2024年1月

 1月7日() 新年礼拝 

  「主の名よって共に集う」  タイによる福音書18章18-20節

 

 新年早々、1日に能登半島地震があり、2日に羽田空港での日航機と海保機と

の衝突事故、3日に小倉の鳥町食道街での火災とありました。この大変さにある

方々が、励まし合い、助け合いの中で、日々の歩みが守られることを願います。

 

 「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつなが

れ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(18節)。なぜ、

そのようなことがなされるのか、それはぺトロが主イエスに対してあなたはメシ

ア、生ける神の子ですと信仰告白をし天の国の鍵を授かったように、主イエスを

救い主と信じるその信仰に、主が応えてくださるからです。

 

 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あ

なたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名

によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命

したのである。」(ヨハネによる福音書15章16節)主イエスの名による祈り

を主は聴いてくださいます。

 

 「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人

が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださ

る。」(19節)。

 一人で心を込めて祈ることは幸いなことです。二人で心を合わせて祈ることは

さらに幸いです。主がその祈りを聴き応えてくださるからです。信仰の友との祈

りを大事にし、また週半ばの祈祷会にもこの年励みましょう。

 

 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中に

いるのである。(20節)。ダビデとヨナタンは信仰により心を合わせました。

ヨナタンは父サウルの後、王位を継ぐことよりも神に選ばれたダビデの進むべき

道を大事にしました。

 

 

 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる

福音書28章20節)。主は共にいてくださるお方です。二人または三人が、主

イエスの名によって集うところに、インマヌエルの主がより確かに共にい

てくださるとの約束がここにあります。

                          (久多良木和夫)

 

 1月14日() 聖日礼拝 

   「祝福を受け継ぐために」    ペトロの手紙一3章8-16節 

 

 この世では、大変なこと、悲しいこと、つらいことが多くあります。能登半島地震、遠いウクライナでの戦争等です。そのよう中で互いに励まし合い、支え合うことは大きな力となります。

 

 「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」(8節)。心を一つに合わせ、同情し合い、互いに愛し、憐みを掛け合い、謙虚でありたいものです。 

 

 「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、 悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」(10-11節)。4つのことが告げられています。第1のことは舌を制して悪を言わないようにしなさいということです。他の人のことを悪く言ってしまうことを慎むことです。第2は唇を閉じて偽りを語らないようにしなさいということです。自分中心にあれこれ語り、特定の人を隅っこに追いやり弾き飛ばしてしまうことがないようにすることです。第3のことは、悪から遠ざかり善を行いなさいということです。悪は自分に益をももたらすように見え魅力的です。悪に近づきすぎることをやめ、遠ざかることです。第4は、平和を願ってこれを追い求めなさいということです。家族との関係、親族との関係、友達との関係がこじれ疎遠になっているとするなら、良い関係となるように心を用いましょう。ウクライナとロシアの戦争が終結するように、ガザでの苦しみが一日も早く終わるように祈って行きましょう。

 

 「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」(9節)。   

 旧約聖書に出て来るヤコブの子ヨセフは、兄たちによって大きな苦しみを経験しました。しかし、神が共にあり助けてくださいました。主よりの取り扱いもあり、兄たちを許し、兄たちを助けました。

 主イエスは私たちの救いのためにこの世においでくださいました。そして最後は十字架の上で大きな苦しみを受け息を引き取られました。十字架の道を避けることもできましたが、そうされませんでした。それは、その死を通して、私たちの払い切れない罪の代価を支払うためでした。その十字架の死と復活を通して、私たちを呪いから祝福に引き上げてくださいました。

 

 

 私たちは、主イエスによって祝福の中に招き入れられました。祝福を受け継ぐ者とされていることを忘れないようにしましょう。

                         (久多良木和夫)

 

 1月21日() 聖日礼拝 

  「苦しんでくださったお方」  ペトロの手紙一3章17-22節

 

 「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよ

りはよい。」(17節)。難しい問題、課題に取り組まざるを得ないことがあ

ります。そして、その意味がすぐに分からないこともあります。パウロとシラ

スは、フィリピの町に入ってすぐ占いの霊に取りつかれている一人の女性から

その霊を追い出しました。そのことでその女性を利用して商売をいた者たちは

怒って、二人を捕らえ、鞭打ち牢の中に投げ入れました。その時二人は、その

意味が分からなかったことでしょう。しかし、その夜大地震が起き、二人を通

して看守とその家族は、主イエスを信じる者となり洗礼を受けました。

 

 あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されまし

たが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわ

れていた霊たちのところへ行って宣教されました。」(18-19節)。主イエ

スは、神の位を捨てて人となりこの世においでくださいました。そして十字架の

刑に処せられ命を失い死なれました。死を経験され、死者の世界である陰府に行

きました。使徒信条には、「十字架につけられ陰府に下り」と記されています。

 そして、そこで何をされたのか。その陰府の世界に閉じこめられている人たち

に福音を宣教されました。その陰府には誰も命をもっていくことはできません。

主イエスは、もはや光なし、希望なしの世界に赴き、神の大いなる愛を伝え、救

いの御業が成し遂げられたことを伝えられました。主イエスは、確かな光の主と

して、陰府をも照らされました。

 

 陰府に下られた主イエスは、私たちがもはや届かない、打つ手がないと思われ

るところにもおいでくださる方であり、希望がないと思われるところに希望を注

ぎ与えてくださるのです。

 

 「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キ

リストの支配に服しているのです。」(22節)。主イエスは、死を打ち破られ

復活されました。使徒信条には、「三日目に死人の内よりよみがえり。天に昇り

全能の父なる神の右に座したまえり」と記されています。神の右の座は権威と力

を意味します。

 

 「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求める

ことです。」(21節)。洗礼は水を用いてのただの儀式ではありません。主イ

エスによって神の者とされることです。人の良心は確かに見えてそうではありま

せん。吹き飛びます。だからこそ、神とつながって生きる者としていただくので

す。

 

 「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない

者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。

(18節)。罪は神と人間を結ぶ道を徹底的に破壊しました。その寸断された道

を回復するために、主イエスは、十字架についてくださいました。罪の全くない

お方が、罪ある私たちのために苦しんでくださいました。罪の赦しのためにもは

や何度も何度も動物の犠牲を捧げる必要はなくなりました。主イエスの十字架と

復活のただ1回の出来事で、罪の赦しは完成し、神との関係は完全に回復したの

です。

                          (久多良木和夫)

 

  1月28日() 聖日礼拝 

   「床を支える手として」    ルカによる福音書5章17-26節

 

 主イエスのもとに、中風で寝たきりになった人が運ばれてきました。その人は体を自由に動かすことができず、主のもとに来るにも助けを必要としていました。この箇所を読んだ時、今年の御言葉と標語を改めて示されました。

 

 「主の名によって共に集い進もう」、互いに祈り合い、互いに主の栄光を求めて、励まし合い、助け合う。そのような共同体と導かれますことを願います。この寝たきりの人は、四人の助け手が必要でした。彼らの信仰と彼らの祈り、彼らの行動なしに、この人は救われませんでした。彼らは主のもとにこの人を連れてくるために、周りの人に驚かれるようなことをします。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。」(19節)

 

 しかし、そこまでの信仰と、切なる願いをもって、この中風の人を救ってあげてほしい、というこの四人の友人の信仰をご覧になり、主はこの人の罪を赦し、病を癒されました。わたしたちは、互いに祈り合い支え合うようにと、主から示されています。「二人または三人が、わたしの名によって集まるところには、わたしも共にいるのである」(マタイ1820)。イエス・キリストを信じる信仰をひとつにし、ともに隣人の救い(体の救いだけでなく、霊の救い)を求め、互いの賜物を持ち寄り合って、一致するを主からいただき、ともに歩んでまいりたいと思います。

 

 また私たちは「体の癒し」に心が向きます。この四人の友人も、中風の人の癒

しを求めていました。その人が床から解放されて、自由になることを願っていま

した。しかし、主イエスは、その人に一番必要な救いが、体の救いではなく、魂

の救い、神の赦しであることをご存じでした。イエスはその人たちの信仰を見

て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた (20節)中風の人が運ばれ

てきた時、神の子、救い主として「あなたの罪は赦された」と宣言されるので

す。

 

 私たちは目に見える部分の癒しを願います。それは私たち人間に必要なことで

す。しかし、私たちが本当に救いを必要としているのは、目に見えない部分で

す。主イエスが救い主として、救いを宣言された時、この人の全存在が救いを受

けました。そこに神の栄光が現れ、人々は神を賛美しながら帰っていきました

(ルカ526)。それは「驚くべきこと」です(ルカ526)。

 

 互いに祈り、求め、賜物を出し合って従っていく時、そこにひとりの人の救い

と、主の栄光が現れていきます。床を支える手として、私たちの手を用いていた

だきましょう。

                            (富山希望師)