2024年2月
2月4日(日) 聖日礼拝 説教メモ
「身を慎みよく祈りなさい」 ペトロの手紙一4章1-11節
☆苦しみを経験する
苦しみを経験する。 その苦しみでもがくことがあります。どうしたら良いのか、どう抜け出すことができるのか、なかなか抜け出せない。その苦しみに飲まれそうになる。
その時に自分だけそうだと考えるとつらい。 他の人も同じように苦しみを経験していると考えると少しホッとする。
☆キリストも苦しみを経験された。
キリストは、もともとは神の御子である。 苦しみとは無縁であった。
そのキリストが、この世界においでくださった。味わう必要のない苦しみを味わわれた。
そのキリストは、最後には十字架の道に進まれた。逃げることなく、選んで。
十字架の苦しみは誰も経験したことはない。 ただ、キリストだけが経験された。
鞭打たれ、頬を打たれ、唾をかけられた。
絶望の中に置かれた。 その苦しみの極みを経験されたキリスト。
☆苦しんでくださったキリストを仰ぐ
苦しみの中にも、私たちの救いの完成のために堪えてくださった。
キリストの苦しみを心に留めたい。 苦しんでくださったキリストを仰ぎたい。
そのキリストより慰めと励ましを受けることができる。
苦しんでくださったキリストは最後に死を迎えられた。その後に復活された。
復活のキリストは、キリストを信じる者に聖霊なる神を与えてくださった。
その聖霊なる神が、私たちを励まし助けてくださる。
☆苦しみたくないと思うが苦しむ私たち
苦しみの中にも、支えがあり、励ましがある。 癒しがある。希望を与えられる。
その希望の中で、苦しみだけに眼を向けるのではなく、神に眼を向ける。
もし、そうするならば、苦しみは決して無駄にはならない。
◎1―2節
4:1 キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。
4:2 それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を
生きるようになるためです。
☆欲望について
欲望に支配されてしまうことがある。 自分の内側にあるドロドロした欲望
それは生々しい。 それは自己中心、自分がそうしたいからする。
相手のことは考えない。 自分の力では押さえきれない欲望
その欲望が、いつか自分を飲み込む 相手を傷つける。
人生を台無しにしてしまうことがある。
◎3節
4:3 かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、
暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分
です。
好色、情欲 異性問題で人生を台無しにしてしまう。
芸能界の世界で、スポーツの世界で 残念なニュースを聴く
そして宗教界においても例外ではない。
泥酔、酒宴、暴飲
アルコールが入りすぎて、自分を失う。自制がきかなくなる。
偶像礼拝
何でも信仰の対象にしてしまう。 しかし、信仰の対象は何でも良いのではない。 その神が生ける祝福の神でなければ、本当の祝福につながらない。
☆その沼から抜け出る
今までの生き方を変える。 もうそこに身を置かなくても良い。
目を覚ます。 しかし実際には目を覚ますことは簡単ではない。
神の助けの中で、目を覚ます。 もうその中にいなくても良い。新しいところに立つ。
かつての仲間がもう一度戻って来るようにと しかしその声に耳を貸さないと、そしられる。
◎4節
4:4 あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。
そしられても、新しい生き方、新しい命の中に生きる。
☆どのように生きたか、歩んだかが問われることを心にとめて
どのように生きるか、それは自分が選ぶこと
ただ、その歩みをどのようにするかと心を用いたい。
生きているだけの世界ではない。 死んでしまえば、すべて帳消しではない。
どのように歩んだか、何をしたかが問われる。
個人においても国家においても
現実の世界の中で、ひどいことが起きる。
人の命を奪う、人の一番大切ものを踏みにじる、ズタズタにするようなこと
事件において、戦争において
◎5-6節
4:5 彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。
4:6 死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。
悪いことをしても、明るみに出なければよいのではない。
闇に葬られたと思ったことも、神の前には申し開きをしなければならない。
良いことをして誰にも知られないように思えても、神はそれをご存じである。
キリストは、この世においでくださっただけでなく、陰府(死者の世界)にまで降って福音を宣教してくださった。
この地上に住むすべての者に対して、神の愛を証ししてくださった。
陰府においても、神の愛を証ししてくださった。
もう希望なしと思えるところにも、キリストはご支配くださる。
私たちが、天の真の神とつながって生きるために。
もう届かないと思えるところにも、キリストは届いてくださる。
キリストにあって、神とつながって生きる者となるように。
☆万物の終わりが迫っている
この世の終わりが近いように感じることがある。
地球温暖化、環境破壊、・・ 戦争、核兵器の脅威
このまま、悪い方向に行ったらどうしようと考えてしまう。
2千年前に世界において、万物の終わりが迫っていると 現在は、もっと切実
個人においても、人生の半ばを過ぎ、後半に、そして晩年に進む。 自分の人生はどう着地するのだろうか。いつ最後が来るのだろうか。不安を覚える。
◎7節
4:7 万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。
不安、恐れを抱くことがある。
ここでの中心は、祈り
主を仰いで祈る。 祈ることしかできない。 いや祈ることができる。
☆心を込めて愛し合う
大事にする。 互いを大事にする。
自分も大事、そして相手も大事 相手を大事にする、相手の国を大事にする。
◎8-9節
4:8 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
4:9 不平を言わずにもてなし合いなさい。
相手を大事にする、相手の国を大事にする。 相手が生かされる、相手の国が生かされる。 その反対をしていることが多い。 相手を大事にしない、相手の国を大事にしない。 それは、自分に返ってくる。自分の国に返って来る。
私たち人間の浅はかさ 聖書の言葉に耳を傾けたい。
愛は多くの罪を覆う。 相手の弱さ、醜さ、乏しさをカバーする。
自分の身うちが借金で苦しんでいる。何とか助けてあげたいと思う。
相手がけがをした。 何とか手当したいと思う。
もてなし合いなさい。 相手を大事に迎え、ひと時を過ごす。 一緒にお茶とケーキを食べる。美味しい食事をする。 心がつながる。
☆賜物を生かす
それぞれに良いものを持っている。 良き賜物、持ち味がある。
それを感謝する。 それを感謝して用いる。
自分には何もないということはない。必ず、良いものを与えられている。
4:10 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
4:11 語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。
それを他の人のために用いる。それをもって他の人に仕える。
神の言葉を語る、 奉仕する。 力に応じて 与えられた力量の中で
☆神に栄光を
「恥はわがもの、栄光は神のもの」
恥をかくことがある、失敗することがある。
それを恐れるあまり何もしない。 一度恥をかく、失敗するとしり込みしてしまう。 恥をかく、失敗する 自分が回収する。
栄光を自分のものにしようとすると
無理をしてしまう。偽りを加えてしまう。 それを自分だけのものにしようとする。
4:11 語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリ
ストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。
神に栄光を帰す。 そこに本当の幸いがある。
☆身を慎んで良く祈りなさい。
身を慎んでよく祈ることの前に、思慮深くふるまいとある
思慮深くふるまい 心を確かにし こころを整え
心を主に向ける 主なる神を仰ぐ
身を慎んで 身をあれこれに突っ込まずに
あれもこれもと追い求めることをセーブして。 自分の欲望に乗りすぎずに
◎7節
4:7 万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。
◎口語訳
4:7 万物の終りが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。
◎新改訳
4:7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
主なる神は、祈りを助け導いてくださる。
2月11日(日) 聖日礼拝 説教メモ
「試練、苦しみの時に」 ペトロの手紙一4章12-19節
☆試練、苦しみ
試練、苦しみは、私たちの人生における大きなテーマです。
それが大きければ、その試練、苦しみで押しつぶされることがあるからです。
試練、苦しみがないことを願います。 でも、それは時にやって来ます。
思っても見ない出来事があります。
起きてしまったことを受け止め、前を向くしかない。決して簡単ではないが。励ましが届かないこともある。つらい。 心を合わせて励まし合い進むことができますように!
☆自分で苦しみを招き寄せないように。
◎15節
4:15 あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。
招き寄せる苦しみというものがないわけではない。
人殺し、泥棒、悪者、他人を干渉する者 そのようなことを平気でする人はまずいない。
しかし、そのようなことに決して陥らないかと言うと、そんなことはない。
自分で苦しみを招かないように気を付けたいものです。
☆苦しみ、試練は自分だけにと思う。
苦しみ、試練は自分だけにやって来るように思える。
なぜ、こんな大変なことが、自分だけに、自分の家族だけに そう思うととてもつらい。 他の人はそうではないのに、なぜ、自分だけ、自分の家族だけと思う。 その中で、乗り越えていくことができるなら幸い。
☆苦しい時にどうするか?
その反応、対処はそれぞれ。 当然、落ち込む、元気を失う。じっと引きこもる。 自分一人で内に秘め続ける。 誰かに話す。 内にある苦しみを聴いてもらう うめく、叫ぶということもある。 いろいろな反応、対処がある。
2日(土)のアパルームの聖書箇所
○詩編56:4-5、10-12
依り頼むことができる方がおられる。 それは聖書が指し示す天の神さま
その方に依り頼めば恐れはない。恐れは遠ざかる。 恐れは消え去る。
確かなる方、力ある方に依り頼むことの幸い。
神を呼ぶ、神に祈る。 神に依り頼んで祈る。
☆試練に遭った人
聖書の中にはたくさん登場する。
パウロとシラスのことは何度も話しました。 良いことをしたのに、苦しみを受けた。
○使徒16:16-25
パウロとシラスは、そのおもがけない出来事の中でも、神を仰ぎ、讃美と祈りを捧げた。 普通はなかなかできない。 しかし、その時神の励ましが与えられた。 主イエスを信じていたパウロとシラスは、内におられる聖霊なる神に支えられ、そのように行うことができた。
私たちも、そのようにありたい。そうさせていただきたい。
☆苦しみの中で神に祈り叫ぶ
苦難の中で、主を呼び求めたダビデ すべての敵の手、サウルの手から救い出された。 その叫ぶ、その祈りは神に届くと
○詩編18:1-7
18:7 苦難の中から主を呼び求め わたしの神に向かって叫ぶと その声は神殿に響き叫びは御前に至り、御耳に届く。
*ヨナという人の叫び
○ヨナ2:1-10
2:8 息絶えようとするとき わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き聖なる神殿に達した。
ああこれで、もうおしまいだ、もうすべてが終わったと思った時。神に祈り、その祈りが神に届いた。 特別な奇跡を経験した。 これですべてが終わったと思った、しかし、そうではなった。そこから引き揚げられた。
わたしの力ではもう無理、限界。 そのような時にあっても、主の助けは与えられる。 叫び求めたい。
☆試練、苦しみは実を結ばせないようにすることがある。
試練、苦しみに負けてしまうこともないわけではない。試練、苦しみは。そうしてしまう力を持っている。
○マタイ13:1-9,18-23
蒔かれた御言葉の種が4種類の場所に、道端、石だらけの土の少ない所
茨の中、良い土地
この2番目の場所 石だらけの土の少ない所 実を結ばなかった。
その解きあかし 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。
御言葉のために患難や迫害 これは大変だ 御言葉を手放してしまう。信仰を手放してしまう。 患難や迫害は、大きな試練、苦しみ。
☆キリスト者としての歩みの中で
すべて周りに合わせれば、試練、苦しみがないということはある。
しかし、主を信じる者は、これはできません、これは大切にしますというものある。 神でないものを神として礼拝することはできません。
これは、神の御心からはずれている。このことはできませんということがある。 神の礼拝する日である日曜日を大切にする。礼拝する日として過ごす。
そのようなことの中で、試練、苦しみを経験することがある。
◎13節、 ◎14節、 ◎16節、 ◎19節
キリスト者として苦しみを受けることがある。
主に従うその歩みのゆえに、主に従う者を苦しめようとする力が働くことがあります。
キリストの名のために非難されることがある。 イエス様がお受けになった苦しみの一端を味わうということがある。 神のご支配の中での苦しみ
それは神のご支配の外での苦しみではありません。主のご支配の内に私たちは置かれています。
☆その試練、苦しみの中で何を
その試練、苦しみの中でどう歩んだら良いのか
具体的に3つのことが告げられています。
①喜びなさい
喜びなさい。 喜ぶことがどうしてできるのか
◎13節
4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。
肉の力では、そのようなことはできない。
今は苦しみを味わっている。しかし、主は必ず守ってくださる。最善を導いてくださる方であると信じ、従い歩むのです。
キリストの栄光の現れる時、キリストの再臨の時、キリストのご支配がすべてを直接に包むとき、喜びが満ちあふれると その時を待ち望みつつ。
「いつも喜んでいなさい」とテサロニケ一5章16節 主にあっていつも喜んでいなさい。 主が共にいてくださいますから、そのことを覚え、主にあって喜ぶのです。
②神をあがめなさい
苦しみの事柄に目と心が奪われる。 それがすべてとなる。
その時に、神に目を向ける。 神を崇めるのです。
◎16節
4:16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。
○3:13-18
キリストを主とあがめる。 イエス様こそ、主である。救い主なるお方である。 十字架で死んでくださったお方である。その命を捧げてくださったお方であると心の中で主を崇める。 主イエスは復活の主である、今も生きて働いてくださっているお方である。 主よ、あなたを崇めますと 主を仰ぎ讃美を捧げるのです。
③ゆだねなさい
自分の力では限界、もうどうすることもできない。
おぼれそうになる時に、大変だと慌てふためく。 ますます体力を使い、ついに力尽きてしまう。 その時に、力を抜くことを思い出し、ばたばたせずに身を任せ、浮く。
◎19節
4:19 だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。
自分の力ではもう限界です。 主よ、あなたにおゆだねします。 主の御心の中で、最善をなしてください。 私のすべてを主におゆだねします。 私の魂を主におゆだねします。 主にあって、この歩みを続けます。 真実であられるお方主よ、あなたにおゆだねします。 創造主なるお方、神にわたしをおゆだねします。
あなたはすべてを新たにすることのできるお方です。
私の抱えている事柄、私自身では限界です、担いきれません。
主におゆだねします。主が最善をなし導いてくださいとゆだね歩みましょう。
☆試練、苦しみの時に
試練、苦しみの時に
キリストの名のために非難されるとき、そのことだけしか見ないとするなら苦しい。 主はどこにおられるのだろ、どこに行ってしまわれたのだろうと思ってしまう。
◎14節
4:14 あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
その時に、主は特別に私たちを覆ってくださっているのです。
栄光の霊すなわち神の霊が、私たちの上に留まってくださっている。
あなたと共にいるよとささやいておられる。
○2:21-25
わたしは、あなたのために、苦しみを受けたのだよ、十字架にかかったのだよと語りかけていてくださる。
わたしの足跡に続くように模範を残したのだよと語りかけていてくださる。
わたしの受けた傷によってあなたがたは癒しを受け取ることができのだと。
あなたの罪をすべて担って、わたしは十字架についたのだよと。
それは、もはや罪のために、悩み苦しむことがないように、罪の赦しを受けて歩むためだったのだよと。
罪に対して死んで、義によって生きるため。
罪赦された者として、神の子どもとして生きるためだよと。
栄光の霊、すなわち神の霊がそのことを語り掛け教えてくださる。
なんという幸いでしょう。
その受けた傷に受けた傷によって癒されるためであると。
試練、苦しみの中でも支えていただきつつ、歩む。
試練、苦しみの時にあって、神の大いなる恵みをいただいて歩んでいきましょう。ハレルヤ!
2月25日(日) 聖日礼拝 説教メモ
「キリストの受難の証人として」 ペトロの手紙一5章1-7節
☆本日の聖書箇所
短い節の箇所 説教題「キリストの受難の証人として」としました。
今は、教会暦としては、レント(受難節)と呼ばれるとき
キリストの受難を心に深くとめるために歩む時 主イエスの十字架の意味を深く心にとめたい。
第1は7節、 第2は5-6節、 第3は1-4節です。この順番で
☆第1の箇所 7節
5:7 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
*思い煩いのこと
思い煩いの問題 これほど、私たちの心にのしかかることはない。
赤ちゃん、乳児を見ていると癒される。その自然な姿
お腹が泣き出す、眠くなればぐずる それでも、癒しをもたらす。
ぐっすりと寝ている赤ちゃん、乳児の寝顔は可愛い。
赤ちゃん、乳児が大人と違うことの一つは、思い煩わないということ。
今日どんな服を着るか、今日、何を食べるか、今日、何をすべきか、明日何をすべきかをあれこれ思い煩うことをしない。
思い煩いほど、心に重くのしかかってくることはない。
あのこと、このこと、心配なことが起こる。 ああ、このことはどうなるのだろうか、どうしたら良いのだろうか 今抱えている問題、それはあまりにも大変、難しい こうなったらどうしよう、ああなったらどうしよう。
そのことを考えると、心が重くなる。寝ていても夢の中でそのことのためなのか、 良い夢を見ない。目ざめが悪い。
心がつぶれそうになる。 どうしたら良いのだろうかと心配が大きくなる。
心配の種がある、その心配がだんだん大きくなる。
あれこれと心配事を抱え込み、だんだん、元気を失う。
そのような私たち、自分を発見することがある。
今日の聖書箇所においては、主は、私たちに語りかけておられる。
思い煩いを主にすべてお任せしなさい。
思い煩い、これは自分の問題、自分が解決しなければならない。 自分には重たい、 でも、逃れることはできない。自分でやるしかない。 それにしても抱えている問題、課題は大きい。
どう解決したらよいのか。解決は難しい。 もう限界だ、へとへとになる。
神が心配していてくださる。私たちのこと、私のことを、あなたのことを。
赤ちゃん、乳児がなぜ思い煩わないのか。それは、あれこれ考えることをしないから、 自分の母親なり父親が、自分の必要を知っていてくれ、自分のことを世話してくれると知っているから。 すべてを任せているから。
思い煩いをすべてお任せする。 お任せしますとおゆだねするのです。
思い煩いはすべて神におゆだねしましょう。
大きな課題、難しい課題であればあるほど。
どんな課題でも神は受け止めてくださるお方です。 そして、主にあって、お任せし平安をいただき、休ませていただきましょう。 荷を軽くして日々を進みましょう。
☆第2の箇所 5-6節
5:5 同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。
5:6 だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。
自分を低くしなさい。謙遜でありなさいということ
私たちの多くは、自分を高くしたいと考える。仕えるよりも仕えられる者になりたいと考える。
主の弟子たちも、同じような心を持っていた。
上に立ちたい、仕えられる者になりたい。 自分こそは上にと願っていた。
それに対して、主イエスの教えは、仕える者になりなさいというものでした。
若い人たちへの勧め 長老に従いなさい。
神が立てておられる長老。 長老とは、責任ある立場の者、今でいうならば牧師、伝道師、責任ある立場の役員と言えるだろう。
神は高慢な者を敵となさる。
高慢な者を敵となさる。やがて、それらの者は斥けられる。打ち砕かれる、打ち滅ぼされる。
神は、謙遜な者に恵みを与えてくださる。大いなる恵みを注いでくださる。
自分が何か偉いからではない、ただ、神がお任せくださったからそれを担う。
自分は、ただの僕に過ぎない。 なすべきことをなすだけです。
今この働きを担わせてくださり感謝します。それを他の人にゆだねる、バトンタッチするその時まで、担わせていただきます。
主よ、自分は小さな者です。神に任されたことを忠実に行うのみです。
主よ、必要な力を与えてください。
神の力強い御力のもとで、歩ませていただきます。主よ、感謝しますと。
自分を低くする者を神は高く引き上げてくださいます。
ただ、神の御手のご支配に下で、感謝しつつ、歩ませていただきます。一歩、一歩と歩ませていただきます。
自分で高くする必要はない、神がかの日に高くしてくださる。
神はすべてご覧になっておられる。その神におゆだねしつつ、へりくだって歩ませていただきましょう。
☆第3の箇所 1-4節
キリストの受難の証人として
◎1-4節
5:1 さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。
5:2 あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。
5:3 ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。
5:4 そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。
権威を振り回してはならない。
権威は上より与えられたもの、それはただゆだねられたもの
それを振りまわし、自分の益のために、自分の欲のために用いてはならない。
群れの模範になりなさい。
群れの中にいる人が喜び、感謝する。
このリーダーのもとで歩むことは幸いだ。喜んで従っていきたい。
自分がもし、後を継ぐことになったら、自分もそのように歩みたいと願うような者になりなさいと。 ゆだねられた人たちを大切に扱いなさい。
卑しい利得のためではなく、 卑しい利得とは何でしょうか
それは、自分のことだけを考え、自分の益だけを考えること、自分が得をする、自分がその得ている座に居座り続ける。
そのことを中心に置いてはいけない、むしろ、そのことを置きなさい、捨てなさいと 献身的にしなさい。 その人の願うことに少しでも応えようとする。
長老たちへの勧め。 ゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。
羊飼いとしての働き
その羊の群れを世話する。羊飼いは、毎日羊の世話をする。
毎日、移動するとするなら。今日は、どの草原に連れて行くか、どの水飲み場に連れて行くか 群れの中で弱っているものはいないか、けがをしているものはいないか。 羊を襲う狼からも、その羊たちを守る。
迷子になって、群れから離れてしまっているものはいないか。
心を用いる。 強制されてではなく、自ら進んでそうしなさいと
☆キリストの受難の証人として
長老たちに勧めるペトロ自身も長老の一人として語っている。
どのような立場で? キリストの受難の証人の一人として
イエス・キリストがどのように最後を歩まれたか 最後は、十字架にかかってくださった。それは、全人類の罪を背負って、全世界に生きるすべての人の罪を背負って。
この私の罪を背負って、十字架で、その命を捧げてくださった。
その出来事を目撃したペトロ
そのペトロは、もう一つの自分の姿を心にとめつつ
○マルコ14:27-31(マタイ26:31-35)
14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。
14:28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
14:30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
14:31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
ペトロよ、あなたは三度わたしを知らないというと予告された
そんなことは決して申しませんと豪語したペトロ
しかし、実際には、その通りになってしまった。
○マルコ14:53-72
大祭司カヤファの中庭で、三度知らないと言った。私は、そのイエスを言う人とは関係がありませんと言った。
○ルカ22:31-34
22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
22:33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
22:34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
信仰がなくならないように祈った。
信仰がなくなってしまったと思っても、完全になくならないように、
必ず立ち直るときが来る。その時には、他の兄弟たちを力づけてやりなさいと
言われていた。
○ルカによる福音書22:61-62
22:61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。
22:62 そして外に出て、激しく泣いた。
知らないと言ったペトロを主はご覧になった それは責められる目ではなかったことでしょう。
わたしの予告の通りになったね。でも、ペトロよ、あなたの信仰がなくならないように祈ったよ。立ち直る時が必ず来る、その時には、他の兄弟たちを力づけてやるのだよ。
十字架で死んでくださった主イエス、その後に復活してくださった。
弟子たちのもとに戻ってきてくださった。
ペトロにも、わたしを愛するかと三度お尋ねくださった。
わたしの羊を世話しなさいと語り掛けてくださった。
自分は、どうしようもない者、しかし、主がこの私のために信仰がなくならないようにと祈ってくださった。
他の兄弟姉妹のために、仕え歩みなさいと任を託してくださった。
そのことをペトロは心にとめていたことでしょう。その生涯の最後に一息まで。