2013年 9月―12月

 ☆2013年9月8日(日) 

  「ヨルダン川を渡る」 ヨシュア記3章1-17節

 

 大切な何かを成し遂げようとする時、目の前にむずかしい問題が立ちはだかることがあります。その時、私たちは戸惑います。

 

ヨシュアを初めとするイスラエルの民も、約束の地カナンを前にしてヨルダン川という川が横たわっていました。しかも水かさの一番多い時でした。

 

 ヨシュアが祭司たちに、「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡

れ」と命じると、彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ。(6

節)。契約の箱(十戒の石板を入れた箱)を担いだ祭司たちが、先頭とな

りヨルダン川に入ると川の水はせき止められ、民はヨルダン川を渡ること

ができました。ヨシュアたちは特別な奇跡を経験しました。

 

 十戒は、天の神さまから与えられた特別な御言葉です。聖書の御言葉を大切にして歩む時、不思議なことが起こされるのです。

 

 新島譲の妻の新島八重を主人公としたNHKの大河ドラマ『八重の桜』の中で、先日、「主われを愛す」という讃美歌が歌われる場面がありました。

  Jesus loves me this I knowFor the Bible tells me so

  Little ones to Him belongThey are weak, but He is strong. 

  Yes, Jesus loves meYes, Jesus loves meYes, Jesus loves

  me The Bible tells me so

 

  私たちは強く見えても弱い者です。でも、天の神さまは、そんな私たちを愛し、聖書の御言葉をもって語り掛け、助け導いてくださいます。

                         (久多良木和夫)  

 

 

 ☆2013年9月15日(日)

    「救いのための道」    

      使徒言行録16章25-34節

 

  本日は、敬老祝福礼拝です。75歳以上の方々をお招きしての礼拝を感謝します。先ほど、75歳以上の方々、今日ご出席の皆様そして出席できなかった関係の方々、およそ50名の方々の名前を挙げてお祈りしました。感謝です。

 

聖書には、「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。」(レビ記19:32)という御言葉が記されています。

 

 本日の聖書の箇所には、真夜中に起きた3つの出来事が記されています。第1は、「真夜中の讃美」です。パウロとシラスという人物は、祈りと讃美などとてもできるような状況ではない時に、感謝の祈りと讃美を捧げました。しかもその場所は牢の中でした。彼らは、絶望と思われる状況の中でも平安があり、感謝がありました。それは、主(天の神さま)からの恵みによるものでした。

 

 第2は、「真夜中の地震」です。突然の出来事で、囚人たちが逃げてしまったと思った看守は、その責任を取らされると思い、自殺しようとしました。しかし、「自害してはいけない」というパウロの大きな声で思いとどまりました。彼はその時、強いと思っていた自分が弱い者であると知りました。

 

 第3は、「真夜中の喜び」です「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」 (31節)と二人は、看守に勧めました。その夜、看守は家族と共に洗礼を受け、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだのでした。

 

 天の神さまは、イエス・キリストをこの世界にお遣わしになり、救いのための道を用意してくださいました。そして、今も私たち一人一人を覚え、その人生に目を留めてくださっています。

                          (久多良木和夫師)    

 

 

☆2013年9月22日()                       

  「エリコの城壁を打ち破る」      

                          ヨシュア記6章1-21節

 

  日本が今かかえている難しい課題はたくさんありますが、その中には、福島第一原発事故の処理のこと、一千兆ほどの借金のことがあります。世界が今かかえている難しい課題もたくさんありますが、その中には、環境の破壊、汚染、飢餓の問題があります。個々人においても、取り組み、克服していかねばならない課題、難しい課題があることでしょう。

 

ヨシュアとイスラエルの民は、約束の地カナンに入って行き、最初に征服すべき町は「エリコ」でした。エリコという町は頑丈で高い城壁で囲まれていました。その町を攻め落とすことはとてもむずかしく、不可能に思われたことでしょう。

 

 しかし、天の神さまのヨシュアへの語りかけは、「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。」(2節)というものでした。ヨシュアと民は、神の命じられた通り、契約の箱を担いだ祭司たちの後について、第1日目から第6日目までは、毎日1度だけ町を回りました。民は一言もしゃべることなく行進しました。第7日目は、7度回り、雄羊の角笛の音を聞いたとき、民は鬨の声をあげました。すると城壁は崩れ落ちました。そしてエリコの町を攻め落とすことができました。

 

 『ジェリコの戦い』は、ジョシュア(ヨシュア)のジェリコ(エリコ)攻略を歌った有名な黒人霊歌の一つです。その中の繰り返しの歌詞は以下のようなものです。

  Joshua fit the battle of Jericho Jericho Jericho 

  Joshua fit the battle of Jericho And the walls come tumbling down

   ジョシュアはジェリコで戦った ジェリコ ジェリコ
    ジョシュアはジェリコで戦った すると砦の壁は崩れて落ちた!

 

 目の前の城壁がどれほど難攻不落のように見えても、聖書から神の御言葉を聞き、進んで行きましょう。時に、主は大いなる奇跡を見せてくださいます。 

                          (久多良木和夫) 

 

 

 ☆2013年9月29日()  

     「豊かに実を結ぶために」                            

       ヨハネによる福音書15章1-10節

 

 イエス様がこの「まことのぶどうの木のたとえ」のたとえ話をされたのは、最後の晩餐の時の訣別の説教の中でした。主は、弟子たちにあなたがたの人生は豊かに実を結ぶのですと教えられました。そして、私たちに対しても豊かな実を結ぶことができるのですよと約束してくださっています。

 

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(1節)。イエス様は、御自身をまことのぶどうの木に、そして父なる神を農夫にたとえられた。ご自身が、まことのぶどうの木であると宣言されました。

 

 「わたしにつながっていなさい。…わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(4節)。あなたがたができることは、ただぶどうの木につながっていることだと告げられました。どんなに立派な枝であっても幹から離れたら枯れてしまいます。私たちの命も、まことのぶどうの木であるイエス様との親密で確かな交わりの中につながり続けるということがなければ枯れてしまうというわけです。

 

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(5節)。私自身は、信徒の時代にある一人の教会役員から「主は、クリスチャンに対して成功とか出世とか誰かを見返してやるのだという道を望まれてはいません。ただ私たちは実を結ばせていただくだけなのです。そのために祈りましょう」という内容の手紙をいただきました。その時にはよくわかりませんでしたが、今はよくわかるようになりました。

 

クリスチャンであっても、時に自分がその枝であることを忘れて、自己実現、自分の栄光だけを求めて行くならば、水と栄養がストップしてしまい結局疲れてしまい、実を結ぶことができず挫折してしまうことになります。

 

 主にしっかりつながって、豊かに実を結ぶものとさせていただきましょう。 

                            (井上博子) 

 

 

 ☆2013年 10月6日(日)

   「明日に備えて」  ヨシュア記7章1-13節

 

 ヨシュアと民は、エリコの町での勝利、征服の後、アイの町の征服をめざしましたが、敗北に終わりました。敗北の原因が主より告げられました。それは、油断や作戦の失敗ではなく、アカンという一人の人が大切な物を盗んだことでした。

 

 主は、「もし、あなたたちの間から滅ぼし尽くすべきものを一掃しないなら、わたしは、もはやあなたたちと共にいない。」(12節)と語られました。

 

 主よりの最も幸いな御言葉は、「あなたがどこに行ってもあなたの神、

主は共にいる。」(ヨシュア記1:9)です。主が共にいてくださること

は大きな大きな恵みです。日本にいても、海外にいても、健康な時も、病

気の時も、順風の時も、逆風の時も、青年期も、壮年期も、老年期も、病

床の床にあっても、死の床にあっても、主の守りと支え、励まし、語りか

けがあるからです。その最も大いなる祝福が取り除かれる、それが無くな

る、これほど大きな損失はありません。

 

 アカンは、盗んではならないものを盗みました。そのため、アカンはアコルの谷で、石で打たれ亡くなりました。イスラエルは、滅ぼすべきものを一掃し、その後、アイの町を征服できました。

 

「明日に備えて自分を聖別せよ」(13節)。「聖別せよ」とは、主を畏れ、罪から離れることです。万が一罪に陥ったなら、悔い改めることです。その時、神の祝福が注がれます。

 

ダビデという王は、自分の部下であるウリヤの妻と姦淫し、ウリヤを殺しました。預言者ナタンによる指摘を受け、ダビデは「わたしは主に罪を犯しました。」(サムエル記下12:13)と自分の罪を認めました。わたしは罪をあなたに示し咎を隠しませんでした。わたしは言いました「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。(詩編32:5)と告白しています。

 

「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマの信徒への手紙6:23)。

                         (久多良木和夫)

 

 

2013年 11月3日()

  「主なる神に仕えなさい」 ヨシュア記24章14-18節

  

 人生の最後とどう締めくくるかということは、大きな課題です。主を信じる者の幸いは、人生の最後まで主が共にあってくださることであり、主を仰ぎつつ希望の天国を目指して歩むことができるということです。そして、自分の人生を全うすることと共に、大切なことは、後に残る人たちへの働きかけです。

 

 ヨシュアは110歳の生涯を全うしました。ヨシュアの最後のメッセージは、「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」(24-25節)でした。

 

 ヨシュアは、同胞の民に最後に信仰の決断を迫りました。その時、自

と自分の家は主に仕えることを宣言しました。

 

 信仰の歩みを積極的に進める時に、2つの場合があります。第1は、信仰の先輩に直接言われて、そのように歩み出す場合です。ある一人の方は、クリスチャンの母親の遺言を受け、戦後の心の荒廃した子どもたちのために幼児教育を始められました。第2は、直接言われなかったが、自分から決断してそのように歩み出す場合です。ある方クリスチャンご夫婦の息子さん夫婦は、お父さんが召された後、数年たって、お母さんに自分たちから洗礼を受けクリスチャンになることを申し出られ、クリスチャンとなられました。

                           (久多良木和夫)

 

 

 2013年 11月10()

     「勇者となったギデオン」       士師記6章1118節   

  

 難しい課題や妨害する敵がいる時、なかなか前に進めなくなります。そのような時は、心が重くなり元気がなくなり、不安や恐れが心に満ちます。

 

 ギデオンは、敵のミディアン人を恐れて、自分だけ見つからなければ良いと考えて過ごしていました。敵を打ち負かすことは不可能だ、どうしようもない、希望はないと考えていました。主は、そんなギデオンを見ておられました。主は御使いを送り、「勇者よ、主はあなたと共におられます。」(12節)語りかけられました。

 

ギデオンは、その日から変わりました。不安や恐れから解放されました。敵ばかり見なくなりました。自分ばかりを見なくなりました。主を見上げる人となりました。そして、神の霊を受け、必要な力が与えられました。私たちもその恵みに与りましょう。

 

 「疲れた者に力を与え 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ書40:29-31)。 

                           (久多良木和夫)

 

 

 2013年 11月17日()

      「サムソンの力の秘密」    士師記16章18-31節   

 

サムソンは、士師記の中に記されている怪力で有名な人です。彼は、素手でライオンを倒し、ロバのあご骨でペリシテ人千人を倒しました。彼は、超人的な力の持ち主でした。

 

 サムソンの母の名はマノアと言いました。御使いは、彼女に「あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう。」(13章5節)と告げました。

 

サムソンの持っていた特別に秀でた力は神からの特別な賜物でした。しかし、彼はそのことを自覚していませんでした。また、何のためにその力が与えられていたかを自覚していませんでした。また、彼に弱点がありました。それは、女性に弱いことでした。そのことで、彼は多くのトラブルを引き起こしました。

 

 彼が最後に愛した女性は、デリラという名の女性でした。彼の力の秘密をデリラは探り出そうとしました。彼は三度うそを言ってごまかしましたが、四度目にはついにその秘密を漏らしてしまいました。その力の秘密は、髪の毛にありました。髪の毛を剃られ、彼は力を失いました。そしてついにぺリシテ人に捕えられました。目をえぐり出され、青銅の足かせをはめられ、牢の中で重労働をさせられる身となりました。

 

憐れなサムソンでした。しかし、彼は、その苦しみの中で、その力は神から与えられていたと、そして、それは自分勝手に用い浪費してはいけないと、主のために用いる必要があることを知りました。サムソンは、主に今一度力を与えてくださいと願いました(28節)。彼は、最後にもう一度、神から力を与えられて多くの敵を打ち倒しました。

 

「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。」(箴言4章23節)油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」(口語訳)自分の心を守ることの大切にしましょう。自分の受けている恵みを感謝しましょう。その恵みを与えてくださっておられる天の神さまを崇めることを忘れないようにしましょう。

 

 主に聖別されたナジル人として歩んだ旧約聖書の中の人物の代表はサムソンです。そして、まことに主に聖別された者、まことの霊的なナジル人を挙げるとするならば、それは、主イエス様です。イエス様は、私たちのために、そのすべてを献げて歩んでくださり、その命さえも、献げてくださいました。

 

 私たちがなすべきことは、第一に、自分に与えられている賜物を自覚することです。第二に、それを与えてくださっている主に感謝することです。第三は、それを自分勝手に用いて浪費しないことです。第四には、それを大切に用いることです。そのことに感謝して、チャンスをとらえ、その賜物を活かすことです。

                           (久多良木和夫)

 

 

 2013年 11月24日()

       「永遠の命を得る道」       ヨハネ福音書5章1924節   

  

 命には、2種類の命があります。

 

 第1は、両親を通して与えられた命です。その命を持ちつつ人生が進んで行きます。この命は、乳幼児期、思春期、青年期。壮年期、熟年期、初老期、老年期といった成長の段階でその勢いは変わります。また取り組んでいる勉強や仕事や交際がうまくいくか行かないかでその勢いは変わります。それで一喜一憂することにもなります。

 

 第2は、天の神さまが備えてくださった命です。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマの信徒への手紙6:23)。すなわち永遠の命です。

 

  命と対照のものは死です。死とは、孤独であり、光のない暗闇であり、すべてが無に帰することであり、裁かれるということです。しかし、命とは、光があり、すべてが無に帰することがない、交わりがあるということです。しかもその交わりは、天の神さまとの、そして主イエスとの交わりです。そして、裁かれないということです。

 

 父なる神は、子なる主イエスに、2つの権能をお与えになりました。命を与える権能と裁きをなす権能です。

 

 「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(24節)

 

 私たちの救いのために、子なる主イエスをこの世にお遣わしくださった父なる神がおられることを信じる者は、裁かれることがなく、永遠の命をいただくことができるのです。なんと感謝なことでしょう。

                          (久多良木和夫) 

 

 

   2013年 12月1日()

          「大いなる光」         イザヤ書9章1-7節   

 

 今週より、クリスマスアドベントに入りました。四週間のアドベントの歩みの中で、クリスマスの主の愛を知らせていただきましょう。

 

この世界に住む私たちの救いのための救い主となってくださった主イエスの御降誕の予告は、そのおよそ7百年前に預言者イザヤを通してなされました。

 

 「それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ書7章14節)。インマヌエルという言葉の意味は、神が私たちと共にいてくださるという意味です。

 

 イザヤは、また闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(1節)と預言しました。南ユダ王国は、北イスラエルとシリヤの国からの攻撃を受け、大国アッスリヤからも攻め込まれ長期に亘って侵略に苦しめられました。そして多くの民は、捕囚の民として連れて行かれ、また属国の支配下に置かれました。その時イザヤが見た「闇の中の光」の預言は、捕囚の民がアッシリアの圧政から解放されることを意味すると共に、時代を超えて遠い未来の出来事をも語っています。後に「世の光」(ヨハネ8章12節)としてこの世においでになる救い主を示していました。それは、慰めの光であり、希望の光でもあります。

 

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。(9章5節)

 

 「驚くべき指導者」"Wonderful Counselor,"、「力ある神」"Mighty God," 、「 永遠の父」"Eternal Father,"、 「平和の君」"Prince of Peace."という4つの称号を持っておられます。4番目の平和の元の言葉はヘブル語で、有名な「シャローム」です。救い主は、ご自身の死によって神と人、人と人の間に平和をもたらすお方です。この「平和」は、争いがない穏やかな状態を指すのではなく、むしろ嵐や困難な中にあっても揺るがされない平安を意味しています。

 

 今年、7月12日にニューヨークの国連本部で16歳の一人の少女が演説を行いました。その少女の名前は、マララ・ユスフザイさんです。彼女は、パキスタンの北部の地で、昨年10月にスクールバス下校途中にタリバーンから銃撃されました。彼女が女性に対する人権抑圧を告発していたからです。幸いなことに九死に一生を得ました。彼女は、今年のノーベル平和賞候補にも名前が挙がりました。

 

 彼女は、世界のいろいろな地で、平和に生活する権利、尊厳をもって扱われる権利、均等な機会の権利、そして教育を受ける権利が損なわれていること、貧困、無学、不正、人種差別の問題が横たわっていること、そのことで一番大きな被害を受けているのは、女性であり子どもであること、そしてテロリズムとの闘いの大切さを切々と訴えました。

 

 この世界には、深い悲しみと絶望が横たわっています。その中にあって、今も、神は、救い主である主イエスを通して希望と生きる力を与えてくださいます。大いなる光の主イエスより慰めと赦す心を与えていただきましょう。

                           (久多良木和夫)

 

 

 2013年 12月8日()

      「救い主誕生の告知」    ルカによる福音書1章26-38節

 

 クリスマスの恵み。それは、この世界に住むすべての人のために、神の深き愛とご計画により、救い主が来てくださったということです。がありました。

 

 「それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ書7:14)の預言は、そのおよそ700年後に成就しました。そのひとりのおとめこそ、マリアでした。この世界に来てくださった救い主は、マリアを母として人となってきてくださいました。当時の女性は12歳から結婚を許され、15,16歳で結婚する者が多かったということから、婚約中のマリアはまだ十代の少女だったことでしょう。

 

マリアのもとに天使ガブリエルが訪れました。戸惑うマリアに、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」と告げました(30節)天使は告げました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる (35節)

 

神との関係が途絶え、その関係が崩れてしまい、罪の中に置かれた私たちのためには、罪が一切ないお方が必要です。そのために、神が選ばれた方法は、聖霊のお働きを通して、一人のおとめから救い主が誕生するということです。この世界に住む私たち人間のために、来てくださる救い主は、罪のない聖いお方、聖なるお方でなければならない「このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。」(ヘブライ7:26)。

 

 「神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。(37-38節)はしためとは、僕(しもべ)のことです。英語では、 "I am the Lord's servant”です。僕ではない者は、わたしの計画があります。私の計画が第一です。これはしますが、これはしませんと言います。僕である者は、主人のご計画を第一にして、これをするようにということに対して、「はい、わかりました。」と答えます。

 

 マリアは、神のご計画を受け入れ、神に従いました。マリアを母として、救い主は、この世に来てくださいました。

                          (久多良木和夫師)

 

 

  2013年 12月15日()

       「神の愛が示された」   ルカによる福音書1:67-69

  

 おとめマリアからお生まれになった主イエスと、エリサべトから生まれたヨハネは、わずか30歳を過ぎて少しのところで人間の罪によって捕えられ殺されてしまいました。聖書が伝えているこの出来事よりも後に生まれた私たちは、クリスマスを迎えるこの時期に、主イエスがすべての人の身代わりとなって十字架刑を受けられたことを覚えさせていただきましょう。

 

 ヨハネの父ザカリアは、神さまの不思議な導きによって神さまからのメッセージを語りました。

 

第1.神さまは救い主を送るという約束をついに「実現」されました。それは、被造物である人間を愛し続け、契約を覚えていてくださったからです。

 

 第2.「僕」ダビデの家に(69節)。ダビデは大罪を犯しましたが、罪の赦しを与えられ神さまの僕になりました。そのダビデの家系に。

 

 第3.ヨハネの「使命」は、人々が救い主イエスに出会うための準備をすることでした(76,77節)。神さまは人がその勤めを果たすことを見ておられます。

 

第4.示された神さまの愛は、小さな穴、破れ、隙間に入って来る「光」のようなものです。暗闇と死の陰がすぐそばにある時代に私たちは生きています。光は暗いところにさっと入って来るのです(78,79節)

    (久多良木志津子)

 

 

      2013年 12月22日() クリスマス礼拝

    「告げられた喜びの知らせ」   ルカによる福音書2:8-20

 

 クリスマスの主人公は、私たちではなく、イエス・キリストです。クリスマスの最高のプレゼントは、神さまからの遣わされた救い主イエス様です。

 

 主イエスは、パンの家という意味を持つベツレヘムの町で生まれました。救い主は、家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされました。飼い葉桶は、決してきれいなものではありません。それはちょうど私たちの心を差し示しています。

 

 この救い主誕生の知らせは、エルサレムのはずれの野原で羊を飼う羊飼いたちに知らされました。この世においては、良い知らせは、財力を持つ金持ちの人たちや有名な人たちに真っ先に行きます。でも、福音の世界においてはそうではありません。

 

 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(10-11節)羊飼いたちは、神から忘れられていませんでした。むしろ、特別に愛されていました。彼らは、大きな慰めと励ましを受けました。

 

 この世における悲しみ、苦しみ、絶望の根本原因は罪です。罪とは、真の神を知らず、神の愛を知らず、むなしくさまよっている状態を意味しています。主イエスは、この罪からの救いを私たちに与えてくださる方です。

 

 羊飼いたちは、子どものように素直に応答し、ベツレヘムの家畜小屋で、救い主にお会いすることができました。   

                          (久多良木和夫)

 

 

      2013年 12月29日() 年末感謝礼拝

    「喜びの歌を歌いつつ」       詩編1261-6節         

 

 私たちの教会の2013年の御言葉は涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。」(詩編126:)でした。この御言葉を前にして、どれだけ涙と共に種を蒔いただろうかと反省すべきすることはいろいろあろうかと思います。

 

ただし、この御言葉は、頑張った分だけ多くの収穫があるといったことを教えているのではありません。この詩編126編の御言葉をよく読むと、イスラエルの民が経験した50年に及ぶバビロン捕囚という苦しみから解放され、自分たちの国をもう一度立て直す時がやってくることが語られています。そこには、人の思いをはるかに超えて、主なる神の憐れみがあり、主の助けがあったことを知ります。

 

 涙と共に種を蒔くのは、手を抜かないで一生懸命に働く苦労の涙ということもありますが、ここでもう一度、こうして自分たちの畑が与えられ、種を蒔くことのできることに対しての感謝と喜びの涙でもあるのです。

 

 皆でできることをやって行きましょう。自分のできることをやって行きましょう。自分に託されていることやって行きましょう。主がそこに働いてくださり、幸いな収穫を与えてくださいます。 

                           (久多良木和夫)