2023年5月

 5月7日() 聖日礼拝 

    「豊かに蒔き、豊かに刈入れる」 

                コリントの信徒への手紙二9章1-15節

 

「わたしはあなたがたの熱意を知っているので、・・。あなたがたの熱意

は多くの人々を奮い立たせたのです。」(2節)。コリント教会の方々のエルサレム教会を支え助けようという熱意は、祈りと献金という形で現れました。その熱意はマケドニア州の諸教会の方々に伝わりました。

 

 熱意は時に冷えてしまうことがあります。使徒パウロは、コリント教会の

方々に大丈夫かと問いかけ、具体的には信頼できる兄弟たちを送りました

(5節)。

 

 祈りと捧げものの献金は、神への感謝の応答として起こるものです。神の

愛によって救いに導かれたことに対して、生かされて多くの良いものを与え

ていただいたことを感謝して、神に対してなされました。人から強制されて

なされるものではありません。もし、人に恐怖心を与えて誘導したり、マイ

ンドコントロールのような形で献げ物をさせようとする宗教があるとしたな

ら、それは偽りの宗教です。

 

 「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決め

たとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。

(7節)。自分が持っているもの、それは料理の賜物かもしれません、音楽

の賜物かもしれません。持ち物かもしれません。それを感謝をもって喜んで

与える者を主は愛してくださいます。

 

 「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続

く」と書いてあるとおりです。(9節)。これは詩編112編9節の引用

です。惜しむ心と惜しまない心があります。神の愛に応答して惜しまない心

で捧げる時、神は、再び満たしてくださいます。

 

 「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈

り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。

(6節)。惜しんでほんのわずかしか蒔かない者はわずかしか刈り入れるこ

とはできません。しかし、主への感謝をもって、惜しむことなく、豊かに蒔

く者は、豊かに刈入れることができます。主がそのようにしてくださるか

 

らです。

 

 5月14日() 母の日歓迎礼拝 

    「母ハンナの祈り」        サムエル記上2章1-10節 

 

 母の役割は様々あります。子どもを生み出すこと。その子どものために多くの時間を用いること、愛情を注ぐことです。母が子どもを見る眼は優しく慈しみに満ちています。

 

 今日の箇所の主人公は、預言者サムエルの母のハンナです。サムエルは母ハンナに愛されました。

 ハンナはサムエルが誕生する前に、夫エルカナの相嫁であるペニナに苦しめられました。ハンナはたまらず、主の御前に長い時間心を注ぎ出して祈りました(1章1-18節)。

 

 その後、ハンナは身ごもり、サムエルが誕生します(1章19-20節)。ハンナは神さまに約束した通り、大きくなって主に仕える者になることを願い、サムエルを小さい時に祭司エリのもとに預けました。

 

 ハンナは、サムエルが与えられ、つらさ、悲しみから解放されました。これは、母ハンナの祈りです。主による逆転が告げられています。

  

 第1は上から下へ、上にある者は下にということです。勇士の弓は折られる」(4節前半)。勇士とは、武器や資金を持つ者です。その力を過信して、そうでない者に襲い掛かる者です。「主は逆らう者を打ち砕き」(10節前半)。主の御心を無視し、自分の思い通りに事をなし、他の人、他の国を苦しめる者です。それらの者は打ち砕かれるのです。

 

 第2は、下から上へ、下にある者は引き上げられるということです。よろめく者は力を帯びる。」(4節後半)。力を失いよろめく者に主は力を与えてくださいます。「主は貧しくし、また富ませ 低くし、また高めてくださる。」(7節)。貧しくされた者、低くされた者を再び富ませ、高くしてくださいます。「弱い者を塵の中から立ち上がらせ 貧しい者を芥の中から高く上げ」(8節)。主は、弱い者、貧しい者を立ち上がらせ、高く上げてくださいます。

 

 「主にあってわたしの心は喜び 主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き 御救いを喜び祝う。聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。」(1-2節)。

 

ハンナは、主を仰ぎ喜び、主を賛美しました。生涯、主に向かって、この子を守り助け、共に歩んでくださいと祈ったことでしょう。 

                        (久多良木和夫)

 

 5月21日() 聖日礼拝 

   「神に由来する力で」  コリントの信徒への手紙二10章1―11節

 

 歩みの中で、事が自然に進むこともあるし、馬力をかけなければ進まないこともあります。なすべき仕事、課題で、悩み、煩いなしに進める時とその反対の時があります。

 

 使徒パウロはどのような人であったのか、偉大な伝道者、宣教者であったことに異論のある人はいないでしょう。一方、コリント教会の一部の者たちからは、厳しい評価を受けました(1-2節)。

 

 低い評価、悪い評価を受けたなら、普通は落ち込みます。それだけでなく、そのような人たちに対して、反感を持ったり、関わることをしなくなることもあるかもしれません。パウロは、その相手に対して関りをやめることはしませんでした。「あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい。」(7節)。パウロは、キリストを土台として歩むことの大切さを心にとめていました。それ抜きで評価することは人間のなした評価に過ぎない。キリストを土台とした歩みの大切さを告げました。

 

 パウロは、どのような評価を受けても、コリント教会の兄弟姉妹に心をとめ続けました。なぜそうできたのでしょうか。そうできたのは、神の御心の中で、この働きをするように召されたと受け止めていたからです。(8-9節)

 

 「わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。」(4節)。パウロは、信仰においては、神の武器が必要であると語っています。エフェソの信徒への手紙6章10-20節においては、主の依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。神の武具を身に着けなさいと語っています。真理の帯、正義の胸当て、福音を告げる準備の履物、信仰の盾、救いの兜、神の言葉である霊の剣、聖霊に助けられての祈りです。

 

 肉の力では限界があり、闇の力に対抗することはできません。闇の支配を打ち破ることはできません。聖霊なる神のご支配の中で、勝利が与えられます。神と共に歩む中で、その勝利の力を受けることの大切さを語りました。

 

                         (久多良木和夫)

 

 5月28日() ペンテコステ礼拝 

     「聖霊に満たされて」       使徒言行録2章1-13節

 

 私たちは、喜び、希望、愛の心、事に取り組む力、意欲、落ち込まない心、他の人と共に歩むことを感謝する心、その他いろいろなもので満たされることを願います。お金、財産、友達、名誉にも満たされたいと願うかもしれません。

 

 主イエスの弟子たちは、4つのことを経験しました。第1は、主イエスとの出会いです。第2はその主イエスが取り去られることです。第3は主イエスが復活して戻って来てくださったことです。そして第4は、助け主なる聖霊がおいでくださったことです。

この4番目のことこそ、今日の箇所の聖霊降臨を通して与えられたものです。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(1-4節)。

 

 聖霊降臨の出来事すなわちペンテコステの出来事は、1回限りの特別な出来事でした。聖霊が主イエスの弟子たちの上に降り、弟子たちは聖霊に満たされました。そして、他国の人たちにその人たちが分かる言葉で主の偉大の御業を力強く語ったのです。

 

 この出来事は、突然起きましたが、主イエスによって予告されていたことでした。ルカ福音書24章45-49節、使徒言行録1章3-5,8,12-15節に記されています。

 

 この特別な出来事をなぜ私たちは毎年覚えお祝いするのでしょうか。その理由は。確かにこの聖霊降臨の出来事は1回限りの特別な出来事でしたが、このことを皮切りとして、聖霊は主イエスを信じる者たちに注ぎ与えられることとなりました。

 

 既述の満たされたいもの以外にも、ぜひ与えられていただきたいことがあります。それは、苦難を乗り越える力であり、自分が飲み込まれそうになっても立ち行く力です。主はその力をも与えてくださいます。その恵みに生きるためには、主イエスにしっかりつながっていなければなりません。そのためには、信仰が生きていなければなりません。信仰が命を失うことがあります。聖霊は、その命を失った信仰に命を再び吹き込んでくださいます。

 

 そして、その信仰を持っていきいきと生き、主の弟子として歩むのです。どのような時にも主をさっと仰ぎ、主を崇めて歩むのです。聖霊の豊かなご支配の中で、この信仰に生かされ、この救いの恵みをどなたかに証ししたい、伝えたいと願い歩むのです。

 

 聖霊に満たされて歩むことは最も幸いなことです。そのことを願い求め進んでいきましょう。

                         (久多良木和夫)