2023年4月

 4月 2日() 聖日礼拝 説教メモ

   「十字架につけられた主イエス」 マルコ福音書15章16-32節 

 

★棕櫚の聖日

 本日は、棕櫚の聖日

 主イエスが、ろばの子に乗って、エルサレムの町に入城された日

 馬に乗らず、ろばに乗っての入城

 ご自身を捧げるために、エルサレムに入って来られました。

  人々が棕櫚の葉を振り、「ホサナ」と叫ぶ中を入城された。

  ご自身は、このエルサレムで捕らえられ、十字架につけられることを予知しておられた。

  戦いの君ではなく平和の君として入って来られた。  

  神との平和をわたしたちに与えるために入城された。

 

★十字架の前の晩

  弟子たちとの最後の晩餐 弟子たちを最後まで愛された。

  その晩さんの前には、弟子たちの足を洗ってくださった。

   仕えることの大切さを教え、互いに仕え合うようにと教えられた。

  ゲッセマネの園での祈り

   ご自身を捧げる覚悟の祈り

   主の御心に自身をおゆだねします。捧げます。 

   十字架の道を選ばせていただきますとの祈り

   

★捕らえられた主イエス

 ゲッセマネの祈りが終わる頃に捕らえられた。 夜遅くの出来事。

 その後には、総督ピラトのもとでの裁判

  夜を徹しての裁判、強引な裁判 有罪判決が下される。

  何ら罪のなかった方が罪ありとされた。 なんとひどいことか。

  一睡もすることができなかった。

 

★堪えられないこと

 堪えられないことはいろいろあるとでしょう。

  おなかがすくこと 空腹 食べるものがない。

  ずっと休みなしに仕事をしなければならない。

  睡眠を取ることができない。

  痛みがある。 自由が奪われる。 苦しめられる。いじめを受ける。 

 一番堪えられないこと

  それは、人権を無視される。 侮辱される。

  自分自身が侮辱される、自分が大事にしているものが奪われる。踏みつけられる。 ずたずたにされることではないでしょうか。

 

★一番身を置きたくないこと

 苦しみの中に過ごす。

 孤独の中に過ごす。 一人ぽつんと置かれる。

 誰も理解してくれない。

 これからどうなるかわからない状況に身を置く。

 これから、事態はますます悪くなる。 

 

★主イエスは、まさにその一番堪えられないこと、一番身を置きたくないことを身に受けられた。

 私たちが堪えられないこと その一番堪えられないことを身に受けられた。

 身を置きたくないことを身に受けられた。 

 

★主イエスのご受難

 本日の箇所の一つ一つを心にとめたい。

 主の十字架な悩み、苦しみ

  わたしの身代わりとなって受けられた。

 

★兵士たちから受けられた侮辱

 ローマの兵士たちから受けられた。

◎16-20節

15:16 兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。

15:17 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、

15:18 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。

15:19 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。

15:20 このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。

 紫の服を着せられる。 マタイ福音書では、赤い服 

○マタイ27:28

27:28 そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、

王様のマントの代わり さんざんいたぶられた後に脱がされる。

いばらの冠  王様の冠の代わり

 鋭いいばら 2、3センチほどのいばら

  そのいばらをグサッと被らされる。どれほどの痛み

 ユダヤ人の王様、万歳と馬鹿にされる。

 葦の棒で叩かれる。 何度もたたかれる

 唾を吐きかけられる。 ひざまずいて拝む 馬鹿にする

 侮辱に侮辱を加えられる。 このような侮辱を誰が堪えられるでしょうか?

 主イエスは、その痛み、侮辱を堪えられた。

 

★十字架の途中にて

 一人の人が経験したこと

 その名は、シモン キレネ人シモン アレクサンドルとルフォスとの父

 離散したユダヤ人であったことでしょう。

 過ぎ越しの祭りを祝うためにエルサレムにやってきていた。

 十字架を担いでゴルゴダの丘に向かうイエス

 その主イエスの担ぐ十字架 とても重い。

 鞭打たれ血だらけになった体で担ぐ十字架

 誰も触りたくない その十字架を途中に担うことを命じられた。

 ローマ兵の命令 逆らうことができない。 なんと運の悪い、なんと嫌な、なんとみじめな なんということか なぜよりによってこの自分が担わねばならないのか。 シモンにとっては最悪の日、最悪の出来事

 私たちも、そのようなことに遭遇するかもしれない。

 なぜこの自分にこのようなことが こんな嫌な、こんな

 その日は、シモンにとっては最悪の日であった。

 そのシモン、途中十字架を背負わされた。 

  十字架を背負っていたイエスは、最後また十字架を背負わされた。 ずたずたになった体で そして、最後は磔(はりつけ)の刑

  そこで息を引き取られた。一番むごい苦しみの後に息を引き取られた。

 その日の出来事をシモンは決して忘れられなかったことでしょう。

◎21節

15:21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。

○ローマ16:13

16:13 主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。

 息子と同じ名前ルフォス その母

 もしシモンの子どものルフォスであったとしたら、子どもたちも妻も

 そしてシモン自身も、主イエスを信じる者になっていたと考えられる、

 最悪の出来事、最悪のことの中に身を置く

  こんなみじめな、これは最悪、 それが、主イエスとつながるときに、良きことに変わる。 主イエスの救いに与ることにつながることがあるのです。

 

★十字架につけられる

 ゴルゴタの丘に連れて行かれる。

 そこで、十字架につけられた。 時間は午前9時

 一睡もすることを許されず、体は鞭打たれズタズタ

◎21-32節 

15:22 そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。

15:23 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。

15:24 それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。

15:25 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。

15:26 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。

15:27 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。

15:28 底本に節が欠落 異本訳)こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。

15:29 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、

15:30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」

15:31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。

15:32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

 没薬のぶどう酒を飲まれなかった。

  痛みを少しででも和らげてやろうということで差し出されたぶどう酒

  それを飲まれなかった。 痛みをすべて受けられるために。

 両脇には、二人の強盗

  重い罪を犯した者が二人、両脇に十字架に その間に主イエス

  お一人ではなく、その二人と共に十字架刑 

  罪人の一人としてさらされて、十字架刑に処せられた。

 ののしり

29-30節 

15:29 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、

15:30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」

15:31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。

15:32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

 十字架から降りて自分を救ってみろ

 今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。

 他人は救ったのに、自分は救えない。 十字架刑 見世物にされた。

 そこに集まった者たち 通りかかった者たちからのののしり

 両脇に十字架刑につけられた二人からも浴びせかけられた。

 ののしられ、ばかにされる。 これほどの苦しみがあるだろうか?

 

★苦しみを受け、なおその苦しみに堪えられる主 

 罵りを受け、なおその罵りに堪えられる主イエス

○ヨハネによる福音書10:9-11

10:9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。

10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

 主イエスは、まさに良い羊飼い  羊のために命を捨てると

 罵りに対して罵り返さず。 罵りに堪えてくださった。

 十字架から降りては来られなかった。 天の軍勢をお呼びになることもなさらなかった。 十字架の上で、最後の歩みをなさった。

 

★私たちのためにその命を

 ひとえに私たちを救うためにその命を捧げてくださった。

 その十字架において受けられた苦しみ

 その受けられた嘲り、罵り、苦しみ

 それは、私たちの身代わりになっての嘲り、罵り、そして苦しみ

 主よ、感謝いたします。  ありがとうございます。

 

 

4月 9日() 聖日礼拝 説教メモ

   「あの方は復活なさって」  マルコによる福音書16章1-11節 

 

★平安

 穏やかに過ごすことの幸い 様々なことが起きる、いろいろな事柄に直面する

 その中で、振り回されることがある。 そのことで心が乱れる、疲れてしまう。 しかし、主にあって平安が与えられることは、大きな幸いです。

 

★失意落胆で終わらず

 時に、行き詰まり、失敗する、道が開かれない、道が閉ざされるとき、失意落胆する。 でも、失意落胆のままで終わらないように、主はしてくださる。

 道が開かれる、再び前に進むことができる。

 

★弟子たちは失意落胆した。

 主イエスの弟子たちは、失意落胆した。

 なぜなら、主イエスは捕らえられ、十字架につけられたから。

 そして、その命が奪われた。 主がお亡くなりなった。

 なんということか、すべての希望は失われた。

 

★主イエスの十字架の最後の場面

 十字架上での死 悲惨な死

 マルコ福音書では、 午後3時における叫び

◎マルコ15:33-39

15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

15:35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。

15:36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。

15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。

15:38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

 一番苦しい時、それは、神から見捨てられる。

 すべての希望が失われた時、絶望の叫び

 主イエスは、十字架の上で、私たちに代わって最も深い絶望を味わわれた。

 そして叫ばれた。 そして息を引き取られた。

 この世に遣わされることを良しとして受けとりおいでくださった主イエス。

 

 ルカ福音書では、最後、すべてを神の御手におゆだねする主イエスの姿

○ルカ23:44-56

23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。

23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。

23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。

23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。

23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

23:56 家に帰って、香料と香油を準備した。

 すべてをおゆだねして、命の終わりを迎えられた。

 

 ヨハネ福音書では、救いの御業を成し遂げられた主イエス

○ヨハネ19:28-30

19:28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。

19:29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。

19:30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 すべてが終わったのではなく、すべてが成し遂げられた。

 私たちすべての人間の救いの御業が成し遂げられた。救いの御業が完成した。

 感謝の祈りを捧げられた。

 

★十字架の後の弟子たち

 死後、亜麻布に包まれて、墓の中に葬られた。

 呆然とその場所を見つめる女性の弟子たち。

  マグダラのマリアとヨセの母マリア

○マルコ15:40-47

15:40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。

15:41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。

15:42 既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、

15:43 アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。

15:44 ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。

15:45 そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。

15:46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。

15:47 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。

 

★十字架から三日目の日の朝

 三日間が過ぎた。 十字架の死の翌日は土曜日、ユダヤ人にとっては安息日

 そして、その翌日の日曜日の出来事

女性の弟子たちが動き出した。

 せめて、ご遺体に香料を塗って差し上げたい。 香料を持って墓に向かった。

◎マルコ16:1-11 

16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。

16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。

16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。

16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。

16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。

16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。

16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

16:9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。

16:10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。

16:11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。

 

★困難なこと

 自分の力では困難、自分たちの力では困難なことがある。

 これだけはどうにもならない。 太刀打ちでいない。 無理だと思えることがある。 気持ちはないわけではない、でも、無理だろう。 無理だ。

 

★道は開かれた。

 女性の弟子たちが経験したこと

  それは、大きな石の扉が動かされていた。

  その日の朝に大きな地震があったことも関係しているかもしれない。

  天のみ使いがその大きな石を動かされたのかもしれない。

 とにかく、石の扉が開いていた。

 香料は持ってきたけども、中には入れない。 そこまでという予測。

 しかし、その予想は覆された。

  男性は数人でやっと動かせる重い石の扉が動かされた。しかも、その石の扉は動かされないようにと封印までされていたのに。

 主にあっては、開かないと思っている道も開かれる。

 心配なことがある。 これだけは無理かもしれない。

 とても無理だろう。 大きくのしかかる岩、目の前に見える大きな山

 飲み込まれそうだ。 しかし、主にあっては、道は開かれる。 そのことを心にとめて祈りつつ歩んでいきましょう。

 

★すべてを飲み込むもの

 火事によって家が飲み込まれる

 大津波によって、町が飲み込まれる。

 戦争によって、国が飲み込まれる。

 すべてを飲み込むもの その最大の敵は、死です。 死はすべてを飲み込む。

 私たちの命のすべてを飲み込む。 死の前には、私たちは無力です。

 

★復活の勝利

 私たちには、すべてが無力 死を前にして、すべては無力。 

 死が訪れた、すべてを奪って行った。 ただ、悲しみと無力感だけが残る。

 その死を打ち破る力 それは、主イエスご自身のみがお持ちである。

 復活の主であるイエスをほめたたえます。

 イースターのお祝い

  イースターエッグをお配りします。 ゆで卵です。

  そのもとになっている生卵 その卵が受精卵であれば、母鳥が温めれば、3週間ほどでしょうか、ヒヨコが生まれ出る。 命が誕生する。

  死を打ち破り、3日目に復活された主イエス。

  復活の主は今も生きておられる。

 その主を信じる者は、救いに与り、復活の主イエスと共に人生を歩むことができます。なんという感謝でしょう。

 

★あの方は復活なさって

 女性の弟子たちへのみ使いの御告げ

◎6-7節

16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。

16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

  あの方主イエスは復活された。

 死を打ち破られた。 誰も打ち破ることができなかった死 その死を打ち破られた。 復活なさったのだと告げられた。

 

★弟子たちは、エルサレムで復活の主に出会う。

 主イエスは、復活して弟子たちのもとに戻ってきてくださった。

 復活されたが、二度と戻っては来られなかったではない。

 弟子たちは大きな喜びを経験する。 失意落胆から引き上げられる。

 

★あなた方より先にガリラヤへ

 先にガリラヤへ

 弟子たちの生まれ故郷のガリラヤ、生活の場であったガリラヤ

 主は先に行かれる。 行き先に不安を覚える。どうなることか、心配になる。

 恐れを抱く私たち。 復活の主は、先に行かれ待っていてくださる。

 その所でも大丈夫だと。

 ガリラヤは生活の場 普段の生活の場である。

  日常生活の場で、復活の主と共に歩んでいくのです。

 

★マグダラのマリアの証し

 マグダラのマリアは、生きる光をいただいた人物 神の愛、神からの赦し

  その大きな恵みに生きる者になった。

  マリアは、十字架につけられる主イエスを最後まで見届けた。

   葬りにも立ち会った。 大きな悲しみも経験した。

◎9-10節 

16:9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。

16:10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。

 そのマリアは、復活の主に一番最初に出会った。

  そしてそのことを他の弟子たちに証しした。

 

★復活の主と共に

 私たちも復活の主を仰ぎ、復活の主と共に歩んでいきましょう。

 

 

 4月 23日() 聖日礼拝 説教メモ

 「主の貧しさによって豊かに」 コリントの信徒への手紙二8章1-15節

  

★初夏に向かう時

 今の季節、初夏に向かう時

 木々や作物が勢いを増すとき 山々の木々の緑が増すとき

 寒い冬の期間、土の中で待っていた種や球根から芽がふき出し、勢いを持って伸びていく。 木々の中にあった命が勢いを増して、葉を茂らすとき。

 今は、5月の連休を前に、山々の緑が濃くなり、つつじやサツキの咲き乱れる時

 

★その命が勢いを増す中にあって

 自然界における勢いの中で、私たちも支えられたい。

 その自然界の勢いを覚え、私たちも前に進むことができる者も多い。

 一方、自然界の勢いを感じつつ、他の人の前に進むときにあって、自分自身の歩みに不安を覚える時でもある。

 その歩みが守られますように。

 

★大変さ

 大変さを抱えることがある。

 急に押し寄せる大変さもあるでしょう。

 長い期間、大変さを抱える時もあることでしょう。

 大変さの中で歩む 大変さを抱えつつ歩む日常がある。

 

★激しい試練

 マケドニア州の諸教会の人たちは激しい試練を受けていた

 マケドニア州 フィリピ、テサロニケの教会

 厳しい迫害があった。 極度の貧しさがあった。

 前に進むことが困難、大変さの中にあった。

 そのような中に置かれたなら、どうでしょう。 普通、落ち込む、何もしたくない、なぜこのようなことにと悩み、沈む。

 

★マケドニア州の諸教会の歩み 

 その中にあって、輝いていた。

 沈み込んでいなかった。 もっと大変な方々を支えていた。

◎2-6節

8:2 彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。

8:3 わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、

8:4 聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。

8:5 また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、

8:6 わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。

 

○ローマ15:25-26

15:25 しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。

15:26 マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。

  * エルサレムの教会

  もっと大変な迫害、貧しさの中にあった。

  自分たちの教会を生み出すもとになってくれたエルサレムの教会

  エルサレムの教会の人たちが今苦しんでいる。  助けたい、励ましたい。

 

★普通ならばできないことをなした。

 自分たちは、激しい試練、貧しさにある。

 それ以上に大変な方々がいる。 支えてほしいという願いを受けても、どうしようもない。 自分のことで精いっぱいです。

 ところが、マケドニア州の教会の人たちは、違っていた。

 エルサレムの教会の人たちを覚え、祈り支えた。

 具体的な支援、献金をもって支えた、支え続けた。

8:2 彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。

  惜しまず施す豊かさ

8:4 聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。

  慈善の業と奉仕をなした。

 

★その中身

 満ち満ちた喜びの中に生きた。

 大変さの中にあって、生きる希望と力に満ちていた。 喜びが失せなかった。

 そこにこそ、今朝、私たちは目をとめたい。

 試練、苦しみ、大変さを経験する。 その中を通るとき、苦しむ。悩む。

  なぜ、どうして。 他の人はそうではないのにと考えてしまう。

 マケドニア州の教会の人たちは、内に喜びがあふれていた。

 それこそ、 幸いなこと。

 

★試練の時にあっても

 ことがうまくいくときは良い、そうでないとき、どう歩むか

  とにかく乗り越えるしかないと考える、頑張る。 しかし、その力には限界がある。 休息が必要、励ましが必要、・・ どうしたらよいのか

 マケドニア州の教会 フィリピ、テサロニケの教会の人たち

 そのような中にあっても、生きる希望と力を与えられていた。

 主なる神によって支えられた。 生きていくために、必要が与えられた。

  生きる希望と生きる希望の水が絶えず与えられていた。

  その水を命の泉から受けていた。

 主なる神によって、支えられ励まされた。

 

★慈善の業  

 慈善の業 普通は、大変な中にある人たちを助ける働きを意味する。

 そのようにして、私たちも支えられてきた。

 弱い時、乏しい時に支えられ、必要なものが与えられた。

  親によって、支えてくれる人たちによって。  それは大きな感謝

  あの時、あの期間、支えてもらった、支えていただいた。

 受けるだけでなく、その反対の歩みもなしていきたい。

 4節、6節の慈善の業 他の訳では

口語訳

8:4 聖徒たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、わたしたちに熱心に願い出て、

新改訳

8:4 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。

8:6 それで私たちは、テトスがすでにこの恵みのわざをあなたがたの間で始めていたのですから、それを完了させるよう彼に勧めたのです。

 恵みと訳されている 原語はカリス 神の愛によって与えられるもの

 慈善の業、その本質は神の愛の恵み

  その神の愛の恵みに生かされて歩んでいた。

 

★自分自身を捧げて

 マケドニア州の教会の人たち

 その神の愛の恵みを受け生かされた。 生きる力と希望をいただいた。

 主よ、感謝します。 その恵みに感謝します。 感謝にとどまらなかった。

 神の愛がこの私に注がれている、この自分たちに注がれている。

 感謝するだけで終わらなかった。

 具体的に、持っているもの、与えられているものを用いたい。

 自分たちだけのために用いるのは申し訳ない。

  どのように用いたらよいか? 神に尋ねたことでしょう。

 困難の中にあるエルサレム教会のために用いようと示され、それを実践した。

◎5節

8:5 また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので

 自分自身を献げた。私自身を献げます。あなたがこの私を見出してくださいました。 見出された者として、歩んでいきます。

 天の神様のご愛に感謝して歩んでいきます。

 

★主の貧しさによって豊かに

 予告を間違えました。 

 主は貧しさによって豊かにと予告してしまいました。 主は貧しさによってではなく、主の貧しさによってでした。

 豊かにされたのは、私たち自身です。 貧しくなられたのは、主ご自身です。

 貧しさを経験するとします。 貧しさというのは、乏しい、貧困、苦しみ、損

  それを経験する そのみじめさを味わう。 

  何とかそこから抜け出そう。 そんなみじめさは嫌だ。

  そこから抜け出す。貧しさが解消され豊かに、裕福に

  そのような道があります。ストーリがあります。

  その人の苦しみ、頑張り、運、その他によって上っていく。

 それを追い求めて、人生を進む。

 二度と貧しさは経験したくない。 豊かさの中に生きるのだと考えてしまう。

 

★貧しさを憐れんで助けてくれる人

 自分の頑張りでは限界

 貧しさの中にある自分を覚えて励ましてくれる存在、それはありがたい。

 それは、親であり、友である。

 祈りの友である。 支え励ましてくれる存在はありがたい。

 

★その貧しさを一番よくご存じのお方は主ご自身です。

 わたしの貧しさ 私自身の一番貧しいところ、弱いところ

 心の底にある深い悩み、苦しみ、そしてそこにある闇をご存じであるお方

 主御自身 主は、そのことをご存じで、憐れんでくださるお方です。

 

★主は私たちのもとにおいでくださった。

 神を認めず、神の背を向けて歩んでいた私たち。

 そして、ますます闇の中に進んでしまっていた私たち

 その闇から抜け出すことができなくなっていた私たちのもとに主はおいでくださった。 神のもとから、この世においでくださった。

◎9節

8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

 主は富んでおられたのに、わたしたちのために貧しくなられた。

 

○フィリピ2:6-8

2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、

2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、

2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

自分自身を捨ててくださった。 僕の身分になってくださった。

 神であられた方が人となってくださった。

へりくだって、死に至るまで、十字架の死に至るまで従順であってくださった。

私たちの罪を贖うために。 救いのために歩んでくださった。

 キリストの命の犠牲によって、罪の赦しを与える。

 主は豊かであられた。その豊かさをお捨てくださった。

 私たちを贖うために。 私たちの罪を赦し、神の子どもとするために。  

 

 4月30日() 聖日礼拝 説教メモ

   「良き同伴者」    コリントの信徒への手紙二8章16-24節

     

★歩むこと

 歩むこと、それは前に進むことです。

 前に進むためには、足を前に出す必要があります。

 前に進むこと、それは目的を持っていることであり、希望を持っていることです。 普通はそんなことは考えません。 当たり前にように歩を進めます。

 物を取るために前に進む、 散歩する。 買い物をする。 学校に行く。 会社に行く。

 無意識にそうする場合もあり、意識してそうする。 意欲をもってそうする。

 普通は、それをするのは当たり前です。

 でも、それはむずかしいと思うことがあります。 何かが引っかかって前に進むことに抵抗を覚える、 気が重い。 なかなかそうできないこともある。

 

★歩むためには、心が必要

 そうしようという気持ちが、心が必要です。

 心が支えられ、心が守られていることが必要です。

 心は、時に弱くなります。 時に力を失います。 

 日々の歩みにおいて歩むための心が整えらますように。

 

★歩みは一人で

 歩みは、誰かが変わってすることはできません。 一人であの歩みをなしていく。 体調を整え、心が支えられ、力を受けている必要がある。

 自分で、心がける。 歩を進めようを足を前に出す。

 

★共に歩む

 歩みはもう一つの事柄を含んでいます。 それは、一人ではなく、誰かと共に歩む。 誰かが共に歩んでくれる。 誰かがそばにいる。

 支えになってもらう。 励まされる。

 共に歩む、 協力し合う。

 小学校に通うのに、集団登校をする場合が多い。 グループで一緒に登校する。 また、友達を一緒に学校に行く。帰る

 

★今日は、共に歩むということを見ていきましょう。

 子ども時代だけでなく、大人になって共に歩む。

 仕事を同僚と取り組む。友達と共に旅行する。 励まし合って趣味を楽しむ。

 伴侶と共に過ごす。 様々な局面がある。

 反対のことにも直面することもある。

 それまでは、同僚、友、伴侶がいたのに、いろいろなことで一人で過ごす、進むということも起きて来る。

 

本日の説教題は、「良き同伴者」です。

 共に歩む者、 共に歩んでくれる友、 助け合う、励まし合う友

 助けてくれる、励ましてくれる友

 

★使徒パウロは3人の同伴者を紹介している。

 パウロという人は、優れた人だった。

  信仰において、知識において。 いろいろなことができた。

  コリントの町で宣教をして、コリントの教会が誕生した。

  そのコリントの教会にかかわり、手紙を書いている。

  パウロは、優れた人であった。

  普通優れた人というと、その人が優れている。いろいろなことができる。

  パウロはそのような人でもあったが、もう一つのことにおいて優れていた。

 それは、共に働く人、共に歩む人を立てたということにおいてです。

 3人の同伴者

 一人目はテトス 16-17節、 23節

 二人目は、一人の兄弟 18-19節

 三人目は、もう一人の兄弟 22節

 

①一人目のテトス

◎16-17節

8:16 あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します。

8:17 彼はわたしたちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。

◎23節

8:23 テトスについて言えば、彼はわたしの同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの 栄光となっています。

 コリント教会の人たちを愛する心 その熱心さ

 何とか助けになりたい。 心から仕えたい。 心から奉仕がしたい。

 勧告を受け入れる謙虚な心 同志である。 同じ志を持つ者

 

②二人目の兄弟

◎18-19節

8:18 わたしたちは一人の兄弟を同伴させます。福音のことで至るところの教会で評判の高い人です。

8:19 そればかりではありません。彼はわたしたちの同伴者として諸教会から任命されたのです。それは、主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すようにわたしたちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした。

  福音を大事にし、心からのべ伝える

  評判の高い人  裏表がない、 主に忠実に仕える

  同伴者として任命された。

   同行者、旅仲間  共に+故郷を離れている

   共に故郷を離れて旅をしている 故郷を離れる。 この世を離れる。

   この世のことを置いて、未練を捨てて

   この世のこと ひきつけるものが多い。 それに引きつけられる。

   それらを置いて、主につくものとして歩んでいる者

   主イエスを主人として この世の大事なもの それを脇において

 脇に置くことは簡単ではない。 この世のものは、私たちにひざまずかせる。

  この世のものに惹かれ、それを第1にしてしまう。

  この世のものを第1とせず 主を第1として

  主に聞き従う。 この世に聞くのでなく、自分に聞くのでなく、主に聞く。

 栄光を自分に帰する歩みは、多い。

 栄光を自分が受ける。 受けずにはおかない。

 主に栄光を帰する。 主がほめたたえられるように。 

 

③三人目の兄弟

◎22節

8:22 彼らにもう一人わたしたちの兄弟を同伴させます。この人が熱心であることは、わたしたちがいろいろな機会にしばしば実際に認めたところです。今、彼はあなたがたに厚い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。

 熱心 熱意を持っている。

 コリント教会の人々を愛し、何とか力になりたい。

 主の恵みの中に歩めるようにと心を用いる人物であった。

 

★パウロの心がけ

  自分で何もかもできないこともなかった。しかしそうしなかった。

  理由があった。

◎20-21節

8:20 わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。

8:21 わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています。

 大切な献金、募金 公明正大であるように。

  非難されることがないように。 つまずきを起こさないように。

 

★コリント教会の人々が輝くように

 コリント教会の人たちが愛の証しを立てることができるように。

 エルサレム教会のためにも、祈り、献金、募金に励むように。

 苦しみの中にある人たちを具体的に助けるように。

 主の愛に押し出されて、愛に生きるように。

◎24節

8:24 だから、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください。

 

★良き同伴者

 同じ志を持って共に歩む者  この世のものを離れて共に歩む者

 この世がすべてではない。この世は過ぎ去る、この世は最後には置き去りにする。

 置き去りにしない方を仰ぎ歩む者 信仰の友、信仰の家族、祈りの友。

 主を仰ぎつつ、主に聴きつつ歩む者 互いにそうでありたい。

 信仰を固く持ち、心を合わせ、共に助け合い歩む。

 信仰の家族を大事にして、共に励まし合って進みましょう。

しかし、共に歩むことができなくなる時も起こる。

 信仰の友、同伴の友が遠くに行く。先に天の御国に移されるということも起きる。 寂しさを覚える。 共に歩んだ日々、共に祈りを合わせた日々、

 共に働いた日々を振り返る。

 祈りを捧げ続ける。 信仰を持ち続けて歩む。

 

★最高の同伴者なる方

 最高の同伴者なるお方 それは、主イエスご自身。

 主イエスこそ、最高の同伴者です。

○ルカ24:13-35

24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、

24:14 この一切の出来事について話し合っていた。

24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。

24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。

24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」

24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。

24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。

24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。

24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、

24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。

24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、

24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」

24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。

24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、

24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。

24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 エマオに向かって歩み二人の弟子

 失意落胆 希望がすべて吹っ飛ぶ。前に進むのもやっと 前に進んでも希望はない。 心は沈んでいた。 心が重い。 心の火が消えていた。

 そこに共に歩んでくださる方が それこそ、復活の主イエスであった。

 心が沈んでいる理由を話す。 こうこうこのような理由で。

 私たちも心が沈んでいる理由がある。

  説明できることもあれば、説明できないこともある。

  その説明ができても、解決はできない。

  理由はわかっている。あのことで、このことで、心が沈んでいる。心が浮き上がって来ない。 その原因もわかっている。 でも解決できない。

 人に話せる場合もあれば、話せない場合もある。

 主イエスはすべてをご存じである。 その主は、私たちのそばに来てくださるお方  共に歩んでくださるお方。

 その方が、お語りになる言葉を聞き取りたい。

 二人の弟子は聞いた。 キリストの語り掛けを聞いた。その時、心が燃えた。 

 それはぱっと燃えるような燃え方ではなく、消えていた命の光がつく喜び

 後で、その理由がわかる。

  共に歩んでくださったのは、主イエスご自身であったこと。

  その主によって、命の光がともった。

 再び、生きる希望をいただいた。 命の光をいただいた。

 同伴者として、共に歩んでくださる主をあがめつつ、歩んでいきましょう。

 

 主は決して見放さず、共に歩んでくださるお方です。