2023年10月

 10月1日() 聖日礼拝 

  「あなた方の信仰と希望」   ペトロの手紙一1章13-25節

 

 信仰とは、これこそ大切なもの、これこそ信頼するもの、この方こそより頼む

べき方と依り頼むこと、それが信仰です。希望とは、今を生かすものであり、将

来に向けての明るい光、そのことを心にとめると大きな喜びとなるものです。信

仰と希望はとても大切なものです。

 

 この信仰と希望より大事なものがあると聖書は伝えます。「それゆえ、信仰

と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、

愛である。」(コリント一13章13節)。それは愛です。神の愛に生かされた

いものです。

 

 この信仰と希望を支えるものは、何でしょう。自分自身だと答える人もいる

ことでしょう。しかし、今日の聖書の個所は、そうではない、それは神ご自身で

あると告げています。あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光

をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの

信仰と希望とは神にかかっているのです。」(21節)。

 

 聖書が告げる神は復活の主であり、復活の力を持つ神です。神は、イエス・

キリストを復活させてくださいました。主イエスは十字架の死の後に復活され、

今も生きておられます。主イエスを信じる者は、復活の主の恵みを受けて生かさ

れます。望みえない時に望みを持つことができます。もはやこれまでと思える状

況の中に置かれても、主より助けを受けて進みたいものです。

 

 使徒パウロの告白と勧めが記されています。無知であった時に欲望に引きずら

れていたところから助け出されたということ(14節)、また、先祖伝来のむな

しい生活から贖い出されたということです(24節)。

 

 私たちを確かに生かすものがあります。それは、神の言葉です。「しかし、主

の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知

らされた言葉なのです。(25節)。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、

朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生

まれたのです。」(23節)。聖書の御言葉は、神の言葉であり、朽ちない種で

す。私たちの内に命をもたらす御言葉です。

 

 「あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。」(21節)。私た

ちの信仰と希望を支え守ってくださる神は、永遠を支配しておられるお方であ

り、愛のお方です。私たちを愛し助け導いてくださるお方です。

                          (久多良木和夫)

  

10月8日() 秋の特別歓迎礼拝 

  「天からの命のパン」   ヨハネによる福音書6章33-40節

 

 鳥類であれ哺乳類であれ、赤ちゃん、子どもは親の愛を世話を受けて育ちま

す。人間である私たちも親の愛と世話を受けて育ち大きくなりました。

 

 私たちは、愛する者に対してその必要に応えたいと思い、必要なものを与えた

いと願います。それは神さまが私たちに与えてくださった心です。その元には神

が愛をお持ちの方だからです。その愛が本物である時に、愛は行動に移します。

愛する者が弱ったら、心配し一生懸命世話をします。

 

 聖書の中にパンを与えるという記事があります。旧約聖書では、エジプトを脱

出したイスラエルの民に神は天からのマナというパンを朝毎に与えられました

(出エジプト6章1-36節)。新約聖書では、主イエスは、おなかのすいた

人々に、5つのパンと2匹の魚を何千倍にも増やす奇跡をなし、満腹にしてくだ

さいました(ヨハネ6章1-15節)。

 

 神は天からのパンを与えてくださいました。「神のパンは、天から降って来

て、世に命を与えるものである。(33節)イエスは言われた。「わたしが命

パンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じ

者は決して渇くことがない。(35節)。そのパンは命のパンであり、不思議

食べ物です。そのパンこそは、主イエスです。神の取られた方法は、命のパン

ある主イエスをこの世に生きる私たちに与えるということです。

 

 その命のパンである主イエスを心に迎え入れる者の内に新しい命が宿ります。

その方の命を受けて生きることができます。

 

 「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一

人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子

を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に

復活させることだからである。(39-40節)。主イエスを信じる者に永遠の

命が与えられるのです。

                        (久多良木和夫)

 

10月15日() 秋の特別歓迎礼拝 

  「日々新たにされて」  コリントの信徒への手紙二4章16-18節

 

 「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰

えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

(16節)。この個所を理解するためには、4章全体を読む必要があります。

 

 「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだね

られているのですから、落胆しません。」(1節)。この憐れみという言葉に注

意しましょう。私たちは一方的に憐れみを受けた者です。使徒パウロは以前キリ

スト教徒に迫害を加えていました。しかし、ダマスコ途上で復活の主に出会い、

回心して自らキリスト教徒になり、敢然としてイエス・キリストを宣べ伝える者

なりました。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイ

エス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなた

がたに仕える僕なのです。(5節)。徹底して主イエスを宣べ伝えました。

 

 私たちは気をつけなければなりません。主を誇るのではなく、自分を誇ること

があるからです。イエス・キリストを宣べ伝えるには主イエスに支配された自分

になる必要があります。キリストの内住です。キリストに魂を占領される必要が

あります。

 

 私は、いつかは枯れてしまう草花に、そしてそれと共に同じような私たち、自

分に愛着を感じるようになりました。日々老いていく自分をじっと見つめるので

はなく、この土の器に盛られた宝である福音、キリストに眼を注ぐのです。そう

するならば神さまは老いていく身を美しく装ってくださるのです。

 

 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰

えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わ

たしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光を

もたらしてくれます。(16-17節)。パウロだからこそ、一時の軽い患難、比

ものにならない重みのある永遠の栄光と言えたことだと思います。パウロの経

験した困難、迫害、想像と絶する迫害、病み衰えていく体、でも私たちもその幾

分かは経験しています。困難をじっと耐えるのはいつかは失望して終わってしま

す。復活の喜びと希望を与えてくださるイエス・キリストを信じ見続ける時に思

いが軽くされていくことに間違いはありません」。

 

 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるも

のは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(18節)。見

えるものは過ぎ去っていきます。私たちの目は後ろではなく前についています。

だからキリストを信じつつ前に向って進んで行きましょう。

                    宗 盛興師(丸の内教会牧師)

 

 10月22日() 聖日礼拝 

  「急いで降りてきなさい」   ルカによる福音書19章1-10節

 

 主イエスは神でありながら、僕の身分となられ、私たち人間の罪を贖うため

に、十字架の死に至るまで、低きに下ってくださいました(フィリピの信徒へ

の手紙2:6-8)。

 

 ザアカイは、徴税人で金持ちでした。徴税の方法は各人にゆだねられており、

規定の額より多く徴税して、懐に入れることが許されていました。ザアカイは

不正の結果、自分の財産を築きました。経済的な意味でも地位的な意味でも、

彼は人の上に立っていました。しかしそれは、何の平安にも慰めにもなりませ

んでした。それはザアカイの中に、「自分のやっていること」の正当性に対す

る、確信がなかったからです。財を持ち、高い地位に立っていても、ザアカイ

に「正しさ」はありませんでした。

 

 そこに、主イエスが来られます。主イエスは神の子であり、言葉にも行いに

も力がありました。神のひとり子でありながら、偉ぶることはけしてせず、罪

人を招かれました。それだけでなく、自分は「正しい」と信じる人たちの、矛

盾を、罪を明らかにされました。ザアカイは、主イエスと会ってみたかったの

でしょう。彼はいちじく桑の木に登って、主イエスを見つめます。この時期は

夏で、葉が沢山茂っており、ザアカイから主イエスは見えても、主イエスから

はザアカイは見えなかったのでは、という注解もありました。しかし、主イエ

スには、ザアカイが見えていました。そして真下に来て「急いで降りてきなさ

い」と言われるのです。

 

 神の独り子である方は、低くなられました。偉ぶり自分を高めようとして

しまう罪人の下に立つために。呼びかけて、顔と顔とを合わせて向き合ってく

ださるために。下に立って、歩み寄り、そして理解してくださった。見つめて

下さった。神である方が低く下ってくださった時、まことの救いが起きます。

主イエスは真の神として、低きにくだられ、正しさと赦しと愛を示します。そ

の時、罪人は変えられるのです。私たちも自分の積み上げたプライドや意地、

自分の正しさ、そういったものを置いて、主の呼びかけに応え、主の前に下り

 

ていきたいと思います。

                          (富山希望師)

 

10月29日() 聖日礼拝 

     「遠回りの道へ」       出エジプト記13:17―22

 

 「さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。」(17 節)。パレスチナという名称はこのペリシテという語からきています。パレスチナとはペリシテ人の地という意味です。イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から解放された出エジプトが紀元前1440年ごろと言われていますので、そのときから現代まではおよそ3400年もたっています。  

 

 エジプトの強制労働、奴隷の状態から脱出した民がペリシテ街道に行ったなら、彼らは、そこに立ちふさがるペリシテ人がこわくて、エジプトに引き返してしまうだろうと神は考えられたとあります。私たちもそうです。過去を振り返るなら、かつて、健康で、きらきらしていた時代があったでも、それがずっと、あるいは何十年も続くわけではありません。ことあるごとに自分の弱さ、小ささを思いしらせるのです。そんな時、父なる神を、愛の神を信じ進むことができるならなんと幸いではないでしょうか。

 

 ヨハネの手紙一3章1節 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」とあります。神さまが私たちを、愛していて下さる第一のことは、「遠回りの道へ導かれた。」こと。真っすぐ、近道で行くなら、きっとこの人は倒されてしまう、あるいは引き返してしまうことを神様は既に考えておられ、迂回、遠回りをさせられるのです。遠回りの道は、荒れ野の道でした。海辺の道とは違い、相当長く時間がかかる道でした。神様はその遠回りの道に、とても大事なことを予定されていました。

 

 遠回りの道を、今歩んでいると思われる方がおられるかもしれません、それは神様があなたを愛して、何かを計画なさっているのかもしれません。どうぞ、めげないで、あきらめないで、進んでください。既に、クリスチャンとして歩んでいるお互いは、神はキリスト信仰をスタートさせてくださったときから、最後まで共にいて、その歩み、遠回りと思われるような人生を導かれることを思い起こしましょう。

 

 神さまがどんなに愛してくださっているかを考えた時、第2のことは、神は雲として、火として雲の柱、火の柱として守り、導かれることです。葦の海を渡る時、後ろから追いかけ、迫りくる゙エジプト軍とヘブライ人が完全に離れるということが起こりました。エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった(20節)。

 

 私たちは何らかの敵に対処しなければならない時があります、神様はこの雲の柱の様に、私たちと敵との間にいてくださり、敵と私たちをひき離してくださるのです。こちらは何もしなくても、主が敵を無力にしてくださるのです。

昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった(22節)とあるように。葦の海を渡った後も雲の柱により、神は民を守り、導かれました。

暑い日中には、神は照り付ける太陽の熱から人々を守られました。私たちも、暑い日には、雲により、雨により涼しくなることを経験しています。地図がないのに、今のようにスマホもない。昼は雲の柱が先に行き、夜は火の柱が民の進む道を示したのです。

 

 神がどれほどわたしたちを愛してくださるか第3のことは、言葉によって私たちに語ってくださるということ。シナイ山での契約です。ペリシテ街道ではなく、葦の海を渡ったその先にはシナイ山がありました。ここでモーセを通して10の戒めを、モーセ五書を与えられました。そして、この神の契約の言葉が、一つの民族を通して、世界の民に伝えられたのです。

 

 しかし神は一人子イエスをこの世に、罪びとに、人間に、救い主として送ってくださいました。人は裏切ったのに、神様の方は愛し続けてくださっているのです。キリスト教は言葉の宗教です。見えるものが神ではなく、神が言葉によって、人間に語りかけられる、教えられるのです。見えないことの中に大切なものがあるのです。

 

 最後にヨセフの骨(遺骸・ミイラ)のことからのメッセージです。

エジプトで、ヨセフの時代には優遇されていたのに、後に、ヨセフの子孫は奴隷として苦難の時代を」過ごしました。しかしヨセフの信仰の遺産を大切にしていたと言えます。ヨセフの遺言で遺骸を運んだわけですが、ヘブライ人にとって、モーセにとって大切だったのは、ヨセフが強調した信仰の言葉です。「神は必ずあなたたちを顧みてくださる」私たち、一人一人の人生においても。先人たちが言い残した信仰の言葉を大切にしましょう。

私達が、遠回りをする時、荒れ野の道をゆく時、必ず心に留めておくべきことを聖書は私達に伝えています。神は決して見捨てることはなさらず、必ずかえりみてくださいます。ヨセフが言い残した言葉、「神は必ずあなたたちを顧みてくださる」

 

 

 主イエスは、私たちのために、自ら、最も遠回りの道を進んで下さった方です。

                       (久多良木志津子師)