2023年11月

 11月5日() 聖日礼拝 

  「神に喜ばれる献げもの」    ペトロの手紙一2章1-8節 

 

 見えない部分の代表の一つは心の中で中です。そこにはいろいろなものが入って来て、とどまり続けます。「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、」(1節)。悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口が心を占めることがあります。主は、それらを捨て去りなさいと命じておられます。

 「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」(2節)。赤ちゃんは空腹になると母乳、ミルクを求めます。それがすべての栄養源です。それは赤ちゃんの成長のために必要なものです。霊の乳とは、聖書の御言葉です。信仰の成長のためには聖書の御言葉が必要です。

 「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。」(3節)。主は恵み深く、慈しみ深いお方です。強盗に襲われて瀕死の重傷を負った旅人を助けた最後まで世話をした良きサマリア人のように、私たちを見捨てず助け守り導いてくださいます。

 「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。」(4節)。主イエスは復活の主です。選ばれた尊いかなめ石(6節) 、かしら石(口語訳)、礎石(新改訳)なる方です。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(7節)。この世界に打ち立てられた神の国、神の家の土台石となってくださいました。主イエスはご自身の命を捧げてくださいました。その命の犠牲により救いの御業が成し遂げられ、救いの門が開かれました。

 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。(6節)人生の歩みにおいて失望失意、落胆が襲って来ることがあります。そのような時にこそ、主は間近くあって助けてくださる方です。この方に依り頼む者は失望のどん底にとどまり続けることはありません。

 「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。(5節)。霊的な家、霊の家(口語訳、新改訳)は教会を指します。教会は建物ではなく、救いに与かって者たちの集いであり、神の家族を意味します。聖日礼拝を共に捧げ、聖餐の恵みに与かり、自分のできる奉仕を担うのです。

 旧約の時代では、アロンの家系のものしか祭司になることはできませんでした。しかし、新約の時代では、主イエスを信じる者、キリスト者は祭司として召され歩むことができます。神と人の間に立って執りなし祈るのです。

 神の喜ばれる霊的ないけにえとは何を意味しているのでしょうか。一番大切な献げもの、それは天の神さまに心を向け、心から感謝して礼拝を捧げることであり、祈ることです。神の御心を求め、示された時に従うことです。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」(詩編51編19節)。神の求められるいけにえとは、打ち砕かれた霊であり、打ち砕かれ悔いる心です。私のこの持ち物、この決意、この計画は絶対手放しません。譲りませんではなく、主の御心であれば、喜んでお委ねします。差し出しますという心です。

                          (久多良木和夫)

 

 

 11月12日() 聖日礼拝 

   「私たちに対する神の愛」   ヨハネの手紙一4章16-21節

 

 晩秋となり冬に向かう時です。体を温めるためにストーブやこたつを出しま

す。暖かい食べ物やお風呂も感謝なことです。外側の体を温めることと共に大切

なことは心を温めることです。抱えているいろいろな課題や心配事で心が冷えま

す。神の大きな愛で心を温めていただきたいものです。

 

 愛には3種類あると言われます。第1は自分中心の自分の好みで愛する愛で

す。それは熱烈に愛する一方、急に冷めることがあります。第2は、身内や親し

い友に対する愛です。第3は無私の愛です。私たちは第1と第2の愛は持つこと

ですが、第3の愛すなわち自分を捨ててでも真実に愛する愛は持っていません。

それは神のみがお持ちの愛です。

 

 「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

(21節)。相手を愛することは簡単なことではありません。相手が良くしてく

れたら愛することは難しくありません。しかし、ひどいことを言ったり、ひどい

ことをした相手を愛することは簡単ではありません。

 

 「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を

伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(18節)。疑いがある

と恐れが生じます。小さな子どもは高いところからでも、父親や母親の懐に恐れ

なく飛び込みます。それは全く信頼しているからです。

 

 「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからで

す。」(19節)。神はまず先に私たちを愛してくださいました。この世界を創

造し、水や空気、美味しい食べ物を備えてくださいました。

 

 「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は

愛です。」(16節)。神は、神から離れ、滅びに向かう私たちを愛し、愛する

独り子イエスをこの世にお遣わしくださいました。主イエスは最後には十字架に

つけられることをご存じの上で、この世に生きる私たちのもとにおいでください

ました。聖霊なる神は、主イエスを信じる私たちの救いのしるしとして私たちの

内にお住まいくださいます。

                           (久多良木和夫)

 

 11月19日() 聖日礼拝 

   「驚くべき光の中へ」    ペトロの手紙一2章9-17節

 

 「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。」(9-10節)。ここには、かつてはこうだったと書かれています。第1は暗闇の中にいた。暗闇とは心に魂に真の光がなかったということです。第2は神の民ではなかった。第3は憐れみを受けなかった。神の愛を知らず、その愛の外に生きていたのです。しかし、今は、神より幸いをいただく者となりました。第1は驚くべき光の中へ招き入れられた。第2は神の民となった、第3は憐れみを受けているというのです。

 

 有名なアメイジンググレイスという讃美歌は、こう歌われています。Amazing grace    驚くばかりの神の恵み how sweet the sound 何と美しい響きであろうか That saved a wretch like me 私のような者までも救ってくださる I once was lost 道を踏み外しさまよっていた私を but now am found 神は救い上げてくださり Was blind but now I see 今まで見えなかった神の恵みを今は見出すことができる。この歌の作詞者であるジョン・ニュートンはかつて奴隷船の船長でした。彼は、大嵐の中、今にも沈むかもしれない船の中でそれまでの歩みを悔い改め、主イエスに従う決心をしました。彼は奴隷貿易から足を洗い、後には英国国教会の牧師になりました。

 

 「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」(9節)。肉の欲に警戒し避けるように勧められています。

 

 「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」(9節)。ここには、神からの愛の招きがあります。私たちは神に背を向け、神から遠く離れ、自分勝手に歩んでいた者です。神から招かれる資格は何もありません。そのような私たちを神は神の子、光の子として招き入れてくださいました。なんと感謝なことでしょう。

 

 神を他の人に指し示し、伝える者になるために、私たちは神から大きな愛と憐れみを受けて今があるのです。

                          (久多良木和夫)

 

 11月26日() 聖日礼拝 

   「受けた傷によって」   ペトロの手紙一2章18-25節

 

 「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。」(20節前半)。悪いことを行って、そのことで苦しみを受けることがあります。そのようなことがないようにしたいものです。

 

 「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。」(19節)。「不当な苦しみをけることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。」(20節後半)善を行っているのに不当な苦しみを受けることがあります。善を行えば苦しまないと聖書が言っていません。善を行っているのに苦しむこともあります。エジプトに売られたヨセフは、不当な苦しみを経験しました。しかし、主はヨセフと共にいてくださいました。主に祈りを捧げつつ、主を見上げ歩んで行きましょう、主は良い方向に導いてくださいます。

 

 「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。(21-23節)。キリストは、大祭司カイアファのもとでも、総督ピラトのもとでも、偽りの不利な証言に対して黙されました。

 

 「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(24節)。人の罪を担うということは、その罪という大きな借金を自分が身代わりになって払うということであり、自分の命が要求されます。しかも、完全にその謝金が帳消しになるためには、罪のない方の命が必要です。罪のないイエス・キリストご自身が、あの十字架の上でその命を捧げてくださいました。

 

 

 「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのは

わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和

が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ書53

章5節)。キリストご自身が私たちの罪を背負い十字架に架かってくださいまし

た。鞭打たれ傷つき、ご自身の血潮を流されました。差し出された愛と命によっ

て、私たちは罪を赦され、癒されるのです。その大いなる恵みを受けるには、キ

リストのもとに来る必要があります。キリストの前にひざまずく必要がありま

す。

                          (久多良木和夫)