2023年 4月
4月2日(日) 聖日礼拝
「十字架につけられた主イエス」
マルコによる福音書15章16-32節
主イエスは、ろばの子に乗ってエルサレムの町に入城しました。十字架刑の金
曜日の前の晩、弟子たちとの晩餐の後に、ゲッセマネの園での祈りの直後捕らえ
らえました。そして、総督ピラトのもとで強引な裁判を受けさせられ有罪とされ
ました。
あなたにとって堪えられないことは何でしょうか?空腹、痛み、いじめ、孤
独、・・いろいろあることでしょう。一番堪えられないことの一つは、人権を無
視され、侮辱されることではないでしょうか。主イエスは、まさにその一番堪え
られないことを身に受けられました。
16-20節においては、兵士たちから受けた侮辱のことが記されています。
さんざんいたぶられ、いばらの冠をかぶせられました。葦の棒で叩かれ、唾を吐
きかけられました。主イエスは、その痛み、侮辱に耐えられました。
金曜日の朝、十字架を背負わされゴルゴダの丘まで歩かされました。その途中
で、キレネ人シモンは兵士に命じられ十字架を背負わされました。シモンにとっ
ては最悪の日となりました。しかし、そのことでシモンは、後に主イエスを信じ
る者となったようです。
21-32節においては、十字架につけられたことが記されています。両脇に
は、二人の強盗が十字架につけられました。通りがかりの者たち、そして両脇の
強盗から十字架から降りて自分を救ってみろと侮辱されました。しかし、主イエ
スは、天の軍勢を呼ぶこともされず、十字架につかれ続きました。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハ
ネによる福音書10章11節)。主イエスは、私たちの身代わりとなって、あざ
けり、ののしり、苦しみを受けてくださいました。そして、まさに私たちの罪を
背負い、十字架にかかり、その命を捧げてくださいました。
(久多良木和夫)
4月9日(日) 聖日礼拝
「あの方は復活なさって」 マルコによる福音書16章1-11節
私たちは、思ってもみない様々な困難の中で、振り回され心が乱されることがあります。しかし、主にあって平安が与えられることは幸いです。時に行き詰まることはありますが、主は失意落胆のままにはされない方です。
主イエスの弟子たちは失意落胆しました。なぜなら、主イエスが捕らえられ十字架につけられたからです。主イエスは、十字架の上で私たちに代わって深い絶望を味わわれました。(15章33-39節)。また、息を引き取られる前に、すべてを父なる神にすべてをおゆだねしました(ルカによる福音書23章44-56節)。また、最後には、救いの御業が成し遂げられたと宣言されました(ヨハネによる福音書19:28-30節)。
主イエスの弟子たち、特に女性の弟子たちは、主イエスの死とその葬りを
見届けました。(15章40-47節)。
十字架の死の金曜日から3日目の日曜日の早朝、マグダラのマリアたちは、
主イエスのご遺体に香料を塗りに行くために墓のところに出かけました。一
番の気がかりは、墓を塞ぐ大きな石の扉です。とても動かすことができない
重さの扉です。しかも封印がされていました。「ところが、目を上げて見る
と、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。」
(4節)。しかしなんと、その扉は転がされていました。
私たちもとても太刀打ちできないような困難を前にすることがあります。しかし、主は助けてくださいます。
それでもどうにも太刀打ちできないもの、すべてを飲み込んでしまうもの
が死という事柄です。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字
架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、こ
こにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。(6節)。あの方
すなわち主イエスは復活なさったと告げられました。
さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがた
より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれ
る』と。」(7節)。主は先にガリラヤに行かれるというのです。ガリラヤ
とは、弟子たちにとっては、今まで生活していたところです。復活の主は、
私たちの日常の生活の場においでくださいます。私たちは、日常生活の場で
復活の主と共に歩むことが許されているのです。
(久多良木和夫)
4月16日(日) 聖日礼拝
「イエスは立っておられた」 ヨハネによる福音書20章11-18節
『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あ
なたがたの神である方のところへわたしは上る』というメッセージを、主イエス
は、マリヤを通して弟子たちに、弟子たちを通して世界中の人々に、現在に生き
る私たちに、そして私たちの未来の人々へ語っておられます。
マリヤが墓の外で、泣きながら身をかがめると、そこに二人の天使が座ってい
ました。後ろにはイエスが立っておられました。立っているとは、これからする
ことがある。これから行くところがある。というすがたです。主イエスは、地上
の業をすべて終えて父なる神のもとへ昇っていくという動きの中にありました。
こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しか
し、それがイエスだとは分からなかった。(14節)。
私たちが生きている生活、日常には、失望と悲しみがあります。一つ過ぎる
と、また次と、波のように押し寄せてきます。しかし、そこばかりを見ていない
で、ちょっと振り返ってごらん、イエスが立って、こちらを見ておられる。とい
う恵みがあります。
主はすべての人のために十字架にかかり、罪を贖ってくださいました。そして
復活されました。「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的
な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、
御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びにな
りました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もって
お定めになったのです。」(エフェソ1章3b、―5節)
イエスキリストにより、失望と悲しみの連続の中に生きているすべての人々に
主の救いが与えられています。
マリヤ多くの苦しみを経験した女性でした。人間関係、経済的なこと、健康上
のこと、霊的なことにおいて。そのマリヤが主とは気付かずに主と会話していま
した。復活された主イエスはマリヤの後ろに立って、マリアムと呼びかけられ、
マリヤも同じアラム語でラボ二、先生と呼び交わしました。それは、以前行動を
共にしていた時の慣れ親しんだガリラヤの方言の言葉でした。このときマリヤは
信仰の確信が与えられました。
マリヤのうしろに立っておられた主は、復活と同時に昇天の出来事がもう始ま
っていました。イエスの体はこれから天に上り、そこで住まいを用意するという
仕事、聖霊を送るという業を前にして、イエスは立っておられたのです。
(久多良木志津子)
4月23日(日) 聖日礼拝
「主の貧しさによって豊かに」 コリントの信徒への手紙二8章1-15節
初夏に向かう時です。自然界の木々や作物が勢いを増すときです。つつじ
やサツキの咲き乱れる時です。その勢いのように前に進む気持ち人もいます
が、その反対な気持ちの人もいることを心に留めたいと思います。
マケドニア州の教会、フィリピやテサロニケの教会は厳しい迫害や極度の
貧困の中にあったようです。「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられ
た神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受け
ていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しま
ず施す豊かさとなったということです。」(1-2節)。
マケドニア州の教会の兄弟姉妹は、自分たちよりももっと大変な中にあるエル
サレムの教会を献金、募金によって支援していました。ふつうは自分が大変なら
ば、他の人の大変さを知っても、助ける余裕がないと考えます。しかし、マケド
ニア州の教会の人たちはそうではありませんでした。喜びをもって助けたのでし
た。彼らはなぜそのようにできたのでしょうか。それは、主なる神のよって支え
られて神によって生きる希望と力をいただいていたからでしょう。
「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきり
にわたしたちに願い出たのでした。」(4節)。ここで「慈善の業」と訳されて
いる言葉は、口語訳、新改訳では「恵み」と訳されています。原語はカリスで、
神の愛によって与えられる恵みを意味します。
「また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそっ
てわたしたちにも自分自身を献げたので、」(5節)。彼らの姿勢は、神のご愛
に感謝しての心からなる応答でした。
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。す
なわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、
主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(9節)。
貧しくなられたのは主ご自身、豊かになったのは私たちです。
貧しさ、乏しさを理解し、祈り励ましてくれる家族、友はありがたいもので
す。一番深い貧しさ、乏しさ、私たちの心の底にある深い悩み、苦しみを主はご
存じであり、憐れんでくださるお方です。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しよう
とは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ
ました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至
るまで従順でした。」(フィリピの信徒への手紙2章6-8節)。主イエスは、
私たちを救うために、神の位を捨てこの世においでくださり、十字架にかかって
くださいました。それはまさに私たちを救うためでした。
(久多良木和夫)
4月30日(日) 聖日礼拝
「良き同伴者」 コリントの信徒への手紙二8章16-24節
前に歩を進めるためには足を踏み出す必要があります。普段は当たり前にして
いることが多いことですが、時にそれが難しさを覚える時もあります。歩を進めるためには、心が支えられ守られている必要があります。
一人で前に進む場合もありますが、共に歩む人がいて、前に進むこともありま
す。
使徒パウロは三人の同伴者を紹介しています。第1の人はテトスです(16、17節、23節)。「あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します。彼はわたしたちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。」(16―17節)。彼はコリント教会の人たちを愛する心を持っていた人であり、勧告を受け入れる謙虚な心を持っていた人でした。
第2の人は、18-19節に記された人です。「そればかりではありません。
彼はわたしたちの同伴者として諸教会から任命されたのです。それは、主御自身
の栄光と自分たちの熱意を現すようにわたしたちが奉仕している、この慈善の業
に加わるためでした。」(19節)。この同伴者という言葉は、同行者、旅仲間と
も訳されます。原語を見ると、共にという言葉と故郷を離れるという言葉が合わ
さってできた言葉です。故郷は自分の生れたところという意味ですが、この世と
取ることもできます。この世を脇に置くことは簡単ではありません。この世を第
一にしたくなります。しかし、そうではなくそうすることをやめ、主を第一にし
て歩む人でした。第二の人は、栄光を主に帰しつつ歩む人でした。
第3の人は、22節に記された人です。この人もまた、コリント教会の人を愛
し、何とか力になりたいと願う人でした。パウロは3名の良き同伴者と共に働き
ました。
パウロは、大切な献金、募金において間違いがないように、誰かから非難さ
れ、神の聖名が汚されることなくあがめられるようにと心を用いていました
(20-21節)。
良き同伴者をいただくことは感謝なことです。そして最も大きな感謝は、最高
の同伴者と共に歩むことです。その方とは、主イエスご自身です。あのエマオの
途上でとぼとぼと歩む二人の弟子と共に歩んでくださった復活の主イエスです。主イエスは、御言葉を解き明かし、二人の心を燃やしてくださいました。心に
命を吹き込んでくださいました。最高の同伴者である主イエスは、あなたの歩み
を助けてくださいます。