2023年 説教の要約

1月1日() 新年礼拝 

    「主にあってチャレンジ」  マタイによる福音書6章25-34節

 

 子ども時代、特に幼児期、小学低学年の時は、親の保護の下、自分を見守ってくれる親がいることの安心の中に過ごします。小学高学年、中学、高校生になるといろいろな悩みが始まります。青年、大人になると親から自立していき、どう歩むか、どの道に進むかを自分で考え決めていかねばなりません。うまくいかなない問題や課題、心配も増えてきます。

  いろいろな思い悩み、思い煩いがあります。学校のこと、家族のこと、人間関係のこと、仕事のこと、将来のこと。健康のこと、この日本、世界のこと、心配の種は尽きません。

 

 今日の聖書箇所では、思い悩むな、思い煩うなと何度も語りかけられています。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」(25節)。主イエスは、空の鳥を見なさい、野の花を見なさいと語られました。主なる神は、空の鳥を養ってくださるお方であり、野の花を装ってくださっているお方です。そして、それらよりもはるかに人間である私たちを愛し、心を用いてくださっています。

 

 思い悩むな、思い煩うなとは、別の言葉でいうならば、思い悩みを置きなさいということです。なかなか置けないのが私たちです。私たちの思い悩み、思い煩いを知っていてくださるお方がおられます。

 

 今日の聖書箇所では、天の神さまは、誰か他の人の天の神さまではなく、あなた方の天の父ですよ。そのお方はあなた方のことを愛してくださっていますよと語りかけています。

 

だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」(31-32節)。

 

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(33節)。神の国とは神の支配ということです。人の支配は自分勝手なものになります。神の支配は、私たちを滅びに向かわせる罪の支配を打ち破るために主イエスを通して成し遂げられた救いの御業です。神の国は私たちの目の前に置かれ、その中に生きることができるようにしてくださいました。

 神の義とは神の正しさです。人の義はその人の都合で勝手に変えられてしまいます。クリスマスの主イエスを通して成し遂げられた救いのゆえに、神の義は救いを意味していることが明らかになりました。

 

 神の愛と恵みが私たちに注がれています。そのことを何よりも受け止め、その愛と恵みに感謝して応答して歩みなさいと勧められています。軸足を主のもとに置くことが大切です。

 軸足をそれ以外のところに置いていくならば、どんどんずれて行ってしまいます。毎日のデボーション、聖書の御言葉をいただき。主のみ前に静まり祈ることを大事にしましょう。毎週の聖日礼拝を大事に共に捧げていきましょう。毎水曜日の祈祷会にも励みましょう。

 

 主にあってチャレンジしましょう。思い悩み、思い煩いを主にゆだね身を軽くさせていただきましょう。重い荷物を背負ったままではジャンプできません。身を軽くさせていただきジャンプしましょう。教会において、そして個人において、この年、チャレンジしましょう。良いチャレンジができますように。

                        (久多良木和夫)

         

1月8日() 聖日礼拝 

    「土の器に納められた宝」 コリントの信徒への手紙二4章1-7節

 

 もろいものはいろいろあります。出たばかりの芽、細い枝、ごはん茶碗、花瓶、そして私たちの心です。私たちはいろいろなことに耐えられると自負していたとしても、急に心が弱くなることもあります。

 

 「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」(1節)。神の憐みはただかわいそうだと思うということではありません。あのパウロではありませんが、これは大切なもの、これは大事なもの、これを用いていこうと臨んでくださいます。

 

 「かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。」(2節)。神によって生かされている者であることを忘れず感謝して歩むのです。恥ずべき隠れたことを捨て、悪巧みによって歩かず、神の言葉を曲げず、心理を明らかにしつつ歩むのです。

 

 太陽の光は周り明るくしいろいろなものが見えるようにしてくれます。

では、私たちの心を照らすのは何でしょう。それは、キリストの福音です。神の独り子であった御子イエスが神の位を捨てて人となっておいでくださったこと、そして私たちと神をつなぐ架け橋となってくださいました。このイエスを信じ歩む者は永遠の命をいただくことができます。その命の光をいただいて歩むことができる者とされるのです。

 

 神ご自身がキリスト者である私たちの心の中に住んでくださるのです。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。6節)。天地創造の初め神は「光あれ」と命じ、光を生じさせました(創世記1章3節)。その主は、私たちの心を覆うとする闇の暗さを打ち破ってくださるお方です。時に思わない出来事に遭遇し、困難を経験します。その時にこそ主に呼び求めましょう。主は必ず助けてくださいます。

 

 

 「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」(7節)。土の器である私たちの内に納められた宝とは、主イエス・キリストです。イエス・キリストの霊である聖霊なる神です。主が共にいてくださる、決して見捨てることはありません。主が必要を満たしてくださいます。必要な力を与えてくださいます。私たちは希望を失うことなく歩み続けることができます。なんと感謝なことでしょう。ハレルヤ!

                                                        (久多良木和夫)

 

1月15日() 聖日礼拝 

  「イエスの命が現れるために」 コリントの信徒への手紙二4章7-15節

 

わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(8-9節)。 ここには4つの「ノット」、「ず」があります。行き詰らず、失望せず、見捨てられず、滅ぼされずです。この年の歩みにおいて、時に困難、大変なことを経験するかもしれませんが、主は共にあって守り助けてくださいます。

なぜなら、私たちは強く見えて、そうでないものですが、その土の器の中に命の主キリスト、聖霊をいただいているからです。

 

なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう 『御顔こそ、わたしの救い』と。」(詩編42編7節)。うなだれる者に主は語り掛けていてくださいます。

ヤコブよ、なぜ言うのか イスラエルよ、なぜ断言するのか わたしの道は主に隠されている、と わたしの裁きは神に忘れられた、と。」(イザヤ書40章27節)。時に弱り果てる私たちに主は語り掛けておられます。「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」と。

 

 キリスト教の中心にあるものは、キリストの復活です。私たちにとって、一番怖いものはやはり死ではないでしょうか。キリストが来られる前は、死をもってすべてが終わりでした。キリストが来られた後はそうではなくなりました。キリストが死を打ち破られたからです。主は、そのキリストの復活の命を弟子たちも与えてくださいます。

 

 「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」(14節)。主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちを復活させてくださいます。この地上での歩みにおいては共にあって導いてくださり、死の後には、天の御国で過ごすことを導いてくださいます。

 

 

 「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」(10-11節)。主イエスの命が現れる幸いをいただいています。その元になっているのは、イエスの死を体にまとっていることです。

 イエスの死を身にまとうとは、自分は主イエスによって見出された者、主イエスの恵みによって生きている者であることをいつも忘れず、主と共に歩むことをやめないことです。その時、主は責任をもって私たちを助け出し、引き上げてくださいます。主イエスの命が働いて、勝利をさせてくださいます。

                         (久多良木和夫)

 

1月22日() 聖日礼拝 (清水会堂) 

    「善い業のために歩む」   エフェソの信徒への手紙2章1-10節

 

2023年の教会の標語は「主にあってチャレンジをする」です。「主にあってチャレンジする」とは、「主にあって、善い業に励む」という意味にとることができます。エフェソの信徒への手紙210節「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて作られた」とあります。私たちは「主にあってチャレンジする」・「善い業に励む」大前提として、エフェソ2章1-10節から、私たち自身のことを心にとめたいと思います。

 

神様は人間を創造された際、人間を祝福されました。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1章31節)。私たち人間は、神様の御業をほめたたえるため、神様の善い業のために、創造された存在です。神様との平和、隣人との平和の中、生きていくのが目的で造られました。しかし、罪が人間の中に入った結果、愛と平和の関係性は崩壊し、罪と死の関係性が入り込んできたのです。「自分の過ちと罪のために死ぬもの(エフェソ2章1節)」となり、「生まれながらに神の怒りを受けるべき者・罪人(エフェソ2章3節)」となってしまいました。

 

 しかし憐み豊かな神様は、ご自身が創造した私たちをなお、憐れんでくださり、罪のままに滅びるのをよしとはなさいませんでした。独り子イエスを世に送り、私たちの罪の身代わりとして十字架にかけ、私たちの罪を赦し、同時に、罪に支配された私たちを主イエスとともに十字架につけ、私たちを主イエスとともに復活させ(新たに生まれさせ)、主イエスとともに生きるものにして下さったのです。これは神様の愛と憐みによるものであり、私たちの行為によってではなく、ただ神様の愛と赦しを信じ受け入れることによって、私たちが救われるためでした。

 

 

なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(10節)。私たちはその、主イエスを通してなされた、神の再創造の御業を通して、罪の支配から救い出され、もう一度「善い業のために生きる」ものへと造り変えられたのです。この大前提を、私たちは思い起こしたいと思います。私たちが善い業をなすことができるのは、神様が愛と赦しを私たちに与えて下さったからであり、誰も自力で成し遂げるわけではありません。だからそこに神様の助けを求める祈りを必要とし、業を成し遂げた時に、神様に対する感謝が生れるのです。

                        (富山希望師)

 

1月29日() 聖日礼拝 

      「永遠の契約」          創世記8章18-22節 

 

6章5、6節「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」とあります。聖であり、義である神さまは、人間の罪を嘆き、心を痛められました。洪水は神さまの怒り、悲しみの現れでした。

 ノアとノアの家族だけを残された理由を聖書は、6章8節「ノアは主の好意を得た。」と記しています。「一方的な神からの恵み」が答えです。

 

旧約聖書、新約聖書の約の字は、契約という意味です。旧約は「約束」、新約は「約束の成就」です。洪水の後に、「神が契約を立てられた」とあります。

人間が、ノアが神にお願いしてできた約束ではありません。神が立てられたのです。どちらかの違反により解消されてしまうことはなく、神が立てられ、保っておられる、神ご自身が思い出しておられる「契約」です。「たとえ人間の方がその約束を破っても、神さまの側の真実は変わらず、その約束を神は、ずっと守り続けられる」のです。

 

9章16節「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」、8章21節「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ、」とあります。「人が悪いことは知っているが、もう二度滅ぼしはしない、私の方が忍耐を続ける」と、神様の方が人の悪を我慢し、そして救いの手を伸べるとの約束をされました。「地の続く限り忍耐する」と。それが「永遠の契約」です。神は、とこしえに、忍耐し、愛を持って人のことを心にとめておられます。

 

この契約はイエス・キリストにおいて成就しました。マルコによる福音書14章24節「イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』。

 

ノアは、当時の人々が世のことに夢中になっている時に、神様の言葉に従い続けました。そして試練のときを経て、箱舟から出たノアが初めにしたのは、神様との特別な時間をもつことでした。場所を定め、祈りを捧げました。

 

 

 わたしたちは、神様が立てられた契約の中に、生きています。私たちを忍耐し、愛のメッセージを聖書により、語っておられます。一日の中で一週間のなかで、いつノアのように祭壇を築いているでしょうか? わたしたちは短い時間、心の中で、祈る、さっと主に感謝するという日常であると思いますが、祈りのために時間を設け、他のことをしたいけれど、しないで主との時間として特別な時を持つこと、主をあがめ、御言葉を読み、自分のこととして受け止め、心の深いところを神に申し上げる時がとても大事です。

                         (久多良木志津子)

 

2月5日() 聖日礼拝 

  「見えないものに目を注ぐ」 コリントの信徒への手紙二4章16-18節

 

 「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(18節)。外なる見える部分は衰えます。年を取ると腰が曲がり白髪もしわも増えます。時に難しい病に取りつかれることもあります。

 

 使徒パウロは11章23-29節において、宣教者としての歩みの中で、様々な苦難を経験しました。死を覚悟させられるようなこともあったことでしょう。私たちも程度の差こそあれ、時に苦しみを経験し重荷を抱えることがあります。

 

 しかし、私たちは沈んだままではなく浮き上がることができます。希望を失ったままではなく、新たな希望を受けて進むことがあります。内なる人は日々新たにされます。内なる人とは何を意味するのでしょうか。私たちの心を意味する部分もあるでしょうか。それ以上に、その内なる人とは、主イエスを信じる者自身を指しています。その者を主は決して見捨てず守り支えてくださいます。新たな力と新たな希望を与えてくださいます。

 

 「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(17章)。自分の歩みに何の意味があるのだろう、何の意味もないのではないだろうかと落ち込むことがあるかもしれません。主は意味があることを教え、与えてくださいます。また、この地上の生涯の最後においては、天の御国の扉を用意してくださっています。主の直接のご支配に移されるのです。

 

 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(18節)。お金や地位、名誉、友好関係、自分を英雄だと思い勝手に思い描くこと、そのような見えるものに人は引かれます。しかし、見えるものには注意が必要です。そこには大きな落とし穴があり、罠が仕掛けられていることが多いからです。

 見えないにはどのようなものがあるでしょう。親の愛も直接は見ることができませんが確かにあります。太陽の光も目には見えませんが、とても大切なものです。

そして、ここでの目に見えないものとは、神ご自身であり、神の愛です。神は確かにおられ、私たちに変わることのない愛を注いでいてくださっています。永遠に存続する神に、そして神の愛に目を注ぎつつ進んで行きましょう。

                         (久多良木和夫)

 

2月12日() 聖日礼拝 

  「天にある永遠の住みか コリントの手紙二5章1-10節

 

 帰ることのできる家があるということはありがたいものです。小学生の時に夕方遅くまで遊んでも、安心して帰ることができたことを思い出します。健康の体もまた、ありがたいものです。体調がよくなければ、どんなにおいしい料理も少ししか食べることができません。

 私たちの体は年と共に、腰が曲がり、髪の毛が少なくなり白髪が増えたりします。しわも増えます。様々な衰えがやってきます。体だけでなく、気力がなくなったり、記憶力も弱くなります。使徒パウロは、私たちの肉体を幕屋すなわちテントに例えています。 「わたしたちの地上の住みかである幕屋」(1節)。テントは、長日が当たり風雨にさらされるともろくなり、穴が開くことがあります。私たちの体も年と共に弱くなり、最後には、その人生の歩みの終わりもやって来ます。

 

 神さまは、私たちの体の細胞を絶えず新しくしてくださいます。病気に打ち勝つ免疫力も与えていてくださっています。体の弱りの中にあっても、主によって必要なものを満たしていただきましょう。

 

 キリスト者である私たちに与えられているものが2つあります。それは、どのような時にも与えられる主よりの平安です。もう一つは、内に聖霊をいただいているということです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。」(5節)。

 

 「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(10節)。クリスチャンであろうとなかろうと、すべての者は、最後、主の御前でその歩みがどうだったかが問われます。この地上での歩みは大切です。

 だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」(9節)。パウロは、復活の主との出会いを通して主の喜ばれることを目指す者に造り変えられました。

 

2月19日() 聖日礼拝 

  「キリストの愛が私たちを」 コリントの信徒への手紙二5章1115

 

何のために生きるのか、誰のために生きるのか、時に問われる課題です。「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。」(13節)。使徒パウロは、2つのことのために生きる者となりました。第1には神のために、第2には主にある兄弟姉妹、そしてまだキリストを知らない人のためでした。

 

 私たちは、いろいろなものに捕らわれ、はまります。グルメ、走ること、ゲーム、料理研究、映画、ビデオ鑑賞、・・・。それに熱中しはまりこむこともあるかもしれません。それらは時に気分転換になるかもしれません。

 

 私たちは大きな2つのことに捕らえられます。第1は悲しみです。悲しみに捕らえられ、身動きできなくなることがあります。第2は憎しみです。自分にひどいことをした相手、ひどいことを言った相手を許せない気持ちでいっぱいになるのです。まさに、悲しみ、憎しみが私たちに迫って来ています。

 

 「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。」(14節)。キリストの愛が駆り立てているというところは、「キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。」(口語訳)、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」(新改訳)と訳されています。

 

 使徒パウロは、かつてサウロの時代、主イエスを憎み、クリスチャンを迫害していた者でした。自分は神の前に合格者だと考えていました。しかし、復活の主が、あのダマスコ途上で出会ってくださり、その愛に打たれ、自分が失格者であることが分かりました。そして、その自分を顧みて捨てなかった主イエスを信じる者となりました(使徒言行録9章1-18節)。

 

 

 パウロは、神の愛が、この自分を捕らえてくださった。そして、自分を滅ぼすのではなく、生かしてくださったことを知り、神の愛による恵みをいただき、生きる者となりました。私たちにも、キリストの愛は激しく注がれています。キリストの愛が私たちを生かしてくれるのです。

                         (久多良木和夫)

 

 2月26日() 聖日礼拝 

    「キリストによる和解」 コリントの信徒への手紙二5章16-21節  

 

 新しく歩み出すことは幸いなことです。いろいろなことを契機として新し

くと願いつつ進もうとします。ただ、しばらくはうまくいっていても、長続

きしないこともあります。過去のこと、現在のこと、将来のことがブレーキ

になることがあります。

 

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(17節)。キリストを救い

主として信じ、神の子どもにしていただくことはとても大切なことです。罪

の赦し、聖霊の内住を通して神のものとされるのです。自分で新しい者にな

るのではありません、神がそうしてくださるのです。自分ではどうすること

もできないようなことも、主にお任せしつつお祈りしつつ歩みましょう。主

は私たちを新たに造り変えてくださいます。そして、新しいものを与えてく

ださいます。そこに希望があります。

 

 私たち人間は関係性の中で生きています。2つの関係性があります。第1

は、人との関係性です。親子、夫婦、友、同級生、同僚との関係です。それ

をいかにそれを維持するかは大きな課題です。その関係がうまくいかなくな

ることがあります。また時に断絶することもあります。関係性を回復するこ

とは課題です。和解の道は難しい時もありますが、主にあってそのことがな

されたなら幸いです。神との断絶が解消され、私たちは神との交わりの中に

生きる者とされるのです。

 

 もう一つは神との関係です。神はこの世界を創造されたお方です。すべて

の良いものを与えてくださっています。その方を知らず、その方を無視して

歩むことがあります。生ける真の神と断絶した状態です。一見自由に思えま

すが、ちょうど糸の切れた凧のような状態です。どこに吹き飛ばされていく

かわかりません。そして、みじめに落ちてしまいます。

 

 「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちは

キリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。

神と和解させていただきなさい。」(20節)。家が建つためには土台がな

ければなりません。和解の土台は、イエス・キリストです。

 

 「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわた

したちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたち

にお授けになりました。(18節)。神の子どもとされた幸いを享受しつつ、

その満たしの中で感謝と讃美をしつつ、自分を生かしてくださる主を指し示

 

す。私たちは、証を立てつつ和解のための使者として生きるのです。

                        (久多良木和夫)

 

3月5日() 聖日礼拝 

   「今や恵みの時」     コリントの信徒への手紙二6章1-13節

 

 幸いなことは何でしょうか? 自分の思い通り、願い通りにことが運ぶことで

しょうか? それもそうかもしれませんが、そうならないことは多くあります。

道が閉ざされるようなこともあります。でも、そのような時にも神の愛と恵みは

注がれています。「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めま

す。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」(1節)。神の恵みに

感謝して、その恵みに生かされたものです。

 

 使徒パウロの生きざまは、多くの苦しみを経験し想像を絶する歩みでした。主

イエスを信じ、宣教者となり、主の福音を宣べ伝えました。厳しい迫害を何度も

経験しました。苦難、欠乏、行き詰まり(4節)、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、

不眠、飢餓(5節)、辱めを受ける、悪評を浴びる(8節)。人に知られていな

いようで、 死にかかっているようで、 罰せられているようで、(9節)、悲

しんでいるようで、物乞いのようで、無一物のようで、(10節)。パウロ自身

も一時的に落ち込むこともあったことでしょう。なんとみじめと思ったこともあ

るでしょう。しかし、そこにとどまり続けませんでした。

 

 大いなる忍耐をもって(5節)、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない

愛(6節)、真理の言葉、神の力、義の武器を持ち、(7節)、誠実(8節)、

よく知られ、 生きており、 殺されてはおらず(9節)、常に喜び、多くの人

を富ませ、すべてのものを所有しています。(10節)。沈んだままではなく、

そこから浮き上がり、生き生きと歩みました。あのフィリピの町で、鞭打たれ、

足枷をはめられ牢の奥に投げ込まれた時、パウロをシラスは、神に祈り、讃美を

捧げました。その夜、看守とその家族が救いに与りました(使徒言行録16章

6-34節)。

 

 使徒パウロがそうできた秘訣はどこにあったのでしょうか? それは聖霊なる

神のご支配のもとに生きたことであり、真理の言葉、神の言葉である聖書の御言

葉に心を傾け、聴き、それを受け止め、それに従ったからです。私たちも、聖霊

なる神をあがめつつ歩み、日ごとに御言葉をいただくことを大切にしていきまし

ょう。『みことばの光』、『アパルーム』、『信徒の友』日ごとの糧、『デイリ

ーブレッド』等を活用しましょう。

 

 なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、

わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今

こそ、救いの日。」(2節)。主は真実なお方です。主は、依り頼む者の祈りを

聞いてくださいます。しかし、そうならない時もありますが、主はどこかに行か

れてしまったのではありません。私たちの祈り、叫びを覚えていてくださいま

す。主イエスは私たちのために命を捧げてくださいました。主はいつも、私たち

を顧み、助け、救い出してくださいます。今よ恵み、主に一歩近づきましょう。

                         (久多良木和夫)

 

3月12日() 聖日礼拝 

   「私たちは生ける神の神殿」 

              コリントの信徒への手紙二6章14-18節

 

 健康を保つために、食事、運動、睡眠は大切な要素です。食事を考えるとする

なら、野菜、魚、肉とバランス、そして、新鮮なものを摂ることが大事です。肉

体の健康と共に心の健康も大事です。ストレスの多い時代の中にあって、そのス

トレスを主に申し上げつつ軽くしていただきましょう。さて、その心は様々なも

のの虜になることがあります。ゲーム、ギャンブル、アルコール、薬物、インタ

ーネット、ポルノと様々なものがあります。

 

 「だから、あの者どもの中から出て行き、遠ざかるように』と主は仰せにな

る。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたが

たを受け入れ、父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。』全能の主は

こう仰せられる。」(17-18節)。主に喜ばれない良くないものがありま

す。それらから遠ざかること、触れることをやめるようにと主は語っておられま

す。主に祈り、主に助けていただき、勝利へと導いていただきましょう。

 

 14-16節においては、対照的な事柄が記されています。闇の世界として、

信仰のない者、不法、闇、ベリアル(サタン)、偶像のことが記されています。

光の世界として、正義、光、キリスト、信仰、神の神殿のことが記されていま

す。光の世界に招かれ生かされている幸いを心にとめましょう。闇の世界とごっ

ちゃにしないようにしましょう。

 

 「わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわた

しの民となる。私たちは生ける神の神殿です。」(16節)。神の神殿は主を礼

拝する場所です。旧約の時代には、聖別された動物が捧げられました。香がたか

れ祈りが捧げられました。主への賛美がなされました。神の神殿は、新約の時代

においては教会です。教会においては、主への礼拝が毎日曜日に捧げられます。

 

 主イエスを救い主として信じ受け入れた私たちは、罪の赦しが与えられ、神の

子どもとしての資格が与えられました。内に救いのしるしである聖霊が与えられ

ました。内に聖霊を宿す者とされました。その大いなる恵みを与えられたことを

感謝し、神をほめたたえつつ歩んでいきましょう。

                         (久多良木和夫)

 

3月26日() 聖日礼拝 

   「ゲッセマネでの祈り」  マルコによる福音書14章32-42節  

 

この箇所は、ゲッセマネの園での主イエスの祈りの場面です。ゲッセマネは、エルサレムの東のケデロンの谷を隔てたオリーブ山のふもとの園です。ゲッセマネの意味は、オリーブ油絞りというものです。オリーブの実から油をとるにはオリーブの実は完全につぶされなければなりません。

 

主イエスは、押しつぶされんばかりの苦しみを抱えておられました。愛する弟子たちとの別れ、敵に引き渡され、ご自身の命が奪い取られることを覚え、祈らずしては耐えることができないことでした。主は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を連れて行きました。彼らにご自身の苦しみを覚えて共に祈ってほしいと要請しました。しかし、彼らは疲れていたのもありますが、主イエスの苦しみを全く理解していずに眠りこけていました。

 

 主は語りかけられました。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(37-38節)。弟子たちの姿を私たちの姿が重なります。「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(42節)。主は弟子たちを見捨てなお語りかけられました。

 

少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」(35―36節)。

 

この杯とは、十字架刑という苦難の杯です。捕らえられ、虐待を受け、拷問を受け、侮辱され、唾を吐きかけられ、鞭打たれ、非道の限りを受け、最後には命を奪われる、これほどの苦しみはないことでしょう。主イエスは三度この祈りを捧げられました。十字架の道を避けさせてください。十字架のかからない道を備え、そこに導いてくださいという願いです。

 

しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(36節)。最後に捧げた祈りは、すべてをおゆだねしますということでした。神の御心は、主イエスが十字架につけられることでした。罪の一つもない方、神の独り子なる主イエスが十字架にかかって死ぬことです。私たち一人一人の罪の身代わりとして、主イエスの命が必要でした。私たちは誰も自分の罪を贖うことはできません。

 

 主イエスは、私たちの罪を贖うためにご自身の命を捧げることを決断してくださいました。その祈りを捧げてくださいました。

                          (久多良木和夫)