2020年

 1月5日() 新年礼拝

           「交わりに生きる恵み」       使徒言行録2章4247節 

       

  今年の標語は、「交わりに生きる信仰」です。テーマは交わりです。

 

 交わりには2つの意味があります。一つは「人との交わり」であり、もう一つは「神との交わり」です。人との交わりは、一人で孤立せず、相手を理解しようとし、自分の持っているものを分かち合うことです。神との交わりは、主なる神につながり生きることであり、人との交わりの土台にもなる事柄です。 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ福音書15:5)

主としっかりつながって歩むのです。

  

 「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(42節)。聖霊降臨の出来事の直後に教会は、聖霊のご支配の中で、形作られいきいきと力強く歩みました。4つのことを熱心にしました。第1は使徒の教えであり、第2は相互の交わりであり、第3はパンを裂くことであり、第4は祈ることでした。

  

 相互の交わりと訳されている原語のギリシャ語は、「コイノニア」であり、交

 わりという意味です。主を中心とした交わりです。主につながって、それぞれが整えられ、生かされて歩むことを土台にしての互いの交わりです。

                          (久多良木和夫) 

 

  1月12日() 新年礼拝

           「一つの体、多くの部分」     コリント一12章12-27節            

 

 今年の標語は、「交わりに生きる信仰」です。交わりは人の間での交わり、つながり、そして神との交わり、つながりを意味しています。

 

  1.多くの部分(人との交わり、つながり)について

 その第1は、互いに助け合い、励まし合うことです。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(26節)。その第2は互いを認め合うことです。お互いの良いもの、それぞれに与えられているものを認め合うことが大事です。霊的な賜物は7-10節に、その働き手については28-31節に記されています。「私たちの体には、頭があり、手があり、足があり、目があり、耳、様々な臓器があります。それぞれが大切です。見劣りするように思える部分、弱いと思える部分が大切なのです。(22節)

 

 2.一つの体(神との交わり、つながり)について

  「一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(13節)。一つの体とは、キリストの体である教会を意味しています。イエス・キリストを信じて、払いきれない罪の代価をすべて支払っていただき、神の子どもとしていただいた幸い、その幸いを感謝して歩むのです。

                          (久多良木和夫)

    

  1月19日() 新年聖会礼拝

          「この目で主を仰ぎ見る」        ヨブ記4216節 

           

 ヨブは主に苦しみの理由を問い続けた。彼が沈黙した時、主は沈黙を破り答えられた。彼こそ、主から問われていたのである。私たちも主に問うが、私たちこそ主より問われている。私たちこそ主のみ声を聞き、主に答える者である。ヨブはついに問いかけをやめた。それは、この目で主を仰ぎ見ることが出来たから。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し自分を退け、悔い改めます。」(5-6節)。 

 

 私たちも主を仰ぎ見ることができる今この時、そしてやがて主イエスにお会いする時の到来。これこそもう問うことの必要のない、主イエスの十字架の苦難と復活により知ることのできる大いなる永遠の喜びが、私たちにはあるではないか。

 

 私たちは、神が与えてくださった主イエス・キリストの内に、神からの全ての答えがあることを知るべきである。主イエス・キリストを知ることを私たちは努めよう。主イエスこそ、神がわたしたちに与えてくださった希望、信仰、愛のすべてであるから。

 

 私たちには復活と、主イエスが来られて、主イエスと共に私たちは引き上げられ、御国において父なる神と主イエスを仰ぎ見るという約束された目指すべき将来がある。この目指すべきものがあるからこそのホーリネス信仰である。主にお会いし、主を仰ぎ見るときのために、私たちはきよくあること、聖なる生活を求めるのである。

                   (熊本城東教会牧師 中村英之師)  

  

  1月26日() 聖日礼拝

         「ぶどう園の主人と農夫」   ルカによる福音書20章9-19節         

 

 主イエスが語られたぶどう園の主人と農夫のたとえ話です。主人は長い旅に出かけ、農夫にぶどう園を託します。主人の留守の期間が長くなり、農夫はいつの間にか、ぶどう園を自分のもののように考え、自分のものにしたいと思い違いをするようになりました。

 

 このぶどう園の主人とは天の神さまのことであり、農夫は直接的にはユダヤ教の指導者です。またユダヤ人や、私たちをも指しています。私たちそれぞれにも、自分に託されたものがあります。そのことを心に留め、感謝する者でありたいものです。

 

 農夫たちは、主人から送られた僕たちにひどいことをして追い返しました。最後に送られた主人の愛する息子を殺してしまいました。その息子は主イエスを指しています。何というひどいことをしてしまったのでしょう。

 

 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』(17節)。詩編103編22節の引用です。人々から捨てられ、十字架につけられ殺された主イエスは、ご自身の死を通して贖いの御業を成し遂げ、救いの土台を築いてくださいました。        

                          (久多良木和夫) 

 

 2月2日() 聖日礼拝

         復活にあずかる者     ルカによる福音書20章27-40節 

        

 永遠の命とは何でしょうか? 永遠に生きる命と答える人もいることでしょう。永遠の命とは、神2と共に生きることであり、復活の命です。主イエスの復活の勝利によって、私たちも復活の命をいただくことができます。

 

 復活を信じないサドカイ派の人たちは、主イエスに申命記25章の5-6節によって定められたレビラート婚での場合、復活が万が一あったとしたなら、混乱が起きるではないかと意地悪な質問をしました。

 

 主イエスは、「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」と答えられました(34-36節)

 

 サドカイ派の人たちの間違いは、この世のできごと、人間の思い、願い、欲望をそのまま、天の御国に当てはめようとしたことです。御国においては、この世のもろもろのことから解き放たれた者として、主と共に生きるのです。

 

 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」(38節)救いの契約を真実に守り続けてくださる神は、アブラハム、イサク、ヤコブ、そして主を信じる者すべてを顧みてくださる方であり、救いを与え、天の御国を用意して待っていてくださる方です。                                                            (久多良木和夫) 

 

 2月9日() 聖日礼拝

           「祈りの家」         マルコ福音書11章1525節 

   

 マルコ福音書のみ、いちじくの木の出来事の間に、宮清め(1518節)がある。そこに込められた意味の一つは「祈り」に関してである。 

    

  『祈りの家』 エルサレムの神殿の前で物の売り買いが行われていた。主イエスはその神殿に入られた時、ただ感情で怒ったのではなく、預言者イザヤの言葉(56:7)「わたしの家は、すべての国の人の 祈りの家と呼ばれるべきである。」(17節)と言い、正す道に導かれた。教会は「祈ることに熱心」となり、自分の私利私欲のためでなく主を礼拝するのを第一とする場所である。   

 

 『信じて祈る』 弟子のペトロが、主イエスが呪ったイチジクの木が、本当に枯れているのを見て報告した。それに対して主イエスは「神を信じなさい・・・少しも疑わず、・・祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(22-24節)と信じて祈ることの大切さを伝えたのである。疑わず、主に委ねて信じて祈ろう。 

 

『赦し合える力』 「だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。」(25節)と言われた。主の祈りでも「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く」と祈る。それは、主なる神が私たちの罪を赦すために、主イエスを十字架にかけてくださったから。私たちは主なる神から赦されたものとして、赦しの交わりをもっていこう。        

                           (後藤真英)

 

 2月16日() 聖日礼拝

         「終末のしるし」         ルカ福音書21章719節  

 

 オーストラリアの山火事、コロナウイルスの感染等、この世界はどうなってしまうのだろうか、また、自分に襲いかかって来る病気等でこの自分はどうなってしまうのだろうかととても心配になることがあります。

 

 主イエスは、「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」と語られました(16節)。2つのことを指していました。一つはエルサレム神殿が破壊されることであり、もう一つはこの世界の終末のことです。 

 

 そのことはいつ起きるのか、そのしるしは何かという質問に対して、主イエスは答えられました。エルサレム神殿は紀元70年に実際にユダヤ戦争の結果、ローマ軍によって破壊されました。世界の終末に対する恐れは現代に生きる多くの人たちにも恐れとしてあります。

  

 世界の終末のしるしとして、6つのことを告げられました。第1は偽キリストの出現、第2は戦争、暴動、民と民、国と国の敵対、第3は大きな地震、第4は飢饉、第5は疫病、第6はキリスト教会、クリスチャンへの迫害です。 

 

 「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(18-19節)。主を信じる私たちは、神のご支配、守りの中に置かれています。何という感謝でしょうか。「しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」(ヘブライ10:39)。主と共に忍耐すること、主に信頼して歩み続けること、このことが大事なことです。

                         (久多良木和夫) 

 

 2月23日() 聖日礼拝

         目を覚まして祈りなさい    ルカ福音書21章2938節  

  

  「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。」(25節)。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」(27節)

 

 主イエスが再臨の主として再び来られることが予告されています。

29節から38節までには、3つの幸いが記されています。

 

 第1は神の国です。「それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。」(31節)。終末の6つのしるし(8-12節)を見て慌てる必要はありません。神の国とは神のご支配を意味しており、神が最善をもってご支配してくださるからです。

 

 第2は神の言葉です。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(33節)。永遠に変わることのない神の御言葉を心に留め歩む者は幸いです。御言葉を握って神に従って行きましょう。

 

 第3は備えができるということです。「あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(36節)。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピの信徒への手紙4章4節)主にすべてを信頼して祈りましょう。平和の神は共にいてくださいます。

                         (久多良木和夫) 

                    

 3月1日() 聖日礼拝

         「主イエスの晩餐」          ルカ福音書22章723節         

 

 主イエスと弟子たちの最後の晩餐は、過越しの祭りの期間中でした。除酵祭とも呼ばれ酵母を入れないパンを食べました。その場所は、特別に用意されていました(12、13節)。    

       

 過越しの祭りは、過越しの出来事を記念して毎年お祝いされました。過越しは出エジプトを決定づけたものでした。傷のない小羊が屠られ、その命がとられ、その血を家の入口の鴨居と2本の柱に塗りました。そのことをしたイスラエルの民は、初子を滅ぼされずに済んだのです。

  

 主イエスは、12人の弟子たちとの別れが近づいていることをご存じでした。自分がいなくなった後、弟子たちを支える一番大切なことを用意してくださいました。それは罪を赦され、神の子どもとされ、永遠の命をいただくことです。

 

 主イエスは、ご自身の命を投げ出し犠牲にすることを通して、贖いの御業を成し遂げてくださろうとしておられました。その犠牲を通してあなたたちは生きなさいと語っておられます。

 

 主イエスは、パンを裂き「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」と言われました(19節)。ご自身の体に鞭を受け、手と足を釘づけられ、十字架の上で苦しんでくださいました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」20節)。主イエスは、十字架で血を流され、命を献げられました。

                        (久多良木和夫)

                     

 3月8日() 聖日礼拝

         「仕える者に」     ルカによる福音書22章24-30節        

 

 今年の私たちの教会のテーマは「交わり」です。交わりということにおいて「仕える」ということは大事な事柄です。

 

 主イエスの弟子たちの中でだれが一番偉いかということで議論が起きました(24節)。そのことを詳しく伝える箇所は、マルコ福音書10章35-45節です。ヤコブとヨハネが他の弟子たちを出し抜いて偉い位につきたいと願ったのです。そのことを知った他の10人の弟子たちは腹を立てたというのですから、皆、他の人たちより偉い位につきたい、仕えるよりも仕えられる人になりたいと願っていたのでした。

  

 「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」(26節)。主は仕える者になりなさいと語られました。 

 

  「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」(27節)。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ福音書10章45節)。主イエスご自身、仕える者になり、ご自身の命を私たちのために献げてくださいました。仕える者になってくださいました。                                                            (久多良木和夫)  

 

 3月15日() 聖日礼拝

      「あなたが立ち直ったら」  ルカによる福音書22章31-34節              

 

 新型コロナウィルス感染が流行する嵐が今、世界中で吹き荒れています。この嵐を乗り越えて、共に喜び合える日を待ちたいと思います。

  

 主イエスは、サタンのふるいかけにより弟子のペトロが信仰をなくす時があることを予告しました(31節)。しかし、同時にその信仰が立ち直る時が来ることも予告されました。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」(32節)。主イエスは、ペトロのために信仰が無くならにように祈られました。主は私たち一人一人のためにも祈ってくださっています。

 

 ペトロは、信仰をなくすことなど決してありませんと豪語しましたが、大祭司カイアファの中庭で、三度主イエスを知らない、関係ないと言い、主を見捨てました。主イエスは、復活の後にペトロに会い、三度わたしを愛しているかと尋ね、わたしの羊を飼いなさい、世話をしなさいと語られました(ヨハネ21:15-19)

 

 「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(32節)嵐が過ぎ去るのをじっと待つだけでなく、互いに思い合う、祈り合う、助け合うことをしたいと思います。信仰を回復した時、困難を克服した時、そのことを心より感謝して、自分を誇ったり、自慢したり、自分だけのことだけのために生きるのではなく、他の人を助け励まし歩む者でありたいと思います。                 

                          (久多良木和夫)

  

 3月22日() 聖日礼拝

         「子ろばに乗って」  マルコによる福音書11章1-11節          

 

 エルサレム入城のとき、主イエスの愛、慈しみを次のことから教えられます。①子ろばを連れてくるのに弟子を一人ではなく二人を使いに出されたこと。それは互いに助け合い、励まし合うため。前もって用意しておられたこと。主は先回りをして、持ち主との間に合言葉を決めておられました。③子ろばのそばに親ろば置かれていたこと。子ろばは落ち着き、初めてのつとめを果たしました。

 

 また二人の弟子からは次のことを学びます。「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」(3節)の主イエスのことばをしっかり握り、会ったこともない人から2頭のろばをただで貸してもらいました。また彼らは自分が着ていた上着を子ろばの上に掛けました。大事なものを主に捧げて役立ててもらいました。 

 

 田舎の村で大事に育てられた名もない子ろばは、平和の王を背中に乗せました。その時から500年以上も前に語られたゼカリヤ書9勝9節の預言が成就したのです。主は馬ではなく、弱々しく、まだ未熟な子ろばを用いられました。「すぐ、ここにお返しになります」とあるように、一定の期間が過ぎたら、その用は終わる時が来ます。

  

 主イエスが求めておられるのは、一時的な熱狂ではなく、一人一人が罪によって断絶された神さまとの交わりを、神さまとの平和を回復することです。生涯をかけて主を信頼し、従うことです。全人類の罪と死の解決のためにおいで下さった救い主を心にお迎えしましょう。 

                        (久多良木志津子)   

 

  3月29日() 聖日礼拝

      「わたしの願いではなく」  ルカによる福音書22章39-46節          

 

 私たちの生活を支えてくれている人たちに感謝したいと思います。介護、サービス業、医療、その他さまざまな仕事の方々がいます。現在の新型コロナウィルス感染者のために労してくださっている方々に感謝します。

 

 ゲッセマネの園において、主イエスと弟子たちは大きな違いがありました。主イエスは、これからやって来る嵐をご存じでした。それはご自身を飲み込む嵐であり、十字架での苦しみと死を意味していました。一方、弟子たちはその嵐に全く気付いていませんでした。その十字架は、弟子たちのためであり、私たちのためでした。その十字架にどう身を処すか、これこそ、ゲッセマネの祈りの重大な課題でした。

 

 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(42節)。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」(マタイ福音書26章42節)

  

 主イエスは、最終的に十字架への道を選び取ってくださいました。罪の全くないお方が、弟子たちのために、そして私たちのために、十字架への道を選び取ってくださり、そこで御血潮を流され、その命を献げてくださったのです。

                         (久多良木和夫) 

 

 4月5日() 聖日礼拝

       「大声で要求する声」    ルカ福音書23章13-25節       

 

 自分の考え、思い、願いは決して悪いことではない。ただし、それらはいつの間にか自分の益のことばかりになる傾向があります。

  

 総督ピラトのもとでの裁判で、そこに集まった人々の心の動き、心に潜む罪が見えてきます。祭司長、長老たちは、自分たちの伝統の宗教、受けていた尊敬を失わないために、群衆を説得して主イエスを有罪にしようとしました(マタイ27:20)。群衆は、5日前の日曜日、主イエスのエルサレム入城において、「ホサナ」と叫び歓迎しましたが、その中の多くは、自分たちの意に沿わないと感じ、「十字架につけろ」と叫びました。大声で要求し続けました(23節)

 

 ピラトは、主イエスに訴えるような犯罪は何も見つからず、罪は全くないことを見抜いていました。しかし、群衆がこの男を釈放するなら、ローマ皇帝に背くことになると脅迫しました。ピラトは自分の地位を失いたくないと思い、主イエスを有罪とし、彼らに引き渡しました(ヨハネ福音書19:12-16)

  

 祭司長、長老たちの罪、群衆の罪、ピラトの罪は、彼らの罪であると同時に、私たち自身の罪でもあります。

  

 主イエスは、この裁判においてひたすら沈黙を貫かれました。そして、主は私たちの罪を贖うために十字架に架かってくださいました。 

                        (久多良木和夫)

 

 4月12日() イースター礼拝

       「生きておられる方」   ルカによる福音書24章1-12節

            

 本日の聖書箇所は、主イエスが十字架につけられた金曜日から3日経った日曜日の出来事を伝えています。

 

 金曜日の日、主イエスは、自分を罵倒し、嘲笑う者たちを覚えて、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と執り成し祈られました(23:34)。

  

 香料を主イエスのご遺体に塗るため墓に出かけて行った婦人たちは、ご遺体がないことに驚きました。そこに現れたみ使いから、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」と言われました(5-6節)

 

 主イエスは、十字架の死の後、死を打ち破り復活されました。今、救いの主として主イエスは生きておられます。現在の厳しい状況の中で、以下の4つのことを大事にしましょう。 

①主イエスが共におられます。希望を失うことなく歩みましょう。 

自分自身への主の語りかけを聞きましょう。 

③この嵐を共に助け合い乗り越えましょう。

④いつか自分の生涯を主にお返しする時が来ます。その時のために永遠に目を向け、永遠の命をいただきましょう。

    (久多良木和夫) 

 

 4月19日() 聖日礼拝

        「エマオ途上の主イエス」   ルカ福音書24章13-35節            

 

 失意、落胆、不安と恐れ、私たちも時に持ちます。主イエスの弟子たちも、失意、落胆、不安、恐れを経験しました。

  

 主イエスの二人の弟子は、主イエスが十字架につられた金曜日から3日目の日曜日の夕方、エルサレムからエマオに向かってとぼとぼと歩いていました。

 

 主イエスと共に歩んでいたときは希望にあふれていました。でも、この時はその希望も完全にしぼんでいました。すべてが過去のことになっていました。

 

 エマオに着いて、主イエスが賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡された時、目が開け、主イエスだと分かりました。

  

 二人は語り合いました。 「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と(32節)

 

 途中、復活の主イエスは、聖書を解き明かされました。その時、弟子たちの心は燃えたのでした。心に、再び、希望の光が差し、生きる力が与えられたのです。

                          (久多良木和夫) 

 

 4月26日() 聖日礼拝

       「平和があるように」     ルカ福音書24章36-49節            

 

 主イエスの弟子たちの心を占めたものは恐れでした。彼らは、多数派であり体制派のユダヤ人を恐れました。自分たちも主イエスのようにとらえられてしまうのではないかと恐れたのでした。それで、入り口の戸に鍵をかけて息をひそめていました。

  

 そしてもっと深い恐れをいだいていました。それは神への恐れです。主イエスを見捨てて逃げてしまった自分たちに神はどれほど怒りを抱かれているだろう、神が自分たちに裁きを下されるのではないかと恐れていました。 

 

 その家の中に復活の主イエスが入って来られました。イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(36節)。「やすかれ」(ヨハネ20:19口語訳)。「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ20:19新改訳)。 

  

 復活の主のメッセージは、神からの赦しであり、神からの愛でした。神が共にあって守り、助け、導いてくださるという約束でした。

 

 あなたの内に、深いところの恐れはないでしょうか。いつか難しい病に取りつかれるのではないか、必ずやって来る人生の終わりに自分は大丈夫だろうか、今までの歩みにおける過ち、咎に対しての裁きはないだろうかという恐れです。

 

 「平和があるように」と主は、今、あなたに語りかけておられます。                                                            (久多良木和夫) 

 

 5月3日() 聖日礼拝

         「流れのほとりの木」        詩編1編1-6節

 

★幸いなことについて2つのことが記されています。

 ①そのように歩まないように

1節「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者  の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず」 

 1)神に逆らう者の計らいに従って歩まないように

 2)罪ある者の道にとどまらないように

 3)傲慢な者と共に座らないように

★悲しい結末

○4-6節 「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。 

神に逆らう者は裁きに堪えず 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。神に 

従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。」 

 

 もみ殻とは、実を結ばないことであり、吹き飛ばされ、捨てられてしまうこと 

を意味します。恐れと不安、疑心暗鬼、自分の殻に閉じこもる、自由がないことです。人生の秋にみじめさ、後悔、悔い、落胆、失望、恐れに包まれ、人生の最期の時、ああもうダメだ、おしまいだとなることです。そうならないようにと主は、私たちに御手を伸ばしてくださっています。

 

そのように歩むように

○2-3節「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」

○新改訳1:3 「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」

 

 主の教えに心を向け、主を畏れ、主を見上げる人は幸いです。主の語りかけを聞こうとする 心の耳を傾けるのです。

 

○エレミヤ17:7-8にも、「 祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り 暑さが襲うのを見ることなく その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく実を結ぶことをやめない。」とあります。 

 

 主に信頼する者には、暑さが襲ってきても、葉は青々とし、干ばつの年にも実を結び続けます。主イエスにつながって生きる者は、救いの恵みをいただいて生きます。実を豊かに結ぶとの約束がここにあります。

 

 この世の教えを第1とし、主の教えを捨ててしまう、主の教え、語り掛けを聞くことをしないで過ごしてしまうことがないようにと、そして主の教えを第1とする、すなわち主の教えを愛し、口ずさむようにと勧められています。

 

  お金がもうかる、事業が成功する、名声を博する、財産をたくさん積む、やることなすことすべてうまくいくということではなく、希望を持ち続ける、生きる力をいただくのです。順風の時も逆風の時も、寄り頼む方がおられます。主は共にいてくださいます。主は決して見捨てません。最期の時にも主に信頼し、主にゆだね、御国を待ち望み、御国へと移っていくのです。

 

★「流れのほとりの木」

 主に聞き従い、繋がって生きる、歩む幸いを受け取りましょう。

 主は、大きな愛をもって、私たちの木が、あなたという木が枯れないように支えて下さいます。青々と葉を茂らせてくださいます。実を結ぶものにして下さいます。その恵みを確かに頂いて、いただき続けていきましょう。 ハレルヤ!

                        久多良木和夫

                                

 5月10日() 母の日聖日礼拝

         「救いは主のもとにあり」             詩編3編1-9節 

 

 ☆頭が下る 

 病気、難しい問題を抱え込むと頭が下ります。元気がなくなり顔が下を向きます。今、世界は新型コロナという病気との戦いで、頭を抱え込んでいます。先が見えない これからどうなるのだろうか、自分に、自分の家族にやってきたらどうしようかという心配があるからです。   

 問題が解決することが一番良いのですが、すぐには解決しないかもしれなません、解決までに年月を要することもあります。ずっと解決せず、その問題、課題とずっと付き合わないといけない場合もあります。

 すると、一生、頭をたれ かしら(頭)、こうべ(首、頭)を垂れていなければならないのでしょうか、どう、向き合ったら良いのでしょうか。

 

☆「救いは主のもとにあり」

  解決の道、出口は主によって備えられています。ですからたとえ、出口が見えない時にも、頭を上げることができるのです。

 

☆本日は「母の日」

 5月第2の日曜日、存命の母、他界した母を覚え、母への感謝をささげましょう。母の思い出 母を覚え、思い出し、感謝を捧げたいものです。

 

○1-3節 

 3:1 【賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子 アブサロムを逃れたとき。】 

 3:2 主よ、わたしを苦しめる者はどこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい

 3:3 多くの者がわたしに言います 「彼に神の救いなどあるものか」と。

  

☆ダビデ自身の苦しみ、苦悩

 イスラエルの王であったダビデは、自分の息子の一人であるアブサロムの反逆にあいます。

 

★アブサロムの反逆

 ○サムエル下15:1-16

 15:14 ダビデは、自分と共にエルサレムにいる家臣全員に言った。「直ちに 逃れよう。アブサロムを避けられなくなってはいけない。我々が急がなければ、アブサロムがすぐに我々に追いつき、危害を与え、この都を剣にかけるだろう。」

 

 アブサロムが自分の王位を奪い取ろうとしている、それで、ダビデは、家臣たちと逃げ出さねばなりませんでした。なんというみじめさでしょう。アブサロムの裏切り、反逆により悲しみ、苦悩を経験しました。

 

 私たちにも、自分を苦しめる者の存在が時に現れます。嫌なことを言う、自分を追い込む、苦しめる、そのことで、苦しむことがあります。いじめを受ける、四面楚歌となる、敵に囲まれる。追いつめられ、どうしたら良いのかわからなくなる、絶体絶命となる、出口は塞がれ、もうダメだという思いになることがあります。

 

☆どうしたら良いのか

 助けはどこにもないのか、絶望、希望はないのか、そうではありません。

 

○3-9節

3:4 主よ、それでも あなたはわたしの盾、わたしの栄え わたしの頭を高くあげてくださる方。

3:5 主に向かって声をあげれば 聖なる山から答えてくださいます。〔セラ

3:6 身を横たえて眠り わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。

3:7 いかに多くの民に包囲されても 決して恐れません。

3:8 主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち 神に逆らう者の歯を砕いてください。

3:9 救いは主のもとにあります。あなたの祝福が あなたの民の上にありますように。

 

 私の助けはどこから来るのか、このまま、沈んでしまいたくない。その時にこそ、主に助けを求めましょう。 

 主ご自身が私の盾となってくださいます。私の栄えとなってくださいます。主があなたの頭を上げてくださり、支えてくださいます。恐れを消してくださいます。

 主が、あなたを助けてくださいます。あなたを理解し、受けとめてくださり、励ましてくださいます。

 

☆母の存在

 母の日の由来 

 190559、アンナ・ジャーヴィス(18641948年)の母アン・ジャーヴィス(18321905年)が天に召されました。アンは10人の子どものうち8人の子どもを病気や戦争で亡くしたとのことです。残った2人の子どもの一人がアンナです。主イエスを信じ救いに与ったアンは、毎日曜日、教会での礼拝を捧げました。また教会学校の教師の奉仕を26年間したとのことです。そのアンが召されて2年後に彼女の記念礼拝が開かれた時、娘のアンナは母が大好きだったカーネーションを飾ったのでした。さらに1年後、たくさんの教え子とその親たちが集まっての記念会にアンナは赤いカーネーションを一人一人に手渡しました。このことがきっかけとなり、5月第2日曜が母の日と定められ、世界中に広まったのでした。

 

 母親は、自分の子どもの強さだけでなく弱さを知り、受け止めてくれます。陰ながら応援してくれ支えてくれます。

 

 すべての母親がそうとは決して言えないでしょう。人によっては、自分をあまり理解してくれなかった。ほとんど理解してくれなかったという人もいることでしょう。

 

 自分を受け止めてくれた母との出来事、遠い過去の事柄の中で、母の優しさを思い出すときに、励ましを受け、感謝があふれます。

 

☆今、自分が置かれている状況 

 今、自分は非常に厳しい中にある、敵に囲まれ 味方がいない、出口が見つからないという中にあるかもしれません。どうしたら良いのでしょうか、どこに助けを求めたら良いのでしょうか?

  

○詩編121:1-2 

121:1 【都に上る歌。】目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。

121:2 わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。

 

 私の助けは来るのです。天地を造られた主よりくるのです。

  創造主なる神は、私たちに必要なものを備え与えてくださっています。神は、天地万物だけでなく、主イエスをお遣わしくださいました。主イエスによる十字架と復活、そしてペンテコステの日に注ぎ与えられた聖霊を通して、私たちに救いを与えてくださいました。その主が,あなたを助け、支えてくださるのです。

 

○ローマ8:31-34

8:31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。

8:32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。 

8:33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。

8:34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです

 

 神は、主イエスを通して私たちの味方となってくださいました。あなたの味方となってくださったのです。主イエスは、私たちのためにとりなし祈ってくださっているのです。なんという感謝でしょう。

 

☆あのフィリピの看守 

 使徒言行録16章25-34節に記されているように、フィリピの町の看守は、パウロとシラスが牢の中に投げ込まれた日の夜の大地震で、囚人たちが逃げ出してしまったと思い、自分の責任が問われるならばとても耐えられないと考え命を絶とうとしました。しかしパウロとシラスに止められました。彼が救いの道を求めた時、二人は告げました。

 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます(31節)。 看守は、その夜、家族ともども主イエスを信じ救われ、絶望から希望と喜びに変えられました。 

 

☆「救いは主のもとにあり」 

 希望がすべて消えてしまうような出来事、はや絶体絶命、もうダメだと思わせられる状況に身を置くことがあるかもしれません。その時にこそ、その中で、主を見上げましょう。

 

 主の救いを受け取っておられない方は、この時に受け取らせていただきましょう。

 主の救いをかつて受け取った。しかしその主を遠くにおいて、自分だけの力で歩んできた人は、この主を近くに置きましょう。この主に、新たに近づきましょう。

  主の救いに与り、そのことを感謝して、主と共に歩んできた人、でも今大変さの中にあるかもしれません。その大変さの中で、さらに主に近づきましょう。

 

 主のご支配、主の助けをもっともっと確かなものとして経験させていただきましょう。

 

 救いは主のもとにあります。主の救いを確かにいただくことができるのです。

                          (久多良木和夫)   

 

 5月17日() 聖日礼拝

         「主が御心にとめてくださる」    詩編8編1-10節

 

 ☆心をとめてもらうこと

 誰かが自分のことを心にとめてくれていると嬉しいし、大きな励ましとなります。教会花壇の花も、見てくれる人がいる、きれいだなあと声をかけてくれる人がいる、世話をしてくれる人がいるとますます元気になります。

 花も人もたくましい、でもそれだけでは、持ちません。たくましく見えても弱さを持っているからです。弱り切るとき、どうしようもなく寂しくなるとき、自分の存在価値はあるのかと思ってしまうときがあります。そのようなときに、自分一人ではないのだ、自分を覚えてくれている人がいるのだ、自分の存在価値を見続け、応援してくれている人がいるのだと分かると大きな支えとなります。

 それでも限界がある。なぜなら、自分を特別に愛してくれていた人、頼りにしていた人が、年を取って先に天に帰ってしまうこともあります。その頼りにしていた人自身もいろいろなことで手一杯の時もあります。その人も、弱り果て、力を失うことがあります。かつてのようには動けない、働けない、弱ってしまうこともあるからです。また、自分が思い描いた通りでないこともあるからです。時には、裏切られるようなこともあるかもしれません。

 

☆「主が御心をとめてくださる」 

 主が御心にかけてくださっていてくださるとは、何という驚き、何という感謝でしょう。主のご支配が、私たちに、この私に及んでいるのです。特別な愛、変わることのない愛、真実な愛注がれているのです。

 

○2-4節  

8:2 主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く 全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます。

8:3 幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き 報復する敵を絶ち滅ぼされます。

 8:4 あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。

 

○10節

8:10 主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く 全地に満ちていることでしょう。

 

神のご支配、その栄光

 主ご自身の御名とは、主の主権、ご支配、栄光、その力、威厳を意味しています。その主の御名は、全地に満ちています。この地球という星は、創造主なる神によって備えられたものです。きれいな海、 空、山、川、そこに魚が、動物がおり、木々が、作物があります。月、星、太陽、特に太陽により、光、輝き、きれいな色、花、景色を見ることができます。そこにある美味しい水、空気、おいしい食べ物、暖かい太陽の光、天からの雨、私たちが生きるために必要なすべてが満ちています。

 

 主なる神は、それらのものを創造し、私たちがそれを感謝して味わい、喜び、生きるようにしてくださっています。備え与えられている良きものを感謝したい、神を崇めたい、神に感謝しましょう。

  

☆その良きものを託された私たち人間   

 この地球を、この世界を、そこにあるすべてを、そこに生きるすべての生き物を私たち人間は神から託されました。

 

○創世記1:26-30

1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。 1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。

1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。

 

☆創造の御業

 神は、第6日目に家畜、這うもの、地の獣を創造されました。その前日の第5日目には、水の中の生き物、空の鳥も創造されました。

  この第6日目に、人間が創造されたのです。

 

☆私たち人間は特別のものとして創造された

 私たち人間は、特別な存在として、神のかたちに似せて造られました。

その意味することは。神との交わりに生きるということです。神に生かされて、

内に命をいただき、与えられているものを喜ぶようにです。

相手を互いに愛し、喜ぶ、相手と良いものを分かち合う、相手を認める。重んじる、相手と共に生きるようにと創造されたのです。 

  

○5‐9節 

8:5 そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは。 8:6 神に僅かに劣るものとして人を造り なお、栄光と威光を冠としていただかせ  8:7 御手によって造られたものをすべて治めるように その足もとに置かれました。 

8:8 羊も牛も、野の獣も  8:9 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。

 

 主は私たち人間に、地上にあるすべてを支配するように託されました。それは、自分たちの勝手、都合でどのようにしても良いという意味ではありません。それぞれがいきいきと生きていけるように、末永く生きていけるようにすることです。それは、私たち人間に託された大いなる特権、栄誉です。管理者として、よく支配するようにとのことです。

 

☆罪に陥った人間

 罪に陥ったアダムとエバはエデンの園から追放されました。

 人間は、神に背を向けて歩むようになりました。

 

☆人間(私たち)の陥ったこと 

 争い、いがみ合い、戦争が絶えなくなりました。敵の家を、町を破壊します。

 他の人の良いもの 命、尊厳、財産、権利、を奪い合い取ります。きれいな山、海、川、・・を破壊します。地球資源を良いものを少しでも多く、自分たちが、自分たちの国が手にしようと策動します。

 自分が上に立とう、上に君臨しよう、自分の国が他の国々を支配しよう、自分の思うままに動かそうとします。

 大気汚染、海洋汚染、原発事故による放射能汚染、地球温暖化。

 権力にしがみつく、 中国、ロシア、アメリカ、北朝鮮、 日本も例外ではありません。自分が良ければ、自分たち限られた者たちが良ければよい、その体制維持のためならば何でもする、どんな汚い方法でも使う。

 

☆行き詰まり

 そのような歩みの結果、行き詰り、生きていけない世界になりました。自分の首を絞めることになりました。責任は私たち人間にあります。今。その責任を問われています。でもその責任を取れないのです。

 迷路に入り込み、出口が分からない、解決の方法が分からない、堂々巡りし、糸がますますこんがらがってきます。現代世界が抱える大きな課題であり、行き詰りの現実です。先が見えず、ますます大変になっていきます。 

 

☆神の憐れみと顧み     

○ヘブライ2:6-10

2:6 ある個所で、次のようにはっきり証しされています。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。 2:7 あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、 2:8 すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。 2:9 ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。  2:10というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。

 

 神は、行き詰っている私たちに、御手を伸ばしてくださっています。見捨てず

預言者を遣わされました。御言葉を与えてくださいました。そして、救い主イエスをお遣わしくださいました。この方を救い主として受け入れよと語りかけておられます。この主なる神のご支配のもとにあって生きよと語りかけておられます。

  神の憐れみがなければ、滅びる者、当然滅び去ってもおかしくなかった者に対して主は憐れみを注いでくださいました。  

主が御心をかけてくださっています。主の憐れみが注がれています。主の愛が注がれています。

 この地上で生かされている今この時、主に立ち返り、主の愛を受け止めましょう。主イエスによる罪の赦し、神の子どもとしての特権をいただき、主につながって生きる者となりましょう。 

 

 生まれながらの力だけでは限界があります。それどころか間違った方向へ進んでしまい、ますます迷路に迷い込みます。主と共に歩み、主がこの自分を愛し、守って下さっている、今日まで生かしてくださった、その主に感謝しつつ、主を崇めつつ、生きましょう。

 真の生ける主、愛の主、力の主、祝福の主を崇めつつ、御言葉に聞きつつ、祈りを捧げつつ歩んで行きましょう。

 

☆「主が御心にとめてくださる」 

○5節

 8:5 そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは。

 主があなたを、あなたの家族を顧みていてくださっています。主は愛を注ぎ、憐れみを注いでいてくださっています。私やあなたが自分勝手に歩んでいたときも、主を忘れて歩んでいたときにも、主から遠く離れて歩んでいたときにも、主は御心にとめてくださっていました。

  主がこの私を、あなたを今までも愛してくださいました。今も、これからもあなたを愛しくださいます。この愛の主に立ち返りましょう。  この愛の主と共に歩んでいきましょう。

                         (久多良木和夫)

 

 5月24日() 聖日礼拝

         「天に上げられたイエス」     使徒言行録1:1-11 

 1節にわたしは先に第一巻を著してとあります。この書はルカ福音書に続いて第2弾として医者のルカが書いたものと言われています。パウロが病気のとき、世話をしてくれたのが医者ルカであり、投獄されたとき助けてくれたのもこのルカです。ルカの方はパウロの信仰から大きな刺激、恵みを受け、この2つの書を書いたのです。

 

 今日の箇所を読むと、神さまは主イエスの弟子集団に対して本当に豊かなご愛を示しておられるのがわかります。そして今も変わらず、私たちを守り愛してくださっていることを知ることができます。

 

 今年は4月12日にイースター礼拝を捧げてから40日目は5月21日、先週の木曜日でした。昇天日として世界のキリスト教会の暦に記されています。

 

 世界の教会のおよそ2000年の歴史は、一つところに人々が集まり礼拝を捧げてきた歴史でありますが、人々が集まらないようにしなければならなかった時が何度かあり、今年もその一つとなりました。このような特別な時を迎えて、教会について、キリスト教信仰について、改めて真に大切なことを問い、考えさせられます。

  今朝、3つのことを共に学びたいと思います。

 

☆第一 復活された主イエスが天に上げられた場所について

 すべての人は、私たちは、どこかで生まれ、どこかで死ぬ、生まれる場所、死ぬ場所があるわけですが、死んで復活なさったイエスはベツレヘムで生まれ、エルサレムで死に、復活されました。そして四十日にわたって弟子たち現れ、神の国について話されました。さらに、もう一つの場所があります、天に昇って行かれた場所です。

 

 ルカ福音書と同じ著者ルカは、ルカによる福音書の最後に「ベタニアの辺り」と記しています。ルカ24:50「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。」 ベタニアはエルサレムの南東約3キロ、オリブ山の東の麓です。

 

 主イエスのみが天に昇って行かれた場所があるということ、それゆえ主イエスのみが、もう一度来られることを私たちは思うことができます。その時は、全世界同時です。時間、時代という縦の軸も、地球という横の軸も同時にその時が来ます。

 

 ルカ24:51では、「主はかれらを祝福しながら離れ、天に上げられた」とあります。何と素晴らしいのでしょう。ですから、今度主がこの地上に来られる時には、このときのように人々を愛し、この世界を愛して、祝福しながら、おいでになるのです。その時私たち一人ひとりが、まだ生きた肉の体か霊の体かはわかりませんが。

 

 Ⅰテサロニケ4:16-17「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活しそれから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」と。

 

いつまでも主と共にいる、その時を私たちは待ち望んでいます。

 

☆第二 復活された主イエスの最後のメッセージ

 もうすぐこの地上を離れようとしている時に、主イエスが弟子たちに伝えられた最も大切なことを見ましょう

 

 イエス様が、弟子たちとの食事の時に弟子たちに言われたこと、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」(4節)

 

 弟子たちにとってエルサレムから離れるなとは、ガリラヤでの前の生活に戻るな、キリストの弟子であることをやめるな、聖霊が真の導き手に、教師になって下さることを待っていなさい、ということ。また、エルサレムは弟子達が主を裏切った場所、大失敗をした場所、それを知っている人々がたくさんいるところ、しかも主を捕らえた人々がいる恐ろしい所でもありました。主は「そこから離れるな、父の約束されたもの、聖霊、を待ちなさい」と言われました。弟子たち、そして私たちにしてみれば、そこがマイナスと思われる場所でも、神さまがご計画を行なっていかれる所であれば、そこにとどまれということではないでしょうか。聖霊が降り、聖霊が働かれるのを待つのです。

 

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(8節)

 

 この弟子たちへの最後の言葉は、復活の主の宣教命令です、使徒言行録の主題、中心です。

 

 続く使徒言行録に書かれている内容は、「エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、ローマ、への福音伝道のことです。 (サマリヤは異邦人の土地、ローマは地の果てとされていた)そこに、弟子たち、信仰者たちによって、主イエスの十字架と復活の出来事が、神の救いの恵みが伝えられていった記録です。

 

 弟子たちが聖霊を与えられ、聖霊の働きによって、各地に教会が建てられていく様子を読むことができます。世界に福音が伝えられ、今の私たちに至っています。

 

 今の時代までずっと、「あなた方が証人となる」「あなた方を通して神の国が建てられていく」と。聖書を通して語り続けられています。

 あなたが、私が証人であり、あなた、わたしを通して神の国が建てられていくのです。私たちの周りに神の国が建てられていくのです。

  

☆第三 現れた二人の天使のこと 

 「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(11節)

 

 天を見つめていた弟子たちは、「これで終了した、せっかく主はよみがえられ、共に過ごされ、食事も共にしたのに」と、天を見つめて立ちすくんでいました。主なる神は助け主、聖霊を彼らのところに送ってくださるその前に、白い衣を着た二人の天使を送られました。素晴らしい神さまの計らいです。天使は本当にタイミングよく人を助ける存在です。

 

天使はこういいました「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」

 

 「ガリラヤの人たち」は、主の宣教の初めから弟子になって、主から教えを受け、主についてきた人たちです。仕事も、家族もガリラヤにおいて。その弟子たちは今後どう生きていったら良いのかと茫然としていました。まだ聖霊の恵みを知らず、弱々しい信仰でした。その時、神さまが天使の口を通して告げ、教えて下さったのです。主イエスはまたおいでになる、と。

 

 この文章を書いたルカ、そしてルカがお世話をしたパウロも、2000年後に生きている私たちも「またおいでになる」と約束された方を迎えていませんが、必ずその時がきます。

 

 いろいろなことが周りに起きて、その時代が大きく変化しても、変わらない方はイエスキリストです。このお方が、私たちを祝福しようとしてまたおいでになるのです。

 

 私たちには心を神さまに向けること、神に対する信仰こそが必要なのです。聖霊によって信仰を与えてくださる主に祈りましょう。

 

聖霊の時代に生きることを神さまから許された私たちです、聖霊による洗礼を受け、聖霊の導きをいただいて歩み、主をお待ちしましょう。

                        (久多良木志津子) 

 

 5月31日() ペンテコステ聖日礼拝

          「聖霊が降る」       使徒言行録2章1-13節

  

◇初めに  

   ☆ペンテコステの日 「ペンテコステおめでとう」

    教会の三大お祝い

     1)クリスマス  聖降誕

     2)イースター  復活祭

     3)ペンテコステ 聖霊降臨  

 

◇聖書

 ☆ペンテコステ

  神さまの愛、それは、真実の愛です。確かな愛、責任をもって私たちを守り導く愛です。神は、良きものを与えてくださっています。

 

その良きものに気が付くために、私たちの人生はある。それを心にとめ、主に感謝し、主を賛美するためにある。私たちの人生は、主の御心を聞きつつ歩むためにある。

 

 この世界に生きて、良きものは数えきれないほどいただいている。自然界の恵み、 この命、 つながる家族、・・

 

 そして、主は、私たちに2つの一番良いものを与えてくだった。それは、第1に救い主なるイエス様、第2に助け主なる聖霊です。

 

 ☆ペンテコステの日に起きた出来事

  ペンテコステとは、50日目を意味するギリシャ語です。過越しの祭りから50日目です。過越しの祭りの最中に主イエスは捕らえれ、十字架刑に処せられました。その十字架の死から50日目と考えても良い。

 

 十字架の死から3日目に主イエスは復活されました。復活の主は、弟子たちに現れ40日間、弟子たちと共に歩まれました。そして、天に帰って行かれました。それから10日目に聖霊が弟子たちの上に降ったのです。

 

 〇使徒言行録2章1-4節 

2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

  

☆聖霊を注ぎ与えるとの約束

○ヨエル書3章1-2節   

「その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは 奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」

 

○新改訳(2章28-29節)

「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」

 

預言者ヨエルを通して、聖霊降臨の出来事の数百年前に、前もっての預言されていました。すべての人に、主の霊を注ぐという約束です。 

  

○ルカ福音書24章47-49節 

「また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 

 主イエスの約束の言葉がここにあります。

 

○使徒言行録1章4-5節

「そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」  待ちなさいとのご命令でした。

  

☆聖霊の約束を信じて祈り待つ

○使徒言行録1章12-15節

「使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。」

 

 弟子たちは、主イエスの約束を信じて、集まって熱心に祈り待ちました。主は弟子たちの信仰、祈りに応えてくださいました。

 

☆聖霊が注ぎ与えられた。その意味は、

〇エフェソ1章13-14節

あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」

 

 聖霊の証印とは、主のもの、主につながる者、主の子ども、主の弟子、救いに与った者としての証明です。それは誰も消せないのです。

 そして、聖霊は、御国を受け継ぐ者としての保証となってくださる方です。

 

○テモテ二1章6-7節

 「そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられてい る神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」

 

○新改訳

 「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」

 

   いろいろなことで、恐れを抱き、内に引きこもり、臆病になってしまう私たちです。しかし、臆病にならなくて良いのです。力と愛と思慮分別(慎み)の恵みが与えられるのです。

 

○使徒言行録1章8節

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 

聖霊が注ぎ与えられてことを通して、主の弟子としての力を受けることができるのです。主をほめたたえる、主と共に歩む、そして主を証しする。そのために力を聖霊なる神は与えてくださいます。

                       (久多良木和夫)

 

 6月7日() 聖日礼拝

           「預言、幻、夢」      使徒言行録2章14-21節

  

☆新たな出発

 第1歩、その歩み出しは大きな感謝です。でもその第1歩をどう踏み出すか? 踏み出さねばと思いつつも、容易ではない。それがあまりにも大変な問題、難しい問題で、それを解決する力がないからです。不安があり、恐れがあるからです。

 

☆主は、私たちをご存じである

 主は、私たちに何が足りないか、何が必要かをご存じです。

聖霊降臨の出来事を通して、弟子たちは姿変わりをしました。内に満ちる力を感じました。

 

 ペトロは、立ち上がり、自分たちは、酒に酔っているのではなく、神の大いなる恵みを受けて、大胆に、確信に満ち、喜びにあふれて神の偉大な業を語っていると語りました。

 

 ☆人生における最大の不安

  自分の力で対処できないことが起きたときに、自分は大丈夫だろうか? 自分の力が乏しくなり衰えてしまう時が来たとき、大丈夫だろうか。そして、必ずやって来る人生の終わりが近づいた時、どうしたら良いのだろうか?と。大変な時がやって来たときに、自分に確かさを求めるのは無理があります。

 

 確かな方がそばにおられる、共におられることこそ大きな力です、その方が、必要な助けを与えてくださるからです。

  

 「上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』」(19-21節)

 

 呼び求めることのできる方がおられます、それは、天の神さま、イエス様、聖霊なる神さまです。主なる神さまです。主が応えてくださいます。共にいてくださいます。必要を満たしてくださいます。平安を与えてくださいます。希望を与えてくださいます。なんという安心、感謝なことでしょう。確かさは主のもとにあるからです。その主に支えていただき、歩み続けるのです。

  

〇16-18節

 2:16 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。 2:17 『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。 2:18 わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

  

「その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。わたしは 奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」(ヨエル書3:1-2)

 

「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。(新改訳 ヨエル書2:28-29)

  

①預言

  ・息子、娘は預言をするのです。

  預言とは、神からの言葉をいただくことです。神の御言葉を心にとめ、語り掛けを受け止めるのです。その素晴らしさを知り、生かされ、その恵みを伝えるのです。

 

 主は自分に対して、かつても、今も、そして将来も語り掛けてくださっている。 主の御言葉だけは、たとえ天地が滅んでも永遠に残ります。

  

 今、世界中で聞かれている歌と動画があります。Rinascerò, rinascerai(僕は復活し、君も復活する)ということばが繰り返されています。そしてこのことばを掲げた医療従事者や住民の顔が映っています。

 

 この舞台は、北イタリアのミラノから北東40㎞、アルプスのふもとイタリア・ルネッサンスの雰囲気を残す世界歴史遺産の町ベルガモ(人口12万人)です。美しい街並みとアルプスが映されています。この歌を作ったRoby Facchinettiはこの町の出身者で、著作権はベルガモ市民病院に寄付され、Youtubeの再生のたびに、広告、著作権など、すべての収入が医療崩壊を救うための寄付金となるとのことです。一回でも多く再生して広げていただくことが、現地支援になるようです。この戦いを戦い抜こう。希望を捨てないでと語りかけられています。

 

 主はすべてを支配しておられます。私たちは、その主から力を受けて歩んで行けるのです。

  

  ・若者は幻を見る。

  幻とは、ヴィジョンのことであり、こうであったら良いなあというヴィジョンです。今は、大きな岩に阻まれている、動かすこともできない。先が見えない、前に進めない、希望が持てない状況がいろいろあります。この世界にあるさまざまな問題、環境破壊、 力と力の衝突、力による強引な支配、抑圧、貧困、飢餓・・

 

 希望が持てない中にあっても、希望を見つつ、歩むことができるのです。主の御心はここにある。この現状のままで良いことはないと主の御心を求めつつ、進むのです。主がその歩みを助けて導いてくださいます。

  

◇黒人男性死亡 アメリカ抗議デモ

  アメリカで、黒人男性が白人の警察官に押さえつけられて死亡した事件を受けて、抗議デモが収束する見通しは立っていません。各地で抗議デモが続いています。

 

 1863年に第16代大統領エイブラハム・リンカーンが「奴隷解放宣言」を出し、南北戦争で、北軍が戦いに勝ちます。やがて奴隷制度は廃止されますが、その後も南部の一部の州などでは黒人の権利が制限されてきたのです。

 

 1963年8月28日、職と自由を求めた「ワシントン大行進」の一環として25万人近い人々がワシントンDCに集結しました。デモ参加者たちは、ワシン トン記念塔からリンカーン記念堂まで行進し、そこですべての社会階層の人々が、公民権と、皮膚の色や出身などに関係なくあらゆる市民を対象とした平等な保護を求めました。

 

 マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師はワシントン行進の群衆に「私には夢がある」という歴史的な演説を行いました。「私には夢がある」(I Have a Dream)の演説は、独立宣言にも盛り込まれている「すべての人間は平等に造られている」という理念を網羅するもので、あらゆる民族、あらゆる出身のすべての人々に自由と民主主義を求めるキングのメッセージは、米国公民権運動の中で記念碑的な言葉として記憶されることとなりました。

 

 「100年前、ある偉大な米国民が、奴隷解放宣言に署名した。

 

しかし100年を経た今日、黒人は依然として自由ではない。・・・

 

私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。

 

今日、私には夢がある。・・・

 私には夢がある。それは、いつの日か、あらゆる谷が高められ、あらゆる丘と山は低められ、でこぼこした所は平らにならされ、曲がった道がまっすぐにされ、そして神の栄光が啓示され、生きとし生けるものがその栄光を共に見ることになるという夢である。・・・  」

 

 その夢とは、そうなることを願うヴィジョンです。

 幻とは、ヴィジョンであり、幸いな夢です。そして、それに向かって進むのです。

  

③夢

・老人は夢を見る。

 

 人生の最終段階においても、なお、喜びと感謝があるのです。人生の途中において、年を重ねるごとにも夢を持つことできるのです。

 

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。(コヘレトの言葉12章1節)。

 

 主にあって、喜びがある。感謝がある。

  

 人生の終わりに、自分の人生は何だったのか、何の意味があったのかではなく、人生には意味があった、守られ、生かされた、主は共にいてくださったと感謝するのです。

 

 今までの人生の歩みを振り返り、思い通りにいかなかったことに対しては、主にそのことを申し上げるのです。そして主により正していただき歩み続けるのです。 

  後に続く者たち、若い人たちのためにとりなし祈るのです。

  残り少ない日々を心にとめつつ、天国への希望を心にとめつつ歩むことができるのです。  ハレルヤ!  

                         (久多良木和夫)

                      

  6月14日() 聖日礼拝

            「神はこのイエスを」    使徒言行録2章22-31節 

  

☆今、この私は

  今、この私は生きている、生かされている、このことに取り組んでいる、このことが与えられている。そこに小さな感謝を見いだせたなら幸いです。

 

 忙しくしていて、そのように考えることもない時もあります。他の人が気になり、そのことに心が向かない時もあります。自分を取り巻く環境は、置かれている状況は、大変だ、厳しい、難しい。また、他の人は、この私をこう評価した、ああ評価した、評価しなかった。無視した・・と、周りの環境、状況、他の人に時に引っ張られることがあります。それは、仕方ない部分も多いことですが、それにいつも引っ張られていたら残念なことです。。

 

 ☆主イエスの弟子たちは

 弟子たちが、主イエスと共に歩んだ日々は、およそ3年の間でした。主イエスの御業、奇跡を目の当たりに見た日々、語られるメッセージをそばで聞いた日々、その時には、大きな感動、喜び、希望を感じました。しかし、主イエスの十字架、そして死の時には、大きな悲しみを経験し、心が張り裂け、失意落胆、絶望しました。

 そして、主イエスの復活の時には、大きな驚き、希望を持ったことでしょう。

  復活の主イエスと共に40日間の喜びの日々、やがて主イエスは昇天し天に帰って行かれ、弟子たちは再び、不安の中に置かれました。

 

 祈り待つ弟子たちに聖霊降臨の出来事が起きます。弟子たちの上に聖霊が降り、預言、幻、夢を与えられ、主の弟子としての力、主の証人としての力に満たされました。

 

 弟子たちも揺り動かされました。しかし最終的に助けと励ましと希望が与えられました。弟子たちは、聖霊に満たされ、喜びに満ち、大胆に語り出しました。。

 

☆ペトロは立ち上がり、メッセージを語り出した。

〇22-24節

2:22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。

2:23 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。

2:24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。

  

 ペトロは、神が主イエスを遣わされたこと、そして主イエスの復活を力強く語りました。私たちは、この地球に満ちる数々の良きものをいただいて生きています。そして、一番大切なものとして、救い主イエスをいただきました。

 

主イエスは、私たちのもとに来て下さったのです。

     

〇25-31節

2:25 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。

2:26 だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。

2:27 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。

2:28 あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』 

2:29 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。

2:30 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。 

2:31 そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれずその体は朽ち果てることがない』と語りました。

  

☆ダビデの歌 詩編16編8‐11節の引用がなされています。

 主イエスの復活の預言として詩編16:10節「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」は残されました。

  

 ダビデは、サウル王から執拗に命を狙われ、逃亡の日々を過ごし、悲しみ、苦しみを経験しました。なぜこのような苦しみを受けねばならないのかと眠れない日々を過ごしました。その中にも、主に信頼して、主に呼び求め歩み続け平安をいただきました。主が共にいてくださること、主が助け導いてくださることを経験しました。

 

 たとえ、命の終わりが近づいても、万が一死に至ったとしても、主が守って下さる、主が導いてくださる、主のみもとに憩う者とされる、そのことを願いそのことを心にとめ、歩み続けました。  

 ダビデの信仰、ダビデへの主の語り掛け、そのことが詩編16編として、書き残されました。 

 

 「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。」(27節)

 

 ダビデの墓はあり、そこに葬られました。つまり朽ち果てなかったお方とは、ダビデではありません。それは、主イエスです。主イエスは朽ち果てるお方ではありませんでした。つまり復活されたのです。

  

 「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」23‐24節)

 

☆神は、このイエスを

 死の苦しみから解放して、復活させられました。復活の勝利を与えられました。 主イエスは復活されました。復活の主は、弟子たちのもとに、そして私たちのもとに戻ってきてくださいました。

 

 ペトロは改めてそのことを力強くメッセージした。

  

☆ペトロ自身

 ガリラヤの漁師でした。主イエスから招かれ主イエスの弟子になりました。主イエスと共におよそ3年間過ごしました。主イエスの十字架の死の前に、ペトロ自身は、主イエスは関係ないと言い、主を裏切りました。主イエスは復活され、ペトロにも出会ってくださいました。ペトロは主イエスから赦しをいただきました。

 

 聖霊の降臨の中で、ペトロ自身は、このイエスを復活の勝利へと導かれた。 

 

☆神はこの私を

 神は、この私のために主イエスをお遣わしくださいました。その主イエスは、死を打ち破って復活されました。

 復活の主の恵みがこの私にも注がれている。その恵みを受けて歩むように招かれています。復活の主イエスはこの私をも助け、勝利へと導いて下さいます。その恵みをいただいて歩むことが許されています。

 

人生最大の敵である死に対しても、主は勝利を与えられるお方です。神は、この私を主イエスの復活の勝利によって、助けてくださいます。

 主イエスはあなたを愛し、導いてくださいます。

                         (久多良木和夫) 

 6月21日() 聖日礼拝

            「主イエスは聖霊を」    使徒言行録2章32-41節

  

☆プレゼント

  人からのプレゼント、それは嬉しいものです。そのプレゼント自体の良さ、素晴らしさを味わい、感謝します。そして、何より、その相手のプレゼントを準備してくれた心に感謝することです。

  

☆私たちは、大きなプレゼントをいただいている。

 この地球、この地上の良いものすべて、おいしい空気、水、山、空、海、・・おいしい食べ物、健康、そして命、・・  。これらのものを与えてくださっている神は、創造主なるお方、すべてを支配しておられるお方です。

 

 神は、それらのすべてに加えて、クリスマスの出来事の出来事、救い主イエス様をお与えくださしました。その主イエスは最後十字架にかかってくださいました。その十字架には深い意味が込められています。神は、もうお一方をくださいました。聖霊降臨のできごとにおいて、神の聖い霊である聖霊をくださいました。弟子たちは、聖霊を受け元気を得ました。それは神からの力を受けての元気です。

 

 神が共にいてくださる。神は見捨ててはおられない。神は助けてくださる。神は進むべき道を示してくださる。その道の途中に困難がたとえあっても共にあって、導いてくださるという確信からくる元気です。

 

 主イエスの弟子のひとりであるペトロのメッセージは力強いものでした。

 

「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」(32節)。 主イエスの復活、それは確かであり、その恵みのもとに生きる喜び、感謝をもって語りました。

 

〇33-35節

2:33 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです

2:34 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。

2:35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』

  

 主イエスは、昇天し、父なる神の右に坐しておれます。父なる神と共にすべてをご支配しておられます。神は、ご自身の敵を足台にされます。その敵とは、何でしょうか?

 

 それは第1に、あくまで逆らう者のことです。自分中心、自分さえよければ、自国中心、自国さえよければ良い。他の人を犠牲にしても構わない。他国を犠牲にしても構わない。他の人を苦しめても構わない、他国を苦しめても構わないとするものです。自分さえ良ければよい、自分たちさえ良ければよい、他の人が苦しんでも構わない、他の人の良いものを平気で奪い取るのです。

 第2に、それは悪魔と呼ばれるサタンのことです。人を惑わす存在であり、    神に真っ向から反抗する存在であり、人を、人類を滅びへ導こうとする存在です。

 第3に、それは死のことです。私たちを最後に飲み込んでしまうものです。考えたくないものですが、最後に待っているものです。

 

 主イエスは父なる神と共に、これらのものを足台にされます。それらに対して、神は打ち滅ぼされます。私たちは、この地上で様々なことで苦しみます。しかし、その苦しめる存在を神は打ち破ってくださいます。神がそれらを最終的に滅ぼされます。

 

☆主イエスは、聖霊を 

 この聖霊降臨の恵みは、主イエスの十字架と復活を通して初めて備えられました。

 

 主イエスは、私たちのもとにおいでくださいました。この地上でのご生涯、そして最後は、十字架につけられ、十字架の上で死なれました。そして、復活、その死を打ち破られました。昇天され、父なる神から聖霊なる神をお受けになり、その方を注ぎ与えてくださったのです。

 

 その聖霊を注ぎ与える神の約束の成就のために必要な手続きがありました。それが、主イエスのご降誕、そして地上での生涯、十字架の死、そして復活、昇天でした。主イエスは、父なる神より聖霊を受け取り、地上に歩む弟子たちに注ぎ与えてくださいました。

  

☆主イエスはすべてを与えてくださった 

 聖霊の賜物は、主イエスご自身が十字架での苦しみと死、復活の勝利を通して勝ち取られたものです。それをご自身のもとに止め置いても誰も文句は言えません。しかし、そうされずに、私たちに注ぎ与えてくださったのです。何という感謝なことでしょう。

 

〇36-38節

2:36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 

2:37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 

2:38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

  

☆罪の指摘、そして救い

 

 ペトロは、ずばりあなた方が主イエスを十字架につけたと指摘しました。あなたたちは、救い主として送られた方を無視した。その救い主を踏みつけた、踏みつぶした、神の顔に泥を塗った、恩をあだで返したのでした。

 

私たちも自分の罪に気が付くことがあります。とんでもないことをしてきた、どうしたら良いのか、取り返しがつかないことをしてしまった。責任を取れと言われたら、どうすることもできない。どうしたら良いのだろうと途方にくれます。ペトロのメッセージは、それでおしまいではありませんでした。その負いきれない責任を主イエスが負ってくださったというものでした。その主イエスを信じ、寄り頼むときに出口がある、助けがある、救いがあります。

 

どうしたら良いのですか?という問いに対して、ペトロは語りました。

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(38節)。

 

 悔い改めとは、過去のことをただ悔やむことに終始することではありません。悔やみつつ、神に立ち帰ることを意味しています。真の命の主に立ち帰るのです。向きを180度変えることです。今まで神の方を向いていなかった、神を無視して歩んでいたことをやめて、神を認め、神に向くのです。そして、イエス・キリストを信じるのです。

 

 洗礼の恵みに与り、罪の赦しをいただくのです。そして、聖霊の賜物を内にいただくのです。神のものとされて生きるのです。救いを確かにいただいて生きるのです。

 

☆フィリピの看守の救い

 フィリピの町の看守は、ある日の真夜中にパウロとシラスの賛美と祈りを聞きました。その真夜中に大地震があり、囚人たちが逃げ出した思い、その責任を問われたら耐えられないと思い、自害しようとしました。パウロとシラスにとめられた時、自分の弱さに初めて気が付きました。

 

 どうしたら救われるのかという問いに対してのパウロ達の答えは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒言行録16章31節)というものでした。その夜、看守とその家族は皆、主イエスを信じ洗礼を受け喜びに包まれました。

 

☆主イエスは聖霊を

 主イエスの十字架、復活、昇天を通して、主イエスは、父なる神より聖霊を受け取られ、その方を、主イエスを信じる弟子たちに、そして主イエスを信じる者すべてに注ぎ与えてくださいました。今もその恵みは続いています。  

                         (久多良木和夫)

 

 6月28日()  ホ群弾圧受難記念礼拝

             「ステファノの殉教」  使徒言行録7章54節-8章3節 

 

 ☆思ってもみない出来事

 予想だにしなかったこと、想定外の出来事はいろいろ起こります。今年に入っての新型コロナ感染、そしてパンデミック、また台風、豪雨、地震などによる大きな災害、会社の倒産、縮小によるリストラ、自分、家族の病気とあります。でも、そのようなときにも、主は共にいてくださいます。主の助けをいただきつつ、乗り越えていきたいですね。

 

 ☆初代教会における想定外の出来事

  ①その第1は、ペンテコステの出来事です。聖霊が注ぎ与えられ、信者は強められ、信者が増えていきました。教会の誕生と発展、喜びと希望が溢れました。

 

 ②第2は、迫害です。殉教者が出るという衝撃的な出来事でした。その人物こそ、ステファノです。

  

☆ステファノ

 ○使徒言行録6:12、15

 6:12 また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。 6:15 最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。

  

 彼は、信仰と聖霊に満ちた恵まれた人物でした。霊的な恵みを指し示し、自らそのように歩んで信者たちの先頭を行っていたことでしょう。

 

 ステファノは、普段においても恵まれていました。それだけでなく、捕らえられ、恐れをいだかせられる状況の中でも、変わらず恵まれていました。その顔は輝いていて、天使の顔のようでした。それは聖霊のご支配の中に生きていた証拠であり、聖霊なる神がそのように導いておられたのです。

  

彼の説教は、アブラハムから始まって、イサク、ヤコブ ヨセフ、モーセ、ソロモンについて語り、最後のところで罪を指摘しました。そのメッセージを聞いていた人々は怒りが沸騰しました。

  

○使徒言行録7:54-8:3

7:54 人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。

7:55 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、 7:56 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。 7:57 人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、 7:58 都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。

 7:59 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。 7:60 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。 8:1 サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。 8:1 その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。 8:2 しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。 8:3 一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。

 

☆ステファノの殉教

 ユダヤ教指導者、それに従う者たちによって、石を投げつけられて、命が終わりました。それは壮絶な死でした。ステファノの家族、信者たちにとっては、大きな悲しみでした。初代教会の最初の殉教であり、ペンテコステの出来事の中で、勢いを得て進んでいた弟子たち、信者たちにとっては衝撃的な出来事だった。

 

★エルサレム教会への大迫害

 ステファノの殉教の死の直後にエルサレム教会に対して、大迫害が起きました。信者たちは、散っていくしかありませんでした。逃げるようにして散って行きました。

  

☆ホーリネス系の教会への弾圧

 今から78年前の1942年6月26日早朝、ホーリネス系の教職者96名が逮捕された。これが、第一次検挙である。1943年4月に第二次検挙が行われて、第一次と第二次を合計すると、日本基督教団に併合されていた第6部(旧日本聖教会)60人、第9部(旧きよめ教会)から62人、妥協して教団に加わらず宗教結社であった東洋宣教会きよめ教会12人、合計134人が逮捕されました。

  

当時の治安維持法違反により激しい弾圧を受けたのです。

1943年4月、文部省は宗教団体法に基づき、第六部と第九部の、教会設立認可の取り消し処分と教師を辞任させるように、日本基督教団の富田満統理に通知した。これを受けて、日本基督教団は、獄中にある教師と家族に、教会設立認可の取り消しと、教師の自発的な辞職を求める通知を行った。そして、日本基督教団内のホーリネス系の教会は強制的に解散させられました。

 

 私たちの教会に関係のある先生、九州における方々としては、・米子教会 山中日出刀師、 ・門司宗利教会(門司聖教会) 長畑辰二郎師  ・戸畑向町教会(戸畑聖教会)加藤俊守師、 ・八幡東部伝道所(八幡聖教会)桑原福三師、 ・熊本城東教会 森田豊熊師、 ・宮崎清水町教会 吉間礒吉師  ・都農仲町伝道所 黒木光雄兄(信徒代表)、 ・高鍋南伝道所 です。

  

治安維持法は 1925年(大正14年)、社会運動や革命運動の弾圧を目的として制定されました。その後、1928年(昭和 3 年)の最初の改正で最高刑が死刑に変更され、適用範囲も大幅に拡大され、更に 1941年(昭和 16 年)の大改正で、弾圧立法としての機能をより強めることになります。 

 

 「国体の変革」、「私有財産制度の否認」などの規定加えて、新たに、「国体の否定、神宮もしくは皇室の尊厳の冒涜」という規定が加えられたのが1940年3月10日でした。改正は、1941年5月15日です。

 

 敗戦直後の 1945年、GHQ(連合国軍最高司令部)の命令により廃止されるに至りました。

 弾圧の標的になった要因がありました。それは、再臨信仰です。主イエスは、歴史の中で、もう一度来られる、栄光の主として、すべてを裁き、すべてと支配する主として来られる。このことは、聖書に記されている大切な約束、預言です。

 

 再臨信仰を旗印としていたことが、国家から狙い撃された最大の理由です。当時、日本国家は戦争一色、戦時体制の中にあり、アジア全域を支配することを目指していました。国家神道をもとに、その頭に天皇をかかげて、戦争の遂行を測ろうとしていました。

 

 日本人は、この戦争が正しい戦争であると教え込まれていました。そして、この戦争を正面から反対する人たちはほとんどいませんでした。ほとんどの人は、正面から、戦争反対、この戦争は間違っている、おかしいとは言えなかったのです。

 

 再臨信仰は危険な考え方だ、国家にとっては、都合が悪い、国家の言うことがすべて正しい、それは、だれも批判できない、してはならないという風潮でした。

  

☆香港のキリスト教会 

 香港の牧師・神学者らがバルメン宣言模した「香港2020福音宣言」を発表 松谷曄介先生(筑紫教会牧師)が翻訳されました

 

現在、中国政府が推し進めている「香港国家安全維持法案」は、今月末に開かれる全国人民代表大会常務委員会での審議を経て、早ければ今月内に成立の可能性があると報じられています。「一国二制度」により維持されてきた香港の自由が脅かされつつある中、こうした状況に危機感を抱く香港のプロテスタント教会の牧師・神学教師たちにより、かつてのドイツ告白教会の「バルメン宣言」に倣った「香港2020福音宣言」が起草・発表され、波紋を呼んでいます。

 

 「信教の自由」や「政教分離」の原則よりも「国家安全」が何よりも優先されるような同法案が成立すれば、今後、香港において民主化運動に参与している牧師・神学教師・信徒などのキリスト者も、王怡牧師と同様の容疑で逮捕・拘束される可能性も否めない。香港教会は今まさに、重大な局面を迎えており、「信仰告白的状況」に直面していると言えようと述べておられます。

 

 「香港2020福音宣言」(全文)同宣言は、六つの信仰命題からなっています。その第二項 イエス・キリストが、教会の唯一の主である。 その説明の中には、「教会はキリストの体であり、その頭はキリスト、「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」である(エフェソ1:23)。したがって、教会は最終的には天の御国の王であり救い主であるお方に対してのみ従順かつ忠実でなければならず、地上のいかなる政治的・経済的支配者や権力者に対してであってはならない。教会はこの世のいかなる権力や権威者にも依り頼んで存続を図ってはならず、またそれらによって支配されてはならない。」と記されています。

  

☆殉教したステファノ

 ○ヨハネ福音書12:23-24

12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。 12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

  

 主イエスが、ご自身の十字架刑を前にして、ご自身の死の意味について語られたみ言葉です。

 

 ステファノは、いつも主を仰いでいました。いつも主から目を離しませんでした。殉教の死を目にしても主を仰ぎ続けました。その死は、決して無駄にはなりませんでした。

                                   (久多良木和夫)              

 7月5日() 聖日礼拝

            「サウロの回心」       使徒言行録9章1-19節a

  

☆あの時、守られた。

  厳しい状況の中に置かれたが、助かった。危機一髪だったが、守られた。それぞれ、そのようなあの時に特別に守られたという体験があるのではないでしょうか?

 当然、反対のこともあるのです。厳しい状況から脱し得なかった。今回の熊本南部豪雨災害で命を落とされた方々、大きな被害を受けられた方々、その家族に慰めがありますようにと祈ります。

  

☆サウロが経験した出来事

 サウロ、その出来事の後にパウロという名に改名します。そして彼は、新約聖  

書の中の多く書簡を書き記します。

 

 彼が経験したこと、それが、「サウロの回心」と呼ばれる出来事です。そのことで、彼は、主イエスを憎む者から主イエスを愛する者になりました。主イエスを信じない者から、主イエスを信じる者になりました。主イエスに従わない者から、主イエスに従う者になりました。

彼は、クリスチャンへの迫害者でした。しかし、迫害する立場から迫害される立場になりました。

 

☆ステファノの殉教の時

 サウロ自身は、初代教会最初の殉教者となったステファノの殺害の賛成していました。石を投げつける人たちの着ている物を預かって、その時のことを目撃していたのです。

 彼は、十字架につけられ死んだ主イエスが、3日目に復活した、そんなこ 

とがあるはずがない。主イエスが、父なる神から遣わされた方である、主イエスは、神の独り子である、神と等しいものである、そんなことがあるはずがない、そんなことを語るとは神への冒涜だと考えました。

は、主イエスを憎み、 主イエスを信じるクリスチャンを迫害し、教会を荒らす者でした。

 

 多くのクリスチャンを捕まえ、牢の中に投げ入れ、そのために死に至る者もいたことでしょう。ひどいことを繰り返していた。

 

 そんなサウロが、180度変わったのです。それが、サウロの回心です。

 その出来事が、ここに書かれている通りです。この出来事のポイントは2つあります。

 

 第1は、復活の主イエスの語り掛けです。

 主イエスご自身のサウロへの語り掛けです。

〇4‐6節

9:4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。

9:5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

9:6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」

クリスチャンを迫害することは主イエスご自身を迫害することであり、主イエスを苦しめること、顔につばきをすること、頭を踏みつけることです。

その時、サウロは天からのあまりにまぶしい光を受けて、目は見えなくなりました。ダマスコの町で大切なことを告げると言われました。

  

 第2は、アナニアが遣わされたことです。

 主イエスは、サウロのもとに、主を信じる弟子のアナニアを送りました。最初、アナニアは嫌がりました。ニネベへ行きなさいと命じられ、一度は拒否したヨナのようでした。しかし、アナニアは最終的に従いました。

断るアナニアに、主は語られました。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」(15‐16節)。

 

 主イエスは、サウロが、そのまま一生、目が見えないままでないように、目が見えるようになることを願われました。サウロは、再び見えるようになりました。このまま、見えなくて仕方がないのに、そうではなく、再び見えるようになりました。それは、神の憐れみであり、神の赦しでした。サウロの新たなスタートのための準備となりました。 

 

☆サウロの回心

 サウロは初めて自分が考えていたことは間違いであったこと分かりました。

主イエスは、神から遣わされて来られた方である、主イエスは神と同じ方であ

る、主イエスは、救い主であると分かったのです。

  

 この方を通して、神はこの世界に住む者たちを招いておられる。永遠の命を受けるように、罪を赦していただくように、神の子ども、すなわち罪赦された神の霊の子どもになるようにと招いておられると。

 

 永遠の滅びからの救いはこの方のうちにある。この神のご愛を知り、この神による救いを 受け取らせていただこう、そして、その中に生きようと洗礼を受けました。そして、それだけでなく、この大いなる恵みを伝えようと考え、その道に進みました。

 

 サウロは、この出来事を通して、第1に主イエスを信じる者になった。第2に主イエスを宣教する者になりました。

  

☆神の大きな憐れみ、神の愛

〇コリント一15章9-11節

15:9 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。

15:10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。

15:11 とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。

  

 パウロは、自分は使徒たちの中で一番小さな者、使徒と呼ばれる価値のない者であると語っています。しかし、神の恵みによって今日のわたしがあるのですと語っています。今、私は、神の恵みによって生きている、生かされている。神の大きな愛と憐れみに感謝してそれに少しでも応えたいと歩んできたと。主のご委託を受けて歩んでいる、働いていると語りました。 

  

 私たちもサウロと同じように、神の大きな愛を受け、憐れみをいただいています。私たちもまた、その愛と憐れみに感謝して、応答して歩みたいものです。

                           (久多良木和夫)

 

 7月12日() 聖日礼拝

             「命の道へ」            詩編16111

   

時に大きな苦しみ、困難を経験することがあります。その時にどう対処するか、いかに希望を持って生きていくかは大きな課題です。  

  

神よ、守ってください あなたを避けどころとするわたしを。主に申します、「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」(12)長い航海をする大きな船は母港を持っています。その母港で、船体を修理したりして次の航海に備えます。ダビデ自身、主にのみ寄り頼みました。他の神々には決して寄り頼みませんでした(4)

  

 「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。」(8)主はいつも共にいてくださいます。復活の主イエスは、父なる神の右に坐して執り成し祈ってくださっています(ローマ8章34節)

 

  「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます。」(1011)

 

10節は 、ペトロが聖霊降臨の日に、復活の主は死を打ち破られて復活されたことを示すみ言葉として引用した箇所です。

 

 主は命の道を教えてくださいます。それだけでなく、命の道を作ってくださいました。主イエスご自身が命のパンとなって、信じる者に命を与えてくださっています(ヨハネ福音書6:32-34)

                           (久多良木和夫) 

 

  7月19日() 聖日礼拝

            「主を呼び求める者の幸い」      詩編18編Ⅰ-7

  

ダビデは、仕えていたサウロ王から命を狙われ、逃げ続けなければなりませんでした。その苦しみの中で、ダビデは神さまを仰ぎました。祈りつつ、歩んだのです。主こそ、私の岩、砦、逃れ場 大岩、避けどころ、盾、救いの角、砦の塔と表現しています(23節)。主は、確かなお方、寄り頼んで少しも問題がないお方、どっしりとそこにおられるお方、受け止めてくださるお方です。

 

「ほむべき方、主をわたしは呼び求め 敵から救われる」(4)。「苦難の中から主を呼び求め わたしの神に向かって叫ぶと その声は神殿に響き 叫びは御前に至り、御耳に届く」(7節)。

  

 ヨナは、神に逆らい逃げる途中で大嵐に遇い、海の中に投げ出されました。「ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと 主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めるとわたしの声を聞いてくださった」(ヨナ書2章2-3節)。絶体絶命の時に、ヨナは神に向かって叫び、祈りました。それを神さまが聞いてくださったのです。彼は命拾いをしました。聞いていただく資格などなかったヨナの祈りを神は聞いてくださいました。

 

 「それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」(詩編50:15)。「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」。(口語訳)主なる神は わたしを呼べと呼びかけ、呼び求める者の呼び求めに応えるとの約束がここにあります。  

            (久多良木和夫) 

 

  7月26日() 聖日礼拝

             「貧しい人への顧み」     詩編22編25-32節

  

詩編22編は、「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」(2節)において有名です。主イエスの十字架の上での叫びを記したマタイによる福音書27章46節 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。に通じるからです。

 

 詩編22編の前半では、敵によって苦しむ様がたくさん記されています。

しかし、23節以降にいては、神への賛美へと変わっています。「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく助けを求める叫びを聞いてくださいます。」(25節)この貧しい人は、口語訳では苦しむ者、新改訳では悩む者と訳されています。貧しい人とは、金銭的に貧しいという人に限定されず、病、災害、犯罪、権力者による弾圧、精神的な悩み、苦しみを意味しています。

 

 主は、苦しみ、悩む者をお見捨てになりません。主イエスご自身、イザヤ書53章1-5節に預言されているように、私たちのために自ら苦しみ悩まれました。その受けた懲らしめによって私たちに平和が、その受けた傷によって私たちに癒しを備えてくださいました。主は、苦しみ悩む者たちを顧みてくださるお方です。 

                         (久多良木和夫) 

  

 8月2日() 聖日礼拝

             「主に信頼します」        詩編31編1-9節

  

 「あなたはわたしの大岩、わたしの砦。」(4節)。主なる神は、確かなお方であり守ってくださる方です。「恵みの御業によってわたしを助けてください。あなたの耳をわたしに傾け 急いでわたしを救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください。」(2-3節)。主は呼び求めることを喜び受け止めてくださる方です。10‐14節を見ると苦しみの中で衰えていく中に置かれていることが分かります。その苦しめる敵は、人であるだけでなく、災害であったり、病であったりします。

  

 「あなたはわたしの苦しみを御覧になり わたしの魂の悩みを知ってくださいました。」(8節)。魂の悩みとは心の一番深いところの悩みです。この悩みを主は解決してくださいます。魂の憩い、平安、安らぎを得ることができます。

 

 「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。」(6節)。主は贖い主なる方です。贖いという言葉の原義は、奴隷として売られた人間を代価を払って買い戻すことです。神は主イエスの命を代価として、私たちそれぞれの滅びに至らせる罪の問題を解決してくださいました。主イエスは、命のパンとなってくださいました。(ヨハネ福音書6:51)

 

   「わたしは空しい偶像に頼る者を憎み 主に、信頼します。」(7節)。主に寄り頼みましょう。主こそ信頼するにふさわしい方です。 

                         (久多良木和夫) 

 

  8月9日() 召天者合同記念礼拝

            「悲しみから喜びへ」   ルカ福音書15章11-24節

 

失ってはじめてそのありがたさを認識するものが多くあります。健康、人との交わり、家族、親族、友達、仕事、平和、住む家、食事、地球の環境、人生、命、それらは与えられているものです。

  

 主イエスが語られた中で、最も有名なたとえ話がこの「放蕩息子のたとえ」です。一人の父親に二人の息子がいました。弟息子は、自分がもらうべき財産をすべてもらい、それをすべてお金に換え、家を出て遠い国に出て行きました。そこで放蕩の果てにすべてを失いました。彼はどん底の状態になり、みじめな自分を悟り、父親を思い出し、家に向かいました。

 

 父親は彼を見つけ心から喜んで迎えました。「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(20節)。父は、雇人としてではなく、息子として迎えました。

 

 父の喜びの心は、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」(24節)に記されています。

 

 この父親は天の神さまのことであり、弟息子は私たち人間を指しています。このたとえは、「放蕩息子のたとえ」より「放蕩息子の父のたとえ」と言った方が良いものです。

 

  天の神さまは、愛と真実の神であり、イエス・キリストにあって罪の赦しを用意してくださった方であり、天の御国を用意して待っていてくださっているお方です。神を認めず、背を向けて歩む中で、様々な悩み、苦しみを経験します。神は、私たちが真の神に立ち帰ることを待っておられます。 

                          (久多良木和夫)

 

  8月16日() 聖日礼拝

             「主を仰ぎ見て、光を得よ」     詩編34115

 

  真っ暗闇の洞窟の中で迷ったなら、出口の光を目指すことです。ダビデは、サウル王に命を狙われ逃げる中でガトのアキシュ王の前で気がふれたことを装い危機を脱しました。どんなにみじめだったことでしょう。

 

 ダビデは、逃亡生活の大変な中にも主を賛美しました。「どのようなときも、わたしは主をたたえ わたしの口は絶えることなく賛美を歌う」(2節)。

  

 厳しい状況、大変な状況の中に身を置くと、人は悪い思い、悪いことに傾いてしまうことがあります。しかしダビデは、そうならないようにしました。「舌を悪から唇を偽りの言葉から遠ざけ 悪を避け、善を行い平和を尋ね求め、追い求めよ。」(14‐15節)。肉の業に陥らず、霊の実を結ばせていただきましょう(ガラテヤ5章19-23節)。

 

 「主を仰ぎ見る人は光と輝き 辱めに顔を伏せることはない。」(6節)。口語訳では「主を仰ぎ見て光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない」と訳されています。

 

 主を仰ぎ見るとは、主がどのような方であるかを思いめぐらし、主は全能の主であり、力の主、救いの主であることを心にとめることです。主は味方なるお方、執り成し祈っていてくださるお方です(ローマ8章31‐34節)。主のご支配を心にとめ、主の御心を尋ね求めつつ従って歩みましょう。

 

 主は、そのように歩む者に光を与えてくださいます。出口へと導いてくださり、希望と平安を与えてくださいます。そして最終的に勝利を与えてくださいます。

                         (久多良木和夫)

 

  8月23日() 聖日礼拝

            「主イエスに注ぐ」  マルコによる福音書14章3-9節

  

 一人の女性が主イエスにしたは、その人の信仰の生涯を表している。

  

 ≪現在≫ この女性は、主イエスに高価なナルドの香油を注いだ。(3節) 主イエスは、「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」(7節)と語ったが、この時、主イエスが間もなく十字架に架けられる事を知っていたかどうか不明。しかし、主イエスの事は耳に入っていたであろう。それで、この方に、従っていきたいと思い、香油を注いだ。           

 

 ≪過去≫ この女性のしたことで、見ていた数人が「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」(6節)と憤慨した。「1デナリオン」は、1日分の賃金。300デナリオンということは、1年働いた給料の価値。それを、すべて主イエスに注いだ。そうしたのは、主イエスを第一として、全ても主に献げた、献身のしるしであった。

 

 ≪未来≫ 「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(9節)マルコによる福音書では女性の名は記されていない。しかし、聖書を通し今も私たちにも福音として語られる。彼女の主イエスへ注いだ歩みが、未来にも証しとなった。                                                                                    (後藤真英)

 

   8月30日() 聖日礼拝

             「神を待ち望め」          詩編42編1-6節

  

 何日も雨が降らず、夏の日差しの強さにさらされると、野菜や草花も枯れることがあります。それと同じように私たちの心もカラカラになることがあります。魂がうなだれる状況におかれることがあります(6,7,10,12節)

 

 詩編42編作者は、エルサレムから遠い地であるヘルモン山、ミザルの山に身を置いていました。それだけでなく、苦しめる者の存在がありました。「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う「お前の神はどこにいる」と(4節)

 

行き詰りの中で、過去に逃げたくなることがあります。しかし人は現在を生きねばなりません。行き詰まり、悲しみの中でその嘆きを神に申し上げることができる人は幸いです。主は、真のカウンセラーです人に言えないようなことも主は理解し受け止めてくださいます。「涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。」(2節)

 

 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう 「御顔こそ、わたしの救い」と。(6節)主はすべてを支配しておられるお方です。過去も現在も未来もです。主は、待ち望む者に慰め、励まし、支えを与えてくださいます。御顔とは主の臨在であり、主は、共にいることを語りかけてくださいます。  

                          (久多良木和夫)

 

 

  9月6日() 聖日礼拝

            「土に命の息を」   コリントの信徒への手紙二4611

  

 「このような宝を土の器に納めています。」(7節)の、「土の器」から、神様が初めに、土のちりで人を創造されたという創世記の内容を思います。土から造られた人間は、神様の顔を避け隠れてしまう存在となってしまいました。それでも神様の愛は変わらず、イエスキリストの十字架と復活によって、命の息をもう一度、吹き込んで下さったのです。

  

 パウロは、土の器の中に、宝を納めていると述べていますが、「 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」(10節)と、「イエスの死」こそが「宝」だと言うのです。

 

 「イエスの死を体にまとう」は、パウロが主イエスの死(十字架)の出来事を、はっきりとした映像として心に刻んでいるということです。「死」の先にある「復活」をいつも、信仰の目で見ていたのです。主イエスは、この土の器に、命の息を吹き込んでくださり、「光」として輝いてくださっていると語っています。

  

「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(8、9節)パウロはこの手紙によって、コリントの教会に人々を、少しでも励ましたいと思っています。パウロ自身が困難な状況にありつつ、この信仰を与えられ、勇気を与えられて手紙を書いているのです。

                          (久多良木志津子)

 

  9月13日() 聖日礼拝

            「わたしの内に清い心を」      詩編51編1‐14節

 

神に届く祈り、それは神の前にへりくだった真実の心、悔い改めの心を持っての祈りです。詩編51編は、まさにその祈りです。自分のみじめさ、自分の罪深さを知っての祈りです。      

 

ダビデは、イスラエルの王となり、気の緩み、傲慢さから、バト:シェバ事件を起こしました。自分の部下であるウリヤの妻バト・シェバと姦淫の罪を犯し、それを隠すために自分の手を汚さずにウリヤを殺しました。ダビデは、すべてうまくやったと思いました。しかし、神はすべてをご存じであり、預言者ナタンを送って、そのことを明らかにします。

 

 ダビデは、神に対する自分の罪を深く認めました。背きの罪(3節)、わたしの咎(4節)。わたしの罪(5,9,11節)を認めました。自分の内にある罪、それにより、神の愛を踏みにじりとんでもないことをしてしまうのです。ダビデは、一番大切なことを忘れていました。それは、神から特別の憐れみ、特別の愛を受けて、今の自分があるということです。

 

「神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。」

(12節)。神を畏れる心を与えてください、神の憐れみと愛を心に留めさせてください。神の助けと導きを与えてくださいと願ったのです。

 

 「霊の導きに従って歩みなさい。」(ガラテヤの信徒への手紙5:16)。「御霊によって歩きなさい。」(新改訳)主イエスを信じる者に与えられている聖霊なる神をあがめつつ、従い歩むことが大切なのです。 

                         (久多良木和夫)

 

 9月20() 敬老祝福礼拝

            「主につながって実を結ぶ」    ヨハネ福音書1518

  

老年期を迎えると、若い時と違い、体力の衰え、足腰の弱り、健康の不安が増えます。趣味の旅行や登山等に行く体力もなくなります。世話を受ける立場になります。これから先どうなるのか、人生をどう閉じたらよいのかという不安が起きます。

 

 しかし、老年期だけでなく、人生の半ばにおいても、行き詰り勢いを失うこともありますし、思いがけない病気になることもあります。どう生きたらよいのかわからなくなったり、人生の意味が分からなくなることもあります。

  

 本日の聖書箇所は有名な箇所です。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(1節)。主イエスはまことのぶどうの木、父なる神は手入れをなさる農夫と説明されています。

  

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(5節)私たちは、ぶどうの枝と説明されています。

 

 主イエスを信じないままの人は、糸の切れた凧であり、浮草のようなものです。どこに落ちるか、どこに流されるかわかりません。

  

 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。(コヘレトの言葉12:1)

  

 主イエスを信じ、主につながって歩む者は、平安、感謝、希望という実を結ぶことができ、永遠の住まいを目指して進むことができます。

                           (久多良木和夫)

 

  9月27日() 聖日礼拝

             「主に依り頼みます」        詩編56編1‐

  

悩み、苦しみの原因は、行き詰りや困難、災害、病気、人間関係の悪化等があります。特に人間関係の中で攻撃してくる敵が現れることがあります。     

ダビデ自身、サウル王に命を狙われ逃げ回らなければならず、その上、ガトでペリシテ人に捕らえられました。

  

「わたしは人に踏みにじられています。戦いを挑む者が絶えることなくわたしを虐げ 陥れようとする者が絶えることなくわたしを踏みにじります。高くいます方よ 多くの者がわたしに戦いを挑みます。」(2‐3節)

  

その時にダビデは恐れに包まれました。「恐れをいだくときわたしはあなたに依り頼みます。」(4節)恐れの中にあって、彼は、神に依り頼みました。その時、ダビデは大切なものを握りました。それは、神の御言葉です。「神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者がわたしに何をなしえましょう。」(5節) 変わることのない神の約束の御言葉を握りました。

  

「神の御言葉を賛美します。主の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。人間がわたしに何をなしえましょう。」(11‐12節)

  

「ヤコブよ、あなたを創造された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は 今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ書43章1節)

 

「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ローマの信徒への手紙8章31節)

                            (久多良木和夫)

 

  10月4日() 聖日礼拝

             「栄光を全地に輝かせて」      詩編57編‐6節

  

「憐れんでください 神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし 災いの過ぎ去るまであなたの翼の陰を避けどころとします。」(2節)。ダビデは、危機の中で、神の守りのみ翼の下に身を寄せました。親鳥は、翼で、ひなを暑い日差しや寒さや冷たい雨や時に山火事の炎から守ります。守りの中に身を置けることは感謝なことです。絶体絶命の危機の時に、神のみ翼の下に逃げ込みましょう。

  

「神よ、天の上に高くいまし栄光を全地に輝かせてください。」(6節)。神の栄光とは、1)神の全能の力であり、2)神のご支配、3)神の裁き、4)永遠を意味しています。神はすべてを創造され、それらをご支配し支えておられます。神はすべてを公正に裁かれます。永遠の初めから存在しておられ、永遠の終わりまで支配しておられます。その栄光を全地に輝かせてくださいとは、4つのこと以外の何を意味しているのでしょう。それは、神の愛であり、神の備えてくださる救いであり永遠の命です。

 

「天から遣わしてください 神よ、遣わしてください、慈しみとまことを。わたしを踏みにじる者の嘲りからわたしを救ってください。」(4節)。いつくしみとは原語ではへセッドで、神の変わることのない契約の愛のことです。まこととは、原語でエメースで変わることのない神の真実のことです。

  

神は、イエス・キリストを遣わされ、私たちのために救いを成し遂げてくださいました。その恵みに生かされて私たちは歩んでいきましょう。                      

                           (久多良木和夫)

 

 10月11日() 聖日礼拝

             「神の水路は水をたたえ」     詩編65編114節

 

 水は命を支える上で一番大切なものの一つです。天からの雨により大地は潤い、作物は実ります。また飲み水も備えられます。「あなたは地に臨んで水を与え 豊かさを加えられます。神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。」(10節)

 

 詩編65編は、大地の実りに対しての感謝の祈りですが、それだけではありません。「罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちをあなたは贖ってくださいます。」(4節)。罪にとらえられたわたしたちを助ける神のご愛に対する感謝の祈りでもあります。

 

 神の水路は神がお持ちの命の水を蓄えているところであり、その流れを導くものです。その水路にある命の水は、神の愛であり、神の憐れみであり、神のまことです。そしてその水は、主イエスを信じる者に注ぎ与えられる聖霊を意味しています。

 

 昨年12月に凶弾に倒れた中村哲氏は、アフガニスタンで、医療と共に、井戸掘りと水路建設に力を注ぎました。水路は、本流のクナール川の水を引くためです。そのことにより1万6千ヘクタールの砂漠地帯が緑に覆われました。

 

 神の水路には水がたたえられています。あの放蕩息子の息子は、みじめさのどん底で父の家には有り余るパンがあることを思い起こしました。そして、父の家に帰り、彼は迎えられ、子どもとしての身分を回復しました。

 

 

 神は、お持ちの愛と憐れみとまことを私たちに、主イエスという水路を通して、それらを注ぎ、救いを与えてくださいました。主イエスは、ご自身の命を犠牲にし、水路となってくださいました。 

                          (久多良木和夫) 

 

 10月18日() 聖日礼拝

              「主が触れられる」       イザヤ書61‐13節

 

 時代としては、「ウジヤ王が死んだ年」(1節、歴代誌26章参照)です。ウジヤ王に仕えていたイザヤは、その王が亡くなったことで落ち込んでいました。そのような時「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。」(3節)。これは、セラフィムたちの賛美であり、セラフとは炎を表す言葉です。そしてこの賛美は、主はどのような人よりも、強いお方であり、輝かしいお方であることが示されています。

 

 突然のことに、イザヤは恐れてしまいます。その中で、主がイザヤの唇に触れられました。「見よ、これがあなたの唇に触れたので あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」(7節)と言われました。主は、その人の弱いところを聖くしてくださいます。一番の私たちの弱いところは罪です。

 

 そして、主は、イザヤを預言者として遣わされます。聖められた唇を通して、イザヤは「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」(8節)。主からの招きに応えました。主は、預言者としての大変さも語られました。

しかし、主は、最後には「しかし、それでも切り株は残る。」(13節)と希望の言葉を語られました。切り株から出る聖なる種子とは教会のことです。私達はその種子として、主につながって、聖められて歩みましょう。

                           (後藤真英師) 

 

 10月25日() 聖日礼拝

              「正義と平和」         詩編85編1-14節

 

 平和はだれしもの願いです。世界の平和、そして自分自身の平安を願いますが、その実現はなかなか難しいことです。

 

 1-5節においては、バビロン捕囚からの解放を喜び、神への感謝を捧げています。「主よ、あなたは御自分の地をお望みになり ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました。」(2節)

 

 6-8節においては、再び行き詰り、苦しむ中で、神に助けを求めています。

「主よ、慈しみをわたしたちに示しわたしたちをお救いください。」(8節)。

 9-14節においては、大事な言葉が4つ出てきます。平和、正義、まこと、慈しみという言葉です。

 

 世の中で一般に使われる正義は、立派に聞こえますが、偏りがあり、そのことで戦争さえ起きてしまいます。聖書で言う「正義」は、原語ではツェダカーで、弱い者を擁護する裁きの公平さを意味します。義なる神は、私たちの不義を贖うために救い主として主イエスを遣わしてくださいました。

 

 聖書が言う「平和」は、原語ではシャロームで、戦争や争いがない状態というよりも、神によって満たされた完全な状態を意味し、健康、幸福、救いをも意味します。神とのつながり、満ちた関係を土台にする時、人との間の平和は確かなものとなります。主イエスは、平和の君として来てくださいました。

 

 「慈しみとまことは出会い 正義と平和は口づけし まことは地から萌えいで 正義は天から注がれます。」(11-12節)   

                           (久多良木和夫)

 

 11月1日() 聖日礼拝

             「契約を結んでくださった主」   詩編89編1-15節

 

 希望に生きることは幸いです。ただしその土台を健康、仕事からの収入、貯蓄、自分を守り支えてくれる人だけに置いているならば、それらが不確かになったとき、希望を抱けなくなります。私たちクリスチャンにとっては、希望の土台は主イエスであり、神の言葉である聖書の御言葉の約束です。主イエスも御言葉も決して変わることはありません。

 

 神の約束の中心は、主イエスにあって、私たちを救うということです。主イエスにあって罪が赦され、神の子どもとされることは最も幸いなことです。この救いの約束を「契約」といいます。「主の慈しみをとこしえにわたしは歌います。わたしの口は代々にあなたのまことを告げ知らせます。わたしは申します。「天にはとこしえに慈しみが備えられあなたのまことがそこに立てられますように。」(23)

 

 その契約を支えている柱は2つあります。

一つは神の愛です。この慈しみという言葉は、新改訳聖書では恵みとも訳されています。原語ではヘセッドです。契約における確固とした、確かなゆるぎない愛です。もう一つは、真実です。2節、9節ではエムナーという言葉であり、15節ではエメースという原語が用いられています。これは決して変わらない確かさです。

 

 「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び わたしの僕ダビデに誓った あなたの子孫をとこしえに立てあなたの王座を代々に備える、と。」(5-6節)旧約聖書の中には8つの大切な契約が記されています。ノア契約、アブラハム契約もその中に含まれています。この箇所がさしているのはダビデ契約です。サムエル記下7章5-16節。歴代誌17章10-15節に記されています。

 

 この契約の究極は、ダビデの子孫から救い主が誕生すること、その王国は永遠に続くということです。           

                          (久多良木和夫)

    

 11月8日() 聖日礼拝

             「主の栄光と輝き」         詩編96編1-9節

 

 輝くものはいろいろあります。金、ダイヤモンド、お金、名誉、しかし時に人の心を迷わせます。子どもの成長、若さ、太陽の光、それらは素晴らしいものです。希望を与えてくれます。

 

 この詩編96編は、歴代誌上16章23-34節と内容が同じです。ダビデ王が契約の箱をエルサレムの町に運び入れた直後に大きな感謝をもっての喜び、祈りの声です。神をないがしろにしていた自分たちの在り方を悔い改め、神のご支配を感謝したものです。

 

 この詩編96編は、新年の祝い(仮庵の祭り)の時に歌われました。主を喜び、誉めたたえる歌です。主はこのような方ですと歌われています。

 第1は、救いの神であるということです(2節)。主は見捨てないお方、悔い改める者を再び迎え入れてくださるお方、救い主イエスを遣わしてくだった方です。第2は天地万物の創造主の神であるということです(5節)。第3は公平に世界のすべての人々を裁かれるお方です(10,13節)。真実に歩む者を顧みてくださいます。

 

 「御前には栄光と輝きがあり 聖所には力と光輝がある。」(6節)。主のみが真の栄光と輝きをお持ちのお方です。その栄光と輝きは永遠に変わらない確かなものです。主は力あるお方、すべてを支配しておられるお方、愛の神、救いの神、私たちを顧みてくださるお方、祝福を注いでくださるお方、天の御国を支配しておられるお方であり、そこに招き入れてくださるお方です。

 

                          (久多良木和夫)

 

11月15日() 聖日礼拝

              「主に養われる羊の群れ」    詩編100編1-5節

 

 あなたは何者ですかと問われたなら、どう答えるでしょうか? 自分をどのようなものとして自己紹介するでしょうか?

 

 この詩編においては、「わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。」(3節後半)と答えています。

 

 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。」(1節)。欲しいものが手に入った、願いがかなった等の目の前のことだけで喜ぶのではなく、主を仰いで喜ぶ者でありたいと思います。     

                 

 「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。」(3節前半)主なる神こそ、生ける方、力あるお方、祝福を注ぎ与えてくださるお方、創造主なるお方であり、私たちそれぞれに命を与えてくださった方です。私たちのために救い主イエスをこの世にお遣わしくださったお方です。

 

 「わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。」(3節後半)口語訳では「その牧の羊である」、新改訳では「その牧場の羊である」と訳されています。いのちの水、いのちの草に養われる幸いが語られています。詩編23編の通りです。また、ヨハネ福音書15章に記されている通り、まことのぶどうの木であるイエス様にしっかりつながることの大切さを受け止めて歩んでいきましょう。

  

 「主は恵み深く、慈しみはとこしえに 主の真実は代々に及ぶ。」(5節)主なる神は、最善を用意しておられ、主の契約を守り通される愛をお持ちで、変わらない真実なるお方です。          

                           (久多良木和夫)

 

11月22日() 聖日礼拝

              「苦しみからの救い」      詩編107編1-9節

 

 苦しみ、苦難はできれば避けたいと思います。しかし、人生においては避けることのできないことがらです。

 「彼らは、荒れ野で迷い 砂漠で人の住む町への道を見失った。飢え、渇き、魂は衰え果てた。」(4-5節)。苦しみのことは、25-27節、33-34節でも記されています。

 その中でも、主なる神がなしてくださる恵みについても記されています。「主は渇いた魂を飽かせ 飢えた魂を良いもので満たしてくださった。」(9節)

 

 苦しみ、苦難を通して得るものもあります。そのことを通して今まで見えなかったものが見えるようになることもあります。自分の過信が砕かれることもあります。とはいえ、苦しみは大変なことです。そのことを通して主に心を向けて歩む者になりたいものです。

 

 「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 主は彼らを苦しみから救ってくださった。」(6節)主が助けを求める祈りを聴いてくださる根拠は、私たちの熱心な求めではなく、主なる神が私たちを愛してくださっていることです。その愛は、契約すなわち救いを約束された約束をあくまでも守られる愛です(2節)

 

 「主は嵐に働きかけて沈黙させられたので波はおさまった。彼らは波が静まったので喜び祝い 望みの港に導かれて行った。」(29-30節)。この望みの港は、嵐が静まり平安の中に歩むということを意味します。そしてもう一つには、嵐に飲み込まれたが、天の御国に生きることも意味しています。

                            (久多良木和夫

 

11月29日() 聖日礼拝

              「暗闇の中に輝く光」      イザヤ書9章1-6節

 

 これから寒さが増してきます。外の寒さは、いろいろな方法で身体を温めることができます。では、心の冷え付き、暗さはどう対処したらよいのでしょうか。

 

 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(1節)。「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが 後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」(8章23節)。

 

 北イスラエルの国は大国アッスリアに攻撃され滅ぼされました。その最初に踏みにじられた地がゼブルン、ナフタリの地です。そこの多くの民がアッスリア捕囚の苦しみを経験しました。

 

 異邦人の地と軽蔑されるようになりましたが、主イエスは、公生涯の最初の拠点をこの地にあったカファルナウムとしました。まさにこのイザヤ書の御言葉が実現しました(マタイ福音書4章12-17節)。

 

 様々なつらい出来事、大きな困難によって、私たちの心は、押しつぶされそうになり、暗くなり希望を失いようになります。その一番大きなできごとの一つは、人と人の争いであり、戦争でしょう。その根本原因は私たち自身の内にある罪です。 

 

 真の平和、平安を得るためには、罪の問題が解決しなければなりません。まず何よりも罪を赦していただき、神との平和をいただくことが大切です。

 

 「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。」(5節)。

 

 神の独り子主イエスのご降誕を告げるこの預言から、およそ700年後に主イエスはご降誕くださいました。 

                          (久多良木和夫

 

12月6日() 聖日礼拝

             「栄光に輝く王が来られる」    詩編24編1-10節

 

旧約聖書では、イスラエル人が神の民として選ばれた出来事が強くあります。その中でダビデは、「世界とそこに住むものは主のもの」(1節)と賛美しています。すべて主のものであると称えました。 

      

 「どのような人が主の山に上り 聖所に立つことができるのか」(2節)と言われました。主の山、聖所とは礼拝する場所を指します。そこに向かうには準備が必要です。「潔白な手」「清い心」心と体どちらも正しいものであること、「むなしいものによって魂が奪われず、欺くものによって誓わない」(4節)偶像崇拝に陥らないものを指しています。私たちは欠けがあり、完璧には出来ません。これらをするのは、「主を求める人」(7節)となることです。私たちは、主を第一とし心の真ん中において、求めていくことで、私たちは心も体も清められ聖所に立つ資格が与えられます。          

                    

 「城門よ、頭を上げよ。とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる」(7,9節)の中にある「頭を上げる」「身を起こす」倒れている者がもう一度立ち上がります。傲慢や罪によって歩むべき道が崩れていました。それを立ち直すのは、ダビデとも思われていました。ダビデは「栄光に輝く王が来られる。…万軍の主、主こそ栄光に輝く王」(10節)と賛美をしました。主ご自身が万軍に輝く栄光に輝く王である。その主が世界に来てくださった喜びを待ち望みましょう。

                          (後藤真英師)

 

12月13日() 聖日礼拝

             「インマヌエルの主」   マタイ福音書1章18-25節

 

クリスマスは、救い主であるお方が誕生された日です。その意味は、神様が私たちに最高のプレゼントをくださったことです。

 

マリアの婚約者のヨセフは、マリアが語ったことすなわち聖霊によって救い主を身ごもったということを信じることができませんでした。マリアは不貞の罪を犯したに違いない。そのことが明らかになれば、マリアは石打の刑で命を奪われる。彼女の命を助けるために婚約を破棄しようかと悩みました。

 

しかし、ある夜夢で主の天使がヨセフに告げました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(20-21節)。ヨセフはそのみ告げを受けとめました。

 

罪とは何でしょうか。それは警察に捕まるような悪いことという意味ではありません。罪とは神を認めず、神に背を向けて歩むことです。その方を信じるより自分を信じる、他の神々を信じることです。神のみ言葉を聴くより、自分の声を聴き、この世の声を聴くことです。

 

その結果、自分中心に陥り行き詰ります。人との間の平和を失い、自分のうちには平安を失います。心の中に暗闇が覆います。

 

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(23節)。 人は、最初の人アダムとエバの時以来、インマヌエルの恵みを失ってしまいました。そのインマヌエルの恵みを回復させるために、神ご自身が大きな犠牲を払ってくださいました。イエス・キリストを通しての神との交わりの回復の恵みがもたらされました。

                          (久多良木和夫)

 

12月20日() 聖日礼拝

             「三つの献げもの」     マタイ福音書2章1-12節

 

私たちそれぞれ、いろいろなものを所有しています。命、時間、持ち物、知恵、才能、その他、それをどう用いるかで、何を大切にしているかがわかります。

 

 三人の学者たちは、ユダヤの国から見るとはるか東方から旅をしてユダヤの国に来ました。彼らは、占星術の学者で、天の星の運行を研究して、そこから大切なメッセージを得ていました。彼らは、星の研究で、ユダヤの国の真の王の誕生を知りました。そのお方にお会いするために来たのです。

 

 ユダヤの国の領主であったヘロデに謁見しました。ヘロデはその王の誕生の地がベツレヘムであることを祭司長、律法学者たちから聞きました。それはミカ書に記されていました。ヘロデも祭司長、律法学者も、誰一人、その方に会いに行こうとしませんでした。

 

 学者たちは、救い主イエスに会うことができました。神は、星を通して彼らを導かれたのでした。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。」(9節)。

 

 彼らは、持ってきた3つの宝を献げました。黄金、乳香、没薬です。黄金は王にふさわしいものです。乳香は礼拝の時にたいて捧げる香です。そして没薬は死者を葬るときに用いた特別な薬です。とても高価なものでしたが、学者たちは自分の持ち物をはたいてそれを手に入れてやってきたのでした。「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(11節)。

                          (久多良木和夫)

 

12月27日() 年末感謝礼拝

         「相互の交わりに生きる」    使徒言行録2章42-47     

 

この年のテーマは、交わりでした。ギリシャ語の原語ではコイノニアです。この言葉には2つの意味があります。一つは人との交わりです。人との交わりを大切にし、互いを覚え合うということです。もう一つは、神との交わりです。主にしっかりとつながって歩むということです。具体的には、主に向かっての祈りであり、御言葉を読むことであり、礼拝を捧げていくことです。

「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(42節)。聖霊降臨の恵みを受けて、主の弟子たちは、これらの4つのことを大事にしました。

 

 この一年を振り返ってみると、1)礼拝、2)召天者合同記念礼拝、3)中止した諸行事、4)復興だより、5)ネットでの外部特別集会の視聴、6)週報等の届け、7)7つのグループ、8)クリスマス礼拝、9)シルバーサンホームでの宗教講話中止、10)祈祷会、11)来年度に向けての曽根担当教師の人事異動案などがありました。

 

 この年、新型コロナ感染のことで自ら行き詰まりを経験する中で、もっと大きな行き詰まりを経験している方々に思いを馳せるように導かれました。

 主につながり歩むことを通して、自分自身が支えられ恵まれることを通して、他の方々をもっと思いやり、互いに励まし合い、支え合って歩んでいきましょう。 

                          (久多良木和夫師)