2024年8月

 8月4日() 聖日礼拝 

   「雪のように白くなる」  イザヤ書1章18-20節

 

 聖書の4大預言書は、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書です。イザヤ書はその中の一つです。イザヤは、南ユダにおいて、紀元前740年から約50年から60年にわたって活躍した預言者です。

 

 時代は、北イスラエルと南ユダの激動の時代です。南ユダは大国アッスリアに呑み込まれてしまい滅びます。南ユダは、アッスリアの脅威にさらされ、後には大国バビロニアの脅威にさらされます。

 

 1章1-17節においては、ユダの国の人たちが神に背を向け歩んでいること、礼拝の捧げものが表面的なものになっていること、善を行わず、弱い者を苦しめていたことが記されています。

 

 「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも 雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても 羊の毛のようになることができる。」(18節)。緋色とは、多年草の茜の根を染料として染めた濃い赤です。紅色とは、鮮やかな黄みの赤です。罪が、深く赤く染まっていて、人の手では、もう元の白色に戻せないとしても、神は、その赤く染まった罪を雪のように白く、羊の毛のように白くすることができるというのです。

 

 列王記下5章に記されているアラムの国の軍司令官であったナアマンを思い起こします。彼は不治の病を患いました。しかし、預言者エリシャに言われた通りにヨルダン川に七度身を浸した時、その病は癒されました。

 ルカによる福音書15章の放蕩息子のたとえにおいて、放蕩を尽くしすべてを失った時、弟息子は父のもとにもどります。その時、父は彼の帰って来るのを待っていて心から迎えてくれました。

  

 罪がどのように深くとも、悔い改めて主に立ち返る時に主は、その罪を赦しきよめてくださいます。なんという幸いでしょう。

                          久多良木和夫

 

8月11日() 召天者合同記念礼拝 

  「戸の外で叩いておられるお方」  ヨハネの黙示録3章20-22節

 

 暑い日々の中にも、セミの鳴き声や、風鈴の音で、季節の移り変わりを覚えます。普段、いろいろなことで忙しく過ごしている私たちが、テレビやネットから距離を置いて、静まる時、今まで聞こえていなかった声が聞こえることがあります。他の人の心の中の叫び、自分自身の心の中の叫びも聞こえることがあります。

 

 今も生きて働いておられる神は、心の中の叫び、どうしようもない不安や恐れをご存じで、それらを受け止めてくださいます。

 

 自分自身の人生の終わりが近いことを覚える時、神の呼びかけがあります。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」(ヨハネによる福音書14章1-2節)。天の御国を指し示しておられます。

 

 今年の召天者合同記念礼拝において、召天者の中に、家族、関係の方々の中に、記念の年の方々が多くおられます。

 

 外からの呼びかけと共に内からの呼びかけもあります。放蕩息子のたとえにおいて、弟息子はどん底の中で我に返り、父の家に帰ろうと思い、父の家に向かいました。父親は、息子を見つけ駆け寄り迎えました。父はとても喜びました。この父とは天の神さまのことです。

 

 天の神さまは。無理やり信じなさいとは言われません。いろいろな時に呼びかけられます。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(20節)。この戸口は私たち一人一人の心の戸です。この戸には外側にノブはありません。あるのは内側だけです。鍵は外から開けることはできません。できるのは内側にいる私たちだけです。

 

 主イエスのドアを叩く音を聞いて開ける者に対して、主はその内にお入りくださり共に食事をしてくださいます。私たちの人生を祝福の中に導いてくださいます。自分自身の限界の時も、主が共にあって支えてくださいます。迷える時に、良き導きを与え幸いへと導いてくださいます。この地上での歩みを実りあるものにしてくださいます。この地上での歩みの後に、天上での歩み、天の御国での歩みを与えてくださいます。

                           (久多良木和夫)

 

 8月18日() 聖日礼拝 

    「終末の平和」            イザヤ書2章1-5節

 

 8月は、平和を求める祈る月です。79年前、日本は太平洋戦争で敗北しま

した。日本、そしてアジア諸国で多くの人が戦争のために亡くなりました。今

の世界をも見る時にも、ロシアとウクライナとの戦争、イスラエルとハマスと

の戦争、今も多くの人の命が奪われています。国と国だけでなく、人と人との

争いもあります。

 

 平和を作り出すことは簡単ではありませんが。それは尊いことです。「平和

を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ

による福音書5章9節)。

 

 今朝の聖書の中のイザヤ書2章4節の御言葉は、ニューヨークの国際連合本

部の広場にある「イザヤの壁」というモニュメントに刻まれています。しかし、

国連は第2次世界大戦の戦勝国である5つの国だけが持っている拒否権で、肝

心の時に戦争、争いを止めることができません。残念なことです。

 

 「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤

とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うこと

を学ばない。」(イザヤ書9章4節)。剣と槍は、昔の戦いの武器です。今で

言うなら銃、洗車、戦闘機、ミサイル、潜水艦、軍艦等です。剣は鋤に、槍が

鎌に打ち直される。それは、戦争が終わり平和になるということです。鋤や鎌

は農業の時に使われる道具です。それで、土地を耕し、草を刈り、種を蒔き、

苗を植えます。そして、収穫のものを刈り取ります。

 

 パレスチナ問題が解決しない背景には、シオニズム(ユダヤ人国家建設運動)

があります。政治的シオニズムと宗教的シオニズムというものがあります。そ

れらは偏った一方的な考えです。ユダヤ人とパレスチナ人、アラブ人が共に生

きることを求める霊的シオニズムというものが必要です。

 

 4節の御言葉は理想の平和を告げる内容です。平和を主に願い追い求めてい

きましょう。では平和はいつ実現するのか、それは終末の時に実現します。

終末の時とは主イエスの再臨の時です。主のご支配と助けをいただき、平和が

備えられることを願い求めたいものです。

 

                           (久多良木和夫)