2016年
1月3日(日) 聖日礼拝
「主から力を受けて」 詩編84編1-13節
詩編84編には、3回いかに幸いなことかという箇所があります。
1番目の箇所は、「いかに幸いなことでしょうあなたの家に住むことができるならまして、あなたを賛美することができるなら。」(5節)です。2番目の箇所は、「いかに幸いなことでしょうあなたによって勇気を出し心に広い道を見ている人は。」(6節)です。3番目の箇所は、「万軍の主よ、あなたに依り頼む人はいかに幸いなことでしょう。」(13節)です。
主から力を受けてこの年進んで行きましょう。3つの力を意識して歩みましょう。第1は罪と世に勝つ力です。第2は試練を乗り越える力です。第3は人を愛する力です。
罪と世は私たちを押し流していきます。負けない力をいただきましょう。試練は突然やって来ることもありますし、大変なことが続くこともありますが、乗り越えて行きましょう。人を愛することは簡単そうで難しいものです。主より力をいただきましょう。
主への礼拝を大切に捧げる中で、主につながってこの力をいただきましょう。
(久多良木和夫)
1月10日(日) 聖日礼拝
「神の避けどころ」 詩編62編1-9節
4節、5節には、襲い掛かって来る敵のことが記されています。ダビデ自身、サウル王から命を狙われ苦しみました。また息子アブサロムの反逆を受け苦しみました。
「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。」(2,6節)。苦しみの中で、ダビデ自身、沈黙しました。なぜ、このようなことに、この事態はどう進むのかと悩む中で、心を神に向けました。
今年の標語は「主から力を受けて」です。難しい問題の中に置かれても、主は必要な力を用意してくださっています。静まって主を仰ぎ待ち望みましょう。
「民よ、どのような時にも神に信頼し御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」(9節)。主はどのような時も信頼しなさいと語りかけてくださっています。自分自身の思い煩い、苦しみを心を注ぎ出して主に申し上げましょう。主は真の避けどころなるお方です。
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて
祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4章6-7節)。
(久多良木和夫)
1月17日(日) 聖日礼拝
「主から力を受けて」 マタイ福音書3章13-17節
洗礼者ヨハネは、主イエスに洗礼を授けることを躊躇しますが、そうすることが神の御旨であるからと言われて、洗礼を授けました。ヨハネから、あえて洗礼を受けられることによって、罪人である私たちと連帯し、どん底まで下られた主イエス、しかし、ここで逆転が起こります。天が開いて聖霊が主に降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」であると、神が宣言されたのです。この言葉を受けて、主イエスは十字架へと次第に降下していく道を、まっすぐに歩み始められました。
詩編84編を歌った信仰者は、おそらくバビロン捕囚で異国に捕らわれて、虐げられた生活をしている中に、神を慕い、「いかに幸いなことでしょう あなたによって勇気を出し 心に広い道を見ている人は」と歌ったのでしょう。
人生の旅路においては、誰しも困難がついて回ります。現実は厳しい限りです。しかし、にもかかわらず、神にすべてを委ねることで、「神から力を受けて」、「嘆きの谷」を通る時も、そこは「泉」となって祝福され、いよいよ力を増して進み「ついに、シオンで神にまみえる」ことが約束されているのです。
(井上博子)
1月24日(日) 聖日礼拝
「口を広く開けよ」 詩編81編1-11節
「わたしたちの力の神に向かって喜び歌いヤコブの神に向かって喜びの叫びをあげよ。ほめ歌を高くうたい、太鼓を打ち鳴らし琴と竪琴を美しく奏でよ。」(2-3節)。この年、主にしっかりつながって主を礼拝し、心から讃美を捧げましょう。
「わたしが、彼の肩の重荷を除き籠を手から取り去る。」(7節)。主は共に歩んでくださる方であり、私たちそれぞれが担っている重荷をご存知で、肩の重荷を取り除いてくださる方です。
「わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え。」(9節)。聖書の御言葉と聖日礼拝の説教を通して、主が自分に語りかけておられる御声を聞く必要があります。
「わたしが、あなたの神、主。あなたをエジプトの地から導き上った神。口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。」(11節)。主は、良きものを備えていてくださいます。主は、御自身に信頼し期待して、それを大いに受け取りなさいと語られています。
その良きものの最高のものは聖霊なる神です。聖霊を与えられることと聖霊に満たされることは全く違います。聖霊に満たされる必要があります。
(久多良木和夫)
1月31日(日) 聖日礼拝
「御言葉を実行する人」 ヤコブの手紙1章19-21節
「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」 (19節)。人との会話において話すより聞くことが大切です。神さまとの会話は、具体的にはお祈りと聖書の御言葉を聞くことです。
神さまは、特に御言葉を通して私たちに語ってくださいます。変わらない神さまの御心を御言葉を通して知ることができます。そのことで神さまがどのようなお方か、どのようなことをお望みであるかということを知ることができます。
「人の怒りは神の義を実現しないからです。」(20節)。人が怒っている時は神さまの素晴らしさを現していません。その怒りの原因を突き止めそこから解放されて行くことが大切です。怒ることは神さまの御心ではありません。怒りから解放されるよう祈り求めて行くことが大切です。
「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。」(21節)。御言葉に日々の生活で親しみ、御言葉を蓄えることはとても大切です。
「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」 (21節)。御言葉は罪や汚れから私たちを救う力があります。
「御言葉を行う人になりなさい。」(22節)。御言葉を聞き、それを実行することが大切です。マタイによる福音書には種まきのたとえがあります。聞いた御言葉を聞いて悟り、豊かに実を結ぶ者になりたいと思います。
(福永雄二師・日本ナザレン兄弟団福岡教会)
2月7日(日) 聖日礼拝
「新しい歌を主に向かって」 詩編98章1-13節
「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。」(1節)。
過去にとらわれていては新しい歌は歌えません。しかし、過去に引きずられることがあります。未来への不安を持っていては新しい歌は歌えません。しかし、将来の不安でいっぱいになることがあります。また今現在の課題によってつぶされそうになっていると新しい歌は歌えません。過去へのこだわり、未来への不安、そして今現在の課題も神にゆだね荷を軽くしていただきましょう。
「主に向かって歌い、御名をたたえよ。」(2節)。歌は神さまへの歌であり、讃美です。「大いなる主、大いに賛美される主、神々を超えて、最も畏るべき方」(4節)。主は天地万物の創造の主であり、生ける力あるお方です。人類の歴史の中に飛び込んで来て くださった方です。今も歴史を支配しておられるお方です。見える世界と見えない世界、この地上の世界と天上の世界を支配しておられるお方です。
私たちが仰ぐ主は、すべてを審かれる主でもあります(10,13節)。この主の備えてくださった救いの恵みを宣べ伝えていきましょう。
この主を崇め、主に喜ばれる讃美の歌を歌いましょう。
(久多良木和夫)
2月14日(日) 聖日礼拝
「洗礼者ヨハネの殉教」 マタイ福音書14章1-12節
洗礼者ヨハネを捕らえ、牢に入れ、最後に彼を殺したのは、ヘロデ・アンティパスです。主イエスのご降誕の時ユダヤの国の領主であったあのヘロデ王の息子の一人です。彼は人の顔色をうかがいつつ歩んでいました。
彼は、自分には妻がいたにも関わらず、その妻を追い出し、異母兄弟フィリポの妻であったヘロデヤを略奪し自分の妻としました。このことを、洗礼者ヨハネは律法に違反する行為であると指摘しました。
そのことを怒ったヘロデはヨハネを捕らえたのでした。そして、自分の誕生日の祝いの時にヨハネの首をはねました。しかし、ヨハネは主によって立てられた預言者としての生涯を全うしたのです。
その後、ヘロデはそのことでおびえる歩みをしました。最後は島流しとされ惨めな最期でした。
ヨハネの弟子たちは、自分たちの師が殉教したことを主イエスに報告に行きました。そしてヨハネが指し示した救い主である主イエスに出会い、永遠に続く救いをいただく道へと導かれたのでした。
(久多良木和夫)
2月21日(日) 聖日礼拝
「この岩の上に」 マタイ福音書16章13-20節
建物を建てる時、その家の構造と共に、その家の土台が大事です。人生の土台を何にするかはもっと大切なことです。
さて教会は、建物ではなく、神を信じ仰ぐ者たちの集まりのことです。
主イエスのことを、人々は、洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、エレミヤだ、預言者の一人だと考えていました。弟子の一人であるシモン・ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました(16節)。メシアとはヘブル語で油注がれた者、救い主という意味です。言語のギリシャ語からくる直接の訳はキリストであり、救い主という意味です。
主イエスは、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と言われました(18節)。この岩とは、ペトロ自身ではなく、その信仰告白を意味しています。
教会とは、「主イエスを救い主」と告白した者が、この世から呼び集められて構成されたものです。
「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(19節)。
この救い主である主イエスをこの世に証しして行きましょう。
(久多良木和夫)
2月28日(日) 聖日礼拝
「新しい契約」 マタイ福音書22章14-23節
弟子たちと過ぎ越しの食事をすることを、主イエスは切に願っておられました。弟子たちが知らない間に一つ一つ準備を進めておられたのです。ヨセフの家にお生まれになった時から、毎年続けて来られた過ぎ越しの食事、それが主イエスにとっては最後のものであることを主は知っておられたのです。
モーセの時代、出エジプトの時に神様はイスラエルの民に「あなた方は私の宝の民だ、あなた方を愛する、この約束を守りなさい」と告げられ、民は「あなたのお言葉に従います。」と契約が成り立ったのです。しかし、民は従うことができませんでした。
『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である』(20節)と語られたこの新しい契約には、罪の赦しが宣言されています。主イエス・キリストが神様と私達人間との仲保者、真ん中で執り成す方となってくださいました。
(久多良木志津子)
3月6日(日) 聖日礼拝
「命を献げるために来られた方」 マタイ福音書20章20-28節
主イエスの12名の弟子の中の2名が、母親に頼んで、主イエスの両隣の席につくことを願いました。それを知った10名の弟子たちは腹を立てました。自分たちもそう願っていたのに先を越されたからです。
仕える人より仕えられる人になりたいと願いました。これは弟子たちだけでなく、私たちのほとんどの者たちの願いです。
家庭において、黙々と家族のために仕える人がいるおかげで、家庭の歩みは守られています。社会においても同じです。
主イエスは、最後の晩餐の前に弟子たち全員の足を洗いました。誰もしたいと願わなかったことを自ら引き受けました。 「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13:14-15)。
「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(26-28節)。
(久多良木和夫)
3月13日(日) 聖日礼拝
「沈黙された主イエス」 マタイ福音書27章11-31節
主イエスは、総督ポンテオピラトの前で、不正な裁判を受け、有罪判決を出され、十字架につけられ殺されました。
祭司長、長老たちのねたみと怒りにより、民衆は扇動されました。人々は、主イエスではなく、バラバを釈放するよう要求しました。ピラトも自分の身分を失わないために有罪の判決を言い渡しました。また、人々は有罪にするために、主イエスに不利な偽りの証言をしました。
するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。(13-14節)。主イエスは沈黙を通されました。言い訳もせず、抗弁もなさいませんでした。罪に支配され滅びに向かう私たちの罪をご自分が負って、十字架に架かるためでした。
「苦役を課せられて、かがみ込み彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように毛を切る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった。」(イザヤ書53章7節) の予告の通りに主イエスは歩み通されました。
(久多良木和夫)
3月20日(日) 聖日礼拝
「私の家は、祈りの家」 マタイ福音書21章12-17節
ろばに乗ってエルサレム神殿に入城された主イエスは、境内で売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されて、「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」(13節)と言われ、その後で、側に寄って来た目の見えない人や足の不自由な人たちを癒されました。
ここには、怒りを爆発された主イエスと、優しい思いやりに満ちた主イエスのお姿が対比的に描かれています。神が神として立てられずに、「祈りの家」であるべき神殿が汚され、神殿においてさえ、貧しい人々や、寄留の外国人や孤児や寡婦といった立場の弱い人々や、目の見えない人や足の不自由な人々がほったらかしにされている。そしてそれを見ながら、その上にあぐらをかき、私腹を肥やしている人々がいる。主イエスの怒りは爆発します。
しかし、怒りの主イエスと優しく思いやりに満ちた主イエスの、その根底にあるものは、貧しい人々や弱い立場にある人々に対する「愛」と共感であります。主イエスは、今、この時も私たちを「祈りの家」へと招いて下さっています。
(井上博子)
3月27日(日) イースター礼拝
「復活なさった主イエス」 マタイ福音書28章1-10節
主イエスの十字架は私たちの背きと咎のためでした(イザヤ書53章5節前半)。
主イエスは、十字架の上で七つの言葉を発せられました。その中には私たちのためのゆるしの言葉、断絶の言葉、苦痛の言葉がありました。
十字架の目的は、私たちの平和といやしを与えるためでした。「彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ書53章5節後半)。主イエスは、私たちの罪を背負って身代わりとなってその罰を受けてくださいました。
十字架の上で七つの言葉の中には私たちのための救いの言葉、完了の言葉がありました。主イエスは、救いの業、贖いの御業を完了してくださいました。私たちのために天の御国の門を開いてくださいました。
「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」(5、6節)。主イエスは、復活し弟子たちのもとに戻って来られました。死が打ち破られたことを、そして主イエスと共に歩む命と天の御国における命があることを宣言するためでした。
(久多良木和夫)
4月3日(日) 聖日礼拝
「いつもあなた方と共に」 マタイ福音書28章16-20節
主イエスの復活は2つのことを私たちにもたらしました。
一つは、この地上の歩みにおいて、主イエスの勝利をいただけるということです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16章33節)。
もう一つは、天の御国において、永遠の命をいただけるということです。 「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(コリント一16章33節)。死が最後ではないということです。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(20節)。 主イエスは、いつも共にあり、主イエスの救いに与った者を新しい存在として生かしてくださいます。
「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリント二5章17節)。古さの中ではなく、新しさの中に生きるのです。主の御心をいつも尋ねつつ歩むのです。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。(ヘブライ15章5節)。
(久多良木和夫)
4月10日(日) 聖日礼拝
「心燃やされて進む」 ルカ福音書24章13-35節
私たちの心の状態は、一日の中でも大きく変わります。日によっても大きく変わります。上がったり下がったりします。特に自分のこと、家族のこと、人間関係のこと等で難しい課題を抱えていると心は重くなり元気を失います。
主イエスの二人の弟子たちも、十字架の死の直後、心落ち込み、エルサレムからエマオに向けてとぼとぼと歩んでいました。
その時一人の方が二人のそばを共に歩まれました。その方こそ復活された主イエスでした。主イエスは、聖書を解き明かす話をされました。
「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」(26-27節)。
二人は、その時心が燃やされました。(32節)。その理由は、死がすべてではない、死を打ち破られた方がおられる、過去の喜びをもう一度いただくことができる、一人ぼっちではない、共に歩んでくださる主イエスがおられるからです。
困難な事柄に遭遇しても、主は私たちの心を支え、勝利へと導いてくださいます。
(久多良木和夫)
4月17日(日) 聖日礼拝
「わたしの羊を飼いなさい」 ヨハネ福音書21章15-19節
復活の主イエスは、ガリラヤ湖で漁に行き詰まっていたペトロたちに声をかけて助けられました。今も生ける主は私たちの行き詰まりを助けてくださいます。
朝食の後、主イエスはペトロに三度「わたしを愛するか」とお尋ねになりました。その理由は、ペトロが三度主を否んだことを思い出させ、そのことを悔い、
こころのしこりを除くためでした。
主は、罪に苦しみ悲しむ者に、罪の赦しを与えてくださるお方です。その深いご愛によって主は癒してくださいます。
イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」(17節)。羊とは信仰を持って間もない人たちを指しています。その人たちの信仰を深めることを直接導かれるのは神ご自身です。その人たちを大事にし、間接的に信仰を深める働きが託されています。それは私たち信者一人ひとりに対してです。
(久多良木和夫)
4月24日(日) 聖日礼拝
「神をほめたたえる群れ」 ルカ福音書24章45-53節
イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
(45-46節)。主イエスは十字架につけられ死なれ、そして復活されました。そのことを通して、罪の赦しを与えてくださいました。
また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる(47-48節)。そのための力は聖霊降臨を通して与えてくださいました。
彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた(52-53節)。弟子たちは、主イエスの昇天の後、いつも神をほめたたえていました。聖霊によって神の愛を心にいっぱい注がれ感謝し喜びにあふれ神を賛美していました。
神を賛美することほど幸いなことはありません。そのことでまた主を信じ仲間に加わる者たちが多く起こされました(使徒言行2章47節)。
(久多良木和夫)
5月1日(日) 聖日礼拝
「聖霊が降ると」 使徒言行録1章3-11節
本日は、私たちのホーリネスの群が結成されて70周年の記念日を覚えての礼拝です。
「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」(3節)、これは復活の主イエスによって弟子たちに語られた御言葉です。私たちは生きていくために、目の前のことに取り組むのに、主に従っていくのに力が必要です。主はその力を用意してくださっています。
1942年6月から敗戦の1945年8月まで宗教弾圧を受けたホーリネス系教会の中から、戦後2年目の1946年5月にホーリネスの群れが結成されました。1946年1月に復興新年聖会が、5月1日から3日まで春季復興全国大会が開かれました。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(8節)。 困難の中を通ることがあっても、主が共にあって守ってくださる、必要な力を与えてくださいます。主の愛と恵みを証していきましょう。教会においては、教会形成、伝道(宣教)に励んでいきましょう。
(久多良木和夫)
5月8日(日) 母の日礼拝
「心を合わせての祈り」 使徒言行録1章12-14節
母の日の由来は、今からおよそ100年前に、アメリカのアンナ・ジャービスさんがクリスチャンであり、自分を生み自分に愛を注ぎ祈りつつ育ててくれた母親に感謝しての記念会の時にお母さんの大好きだったカーネーションをたくさん飾ったことが始まりだと言われています。
主イエスの母マリアは、主イエスの母となる栄光にあずかりましたが、十字架の死を見届けるという大きな悲しみも経験しました。そのマリヤは、復活の主イエスが召天された後、主イエスの弟子たちと共にお祈りをしていました。それは、主が約束された父なる神からのプレゼントを信じていたからです。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」(14節)。
プレゼントとは、高いところからの力です。その力は単なる力ではなく、聖霊による力です。そのことを弟子たちは、ペンテコステの日に経験するのです。
主にある兄弟姉妹と共に祈ることは幸いなことです。教会においては、週半ばの定例祈祷会、週後半の朝お祈り会、ぜひ共にお祈りしましょう。
(久多良木和夫)
5月22日(日) 聖日礼拝
「地を受け継ぐ人々」 マタイ福音書5章5節
主イエスは、山上の説教で、「心の貧しい者」「悲しむ者」の幸いに続いて、「柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」(5節)と「柔和な者」の幸いについてお話しになりました。
主イエスの言われた「柔和な人」とは、ただ大人しく、穏やかな人と言うだけではなく、また、優柔不断で、弱々しく、人に追従するだけの人のことでもなく、逆境の中にあっても、神を信じて、神に望みをおき、神の意志に従って生きようとする人のことであり、それは、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)と言われ、また、エルサレムに入城される時も「柔和」の象徴である「ろば」に乗っていかれた主イエスご自身のお姿そのものでありました。
十字架というどん底においても、柔和の限りを尽くされた主イエス・キリスト、この方によって、「柔和な人々は、地を受け継ぐ」という幸いは、真実となりました。私たちもまた、いろいろな事に悩み、重荷を背負って、喘ぎながら歩む者ですが、しかしそこには、「地を受け継ぐ」という約束と幸いが与えられていることを覚えて、感謝と希望をもって歩みを進めさせていただきましょう。
(井上博子)
5月29日(日) ペンテコステ礼拝
「預言、幻、夢」 使徒言行録2章14-21節
ペンテコステの日に、ペトロは力を受け、そこに集まった人々の前で説教をしました。この聖霊降臨の出来事はヨエル書の預言の成就であることを告げました。「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。 『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」(16-17節)。
聖霊は救いのパスポートとなってくださった方です。どのような大変な状況の中においても聖霊の支えの中で主イエスの御名を呼び求める者は皆、救われます。(5節)。
預言とは、神の言葉に生かされ、その御言葉を共に分かち合うことです。幻とはヴィジョンであり、新たな計画のことです。夢とは希望であり喜びのことです。
神は味方なる方です(ローマの信徒への手紙8:31)。主の救いは確かです(イザヤ書43:1)。主は心を支え強めてくださるお方です(ルカ福音書4:32)。 (久多良木和夫)
8月7日(日) 聖日礼拝
「賛美の歌を歌え」 詩編149編1-9節
詩編の最後の5編は「ハレルヤ詩編」と呼ばれます。その中の4番目が詩編
149編です。
口の働きは、食べ物を食べたりや飲み物を飲むこと、話すこと、そして歌うことです。その歌の中で、神に感謝し、神をほめたたえる歌が賛美です。
「ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。」(1節)。 なぜ賛美の歌を歌うことができるのか、その理由は、神が私たちを救うと約束され、決してその約束を変えられることなく、救い主をお送りくださり、救いの御業を完成してくださったからであり、今も変わることのない愛を注ぎ続けてくださっているからです。
「主は御自分の民を喜び 貧しい人を救いの輝きで装われる。主の慈しみに生きる人は栄光に輝き、喜び勇み 伏していても喜びの声をあげる。」(4-5節)。 どのような時も、自分の乏しさを認め、主に信頼する者に対して、主なる神は救いの輝きを豊かに与えてくださいます。主の変わることのない愛とご支配に信頼して歩むものを栄光に輝かしてくださいます。
(久多良木和夫)
8月14日(日) 召天者合同記念礼拝
「天の父なる神の家」 ヨハネ福音書14章1-7節
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(1節)。 特別に難しい問題や課題を抱えるとき、不安、恐れに包まれます。主は、「心を騒がせるな」と語りかけてくださっています。大丈夫だ、共にいて助け、支えると約束してくださっています。不安、恐れの時、主なる神に呼び求めましょう。
この地上で住まいを確保することは大変なことです。全財産をつぎ込まねばならないこともあります。地上の生涯を終えた後に、天の御国に移されます。天の御国における住まいはどう確保できるでしょうか。
「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(2-3節)。
天の神様は、主イエス・キリストのゆえに、イエス・キリストの命と引き換えに、天の御国における住まいを用意してくださいました。なんという大きな感謝でしょう。主イエスを信じる者への特別な恵みです。
(久多良木和夫)
8月21日(日) 聖日礼拝
「主を畏れ、悪を避けよ」 箴言3章1-12節
箴言の箴は鍼灸の鍼(はり)の意味です。知恵の言葉で人生のツボをつくという意味です。箴言のキーワードは、「主を畏れる」ということです。1章7節、9章10節に記されています。
諭しは尊いものです。ただし、その諭しが相手の心に届くのは、その相手が心を開いた時だけです。心が開かれた時初めて相手の心には届きます。
「慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び心の中の板に書き記すがよい。そうすれば、神と人の目に好意を得、成功するであろう。」(3-4節)。 慈しみは、原語ではヘセドというへブル語であり、神が私たちを救うと約束された神の契約の愛であり、決して変わることがありません。まこととは、原語ではエメトというへブル語であり、真理、真実、信頼、安定という意味です。神の確かな愛の内に留まって歩みなさいと語られています。
「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」(5-6節)。 自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。」(7節)。真の生ける聖なる神の御愛を深く知り、その方の御心を受け止め、その方を心から敬い、畏れ、従う歩みの中にまことの幸いがあることを教えています。
(久多良木和夫)
8月28日(日) 敬老祝福礼拝
「定められた時」 コヘレト3章1-8節
「コヘレトは言う。なんという空しさなんという空しさ、すべては空しい。」(1:2)。コヘレトは、知恵、快楽、金銀のすべてのすべてを手に入れた後に、深いむなしさを感じ、そう語っています。その理由の最大のことは、死をもって人生の終わりが来ることだからです。死んでしまえばすべてが消えてしまうからです。「賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。」(2:16)。
「何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時。」生まれる時と死ぬ時は決めることができません。自然の時の流れは、ギリシャ語では「クロヌス」であり、神によって供えられた特別の時は「カイロス」です。
自分で決断して選ぶ時もありますが自分では選べない時もあります。大きな自然災害や事故等の思ってもみないことが起きることもあります。また、悪しき国家や悪しきグループが暗躍している現実に歯がゆい思いがします。良き時が来ることを忍耐して祈り待つ必要があります。
「裂く時、縫う時、黙する時、語る時 愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時。」(7.8節)。
(久多良木和夫)
9月4日(日) 聖日礼拝
「創造主を心に留めよ」 コヘレト12章1-14節
コヘレトとは、伝道者、集会の招集者、説教者のことです。口語訳では伝道の書と言っていましたが、新共同訳では言語の発音のまま、コヘレトの言葉を言っています。
青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」言う年齢にならないうちに。(1節)。
青春の日々とは、決して10代、20代だけを指しているのではありません。30代、40代、いや70代、80代になっても、神の呼びかけに応答する心を持っているならば、すべてその時が青春の日々です。
3節から7節にかけての描写は、町に住む人たちが年を取り、仕事もできなくなり町が廃れていく様をうたっています。それと同時に、人の身体が年を取って衰えていく様をうたっています。歯が抜け、目がかすみ、耳が遠くなり。声が出なくなり、身体がだんだん曲がり弱くなる様子を伝えています。
すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。(13節)。
私たち人間は、神のかたちに似せて造られました。神と交わり、神を礼拝するものとして造られました。その神に立ち返って、神の語りかけを聞きつつ歩む者となることこそ、幸いです。
(久多良木和夫)
9月11日(日) 聖日礼拝
「恋人よ、美しい人よ」 雅歌2章7-17節
雅歌は、聖書66巻の中で、最も特異な書と言えるでしょう。そこには愛し合う一人の若者と一人のおとめの恋の歌が記されています。素晴らしい愛の讃歌がそこにあります。この恋の歌は、キリストと教会の間の関係、神とクリスチャンとの関係を歌っています。
若者は語ります。「恋人よ、あなたは美しい。あなたは美しく、その目は鳩のよう。」(1:15)。「恋人よ、あなたはなにもかも美しく傷はひとつもない。」(4:7)。おとめは歌います。「恋しいあの人はわたしのもの わたしは恋しいあの人のもの ゆりの中で群れを飼っているあの人のもの。」(6:3)。
若者はかもしか、若い雄鹿にたとえられています。(9節)。おとめに対して呼びかけています。「恋人よ、美しいひとよ さあ、立って出ておいで。」(13節)。「岩の裂け目、崖の穴にひそむわたしの鳩よ 姿を見せ、声を聞かせておくれ。お前の声は快く、お前の姿は愛らしい。」(14節)。
これはキリストからの私たちへの呼びかけです。「あなたは価値ある人、大事な人、私の愛のふところに飛び込んでおいで」と。キリストの愛に応答して進む私たちでありたいものです。
(久多良木和夫)
9月18日(日) 敬老祝福礼拝
「神の輝きを見る」 イザヤ書35章1ー4節
「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ 野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ 大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ カルメルとシャロンの輝きに飾られる。」(1-2節)
雨がずっと降らない日が続くと、草木は元気を失い、ついには枯れてしまします。しかし、ひとたび雨が降ると草木はまた元気になります。自然界と同じく、私たちの心、魂がカラカラになり枯れ果ててしまうことがあります。必要なものは慰めと支え、励まし、休息、新たな希望です。それはどこから来るでしょうか。お金、趣味、楽しみ、世の中からでしょうか。それは家族、伴侶、親友からでしょうか。本当に変わらない天の神さまから、そして真の友であるイエス様からこそ与えられるのです。
旧約の時代に、希望を全く失う事態の中に置かれたイスラエルの民に対して、希望と回復の出来事が起きました。そのことを教える預言がこの箇所です。
天の神さまは、救い主イエス様をお遣わしくださり、罪の赦しと神とつながる道、天の御国を備えてくださいました。
「人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。」(2節)。 主イエスを信じ従う者に恵み、喜び、感謝、希望が与えられます。神の輝きを受け、それを映し出す者とさせていただきましょう。
(久多良木和夫)
9月25日(日) 聖日礼拝
「だから、こう祈りなさい」 マタイ福音書6章5-9節
「主の祈り」は、祈ることを知らなかった弟子たちが、「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」と、主イエスに願ったことに応えて、「こう祈りなさい」と教えてくださった祈りですが、主イエスはその前に、祈る時の心構えについて次の三つのことを言われました。
①「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない」(5節)。心を神に向けて祈っている様な振りをしながら、つまり、ポーズを取って、その実は、自分の祈りが周囲の人たちに、どう聞かれているか、他人の評価を気にしながら祈っている。彼らはすでに人からの賞賛を得ており、神からの報いはない。
②「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(6節)。いっさいのものの目から覆い隠されたところで、神はわたしたち一人一人と会って下さるからです。
③「あなたがたが祈るときは、異邦人のように、くどくどと述べてはならない」(7節)。同じ言葉を無意味に繰り返して祈る異邦人の祈りに対して、主イエスは、「彼らのまねをしてはならない」と言われました。神は、私たちが祈ると祈らざるとにかかわらず、私たちに何が必要であるかをすべてご存じであるからです。
「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ』」。このお方に呼びかけ、訴え、問いかける、それが祈りであります。
(井上博子)
10月2日(日) 聖日礼拝
「剣を鋤に、槍を鎌に」 イザヤ書2章1-5節
「彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」(4節)。これは今からおよそ2700年前に、預言者イザヤを通して語られた預言です。
この時、北イスラエルは大国アッシリアに滅ぼされ、南ユダも滅ぼされるかもしれない状況でした。その後、南ユダは大国バビロニアに滅ぼされました。
この御言葉は、ニューヨーク市の国連本部のラルフ・バンチ公園のイザヤの壁に刻まれているそうです。
剣や槍、それは戦いの武器です。現代で言えば、機関銃、ロケット弾、ミサイル、戦闘機、戦艦等を意味します。鋤や鎌は農業の道具です。作物を育てる道具です。
主イエスは、ゲッセマネの園での祈りの後、捕らえに来た者たちの一人の耳を剣で切り落とした弟子を叱責され、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と語られました(マタイ26章52節)。
イザヤ書の2章4節は理想の内容とも思えます。しかし主は、そのような世界を起こすことを約束しておられます。また、主への全き信頼がなければ、剣や槍を捨て去ることはできません。主のご支配と助けをいただき、主の御心に従っていきましょう。
(久多良木和夫)
10月9日(日) 聖日礼拝
「イザヤの召命」 イザヤ書6章1-13節
イザヤは、ウジヤ王が死んだ年の紀元前742年に高く天にある御座に主が座しておられるのを見ました。そして主の臨在に触れました。真に頼るべき方は王様ではなく主なる神であることを知らされました。
そして天の使いであるセラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」と言う声を聞きました(1-3節)。イザヤは、圧倒的に聖い神を教えられ、自分自身の罪を示されました。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」と告白しました(5節)。
セラフィムのひとりが、イザヤのところに飛んで来て口に炭火を触れさせて、「見よ、これがあなたの唇に触れたのであなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」と告げました(6-7節)。
咎を取り去っていただき、罪を赦していただいたイザヤは、真の献身へと導かれました。主よりの「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」との問いにイザヤは、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と答えました(8節)。 イザヤの預言者としての生涯には様々な困難がありました。しかし、イザヤは、その働きを主に導かれて全うしました。
(久多良木和夫)
10月16日(日) 秋の特別歓迎礼拝
「がんばらないで」 イザヤ書60章1-2節
私は、神学校を卒業し牧師となり、アメリカのある一つの教会において、担任教師となり自分の力を存分に出し尽くしました。あまりに頑張りすぎ、また大変なこともあり、燃え尽き症候群になってしまい、働きを退き、引っ越しをし、2年間家に閉じこもっていました。
ある日、ハイウエイを運転していた時、自分が運転していた車の2.5倍ほど大きい自殺志願者の車が猛スピードでぶっつかって来て、瀕死の重傷を負いました。その大怪我のため11回の手術を受けました。そのことがあり、さらに5年間、家の中に引きこもっていました。
しかし、私の甥は、もっと大変な出来事を経験し、大きな夢が一瞬で崩れ去った時、30分ほど号泣した後、天の神さまを見上げ、こう叫びました。「神さま感謝します。僕を今日まで守ってくださり感謝します。ドリームアゲイン、神さまは必ず新しい夢を見させてくださいます。」と。私は、その彼の姿を見て、再び天の神さまを見上げました。そして、立ち上がり、引きこもりから抜け出すことができました。
「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り 主の栄光はあなたの上に輝く。」(1節)。 自分で頑張って光を放とうとしてもそれは限界があります。神さまの大きな愛と恵みのご支配をいただいて歩むとき、本当に光を放つことができるのです。
(クスマン・典子師)
10月23日(日) 聖日礼拝
「とこしえに立つ神の言葉」 イザヤ書40章1-8節
私たちの歩む生涯においては、嬉しいことと共に悲しいことも時に起きます。先が見えず、不安になることもあります。
「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」(1-2節)。預言者イザヤは、暗いトンネルを出るとき、回復と希望の時が来るという預言を告げました。主なる神が慰め励ましてくださるのです。
「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備えわたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」(3節)。 神は、確かな道、救いの道を備えてくださいました。クリスマス、十字架、復活のできごとをなしてくださいました。
「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。」(6節)。「草は枯れ、花はしぼむがわたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(8節)。 元気な身体も年と共に弱り衰えます。人生の後半に自らの終わりを思いめぐらします。
あなたを造り見守ってくださるお方がおられます。その方は永遠なるお方、力あるお方、祝福してくださるお方、あなたを生かすお方です。その方を見上げ信頼するとき、確かな歩みが与えられます。
(久多良木和夫)
10月30日(日) 聖日礼拝
「わたしはあなたを贖う」 イザヤ書43章1-7節
聖書を通して、神の語りかけを聞くことは幸いです。イザヤ書43章のこの箇所は素晴らしい語りかけに満ちています。
「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず炎はあなたに燃えつかない。」(2節)。「わたしの目にあなたは価高く、貴く」(4節)。
「ヤコブよ、あなたを創造された主はイスラエルよ、あなたを造られた主は今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(1節)。 主なる神は、贖うと宣言されています。贖うということの意味は、奴隷の状態から自由の身にするために、その解放のための代価を完全に支払ってくださるということです。
神は、このイザヤの預言を歴史の中で成就してくださいました。私たち人間の罪の償いをしてくださいました。神の独り子であるイエス・キリストをこの世に遣わされました。主イエスは、私たちの罪の身代わりとなって死に、罪の代価を完全に支払ってくださいました。私たちの命と引き換えに、主イエスは十字架の上で死んでくださいました。
(久多良木和夫)
11月6日(日) 聖日礼拝
「魂に命を得よ」 イザヤ書55章1-7節
私たちはのどが渇くと共に、魂が渇きます。魂とは心の一番深い部分です。忙しさ、競争、人間関係の難しさ、様々な問題により、また自分がどこに向かっているのかわからなくなったり、自分がやってきたことに意味が分からなくなったりした時、心が弱り、魂が渇きます。
「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め 価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」(1節)。 渇いている者への招きがここにあります。
渇いている時、何とかその渇きを癒そうといろいろ試すことがあります。一時的なものに走ることもあります。深い癒し、満たしは天の神さまから与えられます。水のところとは天の神さまのところです。主は、命の水をくださいます。その水は永遠の命の水です。その水を主はただでくださいます。主イエス・キリストの十字架のゆえに、価なしでくださいます。
「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。」(3節)。 主の御心は、私たちが魂に命を得ることです。 「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。」(7節)。
「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4章14節)。 主が共に歩んでくださる。なんと幸いなことでしょう。どんな時も主は一歩一歩を守り導いてくださいます。
(久多良木和夫)
11月13日(日) 聖日礼拝
「良い知らせ」 イザヤ書61章1-4節
私たちのもとには、様々なニュースが届きます。悲しみのニュースを聞くことが多いです。でも時に喜びのニュースを聞きます。喜びのニュースの一つは子どもの誕生であり、成長です。
心が悲しみに包まれる時、どうしたら良いのでしょうか。おいしいものを食べたり運動したり、眠ったりとするかもしれません。
「主はわたしに油を注ぎ主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み捕らわれ人には自由をつながれている人には解放を告知させるために。」(1節)。
主なる神の御心は、悲しみの中にある者を心配してくださり支えてくださることです。わたしはあなたと共にいると語り掛けてくださり支え守ってくださいます。癒しと平安の恵みを与えてくださいます。いろいろなことにとらわれ不自由になっている私たちを解放してくださいます。
ここで語られている主とは天の神さまのことであり、わたしとは、直接的には預言者イザヤのことでしょうが、究極的には主イエスのことです。天の神さまは私たちの救いのために主イエスをお遣わしくださいました。主イエスは、私たちそれぞれが払いきれない罪の代価をご自身の死を通してすべて支払ってくださいました。
(久多良木和夫)
11月20日(日) 聖日礼拝
「神の計画と恵み」 テモテ二1章9-14節
パウロがテモテに託した福音を宣べ伝えることに対して、「折がよくても悪くても励みなさい」(4:2)と言っています。当時パウロは、ローマの獄中にいました。愛するテモテはパウロの同労者として働き、パウロの心の友となり、忠実にパウロに尽くしたのでした。当時ローマ皇帝ネロのキリスト教迫害が激しくなっていましたので、パウロはテモテのことが心配になり牢獄からこの手紙を送ったのです。
「キリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」(2:1)。そして「キリストの立派な兵士として私とともに苦しみをしのびなさい」(2:3)とテモテを激励しています。
私達は、誰でも苦しいこと、つらいこと、悲しいことは避けて通ることを願います。パウロでさえも、肉体にあるトゲを取り去ってくださるように「わたしは三度主にお願いしました」(コリント二12:8)とあります。すると主は「わたしの恵みはあなたに十分である」(コリント二12:9)と言われています。
この福音のため私達もパウロも同じように苦しみを忍び歩む時に、神さまの大きな愛と恵みが注がれる、そのことに気づき、しっかり主につながっていきたいと願う者であります。
(阿部充子師)
11月27日(日) 聖日礼拝
「思い悩むな」 マタイ福音書6章25-34節
イエスは、山上の説教で、「天に富を積みなさい」(20節)とお話しになりました。しかし、衣・食・住の悩み、富(お金)の悩みは何処に行っても付いて回るわけで、神にだけ頼っていれば大丈夫なのか、という疑いは常に起こってくるものです。そこで、主イエスは「だから、言っておく」と前置きされて、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(25節)と言われ、「空の鳥、野の草」を模範として示され、空の鳥、野の花たちが、どれほど、「今」というこの一瞬をひたむきに生きているか、その姿を見なさいと言われました。
それに対して私たち人間はどうでしょうか。暗い罪に満ちた自分の過去に目
をやり、過去を引きずりながらくよくよと思い悩みます。また、予想のつかな
い将来(明日)に目をやり、どうしょうか、と不安に駆られて思い悩みます。
過去への後悔と将来への不安の狭間で、与えられた今日という現在をどれだけ
生き切っているのか、と問われているのではないでしょうか。
市岡裕子さんが、ニューヨークのハーレムの教会で、ゴスペルを共に歌う仲間から、今日という日を大切に生きることを教えられたと話されていました。
「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」(34節)。 明
日のことについては、天の父の配慮が必ずあることを信じていきましょう。
(井上博子)
12月4日(日) 聖日礼拝
「インマヌエルの主」 マタイ1章18-25節
クリスマスの喜び、感謝、希望は一年を通して与えられるものです。しかし、それらを打ち消すものは多くあります。この世に深い闇が覆っています。それは預言者イザヤが告げている通りです。イザヤはその闇の中に歩む者たちは大いなる光を見ると預言しています(9章1節)。
イザヤ書9章5節において、救い主の誕生の預言を伝えています。その預言からおよそ700年してクリスマスの出来事は起きました。
イザヤは、救い主の4つの称号を告げています。第1番目は「驚くべき指導者」です。第2番目は「力ある神」です。第3番目は「永遠の父」です。第4番目は「平和の君」です。
マタイ福音書では、第5番目の称号を告げています。それは「インマヌエルの主」です。 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である (23節)。 私たちのすべての罪を背負って十字架についてくださった救い主はいつもあなたと共にいてくださいます。
婚約者のヨセフは、マリヤの話してくれたことが、神によってなされたことを知り、マリヤを受け止めました。マリヤから救い主イエス様が誕生したのです。
(久多良木和夫)
12月11日(日) 聖日礼拝
「神からの大いなる恵み」 ルカ福音書1章26-38節
マリアは救い主の母として選ばれました。まだ十代半ばであり、ヨセフと結婚の約束をしていました。み使いガブリエルのみ告げにマリアは驚きました。み使いは、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」と語りました(30-31節)。
救い主の4つの称号、それは第1に「驚くべき指導者」であり、第2に「力ある神」であり、第3に「永遠の父」であり、第4に「平和の君」です。第5には「インマヌエルの主」があり、さらには第6に「イエス」です。イエスとは神は救う方という意味です。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(35節)。 聖霊なる神のご支配とお働きの中で、主イエスはマリアの胎に宿り、人としてお生まれになりました。
クリスマスの本質的な意味は、神が私たちと同じ人間になることを通して、私たち人間を罪の滅びより救うことです。
マリアは、神の愛、ご支配、力を受け入れました。このようにして、救い主はこの世においでになったのです。 (久多良木和夫)
12月19日(日) クリスマス礼拝
「飼い葉桶の中のキリスト」 ルカ福音書2章1-7節
物事がうまく運ばない時、困難な問題が立ちはだかる時、もがき苦しみます。
今からおよそ二千年前、ユダヤの国はローマ帝国に支配され、税を課せられ、命じられたことに従わねばなりませんでした。
マリアとヨセフは住民登録をするために、ベツレヘムに出かけました。ベツレヘムは人でごった返し、宿屋はどこもいっぱいでした。救い主の誕生がこの町で起こるなどは誰も夢想だにしていませんでした。神の御心に心を向ける余裕もなく過ごしていました。
マリアは月が満ちて、この町で、救い主を産みました。その生まれた場所は立派な宮殿でも立派な宿屋でもなく、岩を掘りぬいた洞窟の家畜小屋でした。
「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(6-7節)。 家畜のえさが残り、よだれがついている飼い葉桶、そこに赤ちゃんイエス様は寝かされました。
主イエスが来られた理由は、人々から良いものを受け取るためではなく、人々に良いものを与えるためでした。その良いものとは、お金や名誉といったものではありません。過ぎゆかないものです。それは罪の赦しであり、神とつながって生きる永遠の命です。
私は、立派どころではない、みじめで汚れていると答えるかもしれません。
でも、あなたが心から願うなら、主は、あなたの内にお住まいくださいます。
(久多良木和夫)
12月25日(日) 年末感謝礼拝
「主からの力」 詩編84編1-13節
私たちの教会の今年最大のできごとの一つは、『伝道開始70周年記念誌』の発行でした。
詩編84編には、5節、6節、13節の3カ所で「いかに幸いなことでしょう」と語られています。2016年の御言葉は、「いかに幸いなことでしょうあなたによって勇気を出し心に広い道を見ている人は。」(6節)です。
勇気の原語は本来、力を意味します。広い道を見るの原語は、「シオンへの大路がある」とも訳されています。すなわち主への礼拝に心をとめ大事にするということです。
主からの力ということで、3つのことを掲げました。第1は罪と世に勝つ力であり、第2は試練を乗り越える力であり、第3は人を愛する力です。罪と世に勝つことも、試練を乗り越えることも、人を愛することも簡単なことではありません。だからこそ、主から必要な力をいただくのです。
「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。」(7節)。 雨の降らないところで、嘆きと悲しみを経験しても、水が湧き出る泉をいただいているなら、感謝に変わります。主の御愛の中でその恵みをいただきましょう。 (久多良木和夫)