2024年

 1月7日() 新年礼拝 

  「主の名よって共に集う」  タイによる福音書18章18-20節

 

 新年早々、1日に能登半島地震があり、2日に羽田空港での日航機と海保機と

の衝突事故、3日に小倉の鳥町食道街での火災とありました。この大変さにある

方々が、励まし合い、助け合いの中で、日々の歩みが守られることを願います。

 

 「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつなが

れ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(18節)。なぜ、

そのようなことがなされるのか、それはぺトロが主イエスに対してあなたはメシ

ア、生ける神の子ですと信仰告白をし天の国の鍵を授かったように、主イエスを

救い主と信じるその信仰に、主が応えてくださるからです。

 

 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あ

なたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名

によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命

したのである。」(ヨハネによる福音書15章16節)主イエスの名による祈り

を主は聴いてくださいます。

 

 「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人

が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださ

る。」(19節)。

 一人で心を込めて祈ることは幸いなことです。二人で心を合わせて祈ることは

さらに幸いです。主がその祈りを聴き応えてくださるからです。信仰の友との祈

りを大事にし、また週半ばの祈祷会にもこの年励みましょう。

 

 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中に

いるのである。(20節)。ダビデとヨナタンは信仰により心を合わせました。

ヨナタンは父サウルの後、王位を継ぐことよりも神に選ばれたダビデの進むべき

道を大事にしました。

 

 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる

福音書28章20節)。主は共にいてくださるお方です。二人または三人が、主

イエスの名によって集うところに、インマヌエルの主がより確かに共にい

てくださるとの約束がここにあります。

                          (久多良木和夫)

 

 1月14日() 聖日礼拝 

   「祝福を受け継ぐために」    ペトロの手紙一3章8-16節 

 

 この世では、大変なこと、悲しいこと、つらいことが多くあります。能登半島地震、遠いウクライナでの戦争等です。そのよう中で互いに励まし合い、支え合うことは大きな力となります。

 

 「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」(8節)。心を一つに合わせ、同情し合い、互いに愛し、憐みを掛け合い、謙虚でありたいものです。 

 

 「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、 悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」(10-11節)。4つのことが告げられています。第1のことは舌を制して悪を言わないようにしなさいということです。他の人のことを悪く言ってしまうことを慎むことです。第2は唇を閉じて偽りを語らないようにしなさいということです。自分中心にあれこれ語り、特定の人を隅っこに追いやり弾き飛ばしてしまうことがないようにすることです。第3のことは、悪から遠ざかり善を行いなさいということです。悪は自分に益をももたらすように見え魅力的です。悪に近づきすぎることをやめ、遠ざかることです。第4は、平和を願ってこれを追い求めなさいということです。家族との関係、親族との関係、友達との関係がこじれ疎遠になっているとするなら、良い関係となるように心を用いましょう。ウクライナとロシアの戦争が終結するように、ガザでの苦しみが一日も早く終わるように祈って行きましょう。

 

 「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」(9節)。   

 旧約聖書に出て来るヤコブの子ヨセフは、兄たちによって大きな苦しみを経験しました。しかし、神が共にあり助けてくださいました。主よりの取り扱いもあり、兄たちを許し、兄たちを助けました。

 主イエスは私たちの救いのためにこの世においでくださいました。そして最後は十字架の上で大きな苦しみを受け息を引き取られました。十字架の道を避けることもできましたが、そうされませんでした。それは、その死を通して、私たちの払い切れない罪の代価を支払うためでした。その十字架の死と復活を通して、私たちを呪いから祝福に引き上げてくださいました。 

 

 私たちは、主イエスによって祝福の中に招き入れられました。祝福を受け継ぐ者とされていることを忘れないようにしましょう。

                         (久多良木和夫)

 

 

 1月21日() 聖日礼拝 

  「苦しんでくださったお方」  ペトロの手紙一3章17-22節

 

 「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよ

りはよい。」(17節)。難しい問題、課題に取り組まざるを得ないことがあ

ります。そして、その意味がすぐに分からないこともあります。パウロとシラ

スは、フィリピの町に入ってすぐ占いの霊に取りつかれている一人の女性から

その霊を追い出しました。そのことでその女性を利用して商売をいた者たちは

怒って、二人を捕らえ、鞭打ち牢の中に投げ入れました。その時二人は、その

意味が分からなかったことでしょう。しかし、その夜大地震が起き、二人を通

して看守とその家族は、主イエスを信じる者となり洗礼を受けました。

 

 「あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されまし

たが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわ

れていた霊たちのところへ行って宣教されました。」(18-19節)。主イエ

スは、神の位を捨てて人となりこの世においでくださいました。そして十字架の

刑に処せられ命を失い死なれました。死を経験され、死者の世界である陰府に行

きました。使徒信条には、「十字架につけられ陰府に下り」と記されています。

 そして、そこで何をされたのか。その陰府の世界に閉じこめられている人たち

に福音を宣教されました。その陰府には誰も命をもっていくことはできません。

主イエスは、もはや光なし、希望なしの世界に赴き、神の大いなる愛を伝え、救

いの御業が成し遂げられたことを伝えられました。主イエスは、確かな光の主と

して、陰府をも照らされました。

 

 陰府に下られた主イエスは、私たちがもはや届かない、打つ手がないと思われ

るところにもおいでくださる方であり、希望がないと思われるところに希望を注

ぎ与えてくださるのです。

 

 「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キ

リストの支配に服しているのです。」(22節)。主イエスは、死を打ち破られ

復活されました。使徒信条には、「三日目に死人の内よりよみがえり。天に昇り

全能の父なる神の右に座したまえり」と記されています。神の右の座は権威と力

を意味します。

 

 「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求める

ことです。」(21節)。洗礼は水を用いてのただの儀式ではありません。主イ

エスによって神の者とされることです。人の良心は確かに見えてそうではありま

せん。吹き飛びます。だからこそ、神とつながって生きる者としていただくので

す。

 

 「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない

者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。

(18節)。罪は神と人間を結ぶ道を徹底的に破壊しました。その寸断された道

を回復するために、主イエスは、十字架についてくださいました。罪の全くない

お方が、罪ある私たちのために苦しんでくださいました。罪の赦しのためにもは

や何度も何度も動物の犠牲を捧げる必要はなくなりました。主イエスの十字架と

復活のただ1回の出来事で、罪の赦しは完成し、神との関係は完全に回復したの

です。

                           (久多良木和夫)

 

 

  1月28日() 聖日礼拝 

   「床を支える手として」    ルカによる福音書5章17-26節

 

 主イエスのもとに、中風で寝たきりになった人が運ばれてきました。その人は体を自由に動かすことができず、主のもとに来るにも助けを必要としていました。この箇所を読んだ時、今年の御言葉と標語を改めて示されました。

 

 「主の名によって共に集い進もう」、互いに祈り合い、互いに主の栄光を求めて、励まし合い、助け合う。そのような共同体と導かれますことを願います。この寝たきりの人は、四人の助け手が必要でした。彼らの信仰と彼らの祈り、彼らの行動なしに、この人は救われませんでした。彼らは主のもとにこの人を連れてくるために、周りの人に驚かれるようなことをします。「しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。」(19節)

 

 しかし、そこまでの信仰と、切なる願いをもって、この中風の人を救ってあげてほしい、というこの四人の友人の信仰をご覧になり、主はこの人の罪を赦し、病を癒されました。わたしたちは、互いに祈り合い支え合うようにと、主から示されています。「二人または三人が、わたしの名によって集まるところには、わたしも共にいるのである」(マタイ1820)。イエス・キリストを信じる信仰をひとつにし、ともに隣人の救い(体の救いだけでなく、霊の救い)を求め、互いの賜物を持ち寄り合って、一致する“霊”を主からいただき、ともに歩んでまいりたいと思います。

 

 また私たちは「体の癒し」に心が向きます。この四人の友人も、中風の人の癒

しを求めていました。その人が床から解放されて、自由になることを願っていま

した。しかし、主イエスは、その人に一番必要な救いが、体の救いではなく、魂

の救い、神の赦しであることをご存じでした。イエスはその人たちの信仰を見

て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた (20節)。中風の人が運ばれ

てきた時、神の子、救い主として「あなたの罪は赦された」と宣言されるので

す。

 

 私たちは目に見える部分の癒しを願います。それは私たち人間に必要なことで

す。しかし、私たちが本当に救いを必要としているのは、目に見えない部分で

す。主イエスが救い主として、救いを宣言された時、この人の全存在が救いを受

けました。そこに神の栄光が現れ、人々は神を賛美しながら帰っていきました

(ルカ526)。それは「驚くべきこと」です(ルカ526)。

 

 互いに祈り、求め、賜物を出し合って従っていく時、そこにひとりの人の救い

と、主の栄光が現れていきます。床を支える手として、私たちの手を用いていた

だきましょう。

                            (富山希望師)

 

 

 2月4日() 聖日礼拝 

   「身を慎んで良く祈りなさい」    ペトロの手紙一4章1-11節

 

 苦しみを経験し、その苦しみからなかなか抜け出せずもがくことがあります。

主イエスは、もともとは神の御子であり、苦しみとは無縁でした。しかし、こ

の世界においでくださり、苦しみをなめられました。最後は十字架につけられ

誰も味わったことのない侮辱と苦しみを受けられました。「キリストは肉に苦

しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。

 肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。」(1節)。

 

 「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、

酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もう

それで十分です。」(3節)。異性問題で、アルコールで人生を台無しにしてし

まう人は多いのです。信仰の対象は何でも良いのではありません。信仰の対象の

神が生ける祝福の神であるかどうかはとても大切なことです。

 

 「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開き

をしなければなりません。死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人

間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊に

おいて生きるようになるためなのです。」(5-6節)。この地上での歩みでど

のように歩んだかが、最後神の御前で問われることを心にとめて歩みましょう。

自分の歩みが間違っていることに気が付いたならそれを改めたいものです。また

良いことに励みたいものです。

 

 「万物の終わりが迫っています。」(7節)。地球温暖化、環境破壊、戦争、

核兵器の脅威、・・ このままさらに悪い方向に行ったらどうしようと考えま

す。また、人生の後半に入ると、いつ最後が来るのだろうかと不安や恐れを覚え

ます。その時に神に祈る幸いがあることを心に留めましょう。

 

 「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからで

す。」(8節)「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神の

さまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」

(10節)。「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神

が栄光をお受けになるためです。」(11節)。 「万物の終わりが迫っていま

す。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。」(7節)。思

慮深くとは、心を確かにして(口語訳)、心を整え(新改訳)ということです。

身を慎むとは、あれこれ身を突っ込まず、あれもこれもと追い求めることをセー

ブして、自分の欲望に乗りすぎずということです。主なる神により頼み、心を向

け祈るのです。主なる神は祈りを助け導いてくださいます。

                           (久多良木和夫)

 

 

 2月11日() 聖日礼拝 

    「試練、苦しみの時に」    ペトロの手紙一4章12-19節 

 試練、苦しみは、私たちの人生における大きなテーマです。それが来ないこと

を願いますが、それは時にやって来ます。

 

 「あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する

者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。」(15節)。自分で苦

しみを招き寄せないようにしなさいとまず告げられています。

 苦しい時にどうしたら良いのか。「神に依り頼めば恐れはありません。肉にす

ぎない者がわたしに何をなしえましょう。」(詩編56編5節)。主に依り頼み

ましょう。

 

 ダビデは、苦しみの中で神に祈り叫びました。「苦難の中から主を呼び求め

わたしの神に向かって叫ぶとその声は神殿に響き叫びは御前に至り、御耳に届

く。」(詩編18編7節)。ヨナもまた神に叫び求めました。「苦難の中で、わ

たしが叫ぶと主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めるとわたしの声

を聞いてくださった。」(ヨナ書2章3節)。

 

 キリスト者としての歩む中で譲ることのできないことがあります。神でないも

のを神として礼拝することはできません。聖日礼拝をおろそかにすることはでき

ません。そのような中で、他の人から非難されることがないわけではありませ

ん。

 

 その試練、苦しみの中で、どう歩むか3つのことが語られています。第1は、

喜びなさいということです。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかる

ほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれ

るためです。」(13節)。肉の力ではできませんが、主は必ず守ってくださ

る、最善を導いてくださると信じて従い進むのです。第2は、神を崇めなさいと

いうことです。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じ

てはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさ

い。」(16節)。主イエスは、私たちのために十字架でその命を捧げてくださ

った方である、復活され今も生きて働いていてくださるお方であることを心に留

め、神を崇めるのです。第3は、委ねなさいと言うことです。だから、神の御

心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」(19節)。自分の力では限界です、真実であら

れるお方、神に私の魂を、私自身をお委ねするのです。主はすべてを新たにする

ことがお出来になします。

 

 「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、

すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」(14

節)。キリストの名のために避難されるとき、そのことだけしか見ないならば苦

しい、しかし、その時、主の栄光の霊である聖霊なる神が私たちの上に留まって

いてくださり、試練、苦しみに打ち勝たせてくださいます。また癒しの恵みを与

えてくださいます。

                            (久多良木和夫)

  

 2月18日() 特別聖日礼拝 

   「収穫からの働き手」  マタイによる福音書9章35節―10章1節 

 

 主イエスは町々村々を回って福音を宣べ伝えて来ました。「 イエスは町や村

を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患

いをいやされた。」(35節)。そこで強烈に思わされたことが36節です。

 

 「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを

見て、深く憐れまれた。」羊飼いのいない羊のようだ、なんとかわいそうかと心

の底、腹の底から思われた、そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働

き手が少ない。」(37節)。ぎっしりと実の詰まった麦のように、救われる

人々を収穫と見られました。

 

 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさ

い。」(38節)。天の御国に入る準備のできている者がなんと大勢いること

か。だがしかし、働き手が少ない。収穫が多いのに働き手が少ない。

 

 弟子たちは働き手として「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対す

る権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすた

めであった。」(10章1節)。それまで、主イエスはお一人で御国の福音を宣

べ伝え、癒し等の良い業をなさいました。しかし、一人では大変です。だって、

収穫はこんなに多いのだから。収穫の準備のできている人は多いのですだから。

弟子たちも働き手となって主イエスの働きに加わっていきました。

 

 弟子たちは、もともとは収穫でもありました。一人一人名前を呼ばれついてき

なさいとイエスのもとに集められた収穫のようなものです。主イエスはその弟子

たちを働き手として送り出されました。学生宣教の現場はまるで実り豊かに良い

畑のようです、。クリスチャンとなった学生がクリスチャンとして成長し福音宣

教の担い手となっていきます。彼らはまさに収穫からの働き手です。

 

 当時の群衆は、パックスロマーナの時代、表面的には平和と繁栄の中に身を置

いていましたが、魂に傷と痛みをかかえ弱り果てていました。これは、今日の私

たちの世界と重なるものがあります。繁栄の中で多くの良い物を享受しているよ

うに見えても、様々な大変なことの中で魂が弱り果てています。

 

 10代後半から20代前半の若者もまた、深い所では孤独とむなしさを抱えて

います。飼い主がいない羊のようにもがきながら生きています。聖書の救いの福

音を必要としている学生たちは多いのです。学生時代は人生の土台を築くべき大

切な時です。その時にこそ、神の国の福音が必要なのです学生宣教の可能性があ

ると信じましょう。。神のことを求めている学生は決して少ないのです。御国に

入る準備ができている人は少なくない、多いのです。少ないのは働き手なので

す。だから、私たちは収穫の主に願い求めましょう。

 

 私たちは収穫としてイエスに集められた者です。私たちは名前を呼ばれ憐れん

でいただいた者です。教会として、神の民として召し出されました。今度は働き

手としてそれぞれの場に遣わされていくのです。職場に、家庭にです。神の国の

福音を宣べ伝える者として遣わされたところで福音を生きるのです。

 

 収穫は多いが働き手は少ない、だから収穫の主である神さまに働き手を願い求

めましょう。

                      (吉澤慎也師‐KGK総主事)

 

 

 2月25日() 聖日礼拝 

   「キリストの受難の証人として」    ペトロの手紙一5章1-7節

 

 思い煩いは、大きな問題です。私たちは思い煩いによりそれが心にのしかかってきます。赤ちゃん、乳児は大人と比べるならできることは限られています。しかし大人と比べて一番違うことの一つは思い煩わないことです。

 

 「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(7節)。思い煩いをすべて神に任せなさいとから語られています。どんな課題でも神は受け止めてくださるお方です。主にお任せして、平安をいただき休ませていただきましょう。

 

 若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです(5節)。高慢な者、あくまで上に立つことを狙い、それにとどまり続けようとする者が多いのです。高慢な者はやがて斥けられ、打ち滅ぼされます。神は謙遜な者に恵を与えてくださいます。ただ神の御手のご支配のもとで感謝しつつ一歩一歩を歩ませていただくのです、自分で自分を高くする必要はありません。神がかの日に高くしてくださいます。

 

 「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。」(2節)。ゆだねられている人たちを大切に扱いなさいと命じられています。

 

 「さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。」(1節)。この手紙を記したペトロは、キリストの受難の証人として語っています。全人類の罪を背負い、この自分の罪を背負って十字架で命を捧げてくださったその出来事をペトロは目撃しました。と同時に、自分が三度主イエスを知らないと否んだこと、そのことを予告された主イエスは、自分の信仰がなくならないように祈ってくださったことを知りました(ルカによる福音書22章32節)。その主イエスは十字架の死の後に復活され戻って来てくださり、再び自分に語りかけ、赦し、群れを養うように託してくださったことを心にとめ歩む者とされました。

                           (久多良木和夫)

 

 

 3月3日() 聖日礼拝 

   「永遠の栄光への招き」     ペトロの手紙一5章8-14節

 

 3つの柱で、メッセージを取り次ぎます。

 第1は、永遠の栄光なるものがあるということです。あなたは何を得たら喜ぶ

でしょうか。これを手に入れたら最高というものがいろいろあるかもしれませ

ん。しかし、それらのものはやがて過ぎ行き消えゆくものであり、永遠に続くも

のはありません。しかし、神が備えてくださった永遠の栄光があります。一つは

主イエスにある救いです。主イエスにあって神の子どもとされ主と共に生きると

いうことです。もう一つはこの地上の生涯の先に備えられた永遠の御国です

 

 第2は、主イエスにあってみ救いに与り、御国を目指して歩む途中における歩

みです。その途中において悪魔の妨害があるということです。しかし、心配はい

りません。主の助けがあるからです。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あな

たがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探

し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」(8

-9節)。信仰の目を覚まして歩みましょう。自分の肉の力ではなく、神の依り

頼み歩むのです。エフェソの信徒への手紙6章には神の偉大な力によって強くな

りなさいと告げられています。神の武具の中で、最も大切なものの一つは信仰と

いう盾です。主により頼む信仰を持って歩んで行きましょう。

 

 第3は、主なる神は、私たちを永遠の栄光に招いていてくださっているという

ことです。「あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通して

あなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだ

あなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださ

います。」(10節)。恵みは神から与えられるものです。私たちは、その恵み

の主に目を向け、その主を仰ぎ恵みをいただくのです。「あなたがたの信仰は、

その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金より

はるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをも

たらすのです。」(1章7節)。試練の中を通ることで、練り鍛えられ、主に間

近く歩む者に作り変えられていくのです。

                          (久多良木和夫)

 

 

 3月17日() 聖日礼拝 

   「主を呼ぶ人すべてに近くいまし」   詩編145編1-21節

 

詩編145編はダビデの賛歌、主なる神様を偉大な方として賛美する歌です。

145編は三つに区分することができます。

 

1-9節

 ダビデはイスラエルの王でしたが、その栄光を神様に帰し、神様をあがめています。神様の御名が世界を越え、時代を越え、ほめたたえられ、呼ばれることをダビデは賛美します。続く4節以降には「御業」という言葉が6回出てきます。神様が個人になさった御業、共同体になさった御業、世界になさった御業を数え、賛美します。8節「主は恵みに富み、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ちておられます」。造られた物を愛し、支え、導く造り主。この方が私たちの礼拝する神です。

 

10-16節

 前半は、神の「主権」ということに触れます。私たちはイエス様を通し、神様が「そば近くいてくださる方」であることを知っています。けれどもこの方が「絶対的な主権者」であることを、忘れてはいけません。賛美されるべき方です。しかし神は憐れみ深く、慈しみに富み、14節「倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださる」のです。偉大な主権者、全能の神が、うずくまり弱る私たちを助けてくださり、15節「目を注いで待ち望むと、あなたはときに応じて食べ物をくださいます」とあるように、必要を与えてくださる方です。「パンを欲しがる子供に石を与えず、魚を欲しがる子供に蛇を与える」ことはしません。イスラエルの民が荒野でマナを食べたように、命をくださいます。

 

17-21節

  主は偉大な王、主権者、賛美されるべき方でありながら、18節「主を呼ぶすべての人に近くいまし、まことをもって呼ぶ人々すべてに近くいま」す方です。呼び求める切なる声に耳を傾け、応えてくださいます。この時、思い起こされるのは出エジプトの出来事です。叫び求める声を聞いて、主は助けを送られました。この民は、主の名を呼ぶことによって救われました。今の私たちの時代も、主の名を呼ぶことが求められている時代です。世界の大きな課題、試練を前にする時、私たちは無力です。しかし、キリスト者は「主の名を呼ぶ」ことができます。切に求め救いを求めることができます。神様がどれほど、私たちに目を向けてくださり、心にとめてくださるかを覚え、賛美し、また求めて祈りましょう。

                            (富山希望師)

 

 

 3月24日() 聖日礼拝 

   「十字架上での叫び」  マタイによる福音書27章27-52節

 

 

 本日は棕櫚の聖日です。主イエスは、馬ではなく、ロバに乗ってエルサレムに

入城しました。主がお入り用なのです。あなたも呼びかけられています。

 

 最後の週、主イエスは、弟子たちの足を洗い、あなたたちもそうするように語

れました。最後の晩餐の後、主イエスはゲッセマネの園で祈り十字架に進むを選

ばれました。その直後、捕らえられました。大祭司カイアファのところと総督ピ

ラトのもとで尋問を受けらたました。ピラトのもとでの裁判の結果、有罪判決を

受け、ゴルゴダの丘で十字架刑に処せられました。

 

 人々はイエスに対してののしりました(40,42-44節)。他の人からの

ののしりほどつらいものはありません。それに対して主イエスは反論されません

でした。 

 

 主イエスは十字架の上で深いとりなしの祈りをされました。そのとき、イエス

は言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らない

のです。」(ルカによる福音書19章34節)。そのとき、イエスがお赦しくだ

さいと父なる神に祈られた彼らとは、十字架につけ、ののしりあざ笑う者たちを

指していると同時に私たちを指しています。 

 

 主イエスは、十字架の上で叫ばれました。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれま

した。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわ

たしをお見捨てになったのですか」という意味である。(46節)。神は、永遠

の初めから三位一体の神であり、父なる神、子なるイエス、聖霊なる神は一心同

体であられました。互いに一つであり、離れることのない愛の関係であられまし

た。しかし、父なる神は、私たちの救いのために御子イエスをこの世にお遣わし

になりました。子なるイエスは、そのことを了承されおいでくださいました。そ

して、この地上での最後において、上記のように叫ばれました。

 

 「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたの

は わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに

平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ

書53章5節)。その献げられた命を通して救いの門が開かれました。神との断

絶は取り除かれました。

 

 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて

息を引き取られた。(ヨハネによる福音書19章30節)。イエスは、酸いぶど

う酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお

渡しになった。(新改訳)。救いの御業は主イエスを通して成し遂げらました。

                          (久多良木和夫)

 

 

 

 3月31日() イースター聖日礼拝 

   「恐れることはない」    マタイによる福音書28章1-10節

 

 私たちは、様々な歩みの中で失意落胆、悲しみを経験します。そして希望がし

ぼんでいきます。しかし、復活の主イエスは私たちを見ていてくださり、支えて

くださいます。主は失意落胆、悲しみを共に担ってくださり、しぼんでいた希望

を再び膨らませてくださいます。

 

 十字架刑のなされた金曜日から3日目の日曜日の早朝にマグダラのマリアとも

う一人のマリアは、主イエスのご遺体の納められた墓に行きました。香料を塗っ

て差し上げるためです。

 

 その時に大きな地震が起きました。番兵たちは恐ろしさのあまり震え上がり死

人のようになりました(4節)。突然の恐ろしい出来事により番人たちは身動きで

きなくなったのでした。それは私たちも経験することです。

 

 マグダラのマリアたちに天使から声がかけられました。「恐れることはない。

十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられ

ない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」(5-6節)。主イエ

スは死を打ち破り復活されたというのです。 

 

 「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知

らせるために走って行った。」(8節)。マリアたちは神から喜びと希望を注ぎ

込まれました。復活の主はマリアたちに「おはよう」と呼びかけられました。原

語は喜ぶ、ごきげんようということです。

 

 私たちに恐れを抱かせる状況はたくさんあります。私たちは、時に過去のこと

を恐れ、現在のことを恐れ、未来のことを恐れます。災害、戦争、トラブル、恐

喝する者、いじめる相手、集団、ドメスティックバイオレンス、ストーカー、病

気、様々なことがあります。頼りにしていた物、頼りにしていた人を失うという

こともあります。

 

 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラ

ヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(10節)。吹き

飛ばされそうな自分自身の日々、そこに主はおいでくださいます。その主と出会

って共に生きるのです。そのために、主イエスを私の救い主として受け入れるこ

とです。主をかつて信じ受け入れた者は、私の人生において、主イエスを端っこ

にして自分が主人である生き方を改めることです。主イエスを私の人生の主人と

して歩むのです。

                             久多良木和夫

 

 

 4月7日() 聖日礼拝 

   「平和があるように」   ルカによる福音書24章36-49節

 一人でも黙々と歩に頑張ることも幸いですが。その歩みが支えられ後押しされ励ましを受けて歩むことはより幸いです。復活の主イエスを仰ぎ見つつ、復活の主に祈りつつ歩むことは大きな幸いです。

 

 主イエスは肉体を取って復活されました、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。(39-40節)。

 

 復活の主は弟子たちのところにおいでくださいました。こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(36節)。

 

 弟子たちは恐れていました。主イエスを捕らえて十字架刑に処したユダヤ教の力ある者たちが自分たちをも捕らえに来るかもしれないと考えたことでしょう。それ以上に恐れていたことは、自分たちが主イエスを最後助けることもせず逃げ出したことです。まさに恩を仇で返したからです。イエスをお遣わしになった父なる神はどんなにか怒っておられることか、自分たちに罰が下るのではないか、呪いがかけられるのではないかと考えたことでしょう。

 

 復活の主イエスの言葉は、その反対でした。「あなた方に平和があるように」あなた方は赦されている。わたしはあなた方のために十字架にかかった、あなた方の罪を私自身の命をもって贖ったのだと。

 

 旧約聖書の預言は成就したことを告げられました。イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」(44節)。

 

  また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。(47-48節)。悔い改めは原語ではメタノイアです。これは後悔するという意味はありません。向きを変えるという意味です。後悔はしても主に向きを変えなければその後悔のままです。主に向きを変えて歩む時に罪の赦しが与えられます。そのことがなる土台は、主イエスの復活です。なぜなら、振り返ったところに主なる神がおられるからです。

                          (久多良木和夫)

 

 4月14日() 聖日礼拝 

    「命と信心にかかわるもの」   ペトロの手紙二1章1-8節

 

 「主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。」(3節)。命は私たちの1回限りの人生であり、それを生かすものです。信心は新改訳聖書では敬虔と訳されています。それは信仰の心の態度を意味します。

 

 命を輝かすこと、信心を真実に保つことを願います。しかしそれは簡単なことではありません。その反対になってしまうこともあります。しかし、感謝なことには、主イエスが、その命と信心にかかわるすべてを与え満たしてくださいます。

 命と信心にかかわることをペトロの手紙一から拾い出したいと思います。

 

 第1は生き生きとした希望であり朽ちず汚れずしぼまない財産を受け継ぐ者とされたことです(1章3-4節)。

 

 第2は、信仰の実りとして魂の救いを受けたことです(1章8-9節)。言葉では言い尽くせない素晴らし喜びに満ちあふれさせてくださいます。

 

 第3は魂の牧者であり監督者である方のところに戻ってきたことです(2章25節)。

 

 第4は、祝福を受け継ぐために召されたことです(3章9節)。

 

 第5は、キリストを主とあがめることです(3章15節)。相談し、呼びかける相手は、他の人や自分自身のこともあるでしょう。しかし、最終的には主ご自身に相談し呼びかけさせていただくのです。

 

 第6は、人間の欲望ではなく神の御心に従って肉における残りの生涯を生きることです(4章2節)。

 

 第7は、与えられている賜物を生かして互いに仕えることです(4章10節)。自分のためだけでなく互いに仕えるために賜物を生かすのです。

 

 第8は思い煩いを何もかも神に任せることです。そして強められ揺らぐことのないようにされることです((5章7、10節)思い煩いを主に任せ委ね歩むことができます。

 

 

 4月21日() 聖日礼拝 

  「主イエスから派遣される」 マルコによる福音書16章14-20節

 

 弟子たちは、最初に主イエスに出会ったマグダラのマリヤから主の復活の知らせを聞いてもそれを信じることができないでいました。食事の場にいた弟子たちは、全員が主の弟子としては不合格でした。14節「イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」とあります。

 

 しかし主イエスは彼らをとがめる目的でその食事の場に来られたのではないことは、その直後に弟子たちにこれからなすべきことを語られたことでわかります。弟子たちを新たに福音宣教のために遣わされるためでした。

 

 自分たちを赦してくださったお方から新たな役割を任じられて弟子たちは前に進み出しました。

 

 私たちも大きな課題が目の前に来るとまず、しり込みをします。それでも思い直して、祈って前に進み出す人、100パーセントではなくても、その何割かでも自分なりにさせて頂こうと考え直す人は素晴らしい、勇気ある人だと思います。

 

 私たちに神の言葉を受け渡してくれたのは、御言葉の御用をしている牧師かも、信徒の誰かかも、親、兄弟かも、友人かもしれません。私たちはそれを心で受けとりまし た。今度は誰かが神に動かされて神の御言葉を、福音を受け取るのです。

 

 福音とは、『キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、』コリント1 1534

 

 15節の「全世界に行って」とは、この場所から遠い場所へ、時には外国へ出かけていくということを意味を考えますが、それだけではなくて地球を一回りして、自分の隣に戻ってくる、自分の隣が世界の果てであるともよく言います。自分と一番近い関係の所、人も全世界なのです。イエス様は隣人を愛し、福音を伝えなさいといわれました。

 

 15年ほど前になりますが、入院しておられました当時90歳くらいの方をお見舞いした時、ベッドに教会で出している祈りの課題を記したプリントがありました、「ここでもいつも教会の課題を祈ってくださっているのですね」と言うと、「これだけではなく、うちの教会から献身した人たちの名前をあげて毎日祈っているのです」と、おっしゃったことを思い出します。高齢になられるまで、自分の生活の場で世界宣教の働きをされたのです。

 

 御言葉が示すように、主イエスは、それぞれの場所に各自を遣わされる時、「主は彼らと共に働き」とあります。主ご自身が、聖霊なる神が共に働かれるという約束を与えられました。

                          (久多良木志津子師)

 

 4月28日() 聖日礼拝 

    「召しと選びの感謝」     ペトロの手紙二1章9-15節

 

 日常に備えておくべきものはいろいろあります。食糧、水、衣服、寝具等です。信仰の歩みにおいて備えておくべきものはどのようなものでしょう。それは、信仰、徳、知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛です(57節)。

 

 かつては神と無縁で、自分勝手に歩んでいました。その向かう先は滅びでした。しかし、神と出会い、御救いに与り、罪を赦していただき神の子どもにしていただき神と共に歩む者としていただきました。その向かう先は永遠の御国です。

 

 「だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。」(1011節)。その信仰の歩みを豊かにし確実なものにするのに必要なものは、召されたこと、選ばれたことを確かにすることです。

 

 旧約聖書では、アブラハムは、75歳の時に主に御声をかけられ従いました(創世記12章1-9節)。彼はイスラエルの民の基になりました。またモーセは、80歳の時にホレブの山で神が出会ってくださり、主に従う者になりました(出エジプト3章1-10節)。彼は出エジプトの時のリーダーとなりました。ギデオンは臆病者でした。しかし、勇者よと声をかけられ従いました(士師記6章6-14節)。彼はミディアン人を打ち破りました。

 

 主イエスは、ペトロを選び、弟子とされました。ルカによる福音書5章1-11節)。しかし、ペトロは主イエスを最後に裏切ってしまいました(ルカ22章31-24節、54-62節)。そのペトロを復活の主イエスは赦し、再び主の弟子として召されました(ヨハネによる福音書21章15-19節)。

 

 「だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。」口語訳では、「兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。」と。召しと選びの主体は、神ご自身です。  

  

 神は、いろいろな人を選び、働きに使命に召されています。神は私たちをも選び召してくださっています。私たちが立派だからではありません。その反対です。主のご愛と憐みとご忍耐に目をとめ歩みましょう。主から目を離さず、主を仰ぎ見つめつつ歩みましょう。

                         (久多良木和夫)