2024年3月

 3月3日() 聖日礼拝 説教メモ

     「永遠の栄光への招き」      ペトロ一5章8-14節

  

☆永遠の栄光への招き

 3つの柱をもとにメッセージを取り次がせていただきます。

  ①永遠の栄光をいただく幸い

  ②永遠の栄光に至る途中における歩み

  ③永遠の栄光への招き

 

Ⅰ.永遠の栄光をいただく幸い

 皆さんは、何をもらったら喜ぶでしょうか?

 私たちが望むものはいろいろあるかもしれません。それを得たら喜び、幸い

 オリンピック 4年に一度 次はパリオリンピック

  入賞を目指して、メダルを目指して、何よりも栄誉なのは金メダル それを目指す 金メダル 一番高い表彰台で受賞する 

 神から、永遠の栄光を受けることができる その永遠の栄光とは何を指しているのでしょうか? それは永遠に続くもの 色褪せないもの 輝いているもの

 それは、主イエスにある御救いであり、永遠の御国に生きるということを指しています。

*主イエスにある御救い

 罪のために神と断絶していた 

 罪が入り込み、人は神に背を向け勝手に歩むようになった。 その結果、すべてを得たと思いつつも、一番大切な神にある命を失ってしまった。 その行きつくところは、むなしさであり、孤独であり、罪の結果で悩み、苦しむことであり、永遠の滅びです。

 その罪の問題が解決したのです。

 主イエスの十字架と復活によって解決した 主イエスにあって、神の子どもとされ歩み生きること どのようなところを通っても、主が共に歩んでくださる。 主と共に歩み、神を賛美しつつ生きる幸い それは大きな幸い、栄誉なこと

*永遠の御国に生きる

 この地上での生涯を歩み通す これは一大事業

 人生を全うすること 簡単なことではない

 生涯の歩みを歩み通す、走り切る それはまさにマラソン

 長い人生であった、充実した人生であった。守られた、それは感謝として心にしっかりとめられたなら幸いです。 それでも、それですべてがおしまいとするなら、寂しい、むなしい、人生のゴールが命の終わりであるならば、寂しい。

 この地上の生涯の先に備えられた永遠の御国がある。 天の御国は、主イエスによって備えられた その御国の門は開かれた。 主イエスを救い主として受け入れた者はそこに入ることができる。 この地上の生涯を全うして、なお御国に生きる幸いが用意されているのです。

 神が備えてくださった、永遠の栄光を一番大切なものとして歩みましょう

 その永遠の栄光とは、主イエスにある救いであり、主と共に歩むことです。

また。天の御国に入り、そこで憩い生きるということです。

 

Ⅱ.永遠の栄光に至る途中における歩み

 永遠の栄光に至る途中

 人生の途中で、主イエスのみ救いを知り、その御救いに与る そして神の子どもとされて歩み出す 天の御国を目指して歩み出す

 その途中、様々なことがある。 人生の歩み、信仰の歩みにおいては、山登りに似ている。道を選んで歩まなければならない 時に分かれ道があり、道が途中で壊れていることもある。 崖もある 落石もある 大きなくぼみ、穴が開いているところもある 道をしっかり見つつ、正しい道を選びつつ、崖に落ちないように、大きなくぼみ、穴、落とし穴に足を落とし込まないようにしつつ、歩まねばならない。

 その信仰の歩みにおいては。様々な誘惑があるかもしれない。

 いつの間にか主イエスにある信仰の道から外れてしまうこともある。

 主によって、引き戻していただきましょう。引き上げていただきましょう。

 その信仰の歩みにおいて、その歩みを惑わす存在がある。 それが悪魔である。 今日の聖書箇所 

◎8-9節

5:8 身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。

5:9 信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。

 敵である悪魔 あなたがたの敵である悪魔

 その悪魔は誰かを食い尽くそうと探し回っている

 羊の群れを狙う狼 羊飼いから遠く離れてポツンと1匹いる羊は一番危うい

 羊飼いのそばにいれば、大丈夫 羊飼いなる主と共に、主の間近に歩む者でありたい。そうあらせていただきましょう。

 悪魔に対してどう対処したらよいのか?

1)身を慎んで目を覚まさしていなさい。

  敵である悪魔に警戒する

  自分は悪魔ですと言って近づいてくる悪魔はいない。 時に天使のように  変装して、そーと近づいてくる。 あれもこれも手に入れる、あれもこれもしたい。 自分のしたいことをいつも第一にしていたら、すべての時間はそこに流れてしまう。 

 イエス様を中心にして歩んでいたのに、気が付いたら、イエス様を遠くに押しやって、自分が中心になって歩むようになっていた。

 目を覚ます 自分の生き方、歩み方を点検しつつ、自分一人で点検していたら、自分の思いのまま、 主イエス様に相談しつつ歩む

 これは御心にかなっていますか? それとも御心から遠いことですかと尋ねつつ 目を覚ましてと、いつの間にか、うつらうつらと眠りこけてしまうことがある私たちだから気を付けたい。

 2)悪魔に抵抗しなさい

  悪魔よ、斥け イエス様は、そうおできになった。 私たちはどうか?

  悪魔よ、退けと宣言する時も必要です。 しかし、いつもそうできるとは限らない。 悪魔に比べたなら、とても対抗できないような者

 今日の聖書の箇所で、信仰にしっかり踏みとどまって

 信仰こそが勝利の鍵 私の力によって対抗したら、打ち負かされてしまう。

 信仰によって 主イエスにしっかり踏みとどまって 主イエスと共に歩むその歩み 信仰によって神を見上げ、信仰によって、神とつながり、神と共に歩むことの中で勝利をいただくのです。

エフェソの信徒への手紙6章に聞きましょう。

○エフェソ6:10-18

 6:10 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。

 6:11 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

 6:12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

 6:13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

 6:14 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、

 6:15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。

 6:16 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。

 6:17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

 6:18 どのような時にも、に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

 悪魔への対抗

 そのカギは「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」ということ 「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」ということです。

 その神の武具の一つは盾です。相手の剣を防ぐ盾です。その盾は信仰という盾です。 信仰を盾として取りなさい。

主イエスを信じ、主イエスに依り頼み、歩みのです。

 信仰の盾という神の武具をしっかり握って歩みましょう。

 永遠の栄光に至る途中において 悪魔との戦いを心にとめましょう。 

  自分の肉に力ではなく、主イエスにあって信仰にあって歩むのです。上からの神の力によって勝利をいただきましょう。

 

Ⅲ.永遠の栄光への招き

 永遠の栄光を与えてくださる主

主ご自身が永遠の栄光を与えてくださいます。 それを備えてくださいました。

 あらゆる恵みの源である神

  あふるる恵みの神(口語訳)、 あらゆる恵みに満ちた神(新改訳)

◎5節

5:10 しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全なものとし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。

◎口語訳

5:10 あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。

◎新改訳

 5:10 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあと で完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

 恵みは神から来ます。その源なるお方が主なる神です。

 恵みの源泉 そこから恵みがあふれ出ている。

 恵みとは、主イエスにある救いであり、永遠の命です。

 人生における試練、苦しみの中にあって特別に顧みてくださる。

 試練、苦しみ 私たちを揺さぶる、揺さぶられる。 その時に、主を見失うこともないわけではない。 主はどこに行かれたのかと疑念を持つことがないわわけではない。 主の支え、守り

○1章3-9節

 特に7節

1:7 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

 試練により練きよめられる

 やがて、イエス・キリストの現れる時には、称賛と栄光と誉とをもたらすとの約束。

◎10節 

5:10 しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全なものとし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。

 しばらくの間、苦しんだあなたがたを完全なものとする

 完全なものとする 主から離れない者とする、主のそば近くを歩む者とする。

 強め、力づけ、揺らぐことのないようにしてくださる。

 

今朝は、3つの柱をもとにメッセージを取り次がせていただきました。

 ①永遠の栄光をいただく幸い

   主イエスにある救い、御国の命 それはなんと幸いなことでしょう。

 ②永遠の栄光に至る途中における歩み

   悪魔の攻撃があるが、主にあって守られている。

 ③永遠の栄光への招き

   永遠の栄光を与えてくださる主がおられる。

 

 

 3月17日() 聖日礼拝(曽根会堂) 説教メモ

  「その身に私たちの罪を担って」  ペトロの手紙一2章18-25節 

 

☆レント(受難節)

 レントの期間、イースターを前にしての日曜日を除いた40日間

 今年のイースターは3月31日(日)ですから、残す期間はあと2週間

 レントの期間だけでは決してありませんが、この期間においては、特に主の十字架を心に新たに深く刻む時とさせていただきましょう。

 主イエスの十字架は、私のためであったとなお深く、しっかりと心に刻ませていただきましょう。

 

☆日本、世界、そして自分に目を目けるならば

 先日の3月11日で、あの東日本大震災より13年でした。 今年は元旦の日に能登半島地震が起きました。

 日本の国はいつどうなるかわからない。大地震がいつどこで起きてもおかしくない。

 世界においても、パンデミックの新型コロナは少し落ち着いてきたように思う。インフルエンザと同じ扱いとなった。しかし。これも実際のところどうなるのか心配。

 ロシアによって引き起こされた戦争 ウクライナにおける悲しみ、苦しみ

 戦争に投入して3年目に入っている。 核兵器が使われたなら大変なことになる。第3次世界大戦に進むならさらに大変なことになる。

 自分自身においても、様々なことがある。

 

☆今日の聖書箇所の一つのテーマは何か

 それは、苦しみを受けるということです。 これほど大きなテーマはないですね。 いろいろな苦しみがあります。

◎18-20節

2:18 召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。

2:19 不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。

2:20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。

 無慈悲な主人から無慈悲な扱いを受ける

 召し使い、その主人のもとで仕事をする者にとってはつらい。無慈悲な扱いを受ける。 なぜこのような扱いを受けなければならないのか 不当な苦しみを受ける 不当な扱いを受ける。 善を行ったのに苦しみを受ける。 

 自分としては、間違ったことをしていない、正しいことを行った。それなのに、相手から苦しみを受ける。文句を言われる、冷たくあしらわれる。激しく攻撃される。 その相手との戦いは、終わらない、延々と続くということもある。

 難しい問題。どうしたら良いのか。距離を置く、その問題から遠ざかることも一つの道。 その問題から逃げ出せない。大きなストレス

御言葉からの光

 19節 苦痛を耐える、20節 耐え忍ぶ

 耐える、耐え忍ぶ、忍耐する それは御心にかなうと言われている。

 問題は、耐えることができるか、耐え忍ぶことができるのかということ

ぐっと我慢しなさいと言われているのでしょうか? じっと我慢しなさいと言われているのでしょうか? そうではないと思います。一人で我慢しなさい、一人で忍耐しなさいというのであれば、それはつらい。

 つらいとき、苦しいとき、私たちは神に依り頼むのです。主よ、今つらいです。我慢ができない思いです。忍耐できません。私一人の力で、もう限界です。

共にあってください。支えてください。主よ、あなたの助けを必要としています。 あなたに依り頼みます。 ただあなただけにより頼みます。

 私一人では限界です。手立てはありません。

 この門を開くことはできません。この道を切り開くことはできません。ですからあなたに依り頼みます。 この私に平安を与えてください、安らぎを与えてください。あなたの近くで憩わせてください。

 主よ、あなたが味方になってください。あなたが味方であるなら、私は何も恐れません。 主に、自分が置かれていることを細かく申し上げ、主のもとで慰めをいただきましょう。

 主によって、涙を拭っていただきましょう。 

 私たちは、主とのスキンシップ、交わりを持つことで、大きな平安をいただくことができます。そのスキンシップ、交わりはどのようにして持つのか

 聖書の御言葉を読み、主よりの語りかけを聞く。

 主に向かってお祈りを捧げる。主を賛美し、主を礼拝することによってです。

 

☆キリストはどう歩まれたのか

 私たちが仰ぐキリストはどう歩まれたのか?

◎21-23節

2:21 あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。

2:22 「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」

2:23 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。

 苦しみを受けられた 私たちのために 

 それは足跡に続くように模範を示された。 足跡を残してくださった。 こう歩くのですよと ののしられてもののしり返されなかった  苦しめられても人を脅されなかった。

 どうしてそうできたのか。正しくお裁きになる方である父なる神にお任せになられたから。自分ではどうすることもできない。しかし、父なる神は正しくお裁きになることができる。 すべてをご支配しておられるお方。 

 すべての真実は神がご存じである。すべてを公正に裁かれるお方である。

 人の裁きが及ばないこともすべて、主が最後にはすべてを正しく裁かれる。

 この世では、どうすることもできないことも多い。

 

☆苦しみを受けられたキリスト 

 私たちのために苦しみを受けられた。 ご自身のためではなく、私たちのために。 ののしられても、ののしり返されなかった。 苦しめられても、その相手を脅かされなかった。 ののしられたらののしり返してしまうことがある私たち

  苦しめられたら、その分をお返しする。いやその2倍、3倍とお返しをしてしまう私たち。 しかし、キリストはそうされなかった。

*大祭司カイアフアのもとで

○マタイによる福音書26章57-68節

26:62 そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者た  ちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」

26:63 イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」

*総督ピラトのもとで

 ○マタイによる福音書27章11-14節

27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。

27:12 祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。

27:13 するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。

27:14 それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。

 主イエスの受けられた悩み、苦しまれた。罵倒された。

 偽りの証言もされた。それらを甘んじて受けられた。

  それらに耐えてくださった。それは私たちのために。 そして十字架への道をなお選び、進んでくださった。

 

☆十字架にかかってくださったキリスト

 キリストの最後 それは、十字架にかかってくださったということです。

 私たちの罪のためにキリストは十字架にかかってくださったのです。

 罪がわかるでしょうか?

 この私の罪 この私に罪がある、この私は罪びとである。そのことがわかる必要がある。

◎24節

2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。

 十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださった。

 わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためだった。

 そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされた。

 

○イザヤ書53章1-12節

53:4 彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。

53:5 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和がえられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

53:6 わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。

53:7 苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。

53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。

53:9 彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに その墓は神に逆らう者と共にされ 富める者と共に葬られた。

53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。

53:11 彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。

53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。

 私たちの病、私たちの痛み、私たちの背き、私たちの咎

 私の病、私の痛み、私の背き、私の咎

 誰にも言えないような秘密、隠しておきたいようなさまざまなこと

 背き、咎、 この私の犯してきた過ち、・・

 何も言い開きができない事柄。

 その罪を赦すために、主イエスは十字架についてくださった。

 その罪を背負って十字架についてくださった。

 その結果、その命が奪い取られた。 この私のために。・・

 その身に私たちの罪を担ってくださいました。

 

  

 3月24日() 聖日礼拝 説教メモ

     「十字架上での叫び」   マタイ福音書27章32-52節

 

☆棕櫚の聖日

 パームサンデー 棕櫚の聖日

 主イエスが十字架に向かって前に進み出された。 エルサレム入城

 主イエスは、ろばに乗ってエルサレムに入られた。

 馬ではなく、ろばに乗って、平和の君として、人々に仕える者と入城された。  

 多くの人が歓迎した。 棕櫚の葉を振りつつ、「ホサナ」と叫び迎え入れた。

 主イエスは、馬ではなくろばを用いられた。主がお入り用なのですと

 私たちも、「主がお入り用なのです」と招かれていることを覚えたい。

 その日「ホサナ」と叫んだ多くの人がいた。しかし、4日後には、総督ピラトの尋問の時に「十字架につけよ」と叫んだ人もいた。

 人の心は変わりやすい。自分中心であることも覚えておきたい。

 

☆最後の週

 主イエスにとってのこの地上での最後の週 日曜日にエルサレムに入られた。

 その週の半ばの木曜日 洗足の木曜日

 弟子たちの足を洗われた。弟子たちが主イエスの足を洗ったのではなく、主イエスが弟子たちの足を洗われた。

 あなたたちも、他の人の足を洗うものになりなさい。仕える者になりなさいと教えられた。

 仕えられるものではなく、仕える者になりなさいと

 その仕えることの究極は、十字架でその命を捧げることであった。

 その夕べ、最後の晩餐 弟子たちと主に、最後の食事

  パンを割き、これはわたしの体であると言われた。

  ぶどう酒を盃につぎ、これはわたしの血であると告げられた。

 その夜、主イエスはゲッセマネの園に行かれた。 ゲッセマネの祈り 

 十字架への道に進むべきかを祈られた。

  それは、苦悩の時であり、大きな決断の時でした。 できれば、この十字架という盃を飲まない道はないのでしょうかと父なる神に祈られた。

 三度お祈りされた。最後には、その杯を飲ませていただきますと心に決めてお祈りされた。

 この祈りがすべてであった。 十字架にかかること、そこでご自分の命を捧げることを選 

ばれた。 それは弟子たちのためであり、全人類のためでした。私たちのためでした。

 ゲッセマネの祈りの直後、主イエスは捕らえられた。

 その夜、大祭司カィアファのところに、そして総督ピラトのもとに連れて行かれた。ピラトのもとでの尋問 一晩中にわたっての違法で強引な裁判 不利な偽りの証言がなされた、主イエスは黙しておられた。そして、有罪判決 十字架につけるために、引き渡された。

金曜日 主イエスは十字架を背負い、ゴルゴダの丘へ そして十字架刑に処せられた。 それは最もむごい刑 手と足に大きな釘が撃ち込まれ、十字架につけられる。 そして、その十字架の上で、命の終わりまで、その身をさらされる。

 

☆本日の聖書箇所 

 主イエスの十字架刑の出来事が記されている箇所

 今朝開かれている聖書箇所の通りです。

◎32-52節

今朝の聖書から、さまざまなことを受けたらせていただきましょう。

 

第1のこと

 それは、十字架を強引に背負わされたシモンというキレネ人のこと

◎32節

27:32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。

 彼はたまたまその十字架を背負う主イエスのそばにいた。兵士に命じられて、そのゴルゴダへの道の一部の区間、十字架を背負わされた。こんな最悪はない。なんと運の悪いことかと思ったに違いない。 しかし、そのことで、シモンは決して忘れない出来事となった。後に、彼は主イエスを救い主と信じる者になったと言われています。

 最悪と思われることの中にも、主のご支配があることを心に留めたい。

 

第2のこと

 人々のののしりがあった。人からののしられること、これほどの苦痛はない。

◎38-44節

 人からののしられる、罵倒される これほどの侮辱はない。 

 相手から一歩的にののしられる。なんという屈辱

 主イエスは、それを受けられた。 そのみじめさを経験された。

 それに対して、主イエスは何も反論されなかった。黙って聞いておられた。

 私たちの救い主である主イエスは、そのようなみじめさを十字架の上で味わわれた。 私たちが時に味わうそのみじめさの何倍も何倍も深刻なみじめさを味わわれた。 なんという屈辱、なんというみじめさ

 主イエスが十字架の上で味わわれた屈辱、みじめさを心に留めたい。

 

第3のこと

 十字架上での苦痛 それは、表現しようもない痛み 激痛

 手と足に大きな釘が撃ち込まれ、十字架につけられて、十字架が立てられる。

 自分の体重の重みで、手を足が裂けんばかり。 激痛どころではない。

 その痛みを軽減するために、ぶどう酒が口元に差し出された。

◎34節

27:34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。

 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲まされそうになったが、なめただけで、飲もうとされなかった。 普通なら痛みを和らげるためにごくごくと飲むであろうそのぶどう酒を飲まれなかった。 本の少しなめただけであった。 痛みを味わわれるためであった。

 私たちの罪の身代わりとしての十字架 その痛みの極みまで主イエスは味わわれた。

 

第4のこと

 それは、主イエスの十字架の上での祈りです。

 今朝のマタイ福音書には記されていませんが、ルカ福音書に記されていることです。

 それは、深いとりなしの祈りです。

〇ルカによる福音書23章33-34節

23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。

23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。

 父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。

 神から遣わされた救い主を十字架につけていた。それはとんでもないことであった。 しかし、彼らは、そのことを行った。 彼らがしていることはどんなにかひどいことか

 主イエスは、呪うことをされなかった。

 自分を十字架刑に処した者たち、ののしりあざ笑う者たちのために、とりなしの祈りを捧げられた。 父よ、彼らをお赦しくださいととりなし祈られた。

 彼らは、自分がどれほどひどいことをしているか全くわかっていない。自分の大きな罪に気付いていないのですと。 彼らとは誰でしょうか? それは、十字架刑につけた者たちであり、ののしりあざけった者たちであり、私たちをも指しています。

 

第5のこと

 第5のこと、それが今朝の箇所の中心であり。説教題につけたことです。

 十字架の上での叫びです。

◎45-49節

27:45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

27:47 そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。

27:48 そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。

27:49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。

 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味

 絶望の叫びです。

 これほど深い絶望はない。 そのような叫びをする必要のなかった方が叫ばれた。

 三位一体の神

 父なる神、子なるイエス、聖霊なる神が、一心同体 永遠の始めから一心同体

  互いに一つであり、離れることのない、愛の関係

  離れ離れになることもない、見捨てる、見捨てられるなぞ、決してない関係

 それなのに、離れ離れになった。

 父なる神は、御子イエスを、私たちの救いのためにこの世にお遣わし下さった。 主イエスは遣わされておいでくださった。

 私たちは経験する苦しみ 大きな苦しみ、深い苦しみ

 ロシアに攻め込まれ、町を、そして家をめちゃくちゃにされたウクライナの人々 イスラエルによって攻撃されるガザ、ラファの人々

 愛する家族が、愛する友が死んでしまった。殺されたと叫ぶことしかできない。

戦争以外にも多くの苦しみがある。 そこにも叫びがある。

 この世においての理不尽なこと、 つらいこと

 人に話しても通じない悲しみ、苦しみ 人には話せないような悲しみ、苦しみ

 自分の家族のこと、自分自身のこと

 なぜ、私の家族に、なぜこの私に 今このつらい現実 

 心の中での叫び、これからどうなるのですか? どうしたら良いのですか?

  助けてください。 

27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 主イエスが最も深い叫びをあげられた。

 主イエスの受けた苦しみ、叫び

○イザヤ書53章4-5節

53:4 彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。

53:5 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 その命が捧げられたことを通して、救いの門が開かれた。 神との断絶が取り除かれた。 神との平和が与えられた。

 

第6のこと

 それは最後に叫ばれた。

〇ルカによる福音書23章44-46節

23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。

23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。

 すべてをおゆだねします。

  わたしの霊を父なる神の御手におゆだねします。

  父なる神にすべてをゆだね信頼された。

 

☆第7のこと

 救いは成し遂げられたのです。救いは完成したのですと

〇ヨハネによる福音書19章30節

19:30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

〇新改訳

  9:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。

 

 救いの御業は成し遂げられた。 主イエスを通して

 

 3月31日() イースター聖日礼拝 

   「恐れることはない」    マタイによる福音書28章1-10節

 

☆イースター、おめでとうございます。

 「Happy Easter」「イースター、おめでとう」

 本日は、イースターの日です。 主イエスが死を打ち破り復活されたことをお祝いする日です。 十字架につけられた主イエスは、命を落とされました。

 主イエスの弟子たちにとっては、最も深い悲しみの時でした。

 自分たちの主であるイエス様がお亡くなりになった。 人生最悪の日でした。

 その金曜日から数えて3日目の日曜日、主イエスは復活されました。

 イースターは。復活の主、勝利の主をほめたたえる日です。

 キリスト教信仰の中心にあるもの、それは、主イエスの十字架であり、その後の復活です。

 

☆復活の主に生かされる歩みを

 私たちは生きています。日々の歩みを営んでいます。

 願わくば、悲しみの中にも喜びを、足取りが重い中にも、足取りの軽さを

 勢いを失ってしまう中にも、勢いをいただきたい。

 

☆失意、落胆を経験する

 様々な歩みの中で。失意、落胆を経験する。 悲しみを経験する。 それが私たち

 こんなはずではなかった。 なぜこのようなことが起きてしまったのかと思うことがある。 計画通りに事は進まなかった。 前に進めなくなるような大きな困難を経験する。

 計画通り進んでいた時には、顔をあげていたのに、今は、顔がなかなか上がらない そのような中に歩むことがある。 希望がだんだんしぼんでいく。 希望が小さくなる。

 

☆復活の主が、私たちに臨んでおられる。

 復活の主が私たちを見ていてくださっている。復活の主が私たちのところに来てくださっている。 復活の主は、私たちを支えてくださる。

 復活の主が失意、落胆を共に担ってくださる。 しぼんでいた希望を再び膨らませてくださる。

 

☆本日の聖書箇所より、そのことを見てまいりましょう。

 本日の聖書箇所は、マタイによる福音書28章1-10節です。

 

☆本日のイースターの日曜日

本日、イースターの飾りがあり、きれいな花が並べられています。

イースターエッグをいただきます。イースターカードもどうぞ!

 

☆日曜日の朝

 それは、主イエスが十字架につけられた金曜日から三日目の日曜日でした。

 マグダラのマリアともう一人のマリアが経験したこと

 二人の女性は、他の弟子たち同様、大きな悲しみを経験しました。 失意落胆、悲しみのどん底に突き落とされました。

 悲しみの涙にくれました。 安息日の土曜を経て、二人は考えました。

 墓に葬られた主イエスのご遺体に没薬を塗って差し上げよう。

 当時の埋葬、 遺体を麻布でくるみ、大きな墓の中に横たえる。そして、入口の戸をふさぐ。 大きな石でふさがれた墓 果たして入れるだろうか?

 不安を抱えつつも、墓のところに出かけた。 その朝、大きな地震が起きた。

 

☆大きな地震

 驚き、恐れを生じさせる大きな地震 天使が天から下って来た。 そしてその墓の入り口をふさぐ大きな石を動かされた。 墓にいる口は開いた。 その時に起きたこと

◎2-4節 

28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。

28:3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。

28:4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

 大きな地震、息が止まるほどの恐怖

 番兵たちはその恐ろしさに震え上がった。そして死人のようになった。

 身動きができない。 怖くてたまらない。 死人のように動けなくなった。

 大きな地震、思いがけない恐ろしい出来事、 それは私たちを凍り付かせる。

私たちの活動を停止させる。 番兵たちはまさにそのようになった。

  

☆その時に語られた言葉

 それは、自分の中からの言葉ではなかった。 外からの言葉 

 外からの言葉でハットさせられることがある。

 それは責める言葉ではない。それはぱっと語られた言葉、告げられた言葉

 身近の人からの言葉、友の言葉、家族の言葉、小さな子どもからの言葉

 子ども。孫からの言葉のこともあるでしょう。

 

☆天使たちからの言葉

 天使は婦人たちマリアたちに語りかけられた。

◎5-7節

28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、

28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。

28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」

 恐れることはないという言葉でした。

 恐れのために、マリアたちも番兵たちと同じように身動きができなくなっていたのかもしれません。 そのマリアたちに天使は語りかけた。

 「恐れることはない」 なんと力強い言葉でしょう。

 大きな地震 恐れずにはいれない。 私たちに恐れを抱かせることはいろいろある。 自分を取り巻いていること、自分の上ののしかかっている力はあまりに大きい。 もう無理だ。自分にはできない、 このまま沈んでいくしかない。 恐れが自分を支配している。 支配されてしまっている。

 そこから抜け出すことは不可能だ 周りからもそう思われる、自分もそう思っている。

 マリアたちも大きな恐れに支配されていたことでしょう。

 そのマリアたちに語りかけられた 「恐れることはない」と

 あなたたちは没薬を塗りに来た主イエスは、復活されたのだと告げられた。

 死者の中から復活されたのだと 死を打ち破られたのだと

 死はすべてを飲みこむもの 死の前には誰も抵抗できない。死がやってきたら、もう何をしても無駄 死に打ち勝つことはできない。 死に飲み込まれたら、もうそれこそ一貫の終わり その死の前ではすべての者は無力 蛇ににらまれ飲み込まれたカエルのようなもの

 もう逃れるすべはない。 しかし、その死を主イエスは打ち破られたのです。

 

☆マリアたちは動き出した。

 とぼとぼと歩んでやって来たマリアたち 重い気持ちで、沈んだ気持ちでやって来たマリアたち そのマリアたちは走り出した。

◎8節

28:8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせる  

ために走って行った。

 悲しみに沈んだ心が喜びに変わった。 とぼとぼ歩んでいたのに、一転して走り始めた。

 喜びと希望を注ぎ込まれて、動き出した。 喜びと希望を失っていたマリアたち 自分では喜び、希望を生み出すことはできなかった。 そのマリアたちに、天使の言葉を通して、神が、喜び、希望を注ぎこんでくださった。

 

☆主イエスの語りかけ

  復活された主イエスは語りかけられた。

◎9-10節 

28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。

28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤ へ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

「おはよう」 カイレーテ(カイロウ) 喜ぶ、 ごきげんよう

   喜ぶ、こんにちは、ごきげんよう

 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

  恐れることはない 私たちへの言葉 恐れる私たちへの言葉

 

☆絶体絶命

 これでももうおしまいかもしれない。

 ある方が一人の小学生の子どもである女の子を乗せて運転をしていたそうです。 車線の複数ある道路を右折したそうです。 その時に本来進むべき左側の道路ではなく右側の道路、すなわち対向車線側に進んで行ったそうです。 これはまずい、正面衝突を起こすかもしれない。 その時その母親はとっさに娘の名前を呼んで、叫んだそうです。 「ゴメン」と それは、正面衝突事故を起こせば、命を落とすかもしれない。 お母さんのミスで、これで終わりかもしれないととっさに思って叫んだ言葉です。 幸い、交通事故にならずに済んで助かった。

 絶体絶命、もうこれでお終いかもしれないと思う瞬間がある。

 

☆恐れを抱かせる状況

 様々な状況、事柄

・過去を恐れる 過去を恐れる私たち、

   ・現在を恐れる 現在抱えている難しい問題、困難な事柄

   ・未来を恐れる 将来を恐れる。 将来は大丈夫だろうか?  自分の未来、将来 年を取っていく 健康は大丈夫だろうか だんだん衰えていく

 *現在抱えている事柄  

 ・災害 災害のために、住む家を失う、失っている方々がおられる

 ・戦争 戦争のために、住む家を失った。住む町を離れなければならない。家族が離れ離れ

 ・トラブル トラブルに巻き込まれる

 ・恐喝する者 恐喝して来る者

 ・いじめる相手 自分を標的にしていじめる相手、その集団 逃げるところがない

 ・ドメスティックバイオレンス(家庭内暴力) 家庭内で、恋人同士の間でも、行動によるバイオレンス、言葉によるバイオレンス

 ・ストーカー 自分に付きまとう者、執拗に追いかけてくる

 ・病気 考えもしなかった病気、難しい病気 これからどう付き合って行ったら良いか

 ・頼っていたものを失う 思わない出費、 仕事を失い、収入減、収入がなくなる 貯蓄が底をつきそうだ 頼りにしていた人がいなくなった。

 ・他の人 他の人からの圧迫

 ・自分自身 自分自身が不安定。 いろいろなことが気になり、不安定 どうしたら良いのだろう? どうなって行くのだろう? 様々のことが、自分を恐れの中に突き落とす。恐れの渦の中に巻き込まれ抜け出すことができない。 恐れる自分がいる。

 

☆「恐れることはない」

◎28節

28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

 恐れることはない

 ガリラヤへ行くように言いなさい、そこで私と出会うことになる。 ガリラヤとは、生活の日常の場です。 時に不安と恐れに包まれる。

 吹き飛ばされそうな自分自身の日々 そこに主はおいでくださる。その主と出会って生きるのです。 復活の主と共に生きるのです。

 そのためには、主イエスを私の救い主と受け入れることです。

 それが第一歩です。 決断が必要です、しかしそれは幸いな一歩であり、スタートです。 そして、その主を仰ぎつつ生きるのです。 復活の主をあがめつつ日々を生きるのです。 

 私が主人ではなく、主イエスこそが主人 普通の歩み方、私が中心、私が主人 私の思い、考えが最優先として歩む 主イエスは端っこにいていただく。

 それを改めるのです。 私の人生の主人は、私ではなく、主イエスである。

 私は、主イエスをあがめつつ、一歩一歩を進む。 主が中心にいてくださる。

 

 その主は、私を恐れから解放してくださる。なんという幸いでしょう。