2023年7月
7月2日(日) 聖日礼拝
「誇る者は主を誇れ」 コリントの信徒への手紙二10章12-18節
輝いているものというと、目立つもの、きらびやかなもの、特別に優れたものを思い浮かべます。確かに特別に秀でている者は輝いて見えます。しかし、必ずしもそれらだけではありません。置かれているところで。なすべきことを感謝しつつ行っている人には輝きがあります。それぞれには、その人ならではの持ち味があります。
使徒パウロは、第2伝道旅行で、1年半の間、コリントの町に滞在し福音を宣べ伝えました。その結果、コリントの教会が設立されました。パウロが福音宣教のために、他の町々に出かけて行った後、コリントの教会には様々な指導者が立ちました。その中には教会の兄弟姉妹を混乱させる者もいました。
二つの問題がありました。第1のことは自己推薦です(12、18節)。自分こそは素晴らしい、正しい、優れていると自己推薦しました。その結果、自分の考え、計画はすべて正しいと錯覚しました。第2のことは他者との比較です(12節)。人との比較に終始し、優越感にとらわれたり、劣等感にとらわれたりしました。その結果自らの輝きを失いました。
パウロへの批判も起きました。しかし、パウロはそのような中にあっても、コリントの教会に人を愛し、祈り続けました。なぜそうできたのか、それは、彼が主を中心にして歩み、いつも主を仰いでいたからです。
彼には、大きな感謝がありました。かつてサウロの名前の時代に、キリスト者を迫害する者でした。そのサウロは復活の主は出会ってくださいました。サウロは神の大きな憐れみと愛によって捕らえられました。主イエスにある大いなる救いの恵みをいただきました。その感謝を生涯にわたって持ち続けました。
主から推薦される人こそ大事であることを語っています。「自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。」(18節)。
使徒パウロの願いは、福音の宣教であり、その結果主イエスの救いに与った人たちが成長することでした(14-16節)
「誇る者は主を誇れ。」(17節)。彼は、主イエスを誇りました。
「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです」(コリント一1章30-31節)。キリストこそ、神の知恵であり、生きる道を教えてくださるお方、罪を赦し神の子どもとし、主の御心にかなうように引き上げてくださるお方、すべての罪の負債を支払ってくださった方、パウロは主を誇りつつ、その生涯を歩みました。
私たちも主に感謝し、主をほめたたえつつ歩んでいきましょう。
(久多良木和夫)
7月9日(日) 聖日礼拝
「誰かが弱っているなら」 コリントの信徒への手紙二11章16-29節
自分を愛する、自分を大切にすること、これは当たり前に思われますが、必ずしもそうではありません。自分を愛すること、自分を大切にすることが難しい人もいます。自分の子ども時代、自分の今までの歩みにおいて、自分が愛され大切にされてきたかに大きく関係するからです。過去にそのような経験が乏しい人であったとしても、主の愛を経験することで生き直すことは可能です。
他の人を愛すること、他の人を大切にすること、それは簡単なことではありません。自分を愛し、自分を大切にできて、初めて他の人を愛し大切にすることができます。
使徒パウロは自分がどのようなものであったかを語っています。第1は、エリートとしての歩みです。ヘブライ人、イスラエルの民としての血筋におけるエリートです(22節)。第2は、キリストに仕える者です。熱心なユダヤ教徒から、熱心なキリスト教徒になりました(23節)。第3は、苦難の連続を通って来たということです(23-28節)。投獄、鞭を打たれる、石を投げられる、難船する、海上を漂う、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟からの難、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいた、日々迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事等です。
パウロには2つの大きな後悔がずっとあったことと思われます。第1はステファノの石打ちに賛成してそばで見ていたこと(使徒言行録7章54-8章1節)。第2は、キリスト者に対して徹底的な迫害をしていたこと(使徒言行禄8章1-3節)。パウロはダマスコ途上で復活の主イエスと出会いました。神は、滅ぶべき自分を滅ぼされず、ご自身のみ懐の中に招き入れてくださった。彼は神の愛に打たれ、神の愛に捕らえられました。パウロは変えられました。回心をし、主イエスを信じる者になりました。そして、主イエスを伝える伝道者、宣教者になりました。
「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」(29節)。これは使徒パウロの心です。彼は、あの良き隣人となったサマリア人のように傷つき倒れている人をほおっておけない人になったのでした。神の愛に支えられ、神の愛に励まされ、自分自身を愛し大切にすると共に、自分尾目の前の相手を愛し、大切にする者になったのでした。
誰かが弱っています。私たちはどう歩むでしょうか。
(久多良木和夫)
7月16日(日) 地区講壇交換礼拝
「迷惑な愛と感謝」 ヨハネの手紙一4章12―17節
神を見た方がいますか?誰もいませんと12節に書かれています。
神は霊である(ヨハネ福音書4章24節)から肉の目には見えません。しかし神を
知ることはできます。人によっては聖書の御言葉によって、神の幻のよってそれ
ぞれ神を体験することもあります。(アブラハム、モーセ、パウロ等々、私も)
神は肉の目には見えないけれども、わたしたちの間におられることがわかりま
す。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくだ
さるのです。愛である神(4章8節)がわたしたちの内におり、言葉や行動に溢れ
出るので、神を知ることができるのです。
イエス・キリストの弟子たちも神を示してくださるようにお願いしました(ヨ
ハネ福音書14章8~9節)。イエスを見た人は神を見たのだとイエスは言われ
ます。イエスは神の御子であり、神であるからです。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上大きな愛はない」(ヨハネ福音
書15章13節)とイエスは言われ、その愛を示してくださいました。イエス・
キリストはわたしたちのために十字架にかかり、死なれ、わたしたちに永遠の命
を与えてくださいました。わたしたちはその恵みによって救われ、神を知ること
ができました。恵みというのはいただく資格がない者が無償で、ただいただいた
ことです。感謝するばかりです。
イエス・キリストを信じる人はその愛を知っています。その愛に恩返しはでき
ますか?そういうふうにできるのかと悩みます。
わたしたちの国はお祝い金や、お花料も人によって定格に決められていること
が分かります。それは「迷惑かけてはいけない」という教育によることからだ
と、考えられたことでしょう。
迷惑かけるな!ということは素晴らしい教育であると思われます。自分の責任
感、相手を配慮する心があるからです。ある学生は相談することがあっても出来
なかったと言いました。自分の悩みのせいで、父母に、先生に迷惑かけてはいけ
ない、と思ったからです。「迷惑かけない」ことは、お互いに助けてあげられな
い、助けを求めることも出来ないことにもなります。それで、キリスト者である
私は悩みます。自由と愛に制限されているならばどうして愛することが出来よう
か? 命をかけてわたしを愛した神は恩返しを求めることがなかった。恩返しが
できない神の愛は迷惑ですね。どうしましょう!ただ、感謝して神に栄光帰する
ことばかりです。
それと、わたしたちの内にいる神の愛でお互いによって愛し合うことです。
16節にも書かれています。神は愛です。わたしたちに対する神の愛を知り、
信じているならば愛の神がわたしたちの内にとどまっているから愛することが
できます。相手が恩返しできないほど、迷惑をかけるような愛で愛しましょう。
それで神を知ることができるのです。
神の愛が内に全うされている人はこの世で恐れることがありません。災害があ
っても死に襲われても神の愛によって命が救われ、また、いつでも守られるこ
とを確信しているからです。この神の愛を確信して持っているので、何があっ
てもイエスのように自分の命を捨てるまでも人々を愛することができます。
神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに、迷惑
かけるほど愛し合いましょう。神に感謝!
(在日大韓折尾教会牧師 李 恵蘭師)
7月23日(日) 聖日礼拝
「主はわたしを囲む盾」 詩編3編1-9節
ダビデとは「愛されているもの」という意味です。自分の息子の一人には、「わが父は平和」という意味のアブサロムと名付けました。しかし、何とも悲しいことに、この息子は父ダビデの王位を奪おうとし、命を狙い追い迫ってきたのです。ダビデは、イスラエルという国の王であるのに、息子から逃げなければならない状況にあっての詩です。
周りには苦しめる者がいて、多くの民に包囲されていました。言葉による苦しめもありました。「彼に神の救いなどあるものか」と信仰を否定されるような、自分が大事にしてきた生き方を全否定するような言葉を浴びせられました。
セラという休止の合図の後、内容が変わっています。「主よ」と信仰の息を吸いました。心を神に向けました。
「主よ、それでもあなたはわたしの盾、わたしの栄え わたしの頭を高くあげてくださる方。主に向かって声をあげれば聖なる山から答えてくださいます。」(4-5節)「あなたはわたしの盾」は、他の訳では、「私を取り囲む盾」、とあります。前だけではなく、前、後ろ、右も左も、四方を取り囲んでいてくださる。しかも上も下もです。「主の盾」は、主の完全な守り、神の完全な救いのことを言っています。
「ダビデ、お前は、前の王様サウル王の家の血を流して王位を奪ったから、主が報復をなさるのだ、だからお前は災難を受けている、前は自分の罪ゆえに死ななければならない」と、シムイはダビデの過去を徹底的に攻めまくりました。
偶像は神への信頼を弱めさせるものです。悪魔は自分の活動を広げようとして、私たちの周りにいろいろな偶像を持ってきます。ですから、私たちのためにいつもとりなしていてくださる聖霊なる神を呼び求め、主イエスキリストのお名前を通しての祈りを忘れずに過ごさせていただきましょう。
横になり、眠り、目覚める、日常の歩みがあります。こうして普通に過ごせるのは主が支えていてくださるからです。と信仰を明らかにし、現実は、なお変わらなくても、恐れない、と言い切りました。「主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。」(8節)。
多くの人がアブサロムの方に行ってしまい、追い迫ってくる者たちが増えてくる中で、ダビデもあまりの苦しさに、こう叫びました。「すべての敵の顎を打ち 神に逆らう者の歯を砕いてください。」(8節)。それは、具体的に人間を傷つけることよりむしろ、神に敵対する存在であるサタンに対して、サタンの顎をうち、歯を砕いてください、という意味に取ることができます。このような強い表現の背後には、悪を裁かれる正しい神様がおられるという、信仰、思想があります。ダビデは、主に希望を置いていました。
「救いは主のもとにあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。」(9節)。自分、個人のためではなく、あなたの民、イスラエルの民全体のために祝福を求めた祈りです。
(久多良木志津子)
7月30日(日) 聖日礼拝
「弱い時にこそ強い」 コリントの信徒への手紙二12章1-10節
現代という時代の特徴の一つは、競争社会であるいうことです。私たちは、人と競争して頑張らねばならないと考えます。人生は何のためにあるのかということを考えさせられます。人生をどう豊かに生きるかは大きなテーマの一つです。自分の命、人生は神によって備え与えられたものです。喜び感謝し享受したいものです。
そのことを妨げるものは、第1に主を見上げず人を見ることです。そうするといつの間にか疲れ切ってしまいます。第2は自分の頑張り、力だけを頼りにして進もうとすることです。その歩みにおいていつか限界を覚えます。
与えられた命、人生を享受するためには、第1に、人ではなく主を見上げることです。第2にその主に必要を満たしていただくことです。
私たちは、時に弱い時を経験します。学校や職場でそこに身を置くことがつらくなった、また人間関係がうまくいかなくなった。健康が優れなくなった等です。
パウロは二つの大きな経験をしました。第1のことは、あのダマスコ途上で、復活の主イエスとの出会いであり、回心です。第2のことは、第三の天にまで引き上げられたという経験です(1-4節)。
使徒パウロは、一つのとげを持つ身となりました。そのとげは何を意味しているのでしょうか。いろいろな説があります。マラリア感染の後遺症ではないか、てんかん発作ではないか、眼の病ではないか等です。パウロは何度もそのとげを取ってくださるように何度も願いましたが、かないませんでした(8節)。
パウロにとげが刺さり続けて苦しみ苦労しました。その意味は、第1に思い上がることなく謙虚に歩むためでした。「あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」(7節)。
第2には、その弱さを抱えつつ、キリストと共に歩むためでした。「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」(5節)。
第3には、キリストの力をいただくためでした。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(9-10節)。
弱い時にこそ強い、弱い時ということをパウロは経験しました。私たちもどうしようもない自分の弱さを経験します。その時にこそ、キリストによって生かしていただき、強めていただきましょう。
(久多良木和夫)