2024年 10月
10月6日(日) 秋の特別歓迎礼拝 Ⅰ
「神の憐れみと愛」 ヨナ書4章4-11節
本日の聖書箇所において登場するヨナは、とても人間臭い人物です。自分の思いや感情に従って歩みます。ヨナの中に、自分自身を発見する人も多いことでしょう。
スイカを包丁で割るように、ヨナを割るとしたら、ヨナには2つも断面があります。一つは、従わないヨナ、逃げるヨナです. 彼は、神からニネベに行って滅ぼされないために悔い改めて罪から離れるように告げよと命じられましたが、従わずに逃げ出しました。なぜそうしたのか、それは、ニネベは自分たちの国を苦しめてきた大国アッスリアの首都だったからです。あそこに住む人たちが罪のために滅びるのは仕方がないと考えていたからです。
もう一つの断面は、怒るヨナです。ニネベに人たちが悔い改め滅ぼされなかったことが面白くなく怒りました。また、暑さから自分を守るとうごまの木が枯れてしまったからです。
神は、ニネベと反対の地のタルシュシュに向かうヨナに対して、嵐を起こします。ヨナは海に投げ込まれたヨナを救うために大きな魚を送り、ヨナを飲み込ませ、3日後に吐き出させます。ヨナは死を免れました。また神は暑さに苦しむヨナのためにとうごまの木を生えさせます。
ヨナの思いと神の思いは大きく違いました。すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」(10-11節)。
神は憐れみと愛に富んでおられるお方です。神はニネベの人たちが亡びに至ることを願わず、悔い改めて神に立ち返り滅ぼされない者になってほしいと願われました。神は、従わず逃げたヨナに対しても忍耐をもって憐れんでくださいました。
神の憐れみと愛は、ニネベの人たちに注がれました。ヨナに注がれました、そして、私たち一人一人に注がれています。
(久多良木和夫)
10月13日(日) 秋の特別歓迎礼拝 Ⅱ
「イエス・キリストの名によって」 使徒言行録3章1—10節
ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい』 使徒言行録3:6
午後三時の祈りをささげるために、ペトロとヨハネは神殿にいました。丁度、その時、「美しい門」の傍には、生まれた時から一度も、自分の足で立ったことのない人がいました。この人は生きるために、周囲に「憐れみを乞わなければ」なりませんでした。
そこにペトロとヨハネがやってきました。二人はこの人に「わたしたちを見なさい」と言います。この人は「何かをもらえるのでは」と期待をしました。ペトロは言います。「わたしには金や銀はない」。ペトロの言葉を聞いた時、この人はガッカリしたかもしれません。この人にとって、生きるために必要なのは「お金」でした。現実的な援助や生活を支えるお金が必要でした。
私たちにとっても「お金」は重要です。生きていくために必要なもので、特に「物価高」になっている現在では、私たちの大きな関心事だと言えます。しかし、「お金」は私たちにとって必要なものではありますが、「救い」ではありません。お金の価値は変わります。お金をどれほど持っていたとしても、それが本当の意味で「救い」になることはありません。むしろ、持っている者はより得ようとし、失うことを恐れます。それが「お金」であり、「数字」です。しかし、神様にとっての「金銀」はあくまで、「資材」です。幕屋(礼拝所)を建てるために「金銀」は使われました。神様にとって「お金」は「主」ではなく「従」のものです。しかし、私たちはこの主従が逆転します。お金は私たちが「使う」ものではなく、お金に「支配」されてしまうのが人間です。
しかしペトロとヨハネは違いました。「持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって、立ち上がり歩きなさい」。その時、この人の中に、まことの「主」が来られました。「イエス・キリストの名」が、その名の力が、神の御子の力が、この人の内に働いた時、そこに真の救いが実現します。この人の足に力が入り、立てるようになり、飛び跳ねて神を賛美しました。その喜びように人々は仰天します。神の救いが実現した時、この人は喜びで溢れ、その姿は、多くの人々に驚きと賛美を与えました。私たちも「イエス・キリスト」を主とする時、この世のものが与えることのできない救いと喜びを経験します。これは、この方以外を「主」としている時には出会えません。一時的な喜びや救いはあるでしょうが、本当の意味での「救い」はイエスの名の他にないのです。
(富山希望師)
10月20日(日) 秋の特別歓迎礼拝 Ⅲ
「さあ、どうぞ」 マタイによる福音書22章Ⅰ-14節
主イエスはこのたとえ話の中で「さあ、どうぞ」と神さまご自身の愛をもって人々にのぞんでおられます。王子の婚宴の準備が整うと、王は家来たちを送り、招いておいた人々を呼ばせました。ところが、ある者は無視し、ある者は「私は今日畑に行かなければならない、私は商売をするために少し遠くに出かけなければならない」と生活のために忙しくて、そちらを優先し、王の招きに応えませんでした。王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった者も。それを知った王は「では、道に出て誰でも連れて来なさい」と家来たちに命じました
王は一度断られてももう一度別の僕たちを遣わし、招き続けました。
王とは天の神さまのことをたとえています。神さまは喜びを分かち合う場所に人々を招いておられるのです。王子とは、イエス・キリストのことです。婚宴の用意をしたのは神さまであり、その婚宴の場の主人公は花婿イエス・キリストです。
王は「さあ、どうぞ」と一人一人のために婚宴の礼服を用意していました。みんなの様子を見ようとしてやってきた王が喜ぶのは、自分が用意した礼服を進んで手に取り、着るかどうか、着ているかどうかなのです。
主イエスは自分を捕らえようとしている人々にもこの天の国のたとえを話しておられるのです。主イエスは、そのような人に対し、いわば敵に対して、友よ、と愛をもって呼びかけておられます。
たとえ話の中の厳しい言葉は、「神の愛の対象として造られた人間が神に背いたことを、選びの民として神との交わりを持ち、喜んで神に従うはずであったのにそうでなかった悲しい歴史」を思い出させ、救いへと招いておられるのです。
イザヤ書61章10節に「主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。」とあります。主イエスはご自分が皆の救いの衣、恵みの晴れ着になることを知っておられました。
「王が客を見ようと入って来る」とありますが、神は、信仰により身に着けた着物、キリストの義の衣を着ているのを見ることを切に願っておられます。王が招かれた客に礼服を用意しておいたように、天の神さまはキリストの十字架の贖いにより、救いのために必要なすべてを準備してくださいました。
神さまご自身が用意してくださった救い主イエスキリストという義の衣を、今、身に着けてほしいのです。一人一人違うけれど、それぞれに似合っている不思議な礼服です。
神さまは罪人である私たちを、さあ、どうぞ、と招き続けておられます。自由の意志をもって、「神さまが用意してくださった救い主イエスキリストという義の衣を私も身に着けさせてください。」と祈りましょう。
(久多良木志津子)
10月27日(日) 秋の特別歓迎礼拝 Ⅳ
「それでも主は共に座らせてくださる」
エゼキエル書1-8a-8a節、 ヨハネの黙示14-22-22節
預言者ヨハネが、アジア州のラオディキアの教会に送った手紙は、ユーモアを交えて辛辣です。ローマ皇帝を神と崇拝するよう強制される時代に、人々は信仰を失いかけました。
主イエスが幻の中で「お前たちは生、ぬるい・・・わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」とおっしゃる。中途半端な信仰を指摘しています。
ラオディキアが産地として自慢する黒い繊維の衣ではなく、神が下さる白い衣を着ないと天の国の宴席に入れてもらえない、霊的に盲目なことを、よく見えるよう、主から目に塗る薬を買いなさいと、名産の目薬を挙げて皮肉るのです。
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(3章20節)
ラオディキアの教会の人びとを、主が愛しておられるゆえに叱り励ますように、主は、忍耐をもって、わたしたちの悔い改めを待ち望んでおられる。20節「戸口に立って叩いている」姿にその愛が表わされています。「わたしの声を聞いて戸を開ける者があれば」と、親しい、愛の交わりを約束する。あなたが戸を開くことによって、主は中に入ってその人と食事をする、そして、その人もわたしと、と主語を言い換えて約束されます。
十字架の死と墓からの復活で勝利された主が、わたしたちを共に座らせてくださる。自分の力で戦うのではなく、主なるキリストの力を信じて生きる、キリストの力に与ることです。この信仰を保って、絶えずめぐみの主を、自分の主と信じ続けるとき、キリストの力に預かっていることに気づくでしょう。
エゼキエル書34章は、バビロン捕囚の中で、イスラエルの民を導くべき牧者が国の指導を誤ったことを痛烈に批判している預言です。その続きを読むと、主なる神様は、自らが牧者となって群れを救い出す、ちりぢりになった群を探し出し、彼らの世話をする、と宣言されます。
キリストとして来られた主イエスは、黙示録3章21節で「自分の座に共に座らせよう」原語では“わたしと一緒に座る権利を認めよう”と書かれています。どんなに遅れても、それでも主は共に座らせてくださるのです。
吉川 進師(大台めぐみ教会牧師)