2023年7月

7月2日() 聖日礼拝 説教メモ

   「誇る者は主を誇れ」 コリントの信徒への手紙二10章12-18節

 

★輝いているもの

 輝いているものがあります。 輝いているものを挙げるとしたら、何を挙げるでしょうか?

 宝石? ダイヤモンド、ルビー、エメラルド、・・

 太陽? 月、・・

 大きなゾウ? 強いライオン、足の速いチーター、・・

 クジラ? 大きなマグロ、ブリ、・・

 錦鯉? 熱帯魚、金魚、・・

 確かにそれらのものは目立ち、輝いています。

 しかし、それらだけではありません。

 鉄、銅、・・、小さな星々、 ウサギ、モグラ、・・

 小さなメダカ、フナ、・・  それらも輝いている。

 活躍してスポットライトを受けている人 大リーグで活躍している大谷翔平

 有名な芸能人、・・

 それらの人だけではありません。 いろいろなところで、自分のなすべきことを担っている方 それらの人がいてこの社会は回っています。

 小さな子ども、赤ちゃんも、それぞれ輝いている。

 

★輝きはどこから来るのか?

 確かに特別に秀でているものは輝いて見えます。

 しかし、他と比べて秀でているから輝くとも言えません。

 その存在が、そこにあり、その存在らしくあること。

 他との比較でなく、それ自体としてある、その存在を喜んでいる、そして、その中で

 ありのままあり続ける、なすべき歩みをなす、なすべき働きを担っている。

 特別に何かをしているというよりも、その与えられたところで感謝して歩んでいること、そのことの中に輝きがある。そして他の人に何かをもたらす。

 そのようであることができたら、幸いであり、感謝です。

 

★その持ち味、ありのままの姿

 それぞれには持ち味がある。 その持ち味は違う。

 神は、それぞれに良いものを与えてくださっています。 わたしに、あなたに。

 ただ、神を仰いで生きる時にそのことがわかる。

 神を仰いで生きていないと、そのことはわからない。

 その持ち味は、その人にしかないもの。それぞれの持ち味を感謝しましょう。

 

★持ち味を忘れてしまう。消してしまうこともある。

 自分の持ち味を理解しない、それを消してしまうことがあります。

 神さまを仰がず、周りを見てしまう時、そうしてしまうことがあります。

 他との比較、他と比べてしまう。

 他と比べて、優れているか、劣っているかと考えてしまう。

 現代社会は、情報があまりにも多く入って来る、競争社会になっている。

  小さい時から、他との比較で、評価されることが多い。

  いつの間にか、他と比較しつつ生きる。

  他と比較して優れているか、劣っているかと考える。

  それが行き過ぎると、優れていれば優越感、劣っていれば劣等感に支配されてしまう。

 

★主にあって喜び、自由に生きる者でありたい。

 主にあって喜び、自由に生きる者でありたい。

 今ここにあること、今こうして生きていること、今このことができていること、今自分にできることがあること、それらのことを感謝したい。 

 そこに自由があり、喜びがあり、感謝がある。そして、そこに輝きが起きる。

 

★本日の聖書箇所

 使徒パウロがコリント教会の信徒の方々に送った第2の手紙 その10章

 パウロが置かれていた状況

 パウロはコリントの町に行き、福音を宣べ伝えた。第2伝道旅行では1年半、そこに滞在した。旅行の中では、他の町々に比べて長期であった。 コリントの教会が設立された。

 パウロは、他の町々にも伝道旅行に駒を進めて行った。

 コリント教会に、パウロ以外の指導者がやって来た。コリントの教会をリードしていった。 その中には、優秀な指導者アポロもいた。

 ある指導者は、コリント教会の人に、自分たちが優れていること、自分たちに聞き従うようにと語る者もいた。

 最初の宣教者、指導者パウロを批判する人もいたことを伺い知ることができる。

 その中にあっても、パウロは、コリント教会の歩みを覚え祈り続けた。

 コリント教会の人たちを愛し、手紙を書き送った。

 

★コリント教会の信徒たちは、混乱させられた。 

 混乱させられた原因があった。

 それは、彼らの目が主ではなく、人に向かって行ったから。

 混乱させる者たちは、自分たちに目を向けさせた。

 自分たちの言うことが正しい、このことに耳を傾けなさいと

 

★問題はここにあった。

 問題は、ここに、すなわち自己推薦、他者との比較にあった。

*自己推薦

◎12節

10:12 わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。

◎18節

10:18 自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。

 自己推薦する。自分を推薦する。

 自分こそはすばらいい、自分たちこそは正しい、自分こそは優れていると考え、そのことを表明した。

 他の人と比べたら自分は素晴らしいと考えた。自分は最高のものだと考えた。

 いつの間にか、大きな間違いのもとに。

 自分の考え、自分の計画はすべて正しいのだ、これこそ最高なのだ、

 いつの間にか、その評価もすべて自分が行う。他の人の評価を受け入れない。

 そのことで、大きな間違いが起きる、大きな苦しみも起きる。

昨年2月末方始まったロシア大統領なる人物によって仕掛けられた戦争を見れば、明らかです。 自己推薦はとても危うい、危険。

*他者との比較

 他者と比較する。 他の人と評価し合う、比較し合う。

 時には良いこともあるが、それが行き過ぎると、いつも評価し合わなければ済まない、比較し合わなければ済まない。

 人との比較に終始する。 互いを受け止め、その良さを見ることよりも、自分との比較、

 自分の基準で見てしまう。 主を抜きにして、自分の基準。

 本当は、主がそれぞれを選び、それぞれを立てておられる。それぞれに良いものを与えてくださっている。 それぞれに輝きを与えておられる。

それなのに、人との比較でしか見ない。 その結果、輝きを消し合ってしまっている。

 優越感の中で歩んでしまったり、劣等感の中で歩んでしまう。

 

★混乱をもたらしている者たち

 自分たちの思いを中心して歩み、教会にある兄弟姉妹を、自分たちの陣営、自分たちの思い通りに動かそうとしていた。 使徒パウロに対しての厳しい評価も出していた。

 主を指し示すのではなく、自分たちを向くように仕向けた。そこに問題があった。

 そのようなことは正しくない、間違っていることを、使徒パウロは語った。

 

★使徒パウロ

 使徒パウロの生き方、考え いつも神を中心に据えて歩んだ。

 彼は、喜び、感謝した。何を?

 主によって、自分はなすべきことをなさせていただいた。

 かつて、サウロという名前の時代があった。 その意味は大きな者、偉大な者

 その時、彼はユダヤ教徒のエリートとして歩んでいた。

  主イエスを救い主と信じるキリスト者を許すことができない。徹底的に迫害する者として歩んでいた。 その自分に復活の主は現れてくださった。

 彼は、神の愛に打たれた。そしてその愛によって生まれ変わった。ダマスコ途上の回心によりイエスを主を信じる者に変えられた。

 名前もパウロという名に変えた。 その意味は小さな者ということ。

 主の救いに与り、主の救いを何よりも喜び、感謝した。

 主イエスを宣べ伝える者、宣教者となった。 その働きに従事した。

 その働きを心から喜び、感謝した。

◎13節

10:13 わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。

◎18節

10:18 自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。

 主が割り当ててくださった働き、主がなすように示し導いてくださったことを心を込めて行った。

 そのことの中で、コリントの町まで行くことができた。そして伝道に励んだ。

 そのことを喜び、感謝して、誇った。

 主がそのことをなさせてくださった。主にあって誇った。

 主に何よりも感謝した。 そこには喜び、感謝があった。

 

★使徒パウロの願い

 キリストの福音を宣べ伝えたい。

◎14-16節

10:14 わたしたちは、あなたがたのところまでは行かなかったかのように、限度を超えようとしているのではありません。実際、わたしたちはキリストの福音を携えてだれよりも先にあなたがたのもとを訪れたのです。

10:15 わたしたちは、他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません。ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、

10:16 あなたがたを越えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。

 キリストの福音を宣べ伝えたい。 その福音を携えて、あなたがたのもとを訪ねた。

  何よりも幸いなキリストの福音を携えて

 この福音を告げ知らせたい。 少しでも多くの人に、他の地域にも

 かつて、小倉北区清水から、小倉南区の曽根の地に福音の種が蒔かれた。

  家庭集会から始まり、定期集会、そして、曽根集会所

  八幡西区の黒崎の方面に対しても、願いがあった。ヴィジョン

 

★誇る者は主を誇れ

 誇る者は、主にあって誇れ。 主によって生かされていることを感謝して、主をほめたたえる。

 ◎17節

10:17 誇る者は主を誇れ。

 主を崇め、主をほめたたえる。

○コリント一3:4-9

3:4 ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと  

言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。

3:5 アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導  

くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。

3:6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。

3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

3:8 植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。

3:9 わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。

 大切なのは植える者でも、水を注ぐものではない。成長させてくださる神こそ大切な方である。

 アポロもパウロも、主によって立てられ、なすべき働きをした者に過ぎない。

 アポロ、そしてパウロを救いに満ちびかれた主、伝道者として立ててくださった主がいなければ、パウロの働きもアポロの働きもなかった。

 使徒パウロはいつも主を仰いでいた。

 

○コリント一1章26-31節

1:26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。

1:27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。

1:28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。

1:29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。

1:30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。

1:31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

世の無学な者を選んでくださった主 世の無力な者を選んでくださった主

世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選んでくださった。

 命の主、永遠の命の主を知らずに歩んでいた者を引き寄せ、天の命があること、永遠の命があることを教え示してくださった。

 神と断絶していた者を神と結び合わせてくださった。 神の子どもにしていただいた。

 キリストこそ、私たちにとって、神の知恵となってくださった。

  生きる道を教え導いてくださるお方

義と聖と贖いとなってくださった。

  この者は罪赦された者であると宣言してくださった。神の子どもであること宣言してくださる。

 この者は、神の御手の中で、その歩みを守ってくださる、日々、御心にかなうように引き上げてくださる。

 すべての罪の負債を支払ってくださった。

 この主に感謝して、すべてをゆだねて生きる。 主よ、感謝します。

 主こそ、生ける主、愛の主、永遠の命の主です。

 主をほめたたえます。

 私は、主を誇ります。 私たちは主を誇ります。 ハレルヤ!

 

7月9日() 聖日礼拝 説教メモ

      「誰かが弱っているなら」    コリント11章16-29節

 

★自分と他の人

 自分と他の人の関係 自分を理解し、他の人を理解する。

 自分は何者か、どのようにして今があるのか その理解は、自分の生き方において、他者との関係において大事な要素。

 

★自分を愛する、自分を大切にする

 自分を愛する、自分を大切にする そんなこと、当たり前ではないですか?

でも、それはとても大切なこと

自分を愛すること、自分を大切にすることができるか、できないか。

それは、自分の子ども時代、自分の今までの歩みに関係している。

子ども時代、今まで、愛されて、大切にされてきたという経験のある方は、大きな財産。幸い。その経験が、自分を愛すること、自分を大切にすることにつながる。

反対のことも当然ある。子ども時代、また今までの歩みにおいて、あまり愛されて来なかった。大切にされなかったという経験

自分を愛することがなかなかできない、自分を大切にできない。

それでは、そのような人は、そうできないかというと、決してそうではない。

過去に戻ることはできないが、すべてを支配しておられる主の愛を経験することで、生き直すことができる。

自分を愛する、自分を大切にすることができる。

 

★他の人を愛する、他者を大切にする。

 それは、簡単ではない。

自分のことではなく、他の人、他者のこと 自分のことで頭がいっぱいの現代人である私たち。 他の人のことまではどうも。

自分を愛する、自分を大切にできなければ、他の人を愛したり、大事にすることはできない。

他の人を愛しなさい、大切にしなさい、大事にしなさいとどんなに言われても、簡単ではない。そう簡単にはできない。

自分を愛し、自分を大切にできて、初めて、他の人を愛し、大切にできる。

 

★使徒パウロ

 彼はどのような人であったか。どのような歩みをしてきた人か?

 彼の3つのあり方、経験

①第1 それはエリートとしての歩み

 特別な血筋 ヘブライ人 イスラエル人 アブラハムの子孫

◎22節 

11:22 彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそ  

うです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。

 特別な血筋、 選民イスラエル

 ユダヤ教の中心の律法を厳密に守る。 そのことを何よりも大事にして歩んだ。 そのことで、神の御心にかなう。神の愛の中に生きることができる。

 律法を完全に守らないならば、律法をないがしろにするなら、神の愛は注がれない。

 律法を大事にしない者は、律法に従って歩まない者は、失格者だ。

 自分たちこそは、自分こそは、律法の遵守者、自分こそは、神から愛される最高の者だという自負があった。

 律法を守らない者、律法をおろそかにする者、律法を知らない者は、呪われよ。

 神の愛の外に置かれている者だ。とんでもないものだと考えていた。

②第2 キリストに仕える者

 その上記のパウロが一転して、キリストに仕える者になった。

 私たちも誰に仕えるかを選ばねばならない。 仕えるべきいろいろな存在がある。

上司に仕える、 会社に仕える、 この世に仕える、 お金に仕える、 名誉に仕える

 このために、このことを一番として歩む  人によって、それぞれ

23節

11:23 キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。

 キリストを信じ歩む者になった。

 かつては熱心なユダヤ教徒、そこから熱心なキリスト教徒

 自分は、主に仕えるのだ、主の御心に従うのだと、伝道者、宣教者になった。

 使徒言行録を読むと、彼が、第1伝道旅行、第2、第3伝道旅行に進んで行ったことを知ることができる。

 キリストに仕え、キリストを宣べ伝えるのだと進んで行った。

③第3 苦難の連続

 その伝道者、宣教者としての道は、楽な道とその反対の道

 つらいことを多く経験する。 誰もそれを望まない。 でも、そのような歩みがある。

 パウロはどのような経験をしたのか?

◎23-28節 

11:23 キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。

11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。

11:25 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。

11:26 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、  

荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、

11:27 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、  

寒さに凍え、裸でいたこともありました。

11:28 このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教  

会についての心配事があります。

 これでもか、これでもか

 キリストに仕えて歩む、すなわち伝道者、宣教者として歩む中で、つらいことを数多く、経験した。

 ・投獄される      ・鞭を打たれる   ・石を投げられる

 ・難船する 海上を漂う ・川の難      ・盗賊の難

 ・同胞からの難     ・異邦人からの難  ・町での難

 ・荒れ野での難     ・海上の難     ・偽の兄弟からの難

 ・苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、

・飢え渇き、しばしば食べずにおり、    ・寒さに凍え、裸でいた

・日々わたしに迫るやっかい事、      ・あらゆる教会についての心配事

 これだけのことを経験したら、どうかなってしまう。 堪えられない。

 普通なら逃げ出したくなる しかし、パウロは逃げ出すことをしなかった。

 

★誰かが弱っているなら

 誰かが弱っている。 困っている人がいるとほおってっておけない

 誰かが弱っている 一緒にいてあげたい。助けたい。

◎29節

11:29 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。

 このようなことが実際問題、できるのだろうか?

 なぜ、そのようにできたのか?

 

★使徒パウロの後悔

 思い出すとつらくなる経験 2つ

①ステファノの殉教

 7人に執事と呼ばれる働きに召された人たちの中にステファノという人がいた。

 信仰において、恵まれた人であった。 彼は霊的に輝いていた。

 そのステファノは最後、殉教の死を遂げた。

○使徒言行録7:54-60

7:54 人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。

7:55 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、

7:56 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。

7:57 人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかか  

り、

7:58 都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。

7:59 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わた  

しの霊をお受けください」と言った。

7:60 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声 

で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

○使徒言行録8:1-3

8:1 サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。

サウロ、それはパウロの主イエスに出会う前の名前

 サウロはステファノの殺害に賛成していた。

 ステファノが最後の最後まで、キリストを仰ぎ見つめ、キリストに祈っていた姿、

 迫害する者に罪を負わせないでくださいととりなし祈りつつ、息を引き取った姿を見ていた。

 

②キリスト者への迫害

 キリストを信じる者を見つけたなら、かたっぱしに捕らえ獄の中に投げ込んだ。 

○使徒言行録8:1-3

8:1 サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。

8:1 その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤ  

とサマリアの地方に散って行った。

8:2 しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。

8:3 一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。

教会を荒らし。教会をつぶす。キリスト者すなわちクリスチャンを徹底的に痛めつけ

る。

 後になって、すなわち、自分自身がキリストを信じ、従う者になって、大きな後悔になったことでしょう。

 なぜ、あんなことをしてしまったのだろうかと。

 

★パウロにとっての忘れることのできない経験

 ダマスコ途上で、復活の主と出会う。 回心の出来事

○使徒言行録9:1-20

 ダマスコ途上で、復活の主と出会う。 ダマスコ途上の回心

 とんでもないこと、ひどいことをしていたこの自分

 滅ぶべきこの自分を神は滅ぼさなかった。斥けなった。

 むしろ、ご自身の懐に中に招き入れた。 

 神の愛に打たれ、神の愛に捕らえられた。

 自分こそは、神の律法を守り従い生き、神に最高に愛されていると思っていたが、その反対であった。神の顔に唾をかけるようなものであった。

 しかし、神は忍耐し、憐れみ、この自分を招き入れてくださった。

 

★パウロはどう変わったのか?

 キリストに捕らえられた。神の愛に捕らえられた。

 神の愛の大きさ、深さ、広さを知った。

 この許されざる者が許された。 神の愛の中で憩い、生きる者になった。

 

★誰かが弱っているなら、自分は

 誰かが弱っている。 困っている人がいるとほおってっておけない

 誰かが弱っている 一緒にいてあげたい。助けたい。

◎29節

11:29 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。

 誰かが弱っている、悲しんでいる、苦しんでいる、悩んでいる、行き詰まっている。

 弱り切っている。 自分も同じ思いでそこに立つ、同じ思いになってそばに寄り添った。

 誰かがつまずき倒れている。何とか支えになりたい、何とか起こしてあげたい、立ち上がらせてあげたいと願い、そのように歩んで行った。

 それは、ちょうど、よきサマリア人のようであった。

○ルカによる福音書10章25-37節

 祭司、レビ人は、強盗の襲われ傷つき倒れ、瀕死の状態にあった人を見殺しにして去っていった。しかし、サマリア人は、その傷つき倒れている人のところに近づき助けた。

 ケガの治療をし、介抱した。

 宿屋にまで連れて行き、その費用まで支払った。

 身の危険をも顧みず助けた良きサマリア人のように、パウロは歩む者になった。

 

★神の愛に支えられ、励まされつつ

 神の愛に支えられ、神の愛に励まされつつ歩む。

 自分自身を愛し、大切にする。

 そして、自分の目の前の相手を愛し、大切にする。

 悩み、悲しみ、苦しみの中にある人たちを忘れない、その人たちに寄り添う。

 

 そのように歩ませていただきましょう。

 

7月30日() 聖日礼拝 

   「誇る者は主を誇れ」 コリントの信徒への手紙二10章12-18節

 

★現在を生きる。

 現代という時代を生きる。 現代という時代特徴の一つは競争社会で得あるということ。 より強く、より早く、より多く。

 他の人よりもより強くある 自分が強い存在である。強力に物事を進めていく。 他の人よりも早く進む。 他の人よりも少しでも早く前に進む。

他の人よりもより多くのものを手に入れる。 より多くのものを手に入れることが素晴らしいこと、勝利者であると考える。 それらのことを目指して歩む。

すべてが競争、それに勝ち抜いたものが素晴らしいと、勝利者であると考える社会。

それに向って進む。いつも競争、いつも頑張らなければと考える。そのように、歩んできた。大切な人生が、そのことを中心に進む。

そのように歩むことで何かを手に入れる。他の人からの評価、自分の自己満足。

 

★人生は何のために。

 自分の生涯、人生は何のためにあるのか。

 何かを達成するためにある。満足を入れるためにある。

 実際には、達成できないことは多い。必ずしも満足できないことは多い。

競争は確かに一つの動機とはなるが、それは一部にしか過ぎない。

競争を中心に据えるならば、確かに頑張ろう、頑張らねばとなるが、それだけならば、むなしい。競争で疲れきってしまうことがある。

自分の命、人生をどう豊かに生きるか。これは大きなテーマです。

 

★豊かに生きる。 

 自分に与えられた命、自分に与えられた人生。

 これを豊かに生きる。 そのことを喜び、感謝して歩む。これこそ幸いなこと。 主なる神によって与えられた命、主なる神によって与えられた人生。

 自分の命、自分の人生ではあるが、主なる神から与えられた命、人生であることを心に留めたい。

 自分の命、自分の人生であるが、主より与えられた命、与えられた人生である。 そのことを知る時に、私たちは大きな喜び、感謝を持つことができる。

 

★大きな喜び、大きな感謝

 自分の命、自分の人生に対しての喜び、感謝を主にあって持つことができる。

 この命、この人生は、主からのプレゼントなのだ。

 与えられたもの、そのことに感謝。

  プレゼントは、立派さ、大きさ等に関わらず嬉しいもの。

  この自分に与えてくださった相手への感謝があり、これをいただいた。嬉しいなあ。 この自分を覚えてくれた相手に対する感謝。

 自分の命、人生は、神によって与えられたもの、なんという感謝なことか。

 その与えられた命、人生を喜び、感謝しつつ、歩みたい。

 競争のために与えられたものではない。それを享受するために与えられたもの

 

★享受することを妨げるもの

 ①妨げる第一のことは、主を見上げず、人を見ること

  競争に終始する。ある時にはうまくいくかもしれないが、ある時にはうまくいかない。 他の人を見る。 他の人はああだ、こうだ。 それと同じように、それに負けないように。それはとても疲れてしまう。

 基準が他の人との比較であるから。 他の人との比較ではなく、自分に与えられた命、人生。 神から与えられたものなのに、その与え主を見ないで、人を見る。  いつの間にか、その中で疲れきってしまう。

 ②妨げる第2のことは、自分の頑張りで、自分の力で、進もうとすること。

  うまく行くこともあるが、そうでない時もある、そうでない時の方が多いかもしれない。 頑張ったけど、うまく行かなかった。

  自分の力不足を覚える。自分の限界を覚える。

 その前に進む力がなくなる、それを妨げる大きな事柄に直面することがある。

 

★与えられている命、人生を享受するためにはどうしたら良いか?

 ①第1は、人ではなく、主を見上げる。

  この命、この人生は主によって与えられたことを心にとめること。

  主と出会うまでは、自分の命、自分の人生、これは自分で何とかしなければと考えていた。

  主との出会いの中で、主によって与えられた命を生きているのだと、主によって与えられた人生だと考えるようになった。

  主よ、この命を、この人生を与えてくださり、感謝しますと心に覚えつつ、生きる。

 ②第2は、その主に必要を満たしていただく。 

  与え主なる主よ、この命、この人生を進むのに必要な力を与えてくださいと祈りつつ、歩むこと。

  主は必要をご存じであり、与え、満たしてくださる。

 

★弱い時を経験する、弱い時を過ごす。

 これは、どうでしょうか? 心地良いものでしょうか? 普通はそうではない。 弱い、乏しいことを経験することがある。  

 うまく行っていたことがうまく行かなくなった。  

  今まではなんとか行けていたのに、そうできなくなった。

  学校や職場での歩み。 前に進めなくなった。 

そこでの歩みに喜びがなくなった。疲れが出て、そこに身を置くことがつらい。

  人間関係がうまく行かなくなった。

   それまでは何とかうまく行っていたのに、どうもうまきいかなくなった。

   喜びがなくなった。 苦痛を覚えるようになった。

  健康が優れなくなった。 体調が良くない。病気になった。

   力を失う。 今まであって力が急に乏しくなった。

  思春期に、壮年期に、初老期に、老年期に 人それぞれ違う。

 弱さを経験する。

  それまでは良かったのに、急に、それ以降、どうも良くない。

 私自身の一つの経験

  中学3年生の時に、右眼の眼底出血。 思ってもみなかったこと。

  家での絶対安静を言い渡され、休学。

  自分だけこのようになってしまった。自分だけ学校に行けない。これからどうなるのという不安、恐れ。3カ月ほどの休学を経て、再び復学。右眼には眼帯をしたまま、

  通院治療の甲斐なく、1年後には、右眼は失明してしまった。

  思春期に経験したことでした。

 

★パウロ自身の経験

 パウロ自身は、あることを経験していた。

◎7-8節

12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。

12:8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。

 とげが与えられた。 とげそれは決して小さなものではなく大きなものであったようです。 とげは小さなものであっても、それが刺さっていれば、気になってしょうがない。それによって痛みを覚える。そのとげを抜き去るまでは落ち着かない。 指や手に刺さったとげならば、自分で何とか抜き去ることができる。

 私は時々、木を切ったりという作業をするので、良くとげが刺さる。カッターナイフを使った抜き去る。

 とげは深く刺さっていたりすると、抜き去ることは大変。 自分では抜き去ることは難しいこともある。

 また、返しのついた針 その代表は釣り針。どんなに頑張っても抜けない。

 病院に行って抜いてもらったことがある。

 ある方は、眼のすぐそばを奥深くに木の枝が刺さり入り込んだ。

  緊急に手術をして、手前の部分は抜き去ることができた。その奥は抜き去ることができない。その奥の部分は、遠いところの専門の病院に入院して、大変な手術をして抜き去ることができた。

 パウロの場合はどうであったか?

  そのとげを抜き去ってください、取り除いてくださいと切に願った。三度願った。 何度も何度も、願った。 しかし、そのとげは刺さったままであった。

 とげが刺さったまま。それは大きな痛みが続き、大きな支障が出る。

 そのとげは、彼の生涯において、大きな支障となった。

 どのようなとげであったのでしょう。

いろいろなことが言われている。

 伝道旅行の中で、マラリアを感染した。その後遺症

マラリア原虫をもった蚊(ハマダラカ属)に刺されることで感染する病気

  発熱に伴い、倦怠感、頭痛、筋肉痛、関節痛などがみられるが、腹部症状(悪心・嘔吐、下痢、腹痛)や、呼吸器症状がめだつこともある。

 マラリアの典型的な症状には、発熱や頭痛、震えや悪寒などが挙げられる。周期があるのがマラリアの特徴で、三日熱は48時間、四日熱は72時間の周期で症状が繰り返される。治療が遅れ症状が悪化すると、脳症、意識障害や多臓器不全、といった合併症を引き起こす。これらの合併症は致死的となることもあるため、迅速な治療が必要。

 てんかん発作を持っていたのではないか

 てんかんにもいろいろなタイプがある。あるタイプは、突然けいれん発作を起こす。その時に意識も遠のく。突然、全身がけいれんして倒れてしまう。

 パウロはそのようなてんかん持ちであったのではないか。

  人前で急に意識が混濁して全身を引きつらせて倒れてしまう。

 人々は驚くことでしょう。福音を堂々と語っていた自分が、突然そのようになる。 もしそうならば、福音宣教において、人々のつまずきになったこともあったでしょう。

 眼の病 眼の痛み、眼の調子が良くない。眼が良く見えない。 これは日常生活においては大きな支障です。

 そのとげによって、大きな支障。 人々からは、そのことでさげすまれまれる。 自分の中においても頑張ろうと思っても、そうできない。大きなブレーキとなったことでしょう。

 

★パウロは悲しみ、苦労した

 そのとげを内に持ちつつ歩む。大変だったことでしょう。

 悲しみ、苦労したことでしょう。

 あの使徒パウロ、優秀な人物であったであろうパウロに、大きな大変さがあった。それを内に持ちつつ歩んだパウロ。

 驚くと同時に慰めを覚える、励ましを覚える。 自分だけではない、あのパウロもそうだったと

 サタンから送られた使いである。そのことで、パウロ自身は苦しみ、悩んだ。

 それは大きな悲しみ、苦労であった。

 生涯にわたって抱えていた大変さであった。

 

★パウロは二つの大きな経験をしていた。

 パウロ自身の大きな経験

 1つは、あのダマスコ途上での経験 復活の主イエスが自分に現れてくださった。 主イエスよりの語り掛け、回心の出来事 そのことで主イエスを信じる者になった。

 もう一つが、天上の世界を垣間見た。

◎1-4節

12:1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。

12:2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。

12:3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。

12:4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。

7節

12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。

 招かれている天の御国、やがて行く天の御国 第3の天 楽園

 そこがどんなに素晴らしいと事かを垣間見た。

 ある一人の経験。それはおそらくパウロ自身であったことでしょう。 

言い表しえない言葉を聞いた。 どのような言葉であったのか。

 ここに永遠に住むことになる。 主なる神と共に、主をほめたたえる天の聖徒として。  この地上の生涯を終えた後に移されるところ。

 目指すところ、ゴールの幸いを知らされた。

 

★とげを通して何をパウロは得たのか?

 とげがあり続ける。内に持ち続ける。それは良くないこと?、まずいこと?

 マイナスなこと?

 普通はそう考える、受け止める。

 

★第1には、思い上がることのないように。 

謙遜に歩むために。へりくだって歩むこと。

◎7節

12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。

 人は、力を得ると、頂点に立つと自分勝手な歩みをしてしまう。

 傲慢になる。 自分の思い通りに事を運ぼうとする。 

 自分こそは偉い者、偉大なる者、自分こそは間違いがない。 

 自分の考え、計画はすべて正しいとして、強引にことを進める。

 そのために、周りの者たちは苦しむ。 どれほど多くの人が悩み、苦しむことでしょう。 そのようにならないように。 遜って歩む者とされた。

 

★第2には、弱さを抱えつつ歩むことの尊さを心にとめるために。

 弱さを認め、それを抱えつつ歩んだパウロ

 マイナスのものではない、これがあるからこそ、主と共に歩むことができるのだ。 弱さを誇ったパウロ。

 普通は弱さは、まずいもの、マイナスのもの、隠すべきものと考えられた。

 しかし、パウロは、弱さを誇った。弱さこそを誇った。

 人と違った弱さ、これさえなければと考えるもの。しかし、パウロはこの弱さを誇った。 これこそ、私の誇り。

◎5節、9-10節

12:5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。

12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 

★第3には、キリストの力をいただくために。

 弱い自分、弱さの中に投げ込まれた。

 弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まり。もうどうにもならない。その中に投げ込まれどうしようもなくなる。

 もうだめだ、これ以上は進めない。万事休すだと考えてしまう中で、使徒パウロは、主を見上げた。主に祈った。

 どうしたら良いでしょうか? もはやここまでです。

 主よ、守ってください。支えてください。私の力も知恵も限界です。

 主よ、憐れんでくださいと

 キリストがパウロ自身を支えてくださった。必要な力を与えてくださった。

 驚くべき力に満たしてくださった。

主は、必要な力を与えてくださるお方です。

イザヤ書40章の御言葉です。

○イザヤ40:27-31

40:27 ヤコブよ、なぜ言うのか イスラエルよ、なぜ断言するのか わたしの道は主に隠されている、と わたしの裁きは神に忘れられた、と。

40:28 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神 地  

の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく その英知は究めがたい。

40:29 疲れた者に力を与え 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。

40:30 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが

40:31 主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

 

★弱い時にこそ強い。

 弱い時、それは自分の力では限界、行き詰まり

 その時にこそ、主により頼む、主に叫び求める。

 苦難の時こそ、主を呼び求める、主は応えてくださる。

 必要な力を与えてくださる。 自分の力により頼んでいた時よりも、より幸いな力を備え与え、満たしてくださる。

 弱さを抱えつつ、主により頼み、キリストの力が宿るようにと願い求めつつ、歩んでいきましょう。主は与えてくださいます。満たしてくださいます。