福音書25章14-30節)では、三人の僕が主人より、財産を預けられます。5タラントン、2タラントンを預けられた者たちは、それぞれ、感謝し、それを用いてさらに5タラントン、2タラントンを儲けます。そして主人から忠実なしもべ、よくやったと褒められます。1タラントンを預けられた僕 は、土の中に隠しておき活用せず、1タラントンのままでした主人より叱られ、その1タラントンを取り上げられ追い出されます。

 

 人に対してのあり方 出会う人に対して、どう接するか どのような歩みをしたかが問われます。マタイ福音書25章31-46節では、羊と山羊に分けられます。飢えている人、のどが渇いている人、旅をしている人、裸の人、病気の人、牢に入れられた人に対して心を込めてできることをした者は、羊にたとえられ、用意されている国を受け継ぎなさい、永遠の命に与りなさいと告げられます。反対の行動をした人者は、山羊にたとえられ、永遠の罰を受けます。

 

 残る仕事を 土台の上に建てた家、それが、残るか、残らないか。この世に起きる暴風雨、地震、火の迫りに耐えると共に、かの日に、神が火を持って吟味されます。神による吟味とは、それぞれ、どのように歩んだかを問います。その火で燃え尽きてしまうなら、損害を受け、燃え尽きることなく、ちゃんと残れば、報いを受けます。

 主イエスにある救いは失われることはありません。その主イエスを信じ受け入れた後の歩みがまた大切です。主につながって歩み続けることが大切です。

 

 神の神殿 「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(16-17節)。主イエスを信じた者には、神の聖霊が与えられます。聖霊なる神が内に住んでくださいます。その体は聖霊の宮であり、神の神殿です。神がご支配してくださいます。主なる神をあがめつつ、生きるのです。神の神殿である体、その与えられているもの、与えられている賜物、与えられている人生、それを神と共に歩むのです。神の御心を聞きつつ、それに少しでも応えて歩むのです。

 その神殿である体を神に喜ばれるように歩む。どのように歩むことが御心にかなうかを主に問いつつ、道を選んでゆきます。主に喜ばれる道、良しとされる道を選ぶのです。主に喜ばれない道だということに気が付いたら、引き返すことが大切です。悔い改めを持って、主に立ち返るのです。

 

 イエス・キリストという土台 この確かな土台 主なる神につながって生きるように。イエス・キリストを土台とした後に、確かな歩みを主に喜ばれる歩みをなしていく。わら、草、板ではなく、金、銀、宝石で建て上げていくのです。かの日に吟味されて、燃えてしまわないように歩んでいきましょう。燃えてしまい、なくなってしまうものではなく、残るものを。 

                           (久多良木和夫)   

 

9月19日() 敬老祝福礼拝 

     「わたしの助けは来る」      詩編121編1-8節

 

★長く歩んできた人生

80歳を超えての歩みで、三つの心境があるのではないでしょうか。

 1)人生を振り返って感謝

    今までの歩み、なしてきた仕事、社会への貢献

    ある人は、一人で歩みを通された。ある人は家庭を築かれた

    その歩みを心にとめて感謝

 2)心に痛み

    今までの歩み、不十分でなかっただろうか やりたいと思いつつ、やらなかったこと 人生の歩みにおける悔い、 心の悲しみ 解決できていない問題がある。愛する友との別れ、愛する伴侶との死別 愛する子どもとの死別・・

 3)不安と恐れ    

これから先大丈夫だろうか? 身体の衰え、老後の歩み、病気を抱え

 人生の終着点が近づいてきて、・・  人生をいかにたたむか

 

★どこから

  詩編121編は、都に上る歌とあります。神殿のあるエルサレムへの巡礼の詩です。徒歩での旅、その途中には様々な危険が潜んでいました。このエルサレムに上る旅は、人生の旅でもあり、天の都(天国)に向かっての旅を示しています。

  

「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」(1-2節)

不安、恐れ、それは、私たちの人生の歩みにおいてもやって来ます。 

これからどうしたら良いのか、自分一人ではとてもとても無理だと悶々として下を向きとぼとぼと歩きます。

この詩編121編を記した信仰者は、その時どうしたか? 足元、石、岩ばかりを見ることから、目を高く上げました。ゴツゴツした山々、大きな山、立ちはだかる山々  に圧倒されます。しかし、これらのものを創造され、支配しておられる方がおられる、その方を見上げました。神からの語り掛けを受け止める 「わたしの助けは来る」との語り掛けです。

 

 私たちは、時に、めまいがして、よろめく、重たいものを抱えて、よろめくことがあります。まどろむことがあります。「どうか、主があなたを助けて 足がよろめかないようにし まどろむことなく見守ってくださるように。見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない。」(3-4節)

人はまどろみ、眠る 見守りには限界、見守り続けることはできません。人は、いつか、先に旅立つことがある。しかし、神は、まどろまず、眠らず、私たちを見守り続けていてくださいます。

 

「主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。」(5節)。 敵はとても強い。 自分の力ではとても無理、限界がある その敵とは? 人のこともあるでしょう。目の前の困難な事柄ということもあるでしょう。病という場合もあるでしょう。心を悩ませる問題、心を苦しめる問題 

主は、見守ってくださるお方、覆う陰 敵から守る 母鳥がひな鳥を翼の下に覆って、雨風から守るように

右にいます。右の手(利き手)をやられたら大変、その一番大切な右手がやられないように、右にいて守ってくださる。右にいます。弁護者なるお方、どんなときにも共に立ってくださる。裁判の場で、どんなに攻められても、弁護してくれる弁護士、弁護してくださるお方、どのような時にも決して見捨てません。

主イエスを信じる者の内に住んでくださるお方、聖霊なる神。救いの保証となってくださっている聖霊 共にうめきとりなし祈ってくださる聖霊なるお方

祈れない時にも、内にあって、うめき祈ってくださるお方。とりなし祈ってくださる主イエス、神の右の座にあってとりなし祈ってくださっています。忘れられていないのです。支えられ、祈られています。 なんという感謝でしょう。

 

★太陽、月から撃たれず

  太陽の暑さ 昼間の暑さ 熱射病で倒れてしまう。

  夜は、気温がぐんぐん下がり、凍えるほど 主の守り

「昼、太陽はあなたを撃つことがなく 夜、月もあなたを撃つことがない。 主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように」(6-7節)

 

★わたしの助けは来る

 わたしには助けが必要です。弱さを覚えるようになりました。限界を知りました。主よ、この私を憐れんでください。あなたの支え、励まし、導きが必要です。「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」(2節)

 私の助けは来る、天地を創造された主より。 主がすべてをご支配して、最善を導いてくださる。主を仰ぎ、主の御言葉をいただきつつ、主に祈りつつ、歩んでいきましょう。 主は、助けてくださるお方です。 ハレルヤ! 

                         (久多良木和夫)

 

9月26日() 日曜礼拝 

   「高ぶらず、忠実に」    コリントの信徒への手紙4章1-8節

 

 「だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。」(6節)。  自分がどれだけ偉いか、立派か、優れているか そのような思いにとらわれ高ぶってしまうことがあります。コリント教会の中にそのような人が少なからずいました。自分がもともとどのような者であったか、弱く乏しい者だった。どうしようもない者であったことを忘れ、今の自分の持っているものを誇り、他の人と比べてしまうのです。高ぶらないように。高ぶりが取り除かれるように。高ぶりが打ち砕かれるように。そのためには、神の憐れみと愛を忘れないことが大切です。主の御前に静まり、み言葉を聴く、静ま祈ることを通して、心を主に向けて歩みましょう。

 

「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。(4-5節)。

 人の正義は、間違っていることがあり、曲がって、偏っていることが多いのです。すべてを公正にご覧になれる方は、主なる神のみです。神こそ、正義なるお方。 その方が、すべてをご存じです。神の裁きこそ正しく、間違いがありません。神は、すべてを公正にご覧になり、公正に裁かれます。

 

 使徒パウロは、ただ、神の前に、遜り、神に喜ばれるように歩みました。人の評価ではなく、神の評価、神に褒めていただきたいとの思いで歩み通しました。そこには、神の平安がありました。

 

こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。」(1-2節)

 かつては、迫害者サウロであり、多くのクリスチャンを苦しめました。捕らえ、獄の中に投げこみ、そのことで命を落とした者もいました。取り返しのつかないことをした者でした。復活の主が自分自身に現れてくださった。自分に出会ってくださった。一度見えなくなった眼を、もう一度見えるようにしてくださった。自分の罪を赦してくださった。神の愛と赦しをいただいただけでなく、神の福音の奥義を教えてくださった。

 

 主イエスのもとに、罪の赦しが用意されている。その大いなる奥義、福音を知らしていただいた。神の秘められた計画、奥義は、原語では「ムステリオン」、キリストを通して人類を救う神の計画、救いの奥義です。その福音を宣べ伝える者として立てられました。そのことの感謝がパウロの心の中心にありました。その感謝の応答として、忠実であろうとしました。

 

 管理人は、原語では「オイコノモス」です。管理を託され、神から委託された。それがどんなにか光栄なことか、感謝なことか、もったいないと思いつつ、パウロはその働きを担いました。

 

仕える者は、原語では「ヒュペレーテス」、下役、助手、しもべ、下の漕ぎ手、召使い、奉仕者という意味です。ガレー船には2段式の櫂、その櫂をひたすらこぐ 過酷な仕事、しかもその上の段ではなく、下の段、一番低いとこで、一番きつい仕事です。使徒パウロは、一番下で仕える者、でも、それはみじめで仕方ないではなく、主の御用に当たらせていただくことの感謝をもって歩みました。

 

 

 一番小さい者、神のご愛に与るのにふさわしくない者であった。その資格のない者であった。しかし、神の恵みがこの自分に及び、罪の赦しと神の子どもとしての資格が与えられました。その心からなる感謝をもって、パウロは歩み、その生涯を貫きました。

                          (久多良木和夫)

 

10月3日() 特別歓迎礼拝 

   「救いへの招き」       イザヤ書45章22:24節a

 

★親の愛

 どれだけ親の愛を受けたか、生みの親、育ての親、世話してくれた方の愛情 親は、自分のことを心配する。片時も忘れない。 親とは、そのような存在。 親は忘れない。 わが子のことを 小さい時も、大きくなってからも

   

★天の神さまとは

 天の神さまは、どのようなお方でしょうか? この世界をお造りくださった。

 私たちが住むこの地球、この星、海、山、川、空、太陽、星、 命、人間である私たち、様々な生き物、植物、作物、 食べ物、水、空気・・

 最高の良いもので満たしてくださった。 それを与え続けてくださっている。

  私たちの造り主なるお方です。 私たちに愛を注ぎ続けておられる。

   

★天の神さまは、呼びかけられる

  愛する者を忘れず、心を注ぎ、呼びかけ続ける。

  聖書が指し示す神さま それは、この世界、宇宙、地球をお造りくださった創造主なるお方 人が想像して作り上げた神々とは違う。

 「わたしは神、ほかにはいない。」(22節b)

  私たち一人一人を心にとめて、愛をもって呼び掛けていてくださっている。

 

本日の聖書箇所 特に22節

 「地の果てのすべての人々よ わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。」

  地の果てのすべての人よ 全世界の造り主なりお方 ある特定の国だけに通用する神さまではない。 すべての人よ すべての人に呼び掛けられている。

その中に、私たちが含まれている。あなたが、そして、この私も含まれている。

  心からなる呼びかけ、愛をもっての呼びかけ

   あなたに呼び掛けている。 私は、忘れられていないのだ。

   天の神さまは、呼びかけ続けておられる。

  

★天の神さまからの呼びかけ その内容は?

  「わたしを仰いで、救いを得よ。」

  口語訳では、「わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。」

  新改訳では、「わたしを仰ぎ見て救われよ。」

 仰げ、仰ぎのぞめ、仰ぎ見よ とはどういうことでしょうか?

  カーテンを閉め切った部屋  

 特に遮光カーテンを閉め切ると 外からの光はほとんど入って来ない。

  雨戸を閉め切ると部屋の中は真っ暗

  雨戸をあけ、カーテンを開けると、太陽の光が差し込み、暗かった部屋は明るくなる。 閉め切った雨戸をあける、閉め切っていたカーテンを開ける。

  神さまからの呼びかけがここにある。

  「救いを得よ」 「救われよ」との呼びかけ

 

★天の神さまが指し示される救いとは?

  一言でいえば、天の神さまと共に歩む人生ということです。

  世界を造られ、すべてを支配しておられる天の神さま その方と共に歩む。

   この世のすべて、そして来る世である天の御国を支配しておられる方

    その方の御手の中で憩いつつ、歩むこと

   

★キリスト教の中心は、何でしょう?

 それは、神の愛であり、あの十字架のキリストです。

 神は、私たちを愛してやまない方です。私たちを顧みてくださる方です。心にとめ、見捨てない方です。

 私たちの救いのために独り子であるイエス・キリストをこの世にお遣わしくださいました。 御子イエスは、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかってくださいました。 あなたの罪の代価はすべて支払われた。

 あの十字架の主イエスの苦しみと身代わりの死をもって。

 

★救いへの招き

  「地の果てのすべての人々よ わたしを仰いで、救いを得よ。」

  すべての人に呼び掛けられている招きの言葉 神からの呼びかけ、招き

  私たちに呼び掛けられている。  私に、そしてあなたに。

                          久多良木和夫

 

10月10日() 特別歓迎礼拝 

     「赦し、愛、安心」     ルカによる福音書7章36―50節

 

イエスは一人の女性に「赦し、愛、安心」を与えてくださり、ファリサイ派のシモンにも与えようとされました。シモンは評判になっているイエス様を自分の家の食事に招待しました。。

ファリサイ派の人と同じ席で食事をするとき、主イエスの言葉尻をとらえ陥れようとしている人たちがいることを主は知っておられました。

 

<女とイエス様>について

 「罪深い女」とあり、名前も記されていません。人々は「あれは、罪深い女、不道徳な女だと」見ていたのです。 47節「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」との主イエスのことばから、女は既に主イエスの話を聞いていて、このお方によって、罪の赦しの約束が自分に与えられていると確信していました。

その感謝が大きかったために、冷たい視線を浴びても主イエスへの元へ行き、感謝を示しました。

彼女は、大事な香油の入った石膏の壺を持って行きました。主の足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗りました。。溢れる愛の表れでした。

 

 ところで、 女は主イエスの正面から、接することはしませんでした。

38節:「後ろからイエスの足もとに近寄り」。自分などは、とても正面からはできない、人の前にも、神さまの前にも「私は罪深い」との自覚が大きかった人なのです。ですから、後ろからでした。せめてうしろからでも良いですから、主に感謝を捧げたい思いでした。

ここを読むとき、主イエスは、後ろからさわって良い方なのだと、知らされます。一人静かに祈る祈りに耳を傾けていてくださいます。主なる神さまの耳はこの空よりも大きく、携帯、インターネットの電波より早くキャッチしてくださいます。  

泣きながら:人前であるにもかかわらず、涙が出てきました。

自分のみじめさを悲しむとともに、喜びの涙です。罪を赦された深い感謝は、涙となりました。

女は自分のような者がイエスに近寄ったら、きっと、もっと皆から非難される、いじめられるかもしれない、それでも、主イエスのそばに行くことを選びました。

 

50節:イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました。主イエスは,罪を赦された女の新しい歩み出しを後押しして下さいました。

この女性は感謝を表すことを、選び取りました。これからも、この選び取りを続けることにより、しっかりとした人生へとあゆみだすことができるのです。

 

<シモンとイエス様>について

「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」というシモンの心を見抜き、主は、金貸しから、500デナリ帳消しにして免除された人と、50デナリ帳消しにされた人のたとえを語られました。疑いをもち、少しのもてなししかしなかった人‐少しの愛しか示さないシモンをも主イエスは見捨てておられませんでした。

イエス様は、多くても、少なくても、借りたものは、すべて返さなければならないという、前提のもと語られています。

 

人は、この地上の時間が終わったら、私たち一人一人に命を与え、この地上で生きる時間をくださった神さま、救い主イエスをこの世に送られた天の神さまの前に立つことになります。その前に、あと9倍も受けることができるはずのものを受け取らないならばとてももったいない人生を歩むことになります。

 

神様の光に照らされる時、罪のない人はいません。皆神様から借金しているのと同じです。しかし、気前の良いこの貸主は、全て帳消しにしてあげると言われるのです。

それは、ただ一人のお方、神の御子が、犠牲となり、罪の罰を一人でお受けくださることによってです。主イエスは初めから「赦し、愛、安心」を持っておられました。

                           久多良木志津子師

 

10月17日() 特別歓迎礼拝 

   「荒波の上で出会う」  マタイによる福音書14章22-33節 

 

ペトロは水に沈んでいる。そのような危機の中でペトロは精いっぱい手を伸ばしている。それに応答して、イエス・キリストは自分の手を伸ばして、溺れているペトロの手をしっかり握っておられるという一枚の絵があります。それは、私たちの人生の場面そのものを描いているのではないでしょうか。人生は海の上の舟にたとえられます。私たちの人生は、人生の危機の中で、湖の舟のようによく揺れてしまい、やって来る波によって恐れてしまいます。船が今すぐ沈んでしまうかも知れない、しかし、後ろにも前にも行けない。どうしたら良いか悩みます。

 

 弟子たちは、イエス様がやっててくださったのに幽霊だと思って恐怖感を抱きました。私たちもイエス様が来てくださったのに幽霊だと思って恐れているのではないでしょうか。

キリスト信仰は、人生に解放と自由を与えるものです。イエスは、私たちに解放と自由を与えてくださるお方です。イエス様は幽霊ではなく私たちの魂を救ってくださる方です。

 

 イエス様は、荒波の最中にその真ん中を歩いて雨でずぶ濡れになり弟子たちのもとに来てくださいました。 私たちは、時に目の前の嵐を鎮めてくださいと全能の神に求めます。主は、私たちがお祈りするとき、私たちの人生を力強く導いてくださる方です。

 

 イエスは、様々な苦難を経験し最後には悲惨な十字架の上で死なれました。

天の神さまは、イエス・キリストを紹介し、今も苦難の中を歩んでくださり、心と魂と人生を新たに生まれさせ喜びの中で人生を導く方だと教えておられます。それは、十字架につけられたイエスに出会ったときに、私たちは神さまから愛され、私たちがどこにいても、どのような状況にあっても、共にいらっしゃるお方 そのような神であると体験できるからです。

 

 神は、インマヌエル、共にいてくださるお方です。嵐の真ん中に来る必要のない方なのに、なぜ、やって来られたのでしょうか それは、我々と同じ苦難を受けるためであり、私たちの魂が救われるためではないでしょうか。

神の全能は、我々の問題、波を沈めてくだるだけでなく、魂そのもの、我々の存在そのものを、人格そのものを救うことのできるお方です。

問題の解決は、ありがたいことですが、心と魂が救われたという体験をすることはもっと大事なことです。 

 

 直面している危機の中で、やってきて、その痛みを分かち合ってこの痛みを共に氏くださいます。神が私と交わり、苦難を乗り越えて、その中で、私たちの魂が救われる体験をするのではないでしょうか。 

 

 十字架にかかってくださったイエス様は、私たちも荒波の歩くことができる、嵐に沈まない、どんな嵐が来ても沈まないと、嵐の中にも勝利できると教えています。また、勝利するだけではく、たとえ荒波に怖くて沈んでも大丈夫です。「主よ、助けてください。」とイエスさまに手を伸ばすならば、その手を取って救ってくださいます。

         楊 周漢(ヤン ジュハン)師(折尾愛真学園宗教主任牧師)

 

 

10月24日() 特別歓迎礼拝 

  「天には大きな喜びがある」  ルカによる福音書15章11-32節 

 

聖書は「失われた人」が神のもとへ帰ってくる時に、天には大きな喜びがあることを伝えています。私たち人間は、創造された時、神様のみもとにおり、平和のうちに生きていました。しかし、はじめの人・アダムによって罪が人の中に入った結果、人間は神様から離れ、神様の愛と恵みに満ちた関係性から離れてしまいました。しかし、神様はイエス・キリストを通して救いの道、神様との和解の道を開いてくださいました。主イエスを信じることにより、私たちは神のもとへと帰ることができるのです。

 

「放蕩息子」の物語は、二人の息子を限りなく愛する父の愛、神の愛について語ります。父の言いつけを守ってよく働く兄と、いい加減な弟がいました。弟は、父が存命であるにも関わらず、自分の相続する分の財産を父から貰い、自分の好きなように生きる道を選びました。父のもとを離れ、父から与えられた豊かな財産を、自分の思うままに使い潰してしまうのです。その時、弟のいた地方に飢饉が起こりました。苦しい状況の中、弟は父のことを思い出します。父のもとは豊かであり、安心と平和が約束されていました。雇われ人でさえ、飢えを知らなかった父のもとに、弟は帰ることを選びます。あれだけ自分本位なことをしたのだから、無条件に受け入れてもらえるとは思わなかったでしょう。しかし、方向を変え、父のもとに帰るのです。悔い改め、とは向きを変えることです。悪い心を自分で入れ替えるというよりも、神様の方へと目を向けることを意味します。

 

 父は父で、弟の帰りを待っていました。「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(20節)。帰ってきた弟を見つけると、遠くであったのに自ら走り寄って抱きしめ、接吻をします。ボロボロで汚れていた弟を、構いもせずに抱きしめるのです。そして、自分の子であるというしるしを、弟に与えます。「肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」(23-24節)

 

兄はそんな父の姿に腹を立てます。今まで自分本位に生きてきた弟を、赦して受け入れたどころか、祝いの宴会さえ開いている。しかし、父は兄にも自分から近づきます。「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部、お前のものだ」。兄にもまた、父の愛と恵みの中にいることを教えます。

  

 神の愛と憐れみの姿がここにあります。私たちは自分本位で罪を犯し、神から離れて生きてきました。父である神のみもとには、平和と慰めがあります。私たちも、弟のように神のもとへ帰りましょう。兄のように、神のもとに宿り続けましょう。

                          (富山希望師)

 

10月31日() 特別歓迎礼拝 

   「最後に引き出される者」  コリントの信徒への手紙一4章9-13

   

 主イエスを信じてクリスチャンになったパウロ、宣教者となったパウロ

その歩みの中で、様々な苦しみを受けました。みじめだ、大変だと思ったでしょうか? パウロも人間ですから、そう思うこともあったことでしょう。

でも、それで失意落胆したのではなかったことでしょう。主と共に受け留めた。主に祈りつつ、主より慰めをいただき、励まされて歩んだことでしょう。主に大変さを訴え 主に支えていただきつつ。そこから逃げ出すことはありませんでした。その大変さを心にとめつつも、主によって生かされていることを感謝しつつ。

 

★使徒パウロは、これらの事柄を受けてきた。

 ・飢え、 渇き、 着る物がなく ・虐待され、 身を寄せる所もなく、

・苦労して自分の手で稼ぐ。   ・侮辱される

・迫害される ・ののしられる。 ・世の屑、すべてのものの滓とされる。

 それらのことを受けつつ、歩んだ。

  そのパウロを通して、宣教の業がなされた。

   第1伝道旅行、 第2伝道旅行、 第3伝道旅行

  

★苦難のしもべ

  苦難のしもべを示す聖書の箇所の代表

○イザヤ書53:1-10

 ・見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

 ・軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。

 ・彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

  軽蔑され、見捨てられた。 痛みを負い、病を知っていた。 無視される   

  捕らえられ、不当な裁判を受ける。 罪のない方が、有罪と宣告される

  鞭打たれ、辱めを受ける、唾を吐きかけられ、罵りを受ける、嘲りを受ける。 このことを受けられたのは、だれか? それは、主イエスご自身です。

 それを承知で、来てくださり、それを引き受けておいでくださった。そしてその道を進み、引き受けてくださった。 十字架の道

 それは誰のため、だれの罪、咎のためでしょうか。 それは、私たちの罪、咎のためでした。

○53:5

 53:5 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 その受けた懲らしめによって平和が  その受けた傷によって、癒しが

  罪の赦し、神の子としての資格、特権が  神との平和

  魂の暗やみを打ち破っていただいた。

    

★最後に引き出される者と  

  最後に引き出され 見せ物

◎9節  

4:9 考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。

 最後に引き出される者

 見物人がたくさん集まる 見せ物となる。死刑囚のように引き出される 最後に引き出される、 次々と引き出される者たち、 そのしんがり その一番最後に。 見物人たちが集まって、その最後の者を見届けようとする。 見物人にとっては、迫害のクライマックス

 当の本人、これで、この命は終わるだろう。この信仰を貫く。 この信仰を捨てず。 最後の最後まで、主に信頼し、すべてをおゆだねして歩む。

 見物人でない人もいる 心配して、そっと、やって来た人たちもいる。

  家族がいる、信仰の友がいる。全く、偶然にその場にやって来た人もいる。

  家族、信仰の友の祈り 守られるように、支えらえるように、その最後を見届ける。 その大変さの中においても、主に従い通したその人

 全く偶然にそこにいた者、いやその時には見物人としてそこに来た者もいる。

  いつか、自らの身が、同じような立場になった時、

  大変さの中に置かれた時、 もう自分では、自分を支えることはできない。

    お手上げ、 絶体絶命の時

   その最後に引き出された人のことを思い出す。

    見せ物のようになった それでも、その困難の中で、主に寄り頼み

    平安をいただいて、すべてをゆだねて歩んだ。

   自分に、今必要なもの、その平安、そのゆだねること。

   後に続く者に光を指し示す。

 

  最後の最後、そんなに立派には歩めないかもしれない。

  生かされている時に、主に祈りつつ、主に従う歩みをしつつ、

  平安、希望、感謝 それをいただきつつ、その歩みをなしていきましょう。 

  主は共にいて支えてくださるお方です。

                         (久多良木和夫)

 

11月7日() 聖日礼拝 

   「キリスト・イエスに結ばれた生き方」 

              コリントの信徒への手紙一4章14-21節

 

★使徒パウロの思い

 その第一は、地中海沿岸の町々で伝道旅行をすることができたこと、そして、その結果、主イエスを信じる者が起こされたことの感謝です。

 第二は、かつて、ユダヤ教徒として、徹底的にクリスチャンを迫害していたにもかかわらず、徹底的に否定していた主イエスが自分に出会ってくださったこと、そして、主イエスを救い主と受け入れ信じたことです。滅ぶべき者が今生かされていることの感謝です。

「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」(コリント一15:9-10)

 

★自分に倣う者になりなさい。

 「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。」(16節)。普通はなかなか言えない言葉。もし言えるとしたら、2つの可能性があることでしょう。

 第1は、うぬぼれです。自分は素晴らしい、自分は大したものだとのうぬぼれです。パウロはそのような者ではありませんでした。

 第2は、感謝です。 神の愛に生かされ、多くの恵みをいただいている。そのことを感謝し、それに真実に応答して歩み、裏表がなく、人に見える部分でも、見えない部分でも、変りがない。パウロは、その歩みをしていたことでしょう。

 

キリスト・イエスに結ばれた生き方

 「至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。」(17節)。主イエスに結ばれて歩んだパウロの生き方とはどういうものだったでしょう。

 第一は、主の愛に包まれてその愛に包まれ、支えられて歩む生き方です。 ○エフェソ人への手紙2章1-5節。 以前は、自分の過ちと罪のために死んでいた。肉の欲望の赴くままに歩み、神の怒りを受けるべきものだった。しかし、今は違う。神がこの自分を特別に豊かに憐れんでくださった。怒りを受けなくて済む者にしてくださった。恵みによって救われた。主の愛に包まれて生きる者にされた。その喜び、感謝です。

 第二は、喜び、祈り、感謝の生き方です。 ○テサロニケの信徒への手紙一5章16-18節。 主にあって今の時を、今日を喜んで歩む。命、人生、使命をいただき、主に向かって主イエスの名をもって祈る幸いです。主よ、感謝します。これも感謝します。あれも感謝しますと。

第三は、すべては最善に導かれることを心にとめての生き方です。 ○ローマの信徒への手紙8章28節。 万事がとなるように導かれる。パウロ自身も、すべてを支配しておられる主にゆだねつつ、その時には、わからないことも主にゆだね歩んだのです。

第四は、恐れのない生き方です。 ○ヨハネの手紙一4章16-19節。 恐れはやって来ます。恐れは、離れようとしない。付きまとう。恐れの心をずっと引きずることがある。主がその恐れを追いやり消し去ってくださいます。主がすべてをご支配しておられる。その主におゆだねして歩んだのです。

第五は、キリスト・イエスの僕、兵士としての生き方です。 ○テモテへの手紙二2章3-4節、4章5-8節。 主人である主イエスは何をお望みであるか、それをいつも心にとめて歩んだ。それは一番難しいことです。なぜなら、私たちは自分の願いを中心にして歩むからです。使徒パウロは、いつも主を見上げました。主より託された使命を心にとめました。福音宣教の働きにおいて時に様々な困難があった。その中にあっても、福音宣教は自分の使命だ。 この戦い、この使命を全うするのだと歩んだのです 

 

 使徒パウロ自身は、その歩みを貫き、その足跡を残してくれました。私たちそれぞれ、主イエスに結ばれた生き方をなし、主の救いに与ったことを感謝して、神の愛と恵みに応答して歩んでいきましょう。

                            久多良木和夫

 

11月14日() 聖日礼拝 

      「主は心によって見る」     サムエル記上16章1-13節

 

本日の聖書は、8人兄弟の末っ子の少年ダビデが選ばれたことを伝える箇所です。なぜ、ダビデが選ばれたのか、不思議です。理由はどこにあったのでしょうか? サウル王が退くことになり、次の王を立てなければならなくなりました。王を選ばれるのは、神さまご自身でした。

 

 サムエルさえ、見謝りました。長男エリアブが一番ふさわしいと思いましたが違いました。次男アビナダブでも、三男シャンマでもありませんでした。 しかし、主はサムエルに言われた。「姿や背の高さに目を向けるなわたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(7節)。口語訳では、「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。新改訳では、「人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」です。

 

主は、心をご覧になりました。では、心の何をご覧になられたのでしょう。 

心にはいろいろな心があります。忍耐強い心、忍耐力がない心、素直な心、素直でない心、やさしい心、やさしくない心、広い心、狭い心、こだわる心、こだわらない心、明るい心、暗い心と様々な面があります。

 

 サウルが王を退けられた理由はどこにあったのでしょうか。サウルは、王になった後、だんだん、自分勝手になっていきました。自分を王として選び、立ててくださった神さまを見上げることが少なくなりました。おごりが起きてきたのでしょう。主に従う心を失っていきました。

 

選ばれたダビデの心は、純真で、すなおだったのではないかと思います。ダビデには、従う心、主を見上げる心、主から目を離さない心、悔い改める心があったことでしょう。

 

私たちも主に喜ばれる心を持ちたいものです。忍耐強い心、素直な心、やさしい心、広い心、明るい心、従う心、主を見上げる心、主から目を離さない心、悔い改める心です。 

 

 

心をご覧にある主は、心を造り変えてくださるお方です。主によって、心を造り変えていただきましょう。

                          久多良木和夫

 

11月21日() 聖日礼拝 

   「わたしの愛にとどまりなさい」 ヨハネによる福音書15章917節

 

ヨハネ福音書15章は、主イエスが十字架にかかられる前、弟子たちに語られた言葉です。特に、主イエスはご自身が去った後、弟子たちが地上で歩んでいくために、必要なことをお教えになりました。主イエスは弟子たちに「わたしの愛にとどまりなさい」と言われ、具体的に「わたしの掟を守る」ようにと言われます。

 

主イエスの愛のうちにとどまり続ける、ということは、主イエスの掟を守るということなのです。主イエスの掟とは何でしょうか。掟、というと律法が思い浮かびます。イスラエルの人々は神様から与えられた律法を守り、神の民として歩んでいました。しかし、律法は人間を明らかにし、それを守れる人と守れない人が生じました。結果として、神を愛するための律法だったはずが、律法によって人が互いに裁き合うようになってしまったのです。主イエスの掟とは、裁くための掟や人を罪に定めるための掟ではありません。愛の中にとどまるための掟です。それは具体的には「互いに愛し合いなさい」という掟でした。

 

また、主イエスは愛の出発点は父であると言われます(9節)。父なる神と主イエスが愛で結ばれた関係であるように、私たち人間にも、父なる神の愛が主イエスを通して、注がれています。愛の出発点は神様であり、私たちは互いに愛し合うためにも、神の愛を知る必要があるのです。父なる神の愛は「創造主」としての愛です。私たち、被造物を愛し、祝福し、必要を与え恵まれる愛。また、罪を犯した私たちを救うために、ひとりご主イエスを送られる愛です。私たちに目を注ぎ、御顔を向けてくださる愛です。

 

また、主イエスの愛は「救い主」としての愛です。私たちが滅びることを望まず、救われるために、ひとりごとして自らの命をなげうち、十字架で私たちを贖って下さった愛です。私たちはそのようにして、神の愛の意志による働きがなされていることを知ることができます。よく言われることですが、愛は「感情」の側面よりも「意志」の側面が強いと言われます。感情で左右される「愛」というのは不安定なものですが、意志に基づいて注がれる愛というのは、たとえどのような状況であっても、変わりません。神の愛はそのような愛であり、能動的な愛、意志の愛です。私たちもまた聖霊によってその愛を注がれており、聖霊によって「神の愛のわざ」に参与できます。「互いに愛し合う」これが、主イエスの掟であり、この神の愛が注がれているところに生きる、そこに神の国が表れていきます。

                          富山希望師

 

11月28日() 聖日礼拝 

   「古いパン種を取り除け」 コリントの信徒への手紙一5章1-13節 

 

使徒パウロは、今日の聖書箇所のところで、主の救いに与った者のことを言っています。主イエスの十字架の死によって、どうしようもない罪、そのために滅ぶ身であった者が、その罪を赦され、神の子どもとされ、大いなる恵みに与ったにも関わらず、神の愛をいただきながら、それを踏みにじるようなことをしていたことに対して、使徒パウロは厳しく語ったのです。

 

 「 わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。」(11-12節)

 

使徒パウロは、陥る可能性のある悪しき6つのことに対しての警告です。

①みだらな者、不品行な者

 コリントの教会の中に、性的不品行、異性との間違った関係 そのような歩みをなす者たちがいたのです。性的不品行 それは、時に人をその中に引きずり込む力を持ちます。その虜になります。そこから抜け出せなくなり、次々とそのようなことを重ねるようになります。

②強欲な者、貪欲な者

 あれも欲しい、これも欲しいと、自分に与えられているものに満足できないのです。それは、物質的なことだけでなく、自分の家庭、家族、職場、人間関係でもあります。今与えられている境遇に満足せず、あれがない、これがない、あれが欲しい、これが欲しいと思うのです。

③偶像を礼拝する者、偶像を礼拝する者

 真の生ける神こそ、世界を造ってくださった方であり、愛の神であり、祝福の神です。ご自身の独り子を犠牲にして、救いの道を開いてくださったお方を知り、その主を信じて、滅びから救いに与ったにもかかわらず、偶像の神を慕い、人を惑わす神、人が祭り上げた神々、それらの偶像を再び礼拝するのです。 

④人を悪く言う者、人をそしる者

 人のことで悪い噂を立てる。たとえ何らかのことがあったとしても、人の悪口を人に言いふらすことでは決してあってはなりません。主は人の悪口を言うことをお嫌いになります。

⑤酒におぼれる者、酒に酔う者

 酒におぼれる。アルコールがなくては生きていけない。アルコールが入ると人格が変わってしまう。自分自身、制御が効かなくなりのめり込んでしまいます。薬物、覚せい剤、そのようなものに呑まれてしまうのです。

⑥人の物を奪う者、略奪する者

 人のものを奪う。力で、またはごまかして、人のものを奪う。 

 

 「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。(7-8節)

 古いパン種とは、以前に使っていたパン種のことで、救いに与る前の考え方、自分の思考パターン、肉の思い 悪意、邪悪、不正、邪悪な思い、不正な思いです。

 

 主の救いに与りながら、教会の中で、そのような歩みをあくまでも続ける者がいたなら、そのままにしてはいけない。その間違いを明らかにし、忠告、それに従わない時には、さらに厳しい処置をせよと語られています。 

 

 では、個人においてはどうしたら良いのでしょうか? 主の前にお祈りをして、自分の内にある悪意、悪い思い、邪悪、不正の思い、考え方があることを認め、悔い改めることです。主よ、この私のどうすることもできない思いを主の前に認めます。主よ、主にあって、それを捨て去ります。主よ、助けてください。聖霊なる神のご支配の中で、この私を守ってください。導いてくださいと祈って、主に従って行きましょう。

 クリスマスアドベントの第一週に当たり、主に喜ばれる心をいただき、進んで行きましょう。

                          久多良木和夫

 

12月5日() 聖日礼拝 

      「マリアへのみ告げ」    ルカによる福音書1章26-38節

 

み使いガブリエルは、マリアに語り掛けます。マリアはその時10代半ばでヨセフと婚約していました。人生経験も乏しい女性であったにもかかわらず、神はこの者こそ、御子イエスの母なるべき者と選ばれたのでした。マリアの心の奥底に純粋さ、真実、神を見上げる信仰を見たのでしょう。

 

すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」(30節)。私たちも時に不安や恐れに包まれることがあります。私たちにも神の愛、そして恵みが注がれています。

 

あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。(31-32節)。イエスとは「神は救い」という意味です。「それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ書7章14節)の預言が成就したのでした。

 

 クリスマスの出来事において、父なる神のもとから御子イエスが遣わされます。そこに聖霊なる神も共に働かれました。天使は答えた。聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。(35節)。聖霊なる神により、おとめマリアは胎内に御子イエスを宿したのです。クリスマスの出来事は、まさに三位一体の神がなしてくださったものです。

 

 悩むマリアに対して、ガブリエルは告げました。「神にできないことは何一つない。」(37節)。人から見て不可能だと思われることであっても、神にとっては不可能なことはないのです。

 

 マリアは信仰をもって、献身の思いを語りました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(38節)と。神のみ旨、ご計画は素晴らしいものです。そのことが進められるために、自分が必要なら捧げますとマリアは応答し、私の思い、願い、計画、将来、人生、命を全て捧げたのでした。 

                                                    (久多良木和夫)

  

12月12日() 聖日礼拝 

      「あけぼのの光の訪れ」   ルカによる福音書1章67-79節

  

 このザカリアの賛歌は、最初の言葉「ほめたたえよ」のラテン語からベネディクトスとも呼ばれます。ザカリアは、悲しみの歌ではなく、喜びの歌を神に向かって歌いました。神が、彼の晩年に、幼子ヨハネを与えてくださったからです。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。」(68-69節)

 

 この賛歌の中には、敵からの救いのことが記されています。「それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。」(71節)。敵の存在が私たちを悩まし苦しめます。それは、実際に自分を苦しめる人のこともあるでしょうし、自分自身の心、病気、人生の最後にやって来る死の問題のこともあるでしょう。ユダヤの民にとっては、周りの力強い国々でした。そのためにエジプトでの奴隷、バビロン捕囚の苦しみも味わいました。しかし、主は決して見捨てませんでした。

 

 「主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」(77節)。主によって備えられる救いの根源は「罪の赦し」です。罪の赦しをいただくことで、初めて神との断絶が取り除かれるのです。そして、神の子どもとして感謝のうちに歩むことができるのです。

 

 「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。(78-79節)。あけぼのすなわち朝日の太陽の光は、夜の暗やみを追い出します。夜の闇よりも暗い闇があります。それは、この世の悪であり、不正です。私たちの心に深い闇をもたらす様々なものがあります。一番深い闇は神に敵対するサタンによって作られています。サタンは、私たちを真の神であるお方、祝福の主から遠ざけようとします。クリスマスの主であるイエス様は、そのサタンのもたらす闇を追いやります。また、サタンを打ち砕くことのできるお方です。

 

 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ9:1)。預言者イザヤの預言からおよそ700年後にクリスマスの出来事が起き、大いなる光がやって来ました。それは神によって引き起こされました。

 

 「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:5)、「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(口語訳)、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(新改訳)。光である主は暗やみを打ち破ることがおできになります。

 

 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12) 真の世の光である主イエスを信じ、受け入れる者は、暗闇の中を歩み続ける必要はありません。主のご支配の中に生き、心に命の光をいただき、光の主と共に歩んでいきましょう。

                          (久多良木和夫)

  

12月19() クリスマス礼拝 

  「救い主の誕生の知らせ」   ルカによる福音書2章8-20節

 

主の天使は、ベツレヘムの野で羊を飼う羊飼いたちに、救い主の誕生の知らせを伝えました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(10-11節)。町の人たちから見下げられていた羊飼いたち、いつも知らせは最後だった羊飼いたちに最初に知らされました。町の人でも裕福な人でも力ある人でもなく、羊飼いたちに知らされたのでした。メシアとはキリスト、すなわち特別に選ばれた方であり、救い主という意味です。

 

 神は私たちに変わることのない愛を注いでくださっています。神は、この地上に住む私たちに救い主イエスをくださいました。それは、その愛の結果であり、証明です。

 

 イエス様は、赤ちゃんとして、家畜小屋で生まれ、粗末な飼い葉おけの中に寝かされました。宮殿の中でも最高のベッドでもありませんでした。いと高きところに座しておられる方が一番低いところに下ってきてくださいました。

「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(12節)。羊飼いたちは出かけていきました。もし宮殿であったら、行かなかったかもしれません。なぜなら入れてもらえないに違いないからです。

 

 「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(20節)。羊飼いたちは、自分たちのことを心にとめてくださっている神がおられること、しかも特別に愛していてくださっていることを知り、心から喜び感謝しました。

 

 神は、私たちに喜びを与えるために、クリスマスの出来事を起こして下しました。一時的な喜びを過ぎ去ってしまします。様々な困難、行き詰まりを経験します。そして、喜び、希望を失います。神は、私たちの一番深いところにある悩み、苦しみを知っていてくださいます。心の暗やみに光を与えてくださいます。

 その光は救い主イエスを通して備えられました。

                          (久多良木和夫)

 

12月26日() 年末感謝礼拝

       「御言葉を待ち望みます」   詩編119編113-120節

 

 波の中で寒くなる中で、必要なものは暖です。多くのものがある中で、すべてを選ぶことはできません。これを選び、これを選ばないということが必要です。何が大切で、何がそうでないかを教えてくださいと主に祈りましょう。

 

 身体にとっては食べ物は欠かせません。心にとっては休息、憩いが欠かせません。この自分が大切な存在として扱われている、自分は必要とされている、愛されているということも欠かせません。

 

心の分かれている者をわたしは憎みます。あなたの律法を愛します。」(113節)。他の人というよりも、自分自身が一つ心で歩むことを願っています。これこそ確かであるという道は、聖書の御言葉によって与えられます。

 

「悪事を謀る者よ、わたしを離れよ。わたしはわたしの神の戒めを守る。」(115節)。主の御言葉に従って歩むときに、悪事からも逃れることができます。 

 

あなたの仰せによりすがらせ命を得させてください。」(116節)。25節には「わたしの魂は塵に着いています。御言葉によって、命を得させてください。」とあります。主に対する切なる願いです。ただ助けてくださいということではなく、主の御言葉によって、この私を生かしてくださいという願いです。

 

 「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」(105節)。主イエスの御言葉は、私たちに大切なことを教えます。イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイによる福音書4章4節)。

 

 「あなたはわたしの隠れが、わたしの盾 御言葉をわたしは待ち望みます。」(114節)。主は最高の料理を作って待っていてくださいます。それは、み言葉という料理です。この料理は私たちの魂を満たしてくれます。この料理を慕い求め、それをいただくことを何よりも大切にしたいものです。

                           (久多良木和夫)