2023年 6月
6月4日(日) 聖日礼拝
「預言、幻、夢の恵み」 使徒言行録2章14-21節
聖霊降臨の出来事の中で、主イエスの弟子たちは上よりの聖霊を受け、満たされました。そこに集まったいろいろな国の人に神の偉大な業を証ししました。弟子たちは、不安や恐れが取り除かれ、主が共にいてくださることを心にとめ、喜びに満たされました。その大胆な勢いを見た人の中には、彼らは酒に酔っているという者もいました。しかし、朝の9時で、祈りの時間でしたからそんなことはありませんでした。
弟子の中の一人であるペトロが立ち上がり、メッセージを取り次ぎました。この出来事は預言者ヨエルが預言したことが成就したのだと語りました。『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。(17-18節)。
もとになっているヨエル書の預言は3章1-5(口語訳、新改訳では2章29-32節です。ヨエル書を読むと、イナゴの幻をもとに、裁きの「主の日」について記されています。その中で、大いなる希望の光の箇所がこの預言です。
「主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』(20-21節)。すべてを飲みつくすような嵐、すなわち死が襲ってきたとしても、聖霊なる神を内にいただいている者は、救いのパスポートである聖霊によって守られ、天の御国に移されることができます。
「息子、娘は預言をする」-神の命の御言葉を神から語りかけられ、それを握り生きる幸いです。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。」(イザヤ書41章10節)。
「若者は幻を見る」-将来に向けて希望の持ちにくい時代の中にあって、主のご支配の中で励まされ、ヴィジョンを握り分かち合うことができます。
「老人は夢を見る」-人生の終わりが近づいても、天の御国を仰ぎつつ、希望を失わずに生きることができます。
預言、幻、夢の恵みが聖霊降臨の出来事の日から与えられるようになったのです。
(久多良木和夫)
6月11日(日) 聖日礼拝
「聖霊の導きに従って」 ガラテヤの信徒への手紙5章22-25節
人は、主イエスを救い主として信じ、受け入れて、クリスチャンとなります。クリスチャンとなるということは、2つの意味があります。第1は、神の子どもとされるということです。罪が赦され、神との断絶が取り除かれるということです。第2は、内に聖霊なる神をいただくということです。聖霊が私たちの内にお住まいくださるということです。
クリスチャンとなった直後には特別に大きな喜びがあります。神の子どもとされたことの感謝、礼拝を捧げる喜び、奉仕をする喜びがあります。しかし、しばらく歩む中で、物事や人との関係が時にうまくいかないということも経験します。様々な誘惑も受けます。肉の業に身を置いてしまうこともあります。「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。」(19-21節)
そうなると、クリスチャンとしての誇りを失い、感謝、喜びがなくなります。自分の思いや願いや欲望を中心に歩むようになります。だんだん礼拝からも遠ざかり、聖書も開かなくなります。
そのような私たちに対して、神は心にとめていてくださいます。一度救いに与った者に対して、忍耐強く働きかけ続けてくださいます。
聖霊によって結ばれる9つの実があります。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(22-23節)。
肉の望むことと聖霊が望むことは違います。互いに相反することが多いのです。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」(17節)。
「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」(24節)。私たちはそれぞれ、自分の思い、願いがあります。しかしそれを第1にはしませんと主に申し上げ、主に従うことを選びます。すなわち新生から聖化の道に進みます。
「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(25節)。聖霊の導きといっても、何か特別な声が聞こえ、それに従うということではありません。聖霊が、この自分を神の子どもとして育て導いてくださることを感謝して、聖霊の助けと導きを祈りつつ歩むのです。主はその歩みを喜んでくださり、なお導いてくださいます。
(久多良木和夫)
6月18日(日) 聖日礼拝
「愛の中に覚えられて」 ルカによる福音書15章11-25節
「放蕩息子」は、「父の財産の半分をもらい放蕩の限りを尽くし、帰ってきた
弟を、父が赦し受け入れる物語」ですが、同時に、「父の傍にいながらも、父の
愛に気付いていなかった兄」を、父が愛と赦しをもって、招く物語でもありま
す。
弟は、人生のドン底を経験し、「我に返って」父のもとへ帰ります。当時の豚
飼いは、最底辺の仕事でした。とても汚く大変な仕事です。そして、弟は食べる
にも困り、豚と同じ餌を食べます。人間扱いですらありません。そこまで陥った
弟は、父のことを思い出します。父のもとに帰って、「雇い人」のひとりにして
もらおうと考えるのです。
父は「死んでいたと思っていた」息子が帰って来たことを喜びました。彼がま
だ遠く離れているにも関わらず走り、彼の汚れを気にせず、抱きしめます。それ
だけではなく、父を蔑ろにし、侮って離れた息子を、なお「自分の息子だ」とい
う証明として、指に指輪をはめ、一番いい服を着せてやるのです。ここに、私た
ちへの神様の深い赦しと愛があります。分不相応としか思えないほどの姿になっ
てしまった罪人を、なお神様は、招き、赦されます。自分の姿を知って「立ち帰
る」人間を、神様は赦しと愛をもって受け入れられます。
兄はどうでしょう。彼の心は満たされていません。父が弟を受け入れ、大事に
扱っていることを腹に据えかねたのでしょう。自分の働きに対し、思ったような
対価が支払われていない、それどころか、あのろくでなしの弟の方が大事にされ
ている、と不満を感じます。この兄の価値観の中に、この世の法則があります。
「弟が堕落したのは自業自得で、自己責任。立派に努めた兄が報いられないのは
おかしい」。この兄の中には、弟への愛や赦しがありません。そこにあるのは、
「心の狭さ」で、「弟を切り捨てる」思い。これが兄の罪でした。
しかし聖書は、この人間の世界の価値観を、人間の罪から来る価値観を砕きま
す。そうであってはならない。神はあの人にも貴方にも、それぞれを赦し、愛さ
れる。
弟とは、当時の罪人や徴税人、見下げられた人々。兄とは、律法学者やフ
ァリサイ派でした。両方とも、父の愛の中に覚えられ、受け入れられていまし
た。私たちの人生は、兄のような時期もあれば、弟のような時期もあるでしょ
う。けれども父なる神様はいつも等しく私たちを愛し、主イエスによって私たち
を赦して下さる。
変わることのない、愛の中に覚えられているのです。
(富山希望師)
6月25日(日) 聖日礼拝
「熱心なとりなしの祈り」 使徒言行録12章1‐19節
本日は、ホ群弾圧受難記念礼拝を捧げます。今から81年前の1942年、日本の政府はホーリネス系の教会に宗教弾圧を加えました。翌1943年には教会解散命令が出されました。その弾圧は終戦の1945年まで続きました。
国家は本来国民のためにあるべきなのに、国民を支配し自分たちの思い通りに動かそうとすることがあります。80年ほど前の日本はまさにそのようなことでした。
本日の聖書箇所においては、ヘロデ・アグリッパという支配者が、キリスト教会に宗教弾圧をかけ、指導者ヤコブを殺害し、ペトロを捕らえ牢の中に投げ込みました。(1-4節)。
聖霊降臨の出来事によりエルサレム教会が誕生し、リバイバルが起きました。しかし、その後ステファノが殉教死し(7章58-60節)。エルサレム教会に対して大迫害が起きました(8章1節)。
今から80年以上前に日本は、中国への侵略を進め、1937年には日中戦争に投入しました。1938年には国家総動員法が成立し、軍事力、経済力、人的能力のすべてを投入する総力戦の体制となりました。1941年には太平洋戦争に突入しました。
日本国家は、1925年に制定した治安維持法を1928年に改正し、さらに1941年の改正によって、「国体の否定、神宮もしくは皇室の尊厳の冒涜」という規定を加え、宗教弾圧ができるものに変えました。1942年に、治安維持法違反すなわち、神宮に対する不敬、天応に対する不敬、国家変革を企図せる罪ということで、ホーリネス教会に対して宗教弾圧はなされました。ホーリネス教会が掲げていた再臨信仰が国家にとっては都合が悪かったのです。
私たちの教会に関わる中では、以下の教会、教師が弾圧されました。米子教会‐山中日出刀師、 門司宗利教会(門司聖教会)‐長畑辰二郎師、 戸畑向町教会(戸畑聖教会)‐加藤俊守師、 八幡東部伝道所(八幡聖教会)‐桑原福三師、 熊本城東教会‐森田豊熊師、 宮崎清水町教会‐吉間礒吉師、 都農仲町伝道所‐黒木光雄兄(信徒代表)、 高鍋南伝道所です。
教師が検挙され、教師を失った教会、家族はどれだけ大変だったことでしょう。教師が無事に帰ってくることを切に祈ったことでしょう。
さて、ペトロが投獄され、危機的な状況の中で、教会では、信仰の仲間たちによってとりなしの祈りがなされました。天使によってペトロは牢から出ることができました。ペトロが仲間たちのところに戻って来た時、仲間たちはそれが本当のことだとは信じることができませんでした。主は大きな憐れみの中で、とりなしの祈りを聴いてくださったのです。
(久多良木和夫)