2024年11月
11月3日(日) 聖日礼拝 説教要約
「主を畏れ敬う霊に満たされ」 イザヤ書11章1-10節
困難と思われることは多くあります。個人においても、日本においても、世界においてでもです。その艱難な問題が良い方向に向かう時、安心と希望が生まれます。解決に向かうならば顔を上げて前に進むことができます。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち」(1節)。株とは切り株のことです。大木が切り倒されて残った根株です。もうおしまいと思っていたのに、そこから芽が萌え出る。そしてその芽が若枝として育っていく。ここには、大逆転の出来事が指し示されています。
エッサイは、あのダビデの父のことです。羊飼いであったダビデは、イスラエルの王となります。その子ソロモンの死後、国は北イスラエルと南ユダに分裂します。そしてイザヤの時代には、北イスラエルは大国アッスリアに飲み込まれる直前、南ユダも脅威を受けていました。やがて、北イスラエルはアッスリアに、南ユダはバビロニアに飲み込まれました。もうこれでおしまいと思われ、その鳥になりました。しかし、それで終わりませんでした。神は、ダビデの家系から救い主を産み出してくださいました。「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。」(2-3節)。
主なる神の御許から遣わされたお方こそ、救い主イエスです。その方は、神を畏れ敬い知恵と悟りの霊に満たされ、はかりごとと能力の霊に満たされています。私たちを神の子どもとするために、罪の代価をご自分の命を代価として支払ってくださいました。そのことで、私たちが神の愛を知ることができるようにしてくださいました。
「牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。」(7-8節)。パラダイス(天国)はこの地上の先に用意されています。この地上ではパラダイスはありません。しかし、主のご支配の中で、この地上にもパラダイスが必現することを示しています。
主を仰ぎ信じ、主を畏れ敬う歩みをなしていましょう。
11月10日(日) 聖日礼拝 説教要約
「救いの泉から水を汲む」 イザヤ書12章1—6節
水は肉体にとって欠かせないものです。夏にはのどが渇きます。山登り等においても渇きます。のどだけでなく、心が渇くことも経験します。その渇きはレクリエーション、人との交わりを通して満たされることもあります。
交わりは大切です。交わりを通して意思疎通を図ることもできます。交わりは人との間だけでなく、神との交わりもあります。人は神に造られた存在ですから、その交わりなしには、本当の満たしはありません。
「見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌 わたしの救いとなってくださった。」(2節)。神は救いの方です。真の神を見失うこと、誠の神に背を向けて歩むこと、自分好みの神々を神とすることにより、人は一見自由に見えますが、行き詰ります。そのような私たちに対して神は、それは自業自得だとは言われません、私たちを憐れみ御手を伸ばしてくださいます。
私たちは何に、誰に信頼しますか? その信頼する相手がとんでもないことがないわけではありません。信頼に値しない者に信頼してはなりません。どうしたら恐れずに歩むことができるのでしょうか。聖書は真の神に信頼せよと語りかけています。肉の眼では見えませんが、私たちを愛し、私たちを救いへと導いてくださる神に信頼しましょう。
泉からは水が湧き出ます。それは天から降った雨が山に沁みこみ、地下に流れ込み、泉から湧き出るのです。今はあまり見なくなった井戸の下には、地下にたまった水があります。
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書14章13-14節)。
この世が与える水はやがて渇きます。下手をすると渇きはもっと深まります。主が与えてくださる水は渇かない水です。
「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む。」(3節)。口語訳では、「あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ。」、新改訳では、「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」と訳されています。
その命の水は主イエスを通して用意されました。その水を汲むのです。それは日々の祈りであり、御言葉を読むことであり、毎聖日ごとの礼拝を意味します。
(久多良木和夫)