2015年

 1月4日() 新年礼拝

       「信仰、希望、愛」       マルコ福音書16章1420節

 

 本年の私たちの教会のテーマは、「伝道」です。

 伝道とは、福音の宣教です。福音すなわち良い知らせとは、この世界は天の神によって創造されたこと、この世界に住む私たちへの神の御顧み、具体的な救いの御手、イエス・キリストによる救いの出来事、罪の赦しによる永遠の命、聖書を通して、また聖霊なる神を通しての語りかけのことです。

 

信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(16節)信じて洗礼を受ける者は、罪の赦しをいただき、神の子どもとされ、平和をいただき、主に対して信頼して祈ることができ、主の愛を知り歩み、主の御業を見ることができます。しかし、信じない者は、神と断絶したままで、平和がありません。主に祈ることができず、主の業を見ることができません。

 

 伝道の実が結ばれるか否かは、クリスチャンである私たちがどのように歩んでいるかに左右します。具体的には、以下のことです。1)喜び、2)祈り、3)感謝、4)希望、5)親切、6)心を開くこと、7)へりくだり。教会においても、個人においても心を込めて歩んで行きましょう。

 

 福音を伝えてくれた友がいたおかげで、その祈りと労苦があったおかげで、私たちは福音を聞き、主に出会うことができ、救いに与りました。今度は私たちが福音を宣べ伝える番です。                                     (久多良木和夫) 

 

 

    1月11日() 聖日礼拝

       「旅立ったアブラム」        創世記12章1-9節 

    

 アブラムは75歳の時に、神からの語りかけを受けました。それは、「わたしはあなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める」という素晴らしい約束でした。それだけならばアブラムはただただ喜ぶばかりだったでしょう。しかし、その前に「あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。」(1節)という命令がありました。

 アブラムは戸惑ったことでしょう。今の安定を捨てて、未知の世界に進み出すことは大きなかけだったことでしょう。自分の持っている友達、親戚関係、財産すべてを失う危険性も大きかったのです。

 

 アブラムはどうしたでしょうか。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」(4節)彼は旅立ちました。彼はなぜ旅立つことができたのか 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(ヘブライ11章8節)彼は主に信頼したのです。

 

 自分の持っている物への未練、地位、財産、友人関係、家族、利権、職業さまざまなものが神に従うことに対してブレーキをかけます。あなたはどうでしょうか?

 

 一つの国が一歩を踏み出すことにより、また一人の人が踏み出すことにより、その後に続く国、人が起こるかもしれません。そして世界は大きく変わる可能性があります。しかし、その反対に踏み出しを周りは笑うかもしれません。

 

 マザーテレサさんは、安定した身分を捨ててカルカッタの町に出て行きました。その結果、路上でむなしく死んでいく多くの人が、最後に神の愛に包まれて平安が与えられるようになりました。アブラムは一歩を踏み出しました。そのことで、後にイスラエルの民(ユダヤの民)ができました。

 

 本年の標語は、「一歩を踏み出そう」です。どのような一歩を踏み出すよう主は、あなたに語りかけられておられるでしょうか。      

                          (久多良木和夫)

 

 

    1月18日() 新年聖会礼拝

       「祝福はここから始まる」      コリント一1章1831節

 

 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(1節)。主イエスの十字架のおかげで私たちは救われました。クリスチャンの力は主イエスの血潮から来ます。

 

クリスチャンとして、良い線まで来ていたのに、主の十字架から離れてしまう人がいます。そういうことがないように祈ります。救いの陰には主イエスの十字架の血潮の代価が支払われています。 クリスチャンであるあなたは価値ある者です。なぜなら主イエスの血潮によって買い取られているからです。

 

  ヤコブよ、あなたを創造された主はイスラエルよ、あなたを造られた主は今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ書43:1)。私はダメだという人がいます。そうではありません。私たちは十字架の上に立っています。

 せっかく贖い取っていただいたのにその大きな恵みを理解していないクリスチャンはたくさんいます。この大きな恵みを理解して、主に従い続ける者とさせていただきましょう。     

                           (横田武幸師)

 

 

1月25日() 聖日礼拝

       「ヨシヤ王の決断」          列王記下23章110節

 

南ユダに立てられた王の中で、主の御心に従って歩んだ王の代表の一人は、第16代目のヨシヤ王です。「彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった。」(22:2)。

 

 ヨシヤ王は、8歳で王となりましたが、歴代誌下34章には、彼は16歳で神を求め始め、20歳で偶像を取り除き始めたことが記されています。彼は主の神殿の修復にも当たりました。彼が26歳の時にその神殿で律法の書が発見されました(22:8)。250年間にわたってユダの家から消えていた律法の書が発見されたのです。自分たちの歩みが、その書に記されていた神さまの御心から遠く外れていたことを知り、彼は衝撃を受け、心から悔い改めました。すべての民にその御言葉を読み聞かせました。王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った。」(3節)。

 ヨシヤ王は、主の御心をいよいよ熱心に求め従いました。過越の祭も再開しました。

 

 律法の書が発見され、それが重んじられたことは、後の世においても大きな影響を与えました。後にユダの民はバビロン捕囚も経験しますが、神の御言葉によって信仰が正されて行きました。

 

 私たちの体は、聖霊なる神が宿ってくださる神殿です(コリント一6:19)。神の恵みを一つひとつ噛みしめ歩みつつ、御言葉をいただき歩むことこそ大切なことです。           

                         (久多良木和夫)

 

 

2月1日() 聖日礼拝

       「失われた者への愛」        ルカ福音書19章110節

 

 ユダヤの国のエリコという町での出来事です。その町にザアカイという男が住んでいました。彼は徴税人のかしらで金持ちでしたが友達がほとんどいませんでした。彼の名前は清く正しい人になるようにという願いがこめられていました。しかし彼はその反対の歩みをしていました。彼は、孤独を感じ、このままで良いのかと悩んでいたことでしょう。   

 

 そんな彼と出会うために主イエスは、エリコの町に来られました。いちじく桑の木の上にいたザアカイに主は、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と呼びかけられました(5節)。ザアカイは、主イエスの愛を受け、神の愛を知りました。彼は自分から罪を告白し、自分のお金を貧しい人に施すと申し出ました。

 

 「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(9-10節)。ザーカイは、主イエスとの出会いを通して、自分が価値ある大切なかけがえのない者であることを知りました。

 

 主イエスの私たちへの愛、そして神の愛を知ることができますように。  

                          (久多良木和夫)

 

 

2月8日() 聖日礼拝

       「福音のために」      マルコ福音書14章39節

 

 主イエスが十字架にかけられる2日前のことでした。暗闇が迫っているときでした。弟子の一人がお金と交換に主イエスを引き渡そうとねらっていたことも記されています。

 

 マリアが主イエスの頭に注ぎかけた香油は「三百デナリオン(300日分の労賃)もの価値があるのに」と厳しくとがめられました。周りの人たちは(主イエス以外は)マリアの行いを理解しませんでした。マリアが壺を壊し、注ぎかけた時、この家にはどのような良い香りが漂ったでしょうか?

 

第一は、主イエスを愛する愛という香りです。その愛ゆえにマリアは喜んで

捧げたのです。

第二は、全世界へ向かう一歩という香りです。この小さな食事の席で起こったことが、全世界に語り伝えられることになりました。

第三は、たった一回だけの大事さという香りです。主の足もとに座って主の言葉を一生懸命に聞いていたマリアは、この時にしかできないことをしたのです。 

第四は、先を見通す備えという良い香りです。マリアは主イエスの埋葬の準備をしたのです。マリアはこの時、できるかぎりのことをしたのです。

                         (久多良木志津子)

 

 

2月15日() 聖日礼拝

      「再出発の時」           エズラ記1章19節

 

 新しい出発は希望に溢れます。再出発の時には喜びに満たされます。日本においても、世界においてもさまざまな困難なことがありますが、新たなスタートが望まれます。聖書においても出エジプトの出来事、またバビロン捕囚からの解放の出来事が記されています。 

 

 北イスラエルは大国アッスリアによって滅ぼされ、南ユダは大国バビロニヤによって滅ぼされました。バビロンの地に捕囚の民として連れて行かれた人たちは年月が流れるにつれ、祖国に帰れることはだんだん不可能と考えるようになったことでしょう。

 

 バビロニヤの国は、ペルシャの国によって滅ぼされました。そのペルシャの王であったキュロス王は、捕囚の民のエルサレムへの帰還の許可を出しました(2-4節)。捕囚の民の中で、希望を捨てず、かつての罪を悔い改めて、神による新たな集発の時を待ち望んだ人たちがいたのです。

  

 自らの罪を悔い改め、主の憐れみを待ち望み歩む時、主は喜びの再出発の時を与えてくださいます。 

                          (久多良木和夫)

 

 

2月22日() 聖日礼拝

    「信じて行う」          マタイ21章2832節 

  

先週よりレント(受難節)に入りました。この箇所のたとえは、主イエスが十字架にかけられた場所、エルサレムで語られたものです。父親が二人の息子に「今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言いました。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけました。弟は『承知しました』と答えたが、出かけなかった。二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたかという問いかけを、祭司長や民の長老たちにされました。

 

バプテスマのヨハネが来て義の道を示したのに信じなかった彼らが「考え直してヨハネの言葉を信じるように」という切なる願いをもって主イエスは語りかけられたのです。人々から尊敬され、指導者であった彼らよりも、ヨハネの言葉を信じて悔い改め、ヨハネから洗礼を受けた徴税人や娼婦たちのほうが父なる神様の望みどおりに行っているのだ、どんな暗い過去があっても新しい人になって生きることができると主イエスは語っておられます。

 

「神様、それはいやです、できません。」と思い、祈っていることがあるかも

しれません。でもそこで神様を信じて行っていくとき、後になって豊かな実が結ばれていくことがあるのです。   

             (久多良木志津子)

 

 

3月1日() 聖日礼拝

  「ろばに乗って入城された王」  ルカ福音書19章28-44節 

         

 主イエスは、最後の1週間の第1日目の日曜日、ろばに乗ってエルサレムの町に入られました。その週の金曜日にはゴルゴダの丘で十字架につけられ殺されてしまいました。 

 ろばに乗って入城されることは、500年以上前にゼカリヤ書9章9節に預言され、そのことが成就したのでした。

 

 ろばは背が低く、それに乗られた主イエスは私たちと同じ高さに立ってくださる方です。ろばは馬のように早くは走りません。ろばに乗られた主イエスは私たちと歩みを合わせてくださる方です。ろばに乗られた主イエスは、私たちの罪の重荷をその身に負ってくださる方です。

 

 『主がお入り用なのです』(31節)主イエスは、姿が立派で速く走る馬ではなく、馬に比べると見劣りがするろば、早く走ることもできないろばを選ばれました。主イエスは、今も喜んでその背に乗せるろばを捜しておられます。あなたはどうお応えしますか。

 

主イエスはエルサレムのために涙を流し泣かれました(41-44節)。エルサ

レムとその民が滅亡の運命をわきまえず歩んでいたからです。

                          (久多良木和夫)

 

 

3月8日() 聖日礼拝

      「主の記念の晩餐」      ルカ福音書22章723節    

 

 主イエスと弟子たちの最後の晩餐、主イエスはどのようなお気持ちだったでしょう。その最後の晩餐は、ルカ福音書によれば過越しの祭りの食事であったのです。

 

 過越しの祭りは、ユダヤの三大祭の中の一つです。毎年ユダヤ暦では7月、現在の太陽暦では4月に祝われました。エジプトでの奴隷生活から 解放される決定的な出来事となった過越しの出来事を記念する祭りです。屠った小羊の血を入口の柱と鴨居に塗った家々は、どこも初子が打たれることはなく済みました。主イエスは、まさに罪を取り除く神の子羊なるお方です。

 

 過越祭の食事では、種入れぬパン、羊の足の肉、苦菜が用意されました。そして必ずブドウ酒が出され飲まれました。主イエスはパンを取り「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」(Ⅰ9節)とおっしゃいました。また、盃を取り「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。(20節)とおっしゃいました。このことが原型となり、聖餐式が執り行われるようになりました。聖餐式を通して、キリストの命、死、復活が明らかにされます。キリストの死とキリストの再臨も共に宣言されます。そしてキリストとの交わりが確認されます。

                          (久多良木和夫)

 

3月15日() 聖日礼拝

      「死に至るまで」        フィリピ2章411節

       

主イエスは、この地上ではへりくだる姿で歩まれた。その姿が2章6~8

の各節において記されている。

 

1.身分を固執しなかった。 主イエスは、神の御子であられた。または、神であったと言って良いであろう。それで、天地創造前からおられた。その主イエスが地上に来られたが、主イエスはこの地上では神であることに対して、固執しなかった。どんな苦しみがあろうと自分の身分でその事を打破しようとはしなかった。

 

2.僕の身分となった。 主イエスはこの地上で、神の身分に固執せず僕として歩まれた。僕とは奴隷と同義である。仕える者となられた。 一番上の位の者として仕えられる者が、一番下の仕える者となってくださった。主イエスは弟子たちに、仕える者となることを自ら行いつつ教えられた。

 

3.十字架の死に至るまで従順であった。 神である主イエスが、この地上で僕として仕える姿は、十字架上での死の時まで続いた。主イエスは、最後まで神

の計画に従順に従われたのである。主なる神が、主イエスをこの世に送られたのは、十字架に架からせるためであった。すべての人間の救いのためであり、その計画に従われた。それと同時に、神がわたしたちを愛しているように、主イエスもわたしたちを愛しておられる。そのために、自らの命を犠牲にして、わたしたちを救うために十字架で死んでくださった。    

                             後藤真英)  

 

   3月22日() 聖日礼拝

       「キリストの尊い血」   ペトロの手紙一1章1319節

  

使徒ペトロは、迫害下にあって、悲観の中に落ち込んでいる小アジヤにある教会の信徒たちに宛てて、迫害をしてくる者たちを恐れるのではなく、「人それ
ぞれの行いに応じて公平に裁かれる」父なる神を畏れて生活すべきであると励まします。
 
 

神は、私たちの罪と裁きを背負ってくださるお方として、御自身のひとり子を十字架にかけ、そしてこのお方を甦らせてくださった。そのことによって、私たちに、永遠の命の希望を指し示し、また、御自身の愛する子どもとして認めてくださり、朽ちず、汚れず、しぼんでしまうことのない財産を受け継ぐ者としてくださった。「だから」、神が主イエスを通して備えて下さった恵みを思い起こし「いつでも心を引き締め、身を慎んで」、「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となり」、「この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」と勧めます。
 
 

 そしてあなたがたが先祖伝来の空しい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、傷や汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」(19節)と記します。血の尊さは、命に直結しています。それを捧げることは、命を捧げることを意味します。主イエスは、その尊い血を、私たちのために注ぎ尽くしてくださいました。     

                           (井上博子) 

 

 

  3月29() 聖日礼拝

     「振り向いて見つめられた主」  ルカ福音書22章5462節   

 

 主イエスの最後の1週間である受難週の第5日目の木曜日、主イエスは、弟子たちの足を洗われました。そして最後の晩餐の時を持ちました。その後ゲッセマネの園で命がけの祈りを捧げ、十字架の道を選ぶ最後の決断をされました。

 その祈りの直後に捕えられ、大祭司カヤファのもとに、そして総督ピラトのもとに連れて行かれました。

 

 弟子たちはすべて主イエスを捨てて逃げ出しました。一人ペトロだけはそっと主イエスの後について行きました。しかし、カヤファの屋敷の中庭で、あのイエスの仲間に違いないと言われた時、あんな人は知らない、関係ないと三度主イエスを否みました。

 

 その時、ちょうど夜が明ける前でニワトリが鳴きました。主イエスの予告(22:34)の通りでした。主イエスはペトロを振り返り見つめられました(61節)。その目は怒りの眼差しでも冷たい突き放す眼差しでもありませんでした。それは憐れみの眼差しでした。

 あなたの信仰がなくならないように祈って来たよ、あなたのためにもわたしは十字架にかかるよと語りかけておられました。

 

十字架の死の三日後に主イエスは復活され、ペトロに会われました。あなたはわたしを愛するかと三度尋ね、三度の否みを完全に赦し、わたしの羊を飼いなさいと語られました(ヨハネ21:15-19)

 

 神の愛を忘れ、恩を忘れ、恩をあだで返すような私たちのためにも、主イエスは十字架の道を選び、十字架に架かってくださいました。神の愛、主イエスの愛の中に生きて行きましょう。            

                            (久多良木和夫)

 

   4月5日() イースター礼拝

      「復活の日の朝に」    マルコ福音書16章1-11節   

  

この世界には暗闇があります。夜の暗闇は夜明けと共に消えてしまいます。今現在、世界の闇があり、人生において暗闇があります。この世の暗闇、人生における暗闇はなかなか消えません。それどころかその闇は勢いを増すことさえあります。

  

 十字架から3日目の日曜日に、女性の弟子たちは主イエスのご遺体に香料を塗るために墓に出かけました。すると、入口の石は取り除かれていました。御使いから「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」(6節)と告げられました。

  

 復活の主は、マグダラのマリアに一番最初に出会ってくださいました。多くの苦しみを経験したマリアに、主は特別に愛を注がれました。

  

 復活の主イエスは、勝利の主です。私たちのために、十字架において贖いの業成し遂げてくださり、その後、死を打ち破ってくださいました。この世の暗闇に対しても、人生の暗闇に対しても、私たちに勝利を与え、希望を与えてくださいます。 

                         (久多良木和夫)

  

 

  4月12日() 聖日礼拝

      「心は燃えていた」    ルカ福音書24章13-35節       

 

 主イエスの二人の弟子が暗い心でエマオに向かって歩いていました。彼らは主イエスが十字架上で死んでしまったことを悲しみ希望を失っていました。

 

 私たちもいろいろな悲しいことを、どうしようもないことを経験します。病気、いじめ、受験や就職がうまくいかなかったこと、研究や事業の行き詰まり、難しい課題や仕事、その他いろいろなことです。その時、心が弱り沈みます。

 

 二人の弟子にそっと近づき共に歩んでくださった方がいました。それは復活の主イエスでした。弟子たちはその途中、聖書の解き明かしを聞きました。メシアは苦しみを受けるが、栄光の主になられることも聞きました(27節)。

 エマオに着いて、主イエスがパンを取り、讃美の祈りを唱え、裂いてお渡しくださった時、二人は初めてその方が主イエスだとわかりました。

 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った(32節)。二人の心は復活の主イエスの働きかけを通して、燃やされました。

 

 主イエスは、今も復活の主として、私たちの悲しみ、落ち込みを理解して、その心に働きかけ、死んだような心さえも生き返らせてくださるお方です。

 

あの賢い五人のおとめたちが壺の中に入れていた油とは、祈り、御言葉、信仰、聖霊です。私たちも自分の壺の中にその油を入れて、復活の主に励まされて歩んで行きましょう。                (久多良木和夫)

 

 

 4月19日() 聖日礼拝

      「主イエスの傷跡」    ヨハネ福音書20章24-29節

 

私たちは自分の傷跡を見て過去の事を思い出しますが、主イエスの傷跡を思うとき私たちは前に向かって進むことができます。崖から落ちそうになっている子羊に手を伸ばして助けようとしている羊飼いの絵があります。その羊飼いの手の甲には傷跡が描かれています。この羊飼いは私たちの罪の身代わりとなって十字架刑を受けて死なれ、復活されたイエス様です。

 

 主イエスは恐ろしさと悲しみ、緊張で心がいっぱいだった弟子たちのところに来られて、十字架刑の傷跡を見せてくださいました、「自分の目で見なければ、信じない。」と言ったトマスにも。そしてトマスの疑いの声にそのまま答えて下さいました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)。

 

復活の主イエスの目撃証人である弟子たちから数えて、現代の私たちは何代目になるでしょうか、トマスが「わたしの主、わたしの神よ」と言った信仰の告白は続いています。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」と復活の主イエスは今も語りかけておられます。

恐れの心、後悔の心にとどまるのでなく、主を信じて一歩を踏み出しましょう。       

     (久多良木志津子)

 

 

 4月26日() 聖日礼拝

     「わたしに従いなさい」  ヨハネ福音書21章15-19節

 

主イエスとの出会いは、弟子たちにとっては大きな喜びでした。しかし、その主イエスが捕えられ十字架につけられ殺されたことは最大の悲しみでした。しかし、主イエスは死で終わらず、その死を打ち破り復活されました。

 

復活の主イエスはガリラヤ湖でペトロたちに出会いました。朝食の後、ペトロに三度わたしを愛するかと尋ねられました。それは三度主イエスを否んだペトロへの赦しを意味するものでした。

 

 主は、ペトロに対して羊を飼いなさいと命じられました。羊とは主イエスを信じる信仰者のことです。そして、「わたしに従いなさい」と命じられました(Ⅰ9節)。そう命じられたペトロでしたが、他の弟子のことが気になりました。そのペトロに主は「あなたはわたしに従いなさい」と再び語られました(22節)。

 

 私たちも他の人のことが気になることがあります。自分よりずっと優れているように見える人のこと、また自分が一所懸命している時にその反対に見える人のことが気になります。そんな私たちにも主は「あなたはわたしに従いなさい。」と語られています。

                        (久多良木和夫)

  

 5月3日() 聖日礼拝

      「神殿再建の働き」       エズラ記3章8-4:5節

 

 私たちの国は、この百年を振り返る時、関東大震災、東京大空襲、阪神淡路大震災等の災害を経験し、そこから何とか立ち上がってきました。四年前の東日本大震災からは、今復興の途中です。先日のネパール大地震からネパールの国の人たちが立ちあがってほしいと思います。

 

エルサレム神殿は一番最初は、ソロモン王によって7年半の歳月を経て建てられました。しかし紀元前586年、バビロニア軍によって徹底的に破壊されました。

 

その時から50年たって、バビロンから帰還したユダヤ人によって再建の働きが始まりました。神殿の基礎が据えられたた時、民は喜び感謝して泣きました(3:12)。

 

 しかし、この再建を妨害する人たちが出てきて、16年間工事は中断されました。それはとてもつらいことだったことでしょう。しかし、神は真実をもって民を助け導いてくださいました。工事は再開することができ、工事が始まって4年の歳月を経て、紀元前516年に神殿再建工事は完了しました(6:15)。神殿がすべて破壊されてからちょうど70年たった時でした。

 

 目に見える建物等だけでなく、目に見えないこの世界の様々な難しい事柄に対しても主に祈りつつ取り組んでいきましょう。

                       (久多良木和夫)

 

 

 5月10日() 母の日伝道礼拝

      「五つのパンと二匹の魚」  マタイ福音書14章1321節

 

 第2日5月曜の今日は母の日です。十戒の中の第5戒「あなたの父母を敬え」ということに関連して教会から始まったものです。

 

 母親は、子どものことに心を配り、その必要に敏感です。主イエスは、夕暮れが近づき、集まっていた群衆のことを思い遣られました。弟子たちは、早く解散させましょうと言いましたが、主イエスはそうではありませんでした。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」と弟子たちに命じました。

 

 ヨハネ福音書6章を見ると、フィリポは、二百デナリオン分のパンでは足りないと言いました。しかしアンデレは、少年の持っていた5つのパンと二匹の魚を主のもとに持ってきました。そのパンと魚を主イエスは奇跡によってそこに集まっていた一万人ほどの群衆に与えました。

 

 不可能と思えるような難しい問題であったとしても、それを主のもとに持って来て、助けを求め、ゆだねる時、主は大いなる業をなしてくださいます。

                           (久多良木和夫)

 

 

5月17日() 聖日礼拝

      「エズラの帰還」        エズラ記7章1-10節

 

神の大きな愛と憐れみにより、ユダヤの民はバビロンからエルサレムに帰還することができました。そして民はエルサレム神殿を再建しました。それからおよそ60年経った紀元前458年、祭司であり律法学者であったエズラはエルサレムに帰還しました。

 

エルサレム神殿再建後、民はまたいつのまにか神への信仰を失いかけていました。安息日も守らず、神への礼拝も疎かになっていました。また律法で禁じられていた異民族との結婚も安易に行われていました。

 目に見える建物である神殿は再建されましたが、肝心の目に見えない内側の霊的信仰が崩れていっていました。「エズラはバビロンから上って来た者であるが、イスラエルの神、主が賜わったモーセの律法に通じている学者であった」(6節)律法を正しく解き明かし、民を指導する人が必要だったのです。

 

目に見えない内側の 霊的な信仰を正し、それがいきいきとなるために、神の御言葉に聞く必要があります。御言葉を通して神の御心を深く知り受けとめさせていただきましょう。そのことをしてくださるのは聖霊なる神ご自身です。

        (久多良木和夫)

 

 

5月31日() 聖日礼拝

      「祝福を祈りなさい」    ペトロの手紙一3章8-17節

 

 使徒ペトロは、迫害下にあって試練の中にある小アジアの教会の信徒たちに対して、手紙で、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなた方は召されたのです」(9節)と勧めます。

 

 

そして、詩編34編から、ダビデがイスラエルの王となる前に味わった苦難の経験を通して知った、主を畏れて生きることの大切さを歌った箇所、「悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めよ」(15)、「主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される」(18)を引用しな

がら、「義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい」(1415)と、キリストを真の救い主として、私たちの心の一番中心にお迎えする時、聖霊の助けをいただいて「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いる」のではなく、迫害する者のために祝福を祈る者とされると語り、また、祝福を祈り、神の愛と恵みを受け継ぐために私たちは神から召されているのであると、その使命を伝えます。              

                      (井上博子)

 

 

6月7日() 聖日礼拝

     「目を覚ましていなさい」  マタイ福音書24章3644節

 

 今月は、四重の福音強調月間です。今年6月は、「新生、聖化、神癒、再臨」の四重の福音の中の再臨に焦点を合わせて、メッセージをさせていただきます。

 

 主イエスは、救い主としてこの世に来てくださいました。そのクリスマスの出来事は「初臨」と呼びます。復活の主イエスは、すべてを直接支配するためにもう一度来られます。そのことを「再臨」と呼びます。

 

旧約の時代、ノアの生きていた時代、人々は、まことの神さまを無視して、自分勝手に生きていました。心の中には悪い思いがいっぱいで互いに喧嘩ばかりしていました。その結果、洪水によって滅ぼされてしまいました。

 

「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」(42節)

 

この世界の主人は、三位一体の天の神さまです。主イエスは再び来られます。目を覚ましているとは、具体的には、日々の歩みにおいて、聖書に親しみ、祈りを忘れず、聖日礼拝を捧げ、救いの主を証しして行くことです。出会う人を大切にし、とりなしの祈りをしつつ歩むことです。                                   

     (久多良木和夫)

 

 

6月14日() 聖日礼拝

      「大いなる力と栄光の主」  マルコ福音書13章2427節

 

 現代、この世界に住む多くの人たちは、不安と恐れを心の深いところで持っています。それは、自分自身のことにおいて、もう一つは、この世界のことにおいてです。主のご支配を心に留めて、主に信頼し祈れる者は幸いです。 

 

 マルコ福音書13章は、直接的には、その時からおよそ40年後の紀元70年のエルサレム神殿の崩壊を予告しているところです。それと共に、この世界の終わりを予告しているところです。

 

 終末のしるしは、偽キリストの出現、戦争と戦争の噂、地震、飢餓、福音が全世界に宣べ伝えられること等であることを主イエスは語られました(6-10節)。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」(26節)。人の子とは、再臨の主イエスのことです。主イエスは、最後の最後、栄光の主として来られます。私たちは、どのような時にも、再臨の主を待ち望みつつ、歩みましょう。 

            (久多良木和夫)

 

 

6月21日() 聖日礼拝

      「主イエスの言葉の力」     ルカ福音書7章1-10節

 

この聖書の箇所から、主イエスとは、どのような方かということを教えられたいと思います。

 

1.主イエスは頼みに来た人のことを思い、何とかしてあげようと動いてくださる方です。私たち人間を愛しておられる方です。百人隊長は長老たちを使いにやって部下を癒してくださるようお願いしました。

 

2.病気を癒してくださる方です。人間を創造された天の神さまと三位一体の方です。医療という優れた手段がありますが、身体を創造され、身体のすべてを知っておられる方によって身体は修復されるのです。

 

3.ほめてくださる方です。百人隊長は、ローマ人であり、まことの神さまを礼拝していない民でしたが、ほめてくださいました。彼のうちに、主イエスを「権威ある神」と信じる信仰を見られました。

 

4.場所を超えて働かれる神です。百人隊長の信仰を「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われたその時に、病気だった部下は元気になりました。

   (久多良木志津子)

 

 

6月28日() ホ群弾圧受難記念礼拝

     「神の御心に従って生きる」  マタイ福音書5章1012節

 

1942年6月にホーリネス系教会への弾圧が始まりました。翌年には、宗教結社禁止令が出され、ホーリネス系教会は教会を解散させられました。この弾圧により大打撃を受けました。なぜこの弾圧がなされたか、それはホ-リネス系教会が再臨信仰を掲げていたからです。再臨の主イエスが、最後に歴史のすべてを支配しすべてを裁かれるという再臨信仰を当時の日本国家は危険なものだと考え弾圧したのです。その弾圧によって受けた打撃はとても大きなものでした。日本国家は、この弾圧の前年の1941年に治安維持法を改正し、弾圧の準備をしていたのです。

 

 「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(10節)。目に見える世界がすべてではない。この世がすべてではない。目に見えない世界がある。天の国がある。すべてを支配しておられる神がおられるのです。

 

同じく弾圧を受けた日本ホーリネス教団は、1997年に、戦争責任に関する告白を出しました。その告白は、当時の自分たちの歩みを真実に告白したものです。真摯に自分たちの姿勢を問うものであり、大いに評価すべきものです。

 

 神の御心に従って歩む時に、戦いがあり、苦難を受けることもあります。それでも神の御心に従う者によって、後に続く者は幸いを受けるのです。

    (久多良木和夫)

 

 

 7月5日() 聖日礼拝

      「敵対する者を恐れるな」    ネヘミヤ記4章117節

 

 エルサレム神殿が完成された後、社会的不正や宗教的堕落があり、破壊された城壁はそのままでした。神殿再建の年紀元前515年から70年後の445年に城壁は再建されました。

 

 この再建の働きの中心人物がネヘミヤです。彼はペルシャのアルタクセルクセス王のもとに仕えていました。彼は祖国の町エルサレムの荒廃のことを聞き、心を痛め祈りました。道が開かれ彼はエルサレムに戻ることができました。

 

城壁の再建に対して、サンバラトやトビヤを中心とする者たちが激しく

妨害しました。敵対する者に対する恐れが広がりました。民は、片手で作業し、もう一方の片手に投げ槍を取りました。各自、腰に剣を帯びて作業しました。剣とは霊的には神の御言葉を意味します。 

 

 ネヘミヤは民に、「敵を恐れるな。偉大にして畏るべき主の御名を唱えて、兄弟のため、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え。」と語り励ましました(8節)。民は神が共にいてくださることを心に留め、働きました。主はこの働きを守ってくださり、城壁は52日で完成しました。

 

恐れをいだかせようとする敵を恐れず、どんな時にも主に信頼して進んで行きましょう。       

                          (久多良木和夫)

 

     

 7月12日() 地区講壇交換礼拝

      「キリストの心」          ガラテヤ6章110節

 

「霊に導かれて生きているあなたがた」(1節、新共同訳)、原文では「霊の人であるあなたがた」です。既に霊の人になっているあなたがた 実際には霊の人になり切っていないではないかとパウロは告げています。

 

めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」(5節)。ここでは、すべての者は自分の罪のために死ぬこと、神の前において審きを受けることがすべての人に定められているということを語っています。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(2節)。自分の重荷を負い、互いに重荷を担う人は、キリストの律法を全うするのです 

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(フィリピ2:3-4)。

 

私たちが生きているのは、キリストの十字架の恵みです。このキリストにすべてをゆだねて生きる霊の人になりましょう。霊の人になることは決して簡単ではありません。しかし、霊の人になったら、互いに重荷を担うことにおいて、疲れない者とされるのです。

                 (田川教会 伊藤嘉朗師)

 

 

 7月19日() 聖日礼拝

      「主を喜ぶことは力」      ネヘミヤ記8章112節 

     

バビロン捕囚より帰還、その第3次帰還の主人公がネヘミヤです。エルサレムの城壁の再建の次の第7の月に、民は水の門の前にある広場に集まりました。その時、書記官エズラによって持って来られたモーセの律法が読み上げられました。その律法とは現在の創世記から申命記までのモーセ五書です。

 

レビ人によって、その律法は、翻訳されその意味が明らかにされ、民はその律法の意味を良く理解することができました。

民は律法の言葉を聞き、自分たちの罪、愚かさを悟り、また神の大いなる愛を知り、嘆いたり、泣いたりしました。

 

総督ネヘミヤと祭司であり書記官であったエズラは、民に「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」と語りました(10節)。

 

第7の月の15日は贖罪日でした。一年間のすべての罪責が赦されきよめられる日です。主を喜び祝うとは、主の大いなる愛と憐れみを心に覚え、罪の赦しと主の大いなる導きを感謝することです。神の言葉を深く理解し、礼拝し、主を讃美する歩みを通して、主の励ましと助けをいただき、力強く進むことができるのです。

 主を喜び祝うことをおろそかにせず、主を崇めつつ進んで行きましょう。   

                         (久多良木和夫)                         

                                   

           

 7月26日() 聖日礼拝

      「この時のためにこそ」     エステル記4章116節

 

 国において、会社において、家族において、個人において、時に危機が襲ってくることがあります。その時どうしたら良いのでしょう。

 

 ユダヤの民にとって、紀元前5世紀前半に民族絶滅の危機がやって来ました。それは、ペルシャの国に住むユダヤ人にとってでした。クセルクセス王の時、ハマンという悪い大臣によって、そのことは実行されようとしていました。その悪い計画を知ったモルデカイは、そのことが実行されないように祈りました。そして王妃になっていた養女エステルにそのことが実行されないよう王に願うよう求めました。

 

 エステルは私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」と答えました(16節)。エステルは同胞を救うために自分の命を懸けて行動する決断をしました。主の守りと支えの中で、エステルの命は守られました。ハマンは処刑され、ユダヤの民は絶滅の危機を脱しました。

 

危機の時、一人の人の信仰の決断が危機を救うことがあります。あなたはいかがでしょうか? この時のためにこそ生かされて今あることを心に留めつつ生きて行きましょう。      

                        (久多良木和夫)

 

 

 8月2日() 聖日礼拝

       「ヨブの受けた試練」      ヨブ記11822節       

 

 人生のおける最大のテーマの一つは、苦難です。さまざまな苦難があります。戦争、事故、災害、病気によって愛する者を失うことほど辛いことはないでしょう。自分自身が経験する自らの病、家族の病、さまざまな難しい問題、その中で、なぜ、どうしてと問わざるを得ません。

  

 ヨブは、持っていた財産を失い、使用人である牧童たちを失い、そして、10人の子どもをいっぺんに失います。その悲しみの中でも、ヨブは、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(21節)と信仰の言葉を語り主をほめたたえます。

 

しかし、その後、ヨブ自身が重い皮膚病にかかります。三人の友との関わりの中で、ヨブは自分自身の心の深いところにある思いを吐露します。「もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。ほうっておいてください わたしの一生は空しいのです。」(7:16)。「どこになお、わたしの希望があるのか。誰がわたしに希望を見せてくれるのか。」(17:15)と。また神に向かっても「神よ わたしはあなたに向かって叫んでいるのにあなたはお答えにならない。御前に立っているのにあなたは御覧にならない。」と叫びます。

 

 試練、苦しみの中で、ヨブは呻き叫びます。主を見失いそうになりつつも、なお主に向かい訴え続けます。私たちはどうするでしょうか。私たちも同じように主に訴え祈りましょう。            

                          (久多良木和夫)

 

 

 8月9日() 召天者合同記念礼拝

     「救いの門である主イエス」   ヨハネ10章7-15節

 

「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(9節)。門は用意されています。それは救いの門です。主イエスご自身が救いの門となってくださいました。主イエスにあって、守りと助け、平安と力、慰めと励まし、永遠の命、そして天の御国に入ることのできる切符をいただくことができます。

 

わたしは羊の門です。」(7節)。羊たちは、羊の門を通って囲いから出入りします。羊飼いはその羊の門で、羊たちがちゃんといるかを確かめ、1匹1匹を見て、その健康状態を把握し、弱っていたら特別に世話をします。

 

 「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(11節)。「わたしは羊のために命を捨てる。」(15節)。羊飼いは主イエスを指しています。羊は私たち人間を指しています。私たちは迷いやすく、強く見えて弱いのです。主イエスは私たちの救いのために、この世に来てくださいました。主イエスは、十字架の上で身代わりとなって、私たちが本来受けねばならないそれぞれの罪の罰を受けてくださいました。

 

召天者の方々は、主イエスを救い主と信じ受け、永遠の命をいただき、最後は天の御国に移されました。あなたにも天の御国は用意されています。その切符を持たないままで人生を進むことは残念なことです。ぜひ、主イエスを救い主として信じ、永遠の命をいただいてください。  

                  (久多良木和夫)

 

 

 8月16日() 聖日礼拝

     「救いの門である主イエス」     アモス書5章415節     

 

アモスは、羊を飼う仕事をしており、また、いちじく桑の木を栽培していました。神さまは、テコアの牧者として働いているアモスを選んで預言者とし、神さまからのメッセージを伝える者とされました。

 

 イスラエルの民は、内にも外にも、悲しみと脅威がありました。アモスは、悲しみの歌を歌った直後、たった1つの望みを指し示しました。「わたし(主)を求めよ、そして生きよ」という神さまの言葉を。「主」とは、「すばるとオリオンを造り、闇を変えて朝に換え、昼を暗い夜にし、海の水を呼び集めて地の表に注がれる方」(8節)です。この世界を造り、支配しておられる方です。

 

 また、アモスは、14節「善を求めよ、悪を求めるな」と語りました。悪い時代にあって、正義を貫けと力説したのです。

 

 現在において、主イエス・キリストが至高の神さまとの懸け橋となってくださったので、私たちは主イエスによって、神さまに祈り求めることができます。                                                               

                        (久多良木志津子)

 

 

 8月23日() 聖日礼拝

      「神は見て、良しとされた」   創世記1章125節  

 

神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。神は光を見て良しとされた」(34)。光が射し、光と闇とが分けられた。これが神による天地創造の1日目である。続いて2日目、神は水と水とを分けられて大空を造られましたが、「良し」とはされませんでした。2日目の創造の業が、まだ完了していなくて、3日目に持ち越されたからです。こうして、3日目に、神は天と地と海を創造され、さらに地に生息する植物を創造されて、「良し」とされました。4日目には太陽と月、星を創造されて、「良し」とされ、5日目には、水中の魚や空を飛ぶ鳥を創造されて、「良し」とされ、6日目には人以外の動物を創造されて「良し」とされました。そして、それらすべては、この後、創造される人間のために準備されたもので、神は私たち人間に、「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配させよう」(26)とされたのでした。

 

天地万物を造られた神、その同じ神が今も私たちを支え、私たちの傍らに立って、私たちの必要に斟酌して下さいます。私たちは自分の価値判断で、いろいろな評価をしますが、しかし、この世界は、人間が評価する以前に、父なる神の内に、既に最善の御計画があり、目標があり、行き当たりばったりではなく、良く考え抜かれていて、ついには神御自身が「それを見て、良しとされる」絶対的価値を持っていると宣言されておられるのです。   

                            (井上博子)

 

 

 8月30日() 聖日礼拝

       「贖う方は今」        ヨブ記19章21-27節

 

ヨブは突然、財産、10人の子ども、そして自分自身の健康さえ失い、大きな苦しみを経験しました。ヨブの3人の友、エリファズ、ビルダド、ツォファルがやって来ました。彼らはヨブを慰めようとやって来ましたが、彼らが最終的になしたことはヨブを責めることでした。こんなことが起こったのは、隠している罪があるに違いないと糾弾しました。

 

私たちも気を付けたいと思います。同じ苦しみを経験していないにもかかわらず、苦しみの中にある人に対して、「あなたはここが間違っていますよ、この点が足りませんよ」などと簡単にその人を裁くことがあります。人を責める安易な言葉は少しも相手の心に届きません。

 

「わたしは知っているわたしを贖う方は生きておられついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようともこの身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。」(25-26節)。

 

ヨブは、旧約の時代の人でしたが、神の光を受けて、贖いの主を垣間見ました。その方こそ、主イエスです。私たちの罪を贖うために、この世に来てくださり、その命を十字架の上で捧げてくださいました。

                         (久多良木和夫)

 

 

 9月6日() 聖日礼拝

       「神に従う人の道」         詩編1編1-6節

 人生における願いは人ぞれぞれ違います。ただし、共通して願うことは、確かな人生、倒れない人生です。人を木にたとえるならば、危機は、大嵐であり、干ばつです。激しい大嵐の時、多くの木々がなぎ倒されます。ひどい干ばつの時、多くの木が枯れてしまいます。木の根がしっかり張られていると激しい大嵐の時にも倒れません。オアシスや大きな川の側に植わっている木は、ひどい干ばつの時にも枯れません。

 

 いかに幸いなことか神に逆らう者の計らいに従って歩まず罪ある者の道にとどまらず傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。」(1-3節)。

 

神に逆らう者の誘惑がやって来ることがあります。それに従わずに歩む者は幸いです。しかし、万が一従ってしまった時には、そのことを悔い改める主に立ち返ることはさらに幸いです。 

 

神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。」(4節)。神に逆らい歩む者、神を認めず、自分の力に寄り頼む者は最後に滅びに至ってしまいます。                                              

    (久多良木和夫)

 

 

 9月13日() 敬老祝福礼拝

       「新たな力を得る」      イザヤ書40章2731節 

 

突然の事故や病、災害、また大きな困難を経験する時、なぜどうしてと思います。また、神さまへの不信まで起こすことがあります。イスラエルの民も国が滅ぼされバビロン捕囚という憂き目を経験しました。

 

「主は、とこしえにいます神 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなくその英知は究めがたい。」(28節)。主は全知全能のお方、創造主なるお方、永遠のお方です。そのことが告げられました。

 

 疲れた者に力を与え勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが 主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(29-31節)。主は疲れた者を特別に顧みてくださるお方です。主に望みをおくとは、主に自分の現状を申し上げ、自分の力ではなく、主に寄り頼むということです。

 

 主なる神は、次のようなお方です。

 ①共にいてくださるお方です。

 ②罪を贖い取ってくださるお方です。主イエスが、私たちの払うべき罪の罰を

  受けてくださいました。

 ③天国を備えてくださっているお方です。  

                          (久多良木和夫)

 

 

 9月20日() 聖日礼拝

       「貧しい人を忘れないで」       詩編10編1218節 

 

 立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください。」(12節)。主への祈り求めの言葉がここにあります。

 

 貧しいものとは、金銭的に貧しい人だけでなく、立場の弱い人、権利の弱い人を含んでいます。一方富める人もいます。格差社会となったこの世界において、その差はますます大きくなっています。世界には、置かれている苦しみから逃れられない人も多くいます。

 

 天の神さまは誰の味方か?神さまは、貧しいものを顧みてくださるお方です。立場の弱い人、苦しんでいる者の味方です。

 

「貧しい人を忘れないで」という祈りは、

第1に主に祈り求める大切さを教えています。

第2に、貧しい人たちを忘れていなかという問いかけでもあります。

そして第3は、自分がそのようなところに身を置いた時には、主に寄り頼むことが許されているということです。        

                          (久多良木和夫)

 

 

 9月27日() 聖日礼拝   

   「心に喜びを、目に光を」        詩編19編115節

 

天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。」(2節)この宇宙のすべて、そして天地は神によって創造されました。私たちは天より雨、太陽の光と熱、さまざまな恩恵を受けています。

 

 教えには、父の教え、母の教え、先生の教えといろいろあります。その教えを覚えている者は幸いです。その教えは、その人が自分を愛し、自分のために語ってくれたものだからです。

 

 「主の律法は完全で、魂を生き返らせ 主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。」(8節)。主の律法、主の命令は、イスラエルの民のものだけでなく、全世界の民のものです。神の教えは私たちを幸いに導きます。なぜなら、神の永遠の愛が源にあるからです。私たちの心の一番深いところにある魂に命を与えることのできるのは天の神さまのみです。

 

「主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え主の戒めは清らかで、目に光を与える。」(9節)。神は、内側からわき出る喜び、感謝を与え、目に光を与え、不安や恐れを取り除き、行き詰まりにあっても希望を与えてくださいます。

                            (久多良木和夫)

 

 

 10月4日() 聖日礼拝

  「地を継ぐ者」              詩編19編115節

 

人生における悩み、苦しみは自分から来る場合と人から来る場合があります。人から来る悩み、苦しみというのは、悪事を謀る者によってもたらされます。悪事を謀る者は、平気で人が悲しむことを行い、人を苦しめます。

 

 それに対して、神さまは、聖書を通して「悪事を謀る者のことでいら立つな」と語っています(1,8節)。悪事を謀る者は絶たれます(9節)。すなわち神によって断罪されます。世界を見渡す時、シリヤの内戦、勝手なひどいことを行っている集団、指導者が人民を苦しめている国々、勝手なことをしている超大国のことが浮かんできます。

 

 「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26章52節)。主イエスは、自分が捕えられる時、剣を抜いて相手に切りつけた弟子にこのように語られました。「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(ローマ12章19節)。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12章21節)

 

「主に望みをおく人は、地を継ぐ」(9節)すべてを公正に裁かれる主に信頼し、主に寄り頼み歩む者に、主は勝利をくださいます。

地を継ぐとは、神の支配を見、神の真実を知り、主に感謝し、主をほめたたえつつ生きるということです。

                           (久多良木和夫)

 

 

 10月11日() 聖日礼拝

 「荒れ野の道で」        出エジプト13章1722節

 

 私たちは目の前に困難なことが見えると、踏み出さなければ良かった、選ばなければ良かった、引き受けなければ良かったなどと思ってしまいます。

 

 神さまはイスラエルの民のことをご存知であったように私たちのこのようなところをもご存知です。民がどう進むのが良いかを知っておられたので「神は民を、葦の海に通じる荒野の道に迂回させられた。」のです。(18節)。そして「神は必ずあなたたちを顧みてくださいます」というヨセフの言葉にあるように、過酷な労働を強いられていた民がカナンの地に帰れるように導かれました。

 

 エジプトからヨセフの骨を携え上るということは、エジプトの時代が終わったことを意味しています。エジプトから完全に出る時が来たのです。

「昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。」(22節)。神さまが私たちのためにお送りくださった罪からの救い主キリストが雲の柱、火の柱として先立ち、顧みてくださり、私たちが目標に到達するまで導いてくださいます。

                           (久多良木志津子)

 

 

 10月18日() 聖日礼拝

 「避けどころなる神」          詩編 46編112節

 

 あの16世紀前半になされた宗教改革の中心人物となったマルチン・ルターは、大きな行き詰まりの中で、詩編46編の御言葉との出会いを通して、大きな励ましを受けました。1529年にこの御言葉を通して讃美歌267番「神はわがやぐら」(讃美歌21377番「神はわが砦」)を作詞作曲しました。この讃美歌は、その後多くの人たちを励ましました。

 

神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」(2節)神は、厳しい嵐の中に私たちが置かれる時、避けどころとなってくださいます。

 「万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。」(8節、12節)。どのような時にも私たちを見放すことなく、共にいてくださいます。

 

 「人々を恐れてはならない。…  恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」と主イエスは語られました(マタイ福音書10章26,31節)

 力を捨てよ、知れわたしは神。」(11節)は、口語訳では「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」と訳されています。揺り動かされる時にこそ、生けるまことの神を仰ぎ信頼しましょう。

                           (久多良木和夫)

 

 

 2015年 10月25日() 聖日礼拝

 「誰が石を投げられるか」      ハネ福音書8章1-11節

 

今日の聖書の箇所においては、二人の人が窮地に立たされました。一人は姦通の場で捕えられてきた女性です。彼女は石打の刑で殺されるかもしれませんでした。もう一人は主イエスです。律法学者やパリサイ派の人々によって仕掛けられた罠の質問を受けました。

 

彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(7節)。年長者から順番に去って行きました。女性の側に残ったのは主イエスのみでした。イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(11節)。その女性は、命の終わりではなくいのちの継続を獲得しました。彼女は大きな転機を迎えました。主イエスは彼女を罪に定めないと宣言してくださいました。

 

イエスは、過去に縛られるのではなく、未来に向かって新しい歩みをするのですよと語ってくださいました。彼女の罪の罰は、主イエスが十字架で身代わりとなって受けてくださいました。私たちの罪の罰も主は身代わりとなり受けてくださいました。

                        (久多良木和夫)

 

 

 2015年 11月1日() 聖日礼拝

  「私の内に清い心を」         詩編51編1219節    

 

この詩編51編はダビデが大きな罪を犯し、そのことを心に留め書かれたものです。ダビデは王となった後に、バテセバとの姦淫の罪、その夫ウリヤの殺害と取り返しのつかない罪を犯しました。

 

 「神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。」(3、4節)。ダビデはもがき苦しみました。自分の内にある闇に気がつきました。自分中心の心、汚れた心、恐ろしい心を覚えて、この自分を憐れんでくださいと心より祈りました。

 

 神よ、わたしの内に清い心を創造し新しく確かな霊を授けてください。」(12節)。清い心、それは単に清らかな心という意味ではありません。恐れない心、平安な心、希望の心です。それを与えてくださるのは主なる神のみです。

 自分の力では限界です。どうすることもできませんと主に依り頼む者に主はなしてくださいます。

 

 「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」(19節)。                            

  (久多良木和夫)

 

 

 11月8日() 聖日礼拝

     「恵みと憐みの神」           ヨナ書4章111節

 

 預言者ヨナは、紀元前8世紀前半に活躍しました。彼は神のご命令に聞き従いませんでした。その結果、嵐の海の中に投げ込まれました。しかし神は、大きな魚を送り、彼の命を救われました。ヨナは、ついにニネべの町に宣教に行きました。その結果、ヨナの人々は滅ぼされることを逃れました。

 

 ヨナは、自分たちにひどいことをするアッスリヤの首都ニネべの人たちが好きではありませんでした。ヨナは、彼らが滅ぼされなかったことに対して怒りました。また、とうごまの木が一夜で枯れてしまったことを怒りました。

 

   主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」(10-11節)。神の愛は、選民イスラエルにとどまらず、異教の国の民にも注がれています。

 

 「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」(2節)神は、恵みと慈しみの神です。

                                     (久多良木和夫)

 

 

 11月15日() 聖日礼拝

 「神の愛と慈しみ」           詩編62編113節

 

「暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。」(11節)。暴力とは、力や財力、軍事力による他の人へのひどい行いを意味します。搾取とは不正、策略による他の人の大切なものを奪うことを意味します。それらは魅力的に見えることもありますが、それに寄り頼んではなりません。神はそれらに対して、最後は裁かれます。

 

 わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。」(2節)。「民よ、どのような時にも神に信頼し御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」(9節)。忙しい日々の中にも、主の御前に静まる時を持ちましょう。すなわち、聖書の御言葉を読み、祈る時をしっかり持ちましょう。

 

 「力は神のものであり 慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と」

(12,13節)。神こそすべての良いものを創造してくださった方です。神に感謝することを忘れないようにしましょう。慈しみとは、ヘブライ語で「ヘセッド」です。その意味することは契約の愛、真実の変わらない愛です。

                           (久多良木和夫)

 

 

 11月22日() 聖日礼拝

 「安らぎを受ける」       マタイ福音書11章2530節

 

主イエスに学ぶ第1のことは、まず天地の主なる神に呼びかけ、この方をほめたたえることです。「イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。』」(25節)

 

 第2のことは、「幼子のような者になる」ということ、口語訳では、「わたしは柔和で、心のへりくだった者であるから」、新改訳では、「わたしは心優しく、へりくだっているから」とあります。「幼子のように」ということは、自分は立派だと思わず、へりくだっているということです。 主イエスは、御自身の命をかけて、すべての人のしもべになられました。

 

第3のことは、キリストと共にキリストの荷を負うということです。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(29節)私たちは、キリストが作ってくださった一人一人にぴったりのくびきを負い、キリストに導いていただくのです。キリストが、同じくびき(横木)につながれて、私たちの最も近くにおられ、私たちと同じ荷を担い、共に苦しみ、私たちの辛さと同じ辛さを味わってくださっておられるのです。                          

  (久多良木志津子)

 

 

 11月29日() 聖日礼拝

     「主の名を呼び始める」       創世記41326

 

 主なる神にエデンの園から追放されたアダムとその妻エバの間に、カインとアベルの兄弟が生まれ、成長した二人は、それぞれ神に献げ物をしました。しかし、「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」ので、怒ったカインは弟アベルを襲って殺してしまいます。補い合い、助け合う関係を否定し、抹殺してしまいました。

 

 そのために、カインはさまよい、さすらう者となり、その生き様は代々受け継がれ、レメクに至って、他者はすべて敵となり、孤立化していきました。さらに、レメクの息子トバル・カインは、「青銅や鉄でさまざまな道具を作る者」となり、それがそのまま武器となって、「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」復讐すると決意するほどに、報復の連鎖の中におかれるになってしまいました。

 

 人々が、「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」(26)。神は祈りに応えて下さり、二千年前、レメクの世界のまっただ中に、敵を友とするために、その独り子を送って下さいました。「神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ36)「主の御名を呼び求める者はだれでも救われる」 (ローマ1013)。   

                           (井上博子)

 

 

  12月6日() 聖日礼拝

  「恵みと真理の主」     ヨハネ福音書1章14-18節    

  

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1節)。言とは神の独り子主イエスのことです。

 

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(14節)。神であられた方が、人となってこの世界に来てくださいました。そして私たちと共に住んでくださったのです。

  

  主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、」(出エジプト34:6)。恵みと真理は、旧約聖書にはっきりと記されています。そのことをこのヨハネ福音書1章で、はっきり記しています。

 

恵みとは神の一方的な愛です。救いをいただく資格のない者に救いを与えてくださる愛です。真理とは、真実であり、決して裏切らない、見捨てないということです。

 

「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」(17節)。恵みと真理の主が、私たちを滅びるものではなく、永遠に生きる者にしてくださるのです。                      

                          (久多良木和夫)

 

 

 12月13日() 聖日礼拝

「驚くべき神の愛」  フィリピの信徒への手紙26-8節

 

  驚くべき神の愛の第一のことは、神の御子が家畜小屋で生まれたということです。私達の、救い主イエス・キリストは、ベツレヘムの家畜小屋の飼い葉おけが着地点でした。貧しい羊飼いたちは真っ先に拝みに行きました。神ご自身が、神の身分を捨てて人として人の世に来てくださったのです。冷たい硬い石でできたよごれた餌箱は私たち人間の心を示しています。

第二のことは、神の御子が人間と同じ者になられたということです。おとめマリアの胎内で育ち月満ちて生まれられ、父となることを信仰をもって決断したヨセフを父として育たれました。罪以外の全てのことにおいて人としての弱さを負い、日常の生活をされました。

 

第三のことは、8節、キリストは「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とあるように、神の御子が私達人間の罪の身代わりとなって、最も残酷な、苦しみの死を遂げられたことです。9節、「神はキリストを高く上げ」とあるように、キリストの復活と昇天によって救いは完成したのです。あとは私達が飼い葉おけのような心に救い主をお迎えするかどうかです。

                        (久多良木志津子)

 

 

 12月20日() クリスマス礼拝

     「平和の道に導く光」       ルカ福音書1章6779節

 

 この箇所は、ザカリヤの賛歌と呼ばれる箇所です。「我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」(69節)この救いの角とは、救い主イエスのことです。主イエスによって希望が与えられました。

 

  それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。」(71節)。「敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、」(74節)。 敵とは、自分を苦しめる敵だけでなく、苦しくてたまらない状況、戦争、病気、家族のことでの悩みを意味します。それらからの解放が与えられるのです。

 

 その救いの土台は2つあります、1つは神の愛です。神は決して見捨てません、もう一つは神の真実です。神は救いの契約を守り通してくださいました。神は決して変わらないお方です。

 

 「主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」(77節)。ふつう考える救いは、商売繁盛、家内安全、病気が良くなる、入学試験に合格する、良い縁が与えられるといったことです。神はそれらをもちゃんと与えてくださいます。真の神の備えてくださった救いとは、もっと根本的な罪の赦しによる救いです。神との関係が回復し、神の子どもとされ、神とつながって生きる者になるということです。

 

  高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」(78-79節)もはや暗闇と死の陰に坐し続ける必要はないのです。暗闇を打ち破ることのできる救い主が来てくださったのです。   

                           (久多良木和夫)

 

 

 12月27日() 年末感謝礼拝

     「主は共に働き」        マルコ16章14-18節

 

 2015年の標語は「一歩を踏み出そう」でした。個人において、教会において、一歩を踏み出すことを願いつつ歩みました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(16節)。これは、主イエスよりの弟子たちへの宣教命令であり、私たちクリスチャンへのものでもあります。

 

  一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」(20節)。主イエスの召天の後、弟子たちは主の命令に従って宣教のために出かけて行きました。主は共に働いてくださいました。

 

 自分に能力があるからではない、むしろ自分には能力もない。自分が強いからではない、むしろ自分は弱い。そんな自分を主は選んでくださった。主のご命令だから従って行く、主の助けを信じて従って行く。主は、そんな弟子たちを強めてくださいました。主は今も生けるお方です。私たちが主に従って進む時、主は共に働き、御業を現してくださいます。                          

                          (久多良木和夫)