2019年1月
1月6日(日) 新年礼拝
「主を待ち望め」 イザヤ書40章27-31節
預言者イザヤは、紀元前8世紀に生き、南ユダの国の王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の治世に活躍しました。北イスラエルの国がアッスリアに滅ぼされ、南ユダもその脅威にさらされ、苦しみの中にありました。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れることが起きていました(27節)。「疲れた者に力を与え勢いを失っている者に大きな力を与えられる。」(26節)。主は、必要な力を与えてくださる方です。
主なる神は、永遠の初めからおられ、永遠の終わりまでを支配し、すべてのものの創造者にして、究めがたい英知の持ち主なるお方です(28節)。
「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(31節)。主に心から寄り頼む時、主はその人に新しい力を与えてくださいます。
「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブライ書11:6)。主への信仰がオフではなく、オンになっていることが大切です。主を心から信じ従って行きましょう。
(久多良木和夫)
1月13日(日) 聖日礼拝
「多くの罪を赦された女性」 ルカ福音書7章36-50節
与えられた恵みの大きさを覚え感謝しつつ歩むことは幸いなことです。
「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」(37-38節)。
ファリサイ派の主人は、主イエスを食事に招きながら、歓迎し、足を洗うこともしませんでした。しかし、この一人の女性は、主イエスの足を自分の涙でぬらし、髪でぬぐいました。足に接吻し香油を塗りました。
彼女への人々の評価、烙印は罪深い者でしたが、主イエスを通して、神はこの自分を愛してくださっていることを知りました。自分が神の愛を受けていることを知り大きな感謝の心を持っていました。その感謝によってその行動をなしたのでした。
「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(47節)。
彼女は改めて、罪の赦しの宣言を受けて、新しい歩み出しをしました。(50節)。
(久多良木和夫)
1月20日(日) 聖日礼拝
「種を蒔く人のたとえ」 ルカ福音書8章4-15節
主イエスは、種を蒔く人のたとえを語られました。種を蒔く人によって蒔かれた種は、4種類の土地に落ちました。道端、石地、茨の中、良い土地でした。道端、石地、茨の中に蒔かれた種は大きく成長することも、実を結ぶこともできませんでした。良い土地に落ちた種だけ、成長して実を結びました。
主イエスは、その意味を解き明かされました。種は神の言葉のことです。土地の意味は聞く人の心を意味しています。道端の心は、神の言葉を聞き流し、受け取ろうとしない者です。石地の心は、信仰の故の試練や困難、迫害に会うと信仰を簡単に捨ててしまう人の心です。茨の心とは人生の思い煩い、富や快楽にふさがれてしまう人の心です。あれも欲しい、これも欲しいと見えるものへの欲望をたくさん持ってそれに心が奪われ、神の言葉が根付くことができないのです。
良い土地とは、立派な心で聞き、良く守り、忍耐して実を結ぶ人の心です。神の言葉を心にしっかりと受けとめ、実を結ぶ者とならせていただきましょう。
主イエスの弟子であったペトロは、主を裏切る時が来ることを主によって予告されました。主は、「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と告げました(ルカ22章32節)。ペトロは、三度主の弟子であることを否定しました。そのペトロに対して、主は赦してくださいました。私たちのためにも、信仰が無くならないように祈ってくださり、助け導いてくださる主がおられます。
(久多良木和夫)
1月27日(日) 聖日礼拝
「癒されたゲラサの人」 ルカ福音書8章26-39節
ゲラサの地に一人の人が住んでいました。彼は汚れた霊に支配され、衣服を身につけず、墓場を住まいとしていました。鎖でつながれ、足枷をはめられてもそれを引きちぎって荒れ野に逃げて行きました。彼は周りの人との関係を築けていませんでした。
そのゲラサの人に会うために、主イエスはゲラサの地に行きました。主イエスによって汚れた霊どもはその人から出て行き、豚の群の中に入り、豚たちは驚いて崖を下って湖で溺れ死にました。
彼は正気に戻り、主にお供したいと申し出ました。それに対して、主イエスは「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」とお答えになりました。彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めました(39節)。
人を支配しようとする汚れた霊の力がどれほど大きくても、主イエスはそれらを追い出すことがおできになります。主イエスは、苦しむ者を憐れんでくださるお方です。わたしの支配の中に生きなさいと主イエスは、いつも招いてくださっています。
(久多良木和夫)
2月3日(日) 聖日礼拝
「恐れることはない」 ルカ福音書8章40-56節
大変なことが急に起こることがあります。その時、どうしたら良いかと動揺してしまいます。その時にはすぐ主にお祈りしましょう。主は平安を与え最善の道へと導いてくださいます。
会堂長ヤイロは、娘が病のために危ないという時に、主イエスに助けを求めに行きました。主イエスは、すぐにヤイロの家に向かわれました。
途中、12年間病のために苦しんでいた一人の女性が癒していただきたいと切に願い、主イエスの服の房に後ろから近づいて触りました。彼女は長い期間の病のために苦しんでいました。彼女は癒されました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(48節)。主に信頼した彼女は癒されたのです。
ヤイロの娘は病のために息を引き取りました。主イエスは、ヤイロに向かって「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」と語られました(50節)。主イエスは、横たわるヤイロの娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられました。娘は生き返りました。
この「起きなさい」という言葉は、主イエスが復活なさったという時に用いられた原語が用いられています。神がその時、大いなる御業をなしてくださったのです。
(久多良木和夫)
2月10日(日) 聖日礼拝
「主にのみ畏れをいだけ」 列王記下17章34-41節
旧約聖書最大の出来事BC586バビロン捕囚は、神様がイスラエルの人々を見捨てて、罰として起したことでは決してない。奴隷にあっていたエジプトの地から脱出をさせて頂いたのにも拘らず、「以前からの風習に従って行い、主を畏 れ敬うことなく」(34)歩んでいた。つまり、彼らは偶像礼拝を行っていた。そのような彼らに悔い改めさせもう一度神の方に向き直らせるために捕囚を起こした。
しかも、神は見捨てるどころか「大いなる力と伸ばした腕をもって」(36)愛をいつも注がれていた。その伸ばした腕を見ようとも彼らはしていなかった。それは、私たちがそのような状態でもいつも、「主はすべての敵の手からあなたたちを救い出してくださる」(39)お方であるということである。
神様、イエス様は、私たち一人一人が心を開くのを待っている。しかも、それは無理やりではない。いつも心の戸を叩いて共にいてくれることを知らせてくれている。私たちは、「あなたたちの神、主にのみ畏れを抱け」(39)と語られるように、主にのみ信頼を置いて歩んでいこう。
(後藤真英)
2月17日(日) 聖日礼拝
「福音宣教と病の癒し」 ルカ福音書9章1-6節
主イエスがおいでくださったおよそ2千年前と現代を比べて、現代の方が病が少ないということはありません。インターネットの普及により、ネット依存による病も起きています。様々な過重なストレスや大気、海洋汚染等により私たちの肉体は病気になる可能性が高くなっています。
また、悪霊によって苦しめられることは決して2千年前のことだけでなく、現代においても、見えない様々な悪しき力によって、私たちは悩まされ苦しめられています。
「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」(1節)。主イエスご自身、福音の宣教と共に病で苦しむ人たちを癒されました。そして、弟子たちを福音宣教と病の癒しの働きのために遣わされました。
「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」(6節)。弟子たちは、福音を宣教し、かつ病の癒しの業を主からいただいた力と権能によりなしていきました。
私たちも主イエスの救いに与った者として、主の弟子として、福音の宣教の働きと病の癒しの働きをなすよう召されています。
(久多良木和夫)
2月24日(日) 聖日礼拝
「五つのパンと二匹の魚」 ルカ福音書9章10-17節
悩むこと、心配なことはたくさんあります。それは自分のことだけでなく、自分の家族、友達、他の人のことでも起きます。
日没の時刻が近づき、集まった人たちに対して、弟子たちは人々を早く帰路につかせたいという思いでした。一方、主イエスは何とか夕食を食べさせてあげたいという思いでした。
イエスは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と命じられました。それに対して弟子たちは、「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません。」と答えました(13節)。お金は200デナリオンほどしか持っていませんでした。男性5千人、女性や子どもを含めれば1万人はいたでしょう。とても足りないと弟子たちは考えました。
その5つのパンと2匹の魚は、男の子が自分の夕食として持っていたようです(ヨハネ6章9説)。男の子は、イエス様にお渡しすれば、きっと何とかしてくださるに違いないと思っていたのかもしれません。
主イエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱えました、そして裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせました。全員に十分な量のパンと魚となりました。
とても足りない、とても無理だと思えても、主に信頼して持てるものを主に差し出すとき、主はそれを豊かにしてくださいます。主に信頼して進んでいきましょう。
(久多良木和夫)
3月3日(日) 聖日礼拝
「主について来たい者は」 ルカ福音書9章18-27節
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(22節)。主イエスは、十字架を前にして、ご自身の進む道を予告されました。それは十字架の死と復活でした。弟子たちはその時にはその意味を理解しませんでした。
私たち達は、それぞれ、自分で決めた道、不思議に導かれた道、人から強いられた道、様々な道を歩んでいます。
イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(23節)。
自分を捨てるとはどういうことでしょうか? 私たちは、自分の思い、考えで人生の歩みを進めています。その中で、自分のプライドがあり、自分の持ち物があり、自分の評価や自分の価値へのこだわりがあります。気が付くとそれらのものが自分を支配してしまっていることがあります。そのような自分自身を主の前に認め、一つ一つと大事なものを明け渡す必要があります。
自分の十字架とは何でしょうか? 自分に示された道、自分自身が担うべき事柄、自分に与えられた使命、そこには、自分の欠けや足りなさもあるでしょう。それらすべてを担いつつ従って来なさいと主は招いておられます。
(久多良木和夫)
3月10日(日) 聖日礼拝
「仕えるために来られた主」 マタイ福音書20章20-28節
私たちの願いは、良いものを得たい、他の人より多くのものを得たいということであることが多いのではないでしょうか。
12弟子の中の2人の弟子ヤコブとヨハネとその母親は、主イエスに、最高の地位を願い求めました(21節)。主イエスは、それを決めるのは自分ではなく、父なる神であるとお答えになりました。他の弟子たちも同じように最高の地位を願っていました。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」と主イエスは語られました。(25-27節)。
「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(28節)。主イエスは、神の位を捨てて、人となってこの世界においでくださいました。それは仕えられるためではなく、仕えるためでした。主イエスは、ご自身の命を十字架の上で捧げ、私たちそれぞれが払いきれない罪の代価を支払ってくださいました。その犠牲を通して、主イエスを信じる私たち一人一人に、罪の赦しと神の子どもとしての命、すなわち永遠の命をくださいました。
(久多良木和夫)
3月17日(日) 聖日礼拝
「エルサレム入城の主」 マタイ福音書21章1-11節
主イエスがエルサレムの町の入って行かれることは、とても危険なことでした。過ぎ越しの祭りを前にして大勢のユダヤ人が集まって来ていました。ご自身の命を狙う人たちが多くいたからです。そのような状況の中に、エルサレムに入って行かれました。それは、自らの死につながる道でした。
主イエスは、ろばに乗ってエルサレムに入城されました。それはゼカリヤ書9章9節の成就でした。平和の王として入って来られました。私たちは3つの平和を必要としています。神との平和、自分の心の中の平和、人との間の平和です。
その中で神との平和はとても大切です。神との平和は神との断絶、罪の問題が解決される必要があります。そのために要求されるのは、命です。主イエスは罪のないご自身の命を捧げてくださいました。
『主がお入り用なのです』(3節)。ろばの持ち主は、自分の財産であるろばを捧げました。馬と比べたなら見劣りのするろば、早くは走れないろばを主イエスは用いられました。
エルサレム入城の時に多くの人は、「ホサナ」と叫びつつ迎えました。万歳という意味合いだったでしょう。その本来の意味は、憐れんでくださいという意味です。ただの熱狂ではなく、自分にはあなたが必要ですという思いで叫んだ者こそ、本当の救い主に会うことができたのです。
(久多良木和夫)
3月24日(日) 聖日礼拝
「王の招待」 マタイ福音書22章1-14節
「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」と主イエスは語られました。王とは父なる神さまのこと、王子は神の子イエスキリストのこと、婚宴は神の国、キリストの体なる教会のこと、礼拝のことです。王である主なる神が「私が用意した祝いの食事に預かってほしい」との思いで、私たちのことを待っていて下さり、招いておられるのです。
当時は招待する時は前もって日にちだけを示していて、開始時間は準備ができてから呼びにいくというものでした。「さあ来てください」との招きに対して断った人々は、王の心を喜ばせることよりも自分の畑、商売、生活を優先しました。呼びに行った家来達に危害を加えた者もいました。これに対する王の怒りは相当のものでした。それでも王は人々を婚宴に招きたかったのです。王なる神様は人々が「神の国の豊かな交わりの中に入ってほしい」と切に願っておられるからです。
最初の人以来、人間は罪あるものとして生まれてきます。人は神に罪を赦していただくために犠牲を奉げて神に祈りました。今や主イエス・キリストが十字架において犠牲となってくださったので、神との交わりを持つことができるようになりました。イエスご自身が招いておられます。
王は大通りから招かれた客が礼服を身につけているかどうかを見ました。王が用意していた礼服とは、救い主イエスキリストを信じることによる義の衣です。キリストを着て一歩を進み出しましょう。
(久多良木志津子)
3月31日(日) 聖日礼拝
「最も重要な掟」 マタイ福音書22章34-40節
主イエスは、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と問われ、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」とお答えになりました。
当時、ユダヤ人が守るべき命令は613あったということです。掟、すなわち規則は多ければ多いほど、守るのが大変です。
主イエスは、2つに絞られました。第1は、神さまを愛することです。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてというのです。これは申命記6章5節からの引用です。神さまを愛すること、どうしたら良いのでしょうか。一番神さまが喜んでくださるのは、神さまの愛を受け止め感謝することです。
第2は、隣人を愛することです。自分のように愛しなさいというのです。これはレビ記19章18節からの引用です。自分のように愛するとは簡単ではありません。とても難しいことです。
神さまが求められるレベルで、神を愛することも、人を愛することも決してできないそれぞれではないでしょうか。そのような者を、そしてあなたを神さまが愛してくださっているのです。
(久多良木和夫)
4月7日(日) 聖日礼拝
「最後の晩餐」 マタイ福音書26章17-30節
主イエスは、弟子たちと最後の食事をしました。ご自身が捕えられ十字架につけられることを前にしていましたが、その食事を取りやめることをせず、一緒に最後の晩餐をしました。イスカリオテのユダが裏切ろうとしていましたが、ユダを最後まで見捨てませんでした。
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。(26-28節)。
主イエスご自身は、天から下って来た命のパンとして、自ら苦しみを受けてくださいました(ヨハネ6:51)。また、ご自身の命を惜しげもなく献げてくださいました。罪のないお方の血汐を通してのみ、罪の赦しが与えられます(ヘブライ9:22)。
それは、私たちが主イエスを仰ぎ信じ、永遠の命をいただくためでした。
(久多良木和夫)
4月14日(日) 聖日礼拝
「ゲッセマネでの祈り」 マタイ福音書26章36-46節
主イエスは、十字架につけられる前日の木曜日の夜に、弟子たちと最後の晩餐を終えて、3人の弟子たちを連れてゲッセマネの園と呼ばれる静かな所に行かれました。それは、これから進むべき道を選ぶために祈るためでした。
祈りの応援要請を受けた弟子たち弟子たちでしたが、主イエスの苦しみを理解せず、眠りこけていました。
主イエスの前には、2つの道がありました。一つは十字架にはかからない道、自分の命を失わない道です。もう一つは十字架にかかる道、自分の命を失う道です。
主イエスの最初の祈りは、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」でした(39節)。最後の祈りは、「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」でした(42節)。
主イエスは、私たちの救いのために、十字架への道を選んでくださいました。そのことにより、私たちに永遠の命がもたらされたのです。
(久多良木和夫)
4月21日(日) 聖日礼拝
「恐れることはない」 マタイ福音書28章1-10節
逆転の出来事を経験することがあります。悪い方向から良い方向に進めたらですね。
キリスト教信仰の柱を挙げるなら、1)神の存在、2)神による創造の御業、 3)主イエスの十字架、4)主イエスの復活です。
十字架の金曜日から3日目の日曜日の早朝、マグダラのマリアともう一人のマリアは天使から告げられました。「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」(6節)と。
復活の主イエスは、マグダラのマリアに語りかけられました。「「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(7節)と。感謝
死はすべてを飲み込んでしまうブラックホールのようなものです。命のすべて、人生のすべてを飲み込みます。主イエスはその死を打ち破ってくださいました。
様々な恐れがあります。人生の終わり、愛する者との別れ、大変な仕事、重圧、いじめ、虐待、DV、自分が縛られるもの、友達関係、親族関係、喪失などです。
復活され今も生きておられる主イエスは、恐れをいだく私たちを憐れみ、共にいてくださいます。そして背負い、導いてくださいます。
(久多良木和夫)
4月28日(日) 聖日礼拝
「成長させてくださる神」 Ⅰコリント3章1-9節
コリントの教会は色々な分裂が起きていた。そのうちのひとつが、誰についていくかの問題である。当箇所ではそのことについて触れていた。
まず、パウロはコリントの教会に最初は肉の人として語られたことを語っていた。しかし、私たちは肉の人から霊の人に変えられなければならない。
また、教会は神の畑であり、神の建物である。その中に集う者としてしっかりと主を土台として仕えよう。
「成長させてくださったのは神」(6節)は、過去形ではなく、未完了形である。つまり、過去の事であるが、これからもなお同じように成長させてくださっているお方であること。また、「成長させてくださる神」(7節)とは現在形である。これからも成長させてくださるお方という事が込められそれぞれ意味が変わる。
曽根会堂は今年で伝道開始50周年を迎えた。そこで、3つのビジョンを掲げた。①50名礼拝、②教会学校の充実、③献身者、受洗者を生み出す教会。
成長させてくださった神が同じように教会を成長させてくださる神であることを期待しつつビジョンに向かっていく。お祈りください。
(後藤真英)
5月5日(日) 聖日礼拝
「これに聞け」という御声 ルカ福音書9章28‐43節
①山の上での出来事 28-36節
主イエスは、3人の弟子を連れて山に登りました。祈っている主イエスの顔の様子が変わり服は真っ白に輝きました。その時、モーセとエリアが現れました。三人は主イエスのエルサレムでの最期について話しました(31節)。この最期という言葉の原語のギリシャ語はエクソドスです。その意味は、出発、旅立ちです。主イエスの十字架の死がどのような出発、旅立ちを意味しているのでしょうか。
主イエスは陰府(死者の世界)に向かいますが、死を打ち破られ復活され帰って来られました。そして、もう一つの出発は、私たちの救いの完成でした。罪の赦し、神の子としての身分、永遠の命を私たちに備えてくださいました。
すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた(22節)。この世にも特別に選ばれ上に立ち指導者になる人はいます。自分の益を求め、その権力、力を自分とその取り巻きのために用いる人がいます。それらは偽物です。
主イエスは、天の神さまから選ばれた真の指導者です。ご自身の命を犠牲にして、私たちの救いの御業を成し遂げてくださいました。真の救い主です。
②山の下の出来事 37-43節
翌日、山から下ると多くの人が病で苦しみ、主イエスのもとに来て助けを求めました。病やいろいろな問題で多くの人が苦しんでいました。主イエスは、いやしの御業をなしてくださいました。私たちも自ら抱えている問題を携えて主イエスのもとに行きましょう。
(久多良木和夫)
5月19日(日) 聖日礼拝
「キリストの道」 ルカ福音書9章28‐43節
「キリストの道」ということの意味は、キリストが歩まれた道、とともに「キリスト道(どう)」の意味です。クリスチャン、教会は聖書によって伝承されたその道を主イエスを先生として歩み、生きるのです。信仰の初歩から訓練を経て、完成に至るまでの道です。
「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」(51節)は、イエスご自身がいよいよエルサレムに向かう道を進み始めるという大事な場面です。主の顔はエルサレムに向いていました。エルサレムにおいて、苦しみを受け十字架にかけられて死ぬこと、復活し、天に挙げられることを主はご存知でした。
エルサレムへの道においてサマリヤ人からは受け入れられませんでした。
弟子を志願してきた人にイエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と言われ、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った人には「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」と、「あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」と言った人には、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われました。
イエスは、自分の利益、評価を願っての弟子志願者に対して、まず神の国の始まりを、神の支配の中に生きる喜びを伝えることを示されました。
(久多良木志津子)
5月26日(日) 聖日礼拝
「収穫の主に願いなさい」 ルカ福音書10章1-12節
農家の人は、収穫を得るために種を蒔き苗を植えます。何も植えなければ何も収穫を得ることはできません。植えれば 苗は育ち、やがて実を結びます。
「主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」(1節)。主イエスは弟子たちを二人ずつ組みにして送り出しました。二人だと一人と違って助け合うことができます。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。(2-3節)。主イエスは弟子たちを町々、村々に遣わされました。
「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」(5節)。神の平和とは、神の御支配による救いの恵みのことです。「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」(8-9節)。神の御手は差し伸べられています。
伝道の働きのための働き人が少ないのです。働き手を求めましょう。それぞれも働き手として招かれています。いろいろな足りなさを覚えさせられますが、収穫の源の主に祈り求めつつ、進みましょう。
(久多良木和夫)
6月2日(日) 聖日礼拝
「誰が隣人になったか」 ルカ福音書10章25-37節
自分のためにはできても、誰かのために時間やお金を、そして何より心を用いることは簡単なことではありません。
律法の専門家は、永遠の命を受け継ぐために、大事なことは、神を心から愛すること、また隣人を自分のように愛することだと答えました。それを実行しなさいと命じられ、わたしの隣人とはだれかと尋ねました。
主イエスが語られたたとえ話、追いはぎに襲われた一人の瀕死のユダヤ人を助けたのは、祭司でもレビ人でもなく、普段ユダヤ人が軽蔑していたサマリヤ人でした。
「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(36-37節)。
神は、私たちのために神の独り子イエスをお遣わしになりました。主イエスは私たちの救い主となるためにこの世に来てくださいました。そして、私たちの罪を背負って十字架にかかってくださいました。
その愛を受けて、それぞれは生かされています。このことを何よりも感謝して歩みましょう。他の人を大事な存在として受け止めていきたいものです。
(久多良木和夫)
6月9日(日) 聖日礼拝
「約束された聖霊」 使徒言行録2章22-36節
約束は大切なものです。しかし、人間同士においては時に時間が経ったから、状況が変わったからということで、反故にされます。神の約束は決して反故にされません。真実な神は、救いの契約を守ってくださり救い主をお遣わしくださいました。
主イエスの弟子たちは、主イエスの十字架の死によって絶望しましたが、主の復活によって大きな喜びを与えられました。復活の主は40日後昇天され天に帰って行かれました。弟子たちは、約束されたもの(ルカ福音書24:49)を待ち、祈りました。10日後、聖霊降臨の出来事が起きました。
弟子たちは天より聖霊をいただき、喜びと希望と力に満たされました。このことはキリスト教会の誕生の原点となりました。
「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。」(32-33節)。
主イエスの十字架と復活そして昇天によって、主は父なる神より聖霊を受けられました。主は、受けられたその聖霊を主を信じる弟子たちに注いでくださいました。
約束の聖霊を、主はご自身の命と引き換えに受けられ、私たちに注ぎ与えてくださったのです。なんという大きな感謝でしょう。
(久多良木和夫)
6月16日(日) 聖日礼拝
「賜物としての聖霊」 使徒言行録2章37-42節
本日は父の日です。既に他界した、まだ存命だ、とそれぞれだと思いますが、父に、そして父を与えてくださった神さまに感謝しましましょう。
「父の日」は、母が他界した後自分たち子ども6人を再婚もせず育て上げてくれた父への感謝を持っていたソノラ・スマート・ドットさんの願いをきっかけに、制定されました。
父親の役割は何でしょうか? 家族を支える、伴侶や子どもと共に歩むこと、いろいろあることでしょう。
「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(36節)。これは、ペンテコステの日に、ペトロがそこに集まった人々に語ったメッセージです。この言葉に人々は心を打たれました。自分たちが殺してしまったイエスはメシアすなわちキリスト、救い主であったことを知らされました。
「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(38節)。
「賜物として聖霊を受けます」と訳されていますが、原語では「ただで聖霊を受けます」とあります。神の側で大きな犠牲を支払ってくださった故に、私たちの側で「ただ」なのです。
(久多良木和夫)
6月23日(日) ホ群弾圧受難記念礼拝
「十字架の死に至るまで」 フィリピ2章1-11節
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(3-4節)。相手に対して、その存在、人格、心、思いを受けとめることで、言葉や態度が変わり、感謝が生まれ、関係がより良いものになります。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(6-8節)。
1942年から1945年までの3年間、ホーリネス系教会に対しての宗教弾圧がなされました。治安維持法違反でたくさんの牧師が検挙され、教会は礼拝、その他の集会をなすことを禁じられました。ホーリネスの教会が掲げていた「再臨」に対する信仰すなわち主イエスは再びこの世界に来られ、勝利の主としてすべてを裁かれるということに対してその時代の政府は攻撃してきたのです。
私たちが救いに与り、その生涯の信仰の歩みが全うされるようにと主イエスは
十字架の死に至るまで従順であってくださいました。この主に目を向け、私たちも従い続けましょう。
(久多良木和夫)
6月30日(日) 聖日礼拝
「熱心な祈り」 使徒言行録1章12-15節
本日の聖書の出来事は、主イエスの昇天とペンテコステの間に起きた出来事で ある。
Ⅰ.アパルームへ行こう 主イエスの11人の使徒と主イエスの母や兄弟と婦人たちは、主イエスが昇天されて「泊まっていた上の部屋に上がった。」(13)この「上の場所」では、主イエスとの交わりがいくつかあった。代表する出来事が、最後の晩餐である。使徒たちはその場所に上がって、神、主イエスとの深い交わりがなされた。
Ⅱ.熱心な祈り 使徒たちはただ2階に上がって交わったのではない。「心を合わせて熱心に祈っていた。」(14)「熱心に祈る」の原語直訳は、主イエスに向って強い思いで専念して(祈った)のである。使徒たちは、ビジョン、リバイバルを求めて主の声を聞いていた。リバイバルとは信仰復興である。リバイバルの出来事の前には、熱い祈りがなされている。
Ⅲ.一つになる ペトロや兄弟たちはその後、その他の信仰者の前で語った。そこには120人が集まっていた。そして彼らは、一つになっていた。それは主にあってである。信仰が燃やされた。初めて聖霊が送られたのはこの120人であった。
山中日出刀師が言われた信仰の3つの側面「上に在すキリスト」「共に在すキリスト」「内に在すキリスト」に心留めることは、祈り・御言葉・聖霊によって受けることが出来る。
(後藤真英)
7月7日(日) 聖日礼拝
「求め、探し、門をたたきなさい」 ルカ福音書11章5-13節
「わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(9節)。 これは主イエスが語られたみ言葉です。
自分の家に夜中に訪ねて来た旅行中でお腹を空かせた友達のために、他の人の家に行き、パンを3つ貸してほしいと願った人の話をされました。当然、断られる、でもしつように頼めば聞いてもらえるという話をされて、主は、積極的に求め、探し、門をたたくことの大切さを語られたのでした。
その相手は人という場合もあるでしょう。でも究極的には天の神様です。神さまは、私たちを人間の親よりもはるかに憐みに富み、愛してくださっているお方です。その神さまに向かって、求め、探し、門をたたいて行きましょう。
「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(13節)。
主イエスは、良いものを言われず、聖霊と言われました。私たちが願うものよりもはるかに幸いなもの、それこそ聖霊です。聖霊なるお方は、私たちの救いのしるしであり、永遠の命の与え主です。また天のみ国を受け継ぐ保証、すなわち天国に入るためのパスポートです。
(久多良木和夫)
7月14日(日) 北九州地区講壇交換礼拝
「生き返った青年」 使徒言行録20章7―12節
パウロは第3回世界宣教旅行でギリシアまで行った後、エルサレムへの帰路につきます。途中トロアスで7日間滞在し、出発を翌日に控えた日、ある家で人々に夜中まで話し続けました。彼としてはどうしても語っておきたいことがあったのでしょうが、そのせいで不幸な事件が起きてしまいます。
エウティコ(「運がよい」という意味)という名の青年がひどい眠気を催し、眠りこけ、腰を掛けていた三階の窓から下に転落死したのでした。送別会の席でとんでもないことが起きたものです。青年は疲れていたのでしょう。パウロの話に集中し続けることが出来なかったのです。「可哀そうだけど仕方がない。半分は彼にも原因がある。心に隙があったのだ」、と思う人もあったでしょう。私たちも今の教会の停滞や衰退の状況をそうやって反省することがあります。
しかし、この悲劇は悲劇で終わりません。パウロは彼の上にかがみ込み、抱きかかえて、「騒ぐな。まだ生きている」、と死を否定し、聖餐式を執り行い、夜明けまで話し続けてから出発します。
私たちも自分たちの状況を「死んでいる。終わり」と判定することがあります。しかし私たちと共にいてくださる主は、「騒ぐな。まだ生きている」とおっしゃってくださる方です。「まだ終わりではない」のです。
(行橋教会牧師 上垣旅人)
7月21日(日) 聖日礼拝
「神の力によるご支配」 ルカ福音書11章14-23節
「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。」(14節)。主イエスによって癒された人は悪霊によってただ口がきけないということではなく、人とのコミュニケーションが取れなくなっていました。悪霊の頭ベルゼブルの力で追い出しているという者たちもいましたが、主イエスは、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(20節)と言われました。
マタイ12章には、目が見えず口がきけない人が主イエスによって癒されたことが記されています。そこでは神の霊によって悪霊を追い出されたことが告げられています。
私たち人間の心に闇が忍び込むことがあります。人を愛することができない、希望を見いだせない、人への怒り、様々です。ローマの信徒への手紙1:29-31、ガラテヤの信徒への手紙5:20-21に様々な罪が記されています。
その闇を取り去ることは容易ではありません。神の愛に触れていただくことが必要です。天の神様は、独り子イエスをお遣わしくださいました。主イエスは私たちの罪の代価をご自身の命と引き換えに支払ってくださいました(ローマの信徒への手紙6:23)
(久多良木和夫)
8月4日(日) 聖日礼拝
「自分の内側はどうか」 ルカ福音書11章37-54節
私たちには、人から見える部分と見えない部分があります。見える部分は持ち物であり、服装等です。見えない部分は家の中であり、心の中です。
ファイサイ派の人たちは、食事の前に身を清め手を洗うことをしなかった主イエスを非難しました。それに対して、主イエスは言われました。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。 愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。」(39-40節)。
強欲とは、あれも欲しいこれも欲しいと願う心であり、人の物まで奪ってしまおうとする心です。悪意は、ねたみ、怒り、傲慢、敵意、許さない心です。
「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。」(42節)。正義とは自分勝手な正義のことではありません。神のみ心にかなった正義です。他の人への関心、愛のことです。神への愛とは、神の愛の中で与えられてきた様々な恵み、今与えられている幸いを心の留め、神に感謝することであり、神と共に生きていくことです。
私たちはどこに立つか、あの人はこういう人だと決めつけるのではなく、自分自身はどうなのか、自分の心の内側はどうかと吟味することが大切です。聖霊なる神のご支配を願い歩んで行きましょう。
(久多良木和夫)
8月11日(日) 召天者合同記念礼拝
「とこしえに立つ神の言葉」 イザヤ書40章1-8節
「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と。」(Ⅰ-2節)
イザヤ書の中心のメッセージは「慰め」です。主によって、回復と解放、希望の時、慰めの時が来ることが告げられています。私たちも慰めと平安を必要としています。
「主に贖われた人々は帰って来て喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき喜びと楽しみを得 嘆きと悲しみは消え去る。(51章11節)。大いなる恵みの土台は神の愛であり、神の憐れみです。
「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。」(6-7節)。私たち人間は不確かな者です。それゆえ確かなものを求めています。確かのものは、変わることのない神の御言葉であり、神ご自身です。この神と共に歩む者は幸いです。
(久多良木和夫)
8月18日(日) 聖日礼拝
「何か見えるか」 マルコ福音書8章22-26節
この箇所は、主イエスが盲目の人を癒された出来事である。主イエスが患部に2度触れた。まず、1回目触れた後に「何か見えるか」(23節)問われた時、「人が見えます。木のようですが・・・」(24節)と、今まで何も見えなかったが、ぼやっと見えるようになった。そして、2回目は、「はっきり見えるようになった」(25節)。
この変化は、私たちの霊的な目である。主イエス、主イエスの十字架と復活が自分のためであると理解できるのが、1回で分かることもあるが、初めはぼやっとなる事もある。それがある時、目が開かれはっきりとわかることがある。それは、聖書に書かれてあることに対してもそうである。それは主が私たちの目に、手を当ててくださり「何か見えるか」と語ってくださっているからである。
また、主は癒された後、「この村に入ってはいけない」(26節)と、この人に対して言われた。この「村」とは、今までの生活である。見えなかったものが、見えるようになったことで、今まではなかった辛さ、苦しみもあるかもしれない。しかし、この見えるようになったことにより、本当の世界、希望の光が見える。そこから引き離そうとするサタンの働きがあるが、そのサタンの策略に負けないように、という意味でもある。サタンに惑わされず、主イエスといつも歩んでいこう。
(後藤真英師)
8月25日(日) 聖日礼拝
「ただ、神の国を求めなさい」 ルカ福音書12章22-34節
私たちは、様々なことで思い悩みます。自分の健康のこと、将来のこと、人間関係のことで心配します。そんな私たちを主はご存じで思い悩むなと語っています。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」(22節)。
思い悩むことで、心が重くなり、食欲は減り、顔色も悪くなります。夜よく眠れなくなり、イライラし、表情も暗くなります。
天の神さまは、烏を養い、野の花をきれいに咲かせてくださいます。「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。」(29‐30節)。天の神さまは、私たちの必要をご存じであり、それらを用意し備えていてくださいます。
信頼する一番の存在は、赤ちゃんです。赤ちゃんは、お赤さんに全く信頼して、おなかがすいたとき、おむつが気持ち悪い時、泣いて知らせます。
「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」(31節)。神の国とは神のご支配であり、神の力、神の業です。そして、それは、神の御心であり、神の愛です。信頼する者に神は、罪の赦し、神の子としての資格、神との交わり、天国の命を与えてくださいます。
目を天の神さまに向け、神に信頼することこそ、大切なことです。
(久多良木和夫)
9月1日(日) 聖日礼拝
「目を覚ましてともしびを」 ルカ福音書12章35-48節
主人は、出かけるに際し家のことを僕たちに託しました。帰って来る時、目を覚ましているように命じました。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」(35-36節)。「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。」(43-44節)。
「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」(38節)。目を覚ましていることが、いかに大切か語られています。
良い僕は、目を覚ましていました。悪い僕は、託されたことをせずに過ごしていました。良い僕でありなさいと語られています。主人とは、主イエス様のことです。僕は私たちのことです。あなたはどちらでしょう?
主イエスは、再臨の主として必ず帰って来られること、人生の終わりは必ずやって来ること、神の御前にそれぞれ立つ時がくることをしっかりと心にとめていましょう。
目を覚ましていることの秘訣は、第1に自分が主によって愛され、選ばれたことに感謝をもって生きること、第2に、主への礼拝、祈り、御言葉を通して主を見上げて歩むことです。ともしびは、第1に主への感謝、喜びのともしびであり、第2に主に信頼して与えられる希望のともしびです。
(久多良木和夫)
9月8日(日) 聖日礼拝
「悔い改めの幸い」 ルカ福音書13章1-9節
思いがけないことで尊い命を失うことがあります。総督ピラトによって礼拝中のガリラヤ人が殺害されたこと、シロアムの塔が突然倒れ、18人の人が下敷きになり命を失ったこと、当時の人たちの話題となった出来事でした。その亡くなった人たちは罪深かったからではないかと噂する人もいました。主イエスは、決してそんなことはないと宣言されました。「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(3,5節)
悔い改めることがいかに大切かを語られました。悔い改めるとは、以前におこなった悪いことを悔やむことではありません。神に背を向けていたこと、神を無視して自分の思いのままに歩んでいたあり方を変えることです。自分の心を神に向けることです。神に立ち返ることです。
ダビデは、王となった直後に、姦淫と殺人の罪を犯してしまいました。その罪を預言者ナタンによって指摘された時に、その罪を認め、心から神に謝り、神に立ち返りました。ダビデの罪は赦されました。
神に立ち返り、神と共に歩むならば、見える状況が良い時も悪い時も、主のご支配の中に、平安と力をいただいて歩むことができます。悔い改めないままで
歩むのでなく、悔い改めて歩む者とさせていただきましょう。
(久多良木和夫)
9月15日(日) 敬老祝福礼拝
「共にいてくださる主」 詩編23編1-6節
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」 (1節)。「主は私の羊飼い、私は乏しいことがない。」(聖書協会共同訳)。主なる神こそ羊を愛し、羊のことをよく知っていて世話してくださる羊飼いです。羊とは私たちのことです。
「主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。」(2-3節)。「主は私を緑の野に伏させ 憩いの汀に伴われる。主は私の魂を生き返らせ 御名にふさわしく、正しい道へと導かれる。」(聖書協会共同訳)。水は私たちの体には必要不可欠なものです。そして、魂(心の中心、心の一番深いところ)を潤す水は何より大切です。魂が弱り果てることがあります。魂が命を失うことがあります。その魂を生き返らせてくださる方こそ、主なる神です。
「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖それがわたしを力づける。」(4節)
鞭と杖は、敵から羊を守るために用いられます。同時に、羊飼いが危険なところに落ちないために用いられます。最も通りたくない谷、それは死の陰の谷です。しかし、人生の最後には必ず通らねばなりません。その時、お金も財産も知識も名誉も通用しません。家族や友も限界があります。主が共にいてくださることが魂を支え、励ましてくれます。最後の最後においては、主は、御国で住まいを用意し待っていてくださいます。
(久多良木和夫)
9月22日(日) 聖日礼拝
「狭い戸口から入れ」 ルカ福音書13章22-30節
「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。(23-24節)。狭い戸口は新改訳聖書では、狭い門と訳されています。
狭い戸口の意味は2つあります。一つ目は、救いにおいての狭い戸口です。私たちは、イエス・キリストの名前が刻まれた戸口を通して救いの恵みに与ることができます。救いのためにそれ以外の戸口はありません。
神と私たちの断絶の原因は、私たちそれぞれの罪です。救いには3つの段階があります。第1段階は自分は罪人であると認めること、第2段階は私たちを罪から救うために主イエスがおいで下さり、十字架に架かってくださったことを認めること、第3段階は、主イエスを自分の救い主としてお迎えすることです。
2つ目は、クリスチャンとしての歩みにおいての狭い戸口です。歩んではならない道があります。それは偶像礼拝であり、肉の働きです。真の神でないものの誘いにのってはなりません。ガラテヤの信徒への手紙5章19-21節には。陥ってはならない肉の業をリストアップしています。また、ローマの信徒への手紙1章29-31節にも陥りやすい罪の数々が記されています。
人への悪口も気をつけなければなりません。人の悪口を他の人々に言い続けることは大きな罪です。自分の罪こそ認め悔い改めねばなりません。
(久多良木和夫)
9月29日(日) 聖日礼拝
「一粒の麦」 ヨハネ12章20-26節
「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(24節)。「一粒の麦」は、主イエスのことである。主イエスが十字架で死に、復活して、昇天しなければ福音は全世界に広がらなかった。主イエスの十字架の死と復活を通して、聖霊の降臨の出来事が起きた。このことよって、弟子(使徒)たちから始まり広がっていった。
北九州復興教会初代牧師である山中日出刀先生は、祈りの人であった。常に祈りをされ、また相談者に対して「祈りましょう」と言い、祈られた。一人一人の名前を挙げて毎日、特に備えの土曜日は命がけで祈られた。また、先生に与えられたビジョンは、千人教会であった。一粒の麦の主イエスの教えが今も広がり、当教会からも多くの伝道者も生み出されてそのビジョンは受け継がれ、広がっている。
主イエスは、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え、」(26節)と言われた。また、「わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」と約束してくださった。主は一人一人のことを大切にしてくださっている。私たちも、主に仕え、従っていくものはそれがどれほど深いものであるかが分かる。主に徹底的に仕え、徹底的に主に従っていこう。
(後藤真英)
10月6日(日) 聖日礼拝
「神の国での食事」 ルカ福音書14章15-24節
主イエスが語られたたとえ話です。ひとりの主人が、盛大な宴会を催し、前もって招いていた人たちのもとに僕(しもべ)を送りました。しかし、招かれた人たちは、その宴会がどんなに価値のあるものであるかを理解せず、いろいろな理由をつけて断りました。
「家の主人は怒って僕(しもべ)に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』」(21節)。貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人たちは宴会に来ました。
この主人とは天の神さまのことです。その宴会は、神の国での喜びの時を意味しています。「食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』と言った。」(15節)」
天の神さまによって用意された宴会とは、主イエスの救いの恵みです。神の国での食事とは、第1に、主イエスにある救いに与り、神の子どもとして生き、主イエスと共に歩むことです。第2に、この地上の生涯を終えた後には、天の御国に招き入れられ天の聖徒として生きる者とされることです。
「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(ローマの信徒への手紙14:17)。
(久多良木和夫)
10月13日(日) 聖日礼拝
「キリストの弟子への招き」 ルカ福音書14章25‐33節
キリストにある救い、それは罪を赦され、まことの神との断絶が取り除かれ、命の主に日々つながって歩むことです。それは最高の幸せです。
その救いに与った者がどう生きるか、どう歩むかが本日の聖書のテーマです。
3つの歩みが大切です。第1は、この救いを心から感謝して日々歩むことです。第2は、この救いを自分の内にとどめるのでなく、他の人にも証しすることです。第3は、キリストの弟子として歩むことです。すなわち神に、キリストに従うことです。
「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(26節)。憎むという原語は捨てるとも訳されています。その意味するところは、その大事なものは自分だけのものですから、主よ、介入しないでくださいと言うのではなく、主に御心を教えていただきつつ導いていただくことです。
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(27節)。自分の十字架とは何でしょうか。それは自分の置かれている状況、大変さ、課題、そして自分の強さ、弱さです。これは私だけの問題ですから、主よ、しないでくださいと言うのでなく、主よ、助けてくださいと祈りつつ、主に従うことです。
(久多良木和夫)
10月20日(日) 聖日礼拝
「放蕩息子を迎えた父」 ルカ福音書15章11‐32節
このたとえ話は、主イエスが語られた中で、最も有名なたとえ話の一つです。
「放蕩息子のたとえ」とよく言われますが、内容からすると「放蕩息子を迎えた父のたとえ」と言った方が良いものです。
自分の財産をもらって遠くへ出て行った弟息子は、放蕩の末にすべてを失ってしまします。空腹のため豚の餌を食べたいと思うほどになり、みじめな状態になって、父を思い出します。父の家に近づいた時、父は弟息子を見つけ、駆け寄ります。「彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(20節)。父親は心から喜んで弟息子を迎え入れます。お祝いの宴が始まりました。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」(24節)と父は語りました。
兄息子は、放蕩の末帰ってきた弟を心から喜び迎えた父のことが面白くありません。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(32節)。これこそ父の心でした。
弟息子も、兄息子も私たちのことを指しています。父は天の神さまを指しています。主は、神から離れて行き詰る私たちを憐れんでくださるお方です。主は、立ち返る者を喜んでくださいます。
(久多良木和夫)
10月27日(日) 聖日礼拝
「忠実な者に」 ルカ福音書16章1‐13節
告げ口をされた管理人は、主人に「会計の報告を出しなさい」と命じられました。私たちも、自分の歩んだ生涯を終えて、神の前にその歩み申し開きをしなければなりません。
辞めさせられる前にこの管理人は、主人に借財のある者たちのその額を少なくしてあげました。主人は、この管理人の抜け目のないやり方を誉めました(8節)。
彼は、自分に託されたものを用いて友達を作りました。「わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。」(9節)。自分に託されたものとは何でしょうか。それは時間、働き、歩み、財産、機会、出会い、家族、友ではないでしょうか。
「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(13節)。私たちの前には、二人の主人がいます。一人は天の神さまであり、一人はこの世です。この世、それは富、財産。立派な家、宝石、ポスト、栄誉、ごちそう、その他、そして自分の願い、欲望です。
主イエスの救いは、永遠の命であり、主と共に歩む幸いです。救いに与った者は、この世ではなく、天の神さまに従うのです。そこに一番の幸いがあります。
(久多良木和夫)
11月3日(日) 聖日礼拝
「金持ちとラザロ」 ルカ福音書16章19‐31節
私たちの人生には、それぞれ大切な機会、チャンスがあります。それを逃さないようにしたいものです。
一人の金持ちは、毎日贅沢三昧の生活をし、病気で空腹のラザロを助けることもしませんでした。ラザロはできものだらけで空腹の毎日でした。二人ともこの地上の生涯を終えました。金持ちは炎の中でもだえ苦しみました。ラザロはアブラハムのいる宴会のそばにいました。金持ちがなぜそのようなところに置かれたのか? 彼は自分に与えられたものを自分のためだけに用いました。彼は苦しんでいるラザロに必要なものを一つもあげませんでした。彼は神の御声を、言葉に聞こうとしませんでした。
金持ちは、自分の兄弟たちがこのような苦しいところに来ないようにラザロを送ってほしいとアブラハムに頼みました。 しかし、アブラハムは言いました。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」と(29節)。
金持ちは、生きている時に、神を信じ、その御声、御言葉に聞き従い、困っている人を助ける機会、チャンスがあったのにそうしませんでした。金持ちとラザロは、この地上での生涯の歩みと地上の生涯を終えた後の歩みは、全く逆転しました。金持ちのようにならないように。神の御声と御言葉に聞く者でありましょう。
(久多良木和夫)
11月10日(日) 聖日礼拝
「神の憐みに感謝した人」 ルカ福音書16章19‐31節
相手に対する感謝は、人間関係をより良いものにします。神さまへの感謝は、さらに良いものをもたらします。
10人の重い皮膚病の者たちは、自分の病の進行を気にしつつ、家族や友達とも隔離され寂しく悲しい日々を過ごしていたことでしょう。彼らの近くを通りかかった主イエスに、憐れんでくださるよう叫びました。主イエスは彼らの病をいやす奇跡を行い、完全に癒された証明を受けるために祭司のもとに行くように言われました。
彼ら全員は、祭司のもとに走って行きました。その後9人はそのままでした。しかし、一人の者だけ、主イエスのもとに戻って来ました。「そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。」(16節)。
彼は、サマリア人として、ユダヤ人から偏見のまなざしを受け差別をされて生きていました。その彼が主イエスにお礼を言うために戻ってきたのです。
それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(19節)。彼は、病の癒しだけでなく、罪の赦し、神の子どもとして身分、そして永遠の命を受けました。
彼は、主イエスが自分に対して愛と憐れみをかけてくれたことを心から感謝しました。その感謝の心が、彼にこの世が与え得ないところの素晴らしいものをもたらしたのでした。
(久多良木和夫)
11月17日(日) 聖日礼拝
「私を憐れんでください」 ルカ福音書18章9-14節
主イエスは、自分は正しい人間だとうぬぼれ、他人を見下している人々にたとえ話を語られました。
神殿でお祈りした二人の人、一人はファリサイ派の人でした。彼は、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と祈りました(11-12節)。彼は、ユダヤ社会の中でエリートであり、皆から尊敬され、自分こそ正しいと考えていました。
もう一人は徴税人です。彼は、目を天に上げず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と祈りました(13節)。彼は、同胞を裏切り、ローマ皇帝の手下になり、同胞から税金を徴収していました。皆から罪人と呼ばれ、自分も罪人と考えていました。天の神さまの愛から漏れ、恵みをいただく資格はないと考えていました。
「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(14節)。真に自分の罪を認める者こそ、神は受け入れてくださるのです。
(久多良木和夫)
11月24日(日) 聖日礼拝
「ザアカイの救い」 ルカ福音書19章1‐10節
人生において、喜びを見出すことができることは幸いなことです。ザアカイという人は、主イエスとの出会いを通して人生に大きな喜びを与えられた人です。
彼は徴税人の頭で金持ちでした。でも、同胞のユダヤ人を裏切り征服者であるローマ皇帝の手下になり、その上、不正をして、同胞からお金を余計に徴収していたため、町の人々からは嫌われ、友達も離れて行きました。彼は、立派な家に住み、立派な服を着て、毎日ご馳走を食べる生活をしていたことでしょう。しかし、彼の心は寂しく、渇いていました。
そんなザアカイに出会うために、主イエスはエリコの町に来られました。いちじく桑の木の上のザアカイに、主イエスは「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と呼びかけられました(5節)。
ザアカイは喜んで主イエスを自分の家に迎えました。ザアカイの心は変えられました。自分の罪を正直に告白し、ごまかしたものを4倍にして返しますと告げました。
「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(9、10節)。ザアカイは、自分も大切でかけがえのない存在であることを教えられました。主イエスは、失われた者を捜して救うために来てくださいました。何という感謝なことでしょう。
(久多良木和夫)
12月1日(日) 聖日礼拝
「与えられるしるし」 イザヤ書7章10-14節
何に信頼するか、誰に信頼するか、人さまざまです。今朝の箇所は「神により頼め」と告げています。
南ユダの王アハズは、エフライム(北イスラエル)とアラムから脅され攻められ、追い詰められて動揺していました。神から遣わされた預言者イザヤは、そのアハズに、「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」と告げました(9節)。
アハズは、さらにイザヤを通して「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。」と神から招きを受けました(10節)。アハズはそれを拒否しました。アハズは大国アッスリアに寄り頼めばこの危機もしのげるのではないかと考えていたようです。そのアッスリアはバビロニアから滅ぼされ、そのバビロニアはペルシャから滅ぼされました。
神は、イザヤを通して語られました。「わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」(14節)。
その男の子とは、究極的には、神の独り子イエスを指しています。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君』と唱えられる。」(9:5)。
(久多良木和夫)
12月8日(日) 聖日礼拝
「あなたを照らす光」 イザヤ書60章1-3節
預言者イザヤは、民に苦しみの時を経験しなければならないことを告げました。実際の歴史において、北イスラエルはアッスリアに滅ぼされ、南ユダはバビロニアに滅ぼされました。しかしその期間は神の憐れみにより終わり、主の栄光が輝く時が来ることを告げました。
「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り 主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い 暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。」(1-2節)。
中村 哲医師が凶弾に倒れ悲しみが広がっています。彼は、クリスチャンとしてアフガニスタンにおいて35年以上にわたって尊い働きをしました。彼はアフガニスタンにとって一つの希望でした。
私たちの人生において、希望は時に消えそうになる時があります。神は、そのような私たちに対して、お金や持ち物や名誉等で解決しようとはされません。希望を失わせる根本原因は、私たちそれぞれの罪です。この解決がなければ本当の希望はありません。神はこの罪の解決のために独り子である主イエスをこの世界にお遣わしになりました。
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(9:1)。この光こそ主イエスです。イザヤは主イエスのご降誕のおよそ700年前に預言をしました。
(久多良木和夫)
12月15日(日) 聖日礼拝
「羊飼いたちへの知らせ」 ルカ福音書2章8-20節
「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。』(8節)」
快晴の日、飛行機の上から地球を見ると、地形、建物などがとてもよく見えます。私たち一人一人のことをこのようにピンポイントで見ておられる方が、「必ず、救い主を見つけます。」と語られたのです。「喜び」という素晴らしい、良い知らせを天使が告げました。預言されつづけていた約束の成就です。神様のご計画の実現の時が来たのです。
羊飼いたちは、ベツレヘムの家畜小屋をあちらこちらと覗いてまわったことでしょう、もしお客が泊まっている宿屋であったら、そうすることはできませんでした。家畜小屋だから羊飼いたちは探し当てることができました。日常と、いつもの仕事と繋がっている場所だったからです。彼らが見つけることができる場所に、救い主はお生まれになりました。神さまがなさったことは、なんとも素晴らしい。
救い主を見つけ出した後、羊飼いたちは、前と同じように羊飼いの仕事をしました。夜、眠ることが出来ず、暗いところで恐怖を感じながらの仕事は続いたことでしょう。しかし彼らは変えられました。神を崇め、賛美するようになりました。救い主を伝える証し人になりました。町の人々から疎んじられていたのに、祝福をもたらす者へ、「人に対して祝福となる者へ」と変えられました。
(久多良木志津子)
12月22日(日) クリスマス礼拝
「マリアの賛歌」 ルカ福音書1章46-56節
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
(47節)。救い主イエスの母マリアは、主なる神に向かって心から感謝して賛美を捧げました。主なる神が、取るに足りないこの自分を特別に選んでくださったからです。
この世は、特別な才能も持つ者、業績を残した者に特別な顧みを与えます。しかし、主ご自身は、その人の才能、業績とは関係なく、選び愛し顧みてくださいます。
「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。(48-49節)。
「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」(52-53節)。神は、思いあがる者、権力ある者、富める者を斥けられる。一方、身分の低い者、飢えた人を顧みてくださると語られています。
神は、マリアを顧み、イスラエルの民を顧み、全世界の民を顧みてくださるお方です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書3章16節)。クリスマスの主の愛と恵みはあなたにも注がれています。
(久多良木和夫)
12月29日(日) 年末感謝礼拝
「主に望みをおけ」 イザヤ書40章27-31節
信仰の歩み、それは何か? それは心の目をいつもどこに向けるかということです。キリスト者である私たちは、天の神さまに向けます。
「ヤコブよ、なぜ言うのか イスラエルよ、なぜ断言するのか わたしの道は主に隠されている、とわたしの裁きは神に忘れられた、と。」(27節)。苦しみや困難が続くとき、疲れ、弱り果てることがあります。神さまはどこにおられるのかと考えることがあります。
「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく その英知は究めがたい。」(28節)。主なる神は永遠の初めから永遠の終わりまでを支配しておられる方であり、すべてのものの造り主で、知恵に満ちたお方です。
「疲れた者に力を与え 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。」(29節)。疲れた者、勢いを失っている者に必要な力を与えてくださいます。
「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(31節)。順風の時も、逆風の時も、健康の時も病気の時も主に心の目を向け、主に寄り頼みましょう。主に祈りましょう。主に望みをおき、主と共に一歩一歩進みましょう。
(久多良木和夫)