2023年3月

3月5日() 聖日礼拝 説教メモ

  「今や、恵みの時」  コリントの信徒への手紙二6章1-13節

 

★幸いなこと

 幸いとは、どのようなことか?

  自分の思い通りに事が運ぶこと、自分の願い通りに事が運ぶこと それもそうかもしれない。  では、そうでないときはどうか? そうでないことの方が多いかもしれない。

 思い通りに事は運ばない、願い通りには事は運ばない。

 むしろその反対のこともある。

  それだけならば、なんと不幸な、なんと不運な、なんとみじめなで終わってしまう。

 まさに、それは運が悪い、それは悲しい、それは、何とも言い難い、何ともみじめと思える。

 しかし、そこに助けが与えられるなら、そこに新たな道が開けるならそれは、また幸い。

 

★道が開かれる

 道が閉ざされたと思ったのに、道が開かれた。

  雪道で、高速道は長時間渋滞、その間はつらくてたまらない。でも、半日が、いや1日後、2日後、動き出した。 それは感謝

 高校受験、大学受験

  うまくいかなかった、不合格 なんとみじめ、もうだめだと思ってしまう。

  他の高校、大学を受験  また1年間浪人する、 予備校に通う、自宅での勉強、 そして1年後に進む高校、大学が決まったなら、大きな喜び。

  

★神からの恵み

 神の愛は注がれている。 神からの恵みは豊かに与えられている。

 太陽の光、天からの雨のよう、 私たちを支え生かすもの

 普段、太陽の光、天からの雨の恵みを意識していない。それがなければ生きていけない。

 神の愛、恵みもそのようなもの

1

6:1 わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。

 その恵みを無駄にしてはいけない。

 その恵みに感謝して、その恵みに生かされたい。

 

★使徒パウロの生きざま

 使徒パウロという方の生きざま  想像を絶する歩み  多くの苦しみを経験した。主イエスを信じ、クリスチャンとなる。さらに伝道者、宣教者となる。

 主イエスを宣べ伝える。主の福音を宣べ伝える。

 使徒言行録に記されている通り。 迫害にあった。 苦しみの連続であった。

 苦しみの連続、試練の連続。

  普通、もうだめだ、もう耐えられない。

  なんとみじめなことか、 こんなはずではなかったと嘆く。

 もし自分だったら、どうだろうか。 多分、ああみじめだ、ああ苦しい、ああもうだめだ

  なんと不運な、なんと悲しい、どん底だ、いやだと叫ぶかもしれない。

  こんな人生、こんなつらい人生 ああ、なんとみじめなことかと

 パウロはどうであったか?

◎3-10節

6:3 わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、

6:4 あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、

6:5 鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、

6:6 純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、

6:7 真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、

6:8 栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、

6:9 人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、

6:10 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

 

★苦しみの数々

 多くの苦しみを経験する。 苦しみの連続

6:4苦難、欠乏、行き詰まり、

6:5 鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、

6:8 栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、

6:9 人に知られていないようでいて、 死にかかっているようで、 罰せられているようで、

6:10 悲しんでいるようで、物乞いのようで、無一物のようで、

 苦難、欠乏、行き詰まり むち打ち、監禁、・・労苦、・・ 辱めを受ける 悪評を浴びる

 みじめな状態  迫害の数々 いやがらせ、苦しめられ、石を投げつけられ

 鞭打たれ、牢の中に投げ込まれる

 なんということか、なんというみじめなことかと考える。

 もう嫌だ。もうやめたと考えてもおかしくない。

 もう、この人生を放り投げる、 もうこの務めを放り投げる。

 しかし、パウロはそうしなかった。

 また、普通なら、沈み込んでしまう。ああ、自分はみじめだ、もうだめだ

 ただ、沈み込んだまま流れに任せる。

 悲しみとみじめさの中に閉じこもる。外には出ていかない。自分の殻の中に閉じこもる。  嘆きの日々を過ごす。

 

★パウロはどうであったか?

 パウロ自身も一時的に沈み込むことはあったことでしょう。

 なんと悲しい、なんとみじめと思ったことでしょう。

 しかし、そこにとどまり続けなかった。

 そこから浮き上がってきた。

6:4 あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、

6:6 純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、

6:7 真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、

6:8誠実であり、

6:9よく知られ、 生きており、 殺されてはおらず、

6:10常に喜び、 多くの人を富ませ、 すべてのものを所有しています。

 神に仕える者として歩み続けた  大いなる忍耐をいただいた

 純真、寛容、親切であり続けた 誠実に生きた。 喜んでいた。

 そして、他の人を生かす働きに精出した。 それは、驚くべきこと。

 もう自分のことでいっぱい、いっぱい 他の人のことは知らない、他の人のために生きることなんかできないではなく、他の人に仕え歩んだ。

 決して、沈み込んだままではなかった。 そこから浮き上がり、生き生きと歩んだ。

 

★フィリピの町にて

その一例、一場面

○使徒言行16:16-34

 

  占いの霊につかれている女性から、その占いの霊を追い出してあげた。

 その女性を利用している者たちから苦しめられた。 散々な目にあった

 真夜中の賛美

  最もみじめと思われるときに、神に祈りを捧げ、讃美をした。

  その夜、大地震が起き、看守は、自らの命を絶とうとした。 それをやめさせ、

  主イエスを信じるようにと導き、看守とその家族は、主の救いに与ることができた。

 鞭打たれ、足枷をはめられ、牢の中に投げ込まれる。最悪、最低と思われる出来事

 その中に身を置いた。

 パウロとシラスは、その夜、神に祈り、讃美した。

 

★使徒パウロがそのようにできた秘訣はどこにあったのか?   

 パウロが生かされた秘訣

6:6聖霊、偽りのない愛、

6:7 真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、

6:10 すべてのものを所有しています。

 聖霊なる神に支え強めていただいた。 イエス・キリストの霊である聖霊

 神の愛によって、励まされ生かされていた。 

 真理の言葉 左右の手に持った義の武器

○エフェソ6章17-18節

6:17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

6:18 どのような時にも、に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

 いろいろな言葉が飛び交う現代

 聖書の御言葉に聞く。 御言葉を通しての神の語り掛けを聞く。

 『みことばの光』、 『アパルーム』、 『信徒の友』の日ごとの糧

 『デイリーブレッド』  デボーションの時 主のみ前に静まる時、祈りの時を持つ。 自分は、主によって罪赦され、神の子どもとされたものであることをかみしめる。

 自分が持っているものは限られている。多く持っているようで、ほんの少ししか持っていない。 しかし、主はすべてを持っておられる。

 主は、この私に必要なものを必ず与えてくださる。

 寄り頼む者の祈りに応えてくださるお方。

 その主を仰いで、主と共に生きる幸いを心にとめる。 

 主から離れず、主に近く歩む そこから与えられる恵み、力、満たし

 パウロは、主の愛と恵みによって生かされた。 私たちも主の愛と恵みによって生かされましょう。

 

★これはどういうことか?という経験

 2日(木)、北九州空港に夜8時30分に着いた。 

 8時55分発の高速バスに乗った。

  ニモカのカードがない、乗る時にはあったのに、いくら探してもない。狐に包まれた思い。 やはり見つからない。千円札を小銭に両替して、三萩野バス停で降りる。

 ニモカカードを噴出 お祈りしたが見つからず。

 落ち込んだ気持ちで牧師館につき、休む。

 次の日、もう一度お祈りして、そうだダメもとで、砂津のバスセンターに電話してみよう。 30分くらいして、見つかりましたとの連絡。

 3日(金)午後、受け取りに行った。 手元に戻った良かった。

 どこにあったか、 座席と補助イスの隙間に挟まっていた。 感謝。

 

★今や、恵みの時

◎2節

6:2 なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

 主は、真実なお方 寄り頼む者の願いを聞いてくださる。

 すべてそうなるかというとそうでない時もある。

  願い求めたのに、そのようにならなかった。 そのような時、つらい思いを持つ。 しかし、主は、どこかに行かれてしまったのではありません。

 私たちの祈り、叫びを覚えていてくださる。

 

★過ぎ越しの出来事

 主が、イスラエルの民をエジプトから救い出してくださった出来事

 すべてを支配するエジプトの王ファラオ

 *災い

  ①血の災い、 ②蛙の災い、 ③ぶよの災い、 ④あぶの災い

  ⑤疫病の災い、 ⑥はれ物の災い、 ⑦雹の災い、 ⑧いなごの災い

  ⑨暗闇の災い

 主が、応援してくださった。

 そして、ついに、過ぎ越しの出来事

○出エジプト12:1-36

 主が勝利を取ってくださった。

○イザヤ書53章11節

53:11 彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。

 主イエスの御苦しみ

  その尊い犠牲が、すべての人を生かす。

  主イエスを信じる者を救う。

 主は、いつも、私たちを顧み、助け、救い出してくださる。

 今や恵みの時   主に一歩近づきましょう。

 

3月12日() 聖日礼拝 説教メモ

「私たちは生ける神の神殿」コリントの信徒への手紙二6章14-18節

 

★健康を保つ

 健康を保つことの重要性 健康でなければ、何もできない、何もしたくない。 健康であれば、何かができる、何かをしたい。

 内側が充実していれば、平安があり、力が満ち、意欲が湧いてくる。

 肉体的にも、霊的にもそのようでありたい。

 

★健康の秘訣

 食事、運動、睡眠 適度な食事、適度な運動、適度な睡眠

 特に食事を考えてみましょう。 栄養のあるものを摂取する。

  暴飲暴食を避ける。 スナックばかり食べない。

  肉ばかり食べない。 肉、魚、野菜をバランスよく、食べる。

  食べ過ぎるなら、そのために胃腸は休む暇もない。 栄養過多となる。

 何を食べるか、バランスよく、体と相談しながら、食べることは大事なこと。

 

★自分の体

 親からいただいた体、そしてまた、神様からいただいた体 その健康

 その健康維持に努めたい。

 

★何を食べるかは大事

 バランスの良いもの 肉、魚、野菜

 でんぷんのものばかり食べない、 タンパク質(肉、魚、大豆)をしっかりとる。 野菜も適度にとる 新鮮なもの 肉、魚、野菜 

  古いものは味が落ちる。 

  新鮮なもの、新しいものは味が良い、健康にもよい。

   トマト、キューリ、・・    生きのよい魚、鮮度の保たれた肉

  もし、反対だったら、鮮度が落ちていると味は落ちる。

  さらに鮮度が落ちていくなら、腐る。 味がおかしくなる。

 それを食べるなら、おなかを壊す、食中毒になる。

 

★何を食べるか、どのくらい食べるかに注意して歩む

 何を食べるか、どのくらい食べるかに注意して歩むとき、健康が増し加わる。

 心がけたい。 神さまから与えられている体の健康

 

★運動、休息、睡眠も同様。

 適度な運動、適度な睡眠 そのことで、健康の維持、健康を整える。

 忙しくて、なかなか運動する時間もない、睡眠時間を削らなければならないという状況もある。 休息も必要。

 運動過多、睡眠過多もよくない。 適度な運動、睡眠、休息、リズム

 

★精神も大事

 肉体だけでなく、精神も大事。 メンタルの健康

様々なストレス、その中で、いかにそれを解消するか。 忙しすぎることは決して良いことではない。 時に息抜き、休息が必要。 リラックス、忙しさを離れる。 時にゆっくりする。 音楽鑑賞、散歩、山登り、趣味にひと時を没頭する。

 忙しさの中にも、時にその忙しさをオフにする。 オンとオフの切り替え

緊張を解く、ボーとするときも必要。

そういってもそれができない忙しさ 日々迫ってくる圧迫、頭を悩ます問題、課

題。 主にそのことを申し上げ、自分ですべてを背負い込まない、主にお任せする、おゆだねしつつ歩んでいきましょう。

 

★心を虜にするもの

 心は自分のものなのに、どうにもならない時がある。

 やりたいことに打ち込む、意欲いっぱいあることに取り組む。それは幸いなこと 

 その反対のこともある。 心が恐れで包まれる、怒りでいっぱいになる、心配でいっぱいになる。 焦りでいっぱいになる。 そのようになることがある私たちです 平安を失ってしまう。 主に支えていただきましょう。守っていただきましょう。

 

★良くないと示されたものを遠ざける

 良くないと示されたもの、良くないと思うものをずっと内に持っているなら具合が悪くなる。

 実際には、そのことに気づかない。 気づいてもそうできない。

 ゲームが面白い

  その面白さにはまってしまう。一日に、2時間、3時間、いや10時間と

 ギャンブルにはまってしまう。

  ギャンブル付け 大事な時間とお金、財産をなくしてしまう。

 アルコール、薬物、・・

 インターネットにはまる。

  ネットの世界、面白い記事にあふれている。 現実世界というより仮想空間(バーチャルな世界) 楽しい、そればかりしていたら、時間はいくらあっても足りない。 睡眠時間が削られる。

 ネットの闇がある。

  闇取引、闇サイト それに引っかかる。 そこに引っ掛かり、間違ったこと、犯罪に身を染めてしまう。

 ネットを間違って開けば、ポルノの世界もある。 性的な画像や動画も山とある。 そこにはまり込めば、何時間でも、何日でも、時間を奪われる。

  そのことで、心がいっぱいになる。  心が偏ってしまう。

  健全でないものが心に満ちる。

◎17-18節

 6:17 だから、あの者どもの中から出て行き、遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、

6:18 父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。』全能の主はこう仰せられる。

 遠ざかるように。 触れるのをやめよ。

 イノシシや熊の罠の中で、檻式の罠がある。

 その檻の中には、おいしそうな餌が置かれている。餌が仕掛けられている。

 その餌を食べたい、でも何かおかしい、この檻の中に入ってもよいものか、最初は警戒する、 その餌の匂いに引き付けられ、少しずつ、その入り口に近づく。 少しずつ入っていく。 最初は1歩だけ、次には1歩半、・・

 そして完全に檻の中に入る そして、ついに餌を食べる。 入口のシャッターが落ちるようになっている。 その猪、熊はその檻から出ることができなくなる。 そして、捕らえられて命を失うことになる。

 食中毒になると、体は反応して、おなかを下す。

  それは悪いものを体の外に出してしまう反応。 神さまがそのように体に備えていてくださっている。

 良くないものを遠ざける、汚れたものに触れることをやめる。

 この関係は良いものではない、この関係を続けていたならば、いつかそのことで自分は身を滅ぼしてしまう。

 その関係を遠ざける、その関係を断つ  決して簡単ではない。 

 主に祈り、主の助けをいただいて、その歩みをなしていく。 主は支え助けてくださるお方です。

 

★鮮やかな色

 絵具のそれぞれの色 様々な色の絵の具

 その色固有の色がある きれい

 黄色と緑を混ぜると黄緑の色を作り出すことができる。

 青と白を混ぜると水色、 黒を白を混ぜると灰色 

 絵を描き終え、そのパレットに出した絵具をすべて混ぜると、汚い色になる。

 ごちゃ混ぜにすると、それぞれの色の良さは失われていまう。

 

★神さまがそれぞれに与えてくださっている素敵な色がある。

 その色に感謝して、歩みたい。

 他の人の色が時にうらやましく思えても、自分に与えられている色を心にとめ、主に感謝しましょう。

 いろいろな色を取り入れすぎると、きれいな色が消えてしまうことがある、注意したい。

 

★キリスト者としての色、輝き

 主が、クリスチャンとしての色、輝きを与えてくださった。

 その色、輝きを大事にしたい。 信仰を与えられた私たち

 主より正義を教えていただいた。 これが主に喜ばれること、御心にかなったこと 光の子どもにしていただいた。 真の神である方を教えていただいた。

 以前は、信仰のない者であった。

 この世において通ればよい、人間の判断でどうにでも動く基準を持って歩んでいた。 不法も時によしとしていた。

 以前は闇の子であった。闇にも顔を出していた。

 ベリアルとは、無価値、邪悪の意味 サタンを意味する

 かつては偶像を神としていた。 しかし、今は違う。

◎14-18節

6:14 あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。

6:15 キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。

6:16 神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 それらのものとごちゃ混ぜにしてはしてはならない。

 それらをどんどん取り入れたはならない。

 

★私たちは生ける神の神殿

 神の神殿、そこは神さまを礼拝する場所

 旧約の時代は、捧げものとして聖別された動物がささげられた。

  その命を犠牲のもとに礼拝が捧げられた。 香がたかれた。

  主への祈りと賛美がなされた。

 定められたもの以外の動物は決してささげなかった。

 偶像も決して置かれなかった。

 主イエスの尊い命の犠牲によって、罪の赦しの道が開かれた。

 主イエスを私の救い主として信じ、受け入れるものは、罪の赦し、神の子どもとして資格が与えられた。

 内に救いのしるしとして、聖霊が与えられた。

 内の聖霊を宿すものとなった。

 その大いなる恵みを下さるために、主はその命をあの十字架で命をささげてくださった。

 

〇イザヤ書53:1-12

53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

53:4 が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。

53:5 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

53:6 わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。

53:7 苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。

53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。

53:9 彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに その墓は神に逆らう者と共にされ 富める者と共に葬られた。

53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。

53:11 彼は自らの苦しみの実りを それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。

53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。

 生ける神の神殿である。

 神のものとされ、神をほめたたえるものとされたことの幸い

 その幸いを心にとめて歩みましょう。

 

3月19日() 聖日礼拝 説教メモ

「神からの力づけと慰め」 コリントの信徒への手紙二7章1-16節

 

★本日の中心聖句

 本日の中心聖句は6節です。

◎6節

7:6 しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。

 気落ちしたものを力づけ慰めてくださるお方がおられる。 その方は天の神さまである。

 原語のギリシャ語を見ると 力づける 慰めるは同じ言葉、パラクレオ―という言葉です。

 

★気落ちすることがある。

 気落ちする、打ちしおれる

【新共同訳】

2Co 7:6 しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。

【口語訳】

2Co 7:6 しかるに、うちしおれている者を慰める神は、テトスの到来によって、わたしたちを慰めて下さった。

【新改訳改訂3】

2Co7:6 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。

 プランター、鉢の花が元気をなくす時があります。 しおれる。

 たいてい、根に水が足りていない時です。 

 そのプランターに水を注いであげると元気になります。

 気落ちする、うちしおれる

 物事がうまくいかない。 順調だと思っていた仕事がうまくいかなくなった。

  仕事におけるトラブル、不調

 逆風が吹く 今までは順風だったのに、逆風が吹く。

 人間関係がうまくいかなくなる。

  今までは割とうまくいっていたのに、うまくいかなくなった。

  良い友達関係だったのに、けんかをしてしまった。

  行き違いが起き、仲たがいをするようになった。

心は元気を失う、心は重くなる、心は沈む。 

心は重い。 前に進むのにも、力が湧いて来ない。 その心を持ちつつ、進むことはつらい。

 

★力づけと慰め

 気落ちした者、うちしおれている者を神は慰めてくださる。 力づけてくださる。 それはなんという感謝なことか

 再び元気になる。 前に進む力を得ることができる。それは感謝なこと。

 

★使徒パウロ自身

 使徒パウロの経験 彼は大伝道者となった人物

 かつては迫害者であった。その彼が復活の主イエスに出会い、回心し、キリスト者となった。 そして大伝道者パウロになった。

 主イエスの救いの福音を力強く進めた人物。 多くの書簡を書き残した。

 そのパウロ自身が経験したこと

  それが気落ちするということです。うちしおれるということです。

  信じられない。 彼もまた人の子でもあった。 スーパーマンではなかった。 気落ちした、うちしおれた。

 

★難しい状況

 気落ちする、うちしおれること、急にそうなったというよりも、その原因があった。

◎5節

7:5 マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。

 全く安らぎがない。 心に平安がない、落ち着かない、心がざわつく。

 見えるところバリバリやっていると見えても、様々な戦いがある。

  反対する者、妨害する者がいた。

 外には戦い 伝道の働きを妨害する者、迫害する者。 厳しい戦いがあった。

 バリバリやっているように見えて、そこには多くの戦いがある。

 内には恐れ 心の内には恐れの心でいっぱい。 どうなるのだろうか、もうだめではないか このままつぶれてしまうのはないか

 マケドニア州の町々での伝道 厳しい迫害

 

★使徒パウロの心を重くしていたこと

 多くの人と接する時、うまくいく人もいれば、うまくいかない人もいる。

 使徒パウロもそのことを経験したであろう。

 彼の心を思うしていた一番の原因は、コリントの教会の人たちのこと。 

 コリントの教会は、パウロの伝道を通して誕生し、大きな教会となった。

  多くの人が集う教会となった。

 その教会に、パウロの伝えた福音を曲げようと知る人たちが入り込んできた。

  教会の主を見上げるのではなく、人を見ようとする。  

  主の教えを第一にするのでなく、人の意見の方に重きを置こうとする人たちが起きてきた。  パウロに対する様々な批判 

 コリントの教会は混乱していた。かき乱されていた。

 パウロは、そのコリントの教会のことを心配していた。コリントの教会が守られるように。 主を見上げ、主に従っていけるように。

 主を頭として、キリストの体が形成されるように。

 主の教えを無視し、人の教えを優先する。

 間違った教えが入り込んでいた。 主の教えが第一であり、それを外すことはできなのに、それがひっくり返っていた。

 そのことに心を痛めていたパウロ。

 愛する子どもが、どんどん自分から離れていくというつらい思いを持っていた。

 

★使徒パウロは手紙を書いた。

 コリントの教会につながる人たちを愛するゆえに、手紙を書き、弟子のテトスにその手紙を託した。 それは、コリントの教会の人たちを愛していること、

 それと共に、コリントの教会の問題を指摘した。 そのままではいけない。

 主は決して喜ばれない。主の喜ばれないことは捨て去るべきだ。 

 厳しい指摘の込められた手紙であった。

 しかし、それは切り捨てるための手紙ではなかった。 愛するゆえに書いた手紙であった、

 

★真実を貫いたパウロ

 不義を行わず、破滅させず、だまし取らず

◎2-4節

7:2 わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。

7:3 あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです。

7:4 わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。

 目に見えるところ、関係がうまくいっていない時にも、真実を持って、コリントの人たちに対して、真実に歩んだ。 そして、愛する心は変わらなかった。

  大事な友、大事な家族であると考えた。 

  生死を共にしている。 厚い信頼を寄せていた。 大いに誇った。

  見捨てることはしなかった。

 そのように歩むことは決して簡単ではないが、パウロはそうした。 そのように歩んだ。 一人一人のことを心にとめ、祈っていた。

 

★もっとも幸いなことが起きた。

 パウロが願っていたことは、ただ一つであった。

 コリントの教会の人たちが、神に従って歩むこと。

 神から心離れていた人が神に立ち返ること。

 神の教えをないがしろにしていた人たちが、神の教えを第一にすること。

 一言でいうなら、神の御前に悔い改めること。

  悔い改めるとは、後悔することではない。あれが悪かった、これが悪かった、あの事が問題だった、このことが問題だったということではない。

 そのことを、しっかり心にとめて、神に立ち返ること。

 神に向きを変えること。 神さまの方を向いていなかった。神に背を向けていた。 その自分を認め、神に立ち帰る。

 主よ、あなたの方を向いていなかったこの私をお許しください。 あなたに向きます。

◎8-12節

7:8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、

7:9 今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。

7:10 神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。

7:11 神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。

7:12 ですから、あなたがたに手紙を送ったのは、不義を行った者のためでも、その被害者のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱心を、神の御前であなたがたに明らかにするためでした。

 神の御心にかなった悲しみ

  ああ、主よ、あなたの御前に悔い改めます。 そのことで、取り消されない救いに通じる。

  人の心、自分の心にかなった悲しみではない 神の御心にかなった悲しみ

 聖霊なる神がそのように導いてくださる。

 

★パウロの喜び

 コリントの教会の人たちが神の御前に悔い改めたこと

 もう一つの喜び、それはテトスの喜ぶさまを見た。

◎7-16節

7:7 テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。

7:13 こういうわけでわたしたちは慰められたのです。この慰めに加えて、テトスの喜ぶさまを見て、わたしたちはいっそう喜びました。彼の心があなたがた一同のお陰で元気づけられたからです。

7:14 わたしはあなたがたのことをテトスに少し誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。それどころか、わたしたちはあなたがたにすべて真実を語ったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。

7:15 テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。

7:16 わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。

 手紙を持って行ったテトスが受け入れられたこと

 テトス自身がパウロと同じ心を持っていた。

  コリントの教会の人たちが、使徒パウロの手紙を読んで、自分たちのありかたの間違いに気づき、神の御前に悔い改めたこと

 そのことをテトスは喜んだ。

 そのテトスがコリントの人たちから慰められた。 悲しみが喜びに変えられた。 そのテトスの様子を見て、パウロ自身は喜んだ。

 

★神からの力づけと慰め

 使徒パウロ自身も気落ちした、うちしおれた。

 私たちも同じ。 私たちも時に気落ちする、うちしおれる。

 元気を失う。 外の戦い、内に恐れを持つ。

 物事がなかなかうまくいかない。時に攻撃される、非難される。

 わかってもらえない。 つらい。悲しい、つらい。

 パウロ自身も、そのことで悩んだ。

 しかし、真実を貫いた。人間的な策を練ることはやめよう。

主はすべてをご存じである。

 主ご自身がわかってくださる。 主にゆだねよう。

主の懐に飛び込む。

 幼子が悲しいことがある時、泣く。 そしてお母さんの胸に飛び込む。

 どうしたの、悲しいねえと受け止めてくれる。 涙が止まる。

主は、必ず出口を用意してくださる。 出口を用意していてくださる。

 主が慰めてくださる。

 ローマの信徒への手紙15章5節には、「耐と慰めの源である神」と記されている。

 神は慰めの主である。  様々なことの中で、悩み、苦しみ、落ち込むことがある。使徒パウロもそのようなところを通った。 私たちも通る。

 神から、力づけられ、慰められる幸い、それはどんなにか幸いなことか。 ハレルヤ!

 

3月26日() 聖日礼拝 説教メモ

  「ゲッセマネでの祈り」   マルコによる福音書14章32-42節 

 

★励まし

 励ましを受けることは、力である。

 苦しい時に、励ましを感じることができるなら幸い。

 苦しい時、どうなってしまうのかと不安な時、励ましを受けるなら、慰めであり、力を感じる。そして、耐えることができる。

 苦しみの時、悲しみの時に、一人で耐えることは大変。

 誰からの励まし、それは力となる。

 

★励ましの力

 励ましの力、それは、その時を耐えることができる。 持ちこたえる。

 そこにあり続けることができる。 そして、前に一歩進むことを可能にする。

 どこから励ましを受けるか。

  自分の家族、自分の友 自分のことをよく理解してくれている人

  今目の前にいる人、かつて共に歩んでくれた人

  かつて自分を支えてくれた人 それは、自分の親であるかもしれないし、友であるかもしれないし、小学時代、中学時代の先生であるかもしれないし、伴侶であるかもしれない。 既にこの世にはいない人であっても、あの時の励ましの言葉、愛の言葉 自分を顧みて、支えてくれた。

 

★今を生き、前にも一歩踏み出したい。

 今を生きてゆきたい。 前に一歩踏み出したい。

 その励ましの力を受ける。 それが届かない、それを感じることができないとき、つらい。 しかし、主なる神は、その励ましを与えてくださるお方。

 私たちを愛し、支え、見捨てないお方。

 その根本的土台をいただいていることは、どんなにか幸いなことか。

 今を生き、前に一歩進み出したい。

 

★今朝の聖書

 ゲッセマネの園での主イエスの祈りの場面

 「ゲッセマネでの祈り」

◎マルコ福音書14:32-42

14:32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。

14:33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、

14:34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」

14:35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、

14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

14:37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。

14:38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」

14:39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。

14:40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。

14:41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。

14:42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

 

★主イエスの十字架を前にしての最後の祈り

 その祈りの場所は、ゲッセマネの園

 ゲッセマネとはヘブライ語で〈オリーブ油しぼり〉を意味し,その名のとおり,エルサレムの東のケデロンの谷をへだてたオリーブ山にある園。

 そこで、主イエスは祈りをささげた。

 3人の弟子を連れて行った。 ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子。

 ゲッセマネの意味は、オリーブ油しぼりということ。

 オリーブの実から油をとるには、そのオリーブをつぶし、搾り取らねばならない。 オリーブの実は完全につぶされる必要がある。

 椿油も同じ、椿の実を押しつぶす機械で完全につぶしてしまう。するとその中にある油が出て来る。

 そのゲッセマネの園にて、主イエスは、最後の祈りをささげた。

  押しつぶされんばかりの苦しみを抱えて祈られた。

 

★主イエスの悲しみと苦しみ

 主イエスの悲しみと苦しみ それを心にとめ、主イエスはゲッセマネの園に出かけられた。 そこは、大事なことを抱えて、天の神様に祈りを捧げに行かれた場所であったことでしょう。

 ご自身の命の終わりが迫っている。 これほどの悲しみ、苦しみはないことでしょう。

 愛する弟子たちとの別れ。 ご自身の命が奪われる、奪い取られる。

 その最後は、敵に引き渡される。 ご自身を苦しめる敵、ご自身を踏みつぶそうとする敵。 どれほどの苦しみであることか。 

祈らずにはおれない。 祈らずには、耐えられない。 祈ることなくして、その時を過ごすことができない。

 

★3人の弟子への要請

 3人の弟子に願った。 祈らなければならない課題がある。大切な課題がある、大変な課題がある。 わたしのことを覚えて、祈り支えてほしい。

 3人の弟子たちは、一緒に連れて来られた。 共に祈ってほしいを要請された。 これはただ事ではないと感じたことでしょう。

 そうだ、自分たちは祈りを要請された。 祈らねばと思った。  

 しかし、実際には、彼らは疲れていた。 食事の後の眠気もあったのかもしれない。 祈らねばと思いつつも、眠りこけていた。 祈り始めて間もなくするといつの間にか眠りに落ちていた。

◎32-34節

14:32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。

14:33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、

14:34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」

◎37-41節

14:37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。

14:38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」

14:39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。

14:40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。

14:41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。

 3人の弟子たちは、祈りの要請を受けていたが、それに応えることができなかった。 主イエスの悩み、苦しみを理解していなかった。

 主イエスが、祈って戻って来る度に眠っていた。三度とも。

 

★私たちの姿に重なる。

 祈りを要請されているのに、その要請に応えることができない。

 眠りこけてしまう。 主よ、眠いのです。眠くてたまらないのです。

 心地よい眠り これこそ、最高ですと言わんばかりに、眠りこけてしまう。

 

★主は憐れんでくださる。

 主イエスは、3人の弟子たちの姿にがっかりしたことでしょう。

 もう知らない、もう勝手にしなさいとはおっしゃらなかった。

◎42節 

14:42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

 ゲッセマネの園での祈りの最後に、もう私一人で行く、あなたたちはここに居続けなさいとはおっしゃらなかった。 立ちなさい、さあとも行こうとおっしゃられた。

 

★ゲッセマネでの祈り

 ゲッセマネの園での祈り

◎35-36節

14:35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、

14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 この苦しみの時 この杯

 主イエスは苦しまれた。 不安と恐れ どれほどの苦しみであったことか

 

★この苦しみの時

 これから経験しなければならないことを思うと苦しくてたまらない。

 大変なことを前に、不安と恐れに包まれる。 どうなってしまうのか。耐えられるのだろうか。 果たして大丈夫だろうか? 決して大丈夫ではない。

 弟子たちとの別れ、この地上の歩みの終わり

 私たちも、愛する者と別れなければならないとしたなら、それを思うとつらくてたまりないでしょう。

 引き裂かれる。 大きな力によって引き裂かれる。

  病気、災害、戦争によって引き裂かれるとしたら、苦しくてたまらない。悲しみでいっぱいになることでしょう。

◎35節 

14:35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、

  この苦しみの時が過ぎ去るように祈られた。

 

★この杯

 この杯 それは苦難という杯、 十字架刑という杯

◎36節 

14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 この杯をわたしから取りのけてください。

 この杯を飲まなくて済むようにしてください。この杯は、あまりにも苦しいものです。この杯 捕らえられ、拷問を受けて殺される。

 昨年2月24日から始まったロシアによるウクライナへの軍事進攻、そして今なお続いている戦争 多くの尊い命が奪い取られた。

 その中には、敵によって捕らえられ、虐待され、拷問を受け、殺された人も決して少なくない。 人間の罪のゆえになすことの恐ろしさ

 非道の中で、苦しみを受けた多くの人たち、生き延びた人もいるが、その受けた苦しみはあまりに大きい。 その苦しみの中に命を奪われた人も多い。

 主イエスの語られた杯  それは苦しみの極み

 捕らえられ、虐待を受け、拷問を受け、最後は命を奪われる。 侮辱を受ける。 耐えられない苦しみ 人から罵倒される。 侮辱される、 唾を吐きかけられる。 鞭打たれる 非道の限りを受ける

 馬鹿にされる。 踏みつけられる。踏みにじられる。 すべてを否定される 

 どうして耐えられるでしょうか、決して耐えられない。

 

★主イエスは、その杯の苦しみをご存じであった。

 その苦しみをご存じであった。 それで、その杯を取りのけてくださいと願った。 その杯を飲まずにすむ道があるなら、その道にすすませてくださいと願った。

 その最後には、最も苦しい、苦しみの十字架刑にかからねばならない。その杯を飲まなくて済むようにしてくださいと

 

★切に訴えられた主イエス

◎36節

14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 アッバ、父よと訴えられた。

 天のお父様と 幼児が自分の父親に対して、全き信頼をもって語り掛ける言葉

 お父ちゃんという意味

 心から信頼して、主イエスは天の神様に呼びかけられた。

 アッバ、父よ。と

 

★三度祈られた。

 この杯を取り除いてください。

 この杯を飲まずに済むようにしてくださいと。 心から願った。

 私たちも、そう願うことがある。

  この杯、このことには大きな大変さが伴います。 

  私には荷が重いです。 この荷を担わないて済むようにしてくださいと

  私ではなく、他の人が担うようにしてくださいと。 とにかく私は勘弁してください。と それでやり過ごす道はないわけではない。 その杯を自分が飲まない分、他の人が飲むことになる。 私が担わなかった分、それを他の人が担うことになる。

 主イエスは、三度切に祈られた。

 この杯を取り除いてくださいと。

 十字架への道を避けさせてください。 十字架にかからない道を備え、そちらへ導いてくださいと。

 

★主イエスの最終の祈り

 主イエスの最終的に捧げた祈り

◎36節 

14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 すべてをゆだねる歩みへと 十字架に進む道

 神の御心 それは、主イエスが十字架につけられること

 十字架につけられ、命が取り去られる。

 そのたった一つしかない命,御子イエスの命

 罪が一つもないお方、罪のないお方 神の独り子なる主イエスの命

 その命の犠牲により

  すべての人の罪の身代わりとして。 

  私たち一人一人の罪の身代わりとして、主イエスの命が必要であった。

 人は、自分の罪の贖いをなすことはできない。

 それをなすとしたなら、自分の命の犠牲が必要。 それを犠牲として捧げたなら、もう命は残っていない。 すべてが終わる。

 この地上において、私たちの罪を赦すために、その罪の代価を主イエスはご自身の命をもって支払う。 そのことが、神の御心であるならば、そのようにしてください。

 主は、ご自身の思い、願いではなく、天の神様のみ思い、み旨、御心を選んでくださった。

 あなたの御心がなされますように、この私をとして御心がなされますようにとお祈りくださった。

 

★励まし、慰めの道

 励ましと慰めの道は備えられた。

 それは、一時的な励まし、慰めではない。

 変わることのない神の愛。 愛が注ぎ続けられている。

 あなたの罪は、すでに贖われた。 あの主イエスの十字架の死を通して。

 主は、私のために、あなたのために、十字架の道を選び取ってくださった。

 十字架への道を進んでくださったのです。 ハレルヤ!