2024年9月

 9月1日() 聖日礼拝 

   「インマヌエル預言」  イザヤ書7章1-17節

 

 脅威、困難と感じられることに出会う時、難しい病気になる、敵と思われる者が迫って来た時には、恐れの心が生じます。その時、どう対処したら良いのでしょう。内に閉じこもる、逃げる、立ち向かう、無視する、様々な態度がありますが、限界があります。

 

 本日の箇所に出てくる人物は、南ユダの王アハズと預言者イザヤです。

アハズはアラム(シリア)の王レツィンとエフライム(北イスラエル)の王ペカからの脅しを受けていました。アッスリア対抗する同盟に加わるように誘われましたがそれを拒否したからです。アハズも南ユダの人たちは恐れと不安の中でパニックに陥っていました。

 

 そのアハズに、イザヤは遣わされました。アラムもエフライムも恐れるに足りないと告げました(4節)。「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」(9節)。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」と告げられました。(11節)アハズは、「「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」と答えました(12節)。

それは敬虔そうに聞こえますが、実際には、自分は神には依り頼みませんということでした。彼はアッスリアに擦り寄り難を逃れる道を描いていました。しかし、その後の歴史を見ますと、アッスリアに苦しめられ、さらにアッスリアを倒したバビロニアによって紀元前723年には滅ぼされました。

 

 「それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」(14節)。この男とはだれか、アハズの息子ヒゼキヤを指すと思われますが、究極的には、救い主イエスを指します。ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。(9章5節)。

 

 

 インマヌエルとは神が共にいてくださるということを意味しています。主なる神は、私たちのために独り子イエスをお遣わしになりました。主イエスは私たちの救いのために十字架に架かってくださいました。主はその命を捧げ贖いの御業を全うしてくださいました。十字架の死の後に復活し、弟子たちのもとに戻って来てくださいました。そして昇天し、主を信じる者に聖霊を与えてくださいました。主は、主を信じる者を決して見捨てることなく、生かし強めてくださいます。

                         (久多良木和夫)

 

 9月15日() 敬老祝福礼拝 

 「愛してくださる方によって」 ローマの信徒への手紙8章31-39節

 

 私たちは当たり前ですが今を生きています。しかし、時に過去にこだわり生きたり、未来を思い煩って生きたります。今を生きる力を求め、それを受けつつ歩みます。

 

 今日の聖書箇所には4つの大切なことが記されています。第1は、神は味方なる方ということです。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(31節)。敵とは人だけでなく、難しい問題、病気ということもあるでしょう。

 

 第2は、主は救い主を与えてくださったということです。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(32節)。神は最も大切な独り子イエスを与えてくださいました。

 この敬老祝福礼拝の準備の中で旧約聖書の中の2名を思い巡らしました。一人目はアブラハムです。75歳の時に神からの御声に従い、示された地を目指して出発しました。後に信仰の父と呼ばれる人になりました。もう一人はモーセです。80歳の時に神からの召命を受け、立ち上がりました。そして出エジプトの時の指導者として歩みました。

 

 第3のことは。主は執り成し祈ってくださっているということです。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(34節)。

復活の主イエスは、父なる神の右の座に座って執り成し祈ってくださっています。

 

 

 第4は。神の愛、キリストの愛が注がれているということです。神は私たちのために御子イエスをお遣わしくださいました。御子イエスは私たちのためにその命を十字架の上で捧げてくださいました。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(37節)。「高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(39節)。使徒パウロは様々な苦難の中に置かれましたが神の愛、キリストの愛に支えられました。私たちにもその大きな愛が注がれています。

                        (久多良木和夫)

 

 9月22日() 聖日礼拝 

    「祈り場を買い取る」    サムエル記下24章18―25節

 

 24章10節「民を数えたことはダビデの心に呵責となった。ダビデは主に言った。『わたしは重い罪を犯しました。主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。大変愚かなことをしました。』」

神さまと共に歩んできたイスラエルの民にとって、戦いが無い時からあらかじめ兵隊の組織を組み、それを頼っていくことは神さまの前に悪、罪であり、神さまへの信頼を欠く行いであったことにダビデは気づき、良心の咎めを感じました。

ダビデは罰として、預言者ガドから3つの災いを示されて「三日間、国に疫病が起こること」を選びました。

 

 主は憐れみ深い方であることを今まで数多く経験してきたダビデは、14節「主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい」と、主の憐れみ深さ、慈しみから離れることはありませんでした。

主はこの災いを思い返され、民を滅ぼそうとする御使いに言われました。16節「もう十分だ。その手を下ろせ。」

主の御使いはエブス人(エルサレムにもとから住んでいた民族)アラウナの麦打ち場の傍らにいました。

この時のダビデの悔い改め、とりなしの祈り、み使いへの神の言葉により、災いは早くやむことになりました。エルサレムは滅ぼされなかったのです。

主の御使いの裁きの手が止まったところを特別な場所とし、そこに主の祭壇を立てるために、費用を差し出したのはダビデの信仰の表れでした。

 

 後にソロモンが神殿を立てることになる土地をこの時、買い取ったのです。

「主の祭壇を築く」、とは、お祈りするための場所を定める、ことです。神さまは、人が神さまとの交わりを持つことを求めておられるのです。

アラウナは何もかも王に提供し、「あなたの神、主が王を喜ばれますように」と言いました。ダビデが祭壇を築くための場所を譲ってほしいとの求めにこのように答えたのです。場所だけでなく牛も、燃やす木の燃料として打穀機も、牛の軛も使ってください、と。

 

 私たちの信仰の歩みの中でアラウナのような人に出会うことは大きな恵みです。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。(マタイによる福音書18章19節)

 

「あなたがここにいてよかった、あなた、という存在をわたしは喜んでいます、神様もあなたを喜ばれますように」と言う人と共に祈りを合わせる幸いを経験させていただきましょう。

                         (久多良木志津子)

 

 9月29日() 聖日礼拝 

   「暗闇の中で光を見る」     イザヤ書9章1—6節 

 

 日々の歩みの中で、喜び、希望。感謝を持つことができれば、どんなに幸せなことでしょう。虹は雨上がり等に急に出ます。虹を見ると思わず、歓声が上がります。

 

 私たちは、時に闇の中に身を置くことがあります。難しい問題に身を置き行き詰った時、人間関係がうまくいかなくなった時、自分の健康具合が悪くなった時等です。

 

 本日の中心聖句は、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(1節)明るい所ではなく、暗い所に光は届くのです。深い闇、死の陰の地での闇はあまりに深く、強いものです。それは私を離れず、離しません。

 御言葉は、神の約束であり宣言です。神からの光は確かな光であり、消えるとこがありません。

 

 民が実際に置かれた状況は、北イスラエルは大国アッスリアに滅ぼされようとしていました。後には滅ぼされます。南ユダは、アッスリアの脅威にさらされ、後には、大国バビロニアに滅ぼされます。まさに危機であり、向かう先は闇です。「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。」(8:22-23)。

 

 戦争はどのような理由をつけようとも悪です。そこには悲しみ以外の何物もありません。「彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭をあなたはミディアンの日のように折ってくださった。地を踏み鳴らした兵士の靴 血にまみれた軍服はことごとく 火に投げ込まれ、焼き尽くされた。」(3-4節)。戦争が終わることが告げられています。

 

 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。(5節)。救い主である神の御子イエスの誕生の予告がここにあります。驚くべき指導者とは私たちのことをよくわかってくださる方であり、頼ることのできる方です。力ある方、すべてを支配しておられるお方です。永遠の父、永遠を支配し、天の御国をも備えて下さっている方です。平和の君、罪の赦しを与え、神との平和を与えてくださる方です。

 

 

 闇の中、そこには希望、喜び、感謝が枯渇しています。そのような状況に置かれたとしても、希望、喜び、感謝が与えられます。主なる神は、イエス・キリストによって、その恵みを与えてくださいます。

                        (久多良木和夫)