2024年 7月

 7月7日() 聖日礼拝 

   「一人も滅びない王に」          ペトロの手紙二3章1—13節 

 

 神から備え与えられたもの、その第1はこの世界、この地球、宇宙です。第2はこの地球における命の数々です。第3はそれぞれの人生です。神からの賜物を心にとめ感謝して歩みたいものです。

 

 終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」(3-4節)。主の約束を心にとめつつ歩むことや主を仰いで信じ歩むことをあざける者が現れます。

 

 主イエスは、勝利の主、すべてを支配する主として再びこの世に来られることを告げられました(マタイによる福音書24章1-44節)。

 この地球は、人間の勝手な歩みのために、破壊、汚染、地球温暖化・・と深刻化し住むことが難しいものになって行っています。神により水、火による大きな取り扱いのことが記されています(5-7節)。

 

 「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。」(10節)。この世界の終わりの日のことの予告も記されています。しかし、主を仰ぎ信じる者にとっては、終わりの時というよりも、主のご支配にすべてをゆだねる時です。恐れることはないのです。「このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。」(11節)。

 

 「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(9節)。主は迷える一人の人を捜し求めてくださっています(ルカによる福音書15章1-7節)。一人の人が悔い改めて主のもとに立ち返るのを愛と忍耐をもって待っていてくださっています(ルカによる福音書15章11-24節)。

 

 一人も滅びないように、これこそが主のお心です。

 

                         (久多良木和夫)

 

 7月14日() 聖日礼拝 

  「堅固な足場を失わないように」 ペロトの手紙二3章14-18節

 

 高い山を踏破するためには、強い思いと意思、覚悟が必要です。その山を踏破した者のみが味わう感動、喜び、山頂からの景色があります。「だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。」(14節)。このことを待ち望むとは、神の日の来ることであり、義の宿る新しい天と新しい地とを待ち望むということです(3:12—13)。

 

 信仰の山登りにおける心備えとは、見上げるべき主がおられること、その方に喜ばれるように歩むということです。

 

 信仰の歩みをぐらつかせるものがあります。それは無知であった頃の欲望であり(1:14)、悪意、偽り、偽善、妬み、悪口(2:1)であり、魂に戦いを挑む肉の欲(2:11)です。また侮辱に対して侮辱に報いること(3:9)であり、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、偶像礼拝(4:3)です。

 

 「また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。」(15節)。あの放蕩息子のたとえ話の中で、父親が弟息子の帰りを待ち続け、ついにその息子が帰って来た時、心から喜びました。天の父なる神は愛の忍耐をもって、私たちを待ち続けてくださいました。

「また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。」(17節)。

 

 「それで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。」(17節)。「非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい。」(口語訳)。「よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。」(新改訳)。

 ビルの足場がぐらつくなら、現場の人は工事どころではなくなります。不道徳、非道、無節制に誘い込まれてゆくなら、信仰の足場をぐらつき、信仰の高い山を登るところではなくなります。主にしっかりつながり、主のそば近くを歩むことが大切です、御言葉をいただきつつ、祈りつつ、聖霊の助けをいただきつつ歩みましょう。

                          (久多良木和夫)

 

7月21日() 地区講壇交換聖日礼拝 

      「ぎりぎり」         列王記上17章8-16節

 

預言者エリヤは紀元前860年頃に北王国エフライムで活動した預言者である。当時のアハブ王がフェニキア出身の女性を妻に迎え、彼女を通して異教の神バアルを拝む信仰を国内に持ち込んだので、エリヤはアハブ王のもとに来て、神の意志により数年間の飢饉が起きると告げる。

 

そして王の追撃を逃れてヨルダン川の東、ケリトの川岸に隠れる。その間エリヤはカラスが運んでくるパンと肉で養われていた。やがて乾期になってケリトの川が涸れ、主はエリヤに「シドンのサレプタに行け」と命じられた。

 

エリヤがそこへ行くと町の入口で一人のやもめに出会う。水とパンを求めたエリヤに、女性は「壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです」と答え、それを食べるとあとは死ぬだけだと付け加える。しかしエリヤはこれに対して「主が地の面に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることなく瓶の油はなくならない」と言い、彼女がエリヤの言う通りにすると、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかったという話である。

 

この話は事実かどうかではなく「物語」として読まれるべきものである。物語の価値はその信憑性ではなくそのメッセージにある。これが神の恵みの確かさを伝えようとしている物語であることは明白であり、それが夫を亡くし、子供と共に最早死ぬしかないと思い詰めている女性を通して与えられていること、また底をつきかけている粉と油が、ぎりぎりのところで無くならなかったということがポイントになる。

 

当時のヘブライ社会では、女性は男性の所有物であった。女性は仕事をすることも許されず、男性の付属物として生きる以外になかった。従ってやもめとは、所有者を失った女性、つまり生活の支えを失った、当時の社会で最も弱く貧しい者である。しかもあと1回パンを焼くだけの粉と油しかないという絶望的な状況設定なのに、それが不思議なことに、自分たちだけでなく預言者エリヤをも養うことができたという、ぎりぎりの状況下における神の恵みの確かさを示す物語となっている。

 

 

物質文明の現代社会では誤解されがちだが、恵みとは有り余るほど与えられることではない。本当に必要なものがぎりぎり何とか備えられることだ。「もうだめかもしれない」というぎりぎりのところで辛うじて救われているところに、神の恵みの御業がある。私たちのぎりぎりの日常の物語が、実は神の恵みを豊かに指し示す物語だったと気付く者でありたい。

                     池上信也師(犀川教会)